汝発つ鳥の如く 後二


 幕末の時代は京都洛中、汝鳥の町。鴨川を登った内陸にありながら、数年前より外国人に開放されているその町では、異文化と商業、そして民衆の日常とが混じり合っていました。例えば船乗りと商人の手によって催される異国の祭りが既に恒例となり、そこでは古くからの住人と新しき異人とが共に品を出し、芸を出し、そして人を呼んでいたのです。開催当初こそ大規模な不審火によって混乱の内に幕を閉じ、町を多く焼いたその火によって或いは交易が減るのではないかとまで言われましたが、人と人との繋がりというものは本来逞しくそしてしぶとく続くものでした。

「また、ふぇすちばるの時期かあ」

 詰め所の一つで往来を流れる人の波に目を凝らし、九重篝はわずか三年前の懐かしい記憶に身を預けていました。立派な女性でありながら、混乱期のどさくさでの手違いなのかこの町の同心に指名されてしまったもと岡っ引き。公的にはばれないようにと似合わない男装をして、その任についた理由は彼女−彼がこの町を思う心のみならず、その混乱に於いて失われた岡っ引きの同僚の穴を埋めんが為であったのかもしれません。
 笠松兵衛、という不良岡っ引きがその通称に相応しくのんべんだらりと町を徘徊していた頃、この町は頼りない篝の手に依らずとも人は安寧に生きていけました。であれば今は、頼りない篝の手によって人が安寧に過ごせるようにならねばなりません。三年前の汝鳥の大火以来兵衛は行方が知れず、篝はその後を継いだ身ではありました。同僚を殴り倒して一人火の中に飛び込み、人々を助けんとして消えてしまった兵衛の後を。

(あのときワイを殴ったお返しをせんと)

 消えた兵衛を思う篝の心に嘘はありませんでしたが、そこに冗談の混じる余裕があるのは彼女−彼の中に些かの希望が残っていたからでしょう。笠松兵助と名乗る少年が篝の前に現れた事、そしてその子が兵衛が生きている「かもしれない」話を語った事。

(あの阿呆の事やからどっかふらついとるんやろ)

 だから早く帰って来い、とまでは篝は口にしませんでした。せめて、阿呆が帰ってくるまでにこの町の活気と安寧を守る気概を持ち続けながら。

 異国の船が行き交う鴨川に設けられた港を見て、松倉景明は後ろに流した長髪を風に揺らせていました。異人の交易が始まってより、この地に新しい文化と活気とが流入する代償として多くの混沌と混乱もまたこの地にもたらされました。三年前の汝鳥の大火もその一つであり、そして欧羅巴から連れこられたという青い蝶、燐粉に幻覚作用があると言われる昆虫から取られたという習慣性薬物までが裏では出回ったと言われており、開国の世に謀を企む者の暗躍を思わずにはいられません。
 ここ汝鳥で私塾を開いている景明は知識を持ち、それにより世界を推察する事に楽しみを見いだすという悪癖を持っていました。ですがそれを知る者にしれみれば有用な知人であり、そして友人でもあるとなれば些細な悪癖などは気にする程の事もなかったでしょう。

「今日も配ってるデスね」
「…ああ、ゲーさん」

 景明の後ろから声をかけたのは、ぼさぼさの金髪を生やしていた異国の商人でした。ぼさぼさの金髪、を生やしていましたが最近短く切ったらしく、ですが代わりに無精髭が伸びているところを見ると商人として身だしなみを整えるという類ではなくて単に暑いから切ったという程度の事かもしれません。ウイリアム・G・ラインバーグは英国から船に乗ってきた商人として、港を見る事が嫌いではありませんでした。行き交う活気が人に新たな活気をもたらす、この場所が。

 ラインバーグが配っている、と言ったのは読売の配るビラ紙であり、そこには彼の嫌う米国の広報が載せられている筈でした。商売としては読売を使って宣伝を行う、代わりに読売の活動そのものを支援するというその発想自体は実利を求める商人として正しいものだと彼は思っていましたが、商人の誇りとしては宣伝に頼らずとも品質で勝負してみせるわい、という気にもなってしまいます。

「あの小娘の案ってのが気に入りまセンがね」

 案外と、実利や誇り以上に個人的な趣味嗜好というものが商人に与える影響というものは大きいものです。特に異国の地に於いて自らの冒険心を満たそうとする類の商人にとってみては。

 あの小娘、ことネイ・リファールは三年前は裏通りに辛うじて借りる事の出来た土地を引き払い、大通り沿いにリファール商会の立派な建物を建てていました。この町に於ける米国商人の顔繋ぎ役として、その存在は大きなものであるのですが存在と本人の資質や自覚や責任感というものが等しいかというと必ずしもそうとは言い切れません。或いは単に先達としていい籤を引く事が出来ただけかもしれませんでした。

「失敬な」

 実際にはリファール商会は大手企業に吸収合併されてしまい、単なる名前だけの営業所だという酷評も無い訳ではありません。なにしろ彼女の椅子があるこの建物も、正確にはスネル&リファール社といい三年前とは名前も陣容も変わっていたのでしたから。
 実務は他人に任せきり、大言壮語だけは立派なネイが商会で挙げた数少ない成果が読売との提携だったりはするのですが、本人がその事を理解していなければ主導権を握れる筈もなかったでしょう。

「だーから、行き過ぎの宣伝になんねーようにって言ってるだけだろ」
「そんな事をお前に言われる筋合いはない」

 冬真吹雪としては新進の読売として海外情勢を扱いたい所でもあり、米国の情報と資金援助まで期待できる「スネル&」リファール商会は立派な上客の一つではありました。ですが客が道を誤らないように誘導してやるのも立派なオトナの理論である筈で、一蓮托生という恐ろしい日本語の意味を思えば目の前の危なっかしいお嬢様に意見の一つも具申したくはなるのです。

「昔からこの商売やってると、文字の一コがまるで予想しなかった騒ぎになる事だってあるんだからよ。転ばぬ先に杖だっているだろう」
「私はステイツからの依頼を仲介しているだけだ」

「領事館だろ?だから右から左でなくても少し首突っ込んでもいいんじゃないの?」
「それこそ余計なお世話だろう」
「へいへい、もちろんそーですがね」

 ネイにしてみれば「スネル&」リファール商会で今上手くいっている方針を簡単に覆す事も出来ませんし、何より名目上商会を保護、仕事までもらえる領事館に大きな顔も出来ません。米国からの情報は遠く異国の地にあるネイにとっても大切なものでしたし、それを汝鳥の町の人々に知らせる事は米国人として崇高な義務でもありました。

「何よりステイツの旗に反意などあるものか」

 駄目だこりゃ、という顔で吹雪は軽く肩をすくませながら商会のある煉瓦造りの建物を後にしました。もっとも読売としては自分が流す情報に余計な検閲が加えられないだけマシだとも思っており、流す情報は流す人間が責任を持って伝えれば良いだけだとも言う事が出来ます。
 自国賛美の傾向がどうしても強い、上客からの原稿を自分の言葉で直してしかも原稿の草案者に了承を得られる内容とする。これはなかなかの苦労でしたが立派な仕事の内でした。

 構えから正中を保つ。
 腕と足の等幅を崩さず、全身の動きをただ一点の流れに乗せ、そして重心を落とす。

 ずんっ・・・

 腕と足の等幅を崩さず、
 正中を保ちゆっくりと重心を引き上げて構えに戻る。

 巌山という四股名で知られている高槻巌はその日も汝鳥の表通りを少し外れた空き地に立って、厚みのある体躯を厚手の和装に包んで鍛錬に励んでいました。9年前に家を出る以前からも一日として欠かした事のない、その歩法は重い一歩の毎に足下から土煙が舞い振動が地面を伝うのではないかと思えるものでした。例えそれが錯覚に過ぎないとしても、その重く強い力を疑う者はこの汝鳥に一人としていません。

「相変わらず精が出るねえ」

 通りがてら、生意気盛りの声をかけた少年は笠松兵助。兵衛の息子を名乗る少年は篝のもとで岡っ引きの手伝いらしき事をしているようでしたが、無論しているだけで何も認められている訳ではありませんでした。兵助の見回りに無骨な笑みを返すと、巌は声を返します。

「力は一日にして成るものではない。君も父を目指すなら、どうだ?」
「へっ、考えとくよ」

 子供の言う考えておく、であればそれは先の長い事であったかもしれません。巌はそれ以上急かす事も強要する事も無く、ただ黙々と自らの鍛錬を続けていました。自らを学び、師父に学び、他人と学ぶ事。それが鍛錬であるとは彼の古き師が言っていた言葉でした。

「君の父との勝負が着いていない。見かけたら言って於いてくれ」

 兵衛と年代が同じであった巌にしてみれば、その思いもひときわ強いものであったでしょう。彼が成すべき事は無論、それまで自らを鍛える事を止めないでいる事でした。

 土埃を立てながら鍛錬を続ける男と手持ちぶさたにそれをぼんやりと見ている少年。背に大きな荷を担いだ女性がそこを訪れたのは巌の和装ににじんだ汗が染み込み始めた頃でした。

「おー、いたいた」
「何だ、白河の姉御か…まさか新作か?」

 一本、横に縛った長髪を揺らしながら白河織江は担いでいた荷を地面にずうんと降ろしました。豆腐屋白河屋の女主人、石より固いと評される秘伝の豆腐造りがこの界隈では有名で、角が当たると死ぬとまで言われる頑健さはそこらの建材にも引けを取りません。
 結び目をほどき、荷を包んでいた風呂敷がはらりと落ちると鈍く光る黒い豆腐塊が姿を現しました。日々精進を続け、固さと重さとを追求する白河豆腐の永遠の課題、硬さと粘りのバランスに於いて最高傑作と自負する一品です。硬いだけでは割れてしまうし、粘りを持つ柔らかさでは傷や曲げにどうしても弱くなる。刀でも斬れず棍でも砕けぬ、それが白河の豆腐でした。

「どーだい、いい光沢だろ?」

 挑発的に笑う織江。最早豆腐と称すべきかわからぬ黒い四方形の塊は、これまで幾多の挑戦を退けられた男どもの墓標のようにも見えました。久々の大作に、巌もやや紅潮した表情を見せますが、おやという顔をすると傍らの少年に向かって話かけました。

「せっかくだ。俺の最高の一撃を見せてやる」

 そう言って腰を落とす、巌の構えはこれまで何万回以上繰り返されてきた普段の構えとまるで変わる事はありません。そして巌の言葉に訝しげな視線になって自らの作品を注視していた織江が一瞬、しまったという表情になったのを兵助は見逃しませんでした。
 正中線を保ち、腕と足を崩さず、目標に正対する。その体勢から右手をゆっくり振り上げると同時に右足を前にずらし、全身の重心を右の掌に乗せて落とす鷹捉把の一撃。

 ずんっ

 ばかり、という音がして左右に砕ける豆腐。そのままがらがらと崩れながら割れると、割れた左右の黒塊がずうんと地に倒れました。ゆっくりと構えに戻り、一息つく巌。

「姉御らしくない失敗だ。豆腐の粘りに不均衡があった」
「ちっ、たまには素直に負けとくよ」

 崩れた豆腐を回収し、風呂敷に包み直すと抱えようとしてよろける織江。軽く笑うと、巌は風呂敷をひったくり左腕一本でそれを持ちました。後ろの兵助に声をかけます。

「飯でも食いに行くか?下ろし豆腐をかけると旨いぞ」

 どうにもこの町にいると退屈しない。無頼の質である父がここに長く留まっていた、その理由の一つを兵助は教えられた気がしました。



 侵略、は、悪い事であろうか

 強きが弱きを挫く事は薦められたものではありませんが、それは自然ではあったでしょう。であれば弱きが強きに挫かれる事は或いは仕方の無い事だったかもしれません。そしてそれを避けるには、力のみでない強さを身に付ける必要がある筈でした。それは異国の地で逞しく生きる強さであり、異人のもたらす文化と混沌とにさらされながらも動じぬ強さであり、混じり合う文化に於いて自らを失わない強さだったでしょう。

 であれば、強者の論理は正しい、筈だ

 日の差さぬ暗い地下室ではなく、路地裏にある寂れた建物の一角でもなく、その場所は豪奢な調度品に彩られた広い建物の一室でした。話す男達は人に言えぬ相談をしている訳ではなく、彼等の立場からは自然でごく正しい将来の為に健全な会議を行っているに過ぎません。

「文化を浸透させ経済を握ればそこは我が国も同然ではないか」
「…如きに先を越されてはならぬ。青い天使の祭りを忘れたか」

「技術は時と共に伝搬するものだよ」
「…の、事かね?」

 祭典には、狂熱が付き物でした。

おしまい


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