異国の船が行き交う鴨川に設けられている港。その通りに面する茶屋で松倉景明とウイリアム・G・ラインバーグが時を過ごしていることは別段珍しいことではありません。読売である冬真吹雪が少しでも自らの情報源を増やそうと、そういった場所に赴いているということもごく自然なことだったでしょう。
「なんだい、『熱い石』のことだって?」
ですがその日、吹雪はラインバーグ達に誘われてこの店に入りました。彼がスネル&リファール商会の依頼を受けて米国の広報を流しているのは既に知られた話でしたし、何より彼等は互いに知らない仲という訳でもありません。
学究肌である景明にとって吹雪に配られている情報はどれも興味深いものでしたが、時折気になる記事が入っているそれは米国本土から見つかったという珍しい生物や鉱物の類に関するものでした。彼の知る限りの知識に於いては、新種というよりも明らかに異常に見える存在。
「単なる間違いか全くの作り事なら余程良いんですが」
「西洋には『けみすとり』という学問もあるデスからね」
景明の持っている知識では、それは自然に存在し得ずとも人為的には作れるやもしれぬものでした。それに同意していたラインバーグは学問に詳しい訳ではありませんが、冒険心のある商人として長く生きてきた嗅覚が根拠の無い不安を感じさせずにはいられません。見たことも聞いたこともないもの、というのは余程素晴らしいものか余程危険なものの何れかなのです。
そしてそのラインバーグがもし領事官でネイの見ていた青い薔薇の花を見ていれば、間違いなく一つの記憶を呼び起こしたことでしょう。それは3年前、欧州で活動が行われていたとされる、燐粉に習慣性のある幻覚成分を持つ青い蝶『ブルー・エンゼル』の汝鳥への密輸に関する事件でした。
ただ、青い蝶は希少種とはいえあくまで自然の産物であり、青い色が悪いというのであればこの世に青い動物も植物も幾らでもいたことでしょう。熱い石とやらにした所で、ありそうな手としては地熱の高い場所で取れた鉱石に適当な誇張を交えているだけという可能性も十二分にありました。情報が海を越える間に大きく変質するものだということを、ラインバーグは経験として知っていましたし彼自身も些か以上に誇張した土産話を母国に持ち帰って家族に伝えた覚えもあるのです。それこそ彼の両親は日本人が皆チョンマゲを結ってニンジュツを使えると未だに思っている筈でした。
「やってるのがあの小娘でなきゃ心配もないんデスがね」
肩をすくめてそう言うラインバーグの表現にどの程度の懇意がこもっているのか、本人にも判然としていないことが他人に窺い知れるものではありません。景明も吹雪も苦笑しつつ、ごくごく小さな不安の影だけは消すことができませんでした。
「そうですか。げーさんも大変やねえ」
「いや全くです」
天満屋の未亡人で女主人であるお孝が景明と一緒にいることが良からぬ噂を呼ぶことがあるとすれば、それは色恋沙汰よりも余程想像の翼を広げすぎた内容が主であったかもしれません。若くして社会の裏の裏まで知っているとまで言われる辣腕ぶりで店を支えるお孝と、怪しいに違いない異国の知識が詰め込まれているという景明が単なる茶飲み話をしていたのであれば、噂に尾ひれをつけて楽しむ趣味を持つ人々にとっては何かいかがわしい企てを試みていて欲しいという欲求はありました。
冗談は別として、お孝にしてみればスネル&リファール商会の精力的な活動によって配られている米国の情報が昨今の話題に上がることは別段珍しいことではなく、そういった知識に詳しい景明は退屈しないですむ話し相手だったのでしょう。そして景明にしてみれば、やり手と言われる目の前の女将の本心を読み切ることなど最初から期待してもいませんでしたが、こういった人物からでなければ手に入れ難い話題というものも確かにありました。
「賭け試合…ですか?」
「ええ。米国といえば商会の方から誘われたことがありましたねえ」
もちろんリファール商会ではなかったらしいですが、人と人との戦いに貨幣を賭けるという娯楽の存在は世の東西を問わず存在します。問題はそれがこの汝鳥で行われているということと、それ以上に相当な資金源となるそういった娯楽を果たして誰が主催しているのだろうかということでした。
「まあ、天満屋としては興味ありまへん。どうせならそこに集まる方々に資金貸しでもした方が良いですわ」
景明の表情の変化を楽しむように、お孝は魅惑的な笑みでにこりと笑うとその場を後にしました。
「賭け試合か、港の水夫から話は聞いたことがあるな」
その日も常の歩法の鍛錬をしていた巌山こと高槻巌は、汗を拭き取った手拭いを肩に掛けると和装を正してお孝の方に向き直りました。腕の一本がお孝の腰よりも太いのではないかと思われる体躯をした大男はその外見に違わぬ大力の持ち主であり、今は力士を生業としていましたが本来は無頼の拳法家であって伝統よりも力と鍛錬にこそ重きを置いています。
停泊地より鴨川を登る小型船が集う港、そこに集まる異国の水夫や力自慢にとっては和装を着た大男である巌は充分な興味の対象に値したでしょう。時には腕相撲の一本や二本が行われることもあったでしょうが、名の如き巌のような彼を倒せるものは稀にしかいませんでした。噂と濃い酒が好きな彼等の間で、異人の商人を中心にに開催されているという賭け試合の噂は意外に有名なものだったようです。
「巌はんは出たいんですか?」
「興味が無いと言えば嘘になる。だが戦う事と倒す事とは別だ」
ふと、思いついたお孝の質問に巌は素直な心情を話しました。賭けが云々ではなく、鍛錬とそれを競う相手の存在とは彼が欲して止まぬものでした。本来無頼の徒である巌が長く汝鳥に定住し居着いてしまった理由は何よりこの地に流れ来る多くの人々の存在にあるに違いありません。
異人の中には巨漢の巌より更に大きな体躯を持つ者も珍しくはなく、屈強な水夫相手にぶつかり稽古の真似事をしたところで彼が揺らぐような事はありませんが、大海と呼ぶが如く世には多くの見知らぬ力が存在するのです。
「異国の商会の用心棒には不可思議な体術を使う者もいると聞く」
その言葉と、何よりその表情を見た時お孝は目の前の好漢が果たして何時まで今の境遇にいるのかと思いました。3年前はこの町には彼と良く競り合っていた岡っ引きの青年が居て、彼が接していた子供たちも今は大きなりそれぞれの道を歩み始めたこと。そして彼の目が見ている先は恐らく巌が少年の頃から変わらぬものなのであろう、と思いながら。
「…久しぶりに店に寄って行きまへんか?」
普段は人に任せて使わぬ細腕で自ら白飯を炊く楽しみ。時が貴重な砂粒であると同時にそれが変えるものと変えられぬものがあるということを、若くして未亡人である彼女は充分に心得ているつもりでした。
領事官からの帰りに幾つかの私的な用事を済ませ、というよりも町中をふらついていたネイがラインバーグと吹雪の二人に会ったのは、冬の早い日が暮れかけた屋台の前でのことでした。ほろ酔い加減の二人を見れば、こんな時間から良い身分なものだとでも言いたくもなるところだったでしょう。
「こんな時間から良い身分なものだ」
「アンタ、会っていきなりそれデスか?」
思ったことをそのまま口に出すところが良く言えば彼女らしいところですが、言われた方としては良い身分はともかく良い気分のするものではありません。ましてネイにしたところで領事官での用事を済ませて、その後は営業所の代表らしくもなく気楽にあたりをふらついていたに違いないのですから。
ネイもラインバーグも仕事をしなくて良い時にまで働くほど勤勉な質ではありませんから、お互いにそのあたりの事情は分かった上での皮肉には違いないのですが、この時はその事情が多少ずつ歪んでいました。
「領事官領事官言ってないで気をつけた方が良いデスよ。役人なんて何考えてるか分からないんデスから」
「何でお前にまでそんな事を言われなきゃならん!」
それは先日来、吹雪にもさんざ言われた余計なお節介でしたが、無論ラインバーグがそんな事を知っている訳はありませんし傍らにいる吹雪も事の様子に口を出すつもりはありません。何しろ、傍から見ている限りこの二人の口論は仲の良い者同士の喧嘩にしか見えませんでしたから。
「余計なお世話なのはわかってまスよ。でもアンタ右から左でなんも考えてないでしょ?」
ありゃそれも俺が前に言ったことだ、と吹雪は思いました。言われた方の顔を見てみると案の定烈火のような表情になっており、ひっぱたくどころか固く握りしめた拳が英国商人の鼻面に打ち込まれるまで数秒をしか必要とはしませんでした。
不機嫌にスネル&リファール商会に戻ったネイを待っていたのは商会の実務を任せている見知った顔と、領事官から応援に送られてきたという見知らぬ大男でした。協力の証として商会の手伝いと領事官との連絡を任された、という愛想の無い巨漢を見たネイは先程のラインバーグの話を思い出しましたが、持参した書類や証明書等を見るにどうやら本物のようです。
商人や開拓者というよりも兵士か軍人にしか見えないその男は実際に働かせてみれば確かに有能な人物であり、領事官からの情報と商品を汝鳥に提供する、そのラインを作るのに尽力してくれましたし商会の雑事でも不平すら言わず黙々とこなし、ネイが当初感じていた不安は春先の雪のようにすぐに溶けて消え去ってしまいました。
(人を外見で判断するのは良くないことだ)
それが彼女の仲間への信頼感を表しているのか、それとも自分に言い聞かせているだけなのかは彼女自身にもよくは分かりません。旧守と新進の狭間に挟まれる、ネイの責任と不安は増えていく一方でしたが、彼女の商会はその間も順調に経営を拡大し続けていたのです。
ただ、汝鳥の人々にとって彼女の責任が領事官よりも大きくなっている、その事実にネイはまだ気づいてはいませんでした。
おしまい