強すぎる愛国主義にもかかわらず、彼女を知る多くの人が苦笑をしながらも彼女への好意を失わなかったということは、恐らくネイ・リファールの数少ない、しかし貴重な才能だったでしょう。そして英国商人であるウイリアム・G・ラインバーグも彼女の才能に惹かれた一人であったに違いありませんでした。
「という訳でお二人にお願いしたいんデス」
ラインバーグが頭を下げた相手は汝鳥の読売二人、龍波勇太朗と冬真吹雪でした。曰く最近不自然な程に活動を活発にしている米国領事官に不穏な様子が無いか、その調査。ラインバーグが読売の二人と飲み友達に近い親しい間柄である事、英国商人である彼が自分の好奇心には熱心でも自分の商売には必ずしも熱心ではない事、そして彼がスネル&リファール商会のネイとそれなりに親しい仲である事が無ければ、異国の商人同士の裏駆け引きの依頼のようにしか見えないかもしれません。
「調べんのは別に構わないがよ、犯罪者になるのはお断りだぜ?」
「犯罪にならないようにするのがプロってもんデス」
異国の商人同士の裏の対立が昨今活発になっていると、いう情報は吹雪の耳にも入っています。先日は清国の商人が何者かに斬られた、という事件があり勇太朗やラインバーグの持っている情報と合わせるにそれも異国間の対立が原因にあるらしく思えました。であれば読売としては号外に成りうる不穏なネタを調べる事に抵抗はないのですが、法を侵してまでかというとそれはまた別の話です。
ラインバーグにした所で危険かもしれない頼み事を友人にするのは気が引けるのですが、どうせ頼むのなら信頼できる相手に頼みたいところでした。外来のまっとうな情報に詳しい吹雪とまっとうでない情報にも詳しい勇太朗はその意味では適任で、不穏な情報が真実ならばそれ自体が報酬になるでしょうし何もないなら彼自身が報酬を出せば良いことです。ラインバーグは自身英国商人として以前自国の人間がブルー・エンゼルなる習慣性薬物を密輸していた、その事実を知っているので例え米国のことであっても裏活動が気にならないということはありません。ですが、実際のところは何も知らない、少なくとも何も知ろうとしないスネル&リファール商会の小娘のことが気になっているということは否定できなかったでしょう。
「何でアタシがこんなことまでやんなきゃいけないんデスかね」
憮然として呟くラインバーグの姿に、吹雪は苦笑を隠せません。ただ、こんな三文芝居を記事にしても読売としてのプライドは満たされはしませんから、茶化すよりももう少し深刻な話をしておくべきでした。
「まあ、万が一でもリファールの姐さんが燃やされたら夢見が悪いしな」
真面目な表情で言う吹雪の言葉は趣味の悪い最悪の状況を仮定していましたが、最悪の危険を知るという事は優先順位の必要になる行動を行う前にやっておかなければなりません。海外情勢を調べている吹雪は幾つかの例を知っていましたが、異国に異なる文化を受け入れさせる場合に定番で効果のある方法というものは実際として存在しました。
まず強引にその文化に入り込む、太く強い根を張る一方で摩擦や不満は必ず発生し、無論それは時とともに深く大きくなっていく。入り込む側はあらかじめあまり有能ではない代表者を立てておき、その者が人々の不満を充分に引き付けてくれたところでそれが爆発する前に自分達で処断してしまうのです。摩擦と不満は処断された人間もろとも消えてなくなるし、泣いて馬謖を斬った者達は同情混じりの信頼を得ることができる。姑息だが簡単で、簡単だからこそ多用されて定番となっている手法でした。
「英国もあちこち進出するときにやってましタからね」
かつて植民地政策を取っていた時に、国が会社を作ってその会社に異国を支配させる。それが定着すればそれで構わないし、不満と暴動が起きればその会社を処断してしまい、また別の人間を連れてきて別の会社を起こす。古典的な策動を米国が用いているという根拠は何もありませんでしたが、安心を買っておくならそれは悪い結果には繋がらないだろうとラインバーグは思ったようです。
「何もなければそれでヨシ、何かあったらアタシがリファールの小娘に請求書書きます」
悲観的な可能性が浮かんでくるのであれば、それを晴らしてしまえば良いだけのことです。だからといって実際に調べる方の労苦がたいへんなものだという事実は変わらず、両手が後ろに回らない範囲で社会的好奇心を満たす技術が読売には求められていました。
「じゃあいっそ降りるかい?」
「莫迦言うな、こんなおもしろいネタ前にして何もしないなら読売になろうなんて思わねーよ」
鴨川にある港のそば近く、葵茶屋に場所を移して串団子を挟んだ話し合い。勇太朗も吹雪も自分の職業には誇りを持っていましたから、目の前で急速な変化を見せている異国の領事館について何も調べないでも良い、という思考をする理由はありません。まずは腹ごしらえ、そしてさあどこから調べるかという話になると身近な知人のいるスネル&リファール商会から、だったでしょうか。
「帳簿とか見れるといいんだけどなあ」
「んなもん調べられるかよ…よしんばできても完璧に犯罪だぜ」
団子を頬張りながら勇太朗。できない、で終わってしまえば調査はもちろんそれまでですが、彼等はもちろんそれまででは終わらない読売でした。では帳簿を見ずに帳簿を調べるにはどうしたら良いか。
「やっぱ港か?」
商会や領事館に何がやってきて何が出ていったか。それが分かれば用は足りるわけですし商会に忍び込むよりも遥かにまっとうに調べ物ができるでしょう。読売としては最近流行りの米国の流通を調べて情報の先取りをしたい、という彼等の主張は嘘ではありませんでしたが、いずれにしても気のいい港の船乗り達に酒の一本と引き換えに見させてもらった米国からの船荷には多少、彼等に違和感を感じさせるものが混じっていたのです。
「勇兄ぃ、なんか妙に積み荷に生ものが混じってねーか?」
「貴金属に食料に…こいつらは分かるが生鮮物なんて米国で扱ってたかなあ」
基本的には積み下ろしされている最中の荷箱と、せいぜいそれに貼られた荷札を見せてもらえる程度でしたから具体的な中身までは知る事ができません。ただ、その中に時折見られる氷漬けらしい箱やら水槽になっている箱やらの存在を見るとどうにも奇妙に思えてきます。明らかに金をかけてこんな送り方をするくらいなら、保存食の加工をした方が良いに違いない筈ですが、それも或いは新しい商品の輸送に関する実験をしているだけかもしれなかったのですから。
とりあえず米国の商品の出入りに関しては、汝鳥ではスネル&リファール商会の秘める割合が極めて高くなっていましたので龍太朗も吹雪もそこを調べない訳にはいきません。ただ、楽観的に見るならば調べる対象が少なくて済むというのはありがたい事ではありました。
商会が運営している「兎小屋」と呼ばれる施設は最近汝鳥の繁華街では有名な酒場であり、店員は汝鳥の者が雇われていましたが内装は米国歓楽街風に改装されていて、露出の大きな制服を着た給仕女達が軽やかな足取りで店内を歩きまわる、そんな場所でした。普段は中層から裕福な町人や商人が集まる酒場として使われており、であれば商談や接待の場としても活用されることになります。やがて地下に会員制の別室が誕生した、という事も客層の要求を思えばごく自然なことだったでしょう。
こういった酒場の客になるには勇太朗も吹雪も普段の収入が足りていませんでしたが、記事の為として入ったことが皆無な訳ではありません。ですが少しでも多くの情報を仕入れる為には、協力者なり現地に詳しい人間の存在が不可欠でした。会員制の地下も含めてどのように調べていこうかと考えていたのですが、
「こんなこともあろうかと通いづめた甲斐がありましタ」
という依頼者自らの積極的な協力によって兎小屋の調査は実に捗ったのです。もっとも本当にそういう目的で通っていたかどうかは分かりませんが、酒場の地下を訪れている会員の中には、確かにラインバーグも知っている汝鳥の高官や有力商人が幾人もいること、建物の作りから地下には個室や密室が多いこと、裏に会員専用の出入り口が設けられていること、更に店員の給仕女達の胸囲の寸法など数々の情報を手に入れる事ができました。
「以上のことから少なくとも地下で内緒の商談が行われてるのは間違いないデスね」
「最後の情報は重要なのか?」
「極めて重要デス」
断言されると説得されそうになるかもしれません。
松倉景明の教えている私塾は汝鳥の比較的外れに近い場所に設けられていました。集められるだけ集められる、限られた情報から推理を行うには相応のブレーンがあった方が良いですし、細い綱の上を渡るような行動に出る前であれば、可能な限りの推理を行っておく必要がありました。
「理想はネイさんが見たという青い薔薇を手に入れる事ですね」
景明の意見はもっともでしたが、それができるようなら最初から苦労はしていません。商品として流通していない生鮮物が荷卸しされている事、そして領事官にあったという自然ならざる薔薇の存在。あくまで推論でなら米国領事官で何か特異な「商品」の開発を行っている事と、その取引先を兎小屋の商談で探しているのだろう事までは容易に想像ができました。問題は、開発しているその商品が何であるかという事だけなのですが。
「間違ってはいけないのが、彼等が必ずしも違法な活動をしているとは限らないという事だ。だが違法ではないが合法でもないことなんて幾らでもあるし、往々にしてそういった活動は法整備のされていない条件下で行われる事が多い」
それこそ青い薔薇のような珍しい生物は、その存在だけで好事家への貴重な商品足り得ました。ただ仮にそれが人為的に作られていたとしても、その事自体を違法として取り締まる事は困難です。それこそ薔薇などは長い間、人の手によって改良が加えられてきた植物でしたしそれを流通する事は何の罪にも問われません。珍しい生物の毛皮を売ったが為に罰せられる事も有り得ませんが、ただ先進的な幾つかの国では珍しい種族そのものを保護する為に取り扱う事を禁じた法も存在します。
景明が気になった点もそこにあり、未だ異国に対するこういった取り締まりの法を持たない汝鳥の地で、法には触れないが倫理や道義にはもとるような活動が行われてはたまったものではありません。特に生物を人為的に操作しているという疑いは、学問と宗教が分化した時代から続く倫理観の定義に真っ先に抵触する可能性が強い事柄だったのです。
「何れにしろ調べるなら実物が必要だし時間も設備もいる。こればかりは当事者の協力が得られない限り、なかなか合法的にはいかないだろうね」
知識人の意見というものは冷徹に事実を指摘してくれる一方で、必ずしも有用であるとは限らないものでした。
勇太朗も吹雪も決して争乱が嫌いな質ではありませんが、違法な行動はできれば避けたいですしいざこざも無ければそれに越した事はありません。あくまで彼等は米国領事官やスネル&リファール商会の害にならない範囲での調査をこれまで続けていましたが、調査をしていることそのものを隠そうとはしませんでした。相手に知らせる事で牽制しながら出方を見る、些か大胆な方法ですが、楽天的に考えれば相手が協力してくれるかもしれないし、そうでなくとも何らかの動きを見せてくれるかもしれません。
「虎の尾を踏んでなければ、だけどな」
日も暮れてから景明庵の私塾を出て、汝鳥の裏路地を歩いていた勇太朗と吹雪の前に三人の異人が現れたのは、どうやら相手が見せてくれた何らかの動きであるようです。その一人がスネル&リファール商会に派遣されていた大男であるという事に吹雪は気づき、不安を大きなものにして口元を歪めました。そして大男の演技めいた、抑揚に欠ける口調はその不安を一層大きくしていきます。
「何やら嗅ぎ回っているようだな…他国のスパイか或いは攘夷派の人間だろうが、ステイツの機密情報を探るつもりなら許す訳にはいかんぞ」
やけにおきまりで説明的に聞こえる台詞が、不安を確信へと変えました。それはスパイを退治する大義名分を宣言しているに他ならず、外交問題になる可能性を考えれば同心や奉行所でも迂闊に手は出しにくくなるでしょう。この際は彼等が実際に英国商人のラインバーグの依頼を受けているという事が不利に働きますし、米国領事官が強気の姿勢で英国商人のスパイを退治したのだ、と強弁すれば強引に処断されかねません。相手を甘く見ていた後悔を多少引きずりつつも、吹雪は隣りにいる勇太朗に呟きます。
「こんな早くにここまで高圧的に来るとは思わなかったが…これってけっこうやばい状況だぜ」
「俺一人なら逃げられるけど、お前は足手まといだな」
「俺は勇兄ぃと違って知性派なの」
「知性派ならこの状況でどうするね?」
「もちろん…逃げる!」
叫ぶと同時に回れ右して走り出す二人。当然のように、異人達もすぐに走り出すと二人の後を追い掛けてきました。賑やかな繁華街まで逃げ込めれば騒ぎは起こしにくくなるかもしれませんが、日常に喧嘩の一つも珍しくないこの町ではかえって薮蛇になる可能性もあったでしょう。追手の三人は決して足が速くはありませんでしたが呼吸を乱す様子もなく、引き離す事もできずにしっかり後をついてきます。体力に自信のある彼等が、獲物の息が切れて動けなくなったところで一斉に襲い掛かるつもりでいることを吹雪は理解しました。
(やばい、こりゃ本当に勇兄ぃは逃げても俺が捕まるぞ…)
足がもつれ始めたところで、目の前の路地から大柄な人影が現れたのを見て吹雪は絶望的になりました。ですが、その影は一瞬、重く鋭い動きで踏み込んできたかと思うと追手の一人と激突してこれを地に打ち倒したのです。頼りない月明かりの下で、人影から見知った顔が現れました。
「巌山の兄ぃ!?」
「事情は後で聞く、早く行け」
振り向いた刹那、飛び掛かってきた追手に巌は身体の向きも変えず相手の重心の下に滑り込むと、肩口から体当たりを打ち込みました。外門から崩捶の一撃で崩れ落ち、異人の追手は残る大男一人のみとなります。その力と技倆に感心したような顔を見せて、男は巌に話しかけます。
「部外者が邪魔をするか」
「事情は分からんが彼等は知らぬ仲ではない、お前達と何れに正義があるかは知らぬ」
「では何故奴等を助ける?」
「この国では義理が人情に優先されるからだ」
その言葉に、男は始めて小さな笑みを浮かべます。
「自由を知らぬ封建制の名残だな」
「歴史の名残だと言ってくれ」
そう言うと二人は低く身構え、お互いの間合いを確かめます。此処に至って穏健に事を済ますつもりは双方共にありませんでした。
汝鳥の路地裏で高槻巌が倒れていた所を助けられた、その事を吹雪が知ったのは次の日の朝になってからでした。更に米国流通の食品の一部が人体に有害な影響をもたらす事が判明してスネル&リファール商会が大混乱中だとの連絡が景明から入り、そしてラインバーグと勇太朗からは領事官が裏取り引きを行っている新薬に関する情報までが流れてきます。
ですが、吹雪にとってはまさか一対一で巌を倒しうる者が存在した、その事実の方が重大な出来事のように思えているのでした。
おしまい