京都洛中、汝鳥の町。鴨川を登った内陸にあるその町は、数年前より外国人に解放されている港町となっていました。川上に設けられた小さな港には商船が渡航して舶来の文化と商品を、そして舶来の異人は人に興味と不安と活況と、時には混乱までをもたらしていたのです。三年前の汝鳥の大火を始めとして、終末思想の宗団の出現や異人を相手に横行した辻斬り騒動、果てはブルー・エンゼルと呼ばれる習慣性薬物の密輸騒動まで人々の不安の芽に与えられる養分はその種類にも量にも事欠きません。
米国流通の食品が人体に有害な影響をもたらす、不安の芽に与えられる新たな養分となるその噂はスネル&リファール商会による汝鳥での米国商品の流通が軌道に乗り始めた、その時期を狙ったかのように沸き起こりました。どうやら一部の読売から流れ出したらしいその噂の真偽の程は定かではありませんでしたが、不安に対する明解な回答を求める人々は無論商会に押し掛けることになったのです。
「莫迦を言え!そんな事がある訳がないだろう」
スネル&リファール商会、汝鳥営業所の代表であるネイ・リファールは半ば呆れたような顔で人々にそう強弁しましたが、肝心の商会の運営に深く関わっている訳でもない気ままな代表の言葉にはどうにも人を納得させる根拠と説得力とが欠けていて、結果としてそれが噂を更に悪い方向へと導いていくことになりました。
所詮名ばかりの代表に何が知らされているものか。領事官に体よく利用されているやも知れぬだろうし、寧ろステイツ命の娘さんの事だ、承知の上で悪事に荷担しているやも知れぬではないか。
(アンタ右から左でなんも考えてないでしょ)
以前知人にそう言われた意味をネイ自身が痛感しているような状況で、その彼女が他人を説得できる訳がありません。ステイツ本国から輸入したカラクリ時計の針が回る分だけ事態は悪化していくように感じられていましたが、ネイにはそれをどうしたら良いものかという決心が未だ付けられずにいるようでした。
「という訳でどうにも大変な状況になってるようです」
「ちっ。やることが遅かったなあ」
鴨川沿いの葵の茶屋。行きがけに商会の様子を見て来た松倉景明の言葉に舌を打ったのは冬真吹雪です。昨今の商会の危なっかしい繁栄に手を貸していた身としては、馴染みの上客が商売上の信頼どころか社会的な信頼までも失い兼ねない状況にあるというのは気分の良いものではありません。ましてそれを危惧してささやかな調査の真似事を行い始めていた、その矢先であったとしては。
リファールのお嬢さんが恐らく何も知らずに、米国領事官の言いなりになっている内に事態が悪化したのだろうことは吹雪達の目には火を見るよりも明らかでした。
「俺だったらしらばっくれて全部領事官に押しつけちまうんだけどな」
「あの小娘にそれができればこんな事にはなってないデスよ」
ぼやくように言う吹雪に答えたのは英国の商人であるウィリアム・G・ラインバーグ。彼等は私人としてもネイの知り合いでしたが、それだけに領事官というよりその後ろにあるステイツの旗に迷惑がかかるような行為を彼女が出来る筈もない、その事実を苦々しく認識しているようでした。
だからといって友人の苦労を手をこまねいて見ているだけであったのなら、彼等がこれほど悩む必要など何一つ無かったのでしょう。友情は順境にある時にではなく、逆境にある時こそ見えるというのは誰の言葉であっただろうか、そう思いながらまるでリファール商会を貶める為のような逆境をもたらした同業者に対して吹雪は好感を抱けません。
「…待てよ?落ちついて考えりゃリファール商会を貶めるのが目的だったってこともありうる訳だな」
もしタイミングが良すぎる偶然が偶然ではなく必然であったとしたら。先日来、ラインバーグに頼まれていた吹雪が同業の龍波勇太朗と一緒に米国領事官とリファール商会の動向を調べていたのは無論、今の事態を恐れてのことでした。ただ、彼等は自分達を町のまっとうな民間人だと思っていましたから犯罪者めいた非合法な手段を用いる訳にもいかず、調べられる情報の範囲にも自ずと限界がある筈です。それが同業者に出し抜かれたのは単に彼等が劣っていたと考えることも無論できますが、
「噂が嘘なのか、或いは噂を流される側が承知の上か、だよな」
「嘘を流すのと情報を操るのは読売のポリシーに反するねえ」
一緒に茶を飲んでいた勇太朗の推測に吹雪が自分の信条を述べました。読売を利用していた米国領事官がこうもかんたんに読売に出し抜かれるというのも考えづらく、今度は別の読売を利用したという可能性は確かに捨てきれないところでしょう。
何れにしても調べる価値はありそうですし、目先の目的が見えてくれば行動を起こすのにも躊躇う理由はありませんでした。ただ残された時計の砂粒がそう多くはない中で、もう一度領事官の荷を調べるには読売の二人だけでは些か手管に限りがあります。領事官への不法侵入でもして見つかればただでは済まないでしょうし、予め用意していたかのような景明の言葉が無ければ、さしもの彼等も手詰まりになっていたかもしれません。
「こういう時、蛇の道は蛇と申しますね」
「?」
天満屋は汝鳥のまっとうな両替商として知られていましたし、その主である未亡人のお孝にも繁栄する人間に対する嫉視を含んだ不穏当な噂こそ数あれ、その中に根拠の見つかったものは一つとしてありません。ただ、大店の持ち主としては商売に際して人より表裏知っていることが多くて当然でしたし、できる手管も多くて不思議ではなかったことでしょう。
「ネイはんとこの事情は知ってます。ただ助けるんなら一緒に陥れるんが基本やわ」
「成る程。ただ何れにしてもこちらは手形が足りません、それを貸して頂ければ…」
こと商いに関わる話となれば、お孝は当年18歳の娘と思えぬ威厳を出すことができます。彼女と少なからず交友のあった景明はそれを見慣れている筈ですが、吹雪と勇太朗を連れて天満屋を訪れたこの時は常よりその威厳が大きくも鋭くも見えて、自分が多少腰が退けているのを自覚しました。相手の心中には気付かぬ風でお孝は背中越しに声をかけると、一人の少年を呼び込みます。
「丁度ええわ。芳ぼん、手伝うてあげて」
呼ばれて現れたのは、数年前より天満屋に世話になっていた鷹見芳房でした。3年程前に一度国元に帰り、最近元服して汝鳥に戻ってより若くして奉行所に勤めていましたが、今でも当時の恩がある女主人には逆らうことはできないようです。貿易商人の監視を中心に働いているらしい、その芳房が何故今この場にいるのか、お孝の言葉を聞くにどうやら彼女自身があらかじめ呼んでいたのは間違いないようです。
「ぼんなら異国からの荷を途中で掴むことはできますわなあ」
「あの、それは一歩間違えると罪になるんですが…」
「間違わんようにやれば良いだけですわ」
既に米国領事官と取り引きをした商店から、その荷を天満屋が買い取ってしまう。その際に商品を天満屋が直接領事官に受け取りに行って、手続き上のやりとりだけを後から果たしてしまえば良い。更に天満屋が荷の受け取りに行く為の人を金を出して雇えば、好きな人間が領事官に入り込んで荷を調べることができるだろう。無論こんなやり口は普通は認められる方法ではありませんが、監視する芳房のような人間が側に居なければ誰にも分からないで済むことです。
「これで中に入れます、そこから先は皆さんの腕次第ですが」
「でも良いのかい?んな儲けにもならないこと」
「商いなら儲けをどうするかはうちの判断です。だから雇い主も同行する言うてますわ」
「雇い主?」
吹雪の声に、続いてお孝の後ろから現れたのはラフなカッターシャツを着た金髪の娘でした。騒動の当事者である筈のネイが自分の商会を離れてこんな場所にいることに、皆驚きと同等以上に呆れた思いを隠し切れません。思わず叫び声を上げたラインバーグにしてからが、その思いが一番強かったようです。
「何でメリケン娘がこんな所にいるんデスか!?」
その言葉に、ネイは太い眉根を動かしました。
「…失敬な。こんな状態では事情の真偽も分からんから、まずそれを調べる事が重要だろう。そこでリファール商会代表である私が自ら天満屋に商売としての協力を頼みに来たのだ。決して打開策が思いつかないまま呼ばれたからただ来ている訳ではないぞ」
頼もしく言い切るネイに追求する意欲の失せたラインバーグは肩を落としましたが、限りなく非合法に近い方法で米国の荷を調べるのであれば米国商人の協力者は不可欠でしたし、確かに当事者であるネイならばお孝に協力しない訳がありません。丁度良い、とお孝が言った意味もそこにあったのでしょう。
身軽に動ける読売二人に、その立場を保証できる米国商人とその活動を黙認できる奉行所の人間。四人が再度領事官の荷を調べる為に天満屋を辞すると、後にはお孝と景明、そしてラインバーグの三人が残りました。
「いったいどんな風邪の引き回しデスか?」
「風の吹き回し、ですよ」
冗談のようなやり取りはともかくとして、あらかじめネイと芳房を呼んでおいて、更に景明に自分達を呼ばせてきたらしいお孝が最初から今回の件を調べる意志があったことは疑いありませんが、ラインバーグにはその意図が思いつきません。ですがにこやかに煙管を噴かしているお孝の返答は実に単純明快なものでした。
「そらもちろん巌はんの敵討ち、ですわ」
「いや、死んではいないんデスが」
領事官の人間に追われていた吹雪や勇太朗を助けようとした巌が逆に倒された、その事はむろんお孝も知っていましたが、幸い普段の鍛錬の賜物であったのか命に別状も無いし療養が必要な程の大きな怪我を負った様子も無いとの事でした。そして拳を鍛える事を生業としている者が拳によって倒されたからといって、それに腹を立てる道理が無いことも彼女には無論充分に理解ができています。
ですが、汝鳥の外に自分を倒し得る者がいてくれた、その事実こそが生来拳を鍛える事を生業としている巌をこの町に留め置かないであろうこともまたお孝には理解できたのです。そして彼女の心情が単なる八つ当たりでしかないという事も、自身が良く理解していました。
(この町からあの人がいなくなる、そのきっかけを作ってしもうたなあ)
汝鳥の空を見るお孝の目には、ですが寂しげな光は宿ってはいませんでした。その表情を見たラインバーグは、それが自分が国を出る時にそれを見送っていた友人や家族の顔に似ていると思いました。
当事者達には侵入だとか潜入だとかいう感覚があったのですが、米国からの荷を受けて、それを天満屋の用意した倉に運び入れるのに実際は然程の労苦すらも必要ありませんでした。何しろ身分を保証できる人間が側に付いていたからこそかもしれませんが、お国柄であるのかそもそも普段からなのか米国の倉庫には細かい管理をしている様子がまるで見受けられず、吹雪や勇太朗としてはいっそ拍子抜けする程だったのです。
「ずさんだなあ」
「そこが未だ解決できぬステイツの弱点なのだ。ゲーには言うなよ」
これでは何れ間違えた荷でも送られて、幾らでも秘密の情報なりが漏れてしまっていたのではないだろうかと思いつつも決死の潜入を果たした四人は無事天満屋に戻ります。ただ問題は「生鮮水産」と札のされたこの荷を手に入れることではなく、ここから彼等の欲している真実を手に入れる事ができるかという事でした。問題があるのなら、その実体を突き止めることができなければ苦労の有無には何の意味もありません。
ですが、荷の中には確かに食用らしい氷漬けにされた幾匹もの魚が納められているだけで、その他におかしなものは何も見つかりませんでした。ただその魚は鼻面から尾の先までが両腕を広げた程もあり、それが幾匹も箱に詰められている様自体は確かにたいしたものではありましたけれど。
「ちと期待はずれだなあ。もっと凄ぇモンが入ってるかと思ったんだが」
「頭が二つあるとか…それじゃ商品にゃなんねーな」
吹雪と勇太朗は冗談めかして落胆の気持ちを隠そうとしていましたが、苦労した上に記事にもならない発見をしたというのでは何の喜びも見いだせなかったことでしょう。ですが、ネイの表情は彼等のそれとは違っていました。
「いや、流石ステイツは広い」
「何で?」
「この川魚はステイツで普通に食されているがこの半分の大きさもないぞ。よくこんなに穫ってきたものだ」
自分の言葉が何を意味しているか、吹雪や勇太朗の表情が変わった理由を恐らくネイは理解していなかったでしょう。
「三年前のブルー・エンゼル事件やて?」
「ああ。篝姐ぇの所なら兵衛さんの残してた落書きがあるよな?」
「探せばある思うけど…ちなみにワイは篝兄ぃや」
「悪い悪い」
吹雪に言われて、九重篝が下町奉行所の倉から引っぱり出してきたのは、行方知れずの同僚が3年前に残していた古い記録でした。突然変異によって産まれた青く光る蝶の変異種、その燐分から作られると言われた習慣性薬物の密輸事件がここ汝鳥で発生し、当時の汝鳥の大火の混乱の中でその解決はうやむやとされていたのです。ただ、それ以来この青い蝶にまつわる事件がこの町で起こることはなく、汚い字によって記されたその記録以外は誰もが忘れてしまっていました。
いつの間に書かれていたのか、思ったよりも分厚い内容に書き移すのを諦めた吹雪は篝を連れてその記録を持ち出し、私塾にいる景明のところへと向かいました。米国の荷から手に入れた、その情報を組み合わせることでブルー・エンゼルの正体を探る為のパズルが完成するのです。厚い帳面を繰りながら景明がその記録を紐解いていく様子を、ネイを始めとする皆が緊張しながら見守っていました。
「ブルー・エンゼル、青い蝶が好事家に求められたというのはまあ当然のことでしょう。その生息地や飼育方法が調べられたのも無論の事ですが、兵衛さんの記録を見る限りではそこで見つかった二つのものには誰も気付かなかったようです…ここにはこうあります、満月の夜に青く輝く蝶、その生息地には蝶の輝きを映したかのように青く光る薔薇の花、そして地面にある熱を持った青い石があった、と」
「青い薔薇と…熱い石だと!?」
その二つはネイが確かに領事官で、そして米国の報道で見たものでした。それは三年を過ぎて米国がブルー・エンゼルから作られるという習慣性薬物の密輸に手を染めたということなのか、だが領事官には青い蝶など居なかったし、あの積み荷にも何も怪しげなところは無かったではないか。そう抗議するネイを景明は制するように続けます。
「いやはや、兵衛さんの記録にここまで書かれているんならもっと早くに見ておくべきでした…習慣性薬物であるブルー・エンゼルの特性、それは摂取した生き物の感覚や身体能力、代謝を異常促進させることにある。その効果を見るにこいつは当時通常の麻薬と併用して、その効果を倍増させる触媒として使われていたんじゃないか、とね」
ブルー・エンゼルで異常に鋭敏になった身体に投与される麻薬。それが三年前の事件の本質であり、そしてこの薬物の本当の目的が麻薬ではなくその前段階にあったのだとしたら。あるいは生き物の代謝、即ち成長を異常促進させる技術にこそ価値を見いだした者がいたとしたら。
「で、ブルー・エンゼルの正体が青い蝶の燐分ではなく、青い薔薇の花でもなく、熱を持った青い石でもなく、その青い色そのものにあるとしたらどうします?」
景明の言葉に、ネイは何も答えようとはしませんでした。満月の夜に青く光る、それは恐らく花粉でなく宙を漂う胞子である可能性が高かったでしょう。それが花弁に寄生する性質のある珍しい苔かカビの一種であり、満月の夜に胞子を飛ばす。その胞子をふんだんに浴びた蝶は夜空に青く輝き、撒き散らすその粉が人を虜にするのであったとすれば。そして撒き散らされた胞子が微量な熱を帯びていたとすれば。
であれば人目につく青い蝶を育てずとも、そのカビを栽培してその胞子を精製するだけで確実なブルー・エンゼルが手に入ることになる筈です。習慣性薬物などではなく、寧ろ生物の異常促進を促す物質としての真のブルー・エンゼルが。
「憶測が入っているのは認めます。ただ実際に食用魚類の養殖では巧くいったようですし、こいつに副作用も何もないことが証明できれば簡単に大量に魚肉を流通させることができる訳です。まあ汝鳥に住む人間としては実験台になるのは良い気分がしませんね」
「だが…所詮は憶測だろう!」
思わず、ネイは叫び声を上げていました。景明の話が事実であれば、何れにしても米国は全てを承知の上で汝鳥を実験場にしようとしていることになります。たとえ、それが法を犯していなかったとしても彼女の背負う旗が友人達を欺いていることには変わりがありません。正義と自由が旗を掲げる者のみにしか与えられぬのであれば、そんな旗には何の意味もありませんでした。ですが、聞きたくもない景明の話は容赦なく続けられてその説明は彼女の好まぬ方向へと進んで行きます。
「ネイさんには残念ですが、憶測なのは副作用云々のところだけです。実のところ米国のブルー・エンゼルへの関わりはもう内部告発で発覚しているんですよ」
「…………………………!!」
その強引さには内部でも反対があったのだろう、汝鳥への実験食品の流通を噂として外部に漏らしていたのは他ならぬ領事官の人間でした。だが扱いを誤れば米国にとっては外交上の致命的な失策となる、それを避けるには領事官の中で一部の人間が悪事を働いたに過ぎないということ、そしてそれをもみ消そうとせずに汝鳥の現地の人間と米国の人間とが手を組んでこれを解決すること、が条件となったのです。
「貴様等…全て承知の上で私を担ぎ上げたのか!」
「まさか、そこまで見くびらないで下さい。ネイさんに声を掛けた時はその辺の事情は知りませんでしたが、事がここに至って領事官側からこっそりと話が持ちかけられたんです。下町奉行所にある記録の話だってそれで知ったんですから」
「すまない…失言だった。だが…」
それはネイにしてみれば衝撃の大きい事実ばかりだったでしょう。領事官としては実際にどこまで関わっていたかはともかく、不祥事を最善の方法で始末したいようでした。そこでもみ消すのではなく汝鳥の奉行所に持ち込むことで、特定の犯人を吊し上げる方法を考えついたのでしょう。組織と組織とを結ぶ理屈だらけの関係、その不快さは単純明快を旨とする彼女には例えようもないものでした。
何れにしても米国領事官で起こした不祥事の後始末を着けるべき者は米国人しかおらず、割り切って考えるなら寧ろステイツの旗に泥を塗るが如し裏切り者を同胞の手で成敗してやるべきでした。そしてそれ以上に、ネイ・リファール個人としては友人達の住むこの町を侮辱した輩に拳の一発でもくれてやらねば彼女の気持ちが治まりません。
「分かった。ステイツの威信は私の手で守ってやる。読売!いい絵を見せてやるから付いてこい!」
「りょーかい。景気良く行こうぜ!」
汝鳥の憂さを晴らすの為の米国領事官突入。先頭にネイ・リファールを立てているとはいえ物騒な形相をした集団が敷地内に駆け込んでくるというのはただ事ではありませんでした。たとえその事情を領事官側が極秘裏に承知していたとしても、門前に立つ衛視にそんな事情が分かる筈もありません。
「ミス・リファール、お取り次ぎを…」
「邪魔だ!」
とネイが言う頃には衛視は殴り倒されてどうと地に伏していました。これ見よがしに銃砲を肩に担いだ芳房や、十手を振り回している篝が後に続きその後ろから吹雪と勇太朗が領事官に入ります。物々しい騒動は無論人目を集め、領事官の周りにはネイの討ち入りを見に野次馬達が集まり出します。文句無しの記事になりそうな派手な騒動に、手元の筆を滑らせながら付いていく二人の読売は言葉を交わします。
「基本的には出来ゲームの筈だよな?」
「領事官は絶対不介入だろ。ただ当事者がどうかは分かんねーぜ」
「確かに自棄になる可能性はあるな」
目指すは館内一室にいる貿易担当者、リファール商会への荷卸しを手がけていたあの大男です。高槻巌を打ち倒したあの男と本気で殴り合うのは正直勘弁してもらいたいところでしたが、彼等の意に反してその部屋にいたのは警護らしい男達だけでした。その男の顔を知っていたネイは、威圧的に叫びます。
「貿易官はどうした!答えろ」
「逃亡の用意は済んでいる。貴方達がここに留まってくれれば無事に逃げられるだろう」
その言葉と同時に、ネイ達の背後の扉に二人の男が立ちました。自分達が捕まる事を承知で示される忠誠心は讃うべきものでしたが、仲間を助ける為に自ら力を尽くす人間は汝鳥の町にもいるのです。威勢良く十手と縄を取り出した篝がいち早く、扉にいる男達に向かって走り出します。
「ちょっと待ったあ!お前等はワイが…あらら?」
瞬間、お約束事のようにつまづく篝。そのまま男達に向かってごろごろごろと転げると、三人まとめて解けない程に縄が絡み付いて動けなくなりました。呆気にとられる視線を後目に、ネイ達は篝と男達の情けない悲鳴を後にもと来た廊下を戻り始めます。
異人が逃げられる筈もない狭い汝鳥の町で、出来ゲームからの逃亡を試みているのであろう男を追う為に。
ですがネイ達が探している男は領事官の裏口から出たすぐの場所にある、人気のない林に立っていました。誰かを待っている、というのであれば彼の待ち人は目の前に高槻巌という名を持って立っています。あれほど強く地に打ち付けたにも関わらず、心身共に頑健なその男は怯む様子もなく男の前に立ちはだかっていました。
「旧い時代の男よ。俺を捕らえに来たのか?」
「少し違うな。直ぐに捕まるであろうお前と、その前にもう一度手合わせがしたい」
「…何故だ?お前は義理の為に戦うのだろう、汝鳥の者を助け俺を捕まえるのではないのか」
「俺も、所詮無頼の者であるらしい…お前がここで俺を待っていたのと同じだ」
その言葉に、大男は始めて口元に歪んだ笑みを浮かべました。自分の力を受けとめる相手がいない、平和なこの町は彼等にとって狭すぎる。だが世界は広く、人の種は様々であるのだ。
無言のまま姿勢を前傾に倒す大男に、腰を落として重心を低く構える巌。それは数日前と変わらぬ両者の対峙でした。裸足である巌の両足は地を掴むが如く大地に根を張り、踵を浮かせた大男の構えは獲物の動きに俊速で反応する獣が如き姿でした。
ずんっ・・・
瞬間、沈み込んだ巌が踏み込むと同時に肩口から相手にぶつかる一撃を、大男はこれを正面からずしりと受けとめて抱え込みます。以前と同じ、構えるが故にその動作を予測できる相撲の弱点を突いた戦いでした。
再びの勝利を確信した大男が巌を掴まえる両腕の指先を組もうとしたその瞬間、ですが抱えられた腕の中にいる巌は重心を落としたまま身体を捻ると肩口から肘までを大男の脇腹へ打ち込みます。
「!」
完全に密着した状態からの当て身で更に踏み込んだ巌はそのまま肘を上げて重心を浮かせると、大男の下に潜り込むようにして担ぎ上げました。当て身から掛け反り投げへの連携、限りなく実践的に変化させた相撲の技は巨体を宙に舞わせ、脳天から地へと打ち付けます。倒れた男の眼前に巌の固い掌が突き出され、そして勝負は決まりました。二人はそのままの姿勢で暫く動かず、やがて口を開いたのは地に倒れていた敗者の方でした。
「…安心した。人間は鍛錬のみでそこまで強くなれるのだな」
例え敬愛する国家が考え出した計画であったとしても、それを行き過ぎであると思い情報を読売に流したのは、自ら任務に携わっている大男自身でした。多少の脚色こそ加えましたが、噂が燃え広がって騒動となれば無謀な計画を進める訳にはいかなくなるし、進めたとしてもより以上の慎重さが求められるようになる筈です。彼自身を含む一部の人間による内部犯行であれば傷も少なく済むし、せいぜい商会が一つ潰れるか、不心得な領事官員が処分されるだけで解決します。
ただ彼自身に未練となって残っていたのが、格闘術を学びブルー・エンゼルの成長促進効果で肉体までを強化していた彼に正面から拳を交えんとした日本人の存在でした。薬に依らず自分を高揚させる男ともう一度拳を交える、ささやかな望みはどうやら彼にとって最上の形で果たされたようです。男は自分の知る限りの話を、自分を倒した男に伝えて満足気な顔を浮かべていました。
「誰かに言いたかった。一人で抱え込むにはデカイ秘密だ」
「だが、何故俺にそんな事を話す?」
「貴様は誰にも言わんだろう。この国では義理が人情に勝るらしいからな」
それで男は冗談を言っているつもりのようでした。ですが、彼が拳で戦う者同士の義理を巌に感じていたことだけは間違いがなく、巌にも自分に高揚感を与えた目の前の男を裏切る理由はありません。後はその場でただ待ち続け、自国の悪を正そうとする米国の娘が駆け出してくるのを待つだけでした。
米国本土で養殖の試験中であった鮮魚類を違法に持ち出し、汝鳥の地で流通させようとした。その咎によって捕まった男達が本国への強制送還処分だけで済んだのは双方が外交関係を考慮した為と、そして実際にその荷は流通せず人々に害が及ぶことも無かったからだったのでしょう。人々の苦情を受けたスネル&リファール商会汝鳥営業所の女当主が自ら領事官に乗り込んで、自国の過ちを弾劾したということも、人々に好印象を与える上で大きな効果があったに違いありません。
米国の商品そのものに対する不信感こそ確かに残ってしまったものの、彼女が監督しているならと米国の流通そのものが信頼を失うことはなく気が付けば何事もなかったかのように今日も汝鳥の町では活発な交易が行われているのでした。そしてその結末には一部の読売が介在していたことも事実でしたが。
「あー。ポリシーに反する事をした」
鴨川に停泊する船を眺めながら酒瓶を杯に傾けていた吹雪は、不満気に息を吐き出しました。早い時間の酌を一緒に交わしていた勇太朗は同業者の心情を理解しつつ、不満は酒で流してしまうに限るとばかりに杯を飲み干します。
今回の事件に関連して、吹雪達が知っている事を包み隠さず全て載せれば米国は多大な信頼を失うことになるでしょう。事実と真実が見えない以上、米国本土や領事官に対する不信感は増大するに違い有りません。ですが、彼等が書いたことは彼等が書くことのできた範囲での出来事だけでした。
「別に嘘書いた訳じゃねーだろ。事実の分からん事を憶測で書くのは俺達が一番やっちゃいけねーことだぜ」
「わーってるよ。ただ…」
商会の宣伝をしただけで終わったような気がすること、そして何より事実の分からん事が残っているのが気に入らない。その悔しさは読売としてはごく自然な心情です。例え、結果として自分の記事が景気良く売れていたのだとしても。
「オトナの世界はままならないもんさ。だから俺たちゃ酒を飲むんだ」
米国領事官は違法な荷の持ち込みを行おうとして、一部の館員の強制送還を決定しました。それは米国貿易の大きな失点となった一方で、事の解決に尽力したスネル&リファール商会は信頼という名の株の価値を大きく上げることにもなりました。自ら事を解決する能力を持つと思われたことは長期的に見て寧ろ上々の結果だと言えるかもしれませんし、読売は一段と情報の有益さと恐ろしさとを知りうる機会を得て、そして汝鳥の人々は異人が本質において未だ自分達と異であることを認めながらも、その存在に慣れようとして彼等との交易を続けています。そうして人は不安と時に混乱を呼び入れながらも、興味と活況とを手に掲げて新しい開かれた道へと進もうとしているのでした。
ただ、旧い心を持つ男が拳をもって戦い、その戦った相手を失ったことを知るものは殆どいませんでした。
おしまい