汝発つ鳥の如く 後六


 京都洛中、汝鳥の町。鴨川を登った内陸にあるその町は、数年前より外国人に解放されている港町となっていました。川上に設けられている小さな港には商船が渡来して舶来の文化と商品と、そして舶来の異人とをこの町にもたらしているのです。活況と混沌とを得て、旧来の文化は変化しそれが汝鳥の文化として息づいていました。
 三年前、異国の祭りの最中に起きた汝鳥の大火を始め、最近でも米国領事官で起きた薬害騒動など外来文化の流入による混沌は既に日常茶飯事となっています。そして髪や肌や瞳の色が異なる人間が往来を行き交っていてもそれは自然な、当然な事であり、彼等が陽気にこの町に持ち込んでくる噂話や商品はいつも人を飽きさせる事がありません。中には舶来の享楽的な嗜好に眉を潜める良識人も多くいましたけれど、それは国を問わずに存在する筈でしたし旧来の文化が質実剛健に根付いているのであれば、横凪ぎの風で幹が倒れるような事はない筈です。例えば、伝統ある力士の力と技もその一つであったのでしょうか。

「なあ力士のオッチャン。旅に出るって本当か?」

 笠松兵助は外見も内面も未だ小生意気な童子でしたが、童子なりに彼の信じる意志を持っているという事では他の大人と変わるところはありません。三年前の大火の折り、今以上に幼かった自分を救ってくれた強き人に憧れた彼にとって、強くなる事は今は旅に出て帰らぬその恩人の背を追う事でした。兵助が汝鳥を訪れた時、多くの者がその姿を兵衛に似ていると思い、実の子ではないかと訝ったのも無理はありません。恩義ある人の姿に理想を見て、童子がその姿を真似る事に何の不思議があったでしょうか。
 兵助の真摯な視線の先にいた高槻巌は四股名を巌山とも呼ばれる力士であり、童子の目にその巨躯は正しく強さの象徴のように見えていたかもしれません。その腕は引き締まっているにも関わらず大樹のように太く、重い突きの一撃は岩盤のような、と言われる白河屋の豆腐塊をすら砕くと言われているのです。

「ああ。近いうちにな」
「ずりいよ、オイラに格闘を教えてくれるって言ったじゃねーか」

 思い立って巌に技の伝授を頼み頭を下げた兵助に、その豪快な突きの一つを教えるでもなく目の前の力士は旅に出ると言うのです。童子としては約束を反故にされるかのような不快さを感じるのもやむなしではあったでしょう。弟子入りを志願したばかりの兵助に巌が教えたのは一つの歩法だけでした。一足ごとに重心を落とす、足は地を掴み決して離さぬ事。その歩法を飽きずに数日繰り返させられているだけでは、楽しかろう筈もありません。
 無論、その基礎となる歩法の一つが如何に大切であるかは今更語るに及ばないのですが、巌はそれを敢えて童子に伝えようとはしませんでしたし、不承不承ながら兵助も教えられた歩法の鍛錬を欠かす事はありませんでした。

 三年前の汝鳥の大火。その時に町を、人を救う為に奔走した多くの者がいましたが、笠松兵助の恩人である兵衛や、その相方であった九重かがり等といった岡っ引きの存在を欠かす事は恐らくできなかったでしょう。民草に最も近しく接する者がその為に身を賭するのは自然な事でした。文字どおり七転八倒しながらも汝鳥を救おうとした彼等、今ではかがりは九重篝として異性を装い、町の同心として変わらず汝鳥を見ていましたし兵衛は姿を消し旅に出てはいましたが、その古き思いが恐らくこの町の上にあるのだろう事は疑いありません。

「君が言った通りだ。俺もまた修行中の身だからな」
「まあ、オッチャンの事はオッチャンが決めりゃいいけどさ」

 いずれ旅の空の下にいる兵衛と会う時が、巌にも兵助にも来るであろう。別れた友と出会う時に、自らに恥じぬ者でありたい。それは彼等が鍛錬を積む充分な理由たりえました。

 足は地を掴み決して離さず、
 一足ごとに…重心を落とす。

 巌が一足を落とすごとに、草が揺れ葉が散るかに兵助には見えました。目指すべきその姿を見て、兵助は町中の私塾で教わった数えを越える程の足を汝鳥の土に踏み込んでいます。桜舞う季節の折り、川原沿いの並木が風に揺れていました。

「…以上、青キ粉ヲ違法ニ頼ミ受ケシ好事家ノ名書キヲ以テ報告ヲ締メン、と」

 九重篝がわざわざ男装をしてまで、汝鳥の同心として居る理由を問うことに然程の意味はなかったでしょう。恐らくは大火の混乱により、本来女性であるかがりになれる筈もない同心への転属の令が来たとき、彼女はその誤りを敢えて正そうとはしませんでした。篝は職務の間だけの「彼」の名前であり、少なくともそれで困る者はどこにもいませんでしたから誰も指摘をする事はありませんでした。岡っ引きの時代より、かがりは頼りないながらも好かれつつこの町と人とを見てきたのですから。
 そんな篝でしたが、ですが頼りないながらも記録だけであれば彼は相応に優秀な人のようには見えました。何しろ三年前の大火でも火災の中で人助けに尽力し、最近では米国領事館員が行っていた不正な商取引の摘発に貢献しており、一介の町同心がこのような功を立てる事そのものが珍しい事ではあったのです。もっとも大火の折りでは同僚の、先の領事館員の摘発では民間の協力者の存在が不可欠、というより寧ろ彼等が主ではありました。篝自身は御上にその報告をしただけだと思っていたしそれは事実に近かったでしょうけれど、少なくとも彼の管轄でそのような取り締まりが行われたということもまた事実だったのです。

「兎小屋やら青い粉やら、余所さんからの事件が絶えへんなあ」

 それは汝鳥に住む者の共通した感慨だったでしょう。兎小屋と呼ばれる米国歓楽街風の酒場は風俗を乱すと言われてはいましたが、港の商人が集まる場所となり今回の事件で内密の談合が行われた場所となった事が良識派の眉を大きく潜めさせる理由となりました。摘発、とまでは行かなくても多少の勧告は入らざるを得ず、運営しているリファール商会としては米国の騒動と合わせて泣き面に蜂だったでしょう。
 開国よりこの方、異国絡みの事件はどこでも後を絶ちませんでしたし、ここ汝鳥の町はそれを真っ先に受けとめる立場にある場所の一つでした。ですが篝は汝鳥を訪れている多くの異人達と既に知り合いになっていましたし、多くの友人もいましたから、もめ事の多少によってそれが友人を嫌う理由にはなりませんでした。番所の外に見える、鴨川の川原に沿った桜の並木。その変わらぬ穏やかさを見て意味もなくため息をひとつついた篝の耳に、聞き慣れた童子の声が流れ込んで来ました。

「篝のオバチャン、ため息ついてないで報告書は終わったんかい?」
「なんや兵助、偉そに言うなら字の一つでも多く覚えとけ」

 男装の篝にとってオバチャンという呼び名は二重の意味で不本意でしたが、目の前の童子が今更それを改める事がないことは充分承知しています。篝が聞いたのはその後のリファール商会の様子で、同心手伝い兵助、自称では篝の上司である汝鳥奉行様に町の見回りをしてもらう事が日課となっていました。

「相変わらず元気だぜー、メリケンのオバチャンが元気の無い時って見た事がないけどさ」
「そうか、そんならええわ」

 スネル&リファール商会汝鳥営業所、通称リファール商会の代表であるネイ・リファールは今回の騒動で著しく評判を落とした米国人達の中で、何とか良識派としての威信を保つのに成功していた一人でした。それは彼女が自ら領事官に踏み込んで悪事を取り締まった、その無鉄砲な正直さが好感を持たれたという事でしたが、リファール商会の代表としては個人の評判以上に商会の評判と売り上げとを気にせずにはいられません。何しろ米国商品の値が崩れて、更に彼女が資本投下している兎小屋にまで取り締まりが入ったとあっては、帳簿を見て悲鳴を上げているに違いないでしょうから。
 それでも兵助の曰く、そのネイに元気があるという事は商会立て直しの手管があるのか単に何も考えずに楽天的なのか、或いは後者かもしれませんが力が必要な時は悲観よりも楽観にこそそのエネルギーは秘められているのです。

「そや、さっき茶屋から饅頭頂いたんや。せっかくやから商会にお裾分けしてきてくれへんか?」

 上司を顎でこき使うとは同心の風上にも置けませんが、その饅頭の一部を受け取る事で手を打った兵助は再びリファール商会の暖簾をくぐりました。領事館員の不正やらに関連して人手が大幅に減っている事もあり、商会は他人が思っている以上に慌ただしい忙しさに包まれています。代表のネイにしてもその例外ではなく、部下に任せきりで何も考えていないと酷評されていた米国の娘も書類の決済に精を出していました。

「今まではやっていなかったのだがな。面倒だが奉行所からの勧告では仕方有るまい」
「良くそれで保ってたねぇ」

 カッターシャツに化粧気の無い、ラフな格好をした商会の代表は経営までもラフに行っていたらしく、今回の取り締まりで代表らしい仕事が増えた事を不本意に思っているように兵助の目には映ります。確かにネイが自分の商会に居た記憶というものは殆どなく、大抵は市井を見ると町中をうろつきまわっては友人と立ち話に興じている、そんな姿しか思い浮かびません。机にかじり付いての事務仕事は誰かに任せていたのだろうと思いきや、誰にも任せていなかったのだとすればラフを通り越してずさんに過ぎるでしょう。
 兵助からの差し入れに礼を言うと、ステイツ産の大量生産の珈琲をカップに注ぎ、ネイは長い休憩を取る事に決めました。事件の事後処理も含めて世話になった奉行所からの使いに礼を失する訳にはいかぬ、というのが彼女の主張でしたが単純に差し入れの誘惑が仕事への飽きに勝ったというのがその理由だったでしょう。待ってましたとばかりに手にしていた包みを開くと、兵助は一足先に固めの応接椅子に跳び乗りました。

「そういえば、巌山にレスリングを教わっているらしいな」
「エスレンゲとかいうのは知らんが習ってるぜ」

 ネイにとっては巌も先の事件で協力をしてもらった一人でしたし、無論感謝の気を持っていました。それは巌にというより寧ろ助けてもらった汝鳥の町に対する感謝であったかもしれず、ステイツの旗一辺倒であった彼女がこの地にもう一つの拠り所を見いだした、その事を示していたのかもしれません。だとすれば異国の商人であるネイ自身にとってそれは革命的な成長を意味していたのでしょうか。
 ステイツの旗は自分達が自由を掲げた旗であり、米国人であればそれに尽くすのは当然の事でした。ですが、汝鳥の町に自分が尽くす事には義務も権利も関係がなく、自由の代わりに感謝という形のない報酬を受け取る事が叶うのです。そして俗物的な儲けではない、目には見えぬ報酬は確かに異国の商人を駆り立てる原動力の一つとなっていました。開拓民の末裔として、フロンティア・スピリットは金銭に依らず得られるものだったのです。

 珈琲と饅頭を胃袋に収め、彼等は立ち上がると商会を出ました。決して広くはない町で、礼を言う為に大通りを挟んだ番所に行くくらいは大した時間ではありませんでしたし、何よりも充分な休息は充分な活動を行う為には不可欠です。ネイ・リファールのその時間は決して短いものではありませんでしたが、以前に比べて長くはなくなっていました。何しろステイツの旗と汝鳥の町と、両方を背負ったリファール商会代表としての仕事が彼女には待っているのですから。

「そんな大仰なモンかよ」
「大仰なものなのだ」

 小柄で小生意気な童子と、御意見無用の米国娘の二人が汝鳥の大通りを歩いているというのは、それなりに物珍しい光景ではあったかもしれません。道行く人がリファール商会代表に気安く声をかけるというのも、生来の彼女の人徳故かもしれませんでした。

「相変わらず油売ってマスね」
「休憩中だ。英国人の癖にゆとりという言葉も知らんのか」

 英国商人のウィリアム・G・ラインバーグが、ネイに対してはいつも口が悪くなるというのは悪意のない噂の種となっています。喧嘩する程仲がよい、とは言いますがそれにしては売買される喧嘩の質はリアルに過ぎるものだったでしょう。口喧嘩は時として米国側からの一方的な暴力沙汰となって終わる例すらありましたが、お互いが懲りる様子もなくその日も彼等なりの挨拶が交わされていました。

「まあいいデス。それより景気はどうデスか?」
「貴様に関係があるのか?」
「大いにありマス。こないだの援助忘れたワケじゃないデショーね」
「くっ…」

 彼女にとっては不本意な事に、先だっての事件でラインバーグが解決に多少の、ネイ曰く本当に少しだけの助けを受けていた事は事実でした。更にその後の商会の立て直しでも、商人であるラインバーグの意見や助力により多少、ネイ曰く本当の本当に多少だけ助かった事も事実でした。恩義に厚い米国商人であるネイとしては、相手が嫌いな英国人だからと言って恩を無視するような不義理はできません。

「少しだけだ。老人に知恵を借りるのも大切な事だからな」
「するとアタシはリファール商会の顧問役デスかね?」
「やかましいっ!」

 明らかに、ラインバーグは未だ未熟な商会代表の娘との会話を楽しんでいるようでした。楽しまれる方としてはたまったものではないのかもしれませんが、兵助が童子の目で見る限りではその息はずいぶんと合っているように見えたことでしょう。

「貴様そこに直れっ!」
「暴力は反対デスねー」

 ぶんっ、と空を切るネイの拳とそれを避けるラインバーグ。ですがバランスを崩したのか、足をもつれさせるとふらりと兵助の方に倒れかかります。反射的にそれをうけとめようとする兵助に、童子の力では些か危なっかしいかと思われましたが、

 がしっ

と軽く踏ん張った童子は両の腕で英国人の身体を受けとめてしまいました。何事も無くネイもラインバーグも何事にも気付かず、すみませんデスと童子に詫びを入れてから喧嘩の続きを始めましたが、兵助の頭には何やら閃く事がありました。

「オッチャンオバチャンすまねぇ!今日はこれで失礼するぜ!」

 呼び名への抗議を聞き流しながら、兵助は彼の師がいつもの鍛錬をしているであろう神社の境内へと走り出しました。鴨川沿いの川原には、桜の並木が花びらを童子の肩や頭へと降らせています。

 兵助が予想した通り、巌は神社の境内で歩法の鍛錬をしていました。その型は彼が童子に教えたものと寸分違いが無く、ですがその重さも深さも、その力強さもまるで違っています。踏みしめる足は地をえぐり葉を舞わせ、その一足ごとに地面に散らばっていた桜の花びらが舞い上がっていました。正中の構えから足は地を掴み決して離さず、重心を深く落とす。

 ずんっ・・・

 舞い上がる桜の花びら、そこに分け入るように童子が駆け込んできました。既に十年近く、日々欠かした事が無いであろう師の一足は、弟子が一日に踏んでいるであろう回数よりも更に多く地をえぐっているに違いありません。

「オッチャン!一撃だけ受けてくれないかい?」

 弟子の真摯な瞳に巌は無言で頷くと、正面を向いて軽く腰を落とします。兵助は呼吸を整え、師の教えを思い出すかのように目を閉じ、一息すってから目を開くと確かな足どりで巌の懐に歩み入りました。
 その歩法があらゆる技の礎である。故にあらゆる技をこの歩法に乗せる。伸ばした腕を乗せればそれが突きになるし、構えた肘であれば、突き出した膝であればそれが技になる。重心を乗せた力そのものをぶつける技が巌の術でした。兵助は巌の懐深くに一足を踏み込み、その足で地を掴むと肩口から肘を構え重心を深く落としました。

 ばしっ・・・

 間違いなく重さが込められた音が境内に響き、それは師の頑健な腹筋を破るには遥か遠いながらも巌の頬をほころばせます。正しき型が分かれば、己の鍛錬がそのまま力として技の威力に反映される。そして正しき型もまた自らの手で掴み取るものでした。両の足で強く掴んで離さぬ地面のように。

「まずは自らを学べ
 そして師父に学べ
 最後に他人と学べ
 それが鍛錬である」

 かつて、高槻巌が父から授かった言葉。与えられた方法でのみ餌を穫るのではなく、まずは己の力を知り、己の手で技を得る事によってそれが礎となる。高槻流古武術の門下では頂肘と呼ばれるこの技は、同時に兵助自身が編み出した笠松流の技でもあるのです。

 それが、師の最初の教えでした。

 頑健な巨躯を包む着慣れた厚手の和装。風の吹き抜ける小高い丘にある、街道沿いの桜の木に囲われた空き地で、高槻巌は眼下に広がる街並みを見下ろしていました。男子十五にして一人発ち、五年以上の後に京都洛中の町を訪れた彼はそこで数年の時を過ごすとまた無頼の旅に出ようとしていました。幼い頃から鍛錬を続けてきた高槻流古武術の技と、旅先での鍛錬に加えてこの町で力士として身に付けた技、そして異人がもたらした広い世界の知識が無頼の好漢に如何なる力を与えたのでしょうか。そして幾人か、彼の教えを受けた者達もまた自らの導に従い、いずれ一人発つ時が来るのでしょう。

「汝発つ、その時まで壮健なれ」

 呟くと巌はぼろぼろの風呂敷に包んだ簡素な荷物をかついで立ち上がり、その空き地を後にしました。暫くは上手い飯を忘れ、屋根の無い暮らしが彼を待っている。それも悪くはないと巌は足どりを早め汝鳥の町を後にしました。

おしまい


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