非常扉を開けるたびに.一
東京都汝鳥市。関東平野にある郊外の町、そのはずれには百年も前の維新の時代から更に古く続いている由緒ある神社の境内、しめ縄を巻かれた一本の大樹が立っています。齢千年以上を閲しているであろう、神木は古くから東汝鳥の地に住まうものであり、この地を見つづけているものでした。昔からこの地に棲んでいた人なるものたち、そして、それと共に住まう人ならざるものどもの一つ一つの営みを彼は知っています。
汝鳥にある学園に向かう道、境内の横を通る新緑のゆるい坂道を歩いていた一人の少女は、ひとつ息を吸い込むと瑞々しい肺腑を木々の息吹で満たしました。一拍とめて、ゆっくりと吐き出す。清爽な日差しが制服を包んでいる始業前の時刻、少女の歩みは常と変わることはありませんが、毎朝木々の生命を感じとり風の音に耳を傾けることは幼いころから彼女の日課になっています。つややかな黒い髪を二本後ろで束ね、凛とした表情は真面目そうにもいささか気が強そうにも見えました。
「あれは・・・」
ふと、覚えた違和感につぶやく少女。清爽な生命の気配にまじって流れてくる、異なるものの吐息。少女がそれを敏感に感じえたのは彼女の家系の故か、それとも幼い頃からの鍛錬の故であったのかは分かりません。彼女の祖父は維新の時代に神前で奉納の戦いを行う力士であったと言われており、今でも広い家には小さな道場が構えられていて、その技を源流とした武道の師範として幾人かの門下の者たちに教えを与えています。旧家に生まれ、厳格な祖父や家族のもとで礼儀正しくおとなしやかな娘として育てられていた筈の少女は、両親の目を盗んでは祖父に稽古をつけてもらうような、そんな一面も持っていました。
首をめぐらせると、異なる吐息の気配を探す少女。すこしだけ、神社の敷地に立ち入った木の幹を這うように小さな蜥蜴のような、虫のような生き物が貼り付いていました。もしもこの世で、十本の足をもつ虫や蜥蜴を生き物と呼ぶというのであれば。
「古い土の蟲よ、ここはあなたの世ではないのよ。あなたの家にお帰りなさい」
どこか哀れむように、それに語りかけるとすぅと息を吸って右の掌をかざす少女。軽く上げると手首に左の掌を当てて鋭く振り下ろし、ぱんと幹を叩くとそれは煙のようにかき消えてしまいました。
物語や文献の中で、妖怪とか精霊と呼ばれているもの。いわゆる化け物の類。人よりも古くから存在するそうしたものたちが多く住まう町、それが彼女の住んでいるこの汝鳥の町でした。それらの多くは人間にとって非力で無害なものでしたが、いずれ放置して大きくなればその力自体が人に、人の社会に害をもたらすものとなってしまいます。それは人の手によって一面を舗装されてしまったこの世界が、化け物たちにとってどれだけ居心地の悪い場所であるかということであるのかもしれません。
そうした「迷い子」たちを本来あるべき場所に帰すことが、少女のもうひとつの日常となっていました。より強靭な力を持つ化け物を帰すには相応の人と力とが必要になりますが、小さな化け物を無害なうちに帰すことは多少の才ある者には難しいこととされてはいません。消された土の蟲は消え去ってしまったわけではなく、この世にあるべき力を失ってそのにおいは足下の土の中へと戻ります。妖怪や化け物が死ぬことはなく、古い木々の根にある古い土が化け物をうみだしたのであれば、彼らはそこに戻りいずれまた生まれてくるだけなのでしょう。
妖怪や精霊、化け物が住まう汝鳥の町。それらはどのような場所にでも、古い木々の根元からでも、苔むした大きな岩からでも、深夜の住宅地の路地裏の影からでも、繁華街のベンチで寝入った人の心からでも異形の姿を現します。彼らの生まれに相応しい姿と力を持って。
汝鳥の町に混乱と騒動が増えるのであれば、それはこの町に住まう者たちの責任であるに違いありません。少女は背負っていた学生鞄をかつぎなおし、ふぅと息を整えると顔を上げました。木々の向こうにはこの神社の神木である一本の大樹がそびえ立っており、はるか昔から変わらぬ姿で少女と汝鳥の町とを見下ろしています。
その神木はこれからもこの町を見守ってくれるのであろうか。いささか迷信的な不安に囚われつつ、少女は学園への道を早足で歩き出しました。
少女の名前は、高槻春菜と言います。
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