非常扉を開けるたびに.二
東京都汝鳥市。齢一千年を数えるという神木の祭られた神社のふもとに位置するその町は、妖怪とか精霊とか呼ばれる異形のものたち、化け物が棲まう土地でした。人の築き上げた世界に暮らしている人ならざるものたちの存在、それは幾たびか揉めごとの原因となっては人自身の手を煩わせることでようやく収められていましたが、皮肉な因果に疑問を呈する者もまた人の中にしか存在しなかったのです。
「無知なる者、その名は人なり」
まさしく人の世にあって、他者と通じることが出来ぬ唯一の救いがたい存在が人であるというこの世界で、それでも人は自分たちなりの手法で多くの揉めごとや困難を克服してきました。その中でも最も短絡的で最も愚かな者たち、すなわち物理的な力による解決を望んだ者たちの内、ある者は剣を用い、またある者は術を使って化け物どもを追い払っています。
近代化されたこの世界で彼らの存在は公然なものではなく、多くの人はその存在を知ることすらありませんでしたが、非公然な筈の化け物や異形のものたちの存在は多くの人が認めずとも知っていました。暗闇を恐れる心、災いを占う心、自然や偶然という名の存在に抱く畏敬の思い。それは人の精神の底辺に確かに存在しており、であればこそ人の中にはその心を力にして、化け物や異形のものと争うことができる者もいたのでしょうから。
化け物や異形のものと争う、妖怪バスターとも呼ばれている非公然の存在の中で、それを手伝っている年若い学生たちの存在がありました。彼らの多くは素養がある者の中から選び出された者たちであり、私立高校汝鳥学園にはそうした化け物退治を生業とする、妖怪バスター予備軍としての活動を行っている集団がありました。学園の中で彼らは剣術研究会とオカルト・ミステリー倶楽部という、二つの名に分かれています。
化け物を封じる技術と手法を追求する剣術研究会と、化け物の存在を探求して許容することを理想としたオカルト・ミステリー倶楽部の両者は決して懇意ではありませんでしたが、それは伝統的な組織同士の対立にすぎず、同じ学園内でそれぞれの倶楽部に属している学生たちが必ずしも対立していたり険悪な関係になるとは限りません。両者は互いの力と知識を必要とすることが多く、時に手を貸し合いながら共存しているのが常であってであればこそ異なる視点を持つ互いが存在することができるのです。とはいえ、彼ら個人であれば人ならぬ異形のものたちについてどのような思いを抱くかは人によって違いがあり、むしろ組織によって主戦派と穏健派の二つに分かれるような簡単なものでもありませんでした。
剣術研究会に所属する、今年の新入生である高槻春菜は汝鳥市の旧家に生まれ、幼い頃より厳格な礼節と作法の中で育ってきた少女でした。清爽とした細身の姿に、黒髪を二本結んだ姿はごくありきたりな少女のものであって、そのような彼女がなぜ剣術研究会などに入っているのかは周囲のたいていの者にとっては理解しがたいことであったし、研究会の生業を理解している少数の者にとっても同様だったでしょう。新入生ということもあってか、これまで彼女がそうした化け物退治のような荒事に加えられることはまだ数度しかありませんでしたが、家柄のせいか拙いながらも剣道を嗜み、竹刀を構える少女の凛とした姿は時としてそれを理解させうる説得力を持っています。
すぅ・・・・・・
深くひといきを吸ってから、一拍して止める。竹刀を構えている細やかな身体は自然な力で周囲の空気に一体となって溶け込んでいるように見えました。古来より、この国では武道であれ茶道であれ華道であっても、その型のみではなく心を正しく保つことを旨としています。幼い頃から家で茶道や華道、書道までを習っていた春菜は平静な心で型を保つ術を心得ており、自然ならざる化け物を打ち据えるに頑健な精神が優れた太刀筋に勝ることを知っている者たちは、彼女が異形のものと関わる理由を理解していました。
すぱんっ
素人然とした春菜の太刀が、幼い頃より鍛えられた頑健な精神によって振り下ろされるときそれは力任せの一撃に勝ります。拙い技が異形のものを退治する力として認められる彼女の素養が、ですが茶道でも華道でも書道でも、そのいずれでもないことを知っている者は決して多くはありませんでした。
「自然ならざるものは、あるべき場所に還してあげるべきだと思います」
控えめな口調で、ですがどこか侵しがたい強さを感じさせる声で言うそれが春菜の主張です。人の世にあることがすでに不幸であるのならば、それを還すことは人の世をつくりあげた人の役割であろうと思うからこそ。
鴉取真琴。春菜と同年の新入生で、同じく汝鳥の旧家に生を受けていた彼女は長い黒髪に白い肌が映える、一般に清楚なお嬢様と言われて思い描かれるような外見をした少女です。その真琴もまた、春菜と同様に剣術研究会に所属しているというのは周囲のたいていの人間に眉をひそめさせるだけではなく、研究会の生業を理解している少数の者たちにも首を傾げさせる事実でした。
彼女もまた春菜と同じように幼い頃から華道と嗜んでおり、その健常な心が異形のものを打つだけの力を秘めていることは疑いありません。それでも一見しておとなしやかな旧家の少女二人が化け物退治に携わっているという、その事実はたいていの人の想像を超えていたでしょう。高価な衣服や装飾品で着飾らずとも、ありていに言ってそこらの同級生たちと変わらぬ姿をしていようとも、十数年も培われてきた礼節や作法、立ち居振る舞いや品性といったものはそれを知らぬ人の目にも映るものでした。
地元の有力者の娘である真琴や春菜を、異形のものを退治する組織として発言力と影響力を増すためにも剣術研究会が勧誘したのだ、とは人目をはばかって囁かれている無責任な噂でしたが存外、そのような一面が存在していたかもしれません。真琴が剣術研究会に入ると聞いて、依然からの知り合いであった春菜も入会したという事情はそれを知る者にとっては更になっとくがしがたい思いを抱かせるに充分でした。
「まったく、お嬢様の遊びに付き合う羽目になるとはねえ」
冬真吹雪の言葉には少女たちへの遠慮も配慮もありませんが、当人たちを前に言葉を飾りも隠しもしないことはいっそ誠実であるのかもしれず、春菜も真琴も小さく苦笑します。無造作に一本しばった黒髪に、どこか青みがかった瞳が印象的な吹雪は少女たちと同年の新入生であり、やはり素養ある者として剣術研究会の門を潜ることになった一人です。深窓のお嬢様を守って化け物退治をするのだ、と言われれば悪くない気がすることも確かですが、好奇心と探求心の強い少年としては常人が見ることのできぬ世界に足を踏み入れることを許された者として、余計な足手まといにもなりそうな娘たちの存在など丁重に無視してしまいたいというのが本音だったでしょう。
とはいえ素養には個人差があり、異形のものたちの存在を見ることができるようになってまだ間もない吹雪が一人で彼の興味を追いかけることができよう筈もなく、幼い頃より精神の修練を積んでいる真琴や拙くとも剣道を嗜んでいる春菜の存在は研究会の中では吹雪と大きく変わるものではありません。自分の身を守らせるくらいはできるだろう、というのが彼ら新入生に対する最大限に好意的な評価でした。
◇
かずらの怪。古い木に巻き付いた蔦が、その木の古い心を糧として現れる異形の存在であるとされています。古くは森や林の暗がりに潜み、木々の様相を変えることで足を踏み入れた人を道に迷わせたり、あるいはより積極的な悪意をもつ怪であれば絡みついたり足をすくうとも言われています。
それは先日拡張された汝鳥公園の一角に新しく植えられた木に宿っており、公園開きに神主を呼んだときに見つけられたものでした。このような怪は大きくなってより力を得ると、より悪質になって恐ろしい手管で人を襲うようになりますから、小さいうちに追い払ってしまうのが良いとされています。公共の場所でのことであり、この程度の化け物退治ならば本格的な化け物退治の組織でなくとも、その予備軍である汝鳥学園の生徒たちにボランティアとして頼まれるのも常でした。
「長きを打つには先と根を同時に打つ。言っただろう」
「えーえー、分かってますよ!」
人払いの陣の中で、オカルト・ミステリー倶楽部に所属している柚木塔子が剣術研究会の吹雪に指示を出している様子は珍しい光景に見えるかもしれませんが、両倶楽部の関係と先輩と後輩としての間柄を考えれば決して奇妙なものではありません。こうした化け物退治の話はオカルト・ミステリー倶楽部と剣術研究会の双方に打診されるのが常であり、ことに大それた難題でないのであればなおのこと経験の浅い新人が送り出されることもありえる話ではあったでしょう。
とはいえ彼らだけでは物事を解決するには不安が大きいことを考えて、今回オカルト・ミステリー倶楽部からは二年生の塔子がリーダーとして他の新人を率い、剣術研究会では吹雪に春菜、真琴たちもその塔子の指示に従って動くことになったようです。双方の顧問はといえば乱暴な剣術莫迦どもを暴走させないようにとか、頭でっかちのオカルト信者たちに実力を見せてこいといった指示が与えられてはいたようですが、それを聞き流す冷静さもリーダーの塔子には求められています。
いずれにしても、素養や才能の有無以上に経験に不足している少年や少女たちにとって仲間同士の連携を実現するための指示は必要であり、彼らが存分に力をふるう采配は不可欠でした。異形のものが知能をほとんど有していない、植物の怪であれば追い払うのが解決への早い道筋であり、塔子としては滅ぼしてもよいしあるいは倒した上で、どこぞの山中に捨ててきても構いません。植物の怪は草木の少ない、人と接したときにはじめて人を排斥すべきものとして判断するのですから。
蔦が思わぬ方向に広がらないように、あらかじめ塔子が陣を張っておく。それを補うのにオカルト・ミステリー倶楽部の新人である多賀野瑠璃が呪符を貼り、真琴はサポートとして後方に控えた上で吹雪と春菜が怪を退治する。春菜は後ろで牽制しながら吹雪がしとめるという分担でこの程度の怪はしずめることができるだろうと塔子は考えていましたが、戦術を活かすには兵士の実力が問われることもまた事実です。
「せ、せんぱーい。符が湿って破れちゃいました」
「あーもう、寄んなこのツタツタツタぁ!」
などと右往左往している後輩たちの姿を見ていると、自分も「小学生」の頃はああだったろうかと塔子は細い指先でこめかみを抑えながら思います。一見、細く見えて重い力を持っている筈の吹雪は太刀を構える前にしなやかなツタにあしらわれており、瑠璃にいたっては何もしない前から戦線離脱をしている有り様であってこれでは「連れてこさせられた」汝鳥旧家のお嬢様二人など危なくて使えたものではありません。それでも時間と忍耐を費やして、ようやく吹雪の太刀がツタを捌いてから露出した幹に重い一撃を加えると、同時に塔子が張っていた陣を囲うことで異形のものをまるごと捕らえることができました。
「まったく、こんなに手間取るとはな」
「すみませーん」
何度も頭を下げている瑠璃に毒気を抜かれたような視線を向けると、塔子は封じた怪にあらためて符を貼ります。あとは汝鳥市の関係者に回収してもらえば依頼は完了となりますが、一連の様子を見守っていた真琴が尋ねるように口を開きました。
「植物の怪というものは、根を張っているとそこから広がって厄介なのではありませんか?」
「蔓植物は根からではなくツタを伸ばして広がるから大丈夫よ。その為のツタなんですから」
答えたのは塔子ではなく春菜でした。その様子に二人ともどうやら勉強くらいはしているらしい、と塔子は控えめに少女たちを評価します。異形のものはそのもとになった存在の特性を引き継ぐ特徴があり、かずらの怪はかずらが持つ特性を逸脱することができません。自然ならざるものであっても、それは間違いなく自然から生み出されたものなのです。
かんたんな任務を終えて、かんたんな説明をした塔子は使った陣を片づけるように言いましたが、彼女らしからぬ失念をしていたことは後日の小さな後悔の種になりました。生まれた異形のものには特徴があり、そして異形のものが生まれるにいたった原因もまたあったのだということを。
◇
それから二日の後、慌てた素振りで汝鳥学園の廊下を走っている吹雪の姿を見とがめた塔子は声をかけました。剣術研究会に所属すると同時に新聞部員でもある少年は、先のかずらの怪物を退治した後で事件の背景を追いかけていたのですが、公園に移植された木、かずらの怪に巻きつかれていたその木は汝鳥市内のとある地主が古い山から移植した一本であったということでした。おそらくは住処を移された異形のものが腹を立てて力を得たのではないか、それが事件の顛末であって塔子もそれは知っています。
「なんでも宅地を造成するために崩した土地があって、そこにあった木を切り倒すのも何だからってことで公園に移植したそうですよ。確かにそんな話は珍しくもないし、木を倒すんでなく移植するってーなら良心的かもしれませんけどね」
「望まぬ転居を強いられた方にはそんな事情は関係ないということか。それが汝鳥で覚醒したと」
東汝鳥と呼ばれる、この地が異形の化け物たちを呼ぶのかあるいは汝鳥に棲みついている異形の化け物が別の化け物を呼び起こすのか。その理由は誰も知りませんがこの地が古くからそうしたものを多く呼び起こしていることは事実であり、だからこそ彼らのように異形のものに対する人々が必要とされていたのです。ですが、吹雪が見とがめたのは別の記録にありました。
「それより、確かにその木は公園に移植されていたんだけど、同じ土地から何本か別の木も移植されているらしいんですよ。その中の一本が汝鳥神社近くの街路樹にあるんです!」
「それじゃあ・・・化け物はもう一体生まれているかもしれないということか!?」
汝鳥神社に面した、その歩道を真琴と春菜が歩いていたのは何もそうした事情を心得ていたからではなく、単に彼女たちが毎日通っているその通学路から少しだけ外れたところにある、空気の良い寄り道であったというだけでした。そして彼女たちは先のかずらの化け物退治を直接行ってはいなくても、その後の封じた化け物や陣の片づけは行っていましたから、わずか二日前にその化け物に関わっていた気配をその身に帯びています。忍びよる異形のものにもむろん、気配は存在しますがそれに気がつくには本来人間という生き物は下等で鈍重な存在であり、春菜が気づいたときにはすでに地面を這いつたわってきた蔦は真琴の足下まで伸びていました。
「あぶない!?」
「春菜さん!?」
続いて響く少女たちの悲鳴を聞き、急ぎ駆けつけた塔子と吹雪の目には手首と足首までを化け物のツタに絡みつかれた春菜の姿があり、それは喉元まで伸びて首に巻きつこうとしていました。塔子たちが間にあったのは幸運としか言いようがなく、すぐに春菜は助けられると化け物が封じられるまでさほどの時間はかかりませんでした。
「大丈夫か?」
「あり・・・がとう・・・ございます」
少し咳きこみながら、礼を言う少女たちの姿に吹雪はまったく仕方がないなと呆れながらも、お嬢様を守って化け物退治をしたのだと考えればそれほど悪い気分はしていません。囲った陣の中に小さく収められたかずらの怪の残骸を見て、おやという顔を浮かべていたのは塔子でした。
長いツタの幾本かが、途中から引きちぎられたかのように散らばっている。長きを打つには先と根を同時に打つのが基本であり、そうして春菜の戒めを解いた化け物の残骸になぜこのような跡があるのか。よほど強い力、それも力任せではない鋭い力がなければしなやかな蔦を途中で断ち切るなどできない筈です。
(まさか、な・・・)
喉元に手をやってせきこんでいる春菜と、それを心配そうに見ている真琴の二人を見て、塔子は頭をひとつ振ると少女たちを助け起こしに行きました。いずれにせよ少女たちは未熟であり、彼女たちの素養や才能が何れにあるかは、すぐに明らかになってゆくでしょう。
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