非常扉を開けるたびに.四
東京都汝鳥市。木々のうっそうとはえた丘陵地帯に囲われている、関東平野の隅に位置するその町は古くから妖怪とか精霊とか呼ばれている異形の化け物どもが住まう土地でした。やがて小さな山々にまでつながっていく汝鳥の丘の麓には、齢一千年を数える古い神木が祀られている古い神社が設けられています。時節柄、訪れる人の少ない古い神社では一人の少年がほうきを手に境内を掃き清めていました。袴姿におとなしやかな表情をした少年は、まだ日が昇りはじめてまもない明るい空と、その反対の空に白く光る月の姿とにため息をつきながらほうきを持つ手を動かしています。
「また・・・満月が来るのか」
満月の夜は血を騒がせて正気が失われる。相馬小次郎という名の少年が鬼の眷属であるということを信じる者が、果たしてどれだけいるというのでしょうか。神も悪魔も信じず、まして妖怪など絵物語の話に過ぎぬと思う大部分の正常な人々にとって、小次郎は古い神社の境内につとめる可愛らしい少年であるに過ぎません。その少年が満月の夜になれば衝動のままに破壊を求めたくなるとしても、せいぜい人は見かけによらぬものだとか今時の若い子は抑えを知らないとか、根拠のない主張とともに眉をひそめる人々が将来を思い煩うだけでしょう。鬼の血が云々などと言ったところで人の社会はそれを信じないし、であればこそ少年はこの町で人として暮らせる一方で、人として完全に社会に馴染むこともできぬことを知っていました。
齢をとらず、満月になれば姿を隠さざるを得ないでいる彼が人の世に溶け込むことなどできようか。幕末の折りから長く生きている鬼はもう一度、静かにため息をつくと境内を掃き清める手を動かし続けています。
異形や化け物が住まう町、汝鳥。そこは多くの化け物どもと、それに引き寄せられた者たちが多く集いあるいは生まれている町でした。霊格が高いとも言われる、この地に異形のものたちが住み着くようになったその起源がいつ、どのようにして生まれたのか。鶏と卵に興味を持つ者がいたとしてもそのすべてを知る者は最早どこにも存在していません。
人の世の中で、相容れぬ異形のものたちが安楽に生きるのであれば、まず人がつくりだしたものから遠く遠くへ離れるべきだったでしょう。それは善悪の問題ではなく、しょせん人の世は人だけのために人がつくりだしたものに他ならないからです。そのような中で少しでも人と相容れようとする異形のものも存在し、小次郎のように人として暮らしながらも人との関わりを限定できる神社に住まうものもいれば、汝鳥の学生としてより積極的に人と関わっているものもいます。彼らは妖怪バスター予備軍として、人に仇なす化け物どもを抑えることによって互いが害を与えることを防ごうとするものたちでした。
「うん?また仕事か」
住人には迷い家、メイヤとも呼ばれているマンションの一室で一人暮らしを営んでいる龍波輝充郎は一通の電子メールが届いたことを知らされると面倒くさげに立ち上がります。汝鳥学園の二年生であり、剣術研究会に所属している輝充郎は大柄な身体に筋肉質で力強い体躯と、逆立った白銀の頭髪に赤い瞳を持ち一目で常人とは異なる印象を与える外見をしていました。隔世遺伝によるもの、という輝充郎自身の説明は嘘ではなくとも十分なものではありません。彼は古くに彼の家系に交わった鬼の血を受け継ぐ者であり、白銀の髪と赤い瞳のほかに二本の角と鬼の力を与えられているのです。
京都の家に生まれた輝充郎が、東汝鳥に暮らしている理由は半人半鬼に等しい彼が生きていくにはこの町が適していたからに他なりません。非公然であれ異形の化け物たちの存在が認められている、汝鳥の土地で輝充郎は人として学園の生徒として普通に暮らしており、同時に化け物に関わる幾つかの事件を引き受ける退魔の生業、妖怪バスターの予備軍として暮らすことができました。
人の世に住まう異形の化け物ども。ではどのような化け物が人の世にひそむのであるかと問えば、結局それは人の目で見た分類にしか分けることができません。すなわち人から生まれたものや人を好むもの、そして人を憎み襲うものとして人の存在に依存するものが一つ。もう一つは人の存在など気にも止めぬもの。いずれの分類も人の都合で定めたものであって、彼らが人の存在を気にかけるとしてもそうでないとしても、それは単に彼ら自身の存在に忠実に従った結果でしかありません。
その中でも人の世に住まうものたちの中には、人に害をなすものを追い払うことによって人に手助けをするものも多く存在しています。輝充郎は彼らが生まれた世界を失わぬためにも、異形のものが人に排斥されることを防ぐために自ら妖怪バスターを目指す者でした。
異形の化け物が化け物を退治するために人に協力する、汝鳥学園にある剣術研究会とオカルト・ミステリー倶楽部には素養ある人間のほかにもそうした異形のものたちが集まり活動を行っています。輝充郎が所属している剣術研では彼のような妖怪と、彼のような妖怪の存在を知っている人とがともに日を過ごしていました。それはいささか皮肉な形でありながらも、人と妖怪が互いに協力する集団ではあったのです。
妖怪バスターやその予備軍たちの目的は異形の化け物が人に脅威を及ぼす場合に、その原因を取り除くこと。輝充郎は簡潔な電子メールの文面に目を通すとため息をついてから、共用するコンピュータを置いて迷い家を後にします。彼のため息の理由はメールの内容ではなく発信者に対してのものであって、急ぎの呼び出しにせいぜい足を早めると見慣れた銭湯や他愛のない駄菓子やがある道を抜けて、学園の門をくぐります。いわゆる部室長屋ではなく、校舎の一室を当てられている剣術研究会の部室の大きさは部員の多さと倶楽部が学園の中で占めている影響力を現してはいるのでしょうか。
「ちわーす」
「遅い!8分28秒の遅刻だ!」
がらがらと部室の扉を開けた輝充郎の頭に、予想していた怒声がぶつけられます。声の主の姿を確認するまでもなく、彼にはそれが剣術研究会顧問ネイ・リファールのものだということが分かっていました。いつものことだと思いながらも、輝充郎は無益な反論を試みます。
「あのな先生、俺の部屋からここまで5分くらいで来てるんだが」
「遅刻の基準は妾が召集をかけてから過ぎた時間だ。早いものは2秒で来たぞ」
今年から剣術研顧問となった金髪に伊達眼鏡の米国娘、ネイの我侭ぶりは今にはじまったことではありません。彼女は学園では日本史の臨時教諭として迎えられてもいましたが「過去の出来事にはこだわらぬ主義だ」とまるで授業をしていないとの評判であり、何故この人が教師として顧問として存在しているのかは妖怪や化け物の出現よりもはるかに不条理であるとさえ言われていました。唯一の救いがあるとすれば、この迷惑な顧問が何故か人に呆れられると同時に人に好かれてもいるという奇妙な事実だったでしょうか。もっとも得てして、個人的に憎めないという類の魅力はかえって人に迷惑をかけるものでもありましたけれど。
「今回は人死にも出ている事件だ。8分28秒の間に新たな犠牲者が828人出ぬとも限らん、妾は貴様のそういう心構えを叱っているのだぞ」
「だからそういう問題じゃ・・・って犠牲者が出てるのかよ!」
ネイの言葉においおいそれは計算が変じゃねーかと思った部員は数多くいましたが、それを指摘するよりも遥かに重要な事実に輝充郎や他の部員たちの表情が引き締まります。犠牲があれば状況は硬化せざるを得ず、それが現れる事件は本来学生たちが扱う範疇を超えています。剣術研究会もオカルト・ミステリー倶楽部もしょせんは学生、未成年者の集まりでしたから依頼される事件も相応のものが中心であり、より危険な任務はより優れた実績ある者たちに任せられるのが常でした。とはいえ、手が足りぬこともあれば敢えて学園に依頼をする例も皆無ではなく、ことの重大さを学生たちが受け止めなければならないこともあるのです。
「またオカミスから手伝いが来る。場所は音無山近くの溜め池だ!」
「おおよ!」
◇
町の東北部、鬼門の方角にある音無山はかつては旧日本軍の決戦壕があったとも言われており、そのことを知る者にも知らない者にも、どこか澱んだ雰囲気を感じさせる場所となっています。剣術研こと剣術研究会とオカミスことオカルト・ミステリー倶楽部。同じ学園にある両倶楽部は伝統的に競い合って互いに仲が悪い一方で、足を引っ張り合うこともあれば協力することも珍しくはありません。剣や武具、体術の扱いに優れる剣術研と、陣術や符術、法術に長けたオカミスが連携を取ることによって、互いの力を補うこともままありました。ことに、任務が危険なものであれば常は角突き合わせている顧問でさえ協力にやぶさかではありません。
「オカミスの手伝いか・・・学園からの依頼は双方に対してと聞いているがな」
「いつものことですね」
柚木塔子の言葉に、軽く首を向けながら笑みを漏らす高槻春菜。彼女たちは今回、異形の化け物が現れたという現場に急行しながらもサポートとして配置される予定であり、あらかじめ化け物の移動範囲を抑えたり人避けの陣を用意することが主な任務となっていました。塔子や彼女の後輩である多賀野瑠璃がそうした術を扱う一方で、物理的な危険から身を守るために剣や武器を扱う生徒がこれを守ります。剣術研の一年生である春菜は、未熟な技量はともかく新人とは思えぬ冷静さと判断力は塔子も評価をしています。それは彼女が連れている、オカミスの後輩たちに比べてのものであったかもしれません。
「鷲塚!多賀野!遅れているぞ、急げ!」
「は、はい。すみません・・・」
慌てて答える、どこか気の弱そうな少年は鷲塚智巳というオカミスの一年生であり、春菜と同級である鴉鳥真琴の双子の兄妹でした。汝鳥の旧家に生まれた彼らは、慣習であるのか社会勉強として家を出されると一人で暮らしながら学園に通っており、姓が異なるのも家を頼らぬようにという理由によるものでした。温厚そうだが中肉中背で一見して地味な外見をした智巳は、見かけによらず力も体力も備えておりその力さえ発揮できれば優れた剣士にもなれると言われています。あくまで発揮できれば、とは塔子が後輩のために思うところでしたが。
上級生として後輩たちを連れている、塔子は幼い頃から退魔の業に携わっており若いながらベテランに近い実践の経験を持っていましたが、昔受けた傷によって彼女自身は力の多くを失っていて前線に立つことは最早無理であろうと言われています。だからこそサポートとして、あるいは後進の育成のために彼女の手腕は期待されることが多く、塔子自身もそうした方面により多くの才を示していました。
頼りなさげな後輩たちの一群に目を配り、その目に怯えとひるみの色が見えていることを塔子は感じとっています。ことに智巳や瑠璃の歩みが遅れているのも彼らの度を超した緊張と警戒感によるものであり、周囲を窺いながら歩いていれば遅れても無理はなかったでしょう。それは経験の浅い新入生が、人死にが出ている事件に携わるのであれば当然の反応なのかもしれませんが、春菜はときおり視線が不自然に動くことこそあれ表面上は平静さを保っていましたし、その足取りに迷いも見えません。剣術研での鍛錬のためか彼女自身の性格によるかは不明としても、瑠璃のように両手で握った護符を汗に湿らせているような少女に比べればいざというときにどちらが使いものになるかは明らかでした。
「多賀野・・・まだ現場に近づいてもいないんだ、少しは力を抜いておけ」
「で、でででででも先輩、おそなえあれば熟れないと言いますし」
「ほえ?おそなえなら、わてはお揚げが嬉しいのだー」
瑠璃の言葉に、小柄な少女めいた姿が反応します。えびす神社と呼ばれている、汝鳥に古くからある社に生まれた瑠璃に従っているのは七月恋花というキツネの神であり、自分では汝鳥の地に古く祀られていたとされる七月宮稲荷の神様だと称していました。とはいえ神社の巫女である瑠璃に従う様はせいぜい落ち着きのない子供にしか見えず、瑠璃にしたところで二本の三つ編みお下げを揺らしながら頼りなげな様子を見せている様は、充分以上に子供めいて見えたことでしょうか。もともとオカミスの新入生として符術を磨いていましたが、あまりの頼りなさに出稽古がてら、短期で剣術研へのレンタル移籍をされています。少女の能力は決して劣等なものではありませんが、経験の不足と度胸の不足とが判断力の低さへとつながっている、というのがもっぱらの評判でした。
オカルト・ミステリー倶楽部と剣術研究会、自らの身を守る術では剣術研の方が優れており、術により引き出せる広く多彩な術ではオカミスが勝ります。であればこうした事件で互いが協力するとなれば、互いの能力と特性とを充分に理解しておくことこそが重要でしょう。敵を知り己を知らば、とは塔子ならずとも兵法の基本ですが剣術研の者や力のある妖怪たちを主力としてそれをオカミスの者がサポートするか、逆にオカミスの力ある術者を剣術研のメンバーが守るかは指揮をする者の采配次第です。
やがて塔子たちの視界に音無山の林が入るとその脇にある澱んだ沼地も木々のすき間から見えるようになり、現場の近くでは彼女たちの他にすでに到着していた術者や剣士たちが様々な準備を始めています。今回、沼地をあさる者たちは直接的な危険を受け持ちながら塔子たちは周辺の警戒や人払いを行いつつ、その中でも実際に術を使う塔子や瑠璃、それを守る春菜や智巳のようにフォワードとバックヤードを構成します。
「一般には術者の方が剣士よりも強力だと言われているが、その反面で無防備になりやすい。であれば剣持つ者はそれを身をていして守ることになる」
「み、みんな仲良くしないといけないんですね」
緊張した声で、的を外れたような瑠璃のことばこそが案外真実を突いているのかもしれません。剣術研とオカミスとが、そして人と化け物とが互いに協力するのが妖怪バスターの任務でした。
溜め池の怪と仮称されることになった、その正体は未だ知れてはいません。音無山へ向かう山道を外れた林の中ほどにある溜め池に、人を引きずりこむ化け物が現れたというのが塔子たちの聞いた事情です。さまざまな目的からこうした貯水池はそこらに設けられているものですが、人の立ち寄らない林中の池であればおざなりな柵に有刺鉄線が巻かれた程度の囲いがあり、深い池は無造作に放置されているのがふつうでした。十数年以上昔に一人の女性がそこで溺れたことがあるらしく、以来、おざなりな柵に囲われた池の上にはおざなりな板が差し渡される程度の措置はとられていましたが、子供でも大人であっても近くへ立ち入ることは許されてはいません。
「何が出たかはよく分かっていないんですよね。誰か池に引き込まれたんですか?」
「いや、どうも山道まで現れて近くを歩いていた人を襲ったらしい。とりあえず溜め池の怪と呼んでいるが、そこに出るとは限らないから気をつけてくれ」
春菜の問いに、ボブカットの髪を揺らして塔子が答えます。こうした場合に正体の知れない異形の化け物を区別する、その基準はまず人を襲うか否かにありました。これは別段、人間の傲慢によって区別されている訳ではなく彼らが人であるが故に、自分たちの接近が化け物に影響を及ぼす可能性を考慮するためです。
「それなら、僕と高槻さんは前後に分かれた方がいいでしょうか?」
「そうだな。では高槻が前、鷲塚は後ろを頼む」
「え?僕が後ろですか・・・分かりました」
残念ながら自分が頼りになるとは智巳は思っていませんが、お嬢様然とした春菜を沼地に向けて自分を後ろに立てる塔子の判断に首を傾げます。とはいえそれを問う理由も知識も少年にはなく、指示に従うよりほかはありません。
塔子たちは手早く荷を広げると、まず人避けの陣を組みはじめました。人避けは最もかんたんな陣術のひとつであり、大きく囲った場所や、あるいは壁のように設けられた区域に対してあえて越えようとする者を除きすべてそこを避けたくなるという術です。意図すれば陣を越えることはたやすいが、無意識の者はそこを訪れることがない。それは無関係の人が巻き込まれることを防ぐとともに化け物の逃げ道を遮るためにも用いられるものであって、妖怪バスターやその予備軍が活動を行うには不可欠の術でした。フォワードに参加する剣士や術者、妖怪たちが存分に力を振るうためにはこうした人避けは何よりも重要で、立入禁止の札などと合わせて用いることで思った以上の効果があることも知られています。
「そろそろ龍波たちも到着する。準備はいいか?」
「はい、先輩」
答えると数歩の距離を離れる春菜や智巳の姿を見て、塔子は化け物の所在について彼女が知る情報を整理しようと試みます。異形の化け物たちは幾種類かに分けることができますが、妖怪や精霊や幽霊、あるいは神様と呼ばれるようなものを含めてもほぼ二つに大別することが可能です。それは人の存在に依存するものと、もう一つは人の存在など気にも止めぬものであって、妖怪や精霊と呼ばれるような存在であれば山童や豆狸、すねこすりや川赤子のように動物や自然、自然現象そのものから生まれたとされるものが存在します。彼らは虫や鳥や魚や木々と同様に、自然や動物が人に対するときと同じように人の存在には無関心でただ己の欲求だけを満たそうとするでしょう。
一方は幽霊や土着の神様などもこれに類しますが、人の存在に依存するものたちで特に怨や恨と呼ばれているものは、産女や泥田坊のように人の恨みによって生まれ人に害を為すものをも生み出しています。それは人そのものから生まれたり、死や不本意な境遇による人の強い思いから生まれるもので自らを生み出すきっかけとなった思いに支配されて存在します。そして人にとって残念なことがあるとすれば、そうした怨や恨はことに人を恨みまたは呪うときにより強く大きな思いを抱くということでした。人は人を恨み呪うときにこそより強く大きな思いを抱くらしいのです。彼らはその強い思いの故に、人と見れば平静ではいられないものたちでした。
「溜め池の怪がもとからそこにいた妖怪であれば、それは恐らく人が足を踏み入れなかった古い池そのものが怪を生み出しただけだろう。それは静寂の中でただ深淵な池であることを欲し、寄る者を好まず警告を発しているだけかもしれない」
塔子のことば。一方で溜め池の怪が人から生まれたのであれば、例えばそこで命を落とした者が仲間を欲して人を引き込もうとするのであれば、それは悪意を持った怨霊や恨霊となりより残忍で人にとって危険な存在となるでしょう。人が寄ればまずそれを襲い、人を犠牲とすることを欲する筈です。
そして人を恨むものはたいていもとは人であるから、異形の化け物の姿もより人に近くなりしかもそれが恐ろしげな姿をしていることが多くなります。化け物はそれを認識する者の思いによって姿を変えるものですから、その姿を見つけることがまずその化け物本来の姿を知るには良いとされていました。恐ろしげな姿をしたものは恐ろしい存在であるか、脅かすことが目的であるか、いずれにせよ無軌道に見えても化け物には化け物のルールと法則があって、それを知ることは彼らと対するに必要となるのです。
(人のために妖怪が妖怪退治をする、か)
意味もなくそんなことを考えながら、陣を張る仲間たちの横で周囲を見張りつつ春菜は考えていました。この人の世において、人ならぬ彼らが人の世の故に争う。彼らは果たして本来、何処にいるべきものなのだろうか、と。
捜索が始まってから、春菜たちが忍耐を試す機会を多く与えられることはありませんでした。フォワードを組む者たちがしんちょうに立ち入った溜め池の水面が大きく波打つと、大勢の闖入者に縄張りを荒らされたと思い現れた姿。それは全身を泥と草と剛毛に覆われている、巨大で太い蛇のようなかたまりででした。かたまりには手も足も目鼻もなく、太く長い身体の一方には大きな口だけがぽっかりと穴を開けています。
「ノヅチか!」
しぶきをあげる水と泥をへだてて、輝充郎が叫びます。野槌とは古くからある蛇の怪の一種であり、ふつうは山中の薮に隠れてウサギなどに襲いかかる妖怪でした。食欲に支配された単純な存在ですが、それだけに巨体と力の強さもまた恐るべきものとされています。
「よぉーし!行くぞ大介!」
「イライラ解消に丁度いい相手だぜぇ!」
輝充郎の合図に、オカミスでは稀少な武闘派の一員である朝霞大介が乱暴な鬨の声を上げました。ボサボサの頭に着慣れた革のジャンパー姿で、鋭く呼吸をすると大介は意識を両の拳に集中させています。自然ならざる化け物を打ち据えるに、頑健な精神を力にして対するに勝る術はありません。力を宿した拳は異形の化け物を素手で組み伏せると言われており、身に宿した力は牙や爪を弾きます。
力強い跳躍で、身の軽い大介が一息に飛び上がると野槌が気を引かれた瞬間、後ろで構えていた輝充郎は上半身にぞんざいに羽織っていた上着を脱いで、固く拳を握ると力強く叫びました。
「変・・・神!皇牙変化ッ!」
声とともに隆起した輝充郎の皮膚が硬質化し、額からは二本の角が長く突き出します。自ら轟雷鬼神・皇牙と称する、鬼の力は古い雷鬼の血筋が覚醒遺伝をして現れたという、輝充郎のもう一つの姿でした。毛髪を勇ましいたてがみに、皮膚を頑健な鎧に、爪はするどい刃と化して全身を武装化します。人として鬼の力を持ち生まれた半妖怪、輝充郎は大介に続いて野槌におどりかかると強靭な拳で一撃を打ちすえます。化け物の頑丈な皮膚はそれを弾き、口腔からは呻くような音が吐き出されて頭と尾を同時に振ると二人に襲いかかりました。
「すごい・・・」
その様子を春菜は溜め池の向かい側にある、離れた場所から見ています。野槌の逃げ道を遮りつつ、今も陣を張っている塔子や瑠璃を守るのが春菜の役割でしたから、彼女が池に入る必要はありませんし仮に近づいたところで非力な腕が役に立つことはないのでしょう。春菜が手にしている刀は樫の若木から削り出していた木剣ですが、五行の法から見れば土に属する自然の怪を木によって打つことは有効になり得ます。無論、その剣を振るう腕を少女が持っているならば、ですが。
野槌と輝充郎に大介による激しい争いはしばらく続いていましたが、一年の差とはいえ流石に退魔に慣れた者の動きというべきか、二つの拳と振りかざされる爪は確実に化け物を弱らせているようでした。ある程度まで力を弱めることさえできれば、あとは陣術でも符術でもこれを抑えて封じることは難しくないでしょう。
どうやら無事に終わるか、と心の中で安堵の息をつこうとした塔子は視界の横で瑠璃が数歩、池に近づいていることに気がつきました。瑠璃自身に弁明をさせるならば、それは恋花が池に近づいたことを止めるためであったかもしれません。ですが、外見はどうあれ曲がりなりにも恋花が神であるというならば、無邪気な振る舞いは神の自由であるしそれを危地に陥れるような力は妖怪にも妖怪バスターにもおいそれとはありません。むしろ、危険があるとすれば不用意な行動を取っている少女の方でしょう。
「多賀野!持ち場を離れるんじゃない」
「あ。すみません・・・きゃあ!?」
慌てて池から離れようとした瑠璃が泥に足をすべらせます。生来注意力が散漫な瑠璃はいつものように足許を見ていなかった、と思いながらもいつの間にかぬかるんでいる地面に視線を落とすと、溜め池の泥中から伸びる節くれだった長い手が目に入りました。
瑠璃の足首を掴んでいる、それは鼻と口がだらしなく開いてふくれあがった人間のような姿をしており、髪の毛は泥草と判別がしがたくなって赤い目だけが爛々と光っています。うめき声を上げる、その表情にはかつてこの場所で野槌に足を捕らわれて命を落とした、人間の怨みが見てとれました。それこそが人に害を為す溜め池の怪の姿です。ごぼごぼと口から水音を立てている、おぞましい姿に瑠璃は心臓まで鷲掴みにされると辛うじて恐怖の声を絞り出します。
「た、たすけ・・・」
「多賀野さん!」
ひきつった言葉がすべて終わる前に、ひといきで瑠璃の身体は膝まで、もうひといきで腰まで池に引きずり込まれます。更に覆い被さろうと伸び上がる、異形の化け物の姿に智巳が叫び、塔子はすでに駆け出していました。相手は怨みをもって人に害を為そうとする異形だが、ただ池に引き込むだけの存在であれば野槌などのように力が強いとも思えない。塔子の力は弱く手元の陣具は数個しかありませんが、怪に直接突き立てて術を使えば怯ませて瑠璃を助けることができるかもしれません。
(一撃、相手を止めることさえできれば・・・)
そう思った刹那、視界の端から一足早く踏み込んでいた春菜の姿が現れると、二足めと同時に速さと勢いを乗せた木剣を振り上げています。ぬかるんだ足場を気にもかけず、広い歩幅で深く強く踏み込むと重心を沈ませながら、右の手首に左の手のひらを乗せて木剣の先ではなく握った柄を打ち下ろす。重い一撃からごきり、という鈍い音を立てて溜め池の怪の頭部が陥没すると同時に、続いて追いついた塔子がすでに念を込めていた陣具であるチェスの駒を突き立てて手早く指先で印を組みます。
「急急如律令、汝急ぎ律令の理に従い・・・現から去れぇ!」
ぱん、とかわいた音を立てて陣具の駒が破れ、弾けた力が怪の上半身を消し飛ばすと残りも霧のように飛散してたちまち消え去ってしまいました。後輩の無事と、自分の弱い術がなんとか通じたことに一瞬、安堵の表情を浮かべた塔子はすぐに表情を引き締めると、春菜と遅れてやってきた智巳の手を借りて泥にはまった瑠璃の身体を引き上げます。腰から膝まで泥にひたした姿で、やはり泥を被っている長い二本の三つ編みを下げた瑠璃は地面にへたりこむと恩人たちの顔を見上げました。
「ふええ・・・助かりました。ありが」
「莫迦者!自分の身を守れない者は守られる場所にいるのも任務だ!」
「すみません!本当にすみません!」
瑠璃がけんめいに頭を下げているその間に、どうやら大介と輝充郎も野槌を封じつつあるようでした。恋花に慰められながら反省しきりの少女については、春菜や智巳の取りなしがあったことと騒動の中でも張っていた陣を切ることがなかったことで塔子の叱責だけで済ませることになります。お気に入りの靴を片方、泥中に落としたらしいことが瑠璃にとっては一番のお灸になっているかもしれませんが、春菜であれば言うことでしょう。
「生け贄の身代わりだと思えば安いものよ」
「春菜ちゃん、厳しい」
◇
こうして無事に二体の化け物を封じた妖怪バスター予備軍たちは、順に撤収の準備をはじめています。怨霊は消え去り、野槌は封じられて周囲が安全になったことが確かめられると張られていた陣もようやく解放されました。
「んじゃお疲れさん。先に帰ってるぜ」
「こちらは片付けたらまっすぐ帰らせてもらおう。顧問への報告は任せた」
「ちっ。しょーがねえなあ」
すでに術を解いて普段の姿に戻っている、輝充郎がおどけるように苦笑します。剣術研究会とオカルト・ミステリー倶楽部それぞれの問題顧問の応対は輝充郎と大介に任せようと、珍しく冗談めいた顔をした塔子が小さな笑みを見せました。
「まあ、娘たちが泥だらけの恰好で学園に戻る訳にもいかないだろう」
「そーだな。そんなら鷲塚、お前は来い」
「え、ええ?僕ですか?」
「お前は泥だらけでも娘じゃねえだろう。イライラすっから早く来い」
大介は強引に智巳を従えると動き回って腹が減ったとばかりに、荷物に入れていたインスタント焼きそばの乾麺をばりばりとかじります。半妖の鬼と並んで巨体の化け物と対峙する、その実力はオカミスでも屈指の大介ですが貧乏生活から来る貧しい食生活とそれが原因のスタミナ不足が悩みの種とされていました。音無山の木々の隙間から漏れ来る、やや傾いた日差しに目を細めながら大介はつぶやきます。
「ため池に 蛇が出た。
泥まみれだし腹も減った。イライラする」
「何だ、それは・・・?」
「俺の即興の詩だ」
怪訝な顔で問いかける塔子に、大介は静かに応えるとそのまま智巳を引きずるようにしてその場を去っていきました。帰ったら湯をそそいだ本物のインスタント焼きそばを食べようと思いながら。
最後に浄化の術をかけて、溜め池は一見して平穏を取り戻していました。街灯の少ない、山道を外れた場所であることもあり日が暮れる前に早々に退散しようと、後輩たちに声をかけると塔子は荷物を担ぎます。忘れていることがないかと確認する中で、ふと、思い出したような顔になって塔子は春菜に声をかけました。
「そういえば高槻。君のさっきの技だが・・・」
「え?あ、あれは驚いたんでとっさに・・・何のために武器を持ってるんだか分かりませんね」
「そうだな、上手くいったのなら良しとするか」
小さく苦笑すると、塔子は後輩たちを連れてお茶でも飲んでから帰ろうかと言いました。頼りない後輩にもたまには甘い顔を見せてやって良い。人を殺める異形の化け物を消し去った、人の傲慢を忘れられぬ者もいるであろうから。
「もっとも、こんな泥だらけの恰好で入れてくれる店があれば、の話だがな」
互いに目を見やって笑う、泥だらけの少女たちは日の暮れゆく山を背に人の住む町へと戻りました。
>他のお話を聞く