非常扉を開けるたびに.五
東京都汝鳥市。木々のうっそうと茂る丘陵を背に広がっている、関東平野の隅に位置する町。丘の中腹にある、町を見晴るかす古い神社の境内では齢一千年を数える古い神木が祀られていて、汝鳥の長い時をただ見つめ続けていました。この町に集う人と獣の営みを、そして妖怪や精霊と呼ばれる異形の化け物どもの存在を。
清爽な日が差し込む早朝の折り、ささやかな風の音に混じって神社の境内を掃き清めるほうきの音が響き、袴姿におとなしやかな表情をした少年がもの憂げな視線を注連縄の張られた神木と、その木が見下ろしている眼下の町とに向けています。その少年、相馬小次郎が古い鬼の眷属であると聞いたとして果たして幾人のものがその戯れ言を信じるのでしょうか。少しく長めの頭髪に隠れた一本のとがった角を見ても、そして幕末の折りから齢を重ねずにいるその姿を見たとしても。
「寛大な故に怪も住まうことができる地・・・でもいつまでもそうとは限らないだろう」
小次郎は呟くと、休めていたほうきの手をふたたび動かしはじめます。清めるべきは何処であるのか、時と世によれば自らもまた清められるべき存在である鬼の子は、答える人のいない静かな境内で心に響く己れの声をただ聞き続けています。一千年の古くからある神社もこの神木も、また愚かな人と異形のものとが過ごした時を見続けていたのでしょう。
異形の化け物が住まう汝鳥の町で、人と人の世に仇をなす化け物どもを退治すべく、設立された組織が存在します。彼等は妖怪バスターと称されて非公然とした事件の解決に尽力していましたが、その予備軍として素養のある者たちが学生の頃から鍛えられ、また実際に退魔の生業を助けている者たちがありました。汝鳥学園にはそのような生徒たちの集まりとして、剣術研究会とオカルト・ミステリー倶楽部という二つの組織が存在しています。剣や武具を扱い、異形のものを打ち倒す剣術研の者たちと術法や陣を用いて、異形のものたちを封じんとするオカミスの者たち。彼らは時に対立しながらも手を貸し合って、これまでも大小の難題に携わっていました。手を貸し合う、例えば互いに欠けるものを補うべく行われる、生徒間の貸し出しもその中のひとつだったでしょう。
「そんなワケでこれでもう剣術研で悪いコト覚えないで済みマスねー」
「それはどういう意味だブリ公!」
「例えば人を下品に呼ぶような悪いことデスね」
「あ、あの・・・お二人ともそのくらいで」
互いに挑発するオカミスのウォレス・ジェラード・ラインバーグと剣術研のネイ・リファール、両顧問から引き渡される中で狼狽しているのは多賀野瑠璃。三つ編みにしたお下げを二本に分けている少女はオカルト・ミステリー倶楽部、通称オカミスの所属でしたが術者としてはあまりに気が弱く頼りないと、鍛え直すべく剣術研究会に短期レンタル移籍をされていました。剣や武具を扱う剣術研で、いわばオカミスの代表として扱われるのであれば相応の肝が必要になるにちがいなく、素養でも能力でもなく、注意力や集中力が足りないと言われている瑠璃にとっては環境を変えることで成長への足がかりになるだろう、というのが名分になっています。
えびす神社という、汝鳥にいくつかある神社の中でも特に古いひとつに生まれた少女は、本来は符術を扱いましたが剣術研では体捌きや身体能力、自らを制御する能力を徹底的に鍛えられていました。何しろふつうに歩いていても机の角に足の小指をぶつけ、運んでいる荷物は必ず落とし何もないところでもつまづき転ぶという瑠璃に求められていたものは、まず人や物がある中を歩けるようになりなさいという、いささか教える側もなさけなさを覚える程度の身体能力だったのですから。
「ほえー?瑠璃様、お帰りをお待ちしていたのですじゃー」
「れんちゃん?お帰りも何もいつも一緒にいたような」
少女のまわりをくるくると回っているのは、七月恋花という小柄な少女めいた姿です。当人が曰く汝鳥の地に古く祀られていた七月宮稲荷の神様だと称する娘は、子供めいた外見にキツネの耳や幾本もの尾を備えていましたが一見すればせいぜい落ち着きのない少女にしか見えません。素養がない者であればそうした耳や尻尾の姿も見えず、せいぜい年の離れた友人か姉妹のような様子でした。
短いが厳しい修行期間で少女が何を得たのか、それはこれからの話になるのでしょうが、術法を主とするオカミスの者が剣士たちの基礎を知ることは互いに協力しあう身であれば必ず貴重な体験となる筈です。
「経験を活かせるかどうかは本人次第、頑張ってね」
「ありがとう、春菜ちゃん」
高槻春菜は瑠璃と同級の一年生でしたが、剣術研でのレンタル部員への教育役を任されていた一人であり同級生よりはよほど信頼されている少女でした。黒髪を二つに縛った、清爽な雰囲気と凛とした目をした春菜は一見しておとなしやかなお嬢様に見えましたが、実際に彼女は汝鳥の旧家の出自であり幼い頃より厳格な家で礼節やさまざまな習い事、精神修練の機会を与えられながら育っています。そして厳格さとは正しい精神で正しい型を守ることであって、瑠璃のように粗忽と迂闊が手を取り合って転んでいると酷評されるような少女にとっては何より必要なものであったでしょう。
「正しき型は正しき力を為す、誤ればその力は正しき力に及ばず」
それは春菜が祖父から伝えられた教えでもあります。学んだ型を繰り返し、繰り返し続けることで身につけることができる。意識をせずに歩くことができる者は多くとも、寸分違わず正しい動作による歩きかたを行える者はどれほどもいない、それが彼女の教えでした。
キツネ娘にまとわりつかれながら、頭を下げる瑠璃と入れ替わるように春菜たちに歩み寄ったのは鴉取真琴です。瑠璃と交替でオカミスへのレンタル移籍を行っていた少女は、春菜同様に汝鳥旧家に育ったいわゆるお嬢様であり、彼女たちが剣術研に所属していること自体が一部の部員にいわせれば「お嬢様の遊び」と酷評されることもありました。とはいえ、厳しい家に育てられていた少女たちはいわゆる習い事の類に慣れており、自分の非力を他の者で補おうとする思考も持っていましたから、思いのほか見直される例も多かったようです。春菜などは木剣の扱いを試みてもいましたし、剣筋は拙いながらその体捌きは素人とは思えません。
(だって素人じゃないですものね)
(真琴さーん?)
春菜が幼い頃より、師範代として道場を開いた祖父から武術を学んでいることを知っているのは真琴をはじめとする幾人かの昔なじみしかいません。どうせじきに知られることではあろうとも、真琴と同じように真面目でおとなしやかなお嬢様として扱われることは悪い気分はしないものです。
一方で、真琴自身はオカルト・ミステリー研究会でことに厳しい鍛錬を課せられたということはありませんでした。それは単に両倶楽部の指導方針であったかもしれませんが、力にも術にも頼らない、組織としての妖怪バスターたちの連携とその扱いであればオカミスのそれは剣術研究会に勝ります。それが倶楽部の方針であったのか、あるいは真琴にその一端を教えた柚木塔子のものであったのかは別として。
「レンタル移籍とはいえ、共同で動くことが多いのは変わらない。あまり気にすることはないだろう」
「あ、先輩。色々とありがとうございました」
深々と頭を下げる真琴。ラインバーグに付き添って、部員の引き渡しに来ていた塔子は術者としては力が弱く、あまり最前線に立つことはできませんが優れた組織を扱い後進を鍛える点で彼女に勝る者はいません。両倶楽部の部員と顧問を含めて、その判断力が最も信頼されているのはおそらく彼女だったでしょう。おそらく、彼女がいなければ両倶楽部の協力体制は今ほど機能していなかったであろうとも囁かれていましたが、一方は小娘の価値は利用するだけデスと公言し、もう一方はブリテン野郎も埋めれば人柱になると放言する有り様では無理もありません。
未だ言い争いを続けている両顧問には構わず、形式は形式として瑠璃と真琴の引き渡しの挨拶はごくまっとうに終わります。互いの顧問同士が犬猿の仲であっても、部員同士にとっては関係ないということでしょうか。
「そうだ、高槻。家の蔵から持ってきたんだが・・・」
思い出したように塔子は手に持っていた包みを開くと、樫の若木を削り出したらしい短い棒を取り出しました。うちの部員を鍛えてくれたお礼だと、塔子が春菜に手渡したその棒は木刀の半分くらいの長さので、片端には模様が彫られた金属の塊がついています。
「・・・これは?」
「元は古い社の建具の一部か何かだと思う。良い作りをしているんで君が使うなら役に立つんじゃないか?」
生家が退魔業を生業としている塔子は、法具の扱いに慣れておりその知識も相応に持っていました。そして法具というのは本来決まったつくりのものではなく、使う者の力を正しく、大きくするためのものですから優れた道具よりも使う者の手に馴染む、何より役立つ道具であれば良いとされています。
五行の法と呼ばれる大陸伝来の術では自然に生まれたものは全て火水土木金のいずれかの特質を有しており、そこでは水は火に強く土は水に、そして木は土に強く金は木に強いといった性質を持っていました。そして自然霊の多くは土か木に属するものが多く、木と金でできた道具はこうした霊に対しやすくなると言われています。特に優れた術を扱う者になると、多様な怪に対するに五行の法を活かして相手に有効な術や道具を見定めるのが常でした。
「ありがとうございます、大切に使わせて頂きます」
「まあ、無理に木刀を使うこともないからな」
「・・・先輩っ!」
塔子の言葉に何故だか、少し声を低くして抗議する春菜。おとなしやかなお嬢様にとって、武具であろうと法具であろうと武器を手に戦うというのは、彼女の本来の気質とは別に不本意なものである筈です。ただ、不本意といえば春菜には最近気になっていることがありました。
町はずれの音無山で、ため池に潜む古い怪と人の恨霊に対峙してより、少女はときおり何か考え込むような顔つきになることがありました。人の怨や恨は人の不快な感情に直接呼びかける存在でしたから、それと関わったことが少女の精神に堪えていたとしてもそれは仕方のないことだったかもしれません。ですが、塔子が見る限り春菜の思考はそれほど単純なものではないようにも窺えます。
「何か考え事があるようだな。相談があるなら聞くが、他人に話すのは自分で悩んでからだ」
「すみません。いえ、ありがとうございます先輩」
繰り返し礼を言う春菜ですが、それで彼女の葛藤が消える訳ではないでしょう。ことにこの時期の新人が、危険と危難に挟まれた妖怪バスターの活動を目の当たりにしてそれぞれの悩みを抱くことは珍しい話ではありません。むしろ、人と異なるものを討つに迷いを持たない者こそが危険であることを塔子は知っていました。
◇
「只今帰りました。本日よりまた剣術研究会にお世話になります、よろしくお願い致します」
「真琴さん。冗談でも堅苦しすぎるのは肩が凝ってしまいます」
「そうですね」
いたずらっぽい笑みで交わされる友人同士の挨拶。剣術研究会の部室に戻って、形式的なあいさつをする真琴は春菜と同じく地元汝鳥の旧家に生まれたお嬢様として知られていましたが、一見してふつうの女子学生に見える春菜に比べて色白で長い黒髪と、控えめな言動の真琴はよりおとなしやかな印象を人に与えたかもしれません。もっとも、品性とか礼儀といったものは容姿よりもごく当たり前の言動や立ち居振る舞いに現れるものであって、その点では真琴も春菜もお嬢様と呼ばれるだけの育ちのよさが窺えます。同い年ということもあって、幼い頃から家同士の付き合いがあった二人の仲は気軽なものでした。
真琴と春菜、二人とも剣術研究会には貴重なバックヤード向きの人材と思われており、武具を振るう腕前を除けば素養の面でも人に劣るものではありません。つい先程までオカミス顧問と不毛な言い争いをしていた、ネイ・リファールも貴重な部員が戻ってきたことに、腕を組みつつうんうんと頷きながら満足の意を表しています。
「それにしても良く帰ってきた。あのブリ公に卑猥なことを教わってはいないな?」
「別にエッグ&スパームなんて教えちゃいまセンよ」
「貴様まだいたのかブリ公!」
いつの間にか剣術研究会部室前に立っていたオカミス顧問、ウォレス・ジェラード・ラインバーグの姿にネイは声を荒げました。ボス猿は自分の縄張りに入ってきた余所者を歓迎しない、とばかりの剣幕でまくしたてるネイの怒号を無視して、ラインバーグは飄々としています。
「ちなみにスパムではなくegg&sperm&sperm&sperm&sperm&spermなんデスがね」
「やめんか!」
真面目な多くの部員が訳がわからないという顔をしている中で、ラインバーグは学園より依頼の話が来ているんデスが、と話しはじめました。先程、瑠璃と真琴を受け渡している頃にもすでに知っていたであろう話をもったいつけて持ってくるあたりは、ラインバーグの趣味なのでしょうか。
「とはいえたいした依頼じゃありまセン。天乃原に向かう途中の林道に、何かデタという噂があるんで調べて欲しいっつー話デス」
「なんだ、もっと厄介な化け物なりブリテン人が出た訳ではないのか。そんな仕事は貴様の部員どもで片付けるがよいわ」
「まー、ウチの部員に任せた方がカンタンに片付くのは分かってるんデスがね。アタシは期待してませんから無理にとはいいまセンよ?」
その一言で、双方の倶楽部による調査が決まります。誰の思惑通りかはともかくとして、今回は危険も少ないだろうと思われたので、一年生だけでチームを組ませてみることも合わせて決定しました。
「ちょうどいい。トレード帰りの鴉取とルリスケの成長を見せてもらおうではないか」
「ルリスケって・・・先生」
◇
町外れにある丘に天乃原の名前がつけられている理由は、そこが汝鳥の近隣においては一番小高い場所にあるためとされています。こうした知識は地元の古い資料の数々に記されていて、学園の図書室だけではなく剣術研究会やオカルト・ミステリー倶楽部の部室にも多く保管されています。
「確かに天乃原には七月宮門前稲荷があったんだよな」
「え?じゃああの子、本当に神様だっていうの?」
「ほえー?わては神様ですじゃよ」
古い記録や知識を調べるとなれば、荒事に向いていない真琴や春菜が得意だろうと思われていましたし、彼女たちもそれを否定はしませんが、新聞部をかけもちしている冬真吹雪に比べれば好奇心や探求心が及ぶものではなかったでしょう。太い眉根を寄せて、どこか不安げな顔を見せている吹雪が汝鳥の古い記録をたどってみると、西南の方角、天乃原には確かに七月恋花が称する神様が祀られていた社があったらしい記録があるのです。
今も多賀野瑠璃につきまとっている、キツネの妖怪めいた少女が本当に神様であればそれは尋常なことではありません。瑠璃の生家であるえびす神社は天乃原とは方角が違う場所に建てられており、よもやこんな姿で出歩いた神様が別の社の巫女娘についてまわるなどそうある話ではないでしょう。所属がちがうこともあり、特に親しい訳でもない瑠璃が連れている妖怪のことなど吹雪はこれまで気にもしていませんでした。
(とはいえ多賀野も巫女の筈だしなあ・・・)
一度本人を問い詰めるべきだろうかと、吹雪の脳裏で警告にも似た音が鳴り響いています。もしも、吹雪に他に考えることがなければそうしていたかもしれません。今は林道に現れるというものの捜索が先であって、危険の有無に関わらず新入生一行の中で唯一の剣の使い手である吹雪としては、万が一に備えて周囲への守りを怠ることはできませんでした。
吹雪の他には恋花を連れている瑠璃と春菜に真琴のお嬢様コンビというやや頼りなげな一行であり、男一人で娘たちを守らなければならないという事情は年頃の少年らしい吹雪の自尊心をくすぐりはするものの、同時に与えられる責任はより大きくなるのです。
(まさか高槻のお嬢様を数える訳にはいかねーし)
配置であれば吹雪と春菜が前衛を受け持ち、瑠璃と真琴が控えるという体裁をとっています。その春菜は木剣に替えて、柚木塔子から受け取っていた短い錫杖を手にしています。袋に入れられたそれは剣の半分ほどの長さしかなく、間合いの重要さを知悉している吹雪にすれば非力なお嬢様が長柄の武器を手放してどうするつもりかねえと、いささか意地悪く考えていました。春菜も真琴も何度かの依頼で塔子に評価されているらしいことを吹雪は知っていましたが、一見して清爽な女学生めいた少女やお嬢様然とした少女の様子を見るに過剰な期待をするのは危険だったでしょう。その春菜は吹雪の心配を知ってか知らずか、時折考え込むような顔で歩みが遅れると真琴が声をかけていました。
「春菜さん?どうかしましたか」
「え?いえ、なんでもありません。そろそろ目撃場所の近くですね」
「そーだな。俺と高槻のお嬢様が前でいいか?」
お嬢様、という言葉がどこか皮肉げに聞こえるのは吹雪の性格なのでしょう。軽く周囲を窺い、天野原の丘に続く林道に足を踏み入れます。普段からハイキングに来るような者もなく、あまり人の姿を見かけない一帯ですが、美術館が近いこともあって時折見晴らしのよい丘に近付く者も皆無ではありません。散策程度のつもりで林道を歩いていたところにぼんやりとした何かを見かけた、という噂がいくつかあって、その正体を調べるのが依頼となっています。
何が現れたかについては、彼らを送り出したラインバーグや塔子などにはおおよその見当がついているらしく、仮に幾つかの可能性があったとしても真琴や春菜たち新人だけで充分だということなのでしょう。おそらくはチームを組ませること自体が目的で、自分が前に出るか後ろに控えるのか、リーダーとなるか調整役に適しているのかなど個人の資質を見ることも考えていたのでしょうか。
(人ならぬものが人の世の故に争う。化け物が化け物を退治するなら人が化け物を退治する方がよほど穏当かもしれない・・・)
春菜の悩みは今、この場所で必要なものではありませんが彼女の胸につかえて外れない棒となっています。それでも林道に立ち入って歩みを進めるに従って、おのずと表情が引き締まると周囲に配る視線も責任感と緊張感を秘めたものに変わりました。春菜の横顔は凛々しいといってもよいものであり、視界の端にその姿を収めながら吹雪はその姿を写真に残せないだろうかと考えていました。
林道は夏の午後の日が差し込んで明るく、汗ばむ熱気を木々の影に逃れながら周囲の気配を窺います。生き物の気配が多く生まれる季節であれ、異形のものが持っているそれは他とは異質なものであって、春菜の半歩先を歩いていた吹雪は太い眉を片方持ち上げると誰にともなく呟きました。
「おい・・・いるぞ」
その声に、一同は静まりかえります。視線を伸ばした先、林道の薄暗がりに確かに何かの気配がある、それは誰にも感じられましたがそれが何であるかは誰にも見えません。悪意も敵意も感じられない、ただ何かの気配だけが感じられており、それは鋭敏な者であれば感じるでしょうが無頓着な者であれば気にも止めない程度のものでしょうか。
好奇心と探求心に見合うだけの注意力と集中力を備えているつもりでいた吹雪は、視界を広げて五感を研ぎすますと周囲の気配を広く、広く近くしてからその気配の方角を定め、一転して意識を集中します。
「・・・あそこだ!」
身体ごと向き直った先、指し示す先にふらふらと揺らめいているのは姿が判然としない黒く小さな陰りでした。やや拍子抜けした気分で、吹雪は自分が見つけたそれに首を傾げます。
「おい・・・何だ、これ?」
「たぶん、千々古の一種でしょうか」
「ちぢこ?」
真琴の声に怪訝な声をあげる吹雪。ふつう物の怪や妖怪、異形の化け物とされているものは、人や自然によってその存在が認識されることによってはじめて明確な形を得るとされています。千々古とはそうした怪になる前のたんなる存在であり、人の視界の隅にいつも隠れている知らないものへの不安と警戒の陰でした。それは敵意も害意もなくふらふらとただよっているだけの黒い陰りであり、物陰に何かがいるような気がしたとか壁や天井のシミが何かに見えたといった出来事はたいていこの千々古が原因となっています。
ひとしきり真琴の説明を聞いて、なるほど鴉取のお嬢様も真面目に妖怪バスターの活動をしているらしいと吹雪が考えていたところで、春菜は塔子からもらった錫杖を袋から取り出していました。
「じゃあ、消しますね」
「え?ちょっと、待って」
と瑠璃や真琴が言う間もなく、春菜は掌をかざした杖を黒い陰りに当てるとひといきに散らしてしまいます。人の世に迷い込んだ怪を問答無用で祓ってしまった春菜に真琴は唖然として驚き、瑠璃と吹雪は控えめな不満の声を上げました。
「おい、まだ何もしていないものを祓っていいのかよ」
「まだって・・・何かしてから祓うのでは遅いわよ。千々古なんて自我も意識もないし、これから何に憑くかだって分からないんですから」
千々古は人の視界の影に隠れている存在であり、これから何に取り憑いて姿を得るかは分かりませんが、往々にして影には邪な闇が潜みやすいものであるし自然には獣の無秩序が横行しているのです。未だ形を為さない、曖昧なものであるということはどんな恐ろしいものにもなりえるということで、もちろんそうでない例もありますが、元来このような存在が人の世にあることがまず正常ではないのでしょう。春菜の主張は恐らく正論でしたが、吹雪や瑠璃にしてみれば相容れないからといって無闇やたらと退治することが正しいとは思えません。それこそ人の都合で弱い存在を駆逐するのは傲慢にすぎるのではないでしょうか。ですが、春菜もただ化け物だからと退治をしたのだと言うつもりでないのも無論です。
「ここは人の世なんだから、人の世に暮らせないものは生まれさせるべきではないわ。それは人を恨まざるを得ないですもの」
「でも・・・!」
猪や熊が人里に下りてくるのは彼等の責任ではありませんが、下りてきた彼等は人と相いれずに捕えられるか追い払われることになるでしょう。それは別に奇妙なことではなく、獣もまた自分の巣や縄張りに入り込んだ生き物には問答無用で襲い掛かるものです。千々古がいずれ異形の化け物になって人里に下りてくるのであれば、その前に追い払った方がいっそ彼等のためになるでしょう。それは影に光を当てたら消えてしまうようなものであって、暗闇に灯かりをつける行為が咎められる理由はありません。
それでもなお釈然とせずにいる瑠璃を、真琴が軽く手のひらを上げて制します。その動きに瑠璃の他にも吹雪や春菜もあわてて周囲を見渡しました。千々古が散らされて、ですがまだ周囲に何かがいる気配が消えていないことに気が付くと目を凝らした視線の先、茂みの向こうからよぼよぼとした姿が現れました。
「犬・・・いえ、これは・・・」
ゆっくりと近付いてくる影。林道の脇にある下生えの茂みから姿を現したそれは、明らかに異常な目つきをして黒い陰りにまとわりつかれた老犬でした。あるいは老犬だったというべきでしょうか。汚れた首輪をはめた犬は人のような手足を持って、茂みから這い出てきたのですから。
非公然な活動とはいえ、自然霊や動物霊を保護することが多い汝鳥ではいわゆる保健所の類の力が弱く、捨て犬や鼠のような害獣の「回収」にたびたび不備が出ることも珍しくはありませんでした。そういった獣が歳を経たり病になって弱ったところに取り憑かれれば異形の化け物になりやすく、捨てられ追いやられた犬の霊は人を怨む存在にならざるを得ないでしょう。猫の怪は尾が分かれて人を欺くようになると言いますが、犬の怪はいずれ二本の足で歩き人に病を及ぼすと昔から言われているものです。
「生き物は木気に属する・・・今なら力も弱そうだし簡単に還すことができます」
重い顔で、それでも毅然と言う春菜に軽い恐ろしさを感じる吹雪。それは化け物に傷つけられる恐ろしさではなく、化け物を傷つけることへの恐ろしさであり、目の前の清爽なお嬢様が、自分とは明確に異なる意志を持つ者であるということでした。本来、剣術研や妖怪バスターとしては春菜の思想こそが当然であり、本来滅するべきもの以外は可能な限り穏当に扱うべきだと信じる吹雪こそが異端であるという自覚はあります。ですが、その時少年の青みがかった目には春菜の姿こそが異質なものに映っていました。
退魔業とは、妖怪バスターとはそういうものなのだ。吹雪の目の前で、まだ力の弱い怪は錫杖の一振りで封じられると苦労もなく退治させられてしまいます。薄くなって、かき消えていくかつて老犬だったものの姿に、少年は胸の奥がちくちくと痛む感覚を止めることができませんでした。
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