非常扉を開けるたびに.六


 東京都汝鳥市。木々のうっそうと茂る丘陵を背にした、関東平野の隅に位置する古い町。丘の中腹にある、町を見晴るかす古い神社の境内に祀られている、注連縄を張られた神木は齢一千年を数える古木と言われています。神社の前を通る通学路、高槻春菜が歩いているその道は、丘の斜面をぐるりとまわりながら汝鳥の町に下っていく道でした。多少、まわり道をしても境内の脇を下りるその道は、家々の間を抜ける急な石段の近道に比べて吹き上がる風も心地よく、春菜は幼い頃から神木が見下ろすこの道に数え切れないほどの足跡を置いています。
 一見、清爽でおとなしやかな外見に黒髪を二本しばった少女は凛とした瞳を向けて、彼女が生まれてからこれまで培ってきた十数年の記憶で少しも変わりのない古木の姿を見上げています。その神木がこの町に住まう人々を、生き物を、そして異形のものたちをも見守ってきたことを春菜は知っていました。

「人の世界に住まう。人ならざるものたち、か・・・」

 無知なる者、その名は人なり。呟く少女のことばは彼女が誰からか教わったものであったのでしょうか。立ち止まって頭上に目を向けると、幼い頃より春菜に心身の鍛錬を教えてくれた、今も敬愛する祖父の顔を少女は思い起こしていました。

 神木を見上げていた視線を戻して、歩き出した少女の姿を見て、境内を掃き清めていた小柄な影は言いようのない違和感を感じています。一見すると和装を着た小柄な少年に見える相馬小次郎が、古い鬼の子であることを気付く者がこの町にどれだけいたでしょうか。境内の前を行きすぎる、黒髪を二本しばった少女のように、分からずとも周囲の様子に怪訝な目を向ける者は更に数多くいることでしょう。
 古い神木が祀られている神社にある鬼の子、その異質な存在もこの町では彼らなりに平穏に暮らしていくことができました。異なるものの存在を認める汝鳥の地であれば、それが無害であると思われる限りは安寧に生きることもできるのです。そして自らと異なるものに感じてしまう、どうしようもない違和感は何も鬼の子相手でなくとも、人が人に対してすら抱く感覚でした。

 妖怪や精霊、異形の化け物が住まう汝鳥の町で、人の世に仇なすものを退治する者たちを称して妖怪バスターといいました。そして非公然とした事件を解決する彼らを養成する機関として、汝鳥学園には剣術研究会とオカルト・ミステリー倶楽部というふたつの組織が存在しています。
 残暑の日差しは厳しく、生命があふれる季節に相応しい草木の緑ですらも強すぎる熱気と立ちのぼる湿気で色あせているように見えました。無造作にしばっている髪を揺らせて、緊張に呼吸を浅くしながら学園に面する樹間を歩いていた冬真吹雪は、彼が探していたものを見つけると木漏れ日に背を丸めている黄金色をした毛玉のような少女を見下ろします。素養がある者にのみ見える金色の耳と尾、今は閉じられているまぶたの裏に眠っている赤い瞳を想起すると、少年の背にはこの陽気にも関わらず冷たい汗が滝をつくっていました。

「もう、手遅れか」

 七月宮門前稲荷を名乗っていた、キツネの妖怪めいた少女。七月恋花がかつて祀られていた稲荷神であることを吹雪が知ったのは一月ほど以前だったでしょうか。漠然とした不安はすでに実体を伴って少年の前で寝息を立てており、彼が知ったときにはすべてが始まろうとしていました。
 かつて天乃原に祀られていた稲荷は今では訪れる者もなく、徘徊する神がようやく見つけ出した巫女はそれを祀ることもしない。ただ、誰もが気付かなかっただけなのだろう。自分も含めて、それが近い未来に自分たちに襲いかかる危難となるであろうことを吹雪は知っています。祀られない神は、やがて祟る筈でした。

「冬真くん?どうしたの」
「ん?ああいや、なんでもねーよ」

 つい数日前のできごとを思い返していた吹雪は、怪訝な春菜の声に時の針をもとに戻します。汝鳥学園、剣術研究会の古びた部室の光景も彼らには今や馴染んだものとなっていました。その年の春に新入生として門を潜ってから半年ほどの月日が流れ、当初は不慣れであった少年や少女たちも今では少しずつ、半人前の妖怪バスターとしての自覚と実力とが身についています。
 もともと素養がある者たちは何らかの鍛錬を受けていることが多く、吹雪にしたところで学園に入るまでは異形のものと対峙したことはあまりありませんでしたが、剣術自体は幼い頃から慣れ親しんだ技となっていました。生来、例え化け物に対してでも穏便であることを望む性格のために、剣術研でも敢えて前線に立つことこそ少なかったものの、一打必倒の技には錆も陰りも見せたことはありません。その思想のせいで剣術研ではやや白い眼で見られることこそありましたが、その成長は誰にも認められている一人でした。

「これも顧問の指導の賜物だな」

 力強く自画自賛するネイ・リファールが満足の表情でひとり頷いています。一部を除けば不慣れな学生たちで構成されている妖怪バスター予備軍たち、剣術研究会やオカルト・ミステリー倶楽部ではさまざまな化け物退治や調査といった依頼の数々を必ずしも万全に果たせるという訳ではありません。本職の妖怪バスターと呼ばれる人々の手が足りない場合や、そこまでの重要性を思わせない事件、あるいは不慣れな新人に実践と経験を積ませるために学生たちが送られることが往々にしてありましたが、彼らの手に余るとなれば上級生や、本職の妖怪バスターを呼ぶことになるのが通例でした。
 ですが昨今、ことに剣術研究会では放任主義にして成果第一主義で知られるネイが指導している学生たちが異形の化け物退治であれ、逃げ出した動物霊の探索であれ相応の結果を残しており、顧問としては鼻が高いことこの上ありません。日本史の非常勤講師としては小野妹子を女性だと思っていたというほどの彼女が、剣術研究会の顧問として評価されていたのは顧問の力かあるいは部員の力でしょうか。

「特に高槻は良いな。妾の教えをきちんと聞いているようで感心なことだ」
「ありがとう・・・ございます」

 ネイが部員たちに何か懇切丁寧な指導をしたという記憶は誰も持ってはいないのですが、評価されていること自体は純粋に喜んでもいいのでしょう。通称暴君先生と呼ばれている顧問の指導方針はともかくとして、春菜は前線に立って異形のものに対した機会こそ少ないものの、後方では確実に化け物を牽制したり、あるいは追い詰め、仲間の護衛もこなす支援役として認められるようになっていました。
 春菜の拙い剣技はたとえば吹雪のような剣術の使い手には遠く及びませんが、冷静な判断力と迷いのない行動力はともすれば称賛に値したでしょう。前衛でも自分の身を守る程度のことはできるようになっていましたし、何より浄術や陣術においても才があったのではないかと思えるほど急速に術法の力が増していたことは、以前から少女と付き合いのある友人たちにも軽い驚きを与えています。

「でも大丈夫?春菜ちゃん、急な力は不安定になるから気を付けないと」
「ありがとう。なるべく抑える方も意識するようにしないとね」

 鴉鳥真琴は春菜と同じく地元汝鳥の旧家の生まれで、家同士の面識もあったために幼い頃から見知った関係でした。春菜の祖父は神事に奉納の戦いを行う力士の出自であり、齢七十を越えてなお自らの道場で師範を務める人物であることを真琴は知っています。孫娘の春菜は体術どころか祖父ゆずりの武術を体得しており、体捌きにおいても精神の修練においても一朝一夕に築かれたものではありません。真琴が知っている春菜もまた祖父と同様に厳格な人物であり、その彼女の戒めは他者が思う以上に厳しいものであるのでしょう。
 春菜の力は祖父から習ったという精神修養、歩法と呼法とをもとにして相手を打ち据える技を基にしています。汝鳥の旧家で礼儀作法に華道や茶道、書道から祖父ゆずりの武道までを嗜んでいる彼女は研ぎすまされた厳格な精神と、健全な肉体をもって異形のものを打つことができました。いちおう、お嬢様で通している春菜がそうした武術を学んでいることは真琴以外の友人は誰も知らないことになっています。


 汝鳥の神社周辺は町を囲う丘陵地帯になっていて、そこは町の外れでもあって荒れた古い寺や昔からある旧家の建物がある他にはただ木々が茂っているだけの場所でした。山を所有している地主がときおり枝を払いに入ることを除けば立ち入る者もほとんどなく、今でも狸やイタチが出ると言われており、大袈裟な言い方をすれば関東平野の小さな秘境となっています。
 その丘陵地を下った一角、住人には洒落っ気をこめて迷い家とも呼ばれているマンション・メイヤで、龍波輝充郎がどこか居心地が悪そうな風情で床に転げています。一人暮らしの輝充郎の部屋は整然と片付いているとは言いがたいものの、生活臭はありましたし足首までを汚物に浸すような雑然とも無縁でしたが、彼が感じている居心地の悪さは部屋の様子とは関係がありません。

「どうも最近、妙な気配がしやがる」
「気のせいならいいんですけどね」

 逆立った白銀の頭髪に赤い瞳、鬼の血が混じった半妖である輝充郎が暮らしている、そこを迷い家と呼ぶのは人の世に迷う異形のものたちが暮らしている、そのマンションへの皮肉な現実を表したものかもしれません。輝充郎の声に答えて、小さな身体を落ちつかなさげに左右に揺すっているのはジョシュア・クロイスでした。小さな身体、というのは大柄で筋肉質な輝充郎と比べてだけの話ではなく、西欧から渡来してきた小人であるジョシュアは実際に背丈が人の腰あたりまでしかありません。
 この迷い家には彼ら以外にも幾人かの異形のものたちが暮らしており、人の世に彼らなりの境を設けて人と協調せずとも不干渉を決め込んでいます。輝充郎自身は半妖であってももともと人の家に人として生まれていたこともあって、学園に通い剣術研究会の一員として人に仇なす異形のものを打ち倒すこともありました。妖の血が混じっている自分が妖を退治することに忸怩たる思いを抱かないといえばそれは嘘になりますが、ここは人の世界であって輝充郎も人の世の習わしの中で育った者であるのです。ここは人の世界だから人に仇なすものを討つのは仕方あるまい、そして異形の里たるこの迷い家に人が不必要に介入するのであれば、自分はその時は彼らのために戦うであろう。

「って綺麗に割り切ってるわけじゃねーけどな」

 自分のことばに苦笑すると、輝充郎は話題を戻しました。彼やジョシュアだけではなく、この迷い家に住んでいる多くの妖たちが最近感じている違和感めいた気配。どこか居心地の悪い、それを感じられるようになったのはごく最近のことです。それは大きな力のようでもあり、不快な予感のようでもありますが漠然とした虫の知らせ以上のものではありません。彼らが人ならぬものでなければ、そのようなことを気にもしなかったことでしょう。

「一度オッサンに聞いてみるか・・・」
「そうですね」

 大柄な輝充郎と小柄なジョシュアは大儀そうに立ち上がると、上着を手にとりました。汝鳥の町、そこは古くから人と異形のものとが互いに関わってきた場所でもあり、学園はその中でも古き歴史を見続けてきたものたちがある場所のひとつでもあります。
 マンション・メイヤから5分ほど歩いた、学園の隅にある用務員室で飼われている老犬が、大顎という名の狼の怪であるということを知っているのは輝充郎を始めとする幾人かの者たちだけでした。齢を経た力のある妖であるとはいえ、オッサンと呼ばれていることに不快そうな顔をしながらも大顎は年若い訪問者にことばを投げかけます。

「妙な感じですかい・・・そうだねぇ、此処ではあまり気にはならないが」
「ということは、何か心当たりはあるんですね?」
「心当たりってほどじゃない。ただ妙な、それも恐ろしく強い力を感じることはあるねぇ。とはいえアンタらとそう違った感覚ではないと思うがね」

 大顎は元来嗅覚や聴覚に優れている獣の妖であり、その鋭敏な感覚はジョシュアや輝充郎を遥かに凌駕するものでした。最近になって、時折どこからか息苦しいほどの力を感じられることがある。町のそこらにある社の方じゃないだろうか、という大顎もそこまでは自信が持てずにいます。

「社なんてそんなにあったか?えびす神社と汝鳥神社くらいしか知らねーが」
「そいつは・・・」

 大顎が続けようとしたところで、彼らの耳にたかたかと廊下を走りくる音が響きます。狼の怪の正体は知っている者には公然であれ一応秘密となっており、ジョシュアや輝充郎は耳をそばだてながら何ごともなかったように用務員室の扉を開きました。息を切らしている、見知った吹雪の顔に安堵すると輝充郎は剣術研の後輩に声を投げかけます。

「おーい。どうしたよ、吹雪」
「あ、先輩。汝鳥神社の近くでまた出たらしいです。俺らも呼び出しかかってますよ」
「神社だってぇ?」


 妖怪地すべり。名の通り土に属する自然霊に近い異形の化け物が、汝鳥神社のある丘の近くに現れて町中へと下りてこようとしているのが発見されたということです。地すべりとは泥や砂土と同化して薄べったく広がっているだけの低級な存在ですが、単純なだけに大きさや力も尋常なものではなく舗装された道路の下や建物の下に入り込むと地上に大きな被害を及ばします。

「妾たちにふさわしい大物ではないか。本職のバスターも召集しているそうだが、学園の方が早く動ける。妾たちの実力を見せつけるいい機会だ!」
「そんな訳で公団と汝鳥市から可及的速やかに、でも消極的な退治の依頼が来てマス。すぐ動ける人だけ集めてオカミスと剣術研で共同作戦デスねー」

 気合いと根性で緊急召集だと息巻いているネイを横目に、オカルト・ミステリー倶楽部の顧問であるウォレス・G・ラインバーグが飄々と説明を続けています。すでに放課後も遅い時間であり、それでも居残っていた部員たちが少しずつ集まっている中で吹雪や輝充郎に続いて入ってきていた真琴が控えめに手を上げました。

「あの・・・確かにそんなものが市街地に入ったら大変なのは分かりますが、何故その依頼が消極的なものになるんでしょうか」

 もっともな疑問に、おや細かいところまでよく聞いてマスねと感心したラインバーグは、がさつな顧問の下で立派デスという余計な一言に続けて簡潔に説明します。化け物の出現によって地面が割れたら確かに困る、だが割れるのが地面程度で済むのならば補修の仕事は土建と行政にくるものだから、汝鳥市にとっては丁度よい公共事業になって予算を使うことができる。しごく大人の事情をにじませる、ラインバーグの説明にネイも腕を組んでうなずきます。

「実にくだらん事情だがエロブリテン略してエロテンの言う通りだ」
「またスパームソング聞かせましょうか?」
「やめんか!」

 顧問同士のやり取りはともかく、大規模な事故が起こる前に解決したいという気持ちも本音であり、依頼者としては緊急に動くことのできる学園にも頼まざるを得なかったのでしょう。そして、依頼が緊急である理由はもう一つありました。
 汝鳥神社の近くで見つけられた化け物は地面の下を移動しており、そのはっきりとした所在が知れていません。市街地に向かえば大きな被害をもたらすかもしれない、その化け物がどこにいるのか分からないという事情が事態をやや深刻なものにしています。異形の化け物を捕らえて封じるとして、地の下にいるものをどうやって見つけるかが問題となっていました。

「誰か予測はできんのか?」
「異形のものであってもその行動は生態次第です。それが分かれば先回りもできますが・・・」
「地面の下には道もない、か。まいったね」

 ネイの問いに真琴と吹雪が考え込む顔になります。もともと自然霊が現れる理由は自然ならざる環境への不満であることが多く、これまでの幾つかの報告では地すべりが土の地面がむき出しになっている場所よりも、町中を選んで下りているらしいことは方々で目撃されているアスファルトのひびで分かっていました。であれば地すべりは舗装された町中へと向かっているのは良いとして、迎え討つとしても町のどこでそれを待てば良いのか。

「せめて探知はできませんかネ?」
「探知の陣を張るにも場所の限定は必要です。汝鳥の町全部を覆う術でもあれば話は別ですが」

 ラインバーグの質問に答えたのはオカミス所属の柚木塔子です。術者としては力が弱いとはいえ、年齢のわりにベテランの術士であり、上級生として冷静にメンバーを率いることができる部員でした。数カ月ほど前にも彼女のチームで、稀少なもぐらの動物霊を見つけて捕獲したことがありましたが、その時には動物霊の生態を予測してそこに網を張っています。今回も、同じ方法を用いるならばやはり化け物の移動先を予測する必要がありました。

「分かるかも・・・しれません。ちょっと調べてみます。真琴さん手伝ってくれますか?」
「あ、はい。いいですよ」

 一度小首を傾けてから、真琴を連れ出したのは春菜でした。サポート組は地すべりの居場所を探すために手分けして調査と捜索、フォワードはまとまって神社方面に移動、本陣で采配を振るうネイは部室の床机にどっかりと腰を下ろして電話機を前に連絡を待つ。組織的な行動が自主的なものを含めて速やかに行われていることは、彼らが実践に慣れてきたということと大仰な顧問の扱いに慣れてきたことの双方を意味していたのでしょう。
 現場周辺での見回りと聞き込み、これまでの発見場所を分類して移動先を推測する。あるいはより被害が深刻になる地域を重点的に警戒して、とにかく最悪の事態を回避すべく立ち回る。もう少し気の効いた者であれば汝鳥の地図を広げるか、古い記事や記録から同様の事件の手がかりを探そうとした者もいたかもしれません。ですが彼らが別れて10分もしないうちに、地すべりの移動先が分かったと本陣に連絡を入れてきたのは、真っ先に部室を出ていた真琴と春菜でした。

「自然霊であればより単純な法則に従う筈です」

 部室を出て真琴と二人、廊下を早足で歩いていた春菜が曰く。土気に属する地すべりは五行の術法からすれば相性が良いのは水気であり、逆に悪いのは木気となります。もしも化け物が木気を嫌って地中にある水脈をたどるように動くのであれば、現場である神社から木々を避けて町に流れるであろうし、その時にたどる地中の水路が分かれば先回りをすることができるのではないだろうか。

「地中の水路・・・水道管ね?」
「ご名答」

 真琴の言葉に春菜は笑みを浮かべます。地すべりの移動で水道管が破れて地中に水が染み込み、化け物はそこにすべりこんで地上を割りながら進んでいく。水道管であれば町の通りに沿って設けられているし、であれば地中の道は地上の道とさほど変わらぬ経路となるでしょう。
 水道管が破られれば真っ先に苦情が入るであろう、役所と水道局の窓口に次々と確認を入れた真琴と春菜が急な断水や水道水に泥土の混じった場所を探りながら追いかけてみると、地すべりはちょうど大通り沿いに輝充郎たちが暮らしているマンション・メイヤの方角へと向かっているようでした。丘から下りてくる相手を住宅地ぎりぎりの場所で迎え討つ。迎撃地点は丁度メイヤの手前、正面の道路が選ばれることになりました。神社側から下りてくるメンバーと、調査に出ていたメンバーが集まると塔子の指揮に従います。

「地すべりが下りてくる付近の地域一帯に複数の陣を張って捕捉する。路面の一角、アスファルトを切って水を張っておきそこに誘い出す」
「土の化け物だったら、地面から追い出せば倒すのは難しくねえな」
「単純なだけに力は強い。油断は厳禁だ」

 てきぱきと指示を出しながら、塔子が弱いながら小さく簡単な陣具を周囲のあちこちに配置させるとそれぞれに術を施してまわります。後輩の鷲塚智巳に漕がせた自転車の後ろに乗って、駆け回りながら塔子が尋ねました。

「こういう時に多賀野がいると助かるんだが・・・捕まらないのか?」
「ちょっと連絡がつかないみたいです。探してきましょうか」
「そうだな、これが終わったら頼もう」

 陣を張り終えたところで智巳を送り出すと、塔子は全員を集めて状況を整理します。配置としてはアスファルトが切り開いてある後方にフォワードが陣取って、バックヤードのメンバーが警戒しながらその周囲を取り囲むといういささか変則的な配置となりました。塔子の陣にかかったところで化け物の位置を確認し、バックヤードが引きずり出したところで輝充郎らがこれと対峙します。ボロ普請とはいえ、人の家を崩されでもしたらたまんねーなとは輝充郎のことばでした。
 緊張の水位が増していく中で、バックヤードの春菜は両者の中間あたりの位置、吹雪たちと並んでフォワードを援護する場所に立っています。黒髪を二本しばった少女が手にしている、長い木の杖に目を止めた吹雪は同級の少女におやという目を向けました。

「その杖、こないだ柚木先輩にもらったのと違わないか?」
「相手は土の怪だから。古木の枝から削りだした杖があったんで借りてきたの」
「成る程。だがそれなら前の木剣でもいいんじゃねーか?」
「まあ、ちょっとね」

 なぜか苦笑ぎみの顔になる春菜。用いるなら少しでも状況に適したものを用いたい、だが自分は剣術よりも武道を嗜んでいるので地面を打つなら剣より長柄の杖の方が扱いやすい、とはお嬢様を自認する春菜としてはなかなか言えません。わざとらしく言葉を濁す春菜の耳に、塔子の声が聞こえてきました。

「来るぞ!東からまっすぐだ!」

 一同の間に一斉に緊張が走ります。一見したところ何も変わった様子はありませんが、鋭敏な感覚を持つ一部の者にはすでにその存在が認識できていました。地面の下、すぐ足下の路面の下を滑るように移動する地すべりの気配。その力が少しずつ近付いてくる感覚に、輝充郎はあの不快な感覚に近いものを感じます。

(コイツか・・・いや、違う。だが何故あの感覚が強くなっている?)

 一瞬、輝充郎の脳裏を疑問がよぎりますが、路面が割れて流れる粘土のような姿が伸び上がる様子を見ると目の前の戦いにすべての神経と思考を集中します。すぐに身構えると鬼の姿へと変容を始めて突進、他の仲間たちやバックヤードの塔子たちも春菜や吹雪たち護衛の後ろから前進し、武器や拳で殴りつけるか陣術で怪の一部をちぎりとるように囲ったところで、他の術者がそれを吹き飛ばします。
 泥土は次々とちぎられては姿を消していきますが、巨大なかたまりは絶えることなく広がり続け、あふれた流れが幾人かの足を取ると随所では悲鳴も上がっていました。水気を含んだ泥土の重さそのものが足を押し潰そうとする、思わぬ苦戦にも退くことなく最前線で拳を振るっていた輝充郎の耳に凛とした声が聞こえます。

「止めます!」

 地すべりの化け物を挟んだ向こう側で、春菜は杖を手に取ると呼吸を整えています。それは少女が幼い頃から幾万回と繰り返してきた、鍛錬に用いる呼法でした。両足は軽く等間隔に開き、杖は身体の前に、左手を一端に添えて一端は地面に向ける。心身を集中して研ぎ澄まし、地に立てた杖に歩法を乗せ重心を落とすと同時に力を一点に解き放ちました。

「木縛土、木の力は広がって土を縛る・・・はああっ!」

 春菜を中心にして、広がった力は波というよりも地中を伝う根のように伸びると異形の化け物を貫いてその動きを封じます。木々の根が地面を固め、崩れるのを防ぐかのように自然霊であれば自然の法則に基づく力こそが最も有効に働く筈でした。動くこともできず固定された怪は少しずつ、確実に削られていくとやがてすべてが消し去られてしまいます。ようやく周囲が落ちついたところで、力を解き人の姿に戻ると上着を羽織っていた輝充郎は、近くでややぼんやりとしていた吹雪にお疲れ、と声をかけました。

「まあ、俺ん家が無事で何よりだな」
「そーですね。でも高槻も凄いよな、俺もそろそろフォワード志願しますかね」
「お前さんだって行けるぜ?もともと素人じゃねえだろうが」
「そうですね。どうせ間に合わないにしても・・・」

 脈絡のない、吹雪の言葉の真意を図りかねた輝充郎は眉を寄せます。最近、どこか心ここにあらずという後輩の様子に輝充郎は気が付いてはいましたが、新人が第一線に入るようになる、この時期には決して珍しいことではなかったでしょう。

「そうだな、一年ならお前さんと高槻の嬢ちゃんは行けるだろう。最近どーもあの嬢ちゃんは近よりがたいがな」
「おや、先輩はお嬢様は苦手ですか」
「そう言うお前はお嬢様が好みか?」

 軽口を叩き合うと笑う二人。長い陽が落ちかけてきた赤い世界の中で、泥に汚れた靴を友人と嘆いている少女の姿が彼らの視界に入ります。地すべりは封じられて力を失い、周囲は平穏であの奇妙な気配も今は失われていました。
 最近の奇妙な感じも、あるいは気のせいだったろうかと気を抜こうとした輝充郎の背を、唐突に悪寒にも似た強い気配が通り抜けました。全身の毛が逆立つ、脅威に対した時の感覚が半妖の身を貫きます。

「お、おい!何だよ・・・コイツは!」
「来ましたか・・・とうとう」

 笑顔は一瞬で消えて、預言者めいた吹雪の呟きを周囲にいた幾人かが聞きとがめます。少年の表情は絶望よりもむしろ諦観に満ちており、すべてを知りながら何もできなかった思いが込められていました。輝充郎と同じくその気配を感じていた者たちが周囲に目を向けている中で、学園まで戻って多賀野瑠璃を探していた智巳の自転車が急ぎ駆け戻ります。その顔は蒼白で、少年が見たものの存在を雄弁に物語っていました。

「恋花ちゃんが、七月宮稲荷が、祟り神になりました。瑠璃さんは・・・」

 すべては手遅れだった。吹雪が気が付いたときにはもう間に合わなかった。ですが、それを知っていた少年はそれでも未だに覚悟ができていませんでしたし、他の皆は果たして覚悟ができるのだろうかと吹雪は深刻に思っています。

 祀らぬ神は祟り神になる。そのとき、彼らは神を斬らなければならないのですから。

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