非常扉を開けるたびに.七
東京都汝鳥市。木々のうっそうと茂る丘陵を背にした、関東平野の裾野に位置する古い町並み。東南の隅、丘の中腹にある町を見晴るかす古い神社の境内に祀られた神木は齢一千年を数えると言われており、大人が数人手をつなげても抱えきれないほど太い幹には注連縄が巻かれています。その神木はこの町に住まう人々を、生き物を、そして異形の化け物ですらも見下ろして長い時を過ごしてきました。
古来より異形のものたちが住まう町である汝鳥を囲っている力、それはたいていは社のかたちを取ってこの不安定な土地を鎮めています。町の西北の方角、汝鳥学園の隅で木々に埋もれていた古い社にもまた忘れられた神が鎮められ、祀られていました。
「貴方も、祀る者なのですか?」
その社、浅間神社に祀られていたコノハナノサクヤヒメノミコトが、少女に問いかけた言葉です。その意味は周りにいた娘たちにも、当の少女自身にも分からずに、結局少女はあいまいな返事をかえすことしかできませんでした。
時として人は世界でただひとつの混沌と無秩序を示すものである、と言われる通り、獣であれ異形の化け物であれ、神でさえも自分自身の存在から自由になることはできません。草木が花を咲かせずにはいられないように、鳥が風にさえずらずにはいられないように、蜂が蜜を運ばずにはいられないかのように神は自らにとって当たり前のことを為すことによってその存在を主張します。もしも、それを怠れば神であれ異形の化け物であれ、彼らが存在する理由を失うことになるでしょう。それは、彼ら自身にとって消滅を意味しています。
近年、汝鳥の町において異形のものたちが巻き起こす事件が増加しつつあることについて、それを大いなる災厄の予兆と感じて首をすくめる者は数多くありました。もっとも、何か悪いことがあれば人は誰でもそのような予感を抱くものですが、あるいはより悪意を持った者がより積極的に災厄を呼ぶことができるのであれば、曖昧な予感にも真実の一端は含まれているかもしれません。例えば祀られた古い社を汚したり、慰霊の碑を傷つけ倒すような輩は社会的な偶然が引き起こしているのか、それを装った意図的な必然が引き起こしているのか。いずれにせよ現れた事件に対して、誰かが人としてそれを収めなければならないのです。
「で、ある者は人であれ神であれ滅ぼせと言う。またある者は人を捨て神の力を借りようとする、か・・・やってらんねーな」
汝鳥学園の一角にある用務員室。冬真吹雪は太い眉根をよせると、軽く両手を広げて肩をすくめます。その動作も表情も、棘のある口調も少年の不満を雄弁に物語っていました。状況に、ではなく状況に対する人々に対する不満を。
「最近過激な若いのが増えたのは確かだが、アンタもそのクチかね」
「悪い。言い過ぎたよ」
吹雪をたしなめたのはその用務員室で飼われている老犬であり、大顎という古い名を持つ狼の妖です。汝鳥における妖怪退治の専門家、妖怪バスターの予備軍がこの学園には設けられており、そこには吹雪のように人として鍛錬を積んでいる者もいれば、大顎のように異形のものがこれを助ける例もあります。彼らは彼ら自身の住んでいる世界の思想と法則を守るという、おそらくは半ば相重なる認識のもとに協調して協力をしていましたが、すべては重なりようのない主張は同時に塞ぎようのない溝ともなりうるのでしょう。
昨今、異形のものたちが巻き起こす事件の増加に伴って、学園内にはそれらに対する穏健派と強硬派とに分かれる傾向とが見えていました。彼らは同じ学園内で分裂とは言えぬまでも対立を引き起こしており、異形のものの手を借りてまで異形のものに対する、そのパラドックスを抱えていることが事態をより複雑なものにしています。
「先輩や冬真くんの主張は分かります。でも現実の事態には現実的な対処をするしかありません」
剣術研究会でもそうした強硬派の一人である高槻春菜は、汝鳥の旧家の生まれであり幼い頃より厳格な家で育てられた少女でした。一見しておとなしやかな、清爽な少女にしか見えない彼女が剣術研究会に所属する新入生として、妖怪バスター予備軍として恐ろしげな異形のものたちに対峙していることに意外さを感じる者は多かったでしょう。黒髪を二本縛り、凛とした目をした少女は彼女の厳格な育ちのままに、自然ならぬ存在は彼らがあるべき場所に還すべきだと常々主張をして止みません。
人の世において、人の世に住めないものが人の世に敢えて住むべきではない、春菜の主張は単純明快なほどの正論であり、感情的な素振りもないだけにいっそう揺るがぬ強い思いとなっています。
「じゃあ、それが祟るなら妖でも神でも人でも封じろってことか?」
「おかしいですか?害を為したら裁かれる、それは人もそうでないものも例外ではないと思いますが」
剣術研究会の部室で、不満げな顔を見せている龍波輝充郎を春菜がいっそ堂々と諭しています。輝充郎は剣術研でも肉弾戦を得意とする武闘派で通っていますが、その彼は必ずしも攻撃的ではなく自身隔世遺伝によって生まれた半妖怪の身であることを思えば強硬な意見に全面的な賛同はできません。ですが春菜も、相手が上級生であれ半妖怪であれ、それが彼女の主張を変える理由にはならなかったでしょう。後輩の正論に対して輝充郎は別の正論で対します。
「それならまだ害を為してもいない奴を捕まえることもないだろうよ」
「その間に犠牲が出たら?人里に熊が降りてきたら殺さずとも捕まえるか追い返します」
彼らが口論する原因は、彼らの中から人に祟るものが現れたという事実でした。オカルト・ミステリー倶楽部に所属する多賀野瑠璃、えびす神社の巫女の娘が連れていた古いキツネの稲荷である七月恋花が、永く祀られぬうちにとうとう祟り神と化したことが発端となっています。瑠璃はその場こそ難を逃れたものの、祟り神はそれが取り憑いている彼女を憑き殺さなければ力を得られず、巫女である自分が祀らずにいたことが原因で神を祓わねばならぬという不条理が彼女を苛み、追い詰めていました。
傷心の瑠璃は自分の社にある神を降ろしてでも祟り神に対する力を望もうとしており、それを忌避する声も多くありましたがいずれにせよ姿を消した恋花をどうするかという話になって穏健派と強硬派の間に意見の隔たりが生まれたのです。剣術研とオカミスを問わず、上級生と下級生を問わず彼らの対立はまとまることがありませんでした。
祟るのであれば封じなければならない、それが春菜たち強硬派の正論でしたが人は正論だけで動けるほど偏狭な存在ではありません。特に彼らの中でも輝充郎のように自分が妖怪や半妖怪である者たちや、吹雪のようにそれらと親しい者にとっては、友人を狩るような主張に賛同できる筈もありませんでした。異形のもの、妖怪ならぬ神に対するに部員たちは力を合わせるどころか意見を合わせることもできなかったのです。
恋花が祟り神と化したこの事件が残した傷は大きかったのですが、より以上に大きなことはそれまで剣術研究会とオカルト・ミステリー倶楽部の二つの組織が互いに競い合いながらも良い意味でなれ合ってきた、そこに深刻な対立が生まれたことにあったでしょう。春菜ほど明確な強硬派は未だ少数でしたが、いずれ祟る神を鎮める方法がないのであればその声もやがて強く大きくなっていくと思われます。
「厄介なことになったもんデスねぇ」
言葉の割りには呑気な口調で、オカミス顧問であるウォレス・G・ラインバーグは愛用のティーカップをぞんざいにテーブルに戻しました。これまで剣術研とオカミスの双方を煽りながらも、適度になれ合いながらバランスを取ることで互いに研磨していけばよいと考えていた彼にとって、現在の状況はとても望ましいものとはいえません。これまでも剣術研には比較的強硬派が、オカミスには穏健派が多かったとはいえそれはあくまで傾向のようなものであり、多少の意見の違いは互いにブレーキとなって暴走を止めていたのが実状でした。
「とはいえこのままではそのブレーキがなくなっちまいまス。困ったモンですね」
「だが、つついて薮からヘビが出たらもっと厄介ですよ」
半分独り言のような、ラインバーグの呟きに答えたのは柚木塔子でした。本来、彼女自身もオカミスでは珍しくやや強硬派のきらいはありましたが、それは彼女の現実主義の故であって、同時にそれは対立を内包する今の現状が好ましくないことを理解してもいます。その塔子の目には、オカミス顧問として皆の競争心が停滞しないようにテキトーにヤジロベーを揺らしてあげれば良かったんデスが、と言っているラインバーグの姿は珍しく深刻に思い悩んでいるかのように見えました。
「こんな状態では肝心の仕事も落ち込みマスけど、まあその辺の失敗は全部メリケン娘に押しつけちまえばいいんデスけどね」
「それはどういうことだブリ公!」
「あら、いたんデスか?」
オカミスの部室に剣術研顧問であるネイ・リファールがいることは、その逆の場合に比べて遥かに珍しいことでした。主君として自分の城を守ることが大事だ、と常々うそぶいている彼女は専ら自分の部室で王侯のように振る舞いつつ部員をこき使っているという評判でしたが、その日は相談事も兼ねて是非にとラインバーグに呼び出されていたものです。
「いたも何も呼んだのは貴様ではないか!妾が来てやったのに安物の茶と結構な態度でのお出迎えだな」
「おや、確かに茶は安物デスが隠し味には気がつきませんか?」
「何?そんなものが入っているのか」
「入ってませんよ。単なる安物の茶デス」
そのやり取りに軽くこめかみに指を当てている塔子の目には、ラインバーグがわざとネイを挑発することで競争心を煽っているようにも見受けられます。制御できる範囲のいざこざを起こすことで大きな歪みを防ごうということかもしれませんが、普通はそれを指して騒動屋といわれることを英国人教師は理解していたでしょうか。
ただ、ラインバーグだけでなくネイにしたところで、部員が分かれて対立しかねない今の状況を好ましいと考えてはいませんでした。彼女が素直にラインバーグに呼び出されたのも現状に思うところがあったには違いなく、幾ら究極の放任主義であっても放任したあげくに崩壊しては何の意味もないのですから。
「まあいいデス。それよりこんな折りなんで自分とこの部員はちゃんと押さえてくださいヨ?こういうときに怖いのは一人がフライングサーカスしてみんな引っ張られちまうことなんデスから」
「分かっている、崩壊は内部から起こるのが歴史の常だからな。トロイの木馬を自前で作ることはない」
日本史教諭のネイが用いる例えとしてはどうだろうかと思いつつ、一応顧問らしいやり取りにラインバーグは続けます。
「あんまりこういう事は言いたくないんデスが、高槻サンには気をつけといた方がいいデスよ。真面目な娘が手のかからない娘だなんて限らないんデスからね」
◇
恋花の件を皮切りにした訳ではないでしょうが、汝鳥の混乱は急速に広まって、それまで張り巡らされていた地下茎が各所で邪な光を求めて芽を吹き出すようになりました。その一つが地蜘蛛衆と呼ばれる異形の集団で、もとは京都汝鳥で暗躍していたという彼らは土蜘蛛の怪が人間じみた姿に変化をするようになったものたちであり、力こそ弱いものの集団で行動する数が恐れられています。
彼らは輝充郎が生まれ故郷の京都にいた頃から当地に現れていたものたちであり、彼自身が対峙をした記憶も古いものではありません。異形のものたちでこうした意志を持って活動する集団は稀なものでしたが、より歴史の古い京都汝鳥にはそうした集団が幾つか存在しており、地蜘蛛衆以外にも悪名高いスニール商会などが知られています。
「この面倒な時に・・・よりによってこの東京まで来るたぁな」
彼らの目的は未だ知れませんが、暗躍しながら本職の妖怪バスターをも襲う組織力は侮ることができず、出動しているところに物陰から集団で飛びかかったり、単純だが効果的な罠の数々をしかけたりしてました。このため剣術研やオカミスの部員は一人での活動が自粛されることになって、複数人での行動を原則とするようになる一方でそれは慢性的な人手不足を助長することに繋がります。
何しろ関わるべき事件が急速に増えている状態で、しかも手を分けることができないのですから、特に剣術研を中心として直接的な脅威から身を守ることができる部員たちには他の部員の護衛としての任務が増えることになり、吹雪や春菜が上級生がいないチームを任される機会も増えるようになってきました。その意味では、危急の状況が部員たちを危急に育てている一面もまた否定できなかったでしょう。
「どうでもいいけど、怪我人は減らしてね?保険下ろしたくないし」
「だーから、護衛増やしてるだろ保険屋」
保健室で、養護教諭のみなとそらに輝充郎が苦笑します。妖怪バスター予備軍の集まりという、特殊な事情が存在する汝鳥学園で、表向きはネイが連れてきた教員らしいそらは二つの役割を任じていました。ひとつは怪我人のかんたんな治療、もう一つは傷害保険や生命保険の勧誘。
そらもまた人兎の半妖であることは関係者には周知の事実となっていますが、一見すると長くつややかな黒髪を持つ女性であり、素養がある者には頭上に伸びる兎の耳がたいそう違和感を感じさせました。学園の保健室にある妙齢の保険医、ということで妖怪バスター予備軍にも一般生徒にも人気のあるそらですが、伝え聞く評判では介護の腕前はどうにも信用できないとも言われています。妙な人気があれ腕前は信頼できない、そのあたりがいかにもネイが連れてきたらしいという噂を助ける役に立っていました。
「いいけどね。それより保養所の話は聞いた?誰か行かせといて」
「例の集団食中毒だな。一年連中に行かせるよ」
とはいえ、医療機関や治療師への口利きや逆にそちらから得られる情報の存在は貴重であって、保健室が臨時の情報交換場所になる例も珍しくありません。音無山に近い保養所で起きた、季節外れの食中毒の話はそれが異形の化け物が原因かどうかも知れてはいませんが、放置することもないでしょう。そう思った輝充郎の脳裏に、ふと後輩の春菜が先日言った言葉がよぎりました。
(その間に犠牲が出たら、か・・・俺がやってることも嬢ちゃんと変わんねえのか?)
そうではない、と輝充郎は考えています。未然に防ぐことは重要であっても、その手段は一つではないと考えるべきでした。輝充郎はいささか彼らしくもなく迷いながら、吹雪たちを集めるとチームを組ませます。メンバーは吹雪に春菜とオカミスから鴉取真琴、そしてオカミス顧問の妹でもあるトウカ・A・ラインバーグの四人。トウカ以外は調べごとには向いた連中だろうと思いながらも、昨今の春菜と他の部員たちとの確執を思えば不安がないとは言えません。穏健というよりも親妖怪のトウカを加えたのが意識と無意識のどちらであるかは、輝充郎にも分かりませんでした。
「保養所だろ?原因があるなら配食センターじゃないか?」
「ありえますけど、同じセンターが関連する別の施設では事件が起こっていません。まずは現場百遍でいいと思いますよ」
吹雪の予想に答える真琴の見解には充分説得力があるように思えます。剣士としても術者としても取り立てて才を見せていない真琴ですが、彼女の判断は信頼ができました。非公然ながら汝鳥の役所にある、妖怪バスター専門の窓口に届け出ると追跡調査の許可を受けて、真琴たちは件の施設、丘に面する古びた保養所を訪れます。対外的には市に協力するボランティアの学生という立場になる部員たちは、若いのに大変だねえという職員たちの労いを受けながら施設の周辺を歩いてまわりました。
「ってゆーか、思いっきりいますわあ」
トウカが指さした先、鉄柵を超えて手入れがされていない林の奥に彼らは足を踏み入れます。これこそ彼女を連れてきた一因であり、妖怪愛好癖のあるトウカはその所在を見つける能力にひときわ優れていました。真琴がバックヤード、吹雪と春菜はフォワード、トウカは金髪碧眼の人形じみた外見から及びもつかない力だけは持っているため、彼女なりに身を守る術は持っていますがあまりに親妖怪すぎるために戦力となる類ではありません。
吹雪などにしてみれば、自分たちの仕事は異形のものを滅ぼすことではないのだから、彼らと親しく自らの身を守れるトウカに何の問題があろうかと思いましたが、春菜には別の見解があるかもしれません。ゆっくりと首を巡らせて、周囲に人の目がないことを確認すると吹雪は丁寧な彫り込みが入った木刀を、春菜は一端が青銅で鋳造されている錫杖を取り出すとそれぞれしっかりと握ります。二人の後ろに守られるようにして、真琴が声を落としました。
「人避けがないので、気を付けてくださいね・・・」
その声を背に、吹雪と春菜はゆっくりと前に進みます。やはり後ろにいるトウカには異形のものの気配がはっきりと見えているようですが、前にいる二人にはまだその姿を認めることはできません。短い下草を踏み分けて、苔むした木々を避けながら林の奥に入り込んだ彼らの視界に用水用の古い井戸と、その傍らに立っている和服を着た子供めいた姿を見つけました。
「あそこに・・・います!」
「カビ坊主さん、ですわね」
カビ坊主、とは豆腐小僧の類縁にあたる化け物であり、人間の子供めいて見える姿をしていますが不格好で巨大な瓜に似た頭を持っているので、一見して人外のものと分かります。豆腐小僧と異なるのはより直接的に井戸や水場に近付いてはそこにカビを撒き散らすことで、特別暑い時期や湿気の多い場所に現れるとされていました。古来より、留意すべき事象が擬人化されてそれが事実となる。カビ坊主もそうした正統に生まれた化け物の一種と思われますが文献に残る記録としては比較的新しい存在ともされています。
剣術研への依頼は保養所で起きている食中毒の原因を探し出して、それが妖など異形のものによる原因であればしかるべく対処すること。事件の全容が判然としない以上は、依頼や指示が曖昧になることも決して珍しいことではありません。このような場合は事件の原因に応じて、妖怪バスターが自ら判断することになりますし、もともと非公然な存在である異形のものに対する処遇が法的な問題に発展することもありませんでした。結局は道義と倫理観の問題であり、身を賭して危難に立ち向かう妖怪バスターの良心に頼るしかない問題であり、だからこそことは余程厄介なのです。
「オマエタチ!ワレノ、モノニチカヅクナ!」
人の世から生まれた妖が、人の言葉を解することは元来珍しいことではありません。たどたどしい言葉で叫ぶカビ坊主はそのまま身をひるがえすと、林の奥に入り込もうとします。吹雪はすぐに駆け出し、続いて駆け出した春菜も井戸に片手をついて身体をくるりと回すように跳び、逃げたカビ坊主を追いました。
丘の斜面に囲まれた狭い林の中であり、幸いすぐに追い詰めると観念したカビ坊主は懇願する顔になったように見えました。その様子に吹雪が一瞬、足を止めた横から駆け込んだ春菜が滑り出すと、順突きと呼ばれる構えから柄の短い錫杖を鋭く突き出します。ひゅっ、という音とともに固い錫杖を打ち込まれたカビ坊主はうずくまるように、その姿もくるりと煙のように巻き込まれると消えてしまいました。
「お、おい・・・高槻!」
「え?どうかしましたか」
とっさの出来事に春菜に食ってかかる吹雪の様子に、すぐ後から真琴とトウカも追いつきました。人の姿をした、明確な意識と自我を持つ妖を問答無用で祓ってよいというのか。
「問題がありますか?カビ坊主が人にとって迷惑極まる存在なのは食中毒の件を見ても明らかですし、古井戸に縄張り意識を持っていたということは水場を見つければまた同じことをするということですよね。祓わない訳にはいかないと思いますけど・・・」
「そうじゃなくて、それを問答無用にやって良いのかと言ってるんだ!」
「妖怪バスターの任務に相手を必ず説得すること、という決まりはありません。それに仮に説得をしたとしても、カビ坊主にカビを撒き散らすことを止めてという事が正しいとは思えないんですけど・・・それこそ檻の中で飼ってもいいなら話は別だけど、そんなのは所詮人間の傲慢ではないかしら?」
そう言いながら、春菜は自分の左腕の袖をまくりました。そこには先程井戸に手をついた時に付着したのか、青緑色をしたカビが這いあがって春菜の肘までを覆っています。驚いたのは後ろに控えていた真琴でした。
「春菜さん!だ、大丈夫なんですか!?」
「うん・・・正直かなり気持ち悪いけど大丈夫。包帯か何かで隠してくれれば、戻ればすぐに治してもらえると思うわ」
春菜の様子に、吹雪はそれでも釈然としないものを感じていました。相手は強い力を持っていた、その力が人に害を為すことも分かっている。だがそれでいいのか、くだらないTVの子供向けアニメショーン番組じゃあるまいし、これじゃあ悪い奴を木っ端微塵にしてめでたしめでたしと言わんばかりじゃないか。吹雪は視界の隅でやりきれない顔をしているトウカに目をやると、少女の肩を軽く叩きました。
◇
事件は無事に解決し、春菜が受けたカビも保健室に戻ったところで治療されて少女の肌には傷もシミも残ることはありませんでした。帰るまでに春菜の首筋から胸元までを覆っていたカビの浸食に真琴などは貧血を起こしかけましたが、当人は平然とした顔で今は服の下に薄く布地を当てて包帯を巻いています。むろん、吹雪は女性の治療に立ち会う訳にもいかずその様子を目にしてはいませんが、それを知ったところで少年の忸怩たる思いが変わることはなかったでしょう。
改めて思えば、相手がカビの化け物であればその存在は木気に属する訳だから、同じく木気にあたる吹雪の木刀よりも金気にあたる春菜の錫杖が相性がよいのは当然だったでしょう。自分の腕を這いあがるカビの感触に、被害が広がることを嫌った春菜が突出したのだろうとも思えましたが、それで吹雪の心が晴れる理由にはなりません。
(あれを認めたら、もっとああなっちまうじゃねーか・・・)
吹雪の葛藤を春菜が理解していたかどうかは分かりません。少女はその頃、学園の隅にうっそうと茂る通称汝鳥樹海の奥に発見された、古い社の修復とその祭祀に立ち寄っていて部室からは姿を消しています。浅間神社に祀られていたコノハナノサクヤヒメノミコト、神木が立つ汝鳥神社からはちょうど対角線にある町の西北に位置する社は、その存在が忘れられて長く木々に埋もれていました。
壊れた社を建て直し、儀礼を奉納し供え物を祀る。祀るということは祀られるものへの礼節でもあります。社の祭祀に立ち会っていた、春菜が生まれた高槻の家は神主の家系でもない単なる地元の名家のひとつでした。ただ彼女の祖父が起こした道場、そこで教えられる武道の源流はかつて神道に関わる奉納相撲であったらしいとも言われています。それは大いなるものを祀る儀式そのものであり、そして春菜の家の礼儀作法がその儀式の延長であるとしたら、素養云々ではなく少女は幼い頃からそうした祭祀に接して育ってきたということでした。
「やはり、貴方は祀る者なのですね」
修復された社からコノハナノサクヤヒメノミコトの声を春菜は聞いていました。幼い頃より祖父の道場で武道を学び、両親の目を避けるために近くの神社にある神木の側でその稽古を行うことも多かった。最近はその機会も稀になっていましたが、今でも毎日のように通りがかるあの神木の前では、つい礼をしたりしてしまうし時には構えを行ったりもしてしまう。なるほど春菜が木を祀る者であるのならば、コノハナノサクヤヒメノミコトも自分を巫女か何かのように思ってくれるのかもしれない。春菜は人のいない折りに、祖父から教わった構えを浅間神社に奉納しました。
汝鳥の丘の中腹にある、町を見晴るかす古い神社の境内に祀られている神木。齢一千年を数えると言われるその木の前を通りがかる、春菜が幼い頃より見上げてきたその木は少女の記憶の中で常に変わることがありませんでした。少女の十数年は神木にとっては一瞬に等しい時間でしかなく、大いなる木はただ変わらずそこにあり続けています。もしも、この町が人の手であれ妖の力であれ急速に姿を変えていくのであれば、彼は決してその変化を喜ばないでしょう。であれば、それは止めた方が良いに違いありません。
両足を揃えて自然に立ち、胆田に軽く手をかざして呼吸を整える。そこから力を得ることが彼女が祖父から学んだ武術の技であり、長く彼女の身体に自然に身についていた力でした。胆田とは本来子宮に位置し、それが多くの教えで生命と力の源となっていることまでは春菜は知らなかったでしょう。
春菜は彼女が知っている方法で礼節を奉納すると、祀られている大いなる木を見上げていました。
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