非常扉を開けるたびに.八


 東京都汝鳥市。木々のうっそうと茂る丘陵を背にした、関東平野の裾野に位置する古い街並み。丘の中腹にある、町を見晴るかす古い神社の境内に祀られた神木は齢一千年を数える古木であると言われており、周囲には注連縄が巻かれています。その神木はこの町とそこに住まう人々を、生き物を見守ってきたと言い伝えられていました。そして、生き物ならぬ異形のものたちをも。
 汝鳥を見はるかす神木が立つ神社の境内。社にある蔵棚の奥に無造作にしまい込まれている一冊の古い古い本を紐解く者があれば、そこにはこの神社が興った時代の古い記録が、曖昧な記述で残されていることを知るでしょう。辛うじて判別できる、掠れかけた文字には「天を衝く高き木仙が風土を鎮め」の一節があり、それはこの神木の歴史が汝鳥神社の歴史よりも更に古いことを意味していました。そして風土を鎮めるという、その神木は今に至るまで永く人によって祀られてきたのです。

「知りませんでした・・・あの御神木は、それほど古いものだったんですね」

 そこは神木が祀られている社ではなく、町の対角線上、西北に位置する汝鳥学園の隅でかつては木々に埋もれていた古い社でした。浅間神社と呼ばれる由緒あるそれは最近になって建て直され、今では改めて古い桜の神が祀られるようになっています。その神であるコノハナノサクヤヒメノミコトのもとを、高槻春菜はたびたび訪れることがありました。
 汝鳥の旧家のひとつである彼女の家はここより離れた、汝鳥神社にほど近い場所にありますが桜の神の社は彼女が日々通う学園の敷地内にあり、参詣することもさしたる労苦にならなかったこともあるでしょう。美しい黒髪の女性めいた姿をした、コノハナノサクヤヒメノミコトもたびたび御姿をあらわしては、少女と対話を行うのが常でした。そして、話の内容はどうあれ人と神の対話は単なる茶飲み話にはならず、祀る者と祀られるものとの関係になるのです。それは少女が不充分ではあっても巫女というより祭祀のつとめを行っているということでもありました。

「よく知らないんですけれど、祭祀ってふつう男性がなるものではないのですか?」
「だから不充分なのよ」

 春菜の素朴な疑問に、コノハナノサクヤヒメノミコトに代わって答えたのは八神麗です。垂らせば腰まで届きそうな黒髪を頭上で縛っている、麗は元来コノハナノサクヤヒメノミコトを祀る巫女であり、春菜より一学年の年長にあたります。小柄な、凛とした少女であり春菜などにとっては単なる年齢のみではなく神仏に関わる者としても尊敬のできる先輩でした。
 春菜の実家である高槻家は汝鳥でも有数の名家のひとつでしたが、その基は春菜の祖父が興した道場にあります。もとは奉納相撲の力士であったという祖父は若い当時、武門を志して心身を鍛えるために広く諸国を回っていました。その祖父がこの汝鳥に呼ばれて高槻の家を継ぐに到った理由は、孫娘の春菜さえも知るところではありません。厳格な祖父は彼が見込んだ婿に家を継がせていましたが、齢七十を越えて未だ道場では自ら師範の位置に立っており祖父を敬愛する春菜はしばしば幼い時間を惜しんでは、神棚の奉られた道場に足を踏み入れていたものでした。そして祖父もまたこの孫娘に、しばしば自らの技を教えていたのです。その祖父が曰く、春菜は人に劣らぬ才を有すと評したと言われています。

「自らを鍛え、師父に習い、友に応えよ。それが鍛錬である」

 相撲の起源は神道に由来する奉納の儀式であり、その力は時とともに春菜の力となっていました。彼女の力の基は祖父に教わった武術にありましたが、それ以上に鍛え上げた心身や礼節を重んじる厳格な精神こそが春菜自身も知らずにいた彼女の力だったのです。祀るものの力を彼女自身の器に応じて一時、借りることができる。それが春菜の力であり、コノハナノサクヤヒメノミコトが評する「祀る者」という意味でした。
 春菜が一通りの礼を終えて立ち去った後で、今度は自分の日参として社を清めていた麗は気軽な姿をした桜の神の言葉をうかがいます。たとえ外見や言動が気楽なものであっても、それは確かに神であり祀る者や仕える立場にある者は礼節を充分に心得ていました。コノハナノサクヤヒメノミコトは凛とした巫女の娘に、どこか相談事を打ち明けるかのような表情になります。

「あの娘を、助けてあげてくれませんか?」
「私が、ですか?」
「彼女は知らずして人ならぬ力を使うことができました。ですがそれは人ならぬものが彼女を使うことができることをも意味します。幸い彼女自身は自らを戒めていますから・・・」

 それが一月ほど前の話です。以来、麗も春菜も日々社への礼参を行って欠かすことがありません。


 朝霞大介がその少女と、小さな娘と出会ったのはしばらく前のことです。黒髪をおかっぱにした小柄な少女、突然、現れては大介の周囲を徘徊していつの間にか姿を消している彼女は確かに奇妙な存在でしたが、より以上に奇妙であったのはその娘が祟りを為した稲荷神、七月恋花にどこか似た印象を与えることでした。神や妖、異形の化け物が住まう汝鳥にあって、奇妙な出来事にいくばくかの必然が込められている例は珍しいことではありません。まして荒ぶるキツネの神に似た、祟る前の彼女に似た印象を与える出自不明の娘が一連の騒動に無関係であると思うことはかえって無理があるでしょう。

「いわゆる縁を感じる、という奴だな。その娘の件は君に任せる、というより君が関わるべきだろう」
「言われなくても分かってる。まったくイライラするほど面倒臭ぇ」

 同じオカルト・ミステリー倶楽部の二年生である、柚木塔子に言われるまでもないとばかり大介は不機嫌そうな顔を見せています。汝鳥の西南にある七月宮の稲荷が祀られぬままに変化して禍つ神と化した。それまでは自然霊や動物霊、せいぜい妖怪などを相手取っていた妖怪バスター予備軍たちが本職のバスターですら対峙したことのない神に対さなければならない。その自覚は多くの部員たちを追い詰めて動揺を広げていました。
 中でもそうした動揺と混乱の渦中となったのが多賀野瑠璃と鷲塚智巳の力であり、えびす神社の巫女の娘でありながら恋花を祀ることができないままこれを祟らせてしまった瑠璃は自ら責任を感じ、神に対抗するためであったか社で奉じる三面大黒天の力をその身に降ろします。智巳は由緒ある家に生まれ、相応以上の素養を持ちながらも生来の気の弱さを克服することができずにいる少年でしたが、えびすの社に奉納されていた霊刀備前長船を与えられるとそれを扱うべく定められました。

 相応しい器と血筋を持った者にそれを助ける力が与えられたことは、混乱が続く汝鳥の町においてようやく一矢を報いるための力が得られたことを意味していたかもしれません。ですが、それはむしろ持つ者と持たざる者の間に確執を生む結果も招来したのです。落ちこぼれの巫女が神を宿し、護身術程度は学んでいても武器など扱ったこともない少年が霊刀を得る。それはこれまで異形のものに対してきた剣士や術者の存在をあざ笑うものでした。例え、当人たちにその責任がなかったとしても。

「使える力は使うべき。使えない者が嘆いても事実は変わらないわ」
「まったく正論だよ。だが力を使える坊ちゃんや小娘が、一番力を使いこなせない輩じゃねーか」

 春菜の言葉が正しいことを、冬真吹雪は理解していましたし吹雪の指摘が正しいことも春菜は知っています。だからこそ春菜は瑠璃の護衛として従い、吹雪は自ら智巳に剣を教えることを了承しました。その皮肉で滑稽な状況が彼らを傷つけていたとしても、現実はそれを放棄する安楽を認めてはくれません。春菜は自らを犠牲にすることを厭わぬ者を守り、吹雪は剣士として鍛えた技をただ血筋によって選ばれた者に教えねばならないのです。

「為すべきことがあるなら、私が神性に潰されても仕方がないと思う」
「これは僕の家の人間が持っているべき品物、か・・・」

 その彼らを守り、鍛えること。もどかしくとも彼らにそれを気付かせること。春菜にしろ吹雪にしろ、自分にできることはすべて行うつもりでいましたし、汝鳥学園にある妖怪バスター予備軍の中で彼らほどに現実を理解していた者たち、互いを理解していた者たちはいなかったかもしれません。ですが、最も哀しむべきことはその春菜と吹雪こそが互いに最も意見を対立させている者であったという事実です。あるべきものはあるべき場所に、人の世に害為すならば排すべきであるという春菜と、強者の論理を持つ者こそが弱者への慈悲を持つべきであり、斬るべきでないものを斬るべきではないとする吹雪の主張が相容れることはありませんでした。

 神や妖、化け物の住まう汝鳥にあって、それらから人を守りときには退魔の生業を行うものを称して妖怪バスターと呼んでいます。人の世に住まう化け物を退治するに、それは人と、人に協力する妖とで成り立っており、学園にはその予備軍である二つの活動、剣術研究会とオカルト・ミステリー倶楽部が存在していました。
 古来より多くの社が祀られている町には多くの人ならぬものが集まり、それに対するために多くの力持つ人が集う、それが汝鳥の歴史です。それは汝鳥を祀る者の現れが先であったのか、あるいは汝鳥に集うものの訪れが先であったのかは今となっては判然としていません。ですが、妖怪バスターが異形のものどもを倒す存在であった以上、彼らに与する妖怪を快く思わない異形のものたちの存在もけっして少なくはありませんでしたし、近年では地蜘蛛衆と呼ばれる一団がかなり大規模に活動している様子もあって、妖怪バスターであってもその予備軍であっても、多発する事件に人手が不足しているのが実状でした。

 暗がりにあって汝鳥を狙うものたちは、それを阻むであろう者たちを排除する方法を考えています。吹雪や春菜たちが妖怪と人とが共存できるか、または互いの領分を守るべきかで対立している中で、彼らの目的は異形の化け物が人と手を組んで同じ化け物を滅ぼしていることへの反駁でした。
 人と人ならぬものたちが手を組んで、人の世を守ろうとする矛盾。そうした矛盾を否定しないことが共存への道であるとしても、それに疑問を覚えるものは存在します。ですが、その暗がりにあるものたちの目的は自分たち自身のために、人と異形のものたち双方を利用することにありました。

 そうした事情のすべてを学園にいる妖怪バスター予備軍の生徒たちが知ることはできません。彼らにできることは現在知ることができる範囲の中でのみ対策と行動を決めることであり、その日も特に校外での活動について塔子からの注意が伝達されていました。それまでは土竜の怪であればもぐらの性質に従って、野槌であれば単純な食欲と縄張り意識に従って存在しているようなものたちが相手でしたが、地蜘蛛衆であれば妖怪バスターを襲うことそのものを目的としても不思議はありません。

「特に冬真、君は最近単独行動が目立つ。気を付けてくれ」
「へいへい」

 上級生に対してすら皮肉な口調を使ってしまうことは吹雪の悪癖でしたが、気に入らない相手への稽古をしながら伴に行動するつもりになれない、その心情もまた塔子には理解できています。ともすれば無礼な素振りに眉をしかめる者もいましたが、塔子自身はそれを申し訳なくすら感じていました。吹雪は韜晦しようとして失敗しながら、彼にできることを考えています。
 少年が剣を扱う者として、血縁によって霊刀に選ばれた者を快く思わなかったとしても、誰かが言ったようにいくら嘆いたところで事実は変わりません。ですが、それとは別の可能性に思い至っていた吹雪は合同の部会が終わるとすぐに学園の隅にある社に向かいました。その姿を、日参として同じ社に詣でていた春菜が見とがめていたことに少年は気が付いていたのでしょうか。その場所に新しく据えられていた、浅間神社の小さな社に座しているのは桜の神であるコノハナノサクヤヒメノミコトでした。

「あら、如何なさいましたか?」
「おや、神様ともなれば、こちらの考えているくらいのことは分かりませんかね?」

 言ってから、吹雪はさすがに礼を失するかと後悔しましたがコノハナノサクヤヒメノミコトは特に気にした風もありません。人の礼節に寛容であるのは、さすがこの国で最も広く信仰される桜の神というべきでしょうか。
 一度目を閉じてから軽く首を振ると、吹雪は目の前の社にある神に問いました。多賀野瑠璃が三面大黒天を降ろした場所である、えびす神社には霊刀備前長船が奉納されていた。汝鳥は古来より異形のものが訪れる場所であり、神の社にはそれを寄せ付けぬ神性があるとすればコノハナノサクヤヒメノミコトがおわした浅間神社にも、自分たちを助けるに足る力が何かないものだろうか、と。

「残念ながら、短い時間で人は簡単に強くなれるもんじゃありません。確かに自分の趣味じゃありませんが、祟り神に対するなら神頼みもよかろうと思いましてね」
「そうですね。ないこともありません」

 吹雪の言葉に軽い素振りで言うと、一度自分の社に戻ったコノハナノサクヤヒメノミコトが持ち出したのは手のひらに乗る程度の銅鏡が収められている小箱でした。雲外鏡、と呼ばれているそれは古来よりある、あらゆる真実を映し出す鏡と言われています。すべての力であれ、強さと弱さであれ、心の底ですらも映し出すことができる神器。それがどのような代物であるのか、それ以上の説明は吹雪には必要ありませんでした。すべてを映す真実の鏡であれば、それが大いなる助けになることは言われるまでもありません。ですが強い力を持つ神器は相応の代償を求めるのが常であり、そして人は本来、むき出しの真実に耐えられる強さを持つ者ではないのです。もしも雲外鏡を用いる者が己の姿に正気を保つことができないのならば、鏡は所有者を滅ぼすのみで大いなる禍いにしかならないでしょう。
 貴方はそれでもこの鏡を使いますか、というコノハナノサクヤヒメノミコトの問いに吹雪は軽く笑ってからそれを手に取りました。使える力は一つでも手に入れておくべきできたし、他人に嫉妬する自分の醜さを知っている吹雪であれば、それを見てみるのも悪くはないかとやや皮肉に思います。近くの木陰から、何かが歩み去るような音を少年は聞いたように思いましたが、あえてそれを確かめようとはしませんでした。

 高槻春菜が多賀野瑠璃を護衛するために、オカルト・ミステリー倶楽部に短期間の移籍をすることになってから数日が経っています。友人でもあった禍つ神に対するべく自らの内に大黒天の神通力を降ろした、混沌の渦中にある少女を守ること。言葉を変えれば、それは見張ることであったかもしれません。

「どうしたの?春菜ちゃん元気ないよ」
「ええ、ちょっとね」

 そう言いながら、友人の姿を見る春菜は混乱の中に身を委ねるだけであった瑠璃が多少なりとも自分で何かをしようとするつもりになった、その事実は認めています。逃避するだけであれば単なる足手まといですが、でなければ少女の力は共に守り戦うべき仲間として充分信頼に値するものになる筈でした。それまでに瑠璃が自らの力に押し潰されることさえなければ、という留保はつけざるを得ませんでしたが。
 剣術研究会でもオカルト・ミステリー倶楽部でも、春菜は今回の件に限らず異形の化け物に対して一貫して強硬派であると思われていましたし、彼女自身もそれを否定したことはありません。まったく、人に仇為すものを裁かない理屈が人にあるものかというのが簡にして要を得た彼女の主張でした。相手が祟る神であればそれは鎮めなければならないのは当然でしょうし、瑠璃の神性もまた人を助けず人に祟るようになれば、それすらも斬らねばならないでしょう。

「単に祟りを鎮めるだけなら、昔から生け贄を捧げるという方法が存在するのは事実よ」
「春菜ちゃん・・・?」

 戸惑うような表情と口調で答える瑠璃の顔にはどこか神経が行き届いていないかのようで、それは少女の生来の性格のみではなく神降ろし後の不安定な心を現しているとともに、現在の状況が不安定なことを示してもいました。
 古来からの伝承であれ物語であれ、祟りを鎮める方法はたいてい生け贄か奉納、封印などが知られていますそれは単なる手法の違いにすぎず、ただ祟るものと鎮める者との力関係においてどの方法を選ぶかを選択したというだけの違いでした。その中で封印とは最も強引な手法であり単純な力で抑えつけて鎮めるというものですが、その力が簡単には手に入らないからこそ、祀る者たちは他の方法を考えざるを得なかったのです。

 奉納や生け贄とは神を鎮めるための捧げものを奉り祭祀を執り行うことで、ふつう知られている祭りのほとんどはこの類のものでしたが、それを為すには祭祀を行う者の力と、捧げるものの価値の双方が備わっていなければなりません。七月宮稲荷を祀る者としての瑠璃にはこの力が絶対的に足りていませんでした。将来はどうか分かりませんが、少なくとも今は足りていません。
 であれば最も安易にその力を助ける方法として、神を鎮めるための祭祀を行うに際して最も価値あるものを捧げる、つまり生け贄を捧げることがより確実な筈でした。それが足りないのであれば、より価値あるものを神は求めざるを得ない。祟る神となった恋花は瑠璃を食べると称して、彼女にとっての奉納物を求めています。ですがそれは最も安易な方法であるが故に、安易な解決策にしかなりえません。

「生け贄を捧げて鎮まった神は、次にまた別の生け贄を求めるようになってしまう。もちろんそれ以前に、そんな祭祀を行った人は警察のお世話になるしかないけどね」
「春菜ちゃん・・・」
「厳しい言いかただけど、現実でなく現状は知らないといけないから」

 ありていに言えば、春菜の言葉は瑠璃を追い詰めているだけでしかありませんでした。それでも、一番後ろの下がることができない線の存在だけは彼女には教えておくべきだと春菜は思っています。仮に自暴自棄になった瑠璃が自らを恋花に捧げたところで、誰も救われないどころか次の犠牲者を待つだけになってしまう、と。
 そしてもう一つ、春菜の言葉は裏を返すのであれば生け贄ならずともより大きな犠牲式や奉納の祭りを執り行うことができるならば、七月宮稲荷を鎮める可能性がなくもないことを言外に語っています。ですがそれにはより大きな力が必要でしたし、そもそもそれを春菜は瑠璃に伝えようとはしませんでした。人から示された道が最善の道であると、安易に思うようになってはどんな道も解決の頂には至らないから。春菜はその意味では瑠璃を信用することはできませんでしたし、信用できるのであればなおのことそれを伝えずとも瑠璃が自ら気付くことができる筈です。

(最後まで気付くことがなかったら?)

 そのときは斬らねばなるまい。力のみを持ち、流されるだけの存在はすでに人ではないのですから。そう思う、春菜の目にはわずかな迷いも恐れもありません。神を倒すに自分の力で倒せるなどと春菜は思い上がってはいませんでしたが、それは同時に彼女がそのための手法を探すに躊躇しないということでもあります。力持つものの力を制御する、力弱き者にはそれ以外の選択肢は存在しないのです。
 神を斬れる訳がない、神を斬ることにためらいを覚える、神を斬ったところで力が及ぶ筈もない、だがそれでは駄目だと思う。斬るからには斬れる方法を考えなければいけないと春菜は思います。その彼女の意志を称して友人たちは、最近の春菜を「怖くなった」と言いました。

 春菜が頭を振ると、二本下げた黒髪が小さく揺れます。合同部会の後のオカルト・ミステリー倶楽部の部室、あらためて皆が集まってくるのを待ってから塔子を中心にオカミスとしての活動の整理が行われています。その塔子にまだ考えているだけですが、といって彼女の案を切り出したのは春菜でした。

「今の状況でも、まだ方法はない訳ではないと思っています」
「そうだな、正直なところ半分は机上の空論だと思うが・・・」
「残り半分は?」
「現実に則しているなら現実的な課題もある、ということだ」

 塔子自身は過去の傷によって前線に立つ術士としての能力こそ劣っていましたが、冷徹なまでの判断力とそれを支える知性でぬきんでており、倶楽部では事実上のリーダーとして、同時に参謀として部員たちを率いています。人を率いる様が自然に身についているという点では、オカミスと剣術研を合わせても、部員と顧問までを合わせても彼女が突出した存在だったでしょう。
 その塔子に春菜が切り出した話、それ自体はさほど斬新なものでも荒唐無稽なものでもありません。汝鳥の周囲を囲っている社を整えて、汝鳥の町そのものを清めれば今の状況を少しでも楽にできるのではないかというものでした。東南に神木の立つ汝鳥神社、西北に浅間神社があり、西南天乃原には七月恋花が祟る前に祀られていた七月宮の稲荷がある。これらを整えて修復したり、あるいは新たに祠や碑を建てることによって汝鳥の町そのものを囲ってしまえば、清められた汝鳥は自分たちの助けになるのではないか。

「東北にある音無山は今でも異形のものたちが出る場所として知られていますし、天乃原も今は祀られていない場所となっています。これらを清めることがまずは先ではないでしょうか」
「問題はそのための力と人がどこまで割けるかだな。今の我々で、異形のものたちが出る山を清めるなどという話は大事にすぎる」

 そう言う塔子には、春菜の話を聞いて別の懸念も浮かんでいます。東北音無山はまだしも、西南天乃原の近くには同じ妖怪バスター予備軍である龍波輝充郎たち、半妖怪や妖怪が暮らす「隠れ里」である、マンション・メイヤが建てられていました。


 異形のものたちの存在そのものが地域の神性を奪い混沌を呼び込む、だから異形の基となる力そのものを封じるべきだ。それは正しい考えであるかもしれませんが、妖怪バスターやその予備軍に貢献している妖たちにすれば承伏できる話ではなかったでしょう。彼らの中にも人と人ならぬとの共存を願う穏健派は数多く存在していました。

「それにしても、あのときオッサンの話を聞きそびれたのはなあ」
「言っても仕方ありませんや。この町には社といえば汝鳥神社とえびす神社、それに浅間神社の他にも祠や小さな社が町を囲うように色々建てられている。だが、どうにも綺麗に残っているもんが少なくてねえ」

 珍しく、マンション・メイヤの一室を訪れている狼の怪、大顎の声に輝充郎は頭をかいています。合同部会の後、彼らは学園からほど近いメイヤに移っており、そこにはコノハナノサクヤヒメノミコトの下を辞した吹雪の姿もありました。剣術研究会のメンバーでも、異形のものたちに対して穏健な思想を持つ者たちは、春菜に代表される正論を主張する強硬派に対して彼らなりの方策を考えなければなりません。

「正論を言うことと行動が正しいことは別な訳でね」
「それにしても、これでメイヤを封じるとか言われたらたまったモンじゃねーからな」
「えーえー、まったくお偉いことですよ」

 おどけたように肩をすくめている、吹雪の毒舌を輝充郎はたしなめる気にはなりませんでした。彼自身が隔世遺伝によって生まれた半妖怪であり、妖怪バスター予備軍として人に仇為す異形のものを討つことに自己矛盾を覚えることもありましたが、それ自体を否定されるとなれば黙っている訳にはいきません。吹雪も現実の状況に危機感を募らせながらも、ただ化け物を排すればそれで良いとするのは短絡的な結論だと思っていました。

「力を封じるのでなく、力の流出を塞いで欲しいというのが嬢ちゃんの主張らしいがな」
「同じことですよ。妖にあるがままの姿を否定しろっつーことでしょ?」
「で、熊や猪と一緒の扱いかよ。正直気分のいい話じゃないな」

 そう言いながら、輝充郎は自らのことを考えています。鬼の力を持つ彼はそれを解き放ち変化することによって強い力を持つことができますが、それは時とともに自分が暴走して鬼そのものへと化していく、危険を秘めた力でもありました。人ならぬ鬼は、本来が無秩序な衝動のかたまりであって、間違えれば人も異形も区別無くただ壊そうとするだけの魔物でしかありません。それは春菜のような者にとっては嫌悪すべきことでしょうし、何より輝充郎自身が制御できなくなったときの自分の力を誰よりも嫌悪していました。
 力を持つものが、それを扱うことができずに人に禍いをもたらすのであればそれは祟り神であろうと瑠璃の神降ろしであろうと、輝充郎の鬼の力であろうと変わらない。ただ討つだけであるとは正論でしょう。輝充郎や吹雪の不快感は当然のものであっても、春菜が向けている冷ややかな目は人が人外の異形に向ける恐怖と偏見の代弁でもあるのですから。

 それまでは剣術研究会とオカルト・ミステリー倶楽部が底の浅い虚栄心や競争心によって対立していましたが、今は人ならざるものへの立場によってより深刻な対立が彼らの間に深まりつつあります。そのような状況でも事件は彼らの都合に構わず発生しますが、あるいはそのような彼らの状況を察しているからこそ事件を起こすものも存在していました。

「たいへんですわ、たいへんですわー!」

 いささか気のぬける口調で、輝充郎たちがいる部屋に駆け込んできたのはトウカ・A・ラインバーグでした。オカミス顧問の妹である、金髪碧眼の少女の表情はその口調とは異なり深刻なもので、輝充郎や吹雪の耳に警鐘を響かせます。妖怪愛好癖があるとまで言われるトウカはマンション・メイヤに入り浸っては異形のものたちと親しく接している娘でしたが、気軽に妖を連れて人の世に出たがるといった心配を除けば彼女の存在や行動が問題視されたことはありません。邪気も打算もないその言動は、吹雪などにとっては苦笑混じりの崇敬の対象ですらありました。

「どうした嬢ちゃん、血相変えて」
「メイヤの子が、いないんですの」
「おい、どいつか迷い出たのか!?」

 慌てて腰を浮かせたのは輝充郎です。トウカがいうメイヤの子とは、この場所に集っている妖怪化け物の類に他ならず、それが外に出たとあれば事は重大でした。隠れ里につながる「迷い家」の名がマンション・メイヤの由来であり、輝充郎たちにとっては人の世に住みながら異形のものたちと接することができる貴重な拠点となっています。そしてその存在が黙認されているのはメイヤが人に害を為さないからであって、不吉な噂や不気味な現象でさえ嫌う市井の人々にとって、異形の化け物が現れるというだけでもメイヤは騒動を引き起こしかねない存在なのです。それだけにメイヤの「住人」が外に出ないように彼らは常々気を配っていましたし、トウカが自分で妖を連れ出すような例を除けばそのような例もありませんでした。

「『泥の口』さんを連れてお散歩に行こうととしたらいなかったんですの」
「先輩、今は時期がマズイですよ。早いとこ見つけないと」
「ああ、そうだな。行くぜ」

 連れていこうとした、というトウカの言はひとまずおいて。対妖怪強硬論が持ち上がっている昨今、吹雪も輝充郎も神経質にならざるを得ません。片膝をついて急ぎ立ち上がると、輝充郎が駆け出すように部屋を出るのに続いて吹雪も携帯電話を取り出して部室の皆に事情を伝えます。この状況で、仲間に騒動を隠そうとする発想がないことは少年本来の誠実さだったでしょうが、後にそれは後悔の原因ともなりました。

 泥の口と呼ばれる妖は、外見は丸みをおびた毛むくじゃらのかたまりのような姿をしていて、田んぼやあぜ道に落とし穴のような穴をぽっかり開いて人の足をくわえる化け物です。泥や沼地に足を取られる、そうした危険に対する警告として生まれた妖であり、えてしてこの手のものは単純なまでの自分の行動原則に縛られるきらいがありました。ふだんは道に隠れて人が通りがかれば、深い穴を開いて人の足を呑み込んでしまう。異形のものは世界の不文律であっても自然の法則であってもそれに従いはしませんが、自らの存在理由には厳格に従わざるを得ません。人として生まれたために行動原則が存在しない輝充郎のような者か、或いは自らの原則が人の世と乖離しないものであればこそ人の世に住まうことができました。
 いずれにせよ吹雪が言っていたとおり、姿を消した妖を早急に見つけ出して実害が出る前に連れ戻さねば事態は複雑になるでしょう。人里に化け物が出たというだけで、充分に騒動を起こしたとして春菜あたりには批判されるかもしれませんが、この上被害者まで出るようなことがあればことは更に面倒なものとなります。

「こういうとき捜しものが得意なのは高槻や鴉取のお嬢様なんだけどな」
「他力本願ではなく自分で考えなさい。すべては誰が何のために」

 呟きながら走る吹雪に横合いから声をかけたのは八神麗でした。剣術研の部室に連絡がついてから最初に来たのが彼女であって、オカミスにも連絡は伝わっているから春菜たちもじきに追いつくだろうとのことです。誰が何のために、とは異形の妖の行動原則を知ればその行く先を追うことができるというつもりで麗は用いていましたが、それを口にしたとき彼女は自分自身の中で、誰かが事件そのものを目的として起こしている可能性に思い至りました。
 人の世に害を為すものが人の世にあることは難しく、であれば本来あるべき場所に還すべきである。それが原因で対立が起こっている現状で、妖怪バスターに手を貸す異形のものたちは危うい存在にならざるを得ません。もしもその所在を知る者がいたとすれば、汝鳥を狙う異形のものどもが恐ろしいのではなく、恐ろしいのは異形のものであると思わせることを思いつくかもしれません。そしてそのものたちが、メイヤと隠れ里の存在を知っていたとすれば。

「じゃあ、狙われているのはメイヤと妖そのものか!?」
「充分にありえる話ね。もしも彼らが事件の一つも起こせば大事になるし、メイヤの住人がそれに気付いたとしても学園に知らせない訳にはいかないから出足も遅れてしまう」
「思惑通りって訳かよ、畜生!」

 言いながら、マンション・メイヤにほど近い路地に集まっていた輝充郎たちの目に、駆けつけてくるオカミスのメンバーが映ります。春菜や瑠璃が緊張した面持ちを見せているのは彼女たちもまた事態の深刻さを悟っているからでしょう。やや気まずそうな雰囲気を破ろうとしたのか、控えめに声をかけたのは鴉取真琴でした。

「皆さんも、通報を受けて来たんですか?」
「通報、だって?吹雪の連絡を受けたんじゃねーのか?」
「その前に匿名の通報があったんです。隠れ里の妖怪が逃亡して人に害を与えている、と」
「であれば、私たちは誘い出されたってことですね」

 みなまで聞く前に、答えたのは春菜です。マンション・メイヤから異形の化け物が逃げ出したという、何者かの通報を受けて彼女たちはここに来ていましたが、誰が、どうしてその事実を知ることができたのか。腑に落ちないことが多い中で、疑問を口にしたのは塔子です。

「だが妙だな。目的が陽動にあるなら我々がメイヤに向かう途中に罠を張るか、あるいは集合させている最中に別の場所を襲撃しようとする筈だ」
「どういうことですか?」
「つまり、彼らの目的は・・・」

 塔子の言葉に続いて、目の前でアスファルトの路面が盛り上がると音を立てて割れながら巨大な穴が口を開きます。それがトウカや輝充郎の知っている「泥の口」であることはすぐに分かりましたが、それはすでに彼らの記憶とは異なる、恐ろしい化け物としての歪みを見せていました。

「あの子は・・・!?」
「畜生!何かされやがったか!?」

 異形の化け物、妖や物の怪の類は様々な要因でその姿を変えることでも知られています。特に単純なものほど自分を囲う環境の変化によって、小火が大火になるが如くに強くも大きくもなることがありました。より強い想いと大きな犠牲を手に入れるほど、異形のものたちはそれを力にして自分の行動原則を広げることができるのです。

「あの様子・・・人を呑み込んでる」
「!?」

 麗の言葉に輝充郎は声を失いました。脈打つ巨大な化け物の口とおぼしき所には誰のものともつかない、ちぎれた衣服の切れ端が絡まっています。誰かが意図的に化け物に生け贄を捧げれば、捧げられた生け贄で力を得た化け物は強大になるとともに自分の存在を満たすために更なる生け贄を求める。なにしろ泥の口が望んでいたものは、人の足下に穴を開けて呑み込むことだけなのです。もはや穏当な解決が不可能な状況であることは、誰の目にも明らかでした。

「多賀野は周囲を囲って!高槻はその援護!」
「は、はいっ!」
「分かりました!」

 塔子の号令一下、春菜や瑠璃は異形のものに対するべく陣を布こうと動き始めます。その動きが自分たちの参戦と協力を前提としているものであることも、輝充郎や吹雪にはすぐに分かりました。既に手遅れである状況の中で、人の世に住まうことのできない化け物を祓うことに何の問題があるのでしょうか。トウカの目の前で吹雪は鞘から刀を抜き放ち、輝充郎は上着を脱いで鬼の力を解放しました。陣術で動きを縛り、拳や錫杖、刀が叩き込まれますが巨大な毛のかたまりは怯む色も見せず、地面にひらたく広がると大穴を開きます。すぐに反応したのは麗でした。

「出でませ・・・布都御霊ッ!」

 気合いを乗せた麗の声に伴い、二ふりの刀から放たれた力のかたまりが化け物の口中に撃ち込まれます。邪なるものを討つ神仏の力に化け物は咆吼を上げると広がりかけた身体をもとの毛のかたまりの姿に戻しました。かつて泥の口であった妖が、獲物を呑み込もうとする前にすかさず輝充郎が鬼の力を乗せた拳を打ち込み、あらかじめ布かれていた陣のある場所まで押し込んだところで瑠璃が術を発動させます。柏手の音に合わせて力が生まれ、化け物が固定されると吹雪と春菜がそれぞれ大太刀や錫杖を打ち込みます。
 友人たちが、目の前で彼女の知っている妖怪を討とうとする様に、トウカは目を背けることもなくただ見入っていました。あるいは見入るだけで何もできなかったからこそ、目を背けることすらできなかったのかもしれません。メイヤの妖怪に武器を向けることなど、少女にはありえないことでしたが彼女も目の前の化け物が決して許されない存在であることは分かっていました。泥の口を倒そうとする誰もがトウカの思いを知っていましたが、それが彼らの技を乱すことはありません。正中の構えから、順歩で踏み出した春菜が拳で突くかのように錫杖を打ち据えると法術に似た力が解き放たれました。

「木仙、縛土、克水・・・木気をもって土を縛り水を制す、はあっ!」

 化け物の力は大きなものですが、妖怪バスター予備軍の連携は鬼気迫るものであり、完璧な統制をもって繰り出される理に適った動きは芸術的でさえありました。それが余りにきわどい、それも精神的なバランスの上に成り立っていることを誰もが承知した上で。
 泥の口の力は地に広がって人を呑めばその胴体ごと切断することもできるほどに強力なものでしたが、その力を行使することを彼らは決して許しませんでした。かつて泥の口であった化け物は少しずつ、やがて確実に力を削られていくと弱々しい、もとの毛のかたまりの姿に変わっていきます。そして既に陣を破る力も無く、無力となった妖にようやく春菜も吹雪も麗も、手にした武器を下ろしました。それを見たトウカは、それまで石像のように動かなかった足を踏み出すとゆっくりと妖に歩み寄ります。誰もそれを止めようとはしませんでした。

「・・・あなたは、迷い家の子、ですの?」

 その呟きに耐えられず、麗が漏らした小さな嗚咽の声が響きます。トウカは既に危険のなくなった、既に力すら失われた哀れな化け物の残骸に歩み寄ると手を差し出しました。泥の口はその存在意義を示すがごとく、小さな口を開くとトウカの手を呑み込もうとしましたがそれには指先をはさみこむ程度の力さえ残ってはいません。言い様のない哀れさに金髪碧眼の少女はいつの間にか涙を流していましたが、それが何に対してのものなのかは彼女自身にも分かりませんでした。ただ、その時なにか小さな、大切なものが壊れてしまったことだけは誰もが理解をしています。

「さあ・・・封じましょう」
「高槻さん!?」

 感傷を振り払うかのような春菜の言葉に、思わず声を上げたのは麗でした。例えそれが彼女たちを利用しようとする者たちの思惑通りであったとしても、汝鳥学園にある妖怪バスター予備軍を分裂させることが目的であると理解していたとしても、春菜にとっては同じことです。輝充郎や吹雪が敵対的な視線を向けていることを承知の上で、少女はその凛とした表情にためらいを見せる様子もなく宣言しました。

「この化け物を守ることがメイヤの正義であるというなら、私はそれを否定します」

 隠れ里としてのマンション・メイヤを封じること。
 高槻春菜は妖怪バスターとしての矛盾に敵対することになりました。

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