非常扉を開けるたびに.九


「畜生!龍波先輩に勝てないからって俺かよ!」

 切り捨てても切り捨てても、雲霞の如く現れる地蜘蛛衆の群れ。異形のものだけの原理を実現するために、京都汝鳥から来訪している集団は妖怪バスターとその予備軍そのものを害することを目的として活動しています。冬真吹雪はさすがに単独行動が過ぎたかと後悔の尾を掴みながらも、いつの間にか人避けの陣が張られているらしい路地で懸命に逃げ道を探しながら、目の前にいる相手を切り伏せていました。

「あいつには殺すなと言っといて、これじゃあ偉そうなことは!言えねーな!」

 音節に合わせて、二体の異形を斬る。相手は一見して人に似た姿をしていますが、厳然たる蜘蛛の怪であって蜘蛛が一度にどれほど多量の子を産むものかを吹雪はげんなりとしながら思い返しています。相手は確かに強くはないが、無尽蔵に現れて襲いかかってくる蜘蛛の群れをすべて切り伏せるなどできよう筈もありません。体力が尽きる前に、逃げる術を見つける必要がありました。
 いっそ力尽きて倒れれば楽かもしれませんが、その後で蜘蛛たちの晩餐に供されることも御免だし、生首を皆のもとに投げ込まれるのも御免だ。吹雪はそう思いながらも、幾人かの顔を思い浮かべています。自分の首を見れば皆は悲しむだろうか、嘲るだろうか、いや、いっそ哀れむだろうか。少年の青みがかった目に灯っている光は消えていません。自分が哀れまれるなどということは、吹雪の矜持に反していました。

「だがよぉ、高槻。それでも斬らずに済むなら、斬るべきじゃないさ」

 こんな修羅道は勧められない。少年は意を決すると血路を切り開くべく、大太刀を振り下ろします。
 この事件を最後にして、唐突に汝鳥から妖怪と妖怪バスターがいなくなりました。


 東京都汝鳥市。木々のうっそうと茂る丘陵を背にした、関東平野の裾野に位置する古い町並み。そこは古くより妖や霊といった異形のものたちが現れる、人ならぬものが集う地でした。その汝鳥の町並みを見晴るかす、丘の中腹にある古い神社の境内に祀られた齢一千年を数えると言われる神木。それはこの町に住まう人々を、生き物を、そして異形の妖すらを長く見守ってきた存在です。

 その汝鳥から、突然異形の類が姿を消したのはわずか一ヶ月ほど前のことです。それまでは拡大する一方であった異形とそれらが狙うと言われている汝鳥の封印にまつわる騒乱が、あるときを境にぱたりとおさまった。その原因は定かではありませんが、同時に市井の妖怪バスターたちも当然のようにその活動を控えることになります。ですが、その折りに多くのバスターが任務への意欲を失ったと、組織からの脱会や解散までが生じた事実は裏面の事情を感じさせました。妖怪バスターを害するに、それを図るものが取った策は異形のものを手にかける、人間の傲慢さに対する挑戦だったのです。
 汝鳥学園にある剣術研究会とオカルト・ミステリー倶楽部はそうした妖怪バスターの予備軍として、半ば公然と半ば非公然とした活動を続けていましたが、親にあたる妖怪バスターの活動が地に潜ったことは彼等の存在にも影響を及ぼさずにはいられません。なんといっても彼等は学生であり、必要がなければ学園生活に専念してほしいと思うのは正当な理由だったでしょう。

「まして騒動と危険が拡大していたことも事実だし、聞くところによれば剣術研とオカミスの間では生徒同士の対立まで深刻化していたというじゃありませんか。彼らはあくまでも予備軍であって妖怪バスターではない、だからこそ学園も容認していたのですが、あまりに危険が伴うというのなら学園としても考えざるを得ないでしょう」

 剣術研究会顧問であるネイ・リファールとオカルト・ミステリー倶楽部顧問であるウォレス・G・ラインバーグを前に、汝鳥学園の校長は机に肘をついた指先を組んだりほどいたりしながら語りました。妖怪バスター予備軍としての学園生徒たちの活動がより危険を増すにつれて、安全面において警告が出るというのであれば教師としてはそれをはねつけるわけにはいきません。しかも、彼等には現在の生徒同士の対立を制御できていないという顧問としての弱みもありました。
 結局、課外活動としては公然と認められている剣術研とオカミスを廃部するとまではいかずとも、倶楽部の妖怪バスターとしての活動を禁止するというのが両顧問に通達された結論でした。ラインバーグもネイも異議を申し立てなかった訳ではありませんが、学園校長は既に教員一同にPTA幹部の全会一致で決定しているとまで告げると彼らも口を閉ざします。それは既に決定したが故ではなく、欠席裁判の手法でそれを押しつける相手の意図を感じとったが故でした。明らかに策も裏もある相手に、正論のみで対抗するのは時間と労力の無駄というものでしょう。

「まあ、ちと状況がややこしくなってる最中デスし自粛するのも手なんデスけどね」
「貴様はそれでいいのか!?敵前逃亡は即ち死だ!」

 考えを巡らせるときに韜晦してみせるのはいつものラインバーグの手法ですし、時代錯誤の暴言を半ば本気で吐き出すのもネイのいつもの性向です。いずれにしても、学園から剣術研究会とオカルト・ミステリー倶楽部に対して活動停止の要求がつきつけられたことは事実ですし、つけ加えてそれを破るようなら廃部なり停学や退学もありえる、とも彼らは釘を刺されていました。
 無論、活動停止といわれてはいそうですかと従えるほど状況は安穏としている訳ではありません。汝鳥の中心に眠ると言われている大厄の禍い、それを破られぬために町の周囲にある社や祠を整えることで町そのものを浄化する。その活動に取り組もうとしていた矢先の措置に第三者の意図を感じずにはいられません。これまで力ずくで試みた妖怪バスターと予備軍への襲撃を、今度は方向性を変えて行うようになったということでしょう。

 今の状況で異形のものたちによる騒乱がおさまっているからといって、何もしないで良いという訳には彼らはいきませんでした。ただそれを倶楽部の活動として行えば彼らの生徒たちを苦境に誘うことになる、顧問である彼らが守るべきは汝鳥の封印のみではないのです。

「何を甘いことを言うか。優れた将に率いられる兵士は好んで死地にも赴くものだ」

 ネイの暴言がどこまで本気であるかは、腐れ縁の長くなりつつあるラインバーグでさえも時に分からなくなりましたが、少なくとも今は兵士を率いて撤退する、あるいは撤退をするフリをする必要があるかもしれません。合わせて戦況を変えるために陣営地を引き払い戦場を移動させる、部隊の再編に補給と後送と新しい陣営地の構築、どうせ従うしかない命令なら一つの石で可能な限り多くの鳥を打ち落としたいところです。

「所詮シビリアンは戦場には行きませン。ただ今の戦況がヤバイのも兵士の士気が落ちてるのも厳然たる事実デス」
「ぬう・・・仕方がない、この際は転進も一つの手か」

 本当は軍隊と木こりに例えるのはあまり好きではない、そう言いながらラインバーグは伸びすぎた無精髭を右手でなぜました。二人の顧問はそれぞれの表現で校長からの通達と妖怪バスターの現状を部員たちに伝えると、剣術研究会とオカルト・ミステリー倶楽部はひとまずその活動を休止することを決定します。

 高槻春菜は剣術研究会からオカルト・ミステリー倶楽部にレンタル移籍をしている妖怪バスター予備軍の一員、でしたが両倶楽部が活動停止を要求されている現状ではどちらに所属しているかはあまり意味がありません。とはいえ彼女も今回の学園の要求に対して、形式としては従いながらも行動においては耳を貸すそぶりも自粛するそぶりもない一人でした。顧問であれば風当たりこそ強くなろうとも、生徒であれば多少の主張をごり押しすることは決して不可能ではない。概して学園や学校という環境において、組織力や行動力を発揮しうるのは閉鎖的な教師陣ではなく活動的な学生です。

「騒乱は停滞しているだけで消えたわけではありません。であれば今のあいだに為すべきことを為すことは、私達に必要なことだと思います。ただでさえ妖怪バスターは対応に後手を取らざるをえない性質を持つ組織なんですから」
「あたしも同感。今更風当たりの強さを理由にどうこうできるほどこっちにゃ余裕はないよね」

 休み時間とはいえ、堂々と二年生の教室の一角にて。春菜たち下級生の訪問を受けていた蓮葉朱陽は、剣術研究会でも比較的強硬派とされている一人でした。強硬派といえば聞こえは悪いですが、それは自己の主張が強いというだけでこのような時には明確な主張を持つ者こそが牽引力を持つことができます。
 異形のものが人に害を為すのであればそれを排するにためらう理由はない、春菜や朱陽の主張は周囲から疎まれる風潮があるのも事実でしたが、それでも彼女たちの意思は変わりませんでした。ただその善し悪しは別として、無為の時を過ごすことは人に不安と不満を与えることも事実です。困難に抗する為の原動力として、彼女たちの危機感はそのひとつになっていました。

「だいたい妖怪が出ないから妖怪バスターはお払い箱ってのが気に入らないね。流行り病が去れば医者はクビかい?」
「先送りにして解決できる問題は存在しない、こんなことに強硬も穏健も関係ない筈です」

 憤りをまじえる朱陽に対して春菜の主張は激しくも大きくもなく、聞かれれば厳として答えるというものです。常に正論を持つ、しかも正論が通じぬ状況においてはそれを振りかざして闘うのではなく、敢えて関わらぬことも選ぶ。剣術研とオカミスの活動停止が学園の方針であれば、春菜の言動は処分の対象になっていてもおかしくはないものでしたが、汝鳥学園も未だそこまで強硬な手段に訴えることはできずにいました。それが彼女のふだんの優等生ぶりによるものか、あるいは汝鳥の旧家である高槻家にはばかってのことであるかは春菜にはさして重要なことではありません。

「でも春菜ちゃん大丈夫?それだっていつまで続くか分からないのに」

 多賀野瑠璃は彼女の神社に祀られていた三面大黒天を降ろした力を持つ、半ば切り札のような存在として春菜が護衛をすることになった巫女の娘でした。同年の少女のために春菜はオカミスへと一時移籍することになりましたが、その活動が停止を言い渡されたとしても彼女の動きが特別に変わることはありません。瑠璃は切り札としては未だ意思も覚悟も弱く、そして何よりも切り札がどういうものであるかを理解しきってはいませんでした。
 とはいえ三つ編みにした髪を長く下げた、瑠璃も昨今になって急速に、またはようやくと言うべきか成長を見せており神の力を鎮める切り札としての素養は希望を見出しつつあります。必殺技というものは往々にして、それを使う必要もなく勝つことがあればそれを使う余裕もなく負けてしまうこともありますから、瑠璃にとって必要なことは自らの力を用いることができるようになることと、そして必要が無ければその力を使うこともないのだということに気が付くということ。それを心から知ることでした。その希望を抱く友人に目を向けつつ、春菜は今の状況を整理しようと試みます。

「いま重要なことは幾つかあるでしょう?その中で倶楽部の活動停止によって困ることは一つだけ、皆が連携や連絡を保つための拠点が失われること。それさえ確保できれば学園の事は後で気にすればいいんじゃないかな」
「でも、それじゃあ・・・」

 春菜が学園の処分に動じるそぶりもないことは、彼女が個人の存在を組織より上位においているというただそれだけのことでしかありません。ですが、それだけに瑠璃には春菜の言動を理解することができませんし、春菜も瑠璃の不安を慮ることはできませんでした。ただ、それを不毛に追求するよりも、今の彼女たちにはやるべきことがある筈です。

「異形のものが現れないから騒乱に巻き込まれる恐れがない。であれば今はむしろ様々な活動を行う機会だけれど、それは相手にも同様ですよね。だからこちらが今できることは今やっておかないと手遅れになるかもしれません」

 制服の裾をひるがえすように向き直って、春菜が言葉をかけたのは朱陽の同級でありオカミスの次期部長と目されている柚木塔子でした。両顧問が学園の命令に縛られて動きがとれないでいる、こんなときこそ頼りになるのは冷静な指導力と判断力を持つ部員の存在だったでしょう。

「それで、改めて封印の再構築か・・・確かに完全に施すことができずとも、今後のことを考えれば助けにはなるかもしれないな。北西の浅間神社も力が強まっているし、南東にある汝鳥神社は君も承知のとおり未だ力を保持している。そして鷲塚や冬真のように神器の力も集めておくに越したことはない、か」

 剣士や術師としての能力に劣るが故の、塔子の状況把握と判断の目はあるいはラインバーグやネイ以上に鋭いものであったかもしれません。ただ、それだけに彼女には他人には漏らすことができない苦悩があったこともまた事実です。自ら為すことができぬ危難を知りながら、それでも他者に指示を出さなければならない。自分はメンバーの能力と責任感とを利用して、禍いに抗する責を後輩たちに負わせようとしているだけかもしれないという思いは常々塔子を責め立てていました。

「だが力持つこととそれを使いこなせること、更に使うべきかということは全て別物だ。そして戦略とは力を得るだけではなく、相手を弱体化するにも大きな意味がある。高槻にはなるべく多賀野と行動を伴にしておいてもらいたいが、動きたいならその時だけでも代わりを出そう」
「ありがとうございます・・・ごめんね、瑠璃さん」
「気にしないで。わたしも神降ろしだなんだとやってて、行きにくい場所はあるから」

 神降ろしの力を持つ瑠璃を連れて、神社や仏閣はまだしも妖のもとを訪れるとなればあまり具合のよいものではないでしょう。塔子としてはメンバーの連携を考慮して、皆の動きの制限は最小限にしたいところでした。
 その力の弱さから仲間を導く知性を身に付けていた彼女は、オーケストラにおける指揮者の重要性を知りながらもタクトのひと振りで人を導く恐ろしさを知っています。負いきることができぬ責任を人が負うことになったとして、それに潰されることが許されるのであれば人の世はどれほど甘く安楽な世界でありうるでしょう。ですが、心中の思いは別に重すぎる荷を担がねばならない彼女たちには、今やるべきことが数多くありました。

「オカミスや剣術研としての活動ではどうしても制限が大きくなる、だが名目上でも個人としての活動であれば、連携とコミュニケーションさえ確保できれば困難を最小限に抑えることはできるだろう。逆にオカミスと剣術研の動きにずれが出れば、これまで以上に自分たちの戦力が低下することも避けられないだろうな」
「そう考えると、悪徳ブリテンも暴君アメリカンもあれで連携はしてたんだな」
「ひどいですよ、先輩」

 朱陽の言葉に、春菜は小さな笑みを浮かべます。常に悪口雑言の応酬をしている両顧問の存在によって、剣術研とオカミスの連携が保たれていたらしいことは興味深い事実だったでしょう。それが意図されていたものか、されていないものかは別としても両者が学園への対処に身を裂かれざるを得ないのであれば、それを補うのが塔子の役目でした。

「ただ君の主張がどうであれ、まずはメイヤの住人と話をしない訳にはいかないだろう。八神あたりと一緒に行ってくるといい」
「・・・はい。そうですね」

 オカミスと剣術研の動きにずれが出れば、これまで以上の戦力の低下が避けられない。汝鳥学園校長も言っていた生徒同士の対立、塔子としてはその一因である春菜をそのまま放置しておく訳にはいきませんでした。今この段階で強硬派も穏健派も関係ない、それが本当だとしても人の思いはそう簡単に制御できるものではないのですから。


「お前さんの言いたいことは分かる。だがメイヤの件はどうするつもりだ?」

 冬真吹雪が厳しい視線と言葉を春菜に返す、そこは無論活動停止を宣告されている剣術研究会の部室ではなく、汝鳥学園の一角でもなく、妖が暮らす隠れ里への入り口、マンション・メイヤにほど近い路地でした。吹雪をはじめとした剣術研の一部のメンバーは監視の目が向けられる部室を離れてメイヤを拠点とし、妖怪バスターとしての情報活動を非公然に進めています。元来、新聞部に所属しておりジャーナリスト志望でもある吹雪には得意な分野でもあり、春菜たちが彼らに協力を求めない理由はありません。ですが、春菜と吹雪が昨今最も意見を対立させている両名でもあるということは剣術研でもオカミスでも周知の事実でした。
 異形の妖たちが集うメイヤの存在を否定する、とまで宣した春菜がメイヤを守る者から歓迎されないのはごく当然のことです。さすがに自分の立場を慮った春菜はメイヤの建物には立ち入らず、同じく強硬派の朱陽ではなく八神麗を連れているのも彼女が無用な衝突を望んでいないことを姿勢として示すものでした。ですが、姿勢は所詮は形式でしかなく、それが必ずしも実のある会話を保証するということではありません。

「なにも変わらないわ。私はメイヤを破壊せよとか掃討せよとは言っていません。管理ができないのなら封鎖してください、と言っただけです」
「変わんねーよ」

 例え主張が平行線であっても、それでも彼等は手をつなぐ必要がある。そのことを吹雪も春菜も知ってはいましたが、知っていることと許容することは別のことです。人の世に住まうことのできぬ妖を人の世で守ることなどできぬ、しかも妖の消えた汝鳥でメイヤからそれが現れればなお大事になるだろう。春菜のことばは確かに正論でしたが、できないからやらせない、という力ずくの主張を弱きものを知る吹雪の心は認めることができません。冬と春をつなぐ風は未だ吹きそうにはありませんでした。

「結局、俺は綺麗事を言っているだけかもしれない。だが、俺はメイヤを出た妖を滅ぼすお前さんの顔と、それを見るメイヤのゴスロリお嬢様の顔を見ちまった。そして俺がどちらを支持するかは俺の問題だ、お前さんの強さには敬服はするが、納得することはできない」

 吹雪の言葉に、春菜は小さく首を振ります。それは、彼等の間で幾度も繰り返されている会話でした。

「良い悪いじゃなくて、これまで人は人以外のものと共存なんてできたことがないのよ。熊や狼とすら共存ができない人が、どうして妖怪となら共存できると思えるの?所詮、人は他のものに人に合わせろと強要しているに過ぎない。ここは人の世界になってしまった、妖がここで暮らしていくなら、もう人の世界に合わせてもらうしかないの。それができないのなら・・・」

 そう言う春菜の表情には、わずかに人間としての沈痛さが垣間見えました。ですが少女は一瞬だけ見えた本意を押さえ付けてしまうと、もう一度だけ首を振ってそこから先を続けようとはしませんでした。それが彼女の強さでもあり、一方で危ういほどの恐ろしさでもありましたが吹雪はそれに同調することはできません。間をおいてから、不毛を悟った春菜はふたたび口を開きました。

「それでも、今の状況なら分かっているわ。妖怪があえて現れず、妖怪バスターの存在意義が問われている。今一番してはならないことは、妖怪バスターがメイヤを討伐することによって自ら戦力を削ることと、将来の危険を理由に暴虐を行う妖怪バスター、という悪例をつくってしまうことよ」
「だが、実際にことが起こればそうもいかないだろう。そいつはこちらで防ぐつもりだ、だからお前さんにはしばらくメイヤに近づいて欲しくない」

 その言葉がどれほど春菜を傷つけるかを、吹雪は知っていました。それでも春菜の強さはその傷をも易く耐えてしまうだろう、だからこそ吹雪の罪悪感にも似た気持ちと反発する気持ちとはともに大きくならざるを得ません。吹雪の言葉に春菜はゆっくりと息を吐き出しながら頷くと、もう一度話題を変えました。もともと、その話をするために彼女はここに来たのですから。

「サクヤ様の鏡・・・雲外鏡だけど、使うつもり?」
「ああ。場合によっては、な」

 やっぱり知っていたのか、とは吹雪は言いませんでした。封印を解かれた祟り神に抗するため、あるいは未だ封じられている汝鳥の大厄に対するため。吹雪は浅間神社にあるコノハナノサクヤヒメノミコトから、真実を映し出すといわれる雲外の鏡を借り受けました。それが吹雪の望みかコノハナノサクヤヒメノミコトの意思であったのか、或いは運命という便利な存在の思惑でもあったのか。鏡が誰の意思によって少年の手元にあるのかは、さして重要なことではありません。その秘めたる力は対するもののあらゆる真実を映し出し、同時に最も醜き自らの内なる真実すら映し出すとも言われる神器。それを用いることの是非のみが彼らには問われていたのです。

「お前さんの言いたいことは分かってるよ。いざというときに誰がどの力を使えるのか、そいつは誰もが知っておいた方がいい。だが本当に使えるかどうかはそのときが来ないと決して分からないぜ?」

 吹雪の口調は先ほどと比べると多少、穏やかなものに変わっていました。それを、吹雪も春菜も自覚していたかは分かりません。

「俺達は自分のものではない力を使おうとしているんだ。だがそれは高槻だって一緒じゃないのか?」
「そうね、その通りだわ」

 その言葉に、それまで二人の会話を後ろから聞いていた麗は軽く首を傾けます。麗や塔子がすでに気づいていたように、吹雪もまた春菜の力が秘めているものの意味には気が付いていました。祖父から受け継いだ高槻流剛柔術の拳を扱い、礼節と精神修養によって異なるを打つことができる春菜の力。ですが吹雪が北西にあるコノハナノサクヤヒメノミコトの力から、雲外鏡を借り受けたように春菜が用いる力には、南東の封印である汝鳥神社の神木の力が宿っているように見受けられます。それは春菜が意図してのことではなく、祀る者としての彼女の身体に神木が力を貸すことを認めたのであったとしても、人ならぬ力の是非を彼等は考えずにはいられません。
 それまで沈黙を守っていた麗が、後輩たちに教え諭すように口を開きました。

「どんな力であっても使うのは人間だし、それを用いるのも人間よ。だけど、力を使う人には確かに資格が必要なの。力に向きを与えるは意思と能力なのだから、それがなければ刃は自らをも貫くわ」
「八神先輩・・・」

「ふたりとも。いえ、他の誰であっても決めろ、と私は言えないけど考えては欲しいの。それは神様の力だからどうという訳ではなくて、キミ達が向かうべき相手に使おうとしている、使うかもしれないキミ達の力は正しいのかどうかということ。そして正しいかどうかを決めるのは他人ではなくて自分自身なのよ、正しきは無数にして一つしか存在しないのだから」
「先輩、それでは神道でなくて禅問答ですよ」

 神道の巫女を務めている麗は、春菜の思わぬ冗談に笑顔を見せました。たとえ一年分であっても意思と能力を活かす経験を多く持つ先達としては、力に迷う後輩にわずかなりとも灯火を掲げてみせる必要があったのです。それがどのような結果を見せるにせよ、誰もが自分の決断で自分の責を負うべきなのでしょう。そこからもたらされる結果を望むと望まぬとに関わらず。

「あなたを導くものがいる。でも、決めるのはいつだってあなたなのよ」

 その言葉を残して麗や春菜が去った後で、吹雪は重たげな足どりを返すとマンション・メイヤに続く短い石段を登りました。エントランス、というには安普請にすぎる入り口で後輩を待っていた龍波輝充郎は、少年とともに自分の住んでいる部屋へと引き上げます。

「高槻の嬢ちゃんは無事帰ったか」
「ええ、まあね」

 自身が半妖である輝充郎としては、剣術研の一員である自分とは別にメイヤと同胞を守るために戦わざるを得ません。吹雪が春菜にメイヤに近付くことを認められないと言ったことは輝充郎も承知していましたが、相手がそれを理解してくれたことに謝意まじりの安堵の思いを覚えていました。自分の守るべきものを否定する相手であれば、輝充郎としてもこれに対さざるを得なくなるのですから。
 皮肉な意味であれば、この場合は倶楽部の活動停止を宣告した汝鳥学園校長のおかげで両者の衝突が避けられているのかもしれません。今はそれどころではない、というのは優先順位を重視する冷静な思考の持ち主にとっては、最も効果的な呪文なのです。ですが、であればこそ今はそれどころではないという現状を吹雪も輝充郎も厳しく理解していました。

「ところで地蜘蛛に襲われた傷は大丈夫かよ?」
「なんとか。高槻も訝しげにはしてましたけど、気付きはしなかったみたいですからね」
「そういうことを聞いてるんじゃ・・・まあいいか」

 汝鳥から妖が姿を消したからといって、それが表層的なものにすぎないことを吹雪は身を持って知っていました。地蜘蛛衆と呼ばれている妖の戦闘組織による襲撃があったのは、妖が姿を消したとされる直前のことでありその後の状況は未だ判然としていません。それが何らかの兆候であれば、連携に不安のあるこの時期に危険が潜む可能性を見過ごすことはできなかったでしょう。ですが幸いにして、というべきか吹雪ほどの単独行を取る人間は少なかったですし、襲撃も今のところ起きてはいないようでした。
 吹雪としてはその時の傷が未だ癒えてはおらず、正直なところ春菜たちとメイヤの表で立ち話をするのは相当な苦労でした。傷以上に全身に残る疲労と消耗が吹雪の身体を重くしていましたが、春菜たちをメイヤに呼ぶことはできませんし、それ以上にそのことを知られたくはなかったのです。

「たぶん意地じゃなくて見栄なんでしょうけどね」

 自嘲気味に吹雪はおどけてみせます。この状況で心配させても先方も困るだろう。彼らは看病どころかお見舞いの品を受け取ることができる状況でもなかったのですから。
 高槻でも畏れや痛みくらい感じるのか、などと言ったらさすがに怒るだろうなと吹雪があまり意味のないことを考えていると、輝充郎が話題を変えてくれました。どうにもこの人は粗暴な外見からは及びもつかないほど気を利かせようとしてくれる。吹雪が敬愛する故でしたが、彼らの置かれている状況が深刻なものである以上は、話題も少なからず深刻にならざるを得ません。

「そういや鷲塚の特訓はどうだ?少しはマシになったらしいとは聞いてるがよ」
「あのねえ、俺は坊ちゃんのお守りじゃないんですからね。高槻なら神妖憑きの面倒だって真面目に見ますけど、俺にはそこまでできませんよ」

 一言以上多いのが、吹雪らしいといえばらしいでしょうか。霊刀備前長船を持つ血統にあるという、同級の鷲塚智己という少年に自身が剣士である吹雪は幾度か教えを与えていました。祟り神が出現し、汝鳥の封印は揺らぎ、異形の妖の一団が汝鳥を襲う今の状況で戦力は増やしておくに越したことはありません。自分が扱えぬ霊刀とやらを扱う、自分に劣る剣士に技を教える。吹雪の感性にささくれを作らずにはおかない皮肉は、それでも何らの実を結んでいない訳ではありませんでした。

「まあいつまでやっても付け焼き刃は付け焼き刃、それは今更変わりませんからね。あいつがやっている程度のことは、俺達は日課でやっている。だからせめて実践できるようにするなら反復練習で身に付けさせるしかない、あとは神様の刀が勝手に戦ってくれるんじゃないですかね」

 自分の発言にどうにも棘が入ってしまうことを吹雪も自覚していますが、少年としてはそこまで簡単に割り切ることもできません。輝充郎相手でならばなお、そうしたことを口走ってしまうというのは、敬愛なのか甘えなのか吹雪には判断がつきませんでした。
 そして神様の力ということであれば、先ほど春菜に問われていた雲外鏡の力にしても同様です。吹雪がそれを持つことは彼としては重要なことではありませんでしたが、存在する神器に気付いたのであれば敢えて力を避ける理由もありません。何しろ、戦力はあるに越したことはないのです。その鏡も誰が持っていても良さそうなものでしたが、恐らく情報を最も上手く扱うのであればそれは吹雪の手にあることが妥当なのでしょう。まして、自らの醜い真実すら映し出す鏡を他人に任せるのは気が退けました。

 ですが、これだけは輝充郎にも、春菜にも言えなかったことがあります。

 吹雪は神なる力の存在をコノハナノサクヤヒメノミコトに問いました。それは単に存在する力を活かせぬのは皆のためにならないと思い、少年がそれに気が付いた故でしたが、全ての真実を映し出すという神なる鏡は、安直に考えるのであれば祟り神でも禍いでもその弱点すら見付けだすものになり得るでしょう。ですがそれは同時に自らの醜い心の真実ですらも映し出し、正気を保てぬことすらあるかもしれないとコノハナノサクヤヒメノミコトは言っていました。しかし吹雪は自分の醜い心など、幾ら見ても耐えることができるとは思っていたのです。たとえ耐えられずとも、全て事が終えたあとで舌でも咬み切れば良いだけの話だ、と。

 だが、全ての真実を映すということは正しく、相手の真実をも全て映し出すということなのです。弱点を映し出すなどという便利な力はどうでもいい、真実を知りすぎた相手を、自分は本当に斬ることができるのだろうか。本来ジャーナリスト志望である吹雪にとっては、その方がよほど恐ろしかったのです。少年は先に地蜘蛛衆に襲われ、危うく命を落としかけた時ですら思いました。それでも斬らない選択肢があるならば、それを選ぶべきだと。
 そんな自分が、何もかも知ってしまった相手をどうして斬ることができるだろう。自分は春菜に本当に使えるかどうかはそのときが来ないと決して分からない、と言った。ですがその意味を正確に伝えることまではできませんでした。知ることと伝えることを生業とする者にとっては、知ろうとしてはいけないことは確かに存在するのです。例えば祟り神のささやかな望みを、古くより人に祀られていた思いを、それが間違いであったとしても神様を友人として扱おうとした間抜けな巫女の優しさでさえも。それらを目の前に映し出されたとき、俺はそれでも御キツネ様を、七月宮稲荷を、いや、七月恋花を斬れるのだろうか。あるいは、斬れ、と人に伝えることができるのだろうか。

(高槻なら、それでも斬れるだろうか)

 だからこそ吹雪も、それを口にすることはできなかったのです。
 そのとき、彼は刃持つ者ではいられなくなるのですから。


「しかしイライラするぜ」
「ほえー?大介さま焼きそば足りないですじゃ?」

 彼の人生で幾万回と繰り返されている、朝霞大介の口癖に少女は手にしていたカップ焼きそばを差し出します。ラインバーグから見れば微笑ましい様子ですが、大介としてはオカルト・ミステリー倶楽部の上級生として後輩達に頼りになる先輩の姿を見せるどころか、倶楽部の存続すら守れていないのですから口癖でなかろうとも苛立ちを隠すことは難しかったでしょう。

「確かに困ったもんデスね」
「何でぇ腹黒顧問?お役御免になったんじゃねーのかよ」
「アタシは英語リーダーの教師でもあるんデスよ?何も米国の田舎娘に都会の洗練を教えるだけが仕事じゃあありまセン」
「それは誰のことだブリ公!」

 ラインバーグの言葉に続いて、姿を現したのはネイでした。学園の一角、オカミス部員と両顧問が立ち話をしている姿は妖怪バスター反対派からは良い目では見られないでしょうが、そこまで気にしていては何もできませんし彼らもそこまで気にするような輩でもありません。そんなことよりも、彼らには深刻が問題が幾らでもありました。ラインバーグはネイの抗議を聞き流すと、珍しく深刻に見えなくもない素振りで口を開きます。

「まーずいのはネ、目的が見えないことなんデスよ」
「目的い?」
「妙な連中が姿を消して、かえって汝鳥の大厄の封印とやらがその姿を見せていない。肝心の内容は口伝ですら曖昧にしか伝わってない、対処せにゃいかん状況ばっかりいっぱい出てきて目先のやるコトが多すぎる、なのにそれをしてもどうなるのか誰も分からない。だから皆バラバラに動いちまってマス。しゃーないデスよね、だってこれじゃ優先順位つけらんねーデスもん」

 肩をすくめて首を振りながら、ラインバーグはおどけるように言いました。もしかしたら、その先は一本の道に繋がっているのかもしれませんが、見えない道を選ぶ生徒たちがどれだけ悩んでいるかと思うと、道を示すべき大人としては申し訳なさが先に立ってしまいます。せめて、彼らがすべきはその責を負うことで皆の荷を軽くすることでした。

「で、何か手はないのかよ?あるなら今すぐここでハッキリと具体的に言え」
「んーもう、せっかちさんデスねえ」
「茶化すんじゃねえ!イライラすんぜただでさえ時間が・・・」
「時間なんてもとからねーデスよ。だから変わりまセンて」

 声を荒げる大介に、ラインバーグはいつもの飄々とした様子を崩すことなく答えます。こんなときにこそ大人が余裕を見せずにどうするというのでしょうか。

「まず、もとより訓練だとか特訓して強くなろうっつーのは今更遅いんデス。智己さんなりミス・ラピスなり、あまりに持ってるモンが使えねーんで馴れさせるために特訓するなら別デスけどね」
「ちっ。俺が今更バリツのスパーリングやっても無駄だって言いたいのかよ?」
「もちろんデス。付け焼き刃の特訓だけで強くなるってーのはそれまでサボってたモンが補習してるからデス。だから智己さんやミス・ラピスには充分に意味がある、だけどアナタがそれじゃいけまセン。もっと柚木さんのようにアタマ使わないとダメです」
「じゃあ何しろっつんだよ。バリツに頭突きでも入れるか」

 大介の冗談は英国人にも米国人にもあまり通用しませんでした。

「それを考えるのがセンパイの役目っつーもんデスよ。アナタも、ミス・ラピスも、他にも何人か。みんな御キツネ様との間に何かつながりがある人たちデス。そんで神様っつーのは自分からはつながりを捨てることができない、この国でいう『エニシ』とかいうやつに御キツネ様はしばられているんデスよ。だってエニシによって人に認識されなければ神様は神様どころか祟り神ですらなくなって消えちまうんデスから」

「縁、か・・・俺たちと、キツネの、な」
「ほえ?焼きそばよりキツネうどんが良かったですかじゃ?」
「やかましい。静かにしねーかイライラする」
「は、はいですじゃー」

 七月恋花に似た、黒髪の少女の声を聞いて大介は彼にしては珍しい笑みを浮かべます。もちろん、大介の思いの全てをラインバーグが知ることはできませんが、彼だけではなく多くの者が多くの思いを、多くの皆が抱いているのは同じなのです。やるべきはそれを知ることと考えることでした。

「例えばミス・高槻のように悪影響を及ぼす要因を事前に排除しちゃえってのも正しいっちゃ正しいんデスよ。だからこそ厄介なトコもありますが、味方を強くするコトと敵を弱くするコトっつー考えをするなら敵を強くしないとか味方を弱くしないっつー考え方もないワケじゃありまセン。もちろん、それには関わるべき敵と味方をキチンとコントロールする、しかもジグソ衆とか御キツネ様とかいる中で、ネ」
「地蜘蛛だ地蜘蛛・・・だがまあ言いたいことは分かった。要は手前の関わってる所は手前で何とかしろってことだな?」

 やや乱暴な結論ですが、認識が間違っている訳ではありません。ラインバーグは鷹揚にうなずいてみせると、腹黒顧問と呼ばれるに至った、親しげすぎる笑顔を見せました。

「お願いしマスね?」
「お願いしますじゃー」


 学園の敷地の一角にある、浅間神社の社の前でその日も参拝を行っていた麗は、春菜からの思わぬ申し出に戸惑いの色を隠せずにいます。

「コノハナの祭祀を覚えたいというの?どういう風の吹き回しかしら」
「いつまでも自己流の奉納では、礼を失していないかと思いましたので・・・巫女になるのも良いかと考えています」

 唐突に聞こえる一方で、この社が直されてから春菜が日々参詣を欠かしていないことを麗は知っていました。麗の家は和歌山にあるコノハナノサクヤヒメノミコトを祀る神社であり、今は東京の学園に通っているとはいえいずれ実家に帰ることを思えば、小さな社であれ後を任せられる者がいることは心強く思います。無論、春菜の申し出はそのためではなく、彼女がこの社に参詣を始めてからずっと考えていたのでしょう。

「この町が異形の集まる地であるならば、封印がどうあろうと汝鳥を守る者は必要だと思うんです。私は私なりに、生まれ育ったこの町が好きですから・・・」

 春菜がそのような言い方をすることを麗は珍しいものだと思いましたが、口にしては何も言わず彼女が知る作法を教えることを快諾します。日々の参拝や生活を律すること、ですが形式であれ礼であれ、目の前の少女の厳格さはそれを律するだろうと思えます。その日は行うべき正式な参拝を見せた後で、日々の心構えだけを教えると麗はこれから先は日々の参拝によって教えます、と彼女の弟子に伝えました。

「それじゃあ、明日からもお願いね」
「はい。ありがとうございます」

 こうして見ると可愛らしい後輩に見えなくもない、と麗は心中で苦笑します。先だって、コノハナノサクヤヒメノミコトは春菜を指して、知らずして人ならぬ力の媒介となる者を助けてあげて欲しいと告げました。その少女がコノハナの巫女を志すことに麗は奇妙な縁を感じると、春菜のもう一つの縁がある汝鳥神社を訪れるように聞かせます。この件がなくても麗は春菜を神木のもとに遣わせるつもりでおり、すでにその話を幾人かには伝えていました。

「是非、御神木様に参詣してきなさい。キミに力を与えるものをキミは知るべきよ」

 そう言われて麗に促された、春菜を待っていたのは見慣れた汝鳥神社の姿です。木々のうっそうと茂る丘陵を背にした、関東平野の裾野に位置する古い町並み。その町を見晴るかす、丘の中腹にある古い神社の境内に祀られた齢一千年を数えると言われる神木。大人が数人手をつなげても抱えきれないほど太い幹には注連縄が巻かれており、古木が知るであろう時間を窺わせていました。
 時刻のせいであったか、人避けがなされていたのか。他に人気のない境内を掃き清めながら春菜を待っていたのは相馬小次郎です。和装を着ている以外は一見、ごくまっとうな少年にしか見えない小次郎は、春菜の祖父の頃よりも古くから汝鳥の封印を守るものでした。様子を窺うかのような顔をしている少女に向かって、祀られている神木を背に小次郎は静かに、ですが唐突に語ります。

「まず、あなたは考え違いをしているんです」

 人よりも長くこの地を見ている鬼の少年は、彼の教えられる限りの事情を春菜に伝えることに決めていました。それが浅間神社にいるコノハナノサクヤヒメノミコトに託されてのことか、麗に言付かってのことか、あるいは別のものの意思であるのか、そこまでは春菜にも知る由はありません。封印と結界の成り立ちについて、その基となっているのはあくまで汝鳥の中心に据えられている「大厄」の存在であるということ。西南にある七月宮稲荷や西北の浅間神社、そしてここ南東の汝鳥神社にはただそれを助ける力が存在しているにすぎないのだということ。

「コノハナノサクヤヒメノミコト様も、僕や、ここ汝鳥神社の神木も、結界や封印そのものではありません。ただ、力持つものが存在すること自体が汝鳥の封印を強めるし、それが四方にいることでバランスが保たれているんです。瓶の上に載せた蓋の四方に立っている、重しのようなものだと思ってもらえればいいと思います」

 つまり、今は瓶の蓋が揺れているような状態か。ではその揺れを止めなければなるまい、と春菜は思います。その考えに、小次郎は少し哀しげな顔になりました。

「やっぱり、あなたは傲慢な人ですね」
「そうかもしれません。でも、それは悪いことなの?人が人の基準を人ならぬものに求めるなんて莫迦げているわ」

 春菜の言葉に答える小次郎の表情には、怒りではなく寧ろ哀れみの意味が込められています。傲慢な真実の灯火を掲げる少女は、自分への評価をすら仕方のないものとして受け入れているようでしたが、少年が伝えたいことはもっと別の、ごく単純なことでした。人ならざるものが、人の世において人に教えることには本来何の矛盾も存在しないのだということを。小次郎は、小さく首を振って続けます。

「違う。汝鳥が、自分自身を助けるために人を助けたがっているんです。それは何も人に求められたが故じゃなくて」
「自分自身を・・・それが、四方の社のことだというの?」
「そうです。汝鳥を封じる四方の神は、確かに汝鳥を封じるために存在しているのかもしれません。けれど、彼らは汝鳥の封印を行うための存在ではない。祀られて存在し続けることは、あくまでも祀られる彼等自身のためなんです。それが利己的な考えであっても共生関係は成立する、いや、むしろ共生は利己的な結びつきでなければ成立しない。自分だけを助けるなんて愚昧だし、他人だけを助けるなんて偽善だし、世界だけを助けるなんて傲慢なんです・・・あなたは、もう少し愚昧でも偽善でも構わないと思う」

 その言葉を聞いて、少女は表情を変えました。

「あなた・・・鬼の子ね?」
「はい。だから人に悪徳を勧めることができます」

 少年の言葉は理想を並べ立てた誘惑でしかないのかもしれません。ですが、時として実現するための意志を人に与えるには理想こそが相応しいのです。全てを実現させるのは、全てを望むからこそなのですから。

 小次郎は、あらためて春菜に力の存在を示しました。齢一千年を数えるといわれるその神木は、彼の力に相応しい助けを彼女に与えると自ら言っているのです。春菜には鍛えられた心身があり、それを媒介にして神木は春菜の身を借りて、力を及ぼすことができる。別に身体なり精神なりを乗っ取ろうというわけではなく、しかも神降ろしにも似た力を得ることができる。春菜はその力の存在に気が付いてはいましたが、これまでもその自分ならざる力が彼女をしばりあげることはありませんでした。
 少しだけ、考えるように俯いていた少女は顔を上げると、決心したように言葉を発します。その決断の早さは彼女の性格以上に、ここを訪れる前に彼女がすでに結論を持っていたことを意味していました。

「分かりました。では、ありがたくお受け致しますね」

 春菜の目に一瞬、あの恐ろしくも力強い光が宿りました。少女は神なる木に向かうと祈りを捧げるが如く両足を肩幅にひらいて構え、袋の紐をほどき彼女の錫杖を手にしました。不審な目をした小次郎が見る前で、構えのまま正中を保ち、ひと息を大きく吸うと錫杖を持つ右手を右足と同時に突き出し、そして重心を移します。そこに神木の力を乗せて。

「木独鈷、其の気によって汝自らを打つ・・・はああっ!」

 ずんっ・・・。

 少年の前で、神木の力を乗せた少女の力が神木そのものに対して打ち込まれます。齢一千年を数える神なる木が、わずかでも揺らいだのは「彼」の生涯で二度目でした。一度目は彼女の祖父が人間の力で、そして二度目は少女の意志によって。舞い落ちる葉に一瞥を向けると、春菜は頭上に向けて厳かに宣言します。

「戦うなら、御自分で戦って下さい。貴方の力は未だ生きているのでしょう、ではそれを自らなさるべきです。貴方には貴方を祀る場所もあり、貴方を祀る人も多くいる。私は、貴方と一緒に戦うならまだしも、貴方に利用されるのは御免ですから」

 それを認めたとき、少女は自らを鍛えた人の力を否定することになります。春菜にとって、人はそんなに弱いものであってはなりませんでした。戦う者であれば伝説の剣は欲しいに違いない、だが、剣が戦って下さるのであれば人など必要がないのです。春菜の決断を見た小次郎は半ばは予想していたような、半ばは呆れたような表情を見せていましたが、口に出してはこう言いました。

「まさか、そんな選択肢を選ぶとは思いませんでした。確かに神木の力は未だ生きています。祀る者だってここには多くの人が詣でているし、元々あなたはここの巫女でも祭祀でもない。四方の力のひとつは、このままでもたぶん何とかなるでしょう。でも・・・」

「でも?」
「せめて、『彼』をそのまま連れていってあげてはくれませんか?これは彼とともに汝鳥神社にあった僕からのお願いでもあります」

 そう言うと、小次郎は春菜の手にしている錫杖を指さしました。不思議そうな顔をする少女に鬼の子は語を次ぎます。

「あなたの持っている錫杖、柚木塔子さんからもらったものですよね。その柄はかつて折れ落ちた神木の枝を削り、白河塗りと呼ばれる京都汝鳥の手法で固められて神社の社を補修するために作られた建具だったんです。それは聖遺物でも偶像でもない、ただの枝ですけれど、もとの身体の一部を通すことによって彼はあなたを通して、汝鳥を見ることができる。人が人から自由でいられないのと同様、御神木だって足を生やして歩き回るわけには行かないし、ただ見ているだけしかできないんです・・・ちょっかいもかけたくなるんですよ」

 齢一千年もの間、神木はただ汝鳥神社にあって古い街並みを見守りつづけることしかできませんでした。それは神木が望もうが望むまいが関係のないことです。木が足を生やして動き回ることはできないのですから、神なる木は遠くから眺めやることしかできない汝鳥の町に、どれほどのもどかしさを覚えていたことでしょうか。
 小次郎の言葉に春菜は少し考えてから、表情を改めてもう一度神木に向きなおると今度は心の底から頭を垂れました。それは崇敬の念ではなく、謝意の思いから。やはり、彼女は祀る者としては畏敬が足りなすぎるようです。八神先輩に苦労をかけることになるだろうか、と思いながらも畏敬の足りない少女は、あらためて鬼の子に言葉をかけました。

「分かりました・・・それじゃあ、私からもひとつ、お願いがあります」
「何ですか?」
「先輩、もう出てきて頂いて結構ですよ」

 不審な顔をする小次郎にそう言って、春菜が声をかけた向こうから姿を現したのは朱陽でした。唖然とする小次郎にどこか、悪戯がすぎたような顔でいる春菜が剣術研の先輩を連れてきていたことは、彼女が自分の選択肢に自信を持てずにいたことの証明でもあったのでしょう。

「どうやら先輩に助けてもらわなくて済んだようです」
「そうみたいだね。でもあんまりろくでもない事に人を利用すんじゃないよ」

 明け透けに言う春菜に、半分苦笑している朱陽。小次郎はといえば、あまりに神仏への畏敬が足りない娘たちの行動に今度は完全に呆れた顔をしていました。春菜が安易な力に溺れることがあれば、それを力ずくでも止めるために朱陽は呼ばれていたのでしょうが、或いは春菜と朱陽の二人で力ずく、という思惑も無論彼女たちにはあったに違いないのです。ですが、呆れながらも小次郎は春菜の意図を完全に理解してもいました。彼女は貴方が戦って下さいと言った、そして一緒に戦うのならまだしもと言った。汝鳥を救うに助けがいるのであれば、それは求めるものではなくたどり着くべきものなのだ、ということを。であれば春菜の願いとは、おそれおおくも御神木に対する要求があるということでした。

 小次郎は深く息をついてから軽く首を振ると、娘たちを待たせて神社の裏手にある納屋に向かい、ひとふりの枝木を持ってきました。樹皮をむかれた、まっすぐな枝木はよく干されており、それでいて固くずしりと重そうな質感がただよっています。鬼の力でなければとても軽々とは扱えぬだろう、小次郎の背丈ほどの長さのある枝木でした。

「本当はあなたに、高槻さんに差し上げようかと思っていたんですが・・・あなたの錫杖と同じ白河塗りで鍛えられた神木の枝です。これを削り出せば、木剣の一振りくらいは作れると思います」

 春菜は、小次郎の差し出した枝木を受け取ると迷うことなく朱陽に手渡しました。神木の枝であれば神をなぐりつけてもまあ折れずには済むだろう、その力が神仏のものでなくとも、彼女達の手にする力はこれで構わないのではないかと思います。すでに春菜が手にしている錫杖は彼女の手に馴染んでいましたし、朱陽は神木の枝を強く握って重そうにひとふりすると、風をきるひゅうんという音に満足しました。扱うべきは常に、人である自らの力なのですから。

 自らを鍛え、師父に習い、そして友に応えよ。春菜の祖父はそう言っていました。
 そこに神の名はありません。彼女達が歩む道には・・・。

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