非常扉を開けるたびに.十
雲外鏡。手のひらに収まるほどの小さな銅鏡は人であれ異形であれすべての真実を映し出すという神器であり、それを覗き見る者に自らが耐え切れぬほどの醜い姿をも露にするとされています。冬真吹雪がコノハナの神からそれを預けられたと知ったとき、高槻春菜がどのように思っていたか。コノハナノサクヤヒメノミコト、桜の神は彼女が礼参する社に祀られている柱であり冬真吹雪は異形の妖に対しても常に春菜と対立して意見を異にしている、背中合わせの友人であった筈です。
「神様に頼らず災厄とまみえるほど、自分は大物ではありませんでね」
それがどれほど危険な代物であるかを承知の上で、吹雪はそううそぶいています。彼らが対するべき汝鳥の災厄は伝えによれば祀られた神の力そのものでしたから、せいぜい非力で卑小な人間らしくできることはすべて利用してでも抗うしかありません。恐怖がないといえば嘘になる、それでも太い眉をいつもの皮肉な調子に吊り上げながら肩をすくめてみせる少年の姿に春菜は目を向けていました。それは羨望でも、危惧でも、哀れみでもなく春菜自身にも説明のしようがない視線で。
東に東京都汝鳥市があって、西には京都府汝鳥市が存在する。それは古くからある妖や精霊が姿を現す、人ならぬものが集う地とされていました。その汝鳥には古くから妖に対峙することを生業とする者たちが存在して彼らは総称して退魔士やら妖怪バスターと呼ばれています。
「京都汝鳥からの招待デス。こっちの東汝鳥で鍛錬が不充分な状況をアチラさんが危惧してくれて、冬休みを活かして京都で合宿をさせてくださるという訳デスね。なんで今頃という感じがしなくもないデスが、こっちにゃ渡りに船デスしアチラさんが持ってる文献や情報を調べられるのも魅力的デス」
ずれた眼鏡を指先で直すと、オカミスことオカルト・ミステリー倶楽部顧問のウォレス・G・ラインバーグはやや大仰な身ぶりを交えて言いました。世間から異形の妖が姿を隠し、それに合わせて妖怪バスターへの批判が急速に強まるようになった汝鳥で元来が特異な存在である彼らの立場はどうしても悪くなったと言わざるをえません。危険を買って騒乱を治めることを生業とする者は危険と騒乱が去れば肩身が狭くなって然るべき、という風潮は決して理不尽なものではありませんし、力ある者が平穏の中で規制されることは正しいことではあるのです。問題は、災厄の封じられた今の平穏が物事の一時的な先送りにしか過ぎないことでした。
そうした中で京都汝鳥の退魔組織から招待の誘いがあった最大の理由は、その先送りにされている封じられた「大厄」の存在にあるようでした。古来より東西の汝鳥に分かたれて封じられたという禍いの種、しかもそれについての知識が東にも西にも充分に伝わっていないという現実は、灯火もなく暗夜に道を探すが如く人に不安しか抱かせることができません。いわば本家にもあたる京都汝鳥としては、とても放置しておける状況では無いということでしょう。
「なに京都だと?妾は反対だぞ!」
ラインバーグの言葉に剣術研究会顧問であるネイ・リファールが反意を表明するのは、殆ど脳幹か脊髄で行う反射のようなものとなっています。確かに剣術研究会はラインバーグのオカミスと対抗する組織ではありましたけれど、実際にはともに妖怪バスター予備軍として退魔の業を行うに交流することも協力することも珍しくはありません。ただし、それがネイとラインバーグの両顧問同士の間柄であれば、彼らは交流することも協力することも競争することも罵り合うこともままありました。そうしたネイの性格はネイ以外の誰もが、ことにラインバーグは充分に承知しているつもりです。
「南部の田舎娘としてはあんな雪中のクソ寒いところでやってられるかってことデスか?」
「よくわかっとるでは・・・田舎娘とは誰のことだブリ公!」
ヤンキーの剣幕にいつものことかとジョン・ブルは気にした風もなく首を振ってみせます。
「いやいやせっかく温泉やゲレンデもあってアイスランドのようなリゾートホリディが過ごせるというのに、寒いのが苦手というなら残念デスが仕方ありまセン。それではこの話はなかったコトに」
「誰が行かぬと言ったか!可愛い部員のために行くぞ京都ォ!」
こうしてオカミスと剣術研双方の合意による京都汝鳥での冬合宿が決定しました。ただし公的には汝鳥学園では現在、妖怪バスター予備軍としての両倶楽部の活動は禁止されており、もちろん合宿など認められることではありません。汝鳥に封じられた大厄の不安が増大しているこの時期に、妖怪バスターへの批判がことの他高まっていることについては反対勢力による宣伝の結果であろうと言われていますし、実際にそうらしくもありました。
ですが、彼ら反対派の批判に何の根拠がない訳ではなく、ことに学園生活に専念すべき妖怪バスター「予備軍」としての彼らが特例的に学園の枠を超えて活動を行っている現状に対しては、それを快く思わぬ者がいても無理からぬことだったでしょう。汝鳥学園より両倶楽部に活動停止の指示が出た理由も裏の事情はともかくとして、公的には活動が学生としての枠を踏み外さぬようにとの凍結措置でしたから、学園の教師でもある両顧問としてはそれを全く無視することはできませんでした。それが必ずしも平穏に治まっていない理由は二つ、倶楽部側から見れば大厄の不安が何も解消されてはいないこと、学園側から見れば一部の教師と生徒がそんな両倶楽部への活動停止を強行しようとしている向きに反発が生じた故にあります。
「確かに、端から見れば優遇されているようにしか見えないものね」
「でも教師はまだしも生徒からも圧力があるのは正直、煩わしいけど」
多賀野瑠璃と高槻春菜は京汝鳥の招待に応じて、荷物を担いで駅へと歩いている最中でした。些かわざとらしくはありますが、彼らの名目は合宿ではなく個人の旅行とする必要がありましたから集合も現地で日時も自由、行き先だけが同じという奇妙な旅行となってはいます。瑠璃の鞄は旅行にしては些か大きく、春菜のそれは旅行にしては些か身軽で小さいのは確かに合宿の都合ではなく、彼女たち自身の性格によるものだったでしょう。
オカミス所属の瑠璃に対して春菜は元来剣術研の所属でしたが、瑠璃の護衛役として一時移籍をして以降はともに行動することが多くなりました。ただ、神降ろしと称される力に良い意味で慣れてきた昨今の瑠璃の実力には、今ではどこまで護衛が必要であるか不分明となりかけていたかもしれません。ですが、彼女たちが護衛云々を抜きにしても二人で歩いていることにも充分な理由がありました。春菜が述懐するとおりに、煩わしさを避けるに一人では不便になることもありそれは異形の神仏妖怪変化が相手とばかりは限らないのです。
「おい!お前達どこへ行くつもりだ!」
背後から不躾で強圧的な言葉をかけられて、少女たちは足を止めました。面倒くさげな表情をおくびにも出さず、春菜が首を巡らせた視線の先には威圧的に腕を組んだ学園の生活指導の教師と、その後ろには取り巻きにしか見えない生徒たちが立っています。言わずとしれた妖怪バスター批判派であり、しかも自分たちの主張の正当性を公的発言の代弁者という位置付けによって確保しようとする者たちでした。その強硬な態度には学園内でもたしなめる声が上がるほどでしたが、概してそうした声は上がるだけであって実際に制止をする例は滅多にありません。そして世の中には声の大きさが武器であることを知りもせずに利用する者がままいるものです。
春菜は煩わしげに首をひとふりすると、思わず身を縮めていた瑠璃を守るように前に立ちました。わざとらしいほどに丁寧な礼儀と態度、にもかかわらずいかにも挑発的な仕草で上着のポケットに手を入れると、よく見えるように小さな録音機を取り出します。
「これは先生。休日の折り御疲れ様で御座います」
よく通る声が、相手と録音機の双方に聞かせるためのものであることは勿論です。汝鳥市内の旧家の生まれであり、学園内でも優等生で通っている春菜は、ですが一般に思われているおとなしやかなお嬢様ではなく従順どころか攻撃的な面すらありました。理非を問うのであれば相手が誰であれ遠慮はなく、当人は理をもって説くのですから反対派、批判派としては扱い難いことこの上ありません。更に学園の外ともなれば、気の強い汝鳥旧家の娘が学園教師の立場をどこまで尊重するかも怪しいものでした。例え春菜が気にしていなかったとしても、公的立場を頼る者は自分の立場を気にせずにはいられない性質があるのです。
「そんな事はどうでもいい、お前たちは・・・」
「これから冬休みを利用して友人の多賀野さんと旅行に行くんですよ。でもどうしてそんな事を聞かれるのですか?」
どうして、という理由を相手が持っていないことを知っている春菜は、それだけ言うと相手の返答を待とうともせずに瑠璃を促して踵を返しました。短い言葉の中で春菜自身は嘘もつかず形を外れたことも言っていませんし、相手が春菜の家柄と手にした録音機に遠慮しているのも明らかです。我ながら嫌な対応だ、と思いながらも春菜としてはいっそ煩わしきを避けるに如くはありません。それが自分の神経にささくれを作らないといえばそれは嘘になりますが、結果が同じであればことは早く済ませた方がまだしも楽というものです。そんなことよりもずっと、彼女には頭を捉えて離さない悩みがありました。
瑠璃も春菜の対応は気になったようで、結局悪態をつくだけで何も言わずに引き下がった教師たちの姿が見えなくなったところで遠慮がちに声をかけました。
「いいの?あそこまでやっちゃって」
「いいのよ。聞かれたことは答えたし録音機もデジタルだと証拠にならないって、冬真君がテープ貸してくれたから」
「そういう意味じゃなくて・・・え?冬真君が?」
「ええ、こないだ相談した時にね。試験前にノート貸したお礼だって」
剣術研の中でも親妖怪派である冬真吹雪と、対妖怪強硬派である春菜の対立は公然のこととなっていましたが、瑠璃が見ても彼らは奇妙なまでに協力や連携をすることがままありました。瑠璃自身も親妖怪派であり春菜とは意見を異にしていましたが、春菜はそれによって友人関係までを崩そうとはしませんでしたし、吹雪の方もこと春菜と対するときは感情を理性に優先させることは無いとはいえずとも決して多くもありませんでした。
ですが、そんな割り切った関係は余程哀しいものではないのでしょうか。むしろ吹雪に堂々と罵られて嫌悪されることすらある、瑠璃にはそこまでは分かりませんが友人関係が割り切って営まれるくらいであるなら、憎まれて罵倒された方がまだしも良いかもしれないと思うことも否定はできないのです。
「それより急ぎましょう。まだ時間はあるけど、余裕はあった方がいいから」
お互いに話を変えた方が良いと思ったのでしょう。春菜の言葉に瑠璃も頷くと、大きな鞄を担ぎなおして歩き出しました。こんな場所で思想を語り合っていれば、いずれ列車に乗り遅れないとも言えなくなりますから。
◇
「おお、来たね」
「先輩!お早いですね」
古いが立派な宿場のような日本家屋の土間で、蓮葉朱陽は春菜や瑠璃の姿を見て軽く手を振りました。その隣には彼女たちを招待した京都汝鳥の者である烏丸香奈が笑顔を見せています。型どおりに挨拶を終えると、少女たちは部屋に案内されて荷物を下ろしました。細い肩をさすり、首を回して荷の重さに不平を言う身体をほぐします。
「それで、播磨の爺さんは何か言ってたかい?」
「流石にまだ・・・でも、白河塗りのことは随分分かりましたよ」
朱陽のいう爺さんとは、東汝鳥の金物屋の主人で神木の枝を削り法具の刀を作ることを頼んでいる老人のことでした。その手法である白河塗りと呼ばれる技術は、豆腐をして巌石の如く頑健にする伝来の技とされています。座卓に湯呑みを並べると少女たちは座布団に腰を下ろし、朱陽は蜜柑の皮をむきはじめました。
剣士として朱陽が考えるに、如何な刀であれ武器であれ幾度も何かを斬ればやがて斬れ味は鈍り、刃は欠けていずれ用いることができなくなります。それを防ぐために術者は刃ではなくそれを覆う力や技によって斬るのですが、それにも限界はありました。白河の法具の力は正しく折れぬ、砕けぬというその一点にこそあるのです。
「祖父も白河の事を存じていましたので、うかがってきました」
そう言った春菜が聞いた話では、元来白河の一連の技は豆腐を保存食にする製法のこととされていました。細かく砕いた大豆の粉から紙を梳くようにして繊維を取り出し、編み込んだ繊維を幾重にも重ねてから叩いて鍛え上げる。冗談のような技は当時有名だった豆腐の銘柄として今も残されており、それは玄武、石英、金剛と呼ばれていて中でも黒曜と称される逸品は表面が黒々と光り、重さでも固さでも比類ないとされていました。話に一息をつくと、春菜は湯呑みを下ろします。
「特に黒曜は割れず、砕けず、斬れずの三不とも呼ばれていたそうですよ」
「どっちにしろ豆腐の呼び名じゃないね」
苦笑しながら朱陽は続きを促します。白河の豆腐が如何に固くとも、食物であればそれを加工する方法も当然ある筈でした。岩のように固いと言われる、白河豆腐の繊維を読んで削り出す方法を白河削りといい、削りだした豆腐繊維の煮汁から取り出した粉で丹念に磨く手法を指して本来の白河塗り、そしてこの削りから塗りまでを総して白河塗りの手法と呼ばれています。
朱陽が頼んでいる神木の枝を鍛えるには、保存のために仮塗りがされている枝木に大豆の煮汁を塗って触媒とし、枝の表面の目を読めるようにする必要がありました。そこから根気よく削り、木刀の形にしたところでもう一度塗りの技法を施せば良いのです。神木の枝木を鋼の如く鍛え上げる、春菜の持つ錫杖もそうして作られたものであり、技巧をもって鍛えられた品は奉納されるに相応しい技となります。
「それから、これは烏丸さんに伺いたかったのですが」
「はい?何でしょうか」
春菜の声に同席していた香奈が首を向けました。春菜が祖父に聞いた話では、京都汝鳥にはその白河塗りで鍛えられた六尺棍があるとのことでした。彼女の祖父が白河塗りを知っていたのもそれ故であり、其は木木にして生有るが如くしなやかで鋼が如く重く、極めた技に尚折る事も曲げる事もあたわず、と称されています。
「白河塗りの初代が友人の息子のために作った逸品だとか。その所在をご存知ではないでしょうか」
「恐らく探せるかと思います。京都汝鳥には大火以降の記録はほぼ残っておりますから」
「なるほどこれで刀と、杖と、棍の三つができる訳かい」
朱陽は面白くなってきたとばかりに腕を組んで頷きました。彼女の刀は仕上がりを待ち、春菜の錫杖は東汝鳥に預けてあり、京都汝鳥の棍があればまず三人は折れぬ業物を持つことができる訳です。さて吹雪の坊っちゃんはどう思うだろうかと、朱陽は些か意地悪く考えていました。持たぬ者の嫉妬、そんなものは当人が何とかしない限りは、どうにもならないことでしたがもちろん朱陽は吹雪が手にしている神器の鏡の存在を知っています。ですが、それを知る春菜が鏡の存在をどのように思っているかまでは彼女も考えたことはなかったでしょう。
話を終えると、朱陽と香奈は春菜や瑠璃を連れて、広い中庭へと移りました。敷地には良く手入れがされた庭園や大きな石蔵があるだけではなく、合宿を呼び掛けるだけあって広場や道場なども用意されています。鴨川を登った内陸にありながら、川を利用した港で栄えていた京都汝鳥。その合宿場は町を見晴るかす山中にあり、雪冠を帯びた稜線はなだらかで確かに隠れリゾートとしてはもってこいの場所にも見えました。彼女たちはここで東汝鳥では得ることの出来ぬものを探すか、或いは鋭気を養うことで東の厄災に備えなければなりません。すでに、朱陽のように先入りしている幾人かは自分たちの鍛錬を始めているとのことでした。
「そういやあんたの錫杖、サクヤ様に預けてきたんだよね。大丈夫なのかい?」
「鍛錬に不都合はありませんから大丈夫です。むしろ東汝鳥を離れるので祭祀を欠かさないようにしないといけませんけど」
「祭祀・・・ってそうか、八神に教わってサクヤ様を祀ってるんだっけね」
東汝鳥を離れて京都に行くにあたって、春菜は暫く続けていた浅間神社への日参が滞ることを心配していました。コノハナの祭祀が滞ることがないかと、巫女職にある八神麗や祀られる当の神体であるコノハナノサクヤヒメノミコトに相談をしましたが、少女の誠実な頑なさに彼女たちは笑みを浮かべていました。
「まさか。神様はそこまで口煩くはありませんよ?」
「神社でなくとも神棚はあるしそれを組むこともできるわ。やり方は教えるから安心してね」
「それに桜のお参りは花見の季節でないと賑わいませんから」
冗談を言う神様も珍しいものだったでしょうが、それこそがこの国で桜の神が人に慕われていることの現れなのかもしれません。もちろん、だからといって麗や春菜が祭祀を怠る理由にはなりませんでしたから、そちらは京都でも続けるつもりです。
そして錫杖が無くても鍛錬はできる、という点については朱陽も同感でした。元来鍛錬とは呼吸の一つ、姿勢の一つから始めるものであって、場所を選ばず普段の生活であってもそれを鍛錬と為すことはできるのです。ただし、集中するには邪魔や妨害が入らないことが重要であって、東汝鳥の問題はその邪魔が入って鍛錬が途絶えることにありました。
「そろそろ瑠璃さんにも教えようと思っていたんだけど」
「え?わたしに?」
春菜の言葉に、瑠璃は不思議そうな顔をします。例えば廊下を静かに、姿勢を正し呼吸を整えて歩くだけでもそれは肉体と精神を制御するに大きな意味があります。不注意な少女が勢い余ってあちこちに身体をぶつけながら歩く、という状況はその制御ができていないということですが、であればどこにも身体をぶつけず、余計な音も気配もさせずにいるには相応の力を使うということではないか。無論それは単純化した説明ですが、特訓の時にだけ鍛えるよりも常日頃から鍛え続けていた方が、より気負わずに普段の力が出せるであろうことは当然の理屈でもありました。
「耳が痛いなあ」
情けない顔になる瑠璃でしたが、春菜にしてみれば特訓のみで得られる力などというものに信を置いてはいません。一夜漬けの成績が本来の力ではないことと同様に、普段から学んでいれば抜き打ちの試験を恐れる必要がないことと同様に。ですが、普段から鍛え上げた力であればそれはその者の能力が底上げされたということに他なりません。飛んでくる球を構えて捕ることはできても、いきなり放り投げられた蜜柑をふつうに捕ることができるとは限らないのです。人間は集中すれば相応の力を出すことができますが、普段から出せる力が優れているのであれば、集中する力をいざというときのために取っておくことができるでしょう。
春菜が見るまでもなく、昨今の瑠璃は不安があるとはいえ少なくとも自分の持っている力に慣れてきてもいるようでした。生まれつき神降ろしに適した大きな器、瑠璃がそれを持つことの是非を問うことにはこの際は意味がありません。重要なことは彼女がそれを持っているという事実と、それを扱うことができるかどうかという事実だけでした。振り回されるのであればナイフ一本に振り回される者もいるし、大きな力を扱うにはより大きな労苦が必要であることは今更ですが、それができなければ衝動のままに刃物を振り回す狂人と変わりはないのです。
「座を組む場所を使わせて頂けますか?少し瑠璃さんとも対してみたいですし、できれば野外に面した場所が良いのですが」
「構いませんよ。型と精神の修練ですね」
「もしかしてあたしもかい?まあここなら座も面白そうだからいいけどさ」
香奈の返答に、朱陽は髪をかきあげます。春菜の言う座を組むとは座禅と同じく単に座って姿勢を正し、瞑想するだけの鍛錬を指して言いますが、座はその者が如何に組むかによって大きく効果が異なる鍛練だとも言われています。それこそ全身の神経を研ぎすまし精神を世界と一つに為せば、目を閉じてなお降りしきる雪の音を聞き、枝木に止まる鳥の数を知り、肌に触れる空気の流れを読むことさえできると言われていました。俗な表現ではそれを指して「心眼」と称すこともあります。
「他の方もあちこちで修行を始められています。何か分からないことがあったらいつでも聞いてくださいね」
「そうでした。そういえば烏丸さんは結界の法にも詳しいと伺っていたのですが」
香奈の言葉に、思い出したように春菜が尋ねたのは結界を長く、しかも容易に制御する幾つかの方法でした。本来武術を嗜んでいた春菜はそうした術に疎く、一方向のみに及ぶ力や大きさの制御、その組み方についての知識を殆ど持っていません。春菜の頼みに香奈は術を為す者の力さえ借りればそれほど難しいことではないので、後ほどお教えしますと伝えると表情を和らげて言いました。
「貴女は、優しい人ですね」
脈絡の無い言葉に一瞬、春菜は返答に詰まった様子を見せます。彼女がそのようなことを言われることは久しくありませんでしたが、その言葉にわずかに覗かせた春菜の真意をその時は誰も、春菜自身でさえも理解できませんでした。
(でも、私はそんなではない)
庭園に面している板の間で、少女たちは姿勢正しく座したまま微動だにしていません。彼女たちは目を閉じて精神を研ぎ澄まし、風の音を聞き空気の流れを感じています。元来、人の五感の中でも聴覚や触覚は視覚に優れて精密な感覚を持つ器官であるとされていました。それは目を閉じて敵を斬る、などという些か漫画じみた誇張ではなく、目で見るのみならず全ての感覚で世界を捉えるための鍛錬となります。例えば背後に誰かが立っていれば、人は目で見ずともそこに誰かがいることに気付くことができますし、人の往来が足下を揺らす振動や床の軋む音を聞くこともできるのですから。
目を閉じた春菜の耳は静寂の中の喧噪を捉え、庭園にある水の流れる音や風が葉を揺らし雪を舞い上がらせる音を見付け出していました。傍らでは瑠璃が同じ姿勢でやはり微動だにせず、自らの呼吸から血の流れまでを感じとろうとしています。大いなる器こそあれ、それをまるで扱うことのできずにいた瑠璃の成長は春菜にもはっきりと見えており、じきに彼女の護衛をする必要など無くなるかもしれません。
神仏や異形の妖を畏敬し共存を望む瑠璃と、それらを畏敬し峻別することを望む春菜の思いはやはり相容れないことが多く、吹雪と春菜の間柄ほどではありませんがその違いは厳然としていました。ですが、多くの人に受け入れられないものが春菜の思想であるのならば、結局は春菜の思想が人に特異ということなのでしょうか。
「真実でも事実でもなく、数で正誤が決まるのであれば事は単純だけど・・・」
少なくとも、春菜はそうではないと思っています。それに、たとえ春菜が特異であったのだとしてもそれを理由に彼女の言動が変わることはないでしょう。そしてそれによって彼女から友人の手を拒むこともありませんが、人の手がすべからく妖の手を握ることができるとは春菜は考えてはいません。もちろん、それができる者は幾人もいるのでしょうが、ではそれをどうやって区別しようというのか。人の中で異形の妖と手を握ることができる、例えばトウカのような者とそれができない人を区別したり、妖の中でも人と手を握ることができるものとそうでないものを区別するのだったら、人と妖の間に線を引いた方が余程いいのではないか、と彼女は考えています。そして、どこに線を引くとしてもそれを為しそれを守る者が必要であることを春菜は知っていました。
少女はしばし意識が外れたことを自覚すると、改めて座を組み直して心を周囲に戻しました。春菜の周囲からは急速に光と音が姿を消して、一切の暗闇の中で彼女の意識だけが明晰な姿を保っています。春菜がこの感覚を覚えるようになったのはごく最近のことであり、この世界の内であれば彼女はそれこそ空気の流れを知り、触れずして相手を肌に感じることもできる自信がありました。それがたとえ異形の妖であったとしても、自ら手にかけるようになって以来、彼女は人ならぬ多くのものを感じることができるように思えます。
降りしきった雪が庭園の各所を白く覆っている、広い敷地を利用して部員たちは各々の鍛錬や修練に取り組んでいます。道場で組み手を行う者もあれば座を組んで精神の修練に努める者など様々でしたが、吹雪がその姿を探していた龍波輝充郎は人目を避けた山道の入り口で一人稽古を行っていました。鬼の力を秘めた半妖である輝充郎は、彼の強い力が周囲を巻き込む恐れがないようにと一人で鍛錬を行うことが珍しくありません。真に優れた力を持つ者は同時に自らの力を恐れることを知る、吹雪にとって輝充郎は心から信頼できる先輩の一人でした。雪を踏み分けて近寄ってくる足音に気が付いたか、輝充郎は肩ごしに振り返ると後輩の姿を視界に認めます。
「ん?どーしたこんな所まで」
「ちょっとお願い・・・っていうか見て欲しいものがありまして」
深刻というより生真面目そうな表情を吹雪がしていることは珍しい類に入りますが、人が真剣であれば対する者も真摯であるべきだと輝充郎は思っています。そして皮肉屋の後輩が真摯になる物事というのはそう多くはありません。その吹雪の頼みは剣術の型を一つ、見て欲しいというものでした。
黒髪をぞんざいに一本しばった、一見したところ線の細い少年に見える吹雪は、意外に重さのある一撃必殺を旨とする剣術を用います。耐えながら、あるいは避けながらただ一つの隙を窺い一閃で断つ。無論、しくじれば不利は免れませんが当人曰くそれを小狡さでカバーするのが吹雪の流儀となっていました。
「もちろん今になって手前の売りを捨てるつもりはないですが、せめてそれを少しでも強くできないかと思いまして。正直に言えばいざという時、一撃で斬れるようにって甘さがあることも認めます」
こと、輝充郎が相手であれば吹雪は韜晦しつつも本音で話をすることができました。技の重さに力は無論重要ですが、実際には力を流れに乗せる柔らかさがより必要であり、それは吹雪が得意とするところです。そこに速さと鋭さを加えるにはどうしたらいいか、しかも自分に向いた、実現のできる方法で。吹雪は太い眉を片方持ち上げると軽く肩をすくめました。
「それで、高槻に相談してみたんですよ」
「嬢ちゃんにか?」
「ぶっちゃけ、剣術研でそうした鍛錬に詳しいのはあいつですからね」
吹雪と春菜の確執のことは輝充郎も当然承知しています。その上でわざとらしく顔を合わせるか、或いはわざとらしく避けるしかないのであれば、今の状況を考えれば合って協力した方がいいということなのでしょう。そして互いが理性によって割り切った関係を認めていることが、互いを傷つけあっていることは吹雪にも春菜にもとうに分かっていました。輝充郎としては傷ましい限りですが、こればかりは当人以外にどうできるものでもありません。吹雪はそれを気にしないか、それを気にしない風を装っていました。
「で、一つだけ教わりました。それが俺の太刀筋をどう変えるかを先輩に見てもらいたいんです」
「もちろん構わんが、何で俺なんだよ?」
「そりゃあ俺が相談できて、しかも贔屓目が入らない人なんで」
それが輝充郎への敬意なのか吹雪自身への皮肉なのかは、当人にもよくは分かっていなかったでしょう。ただ、いずれにしても吹雪が輝充郎を信頼しているという事実があれば大した問題ではありませんし、輝充郎にも後輩の頼みを断る理由は何もありませんでした。稽古用の木刀を二本、袋から抜きながら吹雪はまだ足跡のない山道脇の雪上へと動きます。
「今までの太刀筋は見せた方がいいですか?」
「いらねーぞ、知ってるから」
「何気なく凄いこと言いますね・・・」
輝充郎が鬼の力を力任せに用いるだけの者であれば、たとえ信頼する先輩であったとしても吹雪は自分の太刀筋を見せようなどとは思わなかったでしょう。少なくとも剣士としての自負心があるならば、自分に及ぶか、それ以上の相手でなければ自分の奥の手を見せる価値はありません。居合いのように木刀を腰だめに構える吹雪に対し、輝充郎は渡された木刀を乱暴に肩に担ぐと、そのまま正面から向き合いました。それは剣を知らない故ではなく、輝充郎の人並み外れた膂力であれば反動をつけずに振り下ろす方が太刀が早いからこその構えです。吹雪にもそれは分かっていましたから、準備はいいですかなどと今更聞こうとはしませんでした。既に両者は構えと呼吸を整えながら、ゆっくりと間合いを近付けようとしています。野生の獣の如く、その間合いに入った一瞬が技を放つときであり、無論、相手が気を弛めようものなら本気で一撃を打ち込むつもりでした。実践する型であれば、相手もその心づもりがなければわざわざ見せる意味がないのですから。
双方が威圧感と緊張感を感じている中で、輝充郎は全身の力みを抜いて動きを軽くしています。吹雪の太刀には速さがありますが、リーチに勝る輝充郎は更に太刀を担ぐことで初動の差を補っていましたから、先に飛び込んでくるであろう吹雪の太刀を輝充郎が一刀を下ろして迎え討つことができる筈でした。足捌きが雪上をすべり、間合いに入るより一瞬早く、吹雪の身体が沈みます。
(遠い・・・?いや、来る!)
瞬間、輝充郎の背中を悪寒が走り、届かない筈の距離から吹雪の太刀が飛んで来ます。下がると同時にぎぃんという木刀ではありえない音が響き、輝充郎の手にしていた太刀が一撃で砕け散りました。乾いた音に続いて、折れ飛んだ刀先がくるくると飛んで立ち木に跳ね返ると輝充郎の背後に落ち、雪面に突き立つとあたりには何事も無かったかのように穏やかな静寂が戻ります。驚きを隠すのに苦労しながら、輝充郎は言いました。
「今のは・・・踏み込み、か?」
「流石ですね、一回で見切られるとちとショックですよ」
肩をすくめて傷ついたような顔をしてみせる吹雪ですが、輝充郎の背には寒空にも関わらず流れる汗が止まりませんでした。わざわざ吹雪が分かりやすいように、足捌きの見える雪上で技を使ったのでなければ正直受けきれた自信はありませんし、二の太刀まで続けられていれば尚更だったでしょう。
それは吹雪が本来用いる一の太刀を、わずか一歩深く踏み込んだだけの技でした。同じ呼吸で踏み込みの足を一歩だけ前に踏み出し、その分だけ身体を深く沈める。想像以上の柔軟性と筋力を必要とする一方で、扱うことさえできれば単純に今までよりも遠い間合いから、より鋭く早い技を打ち込むことができるのです。
「これでも鍛えていたつもりですからね。相当身体にも堪えますけど、二回三回なら余裕で打てます。ただ、今までより早く反応しないといけないのは太刀を使う側も一緒なんで、けっこう覚悟がいるんですけどね。似合わない言葉を使うなら勇気がないと打てない、恐れを抱いては使えないというやつです」
「今までより早く反応するか・・・言うだけなら楽だが、やるのは簡単じゃねーな」
素振りであればまだしも、相手のいる戦いであればより深く踏み込む一歩には大きな覚悟が伴います。春菜が吹雪に教えたという技は、鍛錬と精神によってのみ身に付けることの叶う武器でした。
「これも高槻流と呼ぶべきですかね?」
◇
春菜に相談した、という吹雪の言葉は嘘ではありませんでしたがすべてが本当だった訳でもありません。吹雪が春菜に持ちかけていたもう一つの相談、彼なりのプライドというよりも有り体にいえば見栄なり虚栄心なりを乗り越えるための言葉は少なからぬ葛藤を少年に与えた末のものでした。
「高槻、ちょっと相談がある」
結局、親しい間柄の者には最も伝えたくなかった言葉を少年は伝えなければなりませんでした。であればその最初に選んだ相手である春菜が果たして親しい者であったかといえば吹雪にも自信はありません。憎んではいなかろう、背を向けてもいないが常に正面に立ちはだかる彼女に頼ることは何故か少年の小さな罪悪感を刺激してやまず、だからこそむしろ話すのであればいっそ春菜に伝えようと考えでもしたのでしょうか。
あるいは、雲外の鏡を最初に手にしたとき少年の脳裏に浮かんだ姿は彼女であったかもしれません。その時のことを思い返していた吹雪は、自分はそれほど彼女を意識する理由があるだろうかと疑問を抱きました。確かに春菜は吹雪と強く対立し、それ故に常に正面に立つ彼女を意識することがあっても不思議はないでしょう。その思想とその主張を置けば彼女は信頼に値する者であって、吹雪の懸念と葛藤を最も冷徹に受けてくれる者もまた彼女であったでしょうから。
雲外の鏡。手のひらに収まるほどの小さな銅鏡、こんなちっぽけな代物がコノハナの神から与えられた大いなる力でした。本音をいえばもっと別の力にしてもらいたかったとも思いますが、それは愚かな欲望でしかありません。神様というものがどれほどやっかいで、力に相応する代償を求めるものであるかを吹雪は充分に心得ているつもりでした。供物を欲しがるという一点において神も妖魔も変わるところはないだろう、と皮肉に考える少年はあまり敬虔と言えないでしょう。
望むすべての真実を映し出す、それは畏怖すべき偉大な力であると同時に一つの試練をもたらします。己の姿、自らの最も醜き姿をすら鏡は容赦なく露にすると、人はその醜さに耐えることができずに自らを砕いてしまうとさえ言われていました。それが雲外鏡と呼ばれる神器の力です。
それがどれほど危険を伴うとしても、昨今の自分の言動を顧みてみれば例え吹雪が真実の姿とやらに耐えられずに舌を咬み切ったとして、皆は頭痛の種が減ったとして安堵の息をついてくれるかもしれません。形式的に悲しんでくれる者や戦力が減ることを嘆いてくれる者くらいはいるだろう、そう考えたのは吹雪のひがみでしかありませんが、同時に少年が消え去ったとして胸をなで下ろす者がいないと断言することがいったい誰にできるでしょうか。
あるいは、高槻だったら心から哀しんでくれるかもしれない。それも吹雪の単なる思いこみやうぬぼれでしかないかもしれませんが、まだ雲外の鏡を覗いてすらいないというのに少年は心の底から涙を流している少女の姿を見えたように思います。
(ああ、あいつはいい奴だ。ちょっと無理をしているが、本当にいい奴だと思う)
もしもあいつが男だったら、俺たちはいい友人になれたかもしれないと思い、なんて失礼なことを考えるんだろうと吹雪は一人苦笑しました。それこそ本人に知られようものなら、叩き伏せられても文句は言えないところでしょう。
新雪が舞う京都汝鳥の合宿場、広々とした、古風な和式の建物で彼女が一人になるところを探すのは意外に難しく、一通りの調査や鍛錬を終えた春菜を捕まえた頃には日も暮れて月は宵の口を過ぎようとしていました。特に意外そうな様子を見せてもいない、春菜もまた自分を探していたような気がしたのは吹雪の自意識過剰というものでしょうか。人気のない、明かりすら頼りない一室に少女を連れ込むと言いにくいことは早々に伝えてしまおうとばかり、前置きも短く少年は本題を切り出します。
「これから雲外鏡を使う。お前さんに、いや、剣術研の連中にも立ち会ってもらいたい」
吹雪が自らの姿を鏡で見て、なお正気でいられるとは限りません。少年が一人舌を咬み切るだけであればことはそれで終わりますが、まがりなりにも大太刀を持つ剣士である吹雪がいざ壊れたとなればそれを止めることも考えなければならないでしょう。春菜であれば、いざとなれば壊れた吹雪をすらためらわずに斬ってくれる、もちろんそんなことを彼女にさせる訳にはいきませんが、それが自分の頼りないブレーキになってくれるかもしれないと吹雪は思っています。なんて非道で姑息なことを考えるんだろうかと、少年らしい潔癖な心が自嘲しますが一度決めた道であれば引き返す訳にもいきませんでした。
降り積もった雪が凍るときに立てる、固い音すらも耳に届きそうな沈黙。人気のない部屋に深くゆっくりと息が吐き出されると、春菜はわずかに言葉を詰まらせる様子を見せてから答えます。
「分かったわ。でも・・・ずるいとは思わなかった?私には、私たちには考える時間が与えられないのに」
それは嘘でした。吹雪が雲外の鏡を受け取った、そのことを聞いた瞬間から春菜は少年にこの言葉を投げかけられるであろうことを考え続けていたに違いないのですから。雲外鏡に映る自分の姿を見て、吹雪がそれに耐えられるかどうか春菜には自信はないし確信もありません。であれば、いっそ彼女は自分が少年に替わって鏡を見てもいいとすら考えていました。
ですが、それが吹雪に対する侮辱でしかないことを春菜は知っています。だから彼女は自分が吹雪と一緒に鏡を見てもいいよ、と言うつもりでいました。京都汝鳥の地、合宿場で与えられた時間はそれを伝えることのできる良い機会かもしれない。その日の調査や鍛錬を終えて、吹雪を探そうとしていた春菜は広々とした古風な和式の建物を歩き回っているうちに探していた人が自分を呼ぶ声を聞いたのです。これから鏡を使う、だから皆で立ち会ってもらいたいと。
皆で、というのがいかにも少年らしいと春菜は思います。おそらく、吹雪の性格であれば親しい者に最も伝えたくはなかったろう言葉を乗り越えるのに大きな葛藤があったことでしょう。それは見栄や虚栄心、そして臆病の故であると同時に親しい者に自分を斬らせることを少年がためらった末に違いありません。ここまで来て吹雪はなお春菜なり輝充郎なりの手を汚すことをこそ恐れている、そのことに吹雪は気が付いていなくても春菜は知っていました。
(本当に、なんて優しい人なんだろう)
春菜を連れて主だった者たちに声をかけ、そのほとんどから快諾を得たことは吹雪には意外にも残念にも思えました。借り受けた道場の一室に陣取った人々は吹雪を対面に置いて集まり、鏡を前にかしこまった少年は自分で決めたこととはいえここまで大仰にする必要があったろうかと多少、心の中で後悔せざるを得ません。協力し、対立し、時には嫉視する人々を相手に頭を下げることは吹雪にとって並々ならぬ苦労であり、春菜や輝充郎に話したからこそ開き直ることもできたのでしょうがそれを思えば目の前のちっぽけな鏡も莫迦莫迦しいものに思えてきます。こんなものに、恐々としなければならぬ深刻さに。
小さな台に置かれた小さな箱、薄布の包みを開くだけで神器の力とやらを覗き見ることができる。どこか心配そうな春菜の視線を気にしながらも、無理をすることはないといいたげな表情に少年は少しだけ安堵します。とはいえこれだけの同僚や先輩方を集めてやっぱり止めましたとなれば末代までの笑い者になる、そんな俗っぽい羞恥心が吹雪の最後の躊躇いを振り切ると小さな鏡に視線を投じます。ああ、これだけ俗っぽく決意する方が自分らしいかと思いながら。
「では、拝見します」
果たして、傷一つなく磨かれた銅鏡に映し出されているのは何のことはない自分の姿でした。いつも見飽きている自分の顔は彼の自尊心の中でそれなりにハンサムに見えないこともなく、そこには怪物の姿も悪魔の姿もありません。どういうことだろう、と訝る少年はすぐにその理由を見ることになります。鏡に映る吹雪の鏡像がにたりと笑みを浮かべると、吹雪自身の声で語りかけてきました。鏡から像が抜け出し、座していた自分を見下ろすように立ちますが浮かべている嫌味たらしい笑みだけは消えることがありません。
見慣れた自分の姿が自らの真実を伝える、趣味の悪い幻像こそがどうやら雲外の鏡が持つ力のようです。恐怖というよりもむしろ嫌悪感に満ちた目で、他人には見えぬ真実を見上げているらしい吹雪の様子を見て腰を浮かせたのは春菜でした。静かに駆け寄った少女はすばやく少年の肩を掴みますが、呼び掛ける声も届かず、吹雪はあらぬ方向を向いたままで彼だけが見える姿に耳を傾けて何かを呟いているようでした。鏡はそれを覗く者にすべての真実を映し出す、その瞬間、近付いた視界に鏡が入ると春菜の瞳にもまた幻の像が映し出されます。彼女の目の前で、彼女と同じように少年の肩を掴んでいるのは自分と寸分違わぬ春菜自身の姿でした。
「成る程・・・冬真くんも、見ているということね。こんな悪い夢みたいな幻を」
「あら。夢で片付けられれば、余程いいのだけれどね」
自分自身に呼び掛けられる不快さを感じながら、ですが春菜は自分の心などとうに理解しています。吹雪を信じようとする彼女がこの場で動いたことが少年を心から信じてはいないこと。いざとなれば自ら少年を手にかけることも厭わない、冷酷な覚悟を持っていること。ですが春菜は鏡に教えられるまでもなく、異形に指摘されるまでもなく、誰に言われずとも自分の冷酷で醜い姿を理解しています。
確信こそが手に負えないのよね。確かに私は自分の罪を知っている、でもそれが免罪符になるとでも思っているの?そうした言葉が次々と飛び込んで来たとしても、春菜はいっそ堂々と答えることができるでしょう。裁かれるべきならば相応の報いがあるでしょう。だから私はそのときまで、私は私にできることをするだけです。だって、私ならできると皆が信じているんだから。
(そうね、その通りよね。だって、『私』が恐れているのはもっと別のことだものね)
自分自身が告げたその言葉に一瞬、春菜の手が固く強張りますが自らの姿を鏡に見ているであろう、吹雪にそれが伝わらなかったことが少女にとっては救いでした。雲外の鏡が見せる真実の姿、言い訳のできないその正体を彼女は目にしていますがそれは結局は自分自身の真実であり、彼女はそんなものには幾らでも耐えることができるのです。けれど。
吹雪が覗き見ているであろう鏡像、それは紛れもない吹雪自身の心の内にある真実でした。それは冬真吹雪らしく遠慮も容赦もなく吹雪自身を糾弾します。嫉視に満ちて、皮肉な姿で韜晦し、虚栄心に溺れながらも人の救いだけは求めている。自分で自分を醜いと称し、その姿をさらけ出すことも厭わない、力を求めながら人を捨てることは拒む・・・。
「はっきり言ってやろうか?『俺』が本当に欲しいもの、それは哀れみなんだよ」
「黙れ、そんなことは!」
吹雪の叫びは拳に乗って、振り回されると自分の鏡像を打ち据えます。像はかき消えて、残された鏡は少年をあざ笑うように床に転がっていましたが暴れ出すように見えた吹雪がすぐに取り押さえられると春菜もすばやく鏡を拾い、もとの薄布に包んでしまいました。悪趣味な鏡の正体も真実も分かり、いささか強引に現実に引き戻された吹雪は情けない姿で床に押さえ付けられていましたが、辛うじて首を巡らせた先で鏡を手にしている春菜の姿に彼女が自分と同じ像を見たことを理解します。急速に怒りが冷えて、吹雪の視線はしばらく小さな包みを手に収めた少女に向けられていましたがその時には青ざめた顔をした春菜がどこか心あらずという様子に見えた、その理由を知ることはできませんでした。
◇
夜半まで舞っていた雪は止んで周囲は静かな白銀の覆いに包まれており、雪面を踏みしめる足音だけが耳に響いています。照り返される月明かりは世界を白と青に染め上げて、吐く息の白さすらもどこか幻の中にいるような奇妙な感覚を与えました。これが幻というのであれば、つい先刻に見せられた悪趣味な幻よりもよほど綺麗で美しい。それは正直な感想でしたが気取った感想に少年はいささか気恥ずかしさを覚えると誰にも見えず赤面します。吹雪が呼び出された先、庭園の小径を抜けた隅には春菜の姿がありました。
現れた待ち人の姿を認めた少女は月明かりの下で柔らかな笑みを浮かべていましたが、いつもの力強さとはどこか違う、どこか思い詰めたような表情が彼女に似つかわしくないと吹雪は思います。白雪に包まれた木々は芽吹くには未だ遠く、冬空に春が息づく気配はありません。春の名を冠する少女は少年を夜半に呼び出した非礼を型どおりに詫びると、視線をそらすように身体を横に向けて爪先で一度、地面を軽く叩きました。
「鏡が映した姿・・・意外だった?」
「お前さんには申し訳ないことをしたよ。結局、一緒に見ることになっちまった」
少年は意識せず軽く頭をかいて視線を動かします。それは快い体験ではありませんでしたが、少なくとも自分は舌も咬み切らずだれかを手にかけることもしなかった。とはいえ耐えることができた、と本当に言ってよいのか吹雪には未だ自信はありませんでした。それでも春菜に同じ思いをさせてしまったろう申し訳なさと、それを承知で助けに飛び出したのであろう感謝の心に偽りはありません。吹雪の言葉に、春菜は頼りない様子のまま小さく息を吐くと首を振りました。
「冬真くんは本当に優しいよね。菩薩様みたい」
唐突な言葉とその様子を吹雪は不審に思います。これも鏡のせいなのだろうか、明らかに春菜の様子はいつもとは異なっており、常の凛とした強さは影を潜めて弱々しさすら感じさせていました。それは何かに怯えているかのようでもあり、何かに必死に耐えているようでもあり。
しばらく無言の静謐が流れてわずかに漂う風が葉を揺らす音と、落ちた雪が地面を打つ音だけが過ぎていきましたがやがて決然として向き直った春菜が少年をわざわざ人気のない夜半に呼び出した理由を告げました。
「冬真くん。あなたには、私のことを見て欲しい。私の本当の姿を」
「高・・・槻・・・?」
その言葉に一瞬、他愛のない妄想をした吹雪の顔にうっすらと血が上りますが春菜がそんなつもりで話をしていないことは明白でした。その言葉が悩み抜いた末の決断であることは、鏡の力に頼らずとも少年には伝わってきます。どうしてだ、とも、いいのかよ、などと問い返すこともなく無言で頷いた吹雪は少女から返されていた包みを懐から取り出すと、手のひらに静かに乗せました。少女の言葉には追い詰められた覚悟があり、それを拒絶すべきではないことを吹雪は言葉によらず理解しています。周囲に人影はなく開かれた鏡を他の者が覗き見ることもありえず、吹雪は磨かれた鏡を開くと少女の姿を映し出しました。
水面が波打つように、浮かび上がった像は吹雪が想像していた通りの血ぬられた修羅の姿そのものです。異形のものはもちろん、人でさえも討つにためらいがない少女。仏と会えば仏を斬り、鬼と会えば鬼を斬らんとする。全身を血で汚して争いの渦中に立つことのできる少女の姿は、痛ましくもいっそ凛々しいほどの存在でした。
ですが雲外鏡が見せる修羅の像、吹雪はその肩が小さく震えていることに気がつきます。そりゃあ、つらいことだろうと少年は思いましたが、どこか違和感が消えずにいることに疑問を感じてもいました。それは真実を知られることを恐怖する感情であり、なぜそのような思いを春菜が抱いているのか。どういうことかと訝る吹雪は、突然その理由を理解します。雲外鏡を通して映し出される、血まみれの修羅が流している血は春菜自身が流した血の叫びでもあるのです。鏡像は春菜が誰に語ることもできない、彼女の嘆きを容赦なく暴き出していきました。
どれほど醜いことでも、愚かなことでも誰かがやらなければならない。それなら、他の人にさせるくらいなら自分が行う。だって、彼女であればできると皆も信じているのだから。
吹雪が心の底に秘めている菩薩の心を、春菜がどれほど美しく貴重なものだと感じているか。それでも斬らずに済むなら斬るべきではない、であれば斬りたくないものを斬らねばならぬときはどうするというのか。どれほど人に恨まれても、憎まれても、蔑まれても春菜がためらいを見せることはありません。だからといって、それで彼女が傷ついていなかったとでもいうのか。強い彼女は、涙で心を濡らしていなかったとでもいうのでしょうか。吹雪は自分が蠍の火にはなれないと思っていましたが、その蠍は井戸に落ちて命を失うときにこう言っていたのです。
(どうか神様、私の心をご覧下さい。こんなにむなしく命を捨てず、どうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい・・・)
赤く燃え続けて夜を照らしている蠍の火。修羅になることを承知の上で、自らを焼く少女に吹雪は今では謝意と慈しみを込めた視線を向けています。あるいはそれは彼女を侮辱することになるのかもしれませんが、それでも少年はその思いを捨てることができませんでした。
少女が何も言わずとも、その姿を忌々しい鏡はすべてさらけ出すことができます。力のある妖、あるいはごく無力な妖でさえもそれを手にかけるとき、迷いもためらいもない春菜の錫杖が異形の姿を貫くときその叫びは少女の耳にこびりついて離れません。ですがそれが正しく自然なことだと知っていても、春菜の心はそのすべてを捉えてなお自らを血で汚す業を受け入れなければなりませんでした。そして、その姿をこんな卑怯な方法でしか少年に伝えることができない、その嫌悪感を。
自分が醜く愚かしい修羅の道を歩んでいることなど、春菜は人に言われずとも鏡に示されずとも充分に知っています。だからこそ、雲外鏡がどのような姿を映そうとも彼女は自分の姿に感慨を覚えることすらありませんでした。春菜は自分の愚かさにも醜さにも耐えることができますが、彼女が耐えられないのはもっと別のことでした。耐えられないのは、そんな自分の姿を誰かに知られること。いや、冬真吹雪という、彼女の正面に立ち続けてくれた菩薩のように優しい少年に知られること。春菜は自分が抱くことを許されなかった優しさに、決して手が届かぬよだかの星に憧れの思いを抱きます。
「冬真くん、あなたは自分が人から哀れみを欲しがっているのだと思っているでしょう?そうではないのよ。あなたは最後まで、何があろうとも人は哀れみを心に抱いていて欲しいと願っているだけ。優しいよ、優しすぎるよ。だって私はそんなじゃないのに」
あの春菜が、吹雪の目には誰よりも頼りない少女の姿に見えています。か弱く、はかない、今にも折れてしまいそうなほどに。
「私は自分の醜さも悪業も知っているつもり。だけど私の本当の姿をあなたに知られるなんて耐えられない。いえ、鏡を見たあなたが、いつか私の本当の姿を知ってしまうと思い続けることに耐えられない・・・だから、ね。見て欲しかったのよ」
いつの間にか、止まらない涙を流している春菜が顔だけは笑っている、それを見て吹雪はすべてを理解しました。そうだ、こいつは今まで誰かの前で泣くことすら許されてはいなかったんだ、と。自分が春菜の強さに敬服しているのと似たように、彼女もまた吹雪の心に羨望の思いを抱いている。こいつだって自分と同じ、抗いながら弱い翼で羽ばたき続けるちっぽけな人間でしかない筈なのに。
「でも駄目、やっぱり耐えられそうにない・・・ごめんね」
その言葉が終わる前に、少年の腕が伸びて細い身体を強く引き寄せると力の限り抱き締めていました。妬んでいても、羨んでいても、卑小な力しか持っていなかろうとそんなことは関係ありません。少年には今、できることがあってそれはこの腕を離さない、ただそれだけのことです。
「いいんだよ、無理してんじゃねーよ!泣きたいなら泣けばいいじゃないか。だって、お前それでも女の子じゃないか」
誰かに無理をするなと言って欲しかった、その言葉を春菜はどれほど待っていたのでしょうか。吹雪の胸に顔を埋めて、あの高槻が子供のように泣きじゃくっている。少年は自分の腕が大太刀を振るう意外に本当に価値があることをそのとき初めて知ることができました。
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