非常扉を開けるたびに.十一
時は遡ります。
高槻春菜や学園の一行が京都を訪れていた理由は他でもなく、京汝鳥の招待を受けてその地で修練を積むためでした。古い大厄が封じられたという東汝鳥の地、唐突に異形、妖、変化の類が姿を消したことは妖怪バスターやその予備軍への風当たりを強くする現状を生んでいます。恐らくはそれを望む者に煽られた結果であろうとも、手足に枷をかけられた身には京都からの誘いは渡りに船だったでしょう。大厄の封印は西にも存在する、その言葉を聞けば騒動がなくとも京都を訪れる必要があるという事情も彼らにはありました。
皆を出迎えた娘は烏丸香奈と名乗り、彼女が案内する烏丸神社とそれに併設する広大な敷地が学生たちの修練の場となります。剣技、格闘、術法。学び直すことは幾らでもありましたし調べるべき事柄も少なくありません。大厄の封印に関して京都に残されている資料もはなはだ少ないものではありましたが、それでも幾つかの貴重な事実に春菜たちはたどり着くことができました。
「葦矢萬斎・・・さん、ですか?」
「ええ、ご存知ありませんか?」
陰陽師、葦矢萬斎。穏やかな顔で香奈が曰く、京汝鳥で多くの門下を抱える有力者であり自身も有数の術士として知られるという人物です。供馬尊と呼ばれる大厄の正体、古い神はかつて二つに分かたれると東と西の両汝鳥に封印されたと言われていますがその儀式を為した者が葦矢の家系であり、萬斎はその当主であるということでした。幾つかの書籍を記し、テレビ番組にも呼ばれる程度に高名な人物でもあるらしく、春菜がまるで知らなかった様子に香奈は残念そうな顔を見せています。
「ごめんなさい、家ではあまりテレビって見ないから」
「すみません。私も良くは知りませんが鴉取の家ではお名前を窺ったことはありますね」
春菜がやや苦笑気味に、傍らの鴉取真琴に助けを求めると真琴も頼りなげな記憶を辿ります。多少、社交辞令気味な会話が続くと葦矢萬斎の人物と彼の家系について教わることができた中で、春菜はふと心の隅にかかる小さな棘に気が付きました。大厄が封印された時代は決して古いものではない。それにも関わらず記録や伝承があまりに少ないことは以前からの彼らの疑問となっており、春菜だけではなく同様に考える者は幾人もいましたがその大厄を封じたというその家系は今も健在で、当主は書籍までものする高名な人であるといいます。ならばその人もまた大厄の記録を残し、伝承を語ることをしていないというのは如何なる理由によるのでしょうか。
それは不安というには漠然とした小さな棘に過ぎませんが、いずれにせよ彼らにはそれが育つ時間は与えられませんでした。そのうちに話を聞く機会を作ることができれば良いが、忙しい方なので難しいかもしれないという香奈の言葉もごく当然のことでしょう。ただ、大厄に関する東汝鳥の現状は京都でも強く問題視されており、まずは西の封印を強めてこれを万全にしようという試みが葦矢から出されているということでした。丁度、その儀式が予定されているので彼らも警護を手伝ってはどうか、運が良ければそこで葦矢萬斎に会えるかもしれない。
冬真吹雪が雲外鏡を見る、その立ち会いを相談されていなければ春菜はその儀式の警護に向かっていたことでしょう。封印の場所は周囲を公園に囲われた社にあるということで、京都では大厄を前により組織的な守りが用意されているとのことでした。せっかくの機会に申し訳ないと言う、春菜や他の幾人かにとって少なくとも吹雪の切実な頼みは大厄に勝るものに思えます。無論、学生たちの幾人かは分かれて大厄の封印に赴き、それぞれの事情を後で交わすことにしていましたが、少しは大厄にまつわる噂でも手がかりでも見つかればいい、その時は誰も深く考えていなかったことも事実でした。
◇
雲外鏡に映る像は吹雪も春菜をも壊すことはありませんでした。自らの醜さを露にする、真実の鏡を共に覗き見た春菜には別の恐怖がありましたが、それを人に知られる前に鏡は覆われて唐突に襲いかかった騒動がすべてを混迷に落とし込んでしまいます。飛び込んで来た黒覆面の集団を率いる、中央にいる壮年の人物こそ当の葦矢萬斎その人でした。驚く一行の様子を気にする風もない葦矢の傍らには、車椅子に座る人形のような婦人が一人。
「やれやれ、大厄の封印にお越し頂けると思っていたのですが仕方ありません。鴉取のご兄妹には私どもとご一緒に来て頂ければ、お友達の身の安全は保証いたしましょう」
封印の鍵と錠前である二人、と称する彼らの強奪を堂々と宣言する葦矢に当然の如く、真琴らは決然と拒否しますがすべての黒幕は意に介した様子もありません。供馬尊は西に半身が、東に半身が封じられておりそれを解き放つは彼の悲願、京汝鳥は掌中にあって東では市井の妖怪バスターもその予備軍たちも既に遠ざけられていました。後はすべてのパーツを揃えることさえできれば、ほんのわずかの間に葦矢萬斎の目的は叶うことでしょう。口調だけは丁寧なまま、葦矢が傍らの婦人に声をかけると車椅子の彼女は両の手を組み合わせて九字と呼ばれる文言を唱え始めます。目も耳も塞がれた、それは単に彼を守るための「道具」でした。
「やべえ!デカいのが来るぞ!」
一瞬早く、危機を悟ると誰よりも先に動いた龍波輝充郎が鬼の力を解放し、皆の前に身を呈して立ちますがそれすらも間に合いません。葦矢が手懐けた道具の呪詛が解き放たれると轟音を伴う巨大な閃光が烏丸神社の敷地にとどろき、一撃で周囲に立つ者たちを壁に打ち伏せ地にたたきつけました。場所が境内に隣する道場であり、香奈の連れた警護の者たちが駆け付けていなければおそらく彼らは目的を達していたことでしょう。それでも鍵と称する一方、真琴の兄である鷲塚智巳が連れ行かれると後には備前長船の霊刀と傷ついた者たちだけが残されていました。
ほぼ同じ時刻、封印されていた西の大厄も葦矢の手の者によって破られると解放された供馬尊、古い神の半身もその姿をいずこかへと消し去ったといいます。彼らがそれを知ったのは痛む身を香奈たちに助けられてから後ですが、より深刻なのは大厄と鍵の一方が失われたという事情などではありません。封印の警護に赴いていた学生の一人、トウカ・E・ラインバーグが依り代となって大厄の半身は彼女に憑いたまま姿を消しているということでした。大厄の復活でもなくそれを望む黒幕の存在でもなく、友人が二人、奪われたことは重い敗北感となって彼らの上にのしかかっています。
◇ ◇ ◇
先程まで吹雪が雲外の鏡を覗き見るために借りていた部屋が派手に倒壊したこともあって、ようやくといった風情で彼らが集まったのは烏丸神社の敷地にある道場の別棟、座敷のある一角でした。降りしきっていた雪はすでに止んでおり、世界を冷酷に覆う白色が事態の深刻さに意気阻喪する者をあざ笑うような月明かりを返しています。冷え切った空気に包囲される中で非力な抵抗を試みる如く、座敷の中央に据えられている旧式のストーブには火が灯されて傷ついた者たちを暖めようとしていました。柚木塔子は打ち身のできた肩を暖気に向けつつわずかに気にするように軽く押さえていましたが、皆が一通り集まったのを確認すると背を伸ばして小さく頷き、いつもの平静とした様子で口を開きます。
「遅れをとった、残念だがそれは事実だ。よもや黒幕が身内にいようとは思わなかったが今更言っても仕方なかろう」
「それより、先輩の具合はどうですかね?」
珍しく不安げな声を挙げているのは冬真吹雪です。敬愛する龍波輝充郎が、葦矢の襲撃に際して皆を守るべく盾となり最も深い傷を受けていたことはもちろん、それが自分が皆を招いた場所で起きた事件であったことに忸怩たる思いがないと言えば嘘になるでしょう。名前以上に冷めている吹雪は自分に何ら責がないことも理解してはいましたが、荒れ狂う氷雪が止んだ惨状を見れば今の空が穏やかであろうと気分が晴れよう筈もありません。例え結果が同じであったとしても、襲撃を前にして彼らが戦力を分散したことも備えを怠っていたことも事実です。大厄の半分は解き放たれて貴重なトウカは奪われ、吹雪にとってはさして貴重でないトモミをも連れ去られている、してやられたという無念が少年の誇りを蝕んでいました。
一同を見渡せば大なり小なりの無念は同様であるらしく、その表情には吹雪と似たような感情を見出すことができましたがあるいはそれは少年が覗き見た雲外鏡の力が人の心の表層を映し出している結果でもあるのでしょうか。吹雪と共に鏡を覗き見た、高槻春菜はといえば事態の深刻さ以上にどこか、自ら思い詰めるような表情を浮かべていましたがその時は吹雪にはまだ彼女の真意を知ることはできませんでした。後に春菜の修羅を吹雪が知ることになる、その時まで。
「あまり良くはないな。だが命に別状はないそうだ」
「まあ、死人が出なかったのが幸いと言っときましょうか」
塔子の言葉に吹雪は太い眉をわずかに動かすと、いつもの皮肉な調子で肩をすくめます。吹雪が言う通り全身に鎧をまとう皇牙、半人半鬼の輝充郎の決断がなければあの時、幾人かは間違いなく死んでいたことでしょう。それだけに呪詛を一身に受けた輝充郎の傷も浅かろう筈がなく、たとえ命が助かったとはいえこの危急の折りに動けないとあればそれは戦力としては死んだも同然でした。間を置かず訪れるであろう戦いを前にして、彼らを守ってくれた強き鎧が失われたとあればことは深刻であり、何よりも輝充郎は鬼の力よりも危地に折れぬ勇者の心こそが彼の背を見る者たちに彼と同じ決意を与えることができる、そのことを吹雪も他の者たちも知っています。鬼の力と人の強さを持つ皇牙、今は人ならぬ身であればこそ人ならぬ復活に期待するしかない、だがそれに頼る思いがすでに事態が人の手に余り出していることを額縁付きの事実として彼らに突きつけています。
「黒幕の動機は不明だが目的ははっきりしている。戻れる者は東に戻ろう、だが急ぐことはない」
「どういうことですか?」
二本しばった黒髪を傾けて、今度は春菜が声を挙げます。先程まで見せていた不安げな表情はいつの間にか消えているように見えましたが、一瞬、吹雪に視線を向けると何かを訴えるような素振りが浮かび、それすらもすぐに消えてしまいました。春菜が吹雪に自らを打ち明けたのはこれから間もなくのことですが、今は考えるべきことを前に繋ぎ止めた理性を置き去りにする訳にはいきません。彼女も吹雪も無論、襲撃に不覚を受けた一人でしたが鏡を見るために部屋の最も奧にいたこともあって、輝充郎の背で倒れながらも目立つ傷も痛みも残されてはいないようでした。
春菜の問いにひとつ頷くと、塔子は彼女だけではなく皆に向かい視線をゆっくりと巡らせてから今の状況を整理してみせるかのように話します。二段構えで考える、先行して東汝鳥に戻る者はすぐにでも出立し、蠢動して封印の解放を試みるだろう者たちの目論見を少しでも阻害するために動く。後発する者はむしろすべてが手遅れになった事態を想定して、必要と思われる手管を揃えてそれに対処し乗り越えるために動くというのが彼女の考えでした。手遅れとは絶望に値する状況ではなく、単に先んじられただけの現実であり諦めぬ限り可能性が失われることはありません。必要なことは、盲目に八甲田の踏破を目指すことではなく不快な現実に目を向けて最善の方策を見出そうとすることでした。
「つまり大厄である供馬尊への対処に注力するということだ。事態の黒幕がいる、あるいは蠢動する勢力が幾つか存在するとしても彼らのすべては供馬尊、大厄の力と存在を前提として動いているのだからそれを押さえることは状況を支配することに繋がるだろう。封印の解放を阻害する方法、解放された大厄が集うことを遮る方法、大厄の力を削ぎ再び封印を試みる方法、そして、解放された力そのものがそれを欲する者たちに与えられぬ方法。取ることのできる方策はいくらでもある」
負けを認めないかぎり決して敗北には至らない、その野蛮な論理は塔子に限らず人に許された権利であり平静な知性が事態の本質を掴むことができれば危難を避けること、危難を無力にすることだけではなく危難を無害なものに変える方法すら探すことができるかもしれません。先発組は東の状況だけを確認したら急ぎ列車の手配をすることと、後発組は残されたわずかな時間に京都でできることをすべて片付けること。一人一人に細かな指示を伝えると塔子はつとめて自信ありげな笑みを浮かべてみせました。
「相手はしょせん神様だ。人が封じることのできぬ相手ではないのだから」
◇
皆が去った後で、ようやく息をついたように見える塔子と共に火の周りに残っていたのは香奈と彼女が連れている京汝鳥の幾人かだけでした。先程まで平謝りに頭を下げていた、少女の謝罪は身内から騒動の原因が生み出されたことを思えば当然ではあるでしょうがそれを気にしても誰も何も益するところはありません。一通りは礼儀の範疇ですが塔子が皆に言ったように今更言っても仕方のないことだったでしょう。深々と下げていた頭を今はもう戻している、彼らが考えることも動くことも多々残されていて香奈がこの場所にいるのは京汝鳥の者としてできる限りの手を尽くすためでしたが、そのための話の中で先の塔子の態度を思い返していた少女はどこか感銘した調子で東汝鳥の指揮官に目を向けています。
「それにしても、この状況で動じていらっしゃらなかったのは流石ですね。柚木様が皆へ伝えていた言葉、私も肝に銘じたいと思います」
「本当は、自分でも心からそう思えていればいいのですが」
礼儀正しい口調を受けて、わずかな本心を塔子は漏らしますがあの状況で彼女はああ言うしかなかったでしょうし、その言葉も嘘を伝えた訳ではありません。大厄の正体、供馬尊と呼ばれる古い神がかつて封印された存在であるのならばもう一度封印することも可能な筈であり、あるいは人と神が共に生きた時代も古くには存在していました。この期に及んでもまだ状況を覆す可能性が残されていない訳ではない、それは塔子の妄言ではなくたどり着くことができる筈の真実です。
彼女が言及しなかったのは残された道、選ぶことができる道に犠牲と生け贄が必要とされるか否かであり、人が神を鎮めるために人の身を捧げることになるか、彼らの未来に避けられぬ犠牲が存在するか否かをあえて語らなかったことだけです。自らを危難に晒すことを厭わぬのではなく、自らを捧げることのみを目的としてしまう。安易な道に開く無意味な穴を知らぬ、幾人かの顔が塔子の脳裏をよぎりました。
「覚悟は必要だがそれは犠牲の心ではない。私はそんなものを認めたくはない・・・知っていますか?」
「え?」
唐突な質問に小さく首を傾げる香奈に向かって、塔子は微笑に届かない笑みを浮かべます。
「生け贄というのは人に選ばれるだけではなく、自ら望んで生け贄になろうとする人が存在するからこそ生まれる風習でもあります。誰かが犠牲になって救われる世界があるという思想、その安易な決断を許す芽は喜んで犠牲になろうとするその人の内にもあるのですから」
神望む者が自らを斬る、捧げられた血はさぞ残酷な存在に好まれることでしょう。流れる血はそれを呑み太るものを満足させて、そこには善も悪もなければ意味も価値も存在していません。神も魔も人の決断には無頓着であり現象は結果でしかなく、残された人だけがそれを解釈する権利を得ることができます。真実はなく、ただ人と同じ数の事実が存在するだけでした。
全身に傷を受けて倒れた輝充郎が伏せっていることは吹雪だけではなく、塔子の心にも濡れた重さを感じさせています。最悪でも自分が鎧となり盾となれると思ったのであろう、仲間を守るために多くの傷をその一身に受けることを承知でその最悪を極められた輝充郎の決断は、頑強な半人半鬼の彼にとって当然だったでしょうしそれを非難するつもりもありません。彼の覚悟がなければ疑いなく確実な犠牲が出た、皇牙は倒れてもなお生きて輝充郎の決断が最善であったことは示されている。それでも、だからこそなおのことそれを容認することは彼女にはできませんでした。守るべき仲間の存在が貴重であるならば、塔子にとっては輝充郎も失うべからざる貴重な存在であるのですから。
指揮官として冷徹に皆を危難に晒す覚悟、そして仲間として彼らを失う訳にはいかないと信じる思い。塔子の細い身体はこの二つに引き裂かれることも押し潰されることも決して許すことはありません。そして信じるという思いであれば、盾となった輝充郎自身もまた塔子と同じ思いでいるだろうことを彼女は信じています。今は伏せていても彼ならば必ずや怪我を押してでも立ち上がり、敵に胸を晒し仲間に背を向けて戦おうとするでしょう。それは自らを犠牲にする心ではなく自分ならばできるという自らへの誇りと勇気であり、そして皇牙の力を信じる決意でもありました。
「新・オーガとでも言って新しいポーズを決めてくれるのではないかな。彼はそういう奴だ」
独り言が常の口調に戻っていたことに、香奈は気が付きましたがあえて何も言おうとはしませんでした。悲観して、あるいは達観して諦めるでもなく彼らは辟易する状況から目を背けず針鼠の安逸に耽ることもありません。未熟な東汝鳥の学生たちが、だからこそ誰よりも強くなれるかもしれない。犠牲ではない、覚悟を知る者の姿がそこにはありました。
◇
京都が混乱の渦中にある中で、東汝鳥の情勢がそれ以上に混迷したものとなっていることを伝えてくれたのも香奈や彼女を手伝う人々の助けによるものです。その報告に続くように、送られてきた報道番組の映像は皆を呆然とさせるに充分なもので彼らが暮らす東京都汝鳥市の中心、まさしく大厄の半身が封じられたその場所に天を貫く巨大な桜の木がそびえている様はいかにも間の抜けた、現実味のない現実の存在を彼らの目に映していました。
これもまた黒幕とそれに協力する者たちの差し金であろうことは無論ですが、蠢動する者の手によって起こされた騒動は妖ではなく煽られた市民に及ぶと人々は手に手に得物を取り汝鳥を病的に徘徊して市内を占拠してしまいます。報道では暴徒たちと呼ばれている、彼らは町の中央に向かう様子を見せながらその流れが一様になる様子もなければ誰かに導かれている素振りもなく、取り締まるにも対処療法的に行う以上のことができません。警察や機動隊が出動して汝鳥とその周辺まで封鎖されると幾人かが検挙されますが、彼らは異常なほどに抵抗をしたと思えば突然正気に返り何も覚えていない者もいるという有り様で、何らかの伝染病の恐れもあるとして人々には既に避難命令が出されています。
その汝鳥の中央に忽然と現れたという、巨大な桜の木と異常の関連性についても取り沙汰されてはいますがどれも根拠のあるものではなく、操られた暴徒から大厄の封印を守るべく桜の神、コノハナノサクヤヒメノミコトが化身した姿であることなどたとえ知れたところで報道できるものではありませんでした。力を用いようとする神が依り代に選んだ枝木が高槻春菜という少女の錫杖であることも無論、ほとんどの人の知るところではありません。
「仕方がありませんね。私も私の子らのために時間を稼ぎましょう」
サクヤヒメはそう言うと無造作に、彼女の巫女に借りた神木の枝を突き立てました。桜は本来、力あるものを封じ込める霊木であると言われています。桜の木はその根の下に死体を押さえ付ける力を持つという、伝承の残るこの国では古来より桜の神、コノハナノサクヤヒメノミコトの社が祀られ崇められていました。神を祀る娘やその友人たちが東汝鳥に戻ってくるまで、彼らへの祝福を望む神にも些かの守りと御利益をもたらす程度のことはできるでしょう。大厄の封印を足下に置いて桜の巨木が姿を現すと周囲には地を強く掴む根が広がって頑強な幹は黒々とした樹皮に覆われ、枝は高く広く伸びて汝鳥の空を遮ります。現実離れをしたサクヤヒメの姿は、現実離れをした東汝鳥の騒動の中で人々の耳目を集めていますが暴れ回る人々でもなく、そびえたつ巨木でもなくその根元にある封印こそすべての中心であることを知る者は多くありません。あとは、彼らが来ることを桜の神はただ待つだけです。
◇
蓮葉朱陽がふたふりの刀が収められている包みを手に、一足早い東への列車へと向かいます。少女らしからぬ軽装の荷物よりもはるかに大切そうに抱えているそれは白河の技法で鍛えられた太刀と脇差しの逸品であり、木刀とは思えぬ業物は人の技が生み出した力それ自体が尊さを秘めて、ずしりとした感触を彼女の手に感じさせています。冷たい空気が吹きつける中、東の騒乱が京都に伝えられたと同じ頃に、その東汝鳥からようやく送られてきたという業刀・播磨は持ち主の手に渡ると京都を折り返して東へ帰る旅を続けることになります。割れず、折れず、砕けずという三不の技で鍛え上げた白塗りの刀身は鍛鉄と紛う固さと重さを備えていました。
「そっちは明日だよね。後発とはいえたった一日で何かできるのかい?」
「任せて、とは言えないけど宿題を片付ける時間は必要よ」
朱陽が視線を向ける先で穏やかな様子を見せているのは同級の友人、八神麗であり巫女の衣装を着た傍らには春菜が控えるように立っています。境内の一角には小さな神棚が組まれていてそれを祀る縄で囲われており、白雪に覆われた低い木立に緋色の袴が如何にも目に映えていました。麗がサクヤヒメを祀る巫女であり、春菜が彼女に習っているのも今更のことでしたが、桜の神木がそびえる東の情勢を聞いて京を発つ前に祭祀を執り行っておこうというのでしょう。あるいは、それがなくとも彼女らは自分たちが祀る神への礼参を疎かにするつもりはなかったかもしれません。この国では各地で桜の木とサクヤヒメが祀られており、京汝鳥の地もその例外ではなく祭祀を行うに不都合はありませんでした。
塔子が主張していた通り、先発と後発に分かれて東に帰ることになった彼らの砂時計には明確な期限こそ決められていないとはいえ砂粒が無限に残されている訳でもなく、限られた時間の中で麗や春菜ができることは決して多くはありません。その彼女らが今、祭祀を行うのであればそれには充分な理由があるのでしょう。人の信仰が神仏の力となるのであれば、封印を守るサクヤヒメを助ける力は必要なものでした。その後で、残された時間を彼女たちであれば可能な限り有効に使うことができるでしょう。
大厄である古い神、供馬尊はその一部が解き放たれて残る封印を解くために皆が東へ向かう情勢。東も西も含めて汝鳥に残されていた大厄の資料や伝承があまりに少なかった理由が、かつて供馬尊を封じたという一族の恣意によるものであったことは明白でありその理由も目的も推察できなくはありません。自らは封じることができる強い力、それを他者に渡したくないと思う欲望は力弱き人にとって決して珍しいものではないのです。それを阻むのであれば意図的に消された痕跡を探すために大厄の記録、葦矢自身の周辺や著作であれ調べる価値はありましたし麗や春菜はそうした地道な調査にも慣れていました。朱陽はといえば、そうした調査よりも業物を手に危地に赴いているほうがはるかに彼女の性に合っていると自認しています。
「まあ期待させてもらうよ。それより八神、あんた確か二刀流を使ってたよね」
彼女のために削り出された神木の業刀・播磨が太刀と脇差の二刀あることを知らされたとき、朱陽が一瞬途方に暮れたことは事実です。鍛えられた業物が二本あることは一本よりも有り難いのかもしれませんが、これまで普通に一刀を扱ってきた彼女としては慣れぬ二刀を手にさてどうしたら良いものかと、些か思案に余らなくもありません。であれば二刀を扱う友人に尋ねるのが早かろうと考えたことが、朱陽が出立前に麗を探していた理由でもありました。神楽の巫女や神卸しの術士としての印象が強い麗ですが、決して剣の技を知らぬ者という訳ではありません。
事情を伝えて二刀を使いこなすヒントだけでも得られないものかと考えていた朱陽ですが、良い考えだと思って麗に聞いた言葉は必ずしも彼女の意に沿ったものではありませんでした。麗に限らず二刀流とはもともと相手を斬るよりも受けて弾く、防御に主眼を置いた型であり熟達すれば多数を相手取り身を守る動きを可能とするでしょう。ですが隙をついて狙わざるを得なくなる、二刀流の一撃の弱さは致命的なほどでそれを補うには余程の膂力か、あるいは余程の鋭さが必要になってきます。麗であれば術法を操る彼女にとって守りが堅固であればそれを強さとすることができますが、朱陽が付け焼き刃の二刀流を真似たところでそれまで以上の技が使えるかといえば甚だ怪しいものでしょう。連撃に慣れぬ相手に息つく暇を与えず攻めるには使えるかもしれぬ、などと思いながらいまひとつ納得できずにいる様子で、春菜に話を投げたのは半ばは冗談のつもりでした。
「どうだい、高槻にはいい考えがあるかい?」
「そうですね・・・二刀流ではなく刀が二本ある、と考えてもいいんじゃないでしょうか」
腕を軽く組んで、指先を顎に当てるような仕草で真面目に考え込んでいた春菜の受け答えに朱陽と麗は瞬きを繰り返します。奇妙な沈黙が過ぎて、自分の言葉が足りなかったことに気付くと少女は言い直すように説明を続けました。太刀と脇差、二本ある刀は元来合戦で用いるに際して長い太刀が相手を打ち据えて倒すための武器であり、鋭い脇差は倒れた鎧の間から突き刺して相手をしとめるために使うものとされています。ですが如何な業物とはいえ木刀でできた脇差が相手を突き刺すに向いた武器とはとても思えず、だからこそ朱陽もまず二刀流を考えましたが春菜にすれば二本ある刀を二本とも活かすことは当然としても、それは必ずしも二本の刀を使わなければならぬ理由にはなりません。
「私なら、仮に普段は二刀を構えてもいざという時は一本を捨ててしまうと思います。そうすれば長い間合いと短い間合い、二つの技を選ぶことができますから」
同じ構えから踏み込んでくる斬撃が長短どちらの間合いで繰り出されるか分からないとなれば、それがどれほど受けるに難いかは朱陽にも分かります。二本の刀ではなく相手を襲うもう一本の腕を持つことができる、成る程そういう考え方もあるかと感心する朱陽はふと心づくと人の悪い微笑を浮かべました。
「ありがとうよ。それにしてもあんた、入学した当初はお嬢様で売っていたんだろうに」
「先輩。今でも充分にお嬢様のつもりなんですよ」
からかう言葉に不服そうな様子で唇をとがらせている後輩の姿を見て、朱陽の顔に今度は邪気のない笑みが浮かびます。お嬢様然として自ら武器も拳も振るう、春菜は技だけではなく強固な思想と意志だけでもなく、その知識と興味においても些かお嬢様の型を外れているようでした。だからこそ自分に限らず彼女を頼ろうとする者がいるのでしょうが、朱陽に託されている白河の太刀も元は汝鳥神社の神木が春菜に預けた枝であったことを彼女は思い出しています。その春菜こそ、彼女の錫杖が東汝鳥でサクヤヒメの依り代として使われているというのに失われた武器を惜しむ素振りすら見せていません。代わりにこの太刀を使うかい、などと問いかけても意味がなく春菜が受ける筈もないことを朱陽は承知していました。
生まれつき授けられた力を嘆く者がいる、受け継がれた血に悩む者がいる、失われた未来を諦観する者がいて、それらを与えられぬ身で人を妬む者やすべてを顧みずに力だけを望む者がいる。そうした者たちの中でこの娘はただ自分の力と人の力を信じて揺らぐことがありません。白河の太刀を朱陽が握るべきと信じればそれを当然と受け入れて、いざとなれば己は神様の武器も人の業も関係なく素身で皆の前に立つことすらできるでしょう。そうなる前に、自分たちが片を付けるのが良いと朱陽は思います。春菜のような娘を危地に立たせるべきではない、そのために人は太刀握り戦うのだと思うからこそ。
何とはなく、朱陽は右手を伸ばすと掌を後輩の頭に乗せました。彼女が先んじて危地に発つ、その覚悟は既にできています。
◇
春菜を頼ろうとしている者は朱陽以外にもいましたが、春菜が頼りにしている筈の少年もまた彼女を探していたらしく、春遠い雪の境内で入れ替わるように姿を現しますがなぜか不自然に足を止めると奇妙な表情を見せていました。冬真吹雪の目の前にいる、麗や春菜がサクヤヒメの礼参を執り行おうとしていることはすぐに理解できましたし、雪景色に緋色の袴姿をしている麗の姿は東汝鳥でも珍しいものではなく、吹雪自身これまで幾度も見た覚えがあって何の違和感もありません。
ですが麗の傍らにいる春菜もまた同じ巫女の衣装を着ていたことは、場所を考えても経緯を考えても何ら不思議はありませんが、常の学生服や私服しか記憶になかった吹雪の目には奇妙に新鮮な姿に映っていました。昨夜、忌々しい雲外の鏡がきっかけとはいえ業深い少女が止まらぬ血を流し続けている姿を知ることになった少年には、春菜の巫女装束がいっそ彼女の功徳を現す姿であれば良いとも思えます。神様にではなく、神様を崇める巫女に対して信仰心を抱く自分はやはり不信心者だろうかと思いながらも、その滑稽さを笑う気分にはなれません。黒髪を二本ではなく、後ろに一本縛っている姿も常の凛とした強さよりも、楚々とした穏やかさを感じさせて少年の頬をかすかに上気させていました。少年の奇妙な様子に春菜はむしろ、昨夜のことを思い返していたのかやや戸惑いがちな声を上げます。
「吹雪くん?」
「ああ。いや、ちょっと、春菜に頼みたいことがあったんだ。出発には間に合わせたいから、礼参が終わったら声かけてくれないか。俺、その辺にいるからよ」
どこか心ここにあらずといった、たどたどしい吹雪の口調には春菜もすぐに気が付きました。少年が自分の衣装姿を初めて見たことにも少女は無論、気が付いていましたが祈りはどこからでも届くし礼参を欠かす理由はなく、コノハナノサクヤヒメノミコトは日本中の社で祀られています。彼女たちが東京に戻る前に祭祀をしておこうという理由は充分にありましたが、春菜もまたすべてを承知した上で、彼女たちの年頃にふさわしい話題に至ることを無意識に避けようとしていたのかもしれません。
「・・・変、かしらね?」
少しだけ、春菜が声を落とした理由を吹雪が気が付くことはなかったでしょう。礼儀正しい旧家の少女が人と会話をする折りに視線をわずかに逸らす、その仕草が稀有なものであることにも少年は思い至りません。たとえ雲外の鏡を覗き見たとしても、神器などには思いもつかぬ真実というものは幾らでもどこにでも転がっているものなのです。春菜の言葉に、いや、そんなことはないと曖昧すぎる返事をすると無理矢理表情を隠すようにして早々に姿を消してしまった少年の様子に、笑いを堪えるような素振りをしているのは二人の後ろで事の始終を眺めている麗だけでした。流石に吹雪は気が付かずとも、春菜が見とがめたのは彼女が女性だからこそだったでしょうか。ためらいがちに視線を向けると少女は口を開きます。
「先輩、どうかしましたか」
「いえね、いつの間に名前で呼び合う仲になったんだろうと思ってね」
当人も気が付いてはいなかったのでしょう。春菜の顔が傍目に分かるほどに紅潮しますが、すぐにおさまると何故か沈み込むような様子を見せていることに麗は意外な顔をします。隠すでもなくはしゃぐでもなく、深刻な不安と葛藤が拭えずにいるような春菜の態度に麗は姿勢を正すと表情を改めました。後輩をからかって良いときと悪いときがある、その程度のことは彼女も弁えているつもりです。春菜と吹雪が激しく対立を続けていたことは麗だけではなく多くの者たちが知っていることですが、その彼らが互いを理解したというならめでたいことではないか、無責任にそう言ってのける者もいるでしょうが人の心の機微はそう単純に定義できるものではありません。男と女が懇意ならばそれですべて由とするのであれば、花粉舞う季節に花蜂がいればすべてこと足りるでしょう。
「どうしたの?話づらかったら無理には聞かないけど」
「先輩・・・先輩」
少女には珍しくためらう様子を見せながら、春菜は言葉を選ぶようにひとつずつ彼女の扉を開きます。すべてを話す訳にはいかずとも、昨夜吹雪が手を伸ばして無理をするなと言ってくれたこと、その程度を伝えることは春菜にもできました。妖も魔も、必要とあらば人であろうとも斬るにためらわぬ、春菜は自分がこれまで行ってきた振る舞いもこれから行うであろう所業もそれが罪であることを承知した上で容赦のない技を振るいます。自らの罪がそれでもやむを得ぬ所業であるのか、あるいはただ間違っているかを決めることは彼女自身にはできません。だから自らの罪がいずれ裁かれるに値するのであれば春菜はそれを甘んじて受け入れるつもりでいましたが、だからといって人に糾弾されただけで彼女は自ら信じる行いを否定するつもりもまたありませんでした。
罪を承知で現在の振る舞いを正当化する、やむを得ぬと称して血を流す春菜の考え方が古来からどれほど悪辣な論法として用いられてきたことか、それも彼女は知っています。正義を信じるままに、信念の赴くままに自分の悪事を正当化しようとする輩は歴史から絶えたことがありません。高槻春菜はしょせん、そうした悪辣な正義と信念に凝り固まった殺戮者であるだけかもしれないのです。
春菜の述懐に麗は労るような頷きを返しながら耳を傾けています。成る程、彼女は平然と雲外鏡を覗き見ることができる訳だ。彼女は常に自分の姿を自分自身の鏡に映しており、異形の妖を容赦なく手にかけるときも、それを糾弾されたときも春菜は罪を自覚して鏡に映る醜い姿を後目にしてそれでも武器を振るっているのでしょう。何を今更と思う、そんなことは言われずとも分かっている。でも誰かがやらなければいけないことがある。それとも、目の前で暴れ回る不条理を放置してそのままにしておくというのか。それが少女の信じる思いであり、己の罪を自覚して不条理に対する彼女が苛烈な姿を持っているのはごく当然のことだったでしょう。
その春菜が恐れることがあるとすれば、自分の罪を宣告されることではなく自分の本当の姿を人に知られることではないのでしょうか。それは彼女の姿を知る者を、彼女と同じ汚れた道に引きずり込むかもしれないから。だから彼女はお嬢様の姿であろうとしていたのかもしれない、それが少しでも自分を押し止める鏡になると考えたのかもしれない、そう思うと麗には自らを責める少女の真摯さがむしろ純粋で貴重なものに思えてきます。たぶん、朱陽が春菜の頭に手を乗せた理由も同じ思いではあるのでしょう。
「でも、それを分かってくれる人がいたというのなら幸せなことだわ」
麗は慈母の微笑みを浮かべています。彼女の目の前に堂々と立ってくれた、冬真吹雪という少年の存在がどれほど春菜の支えになっていたかは彼女自身気が付いていないかもしれません。吹雪がいたおかげで春菜は初めて、自分自身の外側に鏡を持ちそれを覗くことができるようになったのです。ですがたとえその事実に気が付き、尽くせぬ感謝の思いを抱いたとしても春菜にはそれでいいのだろうかという悩みも逡巡も消えてはいません。だからこそ吹雪の思いに春菜は不安と葛藤を抱かざるを得ませんでした。
「無理をするなと言ってくれた、私は吹雪くんに本当に感謝しています。でも、私はその彼を私の罪に巻き込んでしまうかもしれないんです。私の手はこんなに汚れているのに、それでも私の道を歩んでくれようとする。私は吹雪くんにそんな道を示すことしかできないというのに」
本人は真面目すぎるほど真面目なのであろう、その言葉に麗の顔がほころびます。失礼を承知で、今時の女の子らしいとは言えない深刻な悩みは如何にも春菜らしいと思いながら、たった一年の人生の先達は非礼を詫びてから彼女の人生訓をいとおしい後輩に披瀝します。
「真摯に生きることは何にも勝る価値、でもそれは君一人だけのものではないわ。ためになる八神麗の格言。同じ道を歩んでくれる人がいるということは、人生で最上の幸せなの。それは君にとってだけではなく、君の道をともに歩んでくれようとする人にとっても同じことなのよ」
愛すべき人を持ちなさい、その人とならば君は美しい道でも汚れた道でを歩むことができる、そういう人を。白雪に包まれた境内には桜の神棚が組まれていてそれを祀る巫女は春の芽吹きを待ちこがれる。優しげな笑みを浮かべながら、彼らの姿を見る麗には大厄やその力を求める者たちのこだわりがどれほど取るに足りぬ、卑小なものであるかと思えてきます。たかが大厄の封印、人の悩みに比べてさほど深刻な問題ではないのですから。
◇
吹雪が春菜を呼んだ理由は、ここ数日でもそれほど深刻なものではないだろうと少年自身は思っていました。烏丸神社の一隅にある板張りの部屋で少女と二人、寒々しい部屋は残念ながら逢い引きには色気のある場所とも雰囲気ともいえません。冷えた空気にわずかに腕を抱くような仕草をしている、少女の姿を見つけた少年は軽く片手を上げました。
小さな恋花、七月宮稲荷の片割れが遠く東から吹雪を追ってくると彼に手渡したという品は力を妬む姿を隠せずにいた、未熟な少年に差し出された神の力宿る武器であり、それを指して神自身は「弓」と称していました。大いなる力は大いなる代償を求める、それを吹雪は理解しておりコノハナノサクヤヒメノミコトから預けられた雲外鏡でも思い知らされていた筈ですが、今、手の中にある品も少年に神の悪意を信じさせずにはいられませんでした。
「こすも、るがー?」
「笑っていいぜ、遠慮するなよ」
滑稽な姿に滑稽な名前。情けない事実を前にして自嘲気味に吹雪はおどけた素振りを見せています。旧式のサイエンス・フィクション番組に登場するような、子供の玩具めいた銃が神の力を秘める武器だと言われていったいどれほどの人が信じることができるでしょうか。愚かしい自分の浅ましさに対する罰であるのか、このふざけた品に便利なところがあるとすれば、これを携える姿がたとえ人目を引いたとしても誰も危険物とは思わないことくらいだろう。そう言い放つ吹雪の葛藤などあざ笑うかのように事態は少年の嗜好や虚栄心など無視して進む、それは仕方のないことでしたがそれで達観して納得できよう筈もありません。
幼い頃は病弱で、横たわった床から見上げる天上だけが彼の世界でした。幾度、恐れたか知れません。この瞼を閉じたときに再び開くことができるだろうか、この狭い小さな世界にすら戻ることができるのだろうかと。それを乗り越えるために刀を持った少年は以来自らを鍛えて修練を欠かしたことは一日とてなく、ようやくにして立ち上がり掴めるようになった力は少年を一人前と呼んで差し支えのない剣士へと成長させることができました。それでも、あるいはそれだからこそ冬真吹雪は未だ力と技を求めて研鑽を続け自らを緩めることが決してなく、強い力と技への渇望が失われることもまたありません。
その吹雪にとって、異形の血を引いて生まれた鬼神は敬愛しながらも嫉視の眼差しを向けざるを得ない存在であり、神すらも受け入れる器を持て余す少女や先祖伝来の霊刀に振り回されるだけの少年は憎悪の対象ですらありました。それを妬ましく思わない方が嘘でしょう、自分にも力が巡る機会があってもいいではないか。そう思う少年に差し出された待望の力は一方が春知らぬ少女を巻き込んでしまった罪深い鏡であり、一方は滑稽なほどに恐ろしく容赦のない力そのものでした。自分の愚かさに対する罰であれば何故自分以外のものを巻き込むのか、神にはそれだけの権利があるというのか。
「神様はよほど人を愚弄するために存在してるに違いないぜ。道化の神を崇める者の気持ちが分かろうというものさ」
自分の主張がただの我侭でしかないことを吹雪は充分に理解していましたし、仮にも神様の巫女を務める春菜に言ってよい言葉でないことも承知しています。それでもそれが嘘偽りのない本心であり、言わずにいられないことは彼女に対する甘えになるのか、あるいは信頼になるのでしょうか。吹雪が予想していた通り少年の嘆きに春菜は笑う素振りも見せず、気を使う様子もなく、ごく自然に吹雪の言葉を受け入れています。ああ、こいつは本当にいい奴だと思う。その姿を見てこういうとき、春菜がここにいることは本当にありがたいと吹雪は思いますがさすがにそれを口に出すことはありません。滑稽さなどはささいな問題ではなく、韜晦する吹雪の葛藤が表面に見えているものよりもはるかに深刻であることを春菜は理解しているつもりでした。無論、彼らが知る雲外の鏡の力に頼ることもなく。
「でも吹雪くん、銃なんて使ったことあるの?」
「あるわけねーだろ、これでも健全な日本の高校生だよ」
使うからにはその力を知らねばならぬ。吹雪は辟易しながらも京汝鳥の助力を得てそれらしい場所を借してもらうと、解き放ったこすもるがーとやらの力は外見に相応しい間の抜けた音まで発し、にも関わらず標的を消し飛ばすほどの威力を見せつけて人々を驚かせてみせました。さすがは神具、これなら神も魔も撃つに不足はないだろうとどこか投げやりな口調で言う吹雪の言葉は、人が見れば威力こそあれ間の抜けた玩具の滑稽さに対する嘆きにしか聞こえません。
「納得してなさそうね」
その言葉よりも、春菜の口調とその表情が吹雪の胸中を正確に捉えていることを理解させています。だからこそ、少年も人には言えぬ心情を彼女には伝えることができるのでしょう。信頼に足る相手に吹雪はそれまで抑えていた心情を吐露します。強力なのは認める、間の抜けた外見に間の抜けた音まで出る、滑稽な道具だということも認めるにやぶさかではない。
「だが強力すぎる。こんな物騒な飛び道具、万が一外したら何人死ぬか分かったもんじゃねーぜ」
「・・・吹雪くんらしいね」
心から言う、吹雪の優しさが春菜の目を細めて羨望の思いを抱かせます。どれほど韜晦して、おどけてみせて、皮肉を装っていても少年の心が菩薩のそれであることを彼女は誰よりも貴重に思い、何よりも大切なものに感じていました。そして彼の菩薩の心に対して、自分が用意するものが修羅の道でしかないことはこれまでも、これからも春菜の心を苛み引き裂き続けるのでしょう。自分が歩く血泥の道に、一番巻き込みたくない人を巻き込んでしまう。春菜が最も恐れているその道を、太刀握る菩薩は共に歩もうというのです。何かを振り払うではなく、何かを受け入れるように小さく頷くと春菜は顔を上げました。
「で、私にそれを習いにきたのね」
「鏡を見ずとも分かりますか、春菜さん?」
「あなたのことは何でも分かるのよ、吹雪くん」
一瞬、少年は息を呑みます。吹雪の冗談に春菜もたぶん、冗談で返したのでしょう。吹雪の悪い癖が伝染したかのように、春菜はおどけたような顔を見せていましたがそのとき、彼女の目が誰よりも優しい色をしていることに少年は気が付くことができたでしょうか。雲外の鏡があろうとなかろうと、人の真意を見通すことは容易な技ではないのです。
◇
出立までの時間は短く、付け焼き刃の訓練で得られるものにさして信頼を置くことなどできません。春菜が伝えるとすればそれは事実を正確に掴み、吹雪の技と力に相応しい道を示す導に他なりませんでした。どこか講釈めいて聞こえる、少女の言葉が広い板張りの壁に響きます。冷えた冬の空気は部屋の中であるにも関わらず、少女が吐く息を白いものに変えていました。
「剣術の基本は構えて、斬る。これが居合いだと事情が変わってくるけど、今は考えないでいいわ」
耳に快い声が響きます。彼女が自ら血を流す修羅でなければ、年相応の学生として音楽堂で合唱の響きでも鳴らしていればその姿に少年は惹かれたかもしれません。ですが真摯に聞き入る思いはそれが歌声でなくとも同じものでした。
構えて、斬るという一連の動きは徒手の格闘術でも無論同じことで、構えればそこには次の動作が待っています。ところが銃においてはそうではなく、構えたら狙って、撃つという一拍の余分な動作が必要でした。その上で銃の弾道は矢に比べると遥かに銃口から伸びる直線に近しく予測するに困難ではありません。相手が銃を構えてから狙うまでの間に銃口の前に立たないこと、弾道を想定して避けることができれば銃が当たることはないのです。
無論、単なる机の上の話であり実際にはそう簡単に銃が当たらないと同様、そう簡単に銃が避けられるものでもありません。ですが少なくとも、そう簡単に当たらない銃をもとより使ったこともないという吹雪が、外れればどんな犠牲が出るか分かったものではないという代物をためらいなく撃つことなどできる筈もないでしょう。その吹雪の葛藤を春菜は理解していました。それならば最悪でも自分が壊れるだけで済むという、雲外鏡の方がはるかに気が楽というものです。自分が犠牲になるのであれば耐えられても、自分が誤れば人を巻き添えにするとなれば吹雪の菩薩にとってこれ以上恐るべき力はありません。珍しく、吹雪がすべてを頼るような声を漏らします。
「なあ、どうしたらいいと思う?俺にはためらいを踏み越える自信はない。春菜だったら、どうする?」
「それを銃だと思わなければいい。いえ、銃として使わなければいいわ」
吹雪の逡巡などあっさりと突き破るかのように、春菜の口調は明晰でしたが一瞬、それがどのような意味を指しているのか少年には理解ができませんでした。吹雪には思いつかなかった方法が春菜にはすぐに見えたのでしょう、ですがそれを伝える春菜の表情には耐え難い罪悪感を乗り越える覚悟が満ちています。再びの一瞬を置いて、少年は少女の思いを正確に理解しました。
「おい、まさか・・・」
春菜が示すのはごく単純な方法です。その銃を構えて相手の懐深く飛び込む、触れ合うほどの至近距離で撃てばどんな銃だろうと外すことはないし避けることもできないでしょう。平然と言い放っているかに見える、それがどれほど恐ろしい技であるか、吹雪は背筋に冷たい汗を感じます。愚かさに笑うどころか、滑稽さに情けなさを感じるどころか、今や少年の手の中にある玩具が恐るべき代物に見えてきました。それこそ雲外の鏡で春菜が映し出したこの武器の禍々しい真実なのではないだろうか。
「剣士が、刀すら持たず相手の懐深く飛び込めって言うのかよ・・・近接戦の間合いは俺の大太刀よりずっと短いんだぜ?」
それはまさしく修羅の道、戦いに迷わずためらいを抱かぬ者が選ぶことのできる道でした。流れる血を厭わぬ修羅は自らが踏み込む危地を恐れることはありません。それは犠牲に無感動な故ではなく、それを乗り越えて暗闇を切り拓く一本の道を進む覚悟があってのこと。
その一端を春菜に教わった、高槻流の極意。それは縮地とすら呼ばれる一瞬の踏み込みで、正しい型を日々研鑽すれば後は恐れず一歩を踏み出す覚悟がすべての力となります。その歩みには一切の迷いは必要ない。春菜が祖父から伝えられていた教え、本当の天才とは努力し続ける才能のことであり当たり前の日々の鍛錬と正しき型を欠かさず繰り返す能力を備える者であり、自ら選ぶ道を自ら歩むことができる者のことでした。生まれながらに持たぬ者が自ら掴む、その尊さを知る者こそ本当に才ある者である。春菜が吹雪を選んだ理由は、少年が菩薩の心を持つただそれだけではありません。
「吹雪くんなら、できるわよ。高槻流の踏み込みは伊達じゃないんだから」
太刀持つ菩薩に導を示す、春を待つ修羅の言葉は心からの信頼と誇りに満ちています。その言葉がどれほどの逡巡を乗り越えてのものであるか、その道を歩もうとする吹雪は寒々とした空気の中で羽織っていた上着を脱ぐと、少しためらいながらも少女の肩にかけました。如何な道であろうと、一人で歩むのでなければそこには少なくとも小さな暖かさがある筈です。
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