非常扉を開けるたびに.十二前


 水面のように揺らめく、鏡に映し出されている血に汚れた少女の姿。その赤黒さが罪の色であり、流せぬ涙の代わりであることを彼女は知っています。血に汚れた手を洗いますが、流水にいくら晒したところでそれが落ちることはありません。執拗でもないし狂的にでもない、どうせ落ちないと分かっていながら、せめて洗おうとは思うという程度の仕草で細い指の間を水が流れ抜けていきます。水が快く滑り抜けていく、いっそその水が彼女の手で汚されないことを願おうと。丁寧に洗い終えてから綺麗に拭われた、高槻春菜の小さな手から血の色が消えることは決してありませんでした。


 東西の汝鳥に分かたれた大厄の封印、封じられた供馬尊は古く錬金の技を磨いた人がその正体であることを彼らはこの京都の地で伝え聞くことができました。真理を探求して到達する先を目指す錬金の士、ある時、彼の技が人の一線を超えてしまったことによって迫害され追放された男は海を渡り、旅路の果てにやがて日の本の国へと流れ着きました。ですが人に理解できぬ力を持つ者が人に追放されて、漂着した先でそれが理解される筈もなく供馬尊は野蛮で退行したこの国の人々に畏れられ崇められていくようになります。そして、もしも致命的な誤りがあったとすれば、彼が人々の崇拝を受け入れてしまったことにあったでしょう。崇拝された異人は異形となり、彼はもはや妖となんら変わることのない存在でした。力ある異形、人の技を逸脱した魔人が人の力によって迫害されて封じられるようになるまで、それから長い時を必要とはしなかったのです。
 葦矢萬斎と名乗る壮年の人物、かつて供馬尊を封じたのが彼の祖先とされていますが、それが万全な術策ではなかったことを当人たちが誰よりも知っていました。ですが葦矢の家は京都に名だたる陰陽師の血族であり、異形を封じるべく名乗り出たそれが万全ではなかったなどと誰に言えたものでもありません。引きちぎられた異形はそれでも力を失わず、一方が京都に封じられて一方は逃亡すると東の地で辛うじて取り押さえることに成功します。供馬尊は不充分な姿のままで東と西に縛りつけざるを得ず、これを恥じた葦矢の家は供馬尊を大厄として喧伝するとともに多くの伝承や文献をひた隠しにして己たちの所業を真実とは異なる漆喰で塗り固めようとしました。西と東に二つ分かたれた封印など聞いたこともない、それも当然でそれこそ封印が不完全な証でしかなかったのです。

 東西に分かたれた大厄はいずれ完全に封じられなければならない。それが葦矢の家の悲願となりましたが、時を経て彼らが歪んだのは皮肉にも彼らが力も名もある者たちであったからでしょう。大厄を完全に封じる、葦矢の悲願のためであればどれほどの犠牲が出ようともいっそ構わないではないか。名家旧跡の京都でもなお由緒ある邸宅の古い一室で、当代の主、萬斎の代になって遂に葦矢の血族はその結論に達します。邪な魔人は封じねばならず、自分たちは大いなる義務を果たそうとしているだけなのだ。そして分かたれた大厄を完全に封じるにはそれを一度復活させて、合した後に封じなければならぬ。故に大厄は葦矢の手で復活されなければならない。それがすでに大いなる力に溺れた者の心と何ら変わらないということを彼は気が付いていませんでした。

「大厄の復活は我らが悲願。人であれ妖であれ、大義を前にして私たちは手を握ることができるでしょう」

 自らの言葉の意味すらも理解することはできない、すべての黒幕は歪んだがために生まれ落ちた悲願のために、何かを利用するということにためらいを覚えることはなく獰猛な土地神の一派、地蜘蛛を利用したこともその一つでした。

 封じられた供馬尊を解き放つ方法は必ずしも一つではありませんでしたが、その儀式として伝えられていたのが封印の鍵を託したとされる鴉取の家の口伝にあり、鴉取に双子が生まれたときこれを鍵にして大厄は解き放つことができようというものです。儀式の正体はごく単純なものであり、双子の血を彼らが互いに封印に捧げればよい、ただそれだけのものでした。ですが隠された葦矢の悲願を理解する者は世に少なく、それが大厄を解き放つ鍵だと知れば素直に従う者はいないでしょう。彼らを封印の前まで連れ出した上で互いに斬り合いをさせる、そのような芸当が果たして可能であるのでしょうか。
 明かりの乏しい部屋で、葦矢萬斎は彼の傍らに控えていた黒服の若い女に声をかけています。鍵の一方である鷲塚智巳は既に手中にあり、彼を手懐けて意のままに従わせることができれば彼らの目的は大いに近付いてくることでしょう。世慣れぬ少年を暗示にかけて操る程度のことは、黒幕にとってさほど難しいことではありません。退出して姿を消す黒服の女の背を追って、葦矢萬斎の視線は己の思考に移ると深く心を沈めて行きました。

 手管が一つではやはり心許ない。大厄を破る方法は一つではなく、打てる手は幾つでも打っておくに越したことはありません。残されている東の封印は四方の要となる四つの社によって抑えられており、これに抗う力を作り出して均衡を揺らすことができれば封印は揺れて大厄の復活は近くなるでしょう。脳裏に浮かぶ、魅呪姫が率いる地蜘蛛たちは人の世界で妖の勢力が増すことをただ盲目的に望んでおり利用するには丁度よい相手に思えます。どうせこのような連中を犠牲に供したところで誰が構うものでしょうか。
 地蜘蛛の力を増し、彼らが望む回天を象徴する蜘蛛神を降臨させるためには儀式が必要です。その儀式が封印を揺らして供馬尊を解き放ち、地蜘蛛は彼らが望む力を降臨させて回天を手中に収めることができる。その誘いに乗ることを地蜘蛛は了承しましたが、蜘蛛神を降臨させる儀式に生け贄が必要とされることを葦矢萬斎は注意深く地蜘蛛の師団長たちの耳に注ぎ込みました。大いなる存在を呼び出すには高貴なる供物が必要である、当の魅呪姫には伏せられていた儀式が執り行われると、一斉に襲いかかる地蜘蛛の牙が彼らの頭領の全身に突き立てられて肉はえぐられて血がすすられました。

「貴様ら!どういう、どういうつもりじゃ!」

 半ば人の血を引くという、それ故に高貴なる主の顔を驚愕が支配します。どうせ訪れる筈もない、回天の犠牲になるために捧げられた哀れな姫巫女は全身を喰いちぎられると意識が失われてすべては闇の深淵に溶け込んでいきました。葦矢萬斎の望みは儀式と供物そのものであって、蜘蛛神など来ようが来まいが供馬尊の封印を揺るがす力があれば構いません。頭領である魅呪姫が失われれば地蜘蛛は統率を失って崩壊し、その後を悩ませることもないでしょう。彼に誤算があったとすれば地蜘蛛の儀式が失敗に終わり、生け贄は逃げ出して魅呪姫の所在がようとして知れなくなったということでした。彼の芸術的な策にほころびが生じたことを葦矢萬斎は不満に思いましたが、愚かな地蜘蛛の策が失敗に終わって手管は幾らでも残されています。


 後悔と屈辱すら思う力は残されておらず、ぼんやりと目を覚ました魅呪姫が見上げている空には白い真円の月が浮かんでいました。方々が喰いちぎられた身体は妖ならではの生命力によって生き長らえていましたが、それは辛うじて存在を許されているという程度で四肢は失われて腑はえぐられ、視線を動かすことすら少ない力をかき集めざるを得ません。睨みつけた先、深い夜の片隅で銀色の明かりに照らされているのは豊穣を司る七月宮の稲荷神であり、如何なる気まぐれか神によって自分が救われたらしい事実に魅呪姫は自嘲の息を漏らします。それは感謝すべきことではなく、妖にとっては恥じるべきことの筈でした。

「何故、妾を助けた」
「何故って?私はただ封印を守っただけよ。礼でも文句でも言いたいなら、私ではなくそこの連中に言うのね」

 煩わしげに手の平を振りながら、どこか突き放すように魅呪姫の存在を歯牙にもかけていない神が指し示した、そこには四体の地蜘蛛の戦士が膝をつき頭を垂れています。地蜘蛛の中にも寸前で彼女を助けようとしたものがいたらしく、それがたった四体しかいなかったことに魅呪姫は凋落を感じて苦笑しました。幻術を極め、地蜘蛛の悲願である回天をもたらす救い主となるべき自分が何という様か。ため息とともに残り少ない力が流れ出し、これだけ落ちぶれれば後は消え去るのみでも仕方がないかと思えます。四体の地蜘蛛は主君の傍らにかしづきながら、一人が顔を上げると恭しく語りました。

「我らの主は魅呪姫様ただ一体。我ら四体、最期まで主に従う所存」

 自分が欺かれていた、騙されていたことにも気が付かない愚かな主君であっても律儀に忠節を誓う輩はいるらしい。哀れで愚かしい連中だがもっと愚かしい自分の部下には相応しいかと魅呪姫は再び自嘲します。くつ、くつと耐え切れぬように笑う声が響き、それが自分のものではないことを不快に感じて魅呪姫の意識は再び声の主へと向けられました。七月宮の表情にははっきりと自分をあざ笑う感情が見て取れます。

「別に哀れみを受けたいとも思ってないだろうけどね、どうせなら自分のマヌケさ加減に気が付いた方がいいわよ。せめて自分が誰に騙されていたのか、無い頭を絞ってそれくらいは考えたらいいんじゃない?」

 ああ、無いのは頭ではなくて手足だったわねとけたたましく笑う、七月宮の嘲弄に魅呪姫は憤慨する力もありません。それでもその言葉に、凋落した姫巫女は思い至ることがありました。地蜘蛛が頭領である魅呪姫に反旗を翻す、愚かしい彼女がそれに気が付くことがなかった理由として元来女系社会の彼らには女に逆らう習性そのものが存在しないことがあります。師団長を務める戦士は幾体もいましたが、彼らだけで統率が取れる筈がない。たとえ葦矢に誑かされていたのだとしても、必ず魅呪姫とは別に地蜘蛛を束ねているものがいる筈でした。そして、それは地蜘蛛の女でしかありえないでしょう。
 魅呪姫が思い返す限り、そのような輩は地蜘蛛にはいませんでした。だからこそ彼女は疑問にも思いませんでしたが、もしも葦矢の部下にそれが隠れていたのであれば、と思います。何という名前だったか、姫巫女の脳裏には葦矢萬斎の傍らにいた黒服の女の姿が浮かび上がりました。いずれにせよこのままでは終わらぬ、このままでは終われぬと気負う魅呪姫の耳に彼女の戦士たるものの言葉が届きます。

「姫様、何処へ行かれますか」
「貴様らの知ったことか。何処へ行きたくともこの身体では何も叶わぬわ」

 今更自分を嘆いたりはしない。ですが彼女が思うことを為すには力どころか腕も脚も足りてはいません。それは皮肉か自らを揶揄する言葉であったのでしょうが、地蜘蛛の戦士たちはかしこまりましたと殊勝に頷くと、訝る魅呪姫の前であいくちのような鈎爪を伸ばして自らの喉を横に切り飛ばしました。

「貴様ら・・・!何をしておる!」
「申した筈。我ら、最期まで魅呪姫様に従うと」

 地に転がった首がごぼごぼと音を漏らしつつ、己たちの血で全身を染めた四体の戦士が彼らの主に取り憑くと泡立つ肉が溶けて失われた腕となり脚と化していきます。剛毛は失われて女の肌が蘇り、爪には毒液したたる地蜘蛛の牙が宿りました。立ち上がり、踏みしめた足下には彼女の戦士たちの残骸すら残されてはいませんでしたが、握り締める拳には疑いのない力が溢れています。異形の妖は泣くでもなく感謝するでもなく、決意と覚悟の中に立ち尽くすと彼女が譲り受けた悲願のため、彼らが望む地へと姿を消しました。駆けながら、地蜘蛛の姫巫女が激情のままに放つ絶叫の尾が長く遠く汝鳥の空に響き渡り、傾いた銀色の光を受けていた七月宮の姿はすでにどこにもありません。


 大厄の解放を阻止するべく、学生たちが汝鳥の中心に向かっている頃、彼らを指導すべき立場にいる者たちは車中にあって方々を回っている最中でした。無論、一足遅れて子供たちを追うつもりではいましたが、大人でなければできない課題は大人が自分たちの手で片付けておくべきでしょう。

「それにしても出遅れてしまったではないか、急げ急げ」
「仕方ないデスよ。誰かが京都との連絡を取らなきゃいけまセンし、騒動の後始末だって考えないといけまセンから」

 ネイ・リファールが不平を言うこともウォレス・G・ラインバーグがそれを形だけは宥めてみせるのもいつものことです。騒動を聞いて東京まで戻り付いたはいいですが、汝鳥の市内が封鎖されている有り様でそれを突破しようというのですから公然非公然の根回しは欠かせません。珍しくもハンドルを握るジョン・ブルが、後部座席に陣取るヤンキー娘をバックミラー越しに見やっています。
 封鎖された市内では煽られた人々が暴徒と化しており、警察や機動隊が周囲を押さえていて消防が駆け付けたところで怪我人の搬送すら思うようには行かないのが現状です。カーラジオから流れてくる報道にこれは、残念ながら犠牲者が出ているだろうとラインバーグは小さく首を振りますが、それは彼らの町を案じていると同時にその事実に傷つくであろう子供たちを心配してでもありました。人がどう思うかはともかくとして彼は彼なりに生徒たちに愛情を抱いていましたし、後部座席に偉そうに陣取っている娘もそれは同じであって欲しいと些か不安げに見つめています。

「こういう時こそ日陰仕事は大人の役目デスよ。アナタの実家だって役に立つデショ」
「知るか。妾はスーパーファイティングでエキサイティングなバトルシーンができればそれで良いのだ」
「うん、いつもネイたん家に連絡してるのは私」

 呆れた事実をごく当然のように告げて、ラインバーグを唖然とさせているのはネイの使い魔を自称するみなとそらでした。黒髪美人のウサギ人と称する彼女はそう言われれば、先程からネイの携帯電話を我が物のようにいじりながら方々と話をしています。アンタらはそれでいいのか、などと問うだけ無駄ですしむしろこの方がことが早く進むのであれば現実を直視する度量を持つべきでした。優秀な使い魔とやらにすべてを任せながら、将たるもの山のように動かざるべしと放言するネイは山は山でも噴火しっぱなしの火山のようなものでしょうか。車中にはみ出しそうな白河塗りの棍を掌で叩く暴君顧問は、戦意を隠そうとも抑えようともする素振りがありませんでした。

「せっかくのユナイテッド・ハンマーを使う機会が無くなったらどうしてくれる!」
「その名前、ビミョーだから止めた方がいいデスよ」

 言いながら、どちらにしても自分たちが武器を手に戦うような事態には陥らぬ方が良いとラインバーグは考えています。それだけ彼らの子供たちが苦難に陥っていることになる、その言葉に今は苦難ではないのかとネイが問いますがラインバーグにしてみれば見た目程の危機を感じ取ってはいません。
 大厄と呼ばれる供馬尊の力は半身でも決して小さいものではなく厄介には違いない、ですが黒幕と称する葦矢萬斎の動きは彼にしてみれば稚拙であり決して大きな脅威ではないでしょう。確かに京都の者は先んじられているものの、東汝鳥の子供たちはそれに巻き込まれたに過ぎず、次は彼らのホームグラウンドが舞台であれば失地挽回は充分に可能でした。

「こちらの損失は鷲塚クンがさらわれて龍波クンが倒れたくらい、大して戦力は落ちてまセン」
「ほう?デカいことを言うではないか」

 安物の自動車のシートで大人しく揺られているネイがどう思っていたかはともかく、個人としての強さが戦力には決して大きな影響を及ぼすとは限らないことをラインバーグは知っています。封印を解く鍵の一つが相手の手に渡った、だがすべてではなく封印を解きたがっているのはあくまで葦矢萬斎たちであり今のままでも彼らが困るが自分たちは困りはしないでしょう。そしてラインバーグが信頼する子供たちの強さは鴉取の血でも鬼の力でもありません。
 鷲塚智巳がさらわれたことで、皆は彼を助け出すために力を尽くすでしょう。龍波輝充郎が倒れたことで、皆は彼の勇気を受け継いで戦うでしょう。強さの基準は揺るがぬ意志であって剣の数ではない、それこそ机の上の指揮官には決して分からない子供たちの強さなのです。


 黒幕たるものの下には定期的に、刻々と移り変わる時を伝えるべく報告が送られて来ています。蜘蛛神降臨の儀式に用いる筈であった魅呪姫の姿が消えたという言葉に首を傾げる素振りを見せたものの、すでに部下はなく力も失われたであろう落ちぶれた妖に向ける興味などありません。無垢な愚かさを嘲るような素振りで、小さく首だけを振ると忘却の彼方へと押しやってしまいました。

 葦矢萬斎は目的のために多くの手管を備える人物であり、大厄の封印を解き放つべく己の描き出した壮麗な絵画の出来映えに満足の意を示しています。京都汝鳥に収められていた供馬尊の半身は解き放たれて、残る半身と合わさるべく東の地に向かいつつある。封印を解く鍵である双子の片割れ、鷲塚智巳は手中にあって今は封印を守る桜の巨木の下に立って虚ろな目を周囲に向けていました。その傍らには黒服の女が控えており、近寄る者すべてを斬ろうとする少年の耳元で彼女だけが襲われることも傷つけられることもなく、注意深い言葉を少年の耳から心へと注ぎ込んでいます。暴行を受け、心身を奪われた少年を操る女は「葦矢萬斎の手から封印を守るべく」大樹の前に立ち近寄る者すべてを斬らねばならないと告げました。ただし、貴方の妹を斬ってはならないとも。
 封印の根元で多くの血が流れれば汚された血が封印を揺るがせる。それがなくとも少年が暴走する姿に彼の妹や友人たちは誘き出されざるを得ないでしょう。所詮は学生であり、お友達に犠牲が出ると思えば何をすることもできません。ですが智巳を止めるには彼を斬るしかなく、それは妹たる鴉取真琴が行うべきものであろう。妹を斬ることができない少年の血は供物として捧げられることになり、かくして大厄は解き放たれて葦矢萬斎の望みは叶うことになります。

 葦矢の悲願である大厄を復活させて、合した後に封じなければならぬ。その妄執に取り憑かれている萬斎は目的のために手段を選ぶこともなく、汝鳥の人々を暴走させる強大な陣を設けて地蜘蛛には封印を揺るがす儀式を促し、これを阻害する者を消し去るべく部下たちに銃器を渡し狙撃手として周辺に潜ませてさえいます。その殆どは彼自身の力ではなく、部下であれ手下であれ何かを利用しているに過ぎませんが、葦矢萬斎たる者がすべてを思いのままに操ることは彼の当然の権利ですらありました。何しろ大厄は復活されねばならないのです。
 学生たちがたどり着いたとき、彼らの目に映ったのは虚ろな表情で立ちながら手には血に濡れた大刀を下げている少年の姿でした。傍らには黒服を着た女が寄り添うように連れ立っていて、時折何やら智巳の耳元に囁いています。京都汝鳥からも来るであろう支援は未だ到達してはおらず、威嚇して放たれた銃声が飛び道具の存在を皆に教えていて一見して状況は最悪にしか見えません。陰鬱な夜はすでに明けていて朝霧の中で彼らは行動を開始してはいましたが、その日は空を覆う曇天も周囲を囲う薄霞も晴れることはなく冷ややかな空気と湿気を煩わしく感じたかのように、柚木塔子は切り揃えられた髪をひと振りしました。

「やれやれ、よくもここまで手の込んだ真似を用意できたものだ」
「すみません。自分の兄がこんなことになるなんて・・・」

 深くため息をついて、双子の妹である鴉取真琴は小さく首を振りました。無論この状況は兄や彼女の責任ではないでしょうが、汝鳥の旧家であり封印の鍵とまで呼ばれる鴉取の娘としては不甲斐なさと面目なさを感じずにはいられません。葦矢萬斎の目論見は明白であり、これ以上の暴走を留めるべく彼らが智巳を斬ってでも止めることを望んでいるのでしょう。肉親である真琴が自らの責を感じてそれを行い、かくして大厄は復活される。稚拙な考えだともう一度首を振りますが、ここまで徹底されれば対するのも容易ではありません。
 塔子も真琴も、剣にも術にも秀でてはおらず力ある者ではありませんが、彼女たちは歴戦のただ中にあって常に状況を把握して危難を避け、到達すべき道に仲間たちを導くことを己に課してきた者です。ごく短い時の中で、友人を危地に差し向けてきた少女たちの心は葦矢萬斎が思うほどか弱いものでも儚いものでもありません。相手の思惑は読める、ではどうするかが重要でした。

「京都から支援はすぐに来る筈だな?難儀な状況だが、時間さえ稼ぐことができればこちらの不利はない」

 葦矢萬斎の目的は大厄の封印を解き放つことであり、であれば塔子たちの目的はそれを阻止することになるでしょう。状況は膠着して支援の手も近付いているのであれば、時間的な余裕がないのはむしろ葦矢の側であり、彼が欲しているだろう封印を解く鍵も双子の一方が互いの手中に分かれています。優位にあるのはむしろ学生たちであり、時計の針が振れるごとにそれは確実になる筈でした。だからこそ、葦矢萬斎も手段を選ばずにはいられないのでしょう。

「我々は確実に勝つことができる。問題は完全な勝利を得られるかどうかだ」

 塔子の言葉には多分にはったりが入っているのでしょう、そのことを承知で真琴も頷きを返します。自分の行為が他の仲間たちにもどのような影響を与えるか、それを少女たちは理解していました。とはいえこちらが優位にあるからこそ追い詰められた相手は無謀な愚挙に出るかもしれず、軽挙が思わぬ犠牲を呼び込まないとも限りません。そして誰よりも兄の所業に面目なさを感じていたとしても、誰よりも兄を案じているのも妹の彼女なのです。その逡巡を理解しているのか、塔子はあえて真琴に尋ねました。この状況で、彼女たちはどう動くべきだと思うか。
 真琴が思う限り考えられる方法は二つあります。一つは単純にこの場所でここまま集まり留まっていること。今の状況が膠着しているのであれば、それをそのまま続けることは時間稼ぎに有効な筈でした。いずれ京都からの支援が到着すれば状況は改善される、欠点は受け身に回るが故に相手に策を弄する余裕を与えてしまうことであり、激発した葦矢の部下が思わぬ手に打って出ないとも限りません。

「成る程。ではもう一つは?」
「そうですね、もっと雑で無謀な方法です」

 どこか悪戯な顔に見える、真琴の表情はこの場にふさわしくないものでしょうか。それはこの場所から皆が一斉に散開して、それぞれが勝手に動き回って狙撃手たちを一人ずつ倒していくことであり、それによって相手の手管を封じていくこと。欠点は明らか過ぎるほどで、分散したこちらの思惑に葦矢萬斎が動じず戦力を集中されればもはや打つ手がなくなります。鴉取の双子を押さえ、後は個別に潰していけば京都からの支援が来たところですべては手遅れになるだけでしょう。
 ですが、と真琴は続けます。これまで先手を取られ続けていた彼らが初めて主導権を握る、これは絶好の好機でもありました。大物ぶって幾多の策を弄して悦に浸っているであろう、葦矢萬斎のような人物が受け身に回って果たして平静でいられるか。真琴の思考はその可能性に至っています。戦いは一人で行うものではなく、自分よりも相手がより大きなミスをすれば勝利を得ることは容易い筈でした。

「それに・・・」
「それに?」
「この方がみんな、やる気が出ると思います。私も含めて」

 その言葉に塔子は思わず笑います。机の上の司令官には決して分からないことがある、少女たちはそれを知っており葦矢萬斎は彼自身が思っているほどに大した策士ではありません。真琴の主張には塔子も皆も異存がありませんでしたが、単純にいえば派手な陽動作戦である彼らの手の平で相手を踊らせるには演出は派手であればあるほど望ましくなるでしょう。事態に挑戦するかのように不敵な表情で腰に手を当てながら、彼らの心中を代弁したのは冬真吹雪でした。

「派手な演出ね。こんな時こそ、先輩がいればきっと・・・」
「皆、待たせたなァーッ!」

 轟く叫びと爆音。唐突に切り裂かれた静寂を叩き割って、巨大な二輪車にまたがった巨大な鬼が現れるとバイクごと垂直に飛び上がり、あろうことか派手な宙返りとともに地面に降り立ちます。半妖の鬼、龍波輝充郎は力強い言葉で、変化した彼の身中に響き渡る鬼の名を名乗りました。

「皇牙!轟雷鬼神・皇牙、ここに推・参!」

 言葉の一節ごとに、大仰に構えを取る様に皆は呆然としながらも目を離すことができません。怪我を押して京都からここまで駆け付けた、輝充郎の意志は驚嘆すべきものでしたが変化した鬼の生命力によってようやく痛みに耐えることができているのでしょう。本来ならば破壊衝動の塊となって暴走する、皇牙は常の輝充郎と些か性格が違っているようにも見えましたが、それでも理性が残されているのは皮肉にも怪我でその力が抑えられているせいであったのかもしれません。
 俺の敵はどこだ、と勇ましく問う雷獣の鬼神に塔子は心得た顔になると、葦矢萬斎の狙撃手が潜んでいるであろう方々を示します。卑劣にも武器を手に影に潜んでいる輩を正義の拳で打ち倒して欲しい。その言葉にいきり立った戦士は再び二輪車を駆って爆音とともに垂直に飛び上がると姿を消してしまいます。どうして二輪車で空が飛べるのだろうかと、些細な疑問に肩をすくめてから塔子はややわざとらしく演出気味に腕を振ると仲間に見栄を切ってみせました。

「皇牙に続け!願ってもない好機だ、全員散開、決して一箇所に留まらないようにしろ!」
「了解!」

 吹雪をはじめとする皆の全身に、皇牙の勇気が乗り移ったかのように高揚感が満ちると一斉に駆け出します。勝利はすでに決まっている、問題は完全な勝利を得られるかどうかだ。塔子が言っていたその放言を、今ならば彼らは疑いもなく信じることができました。


 随分と稚拙な方法を選んだものだと、葦矢萬斎は嘲るように笑みを浮かべながら彼が率いる忠実な部下たちに学生たちを探してこれを始末するように伝えます。鴉取の娘以外は遠慮はいりません、殺してしまいなさいと丁寧な口調で言う彼が塔子や真琴の思惑に乗ったことを彼自身気が付いてはいませんが、そこにはもう一つの理由がありました。大義のためにはあらゆるものを利用する、葦矢萬斎の部下は決して一枚岩になることがなく戦力を集中するなどもとよりできる筈もありません。そして不可能だからこそ、彼自身も自分の意のままに動く部下だけでも集結させて動かそうとする発想に至ることはありませんでした。方々に散った学生たちを捕らえて泣き叫ぶ絶望に突き落とすべく、葦矢萬斎は彼の部下も方々に散らせて約束された朗報を待ちわびます。真琴の思惑は当たり、彼らは初めて先んじて仕掛けることができるでしょう。

「まったく。平和ボケしたこの国で、どこからあんな代物を手に入れてくるのやら」

 妖を手にかける生業に携わりながら、自身は未だジャーナリストになる望みを捨ててはいない吹雪は見晴らしのいい建物の屋上で身を屈めながらも、葦矢萬斎が配した狙撃手たちが長銃を手に薄霞の中に構えている姿を認めます。ことこの状況で、黒髪に碧眼の少年は自分が切り札であることを理解していました。ごく個人的な痛恨事があるとすれば、彼の傍らに彼が誰よりも貴重に思う少女の姿がなかったことでしょうか。
 高揚感など欠片もなく、反則にも等しいと吹雪は思っています。懐に収められている雲外の鏡、真実を映し出す神器は見晴るかす汝鳥に潜んでいる男たちの姿を正確に捉えていました。その数五人。慣れた手つきとは言えませんが、長銃を持つその手に迷いがあるようには見えず葦矢萬斎が特に信頼する、盲目的な部下たちを仕込んだ者たちなのでしょう。陰陽師とか宗教とか、自分たちが人に傀儡の糸を結びやすい世界に生きていることを少年は知っていました。

 銃を手にしていれば間抜けにものろまにも人を殺すことはできる、ですがそれが必ずしも目標に命中するとは限りません。ことに屋外で距離を置いての狙撃ともなれば、静止した的に熟達した者が構えても当てることは至難の技となります。狙撃手がいる、そのこと自体が相手を脅すための威嚇であることは疑いありませんが銃口に狙われた中で万全の動きが難しくなることは道理であり、吹雪たちはこれを排除しなければなりません。
 手にしているもう一つの神器を少年は憎々しげに見つめます。これを指して七月宮の稲荷神は宝弓と呼び、神の分身はこすもるがーというふざけた名で呼んでいた、その品は一昔前の子供向けサイエンス・フィクション番組に登場する玩具めいた銃そのものでした。その姿にふさわしいふざけた電子音まで響く、そして何よりふざけているのは、命中したものを微塵に消し飛ばしてしまう神の技に相応しい威力です。

「酷い話だな。奴等には言い訳をすることもできない」

 学生を相手に銃口を向けて平然としている、狂信者が返り討ちにあったところで同情する声は少ないでしょう。吹雪は心から彼らを不憫に思います。神の宝弓は距離も風も重力も気にする必要はなく、ただ直線に向けた先にある目標を正確に撃ち抜くことができるでしょう。しかも自分は、それが正確に命中するか否かを神の鏡を手に知ることすらできるのです。なんということだろう、最強で最悪の組み合わせだと少年の顔を自嘲がよぎりました。抵抗するどころか自分に何が起きたのかを知ることすらできない相手を、皆を守るために俺は撃たなければならない。いや、言葉を飾っても仕方がない、殺さなければならない。
 屋上は風が強く薄霞の空は視界が良いとはいえず、それでも狙撃には何の障壁にもなりません。ためらいを振り払うように引き金にかけた指に力を入れると、次の瞬間には狙撃手がいたその場所は彼が立っていた床や壁ごときれいに切り取られて球形の虚無だけが残されていました。わずかに狙いが逸れて、転がり落ちた手首や足首に堪えがたい吐き気がこみ上げてきますが吹雪は懸命にそれを呑み込みます。自分にその資格がないことを少年は充分に理解しており、残る四人を消し飛ばすために雲外の鏡を手にしました。映し出されている自分の姿が、どうしようもなく醜く汚れたものであることがむしろ救いとなっています。

 最強で最悪の狙撃手が、嘔吐感に耐えながら葦矢の手管を一人ずつ消し飛ばしている間、塔子が懸念して真琴が無謀だと断言していた通り散開した彼らはそれぞれが危地に陥る可能性を抱え込んでもいます。高槻春菜は京汝鳥の一員である烏丸香奈について、京都からの支援が汝鳥に侵入する手筈の建物へと向かっていました。建築途上の一階は工務店の覆いによって周囲が囲われていて外から中が見えないようになっており、建物は外壁まで完工して窓にはガラスがはめこまれていましたが内装は施されておらずむき出しのコンクリートに覆われています。すでに侵入した幾人かの姿があり、地中の通信坑から姿を現すと香奈を相手に二言三言言葉を交わして市中へと消えていきました。後続する部隊が途切れ、人の気配が消えると周囲は不吉な静謐に満たされます。

「確かにここを抑えられる訳には、いかないけど」
「そうですね・・・でも二人だけで来たのは浅はかだったかもしれません」

 今更ながらに思います。ここが要所であるとして足を向けたことは彼女たちの明なるが故ですが、それが彼女たちを追う者にいらぬ情報を与えてしまったかもしれません。散開した彼女たちを葦矢萬斎の手の者が追っていて、京都からの支援が近付いていることも知っている。抑えるべきは封印の鍵である智巳と真琴の両名であろうが、でなければ京汝鳥と通じている香奈の存在も彼らを引き寄せてしまうのではないでしょうか。

「いけない。ここを離れましょう」

 春菜が言った次の瞬間、ガラスを突き破って一斉になだれ込んできたのは地蜘蛛の一団、一団と言ってなお数が多すぎる邪な集団でした。鈎爪に照り返す光を、剛毛の強張る様を、牙を滴り落ちる毒を少女たちは見たように思います。

「高槻様!お下がりになって!」

 両腕が複雑な印を結び、咄嗟に張られた香奈の結界陣が二人を囲うと勢いのままに飛びかかった地蜘蛛の身体が見えない壁に次々と激突して弾き返されます。爪が折れて牙が砕け、体液が飛び散ろうとも地蜘蛛は怯む素振りすら見せず、身体ごとぶつかった後ろから次の地蜘蛛が仲間の身体を踏み越えて押し寄せる泥流のように激突を繰り返しました。その度に、結界は激しく揺れて香奈の顔に怯みと焦りの色が浮かびます。
 春菜も香奈も自分たちの致命的な誤りにすぐに気が付いていました。結界を張る香奈の術士としての力が高いことは疑いもありませんが、東汝鳥の人々を知らぬ彼女であれば春菜の技も知らず連携を図ることもできません。結界に阻まれて春菜は戦うことすらできず、だからといって今更術を解けば押し寄せる波涛に身を守る術などないでしょう。香奈もそれが分かっているから結界を外す訳にはいきませんが、この状況ではそれも時間の問題でした。どうしようもない数を前にすぐに陣が破られれば、二人とも地蜘蛛の餌食となるしかなくもはや一人だけが逃げる道も救う道も残されてはいません。

(吹雪くん、ごめん・・・!)

 春菜が諦めかけた、その瞬間に黒いものが少女たちの眼前で弾けると横合いから威嚇する声がなだれ込んで地蜘蛛の囲いが突破されます。危ういところで京汝鳥からの部隊が駆け付ける姿を見ると、結界の少女たちは安堵の息を漏らしました。後悔も反省も尽きることはありませんが、今はそのような場合ではなく二人は顔を見合わせると小さく頷きます。香奈は彼らを案内して市内に送り込まねばならず、春菜はこれで戦況が変わることを塔子や真琴に知らせる必要がありました。崩れるように陣が消えて、少女たちは一人がその場に膝をついて一人が建物の外へと駆け出します。

 皆が散開する、そう言った塔子や真琴が封印のある大樹の根元と智巳の前を離れることができないことを、彼女たちは言明はしていませんが誰もが理解していました。あまりに無謀すぎる、雑な賭けであると言っていたのはまさにこの点であり、自分が葦矢萬斎であれば狂喜してここにすべての人員を集結させていたことでしょう。真琴は一人、刀握る智巳の前に立ち妹として兄に対峙していましたが、彼女にもこれを予期して時間を稼ぐための策が無かった訳ではありません。
 その真琴の目に先程から気になっていたのは兄の傍らにいる黒服の女です。歳は三十に達しているかどうかというところであろうか、美人に見えなくもないが女性の目には男好きのするきつめの顔立ちと挑発的な服装をしたあばずれの醜女にしか見えません。偏見を承知で、智巳さんはこんなタイプに弱いだろうかと考えた妹の耳に女が囁く声が流れてきました。

「あら困ったわねぇ、妹さん、洗脳されちゃってるわ。お師匠様に何かされたのかしらね」
「何だって!そうなのか、真琴、目を覚ますんだ!」

 成る程懐柔ではなく洗脳か。頭を抱えたくなるほど滑稽な事実が派手な額縁付きで真琴の前に突きつけられています。さぞ酷い目に合わされたのであろうと思えば同情したくもなりますが、真琴は妹として兄の情けない姿を容認する訳にはいきませんでした。正気に返りなさい、目を覚ますのはお前の方だという不毛な押し問答がしばらく繰り返されますが、そんなもので正気が戻る筈もないことは真琴にも理解できています。あまりの莫迦莫迦しさのせいか、兄の不幸に妹はいたって淡泊でありこの茶番が彼女たちに貴重な時間を稼がせてくれていることを承知していました。とはいえ、長く続ければこちらの思惑を見透かされてしまうことは明白であり、何か事態を変える手を考えなければなりません。しかも、より事態を膠着させるような状況が望ましい。
 葦矢の目論見は今では完全に読めています。真琴の手には兄が取り落とした霊刀備前長船が残されている。智巳に真琴を斬れる訳がなく、葛藤の末に兄を不名誉から救うため妹は兄を手にかけて、兄は大人しく妹の刃を受ける。それを鍵として封印は解かれて大厄は復活するということなのでしょう。無理のあるシナリオに思えますが実際に自分たちは葦矢萬斎の思惑に乗せられていましたし、真琴が拒否をすればそれを力ずくでも強行する策は考えられているでしょう。

 未だ事態は決定的ではなくそれでも優位は自分たちにあり、相手の思惑も読めている。だからといって侮ればすぐにでも穴に落ちる危ういところに真琴は立っています。ここは彼女自身が何とかするしかない、それを分かっているのか背後にいる塔子も一歩離れて見守っていますが、不意に真琴は苛立たしさを覚えました。まったく、何だって自分が不甲斐ない兄のためにこんな苦労をしなければならないのでしょうか。彼女の友人には優しい男性に思い悩んでいる少女もいるというのに、自分はふしだらな女に拐かされた兄の面倒を見なければならないとは。

「いい加減にしなさい!そんなことでは柚木先輩に嫌われますよ!」
「何故そこで私の名前が出る!」

 思わず背後から声が届き、多少、してやったりの顔を浮かべた真琴はすぐに表情を元に戻すと後ろを振り返りました。

「すみません。でも確かに智巳さん、動揺してます」

 ある分野に関しては塔子の弟子はすでに師匠を超えているのかもしれません。ですが冗談にしか聞こえない真琴の言葉には重要な意味がありました。それまで妹の姿しか目に入っていなかった智巳の視界に、今では真琴と塔子の二人が映っています。洗脳されている筈の妹が何故柚木先輩と一緒にいるのか、では自分の傍らにいる、自分を助けてくれたこの女性は誰だというのか。ささいな矛盾ですが智巳がそれに気が付いてしまった以上、すべては崩壊に至る川を流されていくしかありません。黒服の女が呼び続ける声も虚しく、智巳は頭を抱えてうずくまってしまうと矛盾に耐えきれなくなって、大きく叫ぶとすべてが弾け飛んで呟く声に理性が戻りました。

「真琴・・・真琴?僕は、いったい何をしていた」
「莫迦な、こんな下らないことで暗示が崩れるというの?」

 慌てたように身を返すと黒服の女は姿を消して、智巳は未だその場で頭を抱えています。

「あのー、ここで先輩が私のことを思い出してくれたのかって言ってくれたら完璧なんですが」
「断る。私だって女だ」

 憮然とした顔で塔子が呟きます。真琴がどこか疲れたような、呆れたような顔で大きく息をついたのが何に対してであったのかは彼女自身にも分かりませんでした。


 学生たちが走り出した途端に、綿密に構築されていた筈の策があちこちで綻び、崩れていく様を葦矢萬斎は信じられないという目で見ています。双子は奪還されて狙撃隊とは通信が途絶え、地蜘蛛は制御できぬままに襲撃をしては撃退されているという有り様で誰もが彼の完璧な計算に従おうとはしません。彼らは常識を知らぬ、有り得ないことだと呆然とする葦矢萬斎の耳に供馬尊の半身が打ち倒されたとの報が入りました。最も有り得ない、神様が子供に打倒されたという言葉に椅子を蹴倒すように立ち上がり叫びます。

「莫迦な!何故です、何故供馬尊が倒されるのですか!」

 半身とはいえ葦矢の家が封じることのできなかった大厄を、たかが学生如きが何故倒すことができるのか。遅れて届いた映像を見て葦矢萬斎は愕然とします。スクリーンの上ではたった二人の娘が、大厄を翻弄してこれを打ち倒していく姿が映し出されていました。二本の小太刀を手に神速で駆ける八神麗の動きと、人が鍛えた業刀を握る蓮葉朱陽の力に供馬尊はまるで力を振るうことができていません。

「行きます。私が囮ですよ」

 堂々と言い放つ、麗の姿がかき消えると降神の術と速駆けの技を合わせた神速の足が遠慮も容赦もない二本の小太刀が薄霞に閃きます。だが神速であれ動きは単純であり、供馬尊は刃の一閃を読むとわずかに身を翻してこれをかわしますが、すかさず振り下ろされた朱陽の業刀・播磨の一撃が阿吽の呼吸で襲いかかりました。力ずくでこれを弾くと、麗の第二閃が再び俊速で飛び込んでくる。そればかりではなく大厄が依り代としている筈の少女、トウカの身を供馬尊が御しきれていないことすらも葦矢萬斎の目には分かりました。有り得ない。有り得ない。有り得ない。呆然とする彼の前で、飛び込む麗の神速を遂にかわし切れないと悟った供馬尊は捨て身で拳を合わせると、全ての勢いを乗せた力が少女の小柄で華奢な身体を二つに折ります。

「八神ぃー!」

 崩れ落ちる少女の姿に、朱陽は怯むこともなくすでに技の姿勢に入っていました。巻き込むように打ち込まれる神木の太刀、供馬尊は最後の力を振り絞ってその刀身にも拳を合わせると、人の業で鍛えられた木刀が神との衝突に耐えきれず砕け飛びます。勝利を確信した、大厄が目にしたのは一撃を砕かれてなお回転する朱陽の手に握られている二本目の小太刀でした。

「こいつが!播磨の爺さんの業だァ!」

 人が削りだした神木の業刀、その一撃が遂に大厄に突き出されると不完全な魔人はトウカの依り代からも弾き出されて後には見るに耐えない半身、右腕と上体だけを持つ異人の姿が残されていました。有り得ない。有り得ない。有り得ない。悲願である筈の大厄が人の手で打ち倒される様を、葦矢萬斎は自分の目で見てもなお信じることができません。なぜこの連中は、たかが学生如きがこの状況でこれほど気楽に戦うことができるのか。抗い力を振るうことができるのか。決して理解することができぬ疑問に支配されたまま、呆然とする背後に人影が立っていることにすら葦矢は気が付くことができませんでした。黒い影は彼が聞いた覚えのある、艶やかな声を男の肩越しに投げ掛けます。

「まだ分からないのかしら?貴方の御先祖様程度が封じることのできなかった代物、それを大厄と称したのは貴方たちでしかない。誰も力弱い貴方の存在になど重きを置いてはいないのよ、それを認めなさい」

 敗者に蔑まれることは優越感を覚えても、嘲弄されることには慣れていない哀れな男は自分を嘲る声に振り向くと訝る顔を向けました。それが驚愕から畏れに変わるまで長い時を必要とはせず、すべては深淵に溶け込んで瓦解する己の夢想の中で葦矢萬斎は立ち尽くしています。
 塔子や真琴が推察した通り、葦矢萬斎は良くいえば深謀遠慮の人であっても臨機応変の者ではなく、穴が空いて崩れようとする堤防を押し止めることができず決壊を前に呆然とするしかありません。元来が一枚岩ではない、彼の部下たちは主君に倣い狼狽して為すことを知らずにいるか、或いは葦矢の悲願を見捨てて自らの才覚のみで生きる道を選ぼうとしているかの何れかでした。智巳の傍らを離れて逃げ出していた黒服の女もその限りではなく、かかとの高い靴で懸命に走っていましたが不意に現れた少女の人影が彼女の前を遮ります。

「どちらへ行くつもりですか」

 穏やかな、ですが剣呑な様子で立つ春菜の姿に黒服の女はごまかすように笑顔を浮かべますが、愛想良く近付くと握り締めた拳で打ちかかります。春菜は慌てるでもなく、捌くと同時に巻き込んだ脇の下から潜り込み、肘ごと折るように跳ね上げると固めたままの腕を外さず、女の身体は頭部から固い地面に落ちました。ぐしゃり、という音がして一瞬、春菜は顔をしかめますがそれは自分の業の罪深さに対してであったのか、その場に駆け戻ってきた少年に彼女の姿を見られた故であったのかは分かりません。

 大厄は打ち倒され、葦矢萬斎の目論見はすべて瓦解して汝鳥を覆っていた混迷も吹き払われていつの間にか日は中天を過ぎ穏やかな暖かさで周囲を包み込もうとしています。過ぎ去っていく風が薄霞をも散らしてしまい、傷つけられた市中のそこここは崩れて多くの人が自分の所業を忘れて立ち尽くしているか、災厄の中で思い返したように恐慌に浸っている者で溢れていました。これが常態を取り戻して復興するまでに幾ばくかの時が必要でしょうが、今はやることが多すぎて学生たちも市民たちも、荒れ狂う災厄が過ぎ去った傷跡を放置することしかできずにいます。
 その災厄の名は供馬尊であると葦矢萬斎は最後まで信じていたでしょうが、危難に立ち向かう者たちにとってそれが本当は人の業という名を持っていたことを知っていました。それこそが暴走して汝鳥に混迷をもたらしたものの正体であり、少年や少女たちが立ち向かい打ち倒したものの正体でもあります。そこに多くの犠牲が伴ったであろうことは彼らの心中に深く刻みつけられましたがともかくも澱んだ雲は吹き払われて、彼らの町は喧騒のままに慌ただしく回りはじめていました。

 倒れて呻く人々を警察や医療施設の者が助け起こし、あるいは収容して中にはすでに動かなくなった者や所在の知れない者も多くいて驚愕は汝鳥の町を超えてはるか方々まで伝わりましたが、如何なる者によってかその伝えは過少に抑えられて声を潜めて語られていた言葉も気が付けば誰も口の端に上らせないようになり、やがては不承不承に忘れ去られていくことになります。目を背けて耳を塞ぐ、それが古来よりごく少数の者たちを除く、妖怪異形に関わることのない人々が選んだ道でした。ごく少数の一員であった、かつては葦矢萬斎と呼ばれていた男がその心中にどのような彼だけの壮麗な絵を描いていたのか、その全貌は遂に明らかになることがありません。汝鳥の一画にある放棄された建物の奧で朽ちていた芸術家の骸と、少し離れた一画には放置された車椅子と崩れた土くれが見つかっただけでした。不満足と不服と後悔の中ですべてが終わり、ごく僅かな者だけが徒労感を胸にしながらも自分を納得させることができたのでしょうか。

「いえ、まだ終わっていないわね」

 それを呟いたのものがいます。影で蠢くものは未だ研ぎすまされた爪と毒の滴る牙を持って彼らの悲願で世界を満たすべく蠢動することを止めようとはしていません。黒幕なるもの、混沌の落とし子は予定されていた結末の中で、己が手に入れるべきものと利用すべきものの姿を脳裏に思い描いては歪んだ笑みを浮かべていました。


 少年の重い心が澱んで深淵に沈みながらも、時は忖度することなく流れて彼を置き去りにしていきます。冬真吹雪は剣呑な様子で傷ついた汝鳥に足を運びながら、吹き払われることのない澱んだ霞が心中を支配していることを自覚していました。理由は分かっており、空が晴れて冬雲が流れた筈の季節に少年の心は未だあの日と同じく澱んだ雲と薄霞によって覆い包まれているまま変わることがありません。一歩、踏み出して視線を巡らせればそこには丸く切り取られた建物の残骸と黒っぽいわずかな染みが残されているだけで、それが自分の罪であることを少年は自覚しています。雲が吹き去っていないのではなく、自分がそれを受け入れられずにいるだけだということを彼は知っていました。
 今でもこの場所を通りがかる度に堪えがたい吐き気がこみ上げて来ましたが、それでも吹雪は日参のようにここを訪れることを止めることができません。一箇所、二箇所、三箇所、四箇所、そして五箇所。どこも同じような有り様で少年は意識もせず胸元を手で押さえると重い足取りを運びます。吹雪の行動は人の知るところとなりましたが、自ら進んで深淵に向かう心を押し止めることは容易ではありません。日が落ちた汝鳥の端、丘陵を背にした質素で閑静な彼の部屋に戻ろうとする吹雪はふと、彼を待つ少女の姿があることに気が付きました。二本下げた黒髪が弱々しい風に揺られている、高槻春菜の表情が何を語ろうとしているのか、吹雪が心から蔑む神器の鏡に頼る必要などないでしょう。

「・・・よお、大丈夫か」

 流れる風よりも弱々しいその言葉に、春菜は何かを堪えるような顔を浮かべますが無言のままで、傍らを通り過ぎる少年の後を追って歩きます。彼らの家はごく近くですが、どちらの家に向かうでもなく人気の無い汝鳥の片隅に小さな足取りが二つ残されていくだけでした。

 本当に、なんて優しい人なんだろう。少年の葛藤を少女は傷ましいほどに理解していましたが、かけるべき言葉が浮かばずにいることを彼女はどれほど情けなく思っているかしれません。この場で必要なものが知性や経験であるのか、あるいは優しさや無垢な思いであるのかさえ春菜には分かりませんでした。優しさ?無垢?そんなものが自分にはもっとも欠けていることを少女は思い、つかえた胸を塞ごうとする異物はますます重く大きくなっています。神木が立つ境内にも人影は無いままで、どちらともなく足を踏み入れると汝鳥を見晴るかす大木だけが見守る下でようやく少年が口を開きました。

「あの時、そうしなければ誰かが死んでいた。それは分かっているんだ。武器を向けてきたのは連中さ、それが己の身を滅ぼしたのも奴ら自身が選んだ報いでしかない」

 吹雪の心は理解しようと努める心と納得できずに憤る心、是なるを認める心と罪なるを咎める心に挟まれてどこにも流れ出ることができず、黒く澱む流れがかたまりとなって少年の肺腑にこびりついています。流れ出る言葉は止まることがありませんが、それは自己糾弾にも自己憐憫にもなることができずやがて泥流が石となり凍り付いた鉄になればもはや溶かし去ることはできなくなるでしょう。ですがそれでも構わない、とすら少年の心は思います。

「仕方がない、分かっているんだ。だがあんなふざけた玩具で消し飛ばされるくらいだったら、いっそ俺が身を賭してでも斬り捨ててやるべきだったんじゃないか。後悔をする暇が無かったどころじゃない、言い訳をする暇が無かったどころじゃない。連中は何を気が付くこともないまま、次の瞬間にはこの世から消え去っていたんだ。墓を建てることも供養することもできない、俺に、誰にそんな権利があるというんだよ」

 人を斬る覚悟どころではなく、人を不条理に消し飛ばす権利などどのような人に認められるものでもない。どんな修羅の道であれ歩むことができると思っていた少年ですが、こんなものは修羅の道ですらありません。彼の傍らには尊い小さな手で血を流している少女がいるというのに、吹雪の手は血に汚れることすらありませんでした。何が神の弓だ、何が神の力だと、少年はおぞましい手を握り締めることすらできず視線を深淵の底に落とします。
 自らを苛んでいる少年を前に、春菜は彼女が貴重に思う優しい心を救うことができません。自らを鍛え、人に学び、苦難に対する力が人を一人救うことができないというのなら、そんな力にどれほどの意味があるというのでしょうか。どうしよう、どうしたらこの人に手を差し伸ばすことができるのだろうという切実な願いだけが少女の心中にこだましていました。これだけ傷つきながら、その少年が自分を見て最初に言った言葉は大丈夫かと、この期に及んで自分を心配してくれている。何が大丈夫なものか、大丈夫じゃないのは貴方じゃないか。

(無理を、しないで・・・!)

 その言葉が、春菜の心に響きます。そうだ、あの時、白銀に覆われた夜に少年は同じ言葉を伝えてくれた。私たちは同じ、抗いながら弱い翼で羽ばたくちっぽけな人でしかないけれど、あの時、吹雪がしてくれたことを彼女は思い出すことができます。春菜は少しためらいがちに手を伸ばすと、吹雪の手を取って優しく抱えるようにその身を引き寄せました。額を押しつけるように、頭を預けた少年はすがるような仕草で少女の両肩を掴むと小さな嗚咽の声を漏らします。
 韜晦しながらも菩薩の心を捨てることがない少年を、罪深い道に誘ったのは春菜の業であるかもしれません。自ら選んでその道に踏み込み、人の力すら用いず人を殺めたのは吹雪の咎であるかもしれません。ですが、彼らは血泥に汚れた身を嘆きながらも人の尊さと美しさを忘れることだけはない筈です。腰を下ろす場所とてない泥土の道で、彼らの傍らに何よりも貴重なものがあることを、互いが教えてくれるのですから。

「言い訳なんてできない。酷いと思う、罪深いと思う。でも、その道を歩いてくれる貴方は、少なくとも私にかけがえのないものを与えてくれるのよ」

 彼らの足が泥土から抜けることはないのかもしれません。ですが、泥に浸されたぬかるみにもたった一つのレンガを敷いていけば、いつかは人が歩むことのできる道が生まれるでしょう。泥中に足を踏み入れる少年と少女は、敷かれたレンガの道を歩む人々がそれ以前のぬかるみなど知らずにいることをこそ望みます。そして冷たく寒いぬかるみの中であっても、彼らが互いに握る手は暖かさを与えることができる筈でした。
 神木が見晴るかす境内には小さな二つの姿しか見えず、空に帳が降りる頃には吹き抜ける風が少年の心に残る冬雲の残滓と薄霞を流し去ってくれるでしょうか。銀色の月でさえも枝木の天蓋に隠されてしまい、夜の安らぎの中で小さな心は決して凍えることがありませんでした。
他のお話を聞く