非常扉を開けるたびに.十二後1


 風にまたがって逢魔の青い街道を疾駆する、雷獣の鬼は彼が倒すべき邪な存在を獰猛な心に求めながらも、暴走して留まることがなく時に人の目に映りながら次の瞬間には雷光の如く過ぎ去って行きました。その姿は多くの目撃談と多くの無責任な伝説とを生み出しますが、どれも深刻なものではなく数多に存在する物語の中に埋もれてはやがて消えていくのでしょう。轟雷鬼神・皇牙を名乗る鬼は高揚して暴走する心のままに疾駆する風の彼方を貫いていましたが、心の奥底で自分が龍波輝充郎であったことを忘れていない、そのことには今が気が付いてはいません。
 街道を抜けて曲がりくねった山道を駆ける巨大な二輪車にまたがった、全身に硬質の鎧をまとう皇牙は暗闇を裂く閃光の速さに身を投じていましたが、唐突にそれを遮ったのは一人の女の姿です。路上の正面に堂々と、激突すら意に介する風もなく立っていた女を寸ででかわした鬼は爆音と煙を立ち上らせながら車体を横なぎに制動すると、数日ぶりに駿馬が駆ける足を止めました。両手を腰に回していた女は肩越しに振り向いて、傍らを行き過ぎた鬼にゆっくりと向き直ると挑発的な視線を投げ掛けます。

「皇牙よ。貴様が正気であろうがなかろうが、妾の知ったことではない」

 女は轟雷鬼神・皇牙を前にして些かも動じるところがなく、旧知の鬼の姿を見やりました。恐らくは深手を負ったのであろう、皇牙は彼女が知る本来の姿に比べると遥かに力を弱めてはいましたが、そのせいでもあるのか暴走する鬼の心の底に人の理性が残されていることを鋭く見てとります。それは皇牙が鬼の力を人の手に渡しつつあるということであり、女には願ってもないことでした。人の意志こそは最も侮るべからざる力であり、彼女には彼女に相応しい強き敵が必要でしたから。

「貴様に忠告をしておいてやろう。地蜘蛛の残党が蠢動しておる、このような場所で遊ぶ前に汝鳥へと帰るが良い。無論、信じるか信じないかは貴様の勝手じゃ」

 それだけを言うと魅呪姫は、かつての地蜘蛛の姫巫女はかき消えるように皇牙の前を去りました。残された鬼はかすかに残されている理性の中で、自分が疾駆した道を引き返さねばならないことを理解します。彼が戦うべき敵が蠢動している、彼が守るべきものを守るために、皇牙は汝鳥に戻らなければならない。轟雷鬼神・皇牙、それが彼の名前でした。


 気を使った素振りすらない、安物の果物を袋に詰め込んで蓮葉朱陽が見舞った病室では、八神麗が傷ついた身を寝台に横たえていましたが経過は順調でありその気になればじきに退院ができようとのことでした。大厄の魔人、供馬尊に抗してこれを打ち倒した少女たちはその一事だけで同業者たちの記憶と記録に残る俊傑でしたが、当人たちにその自覚はなく相変わらず気楽な退魔士見習いの学生であり病室暮らしに飽きた不平を語り合う程度の存在でしかありません。
 戦いの折りに腹を打ち抜かれていた麗の怪我は人が思うほどに軽いものではなく、施術は大規模なものでしたが危機はとうに去っています。快癒するまでろくなものが食べられないのが辛いわね、と心から嘆く麗に気の毒そうな視線を向けながら、朱陽は見舞いの品を物色すると賞味期限の近付いている、洋菓子をめざとく見つけ出して実に好意的に処分してやろうと言いました。

「腐らせるのも勿体ないからね。せっかくの見舞いの品に失礼ってもんさ」
「恨むわよ」

 先輩二人の軽口を耳に、傍らに座っていた高槻春菜が笑いを堪えています。少女が麗の日参する桜の神、コノハナノサクヤヒメノミコトの小さな社を引き継いでいるのは今に始まった話ではなく、おそらくは祭祀のことでも尋ねに訪れていたのでしょう。後輩の少女が将来、本気で神職につくかどうかは分かりませんが少なくとも真摯で生真面目な彼女であれば、小さな社を打ち捨てて寂れさせる心配だけは無さそうです。麗にしてみればすべての騒動が終わり、動かぬ身を横たえてこの際は療養も兼ねて心身を休めようというつもりでいましたが、正直なところ彼女の愛らしい後輩や友人たちが足しげく通ってくれなければ退屈に耐えかねていたかもしれません。

「蓮葉は今日も供馬尊の社に参拝してたの?」
「そんな真面目なもんじゃないさ、あんたらじゃあるまいし」

 本職の巫女である麗をからかうように手を振りながら、朱陽が戯けた顔を浮かべています。汝鳥を騒がせた大厄、供馬尊は彼女たちの手で打ち倒されると封印の地に合祀されて、そこには新たな社が建てられることになっていました。建物は途中ですが敷地は清められて祭祀の儀式までが済んでおり、形式的に注連縄で囲われている中央にはかつての大厄が大人しく鎮められています。

 かつて人の技がたどり着くべき一線を超えてしまった異人は海を渡り、汝鳥の地で異形として封印されるとそれが不完全であった故に解き放たれようとしましたが、時を経て再び打ち倒されると自分を制した者たちに敬意を表してその身の処遇を委ねます。煮るなり焼くなり好きにしろ、ということでしたが彼女たちの結論は、麗や朱陽たちの決断は不完全に封じられたものであれば完全に封じるのが良かろうとの言で一致します。それを聞けば葦矢萬斎、古き封印の不完全なるを嘆き復活と再封印を志して暴走した男は何を思ったことでしょうか。
 彼女たちにとって封じるとは神として祀るということであり、供馬尊の半身が眠っていたこの場所に残る半身を合わせて完全なる神として祀を捧げようということです。八百万神の国で新たな信仰が一つ増えたところで訝る者もなく、祭儀が行われると社を建てるべく今も工事が続いています。万事、満足とは言い難く不服すら述べていた供馬尊ですが麗と朱陽の両名にだけは敬服して従属する姿勢を崩すことはなく、病床の麗の分も社の建造を見張る少女の前で逃げようとも抗おうともすることはありません。

「私にも誇りはある。貴様らが願うのであれば、私も大人しくせざるを得まい」
「潔いね。そういうのは嫌いじゃないよ」

 神としての時間を受け入れようとしている、古い錬金の士と交わした言葉を朱陽は思い出しています。麗や春菜のように、自分がこの新しい社と新しい神を祀る者になろうとは彼女は夢にも思っていませんが、自ら打ち倒した相手とはいえ人に追われて流れ着いた国で封印された供馬尊を不遇に感じていたのも事実でした。人として生きた折りにも、海を渡り異人として扱われた折りにも、封印されて大厄と呼ばれた折りにも自分の望むことができずにいた境遇は彼にとってさぞ不服であったことでしょう。神であれ魔人であれ、人であれ己が満足するということは重要な筈でした。
 かつては真理を追究して錬金の技を磨いた人であったという供馬尊、祀られた神は社に収められる前に朱陽に重々しく、自分を打ち倒したもう一人の娘が癒えたら是非ここを訪れてくれと伝えると、一つだけ心掛かりがあるので聞いて欲しいと続けます。それは朱陽の武具である、白河の業で磨かれたという業刀・播磨のふたふりの刀。その一本は砕かれたとはいえ、神木の枝から削られ人の業で作り出された白木の太刀に討たれたとあっては錬金の士としては放置する訳にいきませんでした。万物の存在を極めて彼らが金と称する真理の物質をつくりあげる。それを志した供馬尊が人の削りだした木片に打ち抜かれたことは彼の興味を引いて止みません。

「お前が私を祀るのであれば、奉納するのは武具にしてもらおうか。私を討った、あの業刀を超える逸物を打つことができねば神としては具合が悪かろう」

 後に刀磨比古命、トマヒコノミコトと呼ばれることになる神は練達した人の技と武具を祝福する神として崇められることになり、中でも逸品とされる宝刀、白木の小太刀・播磨と対になる神刀・供馬は蓮葉の家で代々の女当主に伝えられていくことになりますがそれは別の話となります。

「それにしても神様も存外不便なものらしいね」
「私の立場で言及はできないけど、神にも色々な決まり事はあるのよ」

 人心地ついて思い返したように言う、朱陽の述懐を聞いて麗の顔には苦笑が浮かんでいました。神々の源は人の信仰にあり、信仰が失われれば七月宮の稲荷神のように祟り神になるか或いは消え去ってしまうだけでしょう。稲荷神が油揚げを奉納されて喜び犬の吠え声を聞けば力を失うように、八百万もある神々は彼らが本来あるべき存在に縛られていて人が思う程自由に振る舞うことはできないのです。錬金の士であった供馬尊が業刀に強い思いを抱いて祀られたというのであれば、業を鍛え祝福する神になったとして何ら不思議はありません。むしろ人であった彼の生涯を思えば相応しい道であるようにさえ思え、しばらくは気の毒な新しい神に付き合ってみるのも悪くないでしょう。

 さほど長くもない話と見舞いの言葉を交わし、幾つかの差し入れを「処分」した朱陽が病室を後にすると周囲には静けさが取り戻されてわずかに開いた窓から吹き込んでくる風が帳を揺らしています。麗は思い返したように、長らく待たせてしまった後輩に視線を転じると穏やかな顔を向けました。癒えたとはいえ弱ったせいでもあるのか、傷の周囲は今でも鈍い痛みを認めることがありしばらく上体を起こしていた姿勢が多少、無理を感じているようです。ですがもう少しだけ、彼女の愛らしい後輩と言葉を交わす程度は構わないでしょう。春菜が確かに日参する祭祀のことを尋ねに訪れていたのは事実ですが、それだけが理由ではないことも彼女は知っています。

「御免ね、待たせちゃって。でも、その顔を見ると悩みは大分晴れたのかな」
「そんなに顔に出てましたか?」
「まさか。そうだったらいいなと思っただけ」
「・・・先輩!」

 頬を染めて抗議する春菜に、堪えきれず麗は笑い出すとほとんど治りかけの鳩尾に鈍い痛みが滲みます。自業自得かな、と自分で思いながら後輩への非礼を詫びると、彼女が話してもよいと思えるだけの事柄に耳を傾けました。冬真吹雪、春菜が歩む道の傍らに立とうとする少年に申し訳なさを感じながら、握る手の暖かさに感謝を忘れることもできない。自分が貴重に思う相手に、自分と同じ罪を犯させることへの後悔が消えた訳ではなく、それでも少年の手を望む自分はどれほど傲慢なのかと春菜は今でも逡巡を乗り越えることができずにいます。真面目に過ぎる、気付かれない程度にごく小さくため息をついた麗はそう思いましたし、それは確かに春菜の美徳ではあるのかもしれません。

「でもね、君はもっと自分自身に素直になってもいいのよ」

 世の中には甘え上手な者もいればそれが致命的な下手な者もいる。意識しているかもしれないし無意識の産物かもしれませんが良い悪いの話ではなく、春菜のそれは些か彼女自身に窮屈だろうと思います。神職に仕える者が人に悪徳を勧める訳にはいきませんが、たった一年間の人生の先達は少女を崇拝する少年が知れば動揺すること疑いない、神事以外の知識をひけらかす誘惑を感じていました。

「女の子が女の子らしく振る舞うことは、時として君の想像以上に男の子を満足させることができるのよ。ためになる八神麗の格言、と言いたいところだけど詳しく教えちゃうと君の好きな人に怒られそうだから勘弁してね」


 神様について語っていた少女たちが悪徳について語ろうとしていた頃、それより決して深刻とは言えずとも行方の知れぬ鬼の所在に悩んでいる少年がいました。街路には日が差し込んでようやく、あるいは少しずつ汝鳥にも日常が取り戻されつつあり傷ついた町は修復されて人々は日々の営みを始めています。失われて戻らないものも多くありましたし、忘れることの叶わない記憶も少なくありませんが大厄にまつわる事件は公的には秘せられていましたし何よりも汝鳥の人々自身が不景気な過去を捨てて一歩でも歩みを進めるが正しかろうと考えていました。それはことなかれ主義、耳当たりの悪い話は聞きたくないという逃避でもありますが、存外人のたくましさの理由は都合のいい記憶力の悪さにある場合も少なくありません。
 それは汝鳥の学園でも同様で、新しく訪れる学年度を前にして学生たちも進級や卒業で彼らを取り巻く風景を変えながらも、馴染みのあった小さな世界に帰ってきたことに多くの者たちが安堵の息をついています。ごく近い過去の騒動から目を背けて、気楽に無責任に生きる者たちがあるいは最も強い者でありうるのでしょうか。日が暮れかかった学園には赤い光が濃い陰影を作り出していて、正面の玄関を背にした柚木塔子の目に一見、所在なげに校門近くをうろついている吹雪の姿が入りました。偶然を装っているかに見える少年はなおざりな挨拶を交わすと常の皮肉な調子で、ですがどこかわざとらしい言葉を投げ掛けます。

「おや先輩、随分遅いお帰りで」
「倶楽部の引き継ぎがあったからな。そう言う剣術研は来年は大丈夫なのか?」
「うちは暴君顧問が部長先生もやってますからね、大丈夫ともそうでないとも言えます」

 相変わらずの軽口に塔子は苦笑します。皮肉屋で通っている、冬真吹雪の性格は今更ですが韜晦してみせて存外に生真面目でもある少年は彼が自分で思っている程に心中を隠す術が巧みだった訳ではありません。少年の悩みも塔子には予想がついており彼が人の姿を嫌いながらも、それを打ち明ける相手に自分を探していたことも理解していました。

(いや、順番としては逆か。私を待っていて、彼が相談をしたい用件といえば一つしかあるまい)

 考えるまでもなくそれは龍波輝充郎のこと、轟雷鬼神・皇牙の行方だったでしょう。大厄の騒動を終えてからも彼らの前に輝充郎は帰ろうとする気配がなく、暴走するままに何処かを走り回っていてその姿を見せません。勇気にも強さにも欠けていない、吹雪が慕う輝充郎の存在が欠けていることは少年にとって汝鳥に未だ日常が取り戻されていない原因となっていました。剣術研究会とオカルト・ミステリー倶楽部、彼らの活動は二つに分かれていて時に競い合うこともありましたが双方の顧問を除けば概して手を取り合う関係にありオカミスでは塔子が、そして吹雪たちが所属する剣術研では輝充郎が部員たちを束ねる存在として顧問以上に頼られています。吹雪の不満は故ない話ではありません。
 学年度も末が近付いていて、塔子が部長を務めていたオカルト・ミステリー倶楽部では彼女の後を鴉取の兄である鷲塚智巳に継がせることがほぼ決まっている、その噂は吹雪の耳にも入っていました。かつては頼りないと思われていて、今でも頼りないと思われている少年ですがこの一年で成長をしていなかった訳ではなく未熟は誰であれ同じことです。それでも揶揄せずにはいられないのは、吹雪の性格というしかないでしょう。

「来年は鷲塚が部長様ですか。大丈夫ですかね?」
「彼ならできるとは思わない、だが彼ならできるようになるとは思っているよ」

 それは充分に賛辞と言ってよい言葉だったでしょう。剣の扱い方だけとはいえ、それを自ら叩き込んだ吹雪にしても塔子の評価に異論も異存もありません。鷲塚智巳は確かに未熟で愚直で弱い、だがそれらはいずれ彼が克服すれば美徳にもなりうることを吹雪は彼なりに評価しているつもりです。そして新部長とやらが一人で倶楽部を切り盛りする訳でもなく、頼りなさを補うだけの彼の真摯さは部員の助けを求めるに不足してはいません。
 ひとつ、少年は深い息をつきます。一人で倶楽部を切り盛りする訳ではないといえばそれは剣術研でも同様で、彼らもまたただ一人の部長先生を大多数の部員が無視、もとい支えることにより成り立っていました。適材に適所がいれば人は肩書きによらず安心することができる、そこまで考えて吹雪は彼が敬愛する半鬼の先輩の姿をどうしても思い返してしまいます。

「うちもいい加減、あの人がいないと部が動かなくて困りますよ」

 肩をすくめてみせる仕草が如何にもわざとらしく、あるいは当人が思っている以上に少年が龍波輝充郎を頼っているらしい様子が見てとれました。あれ以来、疾駆する二輪車を駆る皇牙は時折唐突に現れては行き過ぎたという噂が耳に届くばかりで、帰るどころか一所に留まる素振りすらありません。不思議とその噂が汝鳥の周辺から消え去ることはありませんでしたが、居所が掴めないという点で同じであれば吹雪のため息も無理のないことだったしょう。
 実のところ剣術研では暴君顧問と称されているネイ・リファールはその横暴にも関わらず人望が厚く、鴉鳥真琴や高槻春菜といった通称「お嬢様方」が些事に目に配っていることもあって倶楽部の運営に支障が出たことはありません。吹雪自身はといえば剣の実力では折り紙付きでも集団生活には致命的に向いていないと、自ら放言する有り様で部長先生以上に横暴かつ人望がないと自認することができました。

 冗談を交えた吹雪の評価はともかくとして、倶楽部としては剣術研の人材は決して不足していた訳ではありません。ですが少年が望んでいる皇牙の勇気と強さが彼らにはまだ必要であることは塔子も知っており、君が龍波の代わりをするつもりはないのか、とは問うだけ愚問というものでした。

「だが私も龍波がいないのは寂しいな。そろそろ傷も癒える頃だし、呼び戻すか」
「え?」

 輝充郎の名前を出したときに一瞬、塔子の表情が変わりましたがあまりに意外な申し出と、次の瞬間の出来事によって些末な事柄は吹雪の記憶から吹き飛んでしまいます。一度大きく深く息をつくと、これから見聞きすることは誰にも言うな、いいか、絶対に言うなよとしつこいほどに念を押した上で周囲に人の姿がないことを確認した塔子は背を伸ばして大きく息を吸いました。傾いた赤い光が学園を背に立つ二人を照らしています。
 多少、ためらう素振りを見せてから意を決した塔子は驚くほど少女らしい透き通った声を響かせると皇牙の名を呼んで、快い叫びは風に乗り汝鳥の遥かにまで遠く流れます。気難しく堅苦しい筈の、この人のいったいどこにこんな美しい声が潜んでいたというのでしょうか。呆然とした少年はこの時ばかりは彼らが呼ぼうとしていた筈の皇牙の存在を忘れていました。

「あの・・・先輩」
「何も言うな!そろそろ来る筈だ、轟雷鬼神・皇牙は彼を呼ぶ者の声を決して聞き逃しはしないからな」
「おおよ!呼んだかァー!」

 轟く叫びと爆音。気まずい静寂を切り裂いて、巨大な二輪車にまたがった巨大な鬼が現れると車体ごと垂直に飛び上がり、あろうことか派手な宙返りとともに地面に降り立ちます。どうして二輪車で空が飛べるのだろうかと、塔子たちの些細な疑問を気にした風もなく半妖の鬼、龍波輝充郎は力強い言葉で変化した彼の身中に響き渡る鬼の名を名乗りました。

「皇牙!轟雷鬼神・皇牙、ここに推・参!」

 言葉の一節ごとに、大仰に構える皇牙に塔子は勝手知ったる様子で旧知の友人に声をかけました。

「龍波、そろそろ学園に帰ってこないのか」
「誰だそれは!?俺は皇牙、轟雷鬼神・皇牙だ」

 その返答を予想していたのでしょう。見上げるような鬼を前にして塔子は動じる素振りもなく、ではその輝充郎に会うことがあったら彼に伝えて欲しいと呼び掛けます。自分が伝令のような扱いを受けていることに皇牙は釈然としていない様子を見せながらも、変化した鬼たるもの輝充郎の正体を人に知られる訳にはいきません。幸か不幸か、一連の事件で深い傷を負って力を弱めていた皇牙は鬼の姿であるにも関わらず、奥底には輝充郎の意思が眠っていてそれを忘れることはありませんでした。

「良かろう。それで、その龍波とやらに伝えたい言葉とは何だ」
「そうだな。ヒーローの一番恰好良い瞬間は変身するときだと私は思うのだが、君はどう思う?」
「何ィ!?」

 その言葉は皇牙の肺腑に突き刺さると全身を凍り付かせます。彼自身は必殺技を極めた瞬間こそそれに相応しいと考えてはいましたが、皇牙が変神する場面もそれに劣らない魅力を持っているのは火を見るより明らかだったでしょう。ですが、彼が変神した皇牙の姿でいつづける限りその機会は永遠に訪れることがありません。それは皇牙の中の輝充郎にとって彼の半分が永遠に失われてしまうことを意味していました。皇牙の半分、輝充郎の意識が必要であることをこの時皇牙自身が認めたのです。

「うお!うおおおおおおォー!」

 解き放たれた心は絶叫となって鬼の姿からほとばしると高く強く天を突き上げます。長く、長く尾を引いた叫びが収まったときそこには変化が解けている見慣れた姿、龍波輝充郎が放心したように立ちつくしていました。自らの右手を見て、左手を見て、周囲に首を巡らし、何故自分がこの場にいるかを未だ理解できていない様子です。

「ここは・・・」
「ようやく目が覚めたか。傷の具合はどうだ」
「ん?ああ、すっかり元気なものさ。どうもここしばらくの記憶があやふやだが、それより腹が減って仕方ないぜ」
「付き合うぞ、久しぶりだしな」

 しばらく放心していたのでしょう。輝充郎と塔子に声をかけられてようやく我に返った吹雪は自分でも間抜けとしか言い様がない声を上げると慌てて従いました。赤々とした光が長く伸びる三つの影をつくりだしている、校舎へと続くその陰影を見やりながら吹雪は心の中で呟いています。なあ鷲塚。お前さん苦労するぜ、と。

 輝充郎の旺盛な食欲を満足させる場所となれば気の利いた店など望むべくもなかったでしょう。三杯目となる山盛りのカレーライスを平らげる姿に吹雪はそれでこそ先輩らしいと見惚れています。幼いと言われるかもしれませんが、少年もヒーローに憧れていない訳ではなく輝充郎の裏表がない勇気と強さは彼の憧憬となっていました。あるいはそれは、病弱で弱かった幼い頃の自分に対する反動であったのかもしれませんが飲み干したコップを置く軽い音がテーブルに響き、水差しに伸びた手が冷水を注ぎ足します。
 周囲を感嘆させるように深皿を積み上げていきながら、輝充郎は自分が大厄を封じる戦いに間に合わなかったことを心から悔しがっていましたが、彼が身を挺して仲間を守ったからこそ皆も戦うことができた、それも疑いのない事実でしょう。是と非を問うのではなく彼らが京都で襲われたとき、もしも輝充郎がいなければ倒れた者の数は片手では足りなかったでしょうから。

「実際、あそこで戦力が温存できていなかったらと思うとぞっとしますね」

 ようやく唐揚げ入りのカレーを平らげて、吹雪が行儀悪くスプーンの先を向けています。自分を含めて礼儀に気を使うような間柄ではありませんが男女三人カレーショップとは如何にも色気がない。とはいえまごうかたなきお嬢様の春菜であっても、こうした店に違和感も抵抗も感じまいと些か唐突に考えていた吹雪は自分を呼ぶ声に気付きます。一瞬以上、意識が逸れていたようで輝充郎が興味深げな視線を向けていました。

「どうも京都から様子が変わったな。何かいいことでもあったのかよ」

 ああそうだ、こういうところも元に戻ったということかと吹雪は心の中で肩をすくめます。この分なら間違いなく、春菜といるところを見られたら更に何か言われるだろう。正直なところ自分が時として隙が多くなる人間だということは吹雪にも自覚がありましたし、だがまあいいかと自分を納得させている吹雪の向かいで四杯目の深皿を片付けた輝充郎はようやく旺盛な食欲を落ち着けたようでした。何しろ、彼自身の記憶が曖昧とはいえ数ヶ月ぶりの人の食事であるのです。
 それよりちと真面目な話がしたい、と改まって切り出した輝充郎は相変わらず自分が皇牙でいた間の記憶が曖昧なままでしたが、その中で地蜘蛛の残党が蠢動しているとの警告を魅呪姫に受けていたことを思い出していました。汝鳥に帰るがよい。その言葉が心のどこかに引っかかっていたのでしょう、皇牙が暴走しながらも汝鳥の周辺から決して離れることがなかった理由もそこにありました。視線を流し、指先を顎に当てるような仕草を見せて塔子が呟きます。

「魅呪姫・・・あの地蜘蛛の姫巫女か」
「奴らも利用されていたクチらしい。色々あるんだろうさ」

 地蜘蛛の名を聞いて吹雪は太い眉をわずかに寄せました。大厄の騒動の折り、春菜たちが地蜘蛛に襲われたことを思い返すと今でも少年は口の中に苦みを感じずにはいられません。無事だったから良いという話ではなく、あの時、自分が彼女の傍らにいなかったことを少年は心から悔やんでいました。別に四六時中、ある種の変質者のようにつきまとうというのでもありませんが、彼女が本当に必要とするときに自分がいることができなくてどうするというのでしょうか。
 事件の後で、あれだけいた地蜘蛛は姿を消しておりその行方を掴むことすらできずにいます。ですが潜伏したらしい彼らがもしも再びことを起こすのならば、それは騒動が一段落して人々が気を緩めたときが好機となるに違いありません。しばらくは彼が貴重に思う少女の傍らに、なるべくついていた方が良いと吹雪は思います。彼女のヒーローになる、少年ならずともそれが叶えばどれほど誇らしいことでしょうか。


 それからも数日は平穏な日々が続いており、戻るべき人が戻るようになって学園ではつい先日の騒動すら何も無かったかのように変わらぬ時が流れています。オカルト・ミステリー倶楽部では正式に鷲塚智巳が次期部長職を引き受けることになりましたが、彼がそれを受けたのは寧ろ事件で何もできなかった不甲斐ない自分を変えたいと思ったからこそでしょう。いかにも智巳らしいと思いながら、霊刀備前長船を前に太刀握ることを決意した頃の智巳も拙いながら自らを変えたいと思い、成長させることができた筈です。人に遅れながらも歩みを続けていればいつか必ず追いつき追い越すことができる、今は亀の歩みでも仕方がありません。

「だが世の中には期限を設けられている事柄もある。悠長に構えられては困るがな」
「きっと大丈夫ですよ。智巳さんは先輩の言うことには全力以上で取り組みますから」

 真琴の言葉に塔子は不本意そうな顔を隠しませんでしたが、どういう意味だと問い返しても無駄であることを知っています。まったく色恋沙汰となれば塔子にしたところで大した家言を持っている訳ではなく、後輩にからかわれて受け流す度量に欠けていることを自分の未熟と認めるしかありません。せめて真琴の兄である智巳が、色恋の対象としていま一歩頼れる存在になってくれればと思いますが、残念なことにそれが叶うとしても時計の針を未来に進めなければならないでしょう。

「それより。君を呼んだのはこんな話をするためではない」

 強引に話題を戻します。ここ数日、塔子は学園を出る時間が遅くなっていましたがもうすぐ年度が終わり新しい体制が始まる前に考えておくべき事柄が多くありました。本来、大厄の騒動がなければもう少し整然として方針を考えることもできたでしょうがそれを嘆いても仕方がありません。後輩たちに明言はしていませんでしたが、塔子は三年次には倶楽部はもちろん異形妖怪に対する活動からも一切身を引いてしまうつもりであり、彼らと会う機会も少なくなるだろうと考えています。進学がどうというのではなく、もとより心身を弱めていた彼女にこの一年の激務はもはや限界に近付いており、数ヶ月は静養せねば心身どころか身命に関わりかねないという状態でした。

「剣術研は引き続き顧問が部長を兼ねることになったのか?」
「どうなんでしょう。先生は何も言いませんけど」

 何も言わないというより何も考えていないだけではないか、と思わなくもありません。実のところ、何を考えているか容易に掴みがたいというのはネイに限らず両顧問に共通した悪弊であり、そこは自分と輝充郎が何とかせねばなるまいと塔子は考えています。それより彼女が思っているのは鴉取真琴に剣術研究会を、いや、オカルト・ミステリー倶楽部を含めた妖怪バスター活動の全体を統率して欲しいということでした。

「私が、ですか?」
「意外とは言わさないぞ。もともと私はそのつもりで君に教えていたのだからな」

 妖怪バスター予備軍である、両倶楽部の活動は完全に分離し独立している訳ではなく互いに連携が欠かせません。その点は顧問の二人も心得ている一方で、敢えて互いに競い合って譲らぬ彼らに振り回されずに皆を導く者が必要でした。今の時点で、智巳にそこまでを求めることは無理難題に過ぎるでしょう。塔子の言う通り、真琴も自分が呼び出されていた理由を薄々以上に感づいてはいましたがそれでも聞き返さずにはいられませんでした。

「でも私なんかより春菜ちゃん・・・高槻さんとか部長に向いた人はいるんじゃないですか」
「そうだな、では逆に聞こう。例えば冬真が剣術研の部長になるとしたら、君はどう思う?」

 一瞬、真琴は不意をつかれたような顔をします。何故ここに唐突に吹雪の名が出てくるのか、それでも真面目に考えてみれば冬真吹雪であれば剣の実力でも冷静な判断力でも充分にその責を果たすことはできるでしょう。本人は似合わないとか人望がないと韜晦するかもしれませんが、誰でも完璧はなく経験に学び成長するのは誰であれ同じ筈です。

「でも冬真君は優しいですからいざという時、迷いが出るかもしれませんね」
「ああ、そうだな。だがそれなら高槻も同じだ、まったく気の毒なくらいに彼らは似ている」

 塔子の言葉に真琴も得心します。どこか心にひっかからなくもありませんが、彼らの真摯な優しさは人を率いるには理想を求めすぎてしまうでしょう。知性であれ、性格であれ、本性であれ、もう少し人が悪くなければ人を導くことはできそうにありません。ですが自分で自分の思考を理解はしながらも、真琴はその論理が不本意な結論に誘導されているように思えて愉快になれませんでした。気が付けば塔子が思いきり人の悪い表情を浮かべているのが分かります。それこそ、人を導くのに充分な程の人の悪さを。

「夢見る少女よりも現実的な女の方が向いている、そういうことだ」
「先輩、すごく酷いことを言ってるって気が付いてますか?」
「もちろんだ。いつぞやの意趣返しだからな」

 堪えきれずに吹き出すと、塔子も真琴も暫く笑いが収まるまで時間がかかりました。傾いた日はとうに沈んでいましたが、本格的な春になれば昇る日の時間は長くなって明るい季節が訪れることでしょう。


 貴族ならぬジョン・ブルであれ思索には一杯の紅茶と一皿のスコーンを伴うに限る。ウォレス・G・ラインバーグは人気が少なくなっている教員室でそう思います。同僚の先生方もほとんどは帰宅したかその支度を始めており、日はとうに沈んで午後の茶には遅すぎる一服を終えたら後は乱雑な机を放り出して帰ろうかと考えていました。

「それにしても、来年はちと戦力が落ちちまいマスね」

 動乱の翌年とはそのようなものである、それは承知の上でしたが三年生は卒業して二年生も過半が退く様子であり、オカルト・ミステリー倶楽部も剣術研究会も春からの苦労が偲ばれるでしょう。例年であれば新しく進級した三年生がしばらく活動を続ける例もままありましたが、達成感が静養を求めたり逆に新たな進路を促すことは仕方がありません。ラインバーグが指導するオカミスも次期部長こそ決まってはいましたが、新入生を集める算段だけは今から考えておいた方が良さそうです。
 幸いというべきか、大厄の封印に関連して彼らは「業界」で名を売ることができました。上級生の幾人かが新たな進路を見つけたこともそれに起因していましたが、何れにせよ妖怪異形の退治という活動自体に従事している組織が少ないことを思えば、学園の名が知られたことは大きな意味があるでしょう。ラインバーグの耳にも越境入学を望む幾人かの声が入っていました。

「とすればウチのライバルはやはり小娘のとこデスね」

 剣術研究会、あそこの顧問であれば人さらいにも等しい方法で新入生刈りをしてもおかしくないでしょう。先んじるべく策を練る必要がありそうだとそこまで考えたところで英国人の耳に頓狂な声が届きます。ラインバーグの同僚、退出する前に窓を閉めようとしていたらしい一人の教員が何ものかに目を奪われたように窓外に身を乗り出していました。
 ありゃ何ですかねと指し示されて目を向けた先、校舎には巨大な垂れ幕が下げられており宵風になびく大布が月明かりを照り返しています。そこには大書されて一筆「祝!剣術研勝利」とだけ力強くはためいていました。顎が地面に落ちそうになる破廉恥の原因がどこの誰にあるか、ラインバーグには言われずとも分かります。

 こめかみを指で押さえながら、辛うじて理性を踏みとどまらせたラインバーグは考えます。確かに嘘は書いていない、嘘は書いていないがそもそも勝利って何よとか些末な点をあげつらってもまるで意味はありません。おそらくネイにすれば彼女らしい方法で無限の虚栄心を満足させたい一心なのでしょうが、明日登校する生徒たちと校長の顔は確かに見物でしょう。莫迦莫迦しいが宣伝効果は抜群かもしれない、だがオカミスでこれに対抗することは彼の美意識が許さない。
 余計な驚きで退室が最後になったラインバーグは教員室の戸締まりをすべて引き受ける羽目になり、やや不機嫌そうに校舎を出ると校門のあたりで彼が文句を言ってやりたい相手が満足げに腕を組んでいる姿を認めました。傍らには彼女の使い魔を自称するみなとそらに、表情を選ぶのに苦労しているらしい真琴の姿。英国人の葛藤など意に介した様子もなく、ヤンキー娘はいつもの偉そうな素振りを見せています。

「何だ今上がりか。それよりどうだ、我が剣術研の勝利を貴様も讃えたくなるだろう」
「あー、あー、あーのデスねぇ」

 もうどこから突っ込んでいいのか分からず、効果的な反撃の言葉が浮かばないことにラインバーグは敗北感を感じていましたがハッキリいってこんな勝負に勝ってはいけないと思います。辛うじて精神的な姿勢を立て直すとここは外堀から埋めるべきかと、そらに視線を向けてアナタのご主人さま、あれでいいんデスかと問いました。

「だってあれかけたの私だもん。ネイたんはアイデアは出すけどやるのはウサギ任せなのよね」

 平然と言い放つ言葉にラインバーグは信じてもいないカトリックの神に祈りを捧げたい気分になります。ここには野蛮なにおいがする、僅かな良識を求めるプロテスタントは笑いをかみ殺している真琴に部員としてはあれってどうデスかと、すがる藁を求めました。

「そうですよね。私はどうでしょうって言ったんですけどね」

 おおモルモンの神よ。その言葉以上にその口調とその表情がラインバーグから毒気を抜き去ってしまいます。それらしいことを言っているように聞こえて彼女もまた宣伝効果を期待していること、それが春からの新入生を当て込んでいること、しかも突拍子もないのはネイであって自分は引き回されているだけであること(これ重要)を主張していることは明らかでした。これはまずい、来年のオカミスすげーピンチデスとラインバーグは思います。この妹を相手にして新人部長の智巳では不利に過ぎるでしょう。自分の言葉を自分でも理解している黒髪の少女は、打ちのめされたラインバーグをこれ以上困らせるよりも遥かに重要な問題に話題を切り替えます。もともと彼女がここにいたのは二人の顧問を待つためでした。

「それより先生、龍波先輩からお話は聞いていますか?」
「ああ、ジグソの件デスよね」

 答える英国人が未だ精神的転倒を強いられていることに彼自身は気が付いていませんでしたが、いずれにせよ皇牙が聞いたという地蜘蛛の残党が蠢動しているという噂を聞き捨てておくわけにはいきません。上級生の幾人もが動けず、新入生は未だ入学してもおらず、しかも汝鳥は平穏で人々は警戒を緩めかけているこの状況が危険であることを彼らは充分に理解していました。これまでは柚木塔子が果たしていた、角笛吹きをこれからは真琴に頼ることになるのでしょう。

「しばらく皆を早めに帰らせた方がいいデスね。家が遠い冬真君やミス・高槻、それに最近オキツネ様の祠に行ってる子たちも夜遅いんでちと心配デス。アンタらも今日は一緒に帰るようにして下さいネ」

 紳士であれば娘三人それぞれを家まで送ると言うべきだったのでしょうが、どうにもそれを言い出せないことに自分もまだまだ未熟らしいと英国教師は心中苦笑します。もっとも、この三名であればラインバーグがいずとも誰に刃向かうことができようかと、可能な限り失礼なことを考えることで自分を慰めていました。


 銀の丸盆が中天に浮かび、始まったばかりの月夜が地上を狂気で照らそうとしています。かつて汝鳥の町に施されていた封印は、四方に大いなる社を祀ることによって互いが揺らぐことなくこれを抑えようというものでした。大厄が揺らいだ原因はそのうちの二つ、サクヤヒメの社が荒れるに任されていたことと七月宮の祠が寂れて放置されていたことに故があります。そして騒動を終えて汝鳥は平穏を取り戻し四方の社は祀られるようになって、大厄と呼ばれた封印も今では新たな社として五つの要の中心を抑えている、誰もがそう思っていました。
 その要の一つ、事の始まりの一つである七月宮の祠に足しげく通う多賀野瑠璃にしてからがそうであり、彼女は七月宮の稲荷神を祀るための日参をあれ以来欠かしたことはありません。日はとうに落ちて、汝鳥の端にある小さな祠に少女が一人遅い刻に参拝することに心配の目を向ける友人や親族もいましたが、三柱を宿し月夜に守られている彼女に手を出せようものなど人にも異形にもいる筈がありませんでした。

「まったく、よく真面目に続くわねえ」
「だって、当然でしょ」

 どこか呆れたように、幾本ものキツネの尾を振りながら自分を祀る者に呼びかけている七月宮稲荷の声に瑠璃は落ち着いた笑顔を返しています。いずれ正式に神職を継ぐつもりであり、今は収まっている祟り神をやがて正式に鎮めて自分はこの小さな祠を祀る者になろう、それが少女の望みでした。あまり知られていないことですが神職の資格を得るには正式な学業や資格を修める道もあり、瑠璃がその道を選ぶのであれば数年ほど汝鳥を離れることになるかもしれません。そういえば、同じように小さな桜の社を祀っている彼女の友人はどうするつもりだろうかと、編んだお下げを揺らしながら瑠璃は首を傾けます。誘ってみるのもいいかもしれないと、やや呑気に考えている少女の風景は穏やかな季節の到来を思わせるものでしたが嵐を伴う風は今一度の到来を予定しています。唐突に、少女の耳に流れ込むようにして奇妙な文言が聞こえてきました。

 空に雲が流れる 祠にはキツネ

 草が伸びれば虫が飛びまわる
 雑草くらい抜きやがれ

 腹が減ったのにお湯がない
 焼きそばが食いてえ イライラする

 自作の詩を吟じながら、緩やかな丘道を不機嫌そうに登る姿が視界に映りました。朝霞大介の傍らにはたどたどしい足運びが続く小さな恋歌、七月宮に似た小柄な少女の姿もあります。大介が剣呑な顔をしているのはいつものことでしたが、待ちわびていた相手に腰掛けた自分の祠から身を起こした稲荷神は、どこか嬉しそうな様子になると殊更挑発的に呼び掛けます。

「あーら、そろそろ来る頃だと思っていたわ。ようやくやる気が出たの?自信がついたの?それとも他に理由があるのかしら」
「理由なんざねーよ、腹が減ってイライラするだけだ」
「まったく、大介さまは優しいからねえ」

 二人の会話に噛み合ったものを感じない、にも関わらずすべての事情を承知しているかのようなやり取りに瑠璃は怪訝な顔をします。騒動が収まってなおこの期に及んで彼らは何をするつもりでいるのか。成長して、強くもなった瑠璃がまだまだ人の思いを見晴るかすに及ばないのはむしろ彼女らしいと七月宮は思いますが、少女が自分を祀るつもりでいるのであればそのまま誤解をさせておく訳にもいかないでしょう。

「瑠璃さまは気が付いていないわよね。私は依然として祟り神のまま、だけどそれが大人しくしている理由は何故だと思う?」
「それは・・・恋ちゃんが・・・?」

 言いかけた瑠璃の言葉に稲荷が首を振りました。神様をちゃん付けで呼ぶ、祟り神の七月宮がそれすらも許容しているのは確かに瑠璃の存在があるからです。まったく純粋な瑠璃の強さは神ですら驚嘆すべきものでしたが、それは彼女の器の大きさでしかなく注がれている酒の強さでしかありません。すなわち瑠璃が降ろした三柱の神、その力があるからこそ七月宮は恐縮して大人しくせざるを得ないだけなのです。
 少女の浅はかさを批判する声は確かにありましたが、瑠璃が三柱の神を降ろしたことは結果としてならば正解でした。大黒、弁天、毘沙門。これだけの力を前にすれば祟ろうが怒ろうがキツネの豊穣神如きに何ら手も足も出せよう筈がありません。神は自分よりも格が高い神を前にして戦うことも抗うこともできませんでした。だからこそ七月宮の祟りは避けられていましたが、もしも瑠璃が汝鳥を離れたり三柱を返納するようなことがあれば解き放たれた祟り神は今度こそ誰はばかることもなく人に仇を為そうとするでしょう。誰かが七月宮を鎮めることができなければ、瑠璃は七月宮どころか三柱の神々からさえ自由になることはできないのです。

「大介さまはそのことを知っているのよ。そして祟りが神の怒りであるならば、それを満足させる方法なんて決してありはしないわ」
「満足だァ?満足というならキツネじゃない。満足していないのは俺だ」

 キツネの戯れ言になど聞く耳を持たぬという風で、大介はそれまで担いでいた鉄パイプを勢いよく地面に突き立てます。それは武器ではなく体力に欠ける少年が祠までの道を登るために杖として使っていただけのものでした。彼が本気でことを決するつもりであれば、バリツの拳を置いて他に技はないでしょう。それが無謀な試みであれ、神である七月宮は自分に捧げられようとしている力を純粋に待ち望んで丁重に出迎えるつもりでいます。

「まあいいわ。それじゃあ恋歌、来なさい。八本尾のままじゃ大介さまには勝てないからね」
「は、はいですじゃー」

 稲荷神に言われるままに小さな恋歌が駆け寄って、七月宮の背に乗るとぽんという間抜けた音とともに九本目の尾に変わります。予想をしていた不愉快さに一層不愉快な顔を浮かべながらも、大介は神の力を戻したかに見える七月宮の姿に毒づいてみせました。

「やれやれ。やっぱりそういうことかよ、イライラするぜ」
「あら?勘違いがあるといけないから教えとくわね。この娘は決して私の分身じゃないんだから」

 九本尾を持つ豊穣神は語ります。もとは大妖である、ヤツトセと呼ばれていた八本尾のキツネこそが彼女の正体であり本来の姿でもありましたが遥か昔にこれを封じようとした人々が、七月恋歌という何も知らない幼い娘を人柱に捧げたのが事の発端でした。無垢な娘の霊格は大妖すら唖然とする程に高いものでしたが、身代を前に彼女がそれを受け入れた理由は他にあったのかもしれません。
 捧げられた恋歌の力はキツネの尾を九本に増やし、霊格は高まって七月宮は豊穣を司る神にさえなることができました。古来より九という数字は大きな意味を持つ、八本尾の大妖・ヤツトセは七月恋歌とあることによって九尾の豊穣神・七月宮となったのです。その名に七月が残されたということが大妖に勝る一本の尾の力を証明していました。

「七月宮はキツネと恋歌を合わせた神、そして九本尾がなぜ畏れられているか大介さまは知ってるかしら。人であれ獣であれ生きとし生けるものはどれほど技を極めても右で四手、左で四手の八本までしか扱うことができないのよ。だからヤツトセは八尾だったけれど九尾の神はそれに勝る、人の力が七月宮を超えることはありえないし大介さまが幾ら技を極めても九尾に勝てる筈がない」

 超速拳と呼ばれる、人の限界に挑む技のことは大介も聞いたことがありました。一呼吸の中で突きや蹴りであれば八本までしか放つことができず、極めるのであれば八本までしか掴むことができない。大介が人の限界を極めたとしても七月宮の九本尾はそれをすべて阻むことができるでしょう。八尾で大妖と呼ばれる、それを超えるからこそ七月宮は神とされていましたが神の口上を前にして、それでも大介は怯んだ様子もなければ常の表情から不敵な不機嫌さが消えることすらありません。神様が人に勝ることなど今更教えられるまでもない、ですが人はこれまでも神の怒りを鎮めてきた筈です。時に祈り、時に生け贄を捧げ、そして時には力ずくで。九本尾の神は美味な獲物を歓迎するかのように、赤い舌で唇をひとなめしました。

「その表情。神を前にして怯むことがない、本当に大介さまって素敵だわ」
「俺がお前を叩きのめせば、もっと素敵だ」
「あっははー!言ってくれるじゃないのさ」

 その叫びと同時に七月宮の尾が九方に広がり、咆吼とともに身を沈めた大介は獣の顎にも似た両手を自らの身体に巻き付けるように構えると、その姿勢のままで低く深く跳びました。地を這う踏み込みから獲物の寸前で高く伸び上がり、襲いかかる牙を思わせる腕が喉笛を咬み裂く寸前、交錯する金色の尾が致命の一撃を阻みます。その牙は群れ集う獣の如く、続けざまに左右に上下に現れると無慈悲な腕を伸ばしますが九本尾は難攻不落の陣と化して容易にこれを抜けることはできません。三柱を降ろした巫女が立ち会う前で、神と人が力を尽くして伝承の絵巻を描きました。

 その者、金色の神を鎮めるべく腕に獣を宿して飛びかからんとする。八門を破る牙を九字の壁が遮り獣は神の岸壁を乗り越えるあたわず。八門金鎖は八度変化して六十四の技となるも、気高き金色の神は揺るぐことなし。息を継ぐ暇もない激しい打ち合いが長く続く中で、彼らの儀式を見届ける瑠璃は大介の不利を認めざるを得ません。七月宮の守りは完全で破る糸口すら見えず、ただでさえ体力に劣る大介にとって無謀とも思える攻勢はすぐに勢いが衰えてやがて自ら力尽きるのも時間の問題だったでしょう。
 その時自分はどうするべきか、不思議なことに瑠璃はそれを考える気にはなれませんでした。不利を承知の筈で打ち合う大介の表情には未だ敗北を窺わせる素振りがなく、優位に立つ七月宮の顔も未だ勝利を確信した様子を見せてはいません。大介の顔にはありありと不満が見えましたがそれは神に及ばぬ無力からではなく、単に喧嘩の勝負が着かないもどかしさへの苛立ちでしかありませんでした。

「畜生!面倒臭ぇ、もうやめだやめだ」

 唐突に両腕をだらりと下ろす、大介の様子に気勢を削がれた七月宮は心から不服そうな顔をします。せっかくの戦い、せっかくの儀式をこんな中途半端な状態で終わらせてしまうつもりか。

「何よ大介さま、もう諦めちゃうの?」
「勘違いすんな。小細工はやめるっつー意味だ」

 そう言うとちょっと待ってろと、荒ぶる神に背を向けた大介は失ったエネルギーを補充すべく、放り置いていたザックに手を伸ばしておもむろにインスタント焼きそばの箱を取り出すと乱暴にばりばりとかじります。確かにこの男は神様を前にして遠慮も容赦もなく七月宮はもちろん、立ち会っている瑠璃も唖然とせざるを得ません。きちんとお湯を入れて食するのは忌々しい祟り神を鎮めた後のことであり、地面に唾を吐いてから自分の頬を必要以上に張りまくって気合いを入れ直した大介が、律儀に待っていた荒ぶる神に改めて向き直ると両の手のひらを開閉しました。

「こっからが本番だぜ、本当のバリツを見せてやる」

 その大介は構えるでもなく飛び掛かるでもなく、無造作に立ったままの姿勢で一歩を踏み出すと訝る七月宮に真っ直ぐ歩いて近寄ります。どういうつもりでいるのか、誰も理解できぬまま七月宮の九本尾が広がりますが無謀に見える少年は意に介した様子すらありません。金色の尾が獲物を目指して真っ直ぐ伸びますが、それが大介に届く寸前、まるで何かに気圧されたかのように一様にその動きを止めました。
 七月宮や瑠璃はもちろん、大介自身も気が付いてはいません。神には歴然たる弱点があり、それが自分に捧げられようとしているものである限り彼らはそれが何であるかを見極めずにはいられないのです。そうでなければ、神は人の供犠を受け入れることができなくなり存在する意味を失ってしまうでしょう。この男がいったい何をするつもりでいるのか、それを理解できない七月宮稲荷は大介の動きを阻むことができず難攻不落の九本尾は力を振るうことができません。

「さあ、いくぜ」

 ずかずかと目の前に立つ、大介は正面から神を見据えるとおもむろに両肩を掴みます。莫迦莫迦しいことに豊穣神の顔が赤らむと、きょとんとする七月宮に向けて思いきり背をそらした大介が力一杯、振り下ろした額を神様の額に打ちつけました。火花が飛ぶ程の頭突きにさしもの神も揺らぎますが、それ以上に言い様のない怒りがこみ上げてくることを七月宮は自覚します。不敵なのか鈍感なのか、神にすら理解できぬ大介は力強く言い放ちました。

「こいつが俺の、頭を使った戦いだ」
「面白い・・・あんた面白すぎるよ大介さまァ!」

 まったくこの男は、この男は!そう叫んだ七月宮の霊格が驚くほど高まるのを瑠璃は感じます。それがどれほど理不尽なものであれ、純粋な思いが捧げられて純粋な思いがそれに応えたことには変わりません。がっしりと大介の頭を掴んだ神はお返しに一撃、尾ではなく頭突きを打ちつけたのは最早礼儀というより彼女の意地だったでしょう。鈍い音に続いて七月恋花たるものの怒声が響きます。

「大介さま!あんたもう少しデリカシーってものを学びなさいよ!」

 そしてもう一撃。あるいは神に相応しくない反撃を受けた大介ですが、自分の一撃に二発返されたことを上等だと叫ぶと遠慮の無い一撃を見舞います。ごつ、ごつと聞くに耐えない音が響く度に、瑠璃は肩をすくませますがその一撃が確かに七月宮稲荷に捧げられて神が霊格を取り戻していることを三柱の巫女は呆れながらも認めずにはいられません。神と人が額を打ちつけ合う、こんな儀式は見たことも聞いたこともありませんでした。
 満月の下で遠慮も容赦もない神と人との打ち合いが一瞬、途切れると二人して目を逸らさぬまま離れてから今度は勢いよく走り込んで白河豆腐が砕け散ると思えるほどの一撃。天を割り地を揺るがす力に沈黙の数瞬が過ぎると遂に七月宮の身体がぐらりと傾いでそのまま仰向けにぱたりと倒れました。分かたれた大妖・ヤツトセと小さな少女はそれぞれ目を回しており、猛々しい人が遂に神を制した誇りに満足した大介が瑠璃ににやりと笑ってみせると男らしく前向きにどうと倒れます。吹きすぎた夜の風が葉を巻き上げていました。

 かくして儀式は成されて荒ぶる神は人の手というよりも人の頭が力ずくでこれを鎮めましたが、自ら三柱を降ろした苦労も苦悩も莫迦らしく思えて唖然とした瑠璃はそれでもこの莫迦莫迦しさこそが人の真摯な強さであることを知っています。祀りとは祭りであり、それを陽気に力強く克服できることはまさしく人の強さなのでしょう。ですが、それでも一言だけ彼女は呟かずにはいられませんでした。

「でもこれ、ぜったいバリツじゃないと思うの」

 自分は人になろう。彼女の足下で目を回している陽気な神と人の姿を目に映しながら、多賀野瑠璃はようやく彼女の氷雪が吹き過ぎた後の小さな芽を見つけた思いになりました。
他のお話を聞く