非常扉を開けるたびに.十二後2
影で蠢くものは研ぎすまされた爪と毒の滴る牙を持ち、彼らの悲願で世界を満たすべく蠢動することを止めようとはしていません。黒幕なるもの、混沌の落とし子は予定されていた結末の中で己が手に入れるべきものと利用すべきものの姿を脳裏に思い描いては歪んだ笑みを浮かべています。その背後には無数に立つ異形の兵士たちの姿が蠢いていましたが、それすらも彼女にとっては単なる道具でしかありませんでした。異形を率いるもの、彼女の存在を顧みることもなかった傲慢な姫巫女や、彼女の存在を軽んじて操れると信じていた愚かな男を今では彼女は心から嘲り笑うことができます。
時は来て世界は彼女が思うままに動かされる。すべては終わったのではなくこれから始まるのであり、その最初の歩みを踏み出すために地蜘蛛は貴重な手足となることでしょう。大厄の復活が如きに踊らされた、哀れな人間は疲弊して最早抗う術もあろうとは思われません。今は幻として浮かび上がっている、世界が彼女に平伏して死と腐敗と疫病の三柱が支配する姿は間もなく現実のものとなるでしょう。その時、人は畏れと絶望の意味を与えて彼女は「幻妖」の名を手にすることができる筈です。
◇
輝充郎の話を聞いてから、冬真吹雪が高槻春菜の傍らになるべくいようとしたことは単に漠然とした不安が原因でしかありません。少しずつ汝鳥に平穏が取り戻されていく中で、少女の傍らにいようとする少年の態度を揶揄する言葉もありましたがその時の吹雪は確かに好意や下心よりも不安と警戒心によって動かされていました。それは結果から都合良く評価される勘という類のものだったのかもしれませんし、忌まわしい雲外鏡が与えた真実を見た故であったのかもしれませんし、あるいは汝鳥の神々の功徳が吹雪や春菜にもたらされた故かもしれません。いずれにせよ、少年と少女が常の学園からの帰り道を並んで歩く、それにさえ漠然とした居心地の悪さを感じていたことは彼らにとって尋常ではありませんでした。人に安らぎを示す月は満月を過ぎて未だ数日しか経っていないにも関わらず、空は闇に遮られて祝福は汝鳥の地表に届かず夜は世界を温かく包むのではなく冷ややかに峻別しようとしていました。闇に属する者と、そうでない者とを。
「暗くなってきたわね・・・今日は月夜の筈なのに」
「嫌な空だな。こういう時は人の感覚より虫の知らせが正しいかもしれない」
汝鳥の学園から彼らの家まではさほど大きくない町を端から端まで歩いた向こうにあり、丘陵に沿った道は高槻の家をはじめとする旧家が構えられているに相応しく静かでこの時刻ともなれば人影すら見あたりません。街灯が照らす灯火も心には頼りなく、常の青ではなく不吉な黒い世界の下で少年と少女の足下に不穏な影を伸ばしています。付き従って離れない、その影ですら彼らに背き牙をむいて襲い掛かるときを窺っているかのようでした。不安を意図的に忘れようとするかのように、吹雪はすべてが終わったと信じる世界に残されていた棘を拾い上げようとします。
「それにしても、そもそも疑問はあったんだ。葦矢萬斎が大厄の復活を志したのは一族の悲願を果たすため。不完全な封印を解いて自分で封印する、そこまではいい」
ですがそれにしては術者としての葦矢萬斎の力が弱いことは腑に落ちない、雲外鏡に映し出されていた姿に吹雪が違和感を覚えたのはそこでした。良きにしろ悪しきにしろ人を従える力量はあったでしょうし策謀を練る優れた知恵もあった、術者としても強大とは言えずとも決して無為だった訳でもありません。だからといって封印を解く鍵が見つかったというただそれだけの理由によって、彼ほど知性に優れる者が封印を解いて且つ封じるという野心に容易に溺れるものなのでしょうか。或いは大厄の復活に自信を持っていたように、その封印を行う手管にも余程の自信があったのでしょうか。
思索が足取りを遅くしてしまうことは決して彼らの本意ではありません。ですが吹雪は春菜に対する好意は別にしても、彼女の知性と理性が思索の助けになることを知っています。一人ではまとまらぬ考えが人に語ることで光を見出すこともあり、彼女と話す時間を貴重に思うことは少年が少女と対立していた頃から変わりません。闇は一層深く、真摯に耳を傾けていた春菜は考え込む仕草で曲げた指を小さな唇に当てていました。
「ありうるとすれば、大厄を封じる術が既に彼の手の内にあったか」
「或いは、大厄を封じる術があると奴さんが思い込んでいただけか」
「それとも、誰かが彼にそう信じ込ませていたか」
そこまで呟いたところで、唐突に春菜は腕を掴まれると力一杯引き寄せられます。吹雪の胸に抱かれた少女の顔が朱に染まりかけますが、少年の表情も全身も緊張をはらんでいて春菜はすぐに危険を悟ると視線を周囲に転じました。いつの間にか、息苦しい黒色に塗りつぶされた闇がそのまま具象化したかのように、暗がりの先にあるのは一人の女と一人の男の姿、そしてその後ろにずらりと立ち並んでいる無数の異形の影でした。気が付けば前も、後ろも毒滴る地蜘蛛の兵に阻まれたことを二人は知らされます。如何に閑静な場所とはいえ、人影が絶えていた理由は人避けが行われていたからでありそれに気付かなかった迂闊さに吹雪は心の中で舌打ちしました。女と男の姿に射るような視線を向けて、それでもせいぜい不敵に見える調子で呼び掛けます。
「どっかで見た顔だな、あんたら。趣味の悪い冗談に付き合うほどこちとら暇じゃないんだがね」
「男の子はどうでもいいわね。黒髪お下げのお嬢さん、私は貴女を御招待に来たのよ」
視線の先で邪としか言い様のない笑みを浮かべている黒服の女の姿、その傍らに控えている葦矢萬斎の姿がどちらも当人である筈がありません。黒服の女は二度と立てぬ程に壊されたことを春菜自身が知っていましたし、まして葦矢萬斎は事件が終わって朽ちた姿が見つけ出されていた筈です。少年も少女も警戒する視線を一寸程も動かさず、探るようにして彼らの得物を収める袋を紐解きました。吹雪の大太刀は彼の意思と同じく日々研がれて鋭さに欠けることはなく、春菜の錫は社に返納されてごくありきたりな杖に替わっていましたが、少なくともそれが彼女の技を減じることはありません。人ならぬ地蜘蛛の支配者、人の姿を借りるものに少女が詰問するような声を上げます。
「あなた、何者ですか?」
意思のない葦矢萬斎の姿ではなく、黒服の女に向けて春菜が問うと異形を秘めた姿が醜く歪みました。やはりかりそめの姿は性に合わないと、歪みはますます醜く大きくなりそれまで葦矢萬斎であったものは顔を突き破る牙と剛毛が伸び、女もまた唇の端に牙が覗くと鋭角的な棘が黒髪の隙間や着乱れた服の方々から突き出して、彼らの背を割るように鋭い爪を持つ幾本もの脚が伸びてそれ自体が生き物であるかのように蠢きます。葦矢の面影を残したできそこないの地蜘蛛を従えて、人の姿になりかけた蜘蛛を思わせる異形の女は醜さと同時に決して触れてはならぬ艶やかさを見せていました。赤く長い舌が唇を舐めると自らの牙で血を流し、それが唇を赤く染めて毒々しく彩ります。
「なかなか上手く化けられたと思うんだけどねえ。分かるでしょう?私こそすべての黒幕、地蜘蛛を真に統べる者だということを」
「貴様・・・女郎、だな。先輩から聞いたことがある」
思い出したように吹雪が呟きます。地蜘蛛の一族は無数の兵士を一人の女が率いるのが常とされていましたが、ごく稀にそれとは異なる女が現れることがありました。それは唯一の女が倒れても群れが持続するためのシステムですが、その女を指して女郎といい地蜘蛛の女らしい強い力を誇る一方で群れの中では意味ある名を与えられず、それ故に女郎と称されます。
おそらく葦矢萬斎は彼自身の思惑の中で地蜘蛛を思うままに操っていたと考えており、それはある面では事実でしたが地蜘蛛にも彼らの言い分も望みもあったでしょう。女郎は葦矢の傍らにいた女を選ぶと彼女の中に潜み、瞬く間に地歩を確立すると主の腹心として振る舞いながらその篭絡をも図ります。面従腹背で従いながらも葦矢萬斎を焚き付けて大厄の復活を図らせる、それが潰えたことなど地蜘蛛の理想にとって大した問題ではありませんでした。
「あの男は地蜘蛛を利用しようとしていただけ、だから地蜘蛛も利用されることにしたのよ。実際彼の知識は大したものだったわ」
大いなる力があれば封印を揺るがすことができる、葦矢萬斎の思惑は封印の鍵である鴉取の双子が手に入らなかった場合の保険程度でしかなかったでしょう。ですが彼が持ちかけた大いなる力の存在は確かに女郎を強く惹き付けました。彼女は葦矢萬斎の部下であった黒服の女の中に潜むとやがて数多くの文献や伝承の隅に残されていた存在にたどり着きます。
「幻妖の伝承を知っているかしら?それは幻を極めた者の名前、人や妖だけではなく世界を惑わし地水火風すらも操る竜の力」
それこそ地蜘蛛が望む回天をもたらす力になるでしょう。幻妖は人と妖が融合して竜を生み落とした者の名として伝えられており、人の血と妖の血を祭壇に捧げることで力が得られるに違いない、それこそ葦矢萬斎の語る大いなる力であろうと女郎は考えました。であればその祭司はもちろん彼女であり、その力を手に入れた女郎は幻妖の名を得て大いなる存在となる筈です。彼女の思惑の中で地蜘蛛の指導者たる魅呪姫が半ば人の血を引いていたことは好都合であり、生け贄に相応しい素材と考えていましたが女郎に痛恨事があるとすれば大厄の解放が失敗したことではなく、魅呪姫に逃げられてその行方が知れなくなっていることでした。彼女が幻妖を手に入れるには人の血と妖の血を別に求めなければなりません。
地蜘蛛には、女郎には魅呪姫に代わる生け贄が必要でしたが葦矢萬斎が言っていた通り、汝鳥にはそれに相応しい候補が幾人でも残されているでしょう。そして女郎が選んだのは彼女の器を素手で倒してみせた少女の存在だったのです。どうせなら自分を打ち倒した女を自分の野心に捧げるのが面白い、と彼女は考えました。
「分かるでしょう?貴女は犯されて地蜘蛛の種を宿し、そして地蜘蛛の仔を孕むのよ」
「・・・聞き捨てならねーな」
血の色をした唇をことさら見せつけるように舐めまわす女郎の前に立ちはだかるように、感情を押し殺した吹雪が一歩を踏み出します。彼の貴重なものを奪おうとする輩を前にして、如何な菩薩でも慈愛の心が吹き飛ぶことがあるようでした。彼の毛の一本、爪の一枚、骨の一欠片が残らずすり潰されたとしても、女郎の望みが叶うことは決して有り得ないでしょう。
雲外鏡の力を借りるまでもありません。偉そうに演説をする女郎の言葉はしょせん魅呪姫を蹴落として自分が後がまに座りたいだけのものであり、回天も幻妖もそのための口実としてしか彼女の目に映ってはいませんでした。所詮は二番手であり口で言う程に彼女は大いなる存在ではない、ですが問題は彼らを囲っている無数の地蜘蛛の兵たちであり、この状況で吹雪や春菜が逃げ延びるために何ができるかということです。一度囲いを突破することが叶えば人避けの陣を超えて逃げることができるかもしれませんが、無謀に突貫した挙げ句に二人が分断されればそれまでです。ごく自然に、背中合わせに立った少年と少女が大刀と錫杖を構えると互いの髪だけが背中ごしに触れ合いました。ことさら余裕を見せるように吹雪が肩越しの声を放ります。
「なあ。これで帰ったら、春菜の写真を撮らせてくれないか」
「随分場違いな誘いね?」
「そうでもないさ。俺のモチベーションになる」
「そうね。私も吹雪くんに撮ってもらいたいな」
思わぬ言葉に心の底から高揚した、少年の目の前に最初に襲い掛かった地蜘蛛は不幸であったとしか言えません。その一太刀は吹雪自身が知る中でも彼の最高で最上の一撃となり、異形は自分が断ち切られたことすら気付くことがなく身体の右半分と左半分を二つに分けられていました。一瞬、怯んだ異形たちがただ二人を相手に一斉に襲い掛かると女郎はことさら嘲笑する言葉を投げ掛けます。
「あらあら残念、誰も助けに来ないのに。でもお前たち、娘は殺しちゃ駄目よ。手足はちぎっても子宮だけは残しておいてね」
地蜘蛛には余裕がありその数に限りはありません。それでもただ二人で四方を囲われておきながら、少年の大刀は地蜘蛛を両断して少女の錫杖はこれを突き倒します。僅かに一歩、間合いを深く踏み込めたものがいたとしても戦いに慣れた吹雪は必要とあらば蹴りを放ち太刀の柄で殴ることも厭わず、春菜の至近に立ち入ったものはより無慈悲な当て身で脚や頚部を正確に砕かれると崩れ落ちていきました。群がる地蜘蛛の肉体と倒れた地蜘蛛の肉体そのものが彼ら自身の妨げとなり、難攻不落の砦を陥とすまでどれほどの犠牲が出るか知れたものではありません。それでも、その犠牲を厭わぬ地蜘蛛に対して善戦奮闘にも限りがあると女郎は嘲笑と哄笑を続けていました。
吹雪も春菜も絶望もせず諦めてもいませんでしたが、状況を打開する手は必要であり戦いながら、守りながら互いに考えを巡らせています。地蜘蛛に弱点があるとすれば、未だ後ろに陣取っている女郎そのものであり司令塔を失えば彼らは混乱して上手く行けば瞬く間に瓦解してもおかしくないでしょう。吹雪は彼の懐に眠っている筈の忌まわしい神器、こすもるがーの存在を思います。神の宝弓であればこの距離でも地蜘蛛ごとまとめて消し飛ばせるかもしれず、少年がそう考えた一瞬、地蜘蛛の囲いが広がると視界の隅に女郎の姿が映りました。これぞ千載一遇の好機であり、吹雪は大刀を左に替えると懐の宝弓に手を伸ばしますが気配を察して声を上げたのは少年の背後に立つ少女です。
「駄目!誘いに乗らないで!」
「春菜!?」
振り向きかけた、その声が聞こえたときには既に手遅れでした。もともと女郎は宝弓の存在を知っていた筈であり、それまで彼らを囲いながらも決して吹雪の正面にだけは立とうとしていません。それは彼女がこの機を待っていたからに他ならず、吹雪がこすもるがーに持ち替えて女郎を狙った瞬間、視界の端にいる地蜘蛛の女に向き直った瞬間に少年の背が少女から離れるその機会を誘うためでした。
吹雪と春菜の絆を断ち切るように、身体ごと飛び込んだ地蜘蛛が少女の背後から組み付くと力任せに絞め上げられて小さな悲鳴を漏らした手から彼女の錫が離れます。自分の迂闊さに少年が後悔する暇もなく、捕らわれた少女は地蜘蛛の壁に遮られながら女郎の前に連れ行かれました。牙の先から液体を滴らせながら、春菜を抱え上げているのは未だ葦矢萬斎の面影を残している化け物の姿です。
宝弓を撃てば少女の身を巻き込むことは疑いありません。自分たちの力を信じず、安易に神の力に頼ろうとした挙げ句がこの有り様でした。歯咬みする視線の先で勝利を確信している地蜘蛛の女は兵たちを一歩下がらせると、遠巻きに少年を囲ませてことさら見せつけるように春菜の傍らで背を逸らします。すぐに襲い掛かり潰してしまうこともできたでしょうが、威勢のいい子供を心から絶望させる楽しみを味わうべく女郎は嗜虐的な笑みを浮かべていました。まったく、世界を統べて人を平伏させる者が勝利の確信に美酒を味わう、その快楽を止める理由はどこにもなかったでしょう。
「ようやく捕まえたわねえ」
少女の身体は羽交い締めにされながら軽々と抱えられて、両足が地から浮いており抵抗できる状態ではありません。それでも挑戦的な目を向けている生意気な顔を拳で思いきり殴りつけると、女郎の手が春菜の襟元に伸びて胸元まで上着を引き裂きます。頬骨のあたりに痣をつくり、白い肌が露になりながらそれでも少女は射抜くような視線を逸らそうともしていません。激発した吹雪が飛びかかろうとしますが、互いを隔てる距離が峡谷のようにそれを遮っていました。屈辱、悲嘆、絶望。それを欲する地蜘蛛の女は生意気な少女に向けていた笑みを少年へと向けなおします。
「可哀想だけど、この娘がどうなるか分かっているわね。この娘はこれからさんざん陵辱された後で地蜘蛛の種を孕み、産まれた仔に肉と骨まで喰い尽くされることになるわ。それを見届けるまで貴方を生かしておくかどうか、それだけが今の私の悩みなのよ」
自分で自分の言葉に陶酔する者の嗜虐的な哄笑が響きました。吹雪は魂まで血が上りそうになりますが、握り締めた拳が爪まで深く食い込ませながらも少年が逸らさずにいる視線の先には春菜の姿があり、交わされる少女の視線が畏れも怯みも見せていないことに気が付いてもいます。そうだ、この期に及んでも諦めてはいけないし春菜も諦めてはいない。頭を冷やせ。頭を冷やせ。頭を冷やせ。打開する手は尽きていない、春菜の目はそう語っているではないか。
地蜘蛛の弱点が女郎そのものである状況は変わらず、少女が捕まったことで勝利に慢心した地蜘蛛の女は幾つものミスを犯しています。回天の生け贄に欲する少女の身が手中にある限り、彼女の勝利は疑いがなく小癪な少年にそれを奪い返されないように女郎は一歩を吹雪の前に向けました。もしも女郎が直ちに勝利を確定させるのであれば地蜘蛛の全員を飛びかからせて吹雪を殺してしまうことであり、彼女の目的である春菜を早々に連れさらってしまうことです。愚かな虚栄心はそれに思い至らない、好機があるとすれば今この一瞬であり失敗は決して許されません。ですが春菜は言っていました。流れる血を厭わぬ修羅は自ら危地に踏み入る足を畏れず、それは犠牲に無感動な故ではなく暗闇を切り拓く一本の道を進む覚悟があってのこと。吹雪ならできる、高槻の踏み込みは伊達ではないのだと。
息を深く深く吐き出し、肺の底まで空にしてからゆっくりと背を伸ばした少年は相手に見せつけるかのように、彼の忌まわしいこすもるがーを目の前に差し出すと訝る女郎の足下に乱雑に放り捨てます。左に握っていた彼の大刀、それを信じることができなかった刀に詫びる思いを抱き、それすらも手放してがしゃりという音が地に響きました。もとより嘆願も命乞いも聞く耳を持つつもりはない、地蜘蛛の勝者は戦う術を捨てた剣士に向ける傲慢と不遜で肥大して膨れ上がっています。
「何のつもりかしら。降参しても貴方は殺されるだけなのよ」
「理由?決まっている、少しでも身を軽くするためだよ」
瞬間、吹雪の身体が深く沈むと女郎の視界から消えました。縮地とすら呼ばれる高槻の極意はその踏み込む足が力となる、腕を伸ばせば腕が、足を伸ばせば足が必殺の技になる。吹雪は彼が欠かすことなく日々鍛錬を繰り返して得た力としなやかさ、そして春菜に学んだ技と覚悟のすべてを乗せて一足に跳びました。彼が貴重に思う者の前にではなく、地蜘蛛を統べると信じる、世界を統べると信じる愚かな女に向かって。
「縮地、無刀流・・・武器なんざいらねえ!」
半瞬で互いの距離をゼロにまで縮めると、大太刀の間合いよりも深く至近に出現した吹雪は振り上げた右腕を彼が最も信頼する武器であるかのように振り下ろして女の首筋に叩きつけました。鈍い音がして女郎の首が一撃で砕け、少年と少女を除くすべての時が止まります。ただ一人の頭脳であり意思である指導者の肉体が崩れ落ち、自分を締め上げる戒めが弛んだ瞬間、春菜もごく僅かな空間に身を沈めると至近からの当て身だけで地蜘蛛の脚と肩を砕きました。彼女の体捌きは零距離でも相手を打ち抜く、心の中で感心と苦笑を同時に行うと吹雪は地蜘蛛が動揺して囲いが割れた、その先にある光を少女に指し示しました。
「走れ、春菜!」
「はい!」
答えると同時に地に転がる錫杖を拾い、吹雪の導に先んじた春菜が突き出した一撃で地蜘蛛の壁を打ち破ると迷わず少年が続きます。大太刀も宝弓もなく、右腕を抱えるように走る吹雪ですが腕の感覚は消えておらず痛みの中でそれでも少女を追う速度が落ちることはありません。大丈夫、折れてはいない。春菜のためなら腕一本くらい惜しくはないが、俺もそこまで莫迦じゃない。
(だって、腕がなければこいつを抱き締めることができないじゃないか)
地蜘蛛の人避けが無限に続く筈はなく、振り向きもせずに走る春菜の背を吹雪は一歩すら遅れることはなく続きます。少年が必ず自分の背にいることを少女は信じており、追いすがる地蜘蛛の牙や爪が彼らの背に降り懸かりますが春菜が拓く道を歩むことを吹雪は決してためらわず、彼女の背を守り顧みることはありません。遥か後ろにうずくまる女郎が統率を失わせているおかげで地蜘蛛の動きは鈍く、追いつかれてはいませんが少年と少女は長く続いた戦いの後の俊速に二人とも息が上がりかけていて限界が近いことを知っていました。
それでも全身が奏でている抗議の歌に吹雪は耳を塞ぎ、少年は彼を導いて走る少女の背に心の中で呟きます。大丈夫だ。最後まで、俺はお前を守ってみせる。誰に誓った?自分に誓った。右腕をぶら下げるように走りながら、それでも俺は決して負けはしない。お前がいる限り、俺は最強の戦士なんだから。
どれほど走ったか、少年と少女には永劫に感じられましたが決して長い時が経ってはいなかったでしょう。気が付けば地蜘蛛の叫びは彼らの背後からだけ聞こえており吹雪の足も春菜の真後ろではなく半歩ほど遅れて彼女の傍らに続いています。腕も脚も悲鳴を上げていて、肺と心臓が破れかけた様子で互いに声を上げることもできず、喘ぎながらも走る春菜が吹雪以上に苦しそうに見えることに少年は気が付いていました。彼らの足は彼らが思う以上におぼつかず、歩くよりはましという程度になっていて一度は離れていた背後の喧騒が少しずつ近付いていることが分かります。
大丈夫、このまま春菜が走れなくなったら、俺が彼女を抱えて走るからいい。そう考えた吹雪の目の前を遮るように幾つもの人影が現れます。その先頭に仁王立ちで白木の棍を担ぐ勇姿に、少年と少女の心が弛み泣くとも笑うともつかない表情が浮かびました。彼らの英雄は守るべき子供らに力強く拳を握って叫びます。
「良くやった!あとは妾に任せろ、ユナイテッド・ハンマァーッ!」
その声と同時に、ネイの手を離れた巨大な棍が回転して飛来すると屈み込むように膝をついた二人の頭上を通り過ぎて、追いすがっていた地蜘蛛の数体以上を一撃で吹き飛ばしました。こっちに当たったらどうするつもりだったんだろうと、今更のように吹雪は思いますが暴君顧問の正義の槌が彼女の子供たちを傷つけることが決してないことを彼らは知っています。学園の仲間たちが現れて騎兵隊が襲撃者を蹴散らし、見知った顔が心配する視線を向けている中で吹雪は不平を言う全身に感謝と謝罪の声をかけていました。よく頑張ってくれた、何とか、彼の貴重なものを守ることができた、と。
◇
首を砕かれて女郎はまだ生きています。呆然として、自分の手からこぼれ落ちた勝利と掴まされた屈辱を信じることができず呻くような声が漏れました。地蜘蛛の支配者、回天を望み幻妖の力を迎える自分がたかが人間如きに出し抜かれた、その事実を彼女は認めることができません。
「いい姿じゃな」
背後からかけられた声に、振り向いた女郎はいつの間にか現れていた魅呪姫の姿を見て愕然とします。それは本当に魅呪姫か、と思う程で喰われた筈の四肢は彼女に忠節を誓った四体の地蜘蛛が身代となり、汚らわしい人の血が混じる彼女の身は誇り高い戦士の肉で補われて、その指には娘の爪ではなく毒ある牙が伸びていました。ですが女郎を怯ませたのは失われた身を備えて現れた魅呪姫の姿にではなく、圧倒的としか思えぬ、尋常ではない秘めたる力の強さにあります。それは妖を超えてもはや大妖というしかなく、戦うでも逃げるでもなく女郎にはただ平伏して命乞いをするしかできませんでした。彼女が魅呪姫をどう考えていたか、ごく近い記憶はきれいに忘れ去られておりその心中には恐れとへつらいしかありません。哀れな姿を見下ろしながら、人と妖の血を持つ異形は嘲るではなくどこか突き放した様子で呟きます。
「ふん、これが妖の限界か。己より強きものには平伏するしかできぬと見えるわ」
彼女が思う、葦矢萬斎は確かに術者としては力が弱かったかもしれず用いた策は破られて無様に滅びたかもしれませんが、それでも彼は弱き人の身で彼が使える手管のすべてを駆使して戦い、己の血が覚える屈辱を果たそうとしていました。それは目の前ではいつくばるしかできずにいる、哀れな虫よりも余程真摯で高貴な振る舞いだったのではないでしょうか。
魅呪姫はこの汝鳥で、人が妖どころか神にさえも平然と抗いこれを倒すことすらある様を存分に見せつけられています。成る程この世界が人の世界である道理だ、神にも妖にもできぬことを人だけが行うことができる。そして自分にはその汚らわしい人の血が流れているのだ。愚者の幻を現実のものと化す、それは愚者でなければ決して望むことすら叶いません。
「やはり地蜘蛛を回天に導くのは妾しかおらぬな。のう、下郎よ」
「は、はい」
「消えてなくなれ」
◇
黒雲は流れて月光はその地位を取り戻しつつあり、視線の先で、かつては部下であった地蜘蛛の兵たちが無様に蹴散らされていく様子を魅呪姫は悠然として眺めています。彼女の地位を狙った愚かな女はこの程度の策に多くの兵を費やしていたのでしょう。大厄の混乱の中で彼らが失っていた損失は決して小さなものではなく、加えて此度の失態で地蜘蛛衆は壊滅に近い傷を受けてしばらくは立ち直れそうにありません。ですが彼女には最も信頼する四体の地蜘蛛の戦士が残されていることを知っていました。
結末の知れた戦いが予想通りの結末に至るのを待ち、傷つき動けずにいる少年と少女のまわりに皆が集まるのを見てとると魅呪姫はそれが当然のように姿を現します。驚く、あるいは訝る声にも視線にも気にした様子はなく魅呪姫は彼女が知る鬼神、皇牙の姿を認めました。人の血を持つ鬼はとうに人の理性を取り戻しているらしく、彼女の警告を思い出して感謝とも疑問ともつかない視線を向けています。魅呪姫が満足しているのは彼らが助かったが故ではなく、彼女の不名誉が晴らされた故である筈でした。
「どうやら、そやつらも無事だったようじゃな」
「何故だ?何故俺たちを助けようと思った」
それと同じ言葉を魅呪姫は七月宮に問うたことがある、思い返して苦笑が浮かびかけましたがその疑問に答える義理はありません。彼女が人に荷担するなどと思われてはいっそ迷惑というものでしょう。
「皇牙よ。貴様も鬼ならば知っていような、幻妖の伝承を」
かつて地蜘蛛の姫巫女だったものは語ります。それは幻を極めた者の名前であり、かつて人に産まれて幻の術を極めながらその究極を求めて四体の鬼の魂を得るべく自らの手足を差し出した男の伝えがありました。四肢を喰われた男は暗闇の底に打ち捨てられると、鬼に欺かれたことを知りますがその姿で嘆くことがなく諦めようともしませんでした。幻の術を極める者が鬼に欺かれた、男が憤ったとすればそれは彼の力がしょせんその程度のものでしかなかったという事実にこそあったでしょう。打ち捨てられた男の身体がなお蠢き、到達せぬ術を求めてさまよう姿を見て四体の鬼は男の腕となり足となると人妖がひとつになり遂に竜と化した、それが幻妖の伝承でした。
「知っていよう。人や妖だけではなく世界すらも惑わし支配する、その男が得た技を凍結行という」
話しながら魅呪姫の力が急速に高まっていく様に皇牙は戦慄を覚えます。それは彼が知っている地蜘蛛の頭領の力を遥かに凌駕しており、皇牙の脳裏にはごく近い過去に強大な呪詛から皆を庇いそして倒れた記憶がまざまざと呼び起こされました。彼の背後には彼が守るべき傷ついた仲間たちがおり、魅呪姫の力の爆発に間違いなく彼らが耐えることはできません。皇牙もろとも少年も少女も砕かれて無惨に潰れるのみでしょう。
そんなことをさせる訳にはいかない、自分は守るべき者を守らなければならない。人の欲望から生み出されたものが鬼の力であるというのなら、皇牙が望む純粋な願いは守りたい者を守るべく戦う勇気と力でした。幻妖・魅呪姫は複雑な印を使うでもなく呪言を唱えるでもなく、彼女の望むままにその意思を解き放つと彼女の幻を世界に出現させます。
「これこそ妾がたどり着いた力!これじゃ、これが凍結行じゃ!」
叫びとともに、無数の氷結の竜が首を伸ばし無音の咆吼を発します。凍てつく牙が一斉に降り懸かって鬼神の鎧を咬み砕くと見えた刹那、皇牙の全身からも雷獣たる彼の力では信じられぬ紅蓮の炎が巻き起こって魅呪姫の竜に対しました。
「これは!?貴様、皇牙ァ!」
「ヤラせるか!俺の目の前で誰も殺させるかよォーッ!」
凍てつく竜と燃え上がる獣が互いに咬み合い、耐え難い音と風とを巻き起こして互いの姿を打ち消していきます。魅呪姫の顔が驚きと戦慄の双方に支配されていましたが、皇牙もまた自らに眠る力に驚愕して最後の牙が折れ消えると周囲には荒れ狂った力の余波を残した奇妙な静寂が漂っていました。ごく短い争いの末に互いに肩で息をつき、皇牙は彼が守ろうとした者たちが彼の背に無事でいることを知って安堵します。消し飛ばした下郎とは違う、己に勝る力に堂々と対してそれを打ち破ってみせる皇牙もまた人の強さを持つ者であるかと魅呪姫は思いながら、それに不快ではなく高揚を感じている心を隠せません。
「ふん、妾はまだ幻妖の力を御しきれていないようじゃな。汝鳥の守りには未だ手が出せぬと見える・・・覚えておくがいい、皇牙よ。伝承では幻妖に対した男、それが用いた技を紅蓮術といったそうじゃ」
「紅蓮・・・それが皇牙の力だと?」
それ以上は答えず、魅呪姫は彼女の悲願を阻もうとするであろう強敵から、皇牙が守ろうとした少年と少女に視線を落とします。守られる弱き人が世界にすら平然と立ち向かう、彼女が回天を志すのであれば人の力を侮ることは決してできないでしょう。魅呪姫の視線に目を逸らさず対している、春菜と吹雪はただ皇牙に守られるだけの弱き者ではありません。汝鳥には神々に愛された者がいる、その理由が魅呪姫には理解できる気がしました。
あえて魅呪姫が感謝する理由はなくとも、彼女の不名誉を拭う口実を設けることができた。人にも地蜘蛛にも欺かれた愚者は大妖の力と、汚らわしい人が手放すことのない抗う意思を知ることができました。そして彼女が抗うべき現実は何も変わっておらず、人と妖が目指す理想は明確です。
「人の強さには敬服しよう。だが人の正義が人と妖を峻別することにあるならば、地蜘蛛はその境を押し出させてもらう。よいか、妾は決して諦めた訳ではないぞ」
身を翻す一瞬、見えないように小さな笑みがこぼれたことに気が付く者はいません。頑ななほどの正義、人をそう評したものがいたことを魅呪姫は思い返しています。地蜘蛛衆は壊滅して暫くは雌伏せざるを得ず、魅呪姫は人の世界で復活を図るべく姿を消しました。彼女がその力を取り戻したとき、必ず地蜘蛛は彼らの理想を目指し正義を為すために戻ってくるでしょう。
◇
「終わった・・・のか?」
「終わっとらんわ、バカモノ」
一歩も動けずに地面に腰を下ろしていた、吹雪の呟きにネイが少年の頭を小突きます。身体が酷く重く、不平すらすぐには出てこないのは疲労と消耗を思えば仕方のないことだったでしょう。何すんですか、と返す声も我ながら力がありませんが、いつもの調子で偉ぶっているネイの様子に自分が無事に彼らの世界に春菜を連れ帰ることができたことを実感します。少年の事情に忖度する素振りも見せず、暴君顧問は吹雪が守ろうとした少女を軽く顎で指しました。
「何すんですかではない。娘子にあんな恰好をさせて貴様は何をしているのだ」
吹雪と同じように力尽きたという様子で、地面に座り込んでいる春菜が破れた上着をかきあわせて、胸元を抑えている姿が少年の視界に入ります。珍しく暴君顧問が気を利かせているらしい、吹雪は自分の不明を恥じると彼がネイの意見に心から同意したことに苦笑しました。身体は重く、向き直るのも一苦労でしたが倒れるのはもう少し後で構いません。
「悪かったな。春菜、大丈夫か」
「え、うん。ありがとう」
気の利かない少年はせめてもと彼の上着を脱ぎますが、限界を通り過ぎた疲労のせいかそれすらも重く感じます。やけに重い。ぼんやりとした視界の中で少年の視界には少女の姿しか入らず、上着を差し出そうとした春菜の顔から血の気が引いている様子に違和感を覚えました。彼女も疲れている筈なのに、勢いよく立ち上がると何やら叫びながら吹雪に駆け寄ろうとしています。やれやれ、こいつが無事で、元気そうで本当に良かった。
「吹雪くん!!吹雪くん!」
春菜の叫びは彼女自身が聞いたこともない、我を失った絶叫と化しています。少女の目の前で、吹雪の差し出した上着は赤黒く彩られてその背も無数の傷に赤く染まり、地面には血だまりが広がっていました。彼が貴重に思うものを守ろうとした、少年の青い目には自分の様子など目に入らずただ彼が望む少女の姿しか映りません。大丈夫だ、そんなに心配した顔をするなよ、お前にそんな顔は似合わない、だって、俺がお前の手を、握っていて、やるんだから・・・少年の意識はそこで途絶えると自分が作った赤黒い池の中に落ち込みます。最後までその心をよぎっていたのは春菜を安心させなければならないという思いと、流れる赤い血が彼女のものでなくて本当に良かったという心からの安堵でした。
◇
どれほどの時が経ったのか。目が覚めた少年がようやく出歩くことができるようになったのはしばらくしてからのことで、自分でも途切れた記憶とその前後の感覚には奇妙に現実味がありません。季節が変わり学年度も終わりに近付いていて幸い、吹雪が数回欠席しただろう授業はさして重要とは思えない程度のものでした。むしろ遅れたのであれば少女に教えてもらう口実ができた、と些か不埒な考えが過ぎっていたかもしれません。これが三年生であれば大厄の騒動が試験にさんざ影響を及ぼしたという者もいて、受かった者もいれば落ちた者もいたとかいないという噂です。
晴れた空に乾いた風が心地よく、まだ充分には力が入らない足取りで、久々に訪れる学園はどこかよそよそしい静けさを感じさせていました。考えてみれば冬休みに京都を訪れてから帰った汝鳥も騒乱の只中で、その後の顛末を考えても彼らには身も心も休まる暇などなかったものです。多少とはいえない程度に、背に傷跡が残っていることを少年は誇らしくも残念にも思っていましたが、夏までに消えなければ妙な趣味の人と疑われるだろうかと些か下らないことを考えます。
莫迦莫迦しい思いにゆっくりと首を振ると、少年は学園の隅にある社へと続く小さな遊道を踏みました。教室にも、部室にも目指す少女の姿はなく、であれば吹雪が探す相手は彼女が日々祀る神様の社にいることでしょう。学園には時節柄人の姿そのものが乏しく、剣術研究会の部室も似たようなものでしたがその時は鴉取の妹、真琴が一人いたきりだったのは吹雪にとって幸運だったのでしょうか。黒髪の穏やかな少女が自分の復帰を安堵ともつかぬ不思議な表情で見つめていたことを少年は思い出しています。
「冬真さん、怪我はもういいんですか」
「まあな。性格以外は無事に治ったと思うぜ」
少年らしい物言いがいつもの調子であったことに、黒髪の少女は苦笑していました。春菜と昔ながら仲の良い、この娘もやはりお嬢様というには型にはまらない性格を秘めていることを吹雪はこの一年で存分に思い知らされています。もう一人、少女たちと仲の良い多賀野瑠璃はといえばお嬢様やお姫様というには型にはまりすぎている「のろま」な娘であり、少年が娘たちに抱いていた幻想とは何れにしても趣を異にしていたと言わざるを得ません。無論、彼女たちの誰に対してもそのような事実を伝えられる筈もなかったでしょうけれど。
或いは姫を守る忠実な騎士になることもできようか。一年前はそんな不埒なことを考えていた少年ですが守られる姫は決してか弱き存在ではなく、それでも自分は騎士になることができると小さな自己満足の息を漏らしました。我が心の女王、クイーン・アンを探して部室に視線を泳がせている少年の様子に、真琴は心得たように口を開きます。
「春菜ちゃんでしょ?今日はまだこっちには来てないけど・・・でもあの時は大変だったのよ。春菜ちゃんがあんなに取り乱したの、初めて見たもの。あれだけ心配させて、ちゃんと誤っておきなさいね」
その時のことを吹雪が覚えていよう筈もありませんが、意識を取り戻してしばらく身を動かすことすらできなかった状態で幾らか伝え聞いてはいます。彼女を守ろうとした、その彼女を心配させたというのであればこれは少年の不徳が致すところでしょう。その春菜とはしばらく会うこともできていませんでしたが、吹雪だけではなく彼女もしばらく倒れていたらしいとあれば少年の見舞いに来れよう筈もありません。何より少年が思っている以上に吹雪の具合は悪く、見舞いも面会も禁じられていたことは親族からも聞いていました。術による相応の恩恵があったのでしょうが、無事に学生として帰ることができて良かったものだと思います。
吹雪は自分の不在にかけたろう苦労に対して型通りの礼を言うと、早々に部室を後にしてしまいましたがその背に真琴は一瞬、伝えようとして呑み込んだ言葉がありました。本当は当人が望まずとも伝えようかと思っていたことですが、やはり、たぶん、これで良いのだと思います。
それは吹雪も春菜も知らないことです。あの時、倒れた少年の姿に春菜が絶望して色を失ったことも無理はなく、本来ならば助かる筈がないほどの血と生命を吹雪は流し尽くしていました。襲い掛かる爪をすべて自らの背で受けて、彼が守ろうとした者に一本たりとも届かせなかった。それを讃えることは真琴には決してできません。彼女があれほど取り乱した、本当ならば彼女はすべてを失っていた筈なのですから。
少年が一命をとりとめた理由は他でもなく、三柱を収める器たる多賀野瑠璃の力によるものでした。吹雪の身が崩れ落ちて、狂乱した春菜が取り押さえられると糸が切れたように彼女も意識を失い、すべてが深淵に消えてしまう前に唱えられたのが瑠璃の真言であり三柱ではなくそれすらを宿すことができる大いなる器、多賀野瑠璃自身の力でした。
「これは私の真言、愚かな私自身が私自身のために求める呼び掛けです。マイタレイヤ・・・」
彼女の友人である高槻春菜のために、彼女が最も貴重に思っているものを救うために。汝鳥が愛している少女のためであれば瑠璃が力を振るうことを、汝鳥の神々はきっと許してくれるでしょう。人の力で、血泥に汚れた道を歩もうとする人のために、そんな彼らに祝福を与えることができないのであれば神様に価値など無くなってしまう筈ですから。
祝福を受けて清められた身体に命の火がしがみつくことができた、瑠璃はさらに力を振るえば自分が少年を完全に癒すことも、背に残るだろう傷を消すことすらもできるだろうと思いましたが、そこまではたぶん彼女の仕事ではありません。大いなる器は神すらも宿すことができて、神の力すらも振るうことができましたが多賀野瑠璃はやはり人に崇められる神様になることはできそうにありませんでした。春菜をこんなに哀しませた少年を、何ら罰もなく癒してなどやるものか。瑠璃は彼女自身の内に未だ俗心が宿っていることに気が付いています。
「冬真君への文句は私が言うことじゃない。春菜ちゃんだってもっと変わるべきだよ」
瑠璃が祝福の最後に言っていた、春菜の友人である彼女の言葉を真琴は思い返しています。自分は弱くて人に甘えすぎていたかもしれないが、でも春菜はもっと弱くてもいいし迷ってもいい、誰かに甘えたっていいでしょう。何しろ、彼女には彼女を甘えさせてくれる人がいるのです。だから私は春菜ちゃんを助けてやるんであって、冬真君を助けてやるのではない、と。
黙っていてねと言われて、珍しくリファール先生までもが素直に頷いていたのは彼らも理解していたからでしょう。多賀野瑠璃という汝鳥の神が吹雪や春菜に祝福を与えた理由と、そして、それを最後にして瑠璃自身は人の世界に戻ろうとするのだということを。時間はかかるかもしれません。彼女が人ではなく神であった時間の長さを思えば、凍てつく少女の心が解けて瑠璃色の大地に芽が息吹くまでは無数の時の砂粒が必要になるのかもしれません。ですがかつては人に哀れまれる存在であった、多賀野瑠璃が春菜の友人に戻ることができれば今度は心から彼女を妬ましく思うことができるでしょう。その時を待ちわびて、今度は、困るのは春菜の番になる筈です。
(そうね。そうしたら、春菜ちゃんをさんざん苛めてあげましょうね)
忘れられない瑠璃の笑顔を思い出して、真琴は開いたままの部室の扉に目を向けていました。
◇
風が吹いて季節は巡る。春菜の姿が、彼女が礼参する桜の社にある様子を見たとき吹雪が思い返していたのは神木が見晴るかす境内で二人過ごした記憶です。彼女には木々が似合う、そして春が芽吹く汝鳥の木々も彼女を祝福しているのでしょう。遊道を歩む中でいつぞや見た巫女装束の袴姿を少年は期待していなくもありませんでしたが、春菜が着ていたのは常の学生服でありそれも彼女に似合っていると思います。自分が救いようもなく愚かで軟弱な気がしていますが、吹雪はそれもまたいいかと諦めたように自身の評価を受け入れました。結局、冬真吹雪は卑俗な人間であり、だからこそ人が思う貴重なものに信仰を持つことができるのですから。
彼が求める貴重な少女は、歩み来る少年の姿にとうに気が付いていて身を正すようにその一歩を待っています。一足ごとに距離が近まり、季節は巡って冬が春に至る世界を彼らは心から歓迎します。時は止まることがなく、道半ばにして同道する彼らが手を取り合うことができたことを少年と少女は汝鳥に感謝しました。
「よお。心配、かけたな」
「吹雪くん・・・お帰りなさい」
その短い、単純なやり取りにどれだけの意味が込められているかを少年も少女も理解しています。失うべからざるものを失ってはいけない、手遅れになってから気が付くことがあってはいけない、手の中に握る貴重な暖かさがあるのなら、決してそれを手放してはいけない。吹雪が伏せっていた間、春菜もほとんど動くことができず学園に来ることができたのもようやく三日ほど前になってからでした。病室の場所を知っていればすぐにでも押しかけたかもしれませんがそれが許されることもなく、千秋を待つ場所を春菜が参詣する小さな社に選んだのは彼女が祀るためではなく祈るために神を必要としたからでしょう。友人たちが、彼女の待ち人が来るまでこの場所に足を向けないでいてくれたことを春菜は知っていました。
「悪かったと思うよ。でも、俺はお前を守ることができて本当に良かった」
謝罪の言葉に春菜は俯こうとしながらも首を振ります。どれほどの大勢に囲まれても、自分が捕まえられたときでも少年がいる限り彼女は何も怖くはありませんでした。ですが、吹雪が血の中に倒れたとき彼女は心が破れて魂が裂ける音を確かに聞いたのです。深淵の闇と絶望と虚無。春菜は罪深い自分が信仰を抱いていたことをそのとき、すべてが手遅れになって初めて気が付きました。
「ずるいよ。そんなになるまで、私の背を守っていてくれたなんて」
「ああ、そうだな。でも、俺は誓ったんだ。修羅は涙を流せずとも、俺はお前のかわりに血を流すことができる。お前がどこにいても、誰にもお前を傷つけさせはしないって」
言いながら、やべーことを言おうとしていると吹雪は思います。知らない奴が聞いていたら、求愛の言葉以外の何者でもないかもしれない。だが、俺の信仰を人が何と呼ぼうが俺は気にしない。菩薩の慈悲がたとえ少女に救いをもたらすことができなくても、少年は少女の手を取ってともに歩くことができるでしょう。
「ご大層な理想を言う奴らは立派なものさ。だが理想とはほど遠い血と泥の中で、ぬかるみに足を浸しながら降りしきる雨雪の美しさを忘れない奴がいるんだ。お前さんはやりたいようにやればいい、守るべきもののために前を向いて戦えばいい。あるいは、お前さんが信じるもののために祀りを捧げたっていい。そのお前さんを、俺は必ず守ってみせるから」
吹雪の言葉を聞いて、春菜は初めてためらうような、すがるような姿を見せました。
「いいの?私の手は・・・こんなに汚れているのに」
ある衝動を必死に抑えながら、少年は菩薩の手を伸ばします。この世界は理想にはほど遠いし、自分たちは足掻きながら泥に汚れ続けている人でしかない。だが、俺はそれをこそ美しいと思うんだ。蠍の火は己の身を焼いても星にたどり着くことはできないかもしれないけれど、蠍は星になりたくて自分の身を焼いている訳じゃない。誰だって本当のしあわせのために、己の身すらも平然と焼くことができる。抗おう、それは人に与えられた最後の権利であるのだから。ゆっくりと、ですが決然として少年は少女の手を取りました。それは生まれでも血でもない縁であり、冬の終わりを示して春が芽吹く風の息吹になる筈です。
「俺はお前の手を握るよ。春菜の小さな手は、何よりも美しいさ」
その先は誰も知らずとも、行くべき道は誰に分からずとも泥に浸されたぬかるみの地を人は超えることができるでしょう。ですがそこに敷かれる道を一人でつくることはありませんし、レンガを敷く者がいるのであれば春の菜を植える者がいてもいい。美しの野へと至る理想は彼らの前に遥か遠くとも、道の脇に小さな花が咲くのであれば泥中からその姿を愛でるのも悪くありません。伸ばした手を取った少女の手は小さくて温かく、そして何よりも尊い、彼らにはそれで充分でした。
少女の前に立ち、目を逸らさずに向かい合ってくれた少年がいました。水面の鏡を覗き、流せぬ血の叫びを知ってなお彼女の咎を受け入れてくれた少年がいました。少女の背を守り、彼女の傷を遮ろうとした少年がいました。そして、彼女の小さな手を握ろうと手を伸ばしてくれる少年がいます。春菜の汚れた心を、血ではなく涙で洗い落としてくれたのは彼女が求めていた言葉でした。
「ありがとう・・・貴方となら、貴方となら私はどんな道だって歩くことができる。でも、でもたまには手を繋いで二人で春の道を、木々の梢の下を歩いたっていいわよね。そんな資格がない人なんて、きっとどこにもいないんだよね」
春菜の頬が朱に染まっていましたが、たぶん自分も似たようなものだろうと吹雪は思います。桜の神も、汝鳥の神々も拙い自分たちの姿を呆れながら見ているかもしれない、それに構わず二人は繋いだ手をどちらからでもなく引き寄せました。音の無い祝福が汝鳥の空に響く、少年と少女はそれを確かに耳にします。
生まれ落ちた小さな小さな光がひとつ。それは水面の鏡に落ちると波紋になって広がり、少年の腕の中にある少女を映し出しています。汚れてなどいない、春菜の姿を吹雪は心から美しいと思いました。
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