雲外鏡は語る・後
鎮められた七月宮の祭祀を取り決めた、という瑠璃の話に春菜は耳を傾けています。倶楽部まではまだ少し時間があり、あわてて用意すべき準備もありませんが祟り神が汝鳥の方々に問うた呼び掛けに少女たちは無関心ではいられません。人に祀られることを忘れられた神が人に祟るようになったことは、伝えるべき記憶ですが小さな祠を引き継ぐことを決意した瑠璃は人が恐怖によってその小さな場所を祀るようではいけないのだと思っています。
それは頓狂な振る舞いに聞こえたかもしれません。清められた七月宮に新しく詣でる者は、祠の前に出て頭をこつんと打ちつけると頭が良くなる御利益があるということにしよう。それが瑠璃が言い放つ新しい祭祀とやらであり、七月宮の祟りが力ずくで鎮められた経緯は真琴も春菜も知っていますがそんな事情で祭祀を決めて良いものでしょうか。それ以前に、神様の祭祀をそんなに簡単に決めてしまっても良いものなのでしょうか。
「いいのよ。もともと神様の祀りなんてどれも人が勝手に作ったものなんだから」
あっけらかんとして断言します。重要なことは人が神様に願いを持ってお参りをすることであり、はっきりと言ってしまえば今時町外れの丘にある豊穣神の祠にお参りをしようなどという人は誰もいません。今は汝鳥を見渡しても稲畑などどこにも見当たらず、安産祈願で丘の上までお参りに来いというのも無体というものです。だからといって瑠璃がいなくなればまた祟りが起こるとなれば困る、そのためにやるべきことはやってみてもいいでしょう。
七月宮にしたところで祟り神になりたいとは思っておらず、瑠璃の言葉に不承不承従うしかありませんでした。不承不承であった理由は二つ、一つは瑠璃の思うままにことを運ばれているような気がしてならないことと、もう一つは御利益をもたらすからには神様にはその力がなければいけないということでした。神様として人に有り難がられるのも決して楽ではないのです。
「恋ちゃんには男の人を拐かすより、苦学して勉学の神様になってもらおうかな」
「瑠璃さん・・・もしかしてわざと?」
「えー、何のことかな」
春菜の問いにごまかすようにして瑠璃は視線をあらぬ方へと流しています。少女の話を素直に受け止めるのであれば、頓狂な儀式はともかくもたらされる御利益が必ずしも勉学である必要はないのではないかと春菜は思いますが、どこか測りがたい瑠璃の表情には春菜はもちろん、当の七月宮にも有無を言わせなかった何かがあるようでした。
◇
新しい年度も始まって、剣術研究会とオカルト・ミステリー倶楽部にも若い顔ぶれが加わるとそれなりに活況を呈しています。剣術研の方が若干名人数が多いことは部長兼顧問先生が勝利を豪語する原因となっていましたが、吹雪が見る限りオカミスでは新部長たる智巳が思ったよりも奮闘しており最近では慣れない役柄も板についているようでした。元来が真面目な性格で部員受けも良く、臨機応変こそ苦手でもそこは周囲の者たちが支えていることでしょう。
療養所にいる塔子が姿を見せることができないのは気の毒ですが、数月すれば汝鳥には戻れるらしく、ですが卒業の月が少しずれることにはなりそうだということです。それほど彼女が身を削っていたと思えば襟を正したくもなり、そのオカミスを引き継いだ智巳が彼女が帰ったときのために成長した姿を見せようとしているのであれば、吹雪はそれを大したモチベーションだと思いました。とはいえ少数精鋭とはよくいったもので、オカミスではこの智巳と何より瑠璃がいるというただそれだけで戦力であれば剣術研に勝るであろうことを少年は知っています。彼女はあれ以来神々の力を使うことを禁じていましたが、だからこそ力に頼ろうとはせぬ偉大なる器の少女に勝る者など最早あろう筈もありません。胸は薄いままだがまあいい女になりやがった、とは口が悪い少年の最大限の評価です。
「妾と話をするときには会話の前後に必ずサーを付けるのだ!」
「サー!分かりました、サー!」
耳に流れてくる、相変わらず無意味に威勢だけはいい声が部室に響いています。剣術研では結局ネイ・リファールこと暴君先生が部長のままになっていますが、奇妙に人望だけはあるこの怪人物が率いる剣術研はそれはそれでいいのかもしれません。大将は下々の働きを見るために堂々と構えていて下さいと、部員たちに説得(?)されて細かい倶楽部の些事は真琴と春菜のお嬢様二人が引き受けています。学園の評判を聞いて越境で入学した新入生の中には奇妙な陣容を小莫迦にした態度をとる輩がいなかった訳ではありませんが、ネイの絶対服従主義のおかげでむしろお嬢様二人に頼ろうとする傾向もありさしあたって悪い状況ではなさそうでした。
それでも思い上がっているような連中にはネイが直接制裁をすることもありましたし、見えないところであれば吹雪がやさしく指導することにしています。いっそ暴君先生に逆らって叩きのめされる者であればまだしも気概がある方で、人外を思わせるネイの膂力に感服して大人しくなる輩もいない訳ではありません。なるほど確かに彼女はボス猿にふさわしいと、感心することもままありました。
「何人でかかってきてもいいぜ、ボウヤたち。こいつは練習じゃなくて俺が一方的にお前さんたちをしごくイベントだからな」
たった一学年の違いとはいえ、若いというより幼い剣士たちが相手であれば吹雪はここまで豪語することができます。少年のはったりが一時にかからせることで常の太刀筋を使わせないためにあること、こちらは太刀以外で戦い撹乱する術を持っていること、短期に勝負をつけることで大勢を相手に持久力を心配する必要がないことまで計算していることに気付くような輩はいません。
傷つける必要もない、無論殺す必要もない。殺される、と心からの恐怖を叩き込めば抗う意志など千年の彼方へ吹き飛んでしまいます。状況だけで力量を測ることもなく無謀な組み打ちに挑まされるような者であれば、恐怖を克服するのは容易ではありません。吹雪に教育された半分は大人しくなりましたし半分は退部届けを持ってきましたが、正直なことを言えば足切りができて丁度いいというのが少年の感想でした。興味本位の者は危地に必要なく、越境で入部した者であれば汝鳥以外に行くあてがある訳でもないのですから少々のことで辞める心配はないだろうという姑息な計算もしています。身を賭して現実に立ち向かう、自分たちの境遇を侮った挙げ句に怪我をされるよりは余程功徳というものでしょう。
「まあ、そうはいっても相性の悪いタイプというのはいるもんでね」
「そうね。いつもありがとう」
自分には団体行動は向いていないと揶揄しながら、吹雪が敢えて憎まれ役を受け持っていることを春菜は知っています。所詮は予備軍としての活動とはいえ、彼らには大厄を鎮めた実績があり無意識に求められるハードルは高くなっていました。それを知っているからこそ剣術研もオカミスも限らず上級生たちは恐々とせざるを得ません。より真剣に、深刻に事件に対する必要があり智巳や瑠璃もさぞ苦労しているだろうと苦笑を交わします。
実際に倶楽部に出れば吹雪と春菜の対立は相変わらずで、二人の事情を知っている者も知らない者もそれを不思議に思っているかもしれません。吹雪はことあるときを除けばあまり部室には顔を出さず、いざとなれば春菜の主張を抑えることが多いために言い争いになることもしばしばでした。その二人が堂々と名前で呼び合い、倶楽部を離れれば親しく歩いている姿も目撃されており特に新入生の幼い娘たちにすればどうして高槻先輩があんな恐ろしい人と一緒にいるのか分からない、と真剣に問われることもままあります。その時も、危急の言い争いは激しく下級生たちに否が応でも緊張すべき時であることを教えていました。
「既に住宅地に近いのよ。人に危害を及ぼさないことが前提、誰も保護を考えないとは言ってないでしょう」
「だったら斬るんじゃなく捕獲する算段を立ててもいい筈だな」
「分かったわよ。じゃあその役目は吹雪くん、貴方に任せますからね」
語調も強く言い合いながら、彼ら二人は互いに歩む道が同じであることを知っています。伊達に一年間も言い争いをしていたのではなく、春菜の主張には明確な基準があって吹雪もそれを承知してしました。聞いている者たちの多くは気が付いていないでしょう。斬るよりも捕らえる方が余程難しく危険であり、新人にそんな芸当ができる筈もないからこそ彼女は吹雪に頼んでいるのです。そして、より危険が多い道を示す春菜がどれほどの逡巡を乗り越えてそれを決断しているかを少年は知っていました。
大厄が鎮められて禍は避けられた、ですが霊格の高い汝鳥には以前よりも更に低級霊が集うようになったことを彼らは実感しています。市井の者たちも手が足りていないらしく、学園に事件解決を要望する伝が増えていたことにはそのような事情がありました。俗な表現をすれば今は地図が書き換えられて集まった妖たちで混雑をしている状況であり、いずれ流れが一様になれば落ち着くでしょうがそれまでの間に交通整理をする者たちが必要だ。その役目が彼らには負わされています。
「実際、一年前の自分たちを思い出すね」
大太刀を手に呟くと、背後に控えている未熟な者たちを思います。中には大した才能を持つ者も混じっていない訳ではありませんが、どんな実力であれ使いこなすことができねば意味はありません。使えない数人を連れた春菜が異形を囲うように控えながら、吹雪が一人異形に対する。斬るのではなく斬ると思わせる刃、その究極を妖相手に使うことができれば少年の剣は達人の域に達するでしょうが、偶然の要素を抜いて成功する自信はありません。それでも失敗すれば春菜がこれをしとめるつもりであり、最悪の場合でも智巳や瑠璃が控えています。二重三重の用意は戦力に自信が持てない故であり、策を立てた真琴にしても胃が痛いところでしょう。もっとも、彼女の鋼鉄の胃袋なら心配はいらないとも思えますが。
「冬真さん。何か失礼なことを考えていませんでしたか?」
まったく少女たちの感応というのは厄介だ。吹雪の一刀はかつて春菜を背に地蜘蛛に放った一撃には及ぶべくもありませんが、異形を止めるには菩薩の慈愛ではなく修羅の恐怖が必要になることもあります。いいか目の前の化け物よ、この一閃で止まらないなら俺自身がお前さんを斬ってやる。春菜の手を汚さないために、頼むから俺に二刀目を出させないでくれよ。少年は心からそう呼び掛けました。
瞬間、閃いた剣筋よりも心から望む二刀目の覚悟こそが殺気以上の鋭さとなって異形の足を留めます。むきだしの憎悪を向けていた犬精、かつて音無の供養に納得できなかったのであろう魂が千々古と交わり無様な姿を得た異形は、人に従順であった記憶を取り戻すと腰を落ろしゆっくりと頭を垂れました。それでいい、利口な奴は長生きできると安堵する空気が周囲に広がります。春菜もまた自分の出番が失われたことに安堵しつつ、彼らの役割を最後まで果たすために吹雪の傍らに近付いてきました。ですが、この時の騒動はその後に起こったのです。
新人の中に有望株と思われていた少年がいました。蟲と呼ばれる、召喚術を扱える者は珍しく意気盛んに汝鳥に越境してきた者の一人ですがその術を決して使わないように厳命されていたことが不服だったのでしょう。その少年が屈服した犬精に向けて何を思ったのか召喚を行ったのです。すでに事件は解決した、そこで騒動となっても自分の力を示したかったのかもしれません。
力ある神が幾柱も集い、異形妖が集う汝鳥がどのような地であるのかを彼は理解していませんでした。それは強い力が平然と及ぼされると同時に、力あるものが解き放たれて制御が難しくなる場所であることを意味してもいます。瑠璃のような規格外の力を持つ者は別にしても、トウカや八神麗のようにこの地で降霊術を自在に操るだけで驚愕ものとされていました。制御する力も及ばず伸び上がった蟲は黒々とした身体でひとのみに犬精の半分を喰いちぎると、鎮まる様子もなく手近な人間から平らげようと牙のない巨大な空洞を開きます。
「やばい!」
「吹雪くん、行きます!」
みなまで言う前に春菜が跳ぶと吹雪も駆け出しています。彼女の杖は直線の軌跡を描き、それが俊速と合わさる技が誰よりも早いことを吹雪は知っていました。その間合いを少年は完璧に心得ており、春菜の右半歩後ろに従い左掛けに斬れば彼女には決して当たりません。春菜が伸ばした一閃が蟲に突き刺さると続けて吹雪の大太刀が振り下ろされる、傍目には同時に斬っているようにしか見えなかったでしょう。
すべては数瞬のうちに終わりましたが、自分の力を過信した少年はその後学園にいることができず汝鳥を去ることになりました。誰に追い出された訳ではなく、斬られて力を失った蟲をもう一度呼び出せる力が彼にはなく、術士としての力を失ったというただそれだけのことでした。化け物は決して死ぬことはありませんが、消し去られたものを呼び戻すには強い思いが必要で拙き者にはそれがありません。結局、越境組の中で挫折したのはその少年が一名きりでした。
技に驚嘆する視線の中で、春菜と吹雪の無念は増長した後輩の将来などにはなく、人の傲慢が守れた筈のものを失わせた愚かさと解き放たれたままに斬られるしかなかったものへの謝意によるものです。これが二人だけであれば彼らの汚れた手に視線を落とすしかなかったかもしれず、ですが後輩たちを前に消沈を見せる態度は許されません。一度、凍り付くほどに冷酷な瞳を向けると常の理性を取り戻した少女が皆に撤収を呼び掛け、彼女の思いを察した真琴や瑠璃が皆を率いて学園への帰り道を先導しました。自らも汚れた太刀を収め、遅れて歩き出そうとした吹雪に向けて声が掛けられます。
「残念、だったね」
正直すぎて気が利かない、智巳の言葉に吹雪はこいつらしいと心の中で苦笑します。同じ言葉を春菜に向けて言われていたら気を悪くしたかもしれませんが、少年もそこまでは朴念仁ではないということなのでしょう。女が泣く間に男は人の無遠慮を受け入れなければならない、あるいは智巳はそれを知っているのかもしれません。いずれ感傷は振り払われて、理性は取り戻されねばならないのですから。
「今は奴らが使えなくても仕方がないさ。一年前の鷲塚よりはマシな連中だが、今の鷲塚に勝てそうな奴はまだ一人もいない」
「それ褒めてるの?貶してるの?」
このくらいは反撃してもいいだろうという、吹雪の言葉に智巳は当惑ともつかない顔を浮かべています。層が薄くなったと言われても仕方のない彼らですが、また一年が経てば少しはましになっているのでしょうか。彼らも一年前は知らなかったことですが、太刀を握るに必要なものは技でも力でもなく、ましてや根性でも精神力でもありません。それが何か、口で言っても決して伝わるものではなくこればかりは自分で身に付けるしかないのです。
「肝に銘じておくよ。僕だって冬真君に勝ちたいからね」
「剣士としてはいつか出来るんじゃないか?だが好きな女を守る男としてならお前さんには決して負けないよ」
大言壮語が過ぎるとは自分でも思いますが、それは吹雪の自信や過信ではなく真摯なほどの誓いであり理想です。また春菜を哀しませてしまった、少しでもそれを減らすことが吹雪の望みでした。
◇
彼らの日々が時として大小の不本意に踊らされることがあったとしても、遅々とした歩みであれ先に進むことができればいずれ昨日よりもましと思えるだけの姿にたどり着くことができるのでしょう。陳腐な言葉ではそれを成長と呼びますが、少しでも望む姿に自分が変わっていけることは人の特権である筈です。
「どうせ成長しても胸は薄いままだとか思ってるのよ。冬真君ってば春菜ちゃん以外にはちっとも優しくないんだから」
先日は誰にでも優しすぎると言っていたような気もします。どこまで本気で言っているのか判然としない瑠璃の言葉に春菜はそんなことはないと思うけど、と控え目な不同意を主張してみますが三つ編みお下げの少女は意に介した様子もありません。
「いーえ、紳士なのと優しいのは似ているようで違うのよ」
「でも冬真君の悪口を言うと、春菜ちゃんは黙ってられないですものね」
真琴までもが加勢して、祭祀の相談をしにきた筈がどうしてこんな話になっているのかは春菜にも分かりません。ともあれ学園の一隅にあるコノハナノサクヤヒメノミコトの社を今後どうしていくか、この件にかけては神社の娘とした育った瑠璃は春菜の大先輩であり、やや不安に思うことはあっても教えを乞う理由はあったでしょう。瑠璃にしてもいつまでもくさしている訳でもなく、彼女なりには真面目に春菜の相談に乗っているつもりでした。
「そうね。春菜ちゃんが本当に巫女になるかどうかはともかく、この機会に一つだけ知っていて欲しいことがあるの」
それは瑠璃がこれまで誰に語ることもなかった七月宮の思いです。感応の才を持つ、汝鳥の少女たちに向けた神様の望み。それを持つ者たちのために、七月宮は彼女たちを守る者の存在を求めずにはいられません。尻の軽い豊穣神が男たちを値踏みする、その理由の一つには七月宮であるヤツトセの願いが込められていることを人は知りませんでした。
「言いにくいことだから先に言っちゃうけど、感応の才ある巫女というのはようするに生け贄に適した人のことなのよ」
つい先だっても、地蜘蛛の姫巫女で祭壇の羊となりかけた者がいましたし春菜自身がそれに選ばれたこともありました。祭祀が暴走したときに祈る者は最も貴重なものを供物に捧げることによって、犠牲と引き替えの恩恵を求めようとします。灯火ではなく等価を求める、愚かしいが真摯な儀式が捧げられたときそれがどれほど祭壇を汚そうとも神性はそれに応えぬ訳にはいきません。八本尾の大妖ヤツトセが望まずとも神となり、人に豊穣の恵みをもたらさねばならなかった時のように。
瑠璃が七月宮から聞いた話です。昔、昔に彼女たちよりも遥かに勝る感応を持つ幼い娘がいましたが、彼女はそれに気が付くこともないまま周囲の人々の手で生け贄として捧げられました。断ち切られた魂に否も応もなく、その力は一柱をつくりだすほどに強く尊いものでしたが金色の獣でしかなかった彼女はそのために何が失われたかを知っています。そしてそれにも関わらず、神は彼らの犠牲に対して恩恵を捧げなければなりません。神は神であることから自由になれず、思うままに振る舞うことなど決してできないのです。たった一人の、不憫な娘に恩恵を施すことすらできないのが神の力なのですから。
「もう二度と、恋歌が捧げられるのはたくさんなのよ。瑠璃さまだけじゃなく、危なっかしい娘が汝鳥にいるからね」
七月宮稲荷の言葉を瑠璃は思い返しています。だから私はことのほか吹雪さまを気にしてちょっかいをかけてるの、だって春菜さまを守る人を私だって見定めたいものね。そこまで続けた言葉はどうも言い訳くさく他意がありまくるようにしか聞こえませんでしたが、無数の砂粒の中に一握りの真実が隠されていないとはいえないでしょう。
春菜がサクヤヒメの祭祀を学ぶ中で、瑠璃に倣って考えていることが彼女にもありました。それは社の管理を学園で行おうというもので、いずれは生徒たちの自主的な活動として学園にある社を祀ることができるのならば長く神域が保たれるのではないかと思えます。生徒たちの自主的な活動と言えば学園にも断る理由はなく、春菜たちは幾人かで学園の管理部に直談判に赴きましたがごく当然の条件をつけられてもいました。一つは社だけではなく周りの林や遊道まで含めて管理をすること。もちろん現況を勝手に変えたりしないこと。そして管理は春菜や真琴といった生徒たちではなく剣術研究会とその顧問が責任を持つこと。
「当然の条件とは思うけど、最後のがちょっと大変かな。先生を説得しないといけないし」
「あら、最後のが一番簡単ですよ」
そう言って笑っていたのは真琴です。これからのサクヤヒメの祭祀をどうするか、もちろん春菜はそれを続けるつもりでいましたが卒業すれば敷地には入り難くなりますし彼女がどのような道に進むとしても、一時であっても誰かに社を託すことができる準備は必要だったでしょう。瑠璃に学んだのは祭祀の専門家であるが故でしたし、真琴に頼んだのは学園のことであれば彼女が頼りになるからでもありましたがどうも春菜が思っていたよりも遥かにこの友人たちは頼りになりすぎる気がしなくもありません。
「お前たちの言いたいことは分からんでもない。だが何故妾たちが掃除夫の真似事などせねばいかんのだ」
引きずられるように真琴についていった、春菜たちにネイが首を傾げた言葉はほとんど予期していたそのままでした。この人に管理とか責任とかどうやって引き受けてもらうつもりなんだろうと、些か失礼なことを春菜は考えていましたが真琴は平然としてむしろネイの言葉に意外そうな顔を浮かべてみせます。
「あれ?いいんですか先生、せっかくの領土拡大のチャンスだと思いましたのに」
「誰がやらんと言ったか!まずは学園から支配する、これぞ妾たちの野望への第一歩ではないか!」
戦国に生きているネイにとって領土拡大は三国統一への第一歩です。どこに三国があって何を統一するのか部員たちにはさっぱり分かりませんがそれは真琴の知ったことではありません。意気上がる剣術研顧問は彼女と彼女の商会の総力を込めて社の管理に手を貸してくれるでしょうし、あとは勝手に現況を変えられないように見張っておけばいいだけです。
あまりに手際よく進む物事に呆然としながらも春菜は不安に思います。なんとなく、最近の瑠璃や真琴に彼女はかなう気がしていません。もしかして、これから自分は彼女たちにさんざん苛められることになるかもしれない。そこはかとない不安が少女の細い身体を包んでいました。
◇
春菜がいる汝鳥は風が吹き抜ける、それは吹雪の思い込みでしかないのかもしれませんが流れる葉が奏でる音が少女への祝福を感じさせています。神木のある境内に近い林を背に、少し照れながらファインダー越しに微笑んでいる姿を見て彼女にはやはり木々が似合うと少年は思っていました。数枚、正面から撮らせてもらった以外は吹雪はごく普通に春菜とのくつろいだ会話に戻ってしまい、時折ふと思いついたようにごく何気ない仕草でスナップショットを収めてます。恥ずかしいと春菜は不平を言いましたが、かしこまった姿ではない、自然に切り取られた時間こそ貴重なのだと少年は断言しました。
「じゃあ最初に撮った写真は何のためなの?」
「もちろん、俺の机に飾るためだよ」
自分はこんなことを言う性格だったろうかと、思い切って口にした少年は自分以上に頬を紅潮させている春菜の様子にやや気恥ずかしい満足を覚えていました。たまらず俯くと呟くように、やっぱり恥ずかしいな、と言いつつ反対も非難もしない春菜の姿がいかにも少女らしく、こういうとき常の凛とした様子は微塵も感じることができません。倶楽部の皆が知らないだろう、春菜の姿を自分が知っていることに少年は子供っぽい誇りを感じています。
彼女が言っていた通り、少女が精一杯のお洒落をしていることは鈍な少年にも分かりましたが不要な飾りのない姿がいかにもお嬢様らしく、ファインダーを前にひざ下丈のスカートが柔らかく開いて風に揺れています。襟のあるブラウスに春向けのベストという、ごくありきたりの組み合わせが仕立てまで気を使った品を用いればここまで違って見えるのかと、決してその方面に明るくない少年すら驚かされていました。
風にそよぐリボンの一本に至るまで、玩具とドレスの違いに感心する吹雪は春菜の姿に見入らされると同時に、辛うじて自分が選んだ服は彼女と並ぶのに相応しいだろうかとやや気後れがしなくもありません。短い襟のついたシャツにスラックスと気取らない薄手のカーディガン。これでネクタイまで締めてはやりすぎでしょうがジーンズやシャツの裾を垂らした姿では流石に失礼にあたるだろう程度のことは幸い、少年も理解していました。
似合っているよ、すごく綺麗だ。そうした言葉を隠すことはなく少年は素直に伝えます。照れがない訳ではありませんが、伝えるまでもない言葉というものが世の中にあったとしても少なくともこれはそうではないのでしょう。これが文学の世界であればどうだい、彼女は美人だろうと流れる風に堂々と言い放つべきものであり、少年の目に映る春菜は充分に美しく彼女の傍らをすり抜けていく汝鳥の風にすらも嫉妬したくなる、自分はどうにも堕落した人間だと思います。
何枚かの時間が切り取られてから、そろそろ映画の時間が近いことに気が付いた吹雪は何気ない風を装うのに苦労しながら少女の名を呼びました。
「春菜。髪を、下ろしてみてくれないか?」
少し驚いたような顔をして、しばらく無言の時の中で視線を泳がせた少女はごく小さく二度ほど頷くと、二本に束ねていた髪を解いて黒い流れが肩の上に広がります。その瞬間をフィルムに切り取ると、そこには少年が信仰する尊い一人の少女の姿がありました。無遠慮な汝鳥の風が解かれた髪を吹き抜けたそのとき以来、春菜は倶楽部にいるときを除けば髪を下ろしたままにしています。
吹雪が何気なく選んだ映画の選択は失敗だったのかもしれないし成功だったのかもしれません。春菜も特に異を唱えず、小さな名画座で上映されていた作品は良い出来映えでしたし泣ける内容でもあったでしょう。まばらに埋まった観客席にも方々で鼻をすする音が聞こえていましたが、傍らに座る少女の様子がおかしいことに少年は当惑していました。
「おい・・・春菜?」
「ごめん、ごめんなさい・・・吹雪くん」
消え入りそうな声で、春菜は吹雪にしがみついて身を埋めると止まる様子のない嗚咽を必死に堪えています。その背に軽く手を置きながら、不思議に思ったのは春菜の情感が自分にも移ったかのようにフィルムの内容を胸に響かせていて、はからずも吹雪自身も数滴以上の滴を頬に流していたことでした。春菜もその状態でスクリーンに目を向けようとしていましたが、クレジットが流れる頃には顔も上げられなくなってしまい周囲が明るくなるとどうやって彼女を宥めようかとさんざ少年を悩ませます。
「だって、こういう映画は行かないようにしてたもの。大丈夫だと思ったんだけど」
なんとか逃げ込んだ喫茶室で、拗ねたように唇をとがらせてストローをくわえている春菜の目のまわりには未だ滴の跡が残っており罪深い彼女の涙が枯れていなかったことが吹雪には喜ばしくも思えます。まったく七月宮に言われるまでもなく彼女を守るのは俺の役目だと思いながら、今度から泣ける映画を見るときは俺の部屋にしようかとも考えている吹雪は救いようがなくごく普通の少年なのでしょう。
◇
傾きかけた日を歩く足が、ごく自然にメイヤのある界隈に向かっていたのは無意識のなせる業だったでしょう。そのことに吹雪が気が付いたのもたまたまでしかなく、せっかくだからメイヤに寄っていくかと、何気なく口の端に載せた思いにも何ら他意はありませんでした。ですが、何気ない言葉がどれほど人を傷つけることがあるかを吹雪は短い人生の中で充分に知っていた筈です。唐突に現実を突きつけられた春菜が、どこか怯えたようにすら見える顔で小さく首を振ると下ろしていた髪が左右に揺れました。
「ううん・・・だって、私が今更メイヤに行くなんてわざとらしいもの」
何度か、寂しそうに首を振っているのは振り払いたい記憶があるからでしょう。吹雪自身が彼女に言った、しばらく近付いてもらいたくないという言葉が未だ彼女を縛っていることを少年は考えてもいませんでした。自分が最も肝心なところで春菜の心を理解していなかった、その事実は悔やんでも悔やみきれるものではありません。その日が幸福な時間であったことは二人認めるにやぶさかではありませんが、最後の最後に少年は守るべき少女の傷に無神経にも触れてしまったのです。
何が雲外鏡を持つ者か、七月宮や智巳に偉そうなことを言っていた者が何を理解しているというのでしょうか。必要な言葉だけを交わすとやや気まずく別れ、つけるべきではない涙の跡を、自分がつけてしまったことに吹雪は後悔と罪悪感を拭うことができません。
深い、深いため息を全身でつくと重い足取りでメイヤの門を潜った吹雪を迎えるように輝充郎が立っている姿が視界に入りました。おそらくは窓越しにでも見ていたのでしょう、何の言葉もなく歩き出した輝充郎に従う少年は敷地の中庭に足を踏み入れます。考えてみれば、この場所には今まで来たことがなく屋根に切り取られた空が赤く染められる様子までもが少年を責め立てているように思えました。輝充郎は吹雪よりも一つ高い場所にある頭を無造作にかいて、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開きます。
「まあ、人の心をすべて知るなんて誰にもできないことさ。だがそれができない男は甲斐性なしでしかないんだ」
「・・・そうですね」
「残念だが、お前さんはまだまだ子供だよ」
こういうとき、厳しい言葉をかけてくれることはむしろ有り難いと思います。少年に必要なものは自己弁護でも自己嫌悪でもない筈で、見たくない現実から目を逸らして良いのであれば守りたいものを守る必要などありません。その様子を見て、輝充郎自身が男女の関係について偉そうに言うことはできないと思っていましたが、未熟な後輩のために彼が分かっていることを伝えることはできるでしょう。メイヤに足しげく通う、トウカも吹雪も他のものたちもかけがえのない客であり友人であり、あるいは住人たちでした。
「だがな、メイヤの本心は誰でもない、高槻の嬢ちゃんと一緒なのさ」
その言葉を意外と感じたのか当然と思ったのか、吹雪は自分でも分かりませんでした。人と妖は事実として互いに相容れずに受け入れることができず、彼らの世界を分けるには厳然たる境界線が必要ですがその境界の上に誰が暮らしてはいけないという法はありません。だからこそ白でも黒でもない灰色には充分な意味があり、メイヤはそのために存在しています。互いを峻別しながらも人の世界を離れたものが隠れ里に踏み入り、稀には人と妖が手を握ることもあるでしょう。
「それはそれでいい。だがメイヤにすら暮らすことができない化け物にはどうすればいい?皇牙が討つしかないのさ、あいつらも気の毒な奴なんだ」
それが地蜘蛛を意味していることは吹雪も気が付いています。人の世界を追われてそれを取り戻すべく蠢動する妖がいる、ですが境界を保つことで互いを峻別して守ろうとする鬼にとっては、人と妖を峻別する境目そのものを押し出そうとする地蜘蛛の望みを認める訳にはいきません。だからこそ皇牙は地蜘蛛を追って戦います。マンション・メイヤという概念の存在を守るためには灰色の濃さと薄さを好きに変えようとする試みを許すことはできず、それを討つのであれば手を汚してでも自ら行うべきでした。
本来、地蜘蛛の望みはささやかなものでしかなく、かつて人に奪われたものを取り戻そうとする正当な試みでしかありません。皇牙はそれを知っていましたが、だからといって既に出来上がってしまった人の世界を壊してもいいという理屈にはならないのです。それでは地蜘蛛の試みは彼らが憎んだ人の所業と同じものでしかなくなってしまうでしょう。だからこそ、それを止めるために勇気ある鬼は拳を握ります。
汝鳥に来て、剣術研究会にいた頃も輝充郎が追っていたのはあくまで地蜘蛛の動きでした。理屈に合わぬ、人に迎合するだけの戦いに自ら悩んだこともありましたが一年が過ぎて後輩たちが訪れ、彼らが悩み争う声を聞いて輝充郎は理解します。最後まで菩薩の手を伸ばし斬るべきではないと叫ぶ少年の姿、修羅の道に手を染めてでも境界を守ろうとする少女の姿、それら逡巡を乗り越えて互いの手を結ぶことができる灯火の姿。どの道を辿ろうとも彼らが目指している理想は同じであり、必要なことは手段ではなく彼らが互いに争いながらも悩み、苦しんでいる行動そのものであることを輝充郎は知りました。
春菜は言い、吹雪は答えました。結局批判されるべきは人であり、何から手をつけたらいいか見当もつかずとも何もしなければ人は決して変わることができません。時には救い、助けようとしているものたちを容赦なく手にかけていることは彼らに罪を自覚させています。灯火の理想に憧れ、貴重なものに思いながらも人の罪に直面させられるのであれば、せめて自ら手を汚すのが彼らなりの礼儀でした。
人の傲慢のままに人の世界から溢れ出た犬や猫や鳥といった生き物たちを、人が処分する事実から目を逸らすことはできません。せめて苦しまないようにして欲しいなどというのは傲慢の上に傲慢を重ねるだけのことであり、処分されるものが味わう苦痛と無念が軽減されることなど永遠にないのです。税金を無駄に使わないように安価な方法で窒息させる、その費用すら惜しむ連中は袋に詰めて棒で殴り殺してから山中に捨てていく。人は知らないふりをしているだけです。路地裏に入ればそうした生き物が箱詰めされている様を幾らでも見ることができますし、華やかなケースに飾られた生き物たちが数ヶ月もそこにいることはできません。そして人々は愛玩と称して犬や猫を買っていく、それが守るべき人の世界なのです。
「私はメイヤを破壊せよとか掃討せよとは言っていません。管理ができないのなら封鎖してください、と言っただけです」
それを知ってなお、春菜は吹雪に向かいそう言いました。それは彼女に正面から対してくれている少年を信じていたから、彼にならできるという真摯な願いだったのではないでしょうか。何故あの時、自分は彼女の心を知ることができなかったのだろうと少年は心から悔やみます。いつかではなく、今、自分は自分に相応しい人間になるべきだ。その彼にできることがあるとすれば一つしか思いつくことはできません。
「そうですね、彼女を連れて来ましょう。俺が、春菜をメイヤに呼ぶべきなんです」
少年は心から言います。彼女もまた、ここに来たくない筈がなかったのですから。春菜が拒んだとき、手を握ってでも引きずってでも何故彼女をメイヤに連れて来なかったのか。輝充郎に言われた通り吹雪はまだまだ未熟な子供でしかないようですが、それならば子供でいられるうちに恥も外聞も構わず、失敗にも怯まず彼が思うままに振る舞うのがいいでしょう。一度深く頭を下げると、歩き出すことと駆け出すことの中間の速度で少年は中庭を飛び出します。やれやれといった様子で、輝充郎は深く息をつくと戻ってくるだろう彼らのために安物の茶でも用意しておいてやるかと歩き出しました。初めての客人が、近くもう一人増えることに門を守る鬼は満足を覚えます。
傷心の少女を追って、汝鳥に飛び出した吹雪が落ちかかる日の傾きをさほど意識することもないうちに、赤く染められた少年の視界の先に意外な姿が映ります。手を握り、引きずるように春菜を連れて歩いてくるのは他ならぬトウカの姿でした。呆然とする少年の前に引き立てられてきた春菜は戸惑いながら抵抗することもできずにいましたが、実のところ戦士としては稀有な彼女であっても外見からは信じられぬトウカの力を振りほどくことは恐らくできなかったでしょう。そのトウカはといえば春菜を連れてくるのが当然とでもいう素振りでいましたが、吹雪の姿に気が付くと彼女らしくもない、どこか怒ったような表情を浮かべました。
「あら。冬真さん、酷いですわよ」
「え?あの、お嬢?」
咄嗟に間の抜けた返答が漏れてしまいますが、トウカに気にした風はありません。
「私見てましたのよ。高槻さんはメイヤに来たがっていましたのに、どうして呼ばなかったんですの?お友達を仲間外れにするような人は私は嫌いですわ。メイヤに来たい人は誰でも来ることができますのよ」
参った。本当に参った。彼女に雲外鏡は必要なく、神の愚挙に頼らずともすべてを見ることのできる人間がここにいます。吹雪は自分も春菜も本当に未熟だと思い、自分たちはトウカになることはできないが無垢で無邪気な彼女の存在を何よりも美しく貴重だと思います。春菜の手を押しつけると皆を呼んで来ますわと、メイヤに向かうトウカの姿に残された少年と少女は純粋で美しい灯火を心からの憧れで仰ぎました。
溢れ出そうな思いを堪えるために、春菜は顔を伏せています。吹雪の前で、最近の彼女は泣くことが多くなりましたが自分の涙腺もけっこう危ないことを吹雪は自覚していました。灯火の美しさに導かれているからこそ彼らは泥中で道に迷わず、互いに握る手に暖かさを感じることができるでしょう。彼らの先に小さな理想のトウカが見える、さあ、彼女に手を伸ばすのは俺の役目だ。
「春菜、一緒に来てくれないか。俺たちの友人、妖たちが暮らしているマンション・メイヤに」
「うん・・・うん」
俯きながら小さく暖かな手をとって迷い家に向かう、彼らは未熟な少年と少女でしかありませんが傍らにある互いの尊さを見て、彼らの先を歩く美しい灯火の姿を仰ぐことができます。せいぜい一歩でも、半歩でも前に進むことができればレンガの道は敷かれていき灯されている火に近付くことが叶うでしょう。罪に汚れた血を厭わず、それでも歩く彼らの手は涙の滴で洗うことができる。少女に涙を流させるべきでないときは構うことはありません、少年が代わりに泣いてあげれば良いのですから。
日が暮れようとしている。春菜の帰りが遅くなったら、俺が彼女の両親に謝ろう。今は黄昏の時間であり、赤く染められていた陰影も薄まって白でも黒でもない灰色の時間が近付いています。それこそ迷い家に相応しい、人と人ならざるものが共に手を取って暮らすことができるつかの間の世界でした。
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