ぱられるわーるど.十(後)
京汝鳥の合宿場はゲレンデと温泉が近くリゾート地としても充分なもので、東汝鳥から訪れた一行の中にはネイ・リファールのように冬期休暇を存分に満喫している者もいましたが、概して生徒たちが修行や鍛練に時間を費やしているのは幸い、というより当然のことだったでしょう。
「弓も張り詰めたままでは弦が切れてしまうだろう。妾は心身を弛めることの重要さを身をもって示しているのだ」
「この国には人のフリ見て我がフリ直せって言葉もありましてネ」
心身を弛めることの重要さを示しまくっているネイを除けば、妨害もなく余裕もないオカミスや剣術研のメンバーは自分たちの鍛錬に余念がありません。ただ、その姿に傷ましいほどの張りつめた雰囲気を漂わせる者がいることもまた事実であり、ネイの真意が彼らや彼女たちへの心からの心配であるのかどうかはラインバーグにも分かりませんでした。それでも生徒たちは心身を張りつめてなお自らを鍛えざると得ませんでしたし、たとえ一夜漬けの付け焼き刃であったとしても、それを怠ることはできなかったのです。
「六、七、八ぃ・・・ええーい、一本足りねえ!イライラするぜ」
壮絶な速さで連続して関節を取ると同時に当て身を入れる、朝霞大介の動きを捕らえられる者は京都汝鳥にもほとんどいません。板張りの道場で、バリツの組み手に没頭する大介の様子を遠目から見ていたラインバーグは、わざとらしく手を叩きました。
「いやいや大したもんデス。八本あれば倍満いくじゃないデスか」
「何の話だ何の・・・八本じゃキツネの尾は止められねえんだよ」
付け焼き刃は所詮間に合わせの鋭さでしかありませんから、実践で刃の鋭さを活かすには知識と工夫が必要になります。とはいえ何しろ稽古の相手がいるというのは有り難いことで、大介と絡むことができそうなラインバーグは肉体を酷使するに如何にも消極的でしたから、人間相手の組み手は久々にさえなります。やはり皆をここに連れて来て良かったと、自堕落な自画自賛に耽っているラインバーグに大介が皮肉っぽく言います。
「何か用かよ腹黒顧問。今度は相手する気になったのか?」
「いえいえ、相手ならイッパイいるじゃないデスか。アタシは皆の修行と成長が見れればそれで満足デスからね」
実際、ラインバーグが言うまでもなく大介の動きは相当なものに見えます。自己流で考えたのであろう、コンビネーションを駆使する技に京汝鳥の門弟の多くは対応することができていません。本来、バリツは相手と組んで引き倒してから関節を極めて破壊することを目的とした格闘技術です。その起源は欧州にあるとされていますが、恐らくは相手の命を奪わずに破壊することで戦場における足手まといを増やすことを目的とした格闘術にあるのでしょう。ですが相手と組むのであれば特に集団戦闘で動きが制限される危険は否定できない、それを補うための方法を考え出す必要がありました。
バリツ特有の低い姿勢で構えて飛び込む、或いは飛び込む相手を捌いてから組む。そこまでは普通の動きでしたが、初手で相手の末端にあたる首や手首を、場合によっては足首を掴むと同時に、関節を折る方向に回り込みながら当て身を入れる。当て身の一撃で極めることができれば組んだ一瞬で相手を破壊、無力化することができますから、この方法であれば複数の敵に対峙することも可能でしょう。例えば、複数の尾が一斉に襲い掛かってくるような場合でも。
「掴める数には限りがあるからな、放すことにした」
「んー、アタマ使ってマスね」
「やかましい」
大介の技が九尾の七月宮稲荷を想定していることは明らかですが、問題があるとすればひたすら動き続けるその動きが恐ろしくスタミナを必要とすることでしょうか。何しろ大介のスタミナの無さには定評がありましたから。
「それじゃダメじゃないデスか。カップ焼そばばかり食ってちゃいけマセんよ」
「そうはいかねえ、合宿にも持ってきたからな」
「大介さまー、お湯が沸きましたですじゃよ」
呑気な声が聞こえると、黒髪の少女が両手にカップ焼きそばの箱を抱えて近付いてきます。大介曰く誰もカップ焼そばを一人で食べるとは言っておらず、半分は京都の合宿に連れてきた一人の少女のものになりそうでした。正確には連れてきたというよりどこからか現れて付いてきたという感じでしたが、正体不明の幼い少女が七月宮稲荷に似た容姿をしていることは大介を困惑させていました。いつぞやラインバーグの言っていた「縁」というものがこの世に存在するのであれば、それに付き合ってみるのも悪くないのかもしれない、と思いつつも大介は一休みして好物のカップ焼きそばをかじるために、少女を連れて板張りの道場を後にします。
無論、修行なり鍛錬なりは肉体によってのみ行われるものではありません。柚木塔子やその後輩の鴉鳥真琴のようにバックヤードが主体の者であれば、鍛えるべきは自分の技や力のみではなく、鍛えた他人の力をどれだけ活かせるかということにも大いに意味がありました。古来より人を用いる者にはそのための技術が要求されるものであり、訓練された十人の兵士は一人の英雄に勝るのです。
「フォワードは八神一人、あと三人がサポートだ。どう動かすかは自分で考えてみてくれ」
「は、はいっ」
塔子の言葉に真琴は緊張を隠せない顔で頷きます。長い黒髪を揺らして、大きく深呼吸をする。京汝鳥の協力者と対峙しての四対四での模擬戦、塔子の発案でその指揮を委ねられていた少女は考える暇も与えられず、双方ともに動き出しました。
「えっと、柚木先輩は正面を開けて左右に陣を重ねて下さい。瑠璃ちゃんは浄術の準備をお願い」」
「了解」
「はいっ」
「鴉鳥さん、ではこちらは出ます」
「え?あ、はい。お願いします」
塔子が左右を塞いで中央から八神麗が前進、その後ろに瑠璃や真琴が控えます。自信があるとは言えませんが、最初に自分が把握できるように戦場を狭くすることを真琴は考えました。麗は二本の模造刀を両手に構えますが、状況を見て真琴の意図をすぐに理解した彼女は陣の範囲から突出しようとはしません。指揮官が仔細な指示を与える場合もあれば、それぞれが判断して問題があればそれを指摘する例もあるでしょう。麗の動きと判断を真琴は信頼しているようでした。
術士としては力の弱い、塔子が左右に設けた陣は力も小さく頼りないものですが、あえて破るには時間が必要であり麗の標的となるでしょう。京汝鳥の退魔士は二人、三人と続けて麗に対峙しますが、麗は打ち合わずに下がると陣の後ろに誘います。陣の広さを見るに三人同時は不可能と見た彼らは先行する二人が同時に打ちかかりました。一対二の状況ですかさず麗の左手が、小太刀を逆手に握ったまま複雑な印を結びます。
「武甕雷之男神・・・武甕雷ッ!」
かけ声とともに小さな雷が麗の左半身側に落ち、退魔士の一人を止めると同時に踏み込んで右の太刀でもう一人を打ち据えました。これは受けられますが、術と太刀の一撃が彼らの動きを止めたところで、控えていた瑠璃が両手を開いて精神を解き放ちます。
「大黒天様の諸尊真言。ナウマク、サマンダボダナン、マカカラヤ、ソワカ・・・はいっ!」
瑠璃の言葉とともに今度は目に見えない大きな力が弾けて、退魔士たちは不自然な動きで跳ね上がると後ろに転げるように倒れました。前衛の三人が崩壊したところで麗が突進、これで勝負が決し、塔子から制止の声がかかります。
「よし、それまで!思ったより連携も行けそうだな」
「ありがとうございます、先輩」
「何、私もいつも指揮ができるとは限らないし、君なら広くものを見ることができると思うからね」
恐縮する真琴に、塔子は率直な評価を伝えます。彼女が懸念する東汝鳥の騒乱の問題は、首謀者が一つではなくしかもその中に場当たり的に動いている者たちが存在することでした。いっそ計画的な者であれば充分な準備が整うまで動くことはないでしょうが、例えば地蜘蛛衆のようにいつ直接的な騒乱を起こすとも知れぬ連中もいましたし、或いはそれに便乗する者も今後現れないとは限りません。その時、ただでさえ戦力の不足している妖怪バスターとしては、集まるにせよ分散するにせよ柔軟な行動を取りうる体制を作っておかなければならないでしょう。塔子が動けるときはまだしも、仮に複数の箇所で騒乱が起こったときにどうするのか。
「だが実戦において定石は存在しない、むしろ強いが故に負ける例も多いのが戦いというものだ」
「は、はい」
弟子に対する師のような口調で、塔子が言葉を続けます。往々にして強い力を持つ者ほどそれを活かせなければ弱体化する。如何にして相手の攻め手を防ぎ、如何にして自分の攻め手を活かし切るか、それを実現する手段こそが指揮というものなのです。であれば戦いに定石は無くとも攻めと受けがその根幹にあることでは変わりはなく、これらを分けて考えれば戦況が整理しやすくなるのも道理でしょう。塔子の説明に、真琴は指先を軽く唇に当てると、小首を傾げました。
「それで・・・フォワードとバックヤードの概念が生まれる訳ですね」
「ああ、その通りだ。あとはその比率と連携が指揮官の個性になる」
「なるほど。定石がなくても共通した基本はある、と」
そこまで聞いて、真琴は塔子の指揮を思い返していました。剣術や格闘術を用いるフォワードが目標を抑えている間にバックヤードが陣術や結界術を駆使し、その効果を蓄積させることで対象を確実に弱らせていく。そして相手がほぼ無力化されたところでフォワードが仕留めるのが塔子流の指揮でした。無論塔子の指揮を真琴が真似をする必要はありませんが、指揮をする者と指揮に従って動く者と、双方の個性が指揮に影響を及ぼすことは厳然たる事実として知っておかねばならないでしょう。
「私のやり方はフォワードに持久力が求められることになる。だから朝霞あたりには私の指揮は疲れてイライラする、とよく言われるな」
苦笑しながら、塔子は肩までの髪をかき上げていました。
降りしきった雪が庭園の各所を白く覆っている、広い敷地を利用して部員たちは各々の鍛錬や修練に取り組んでいます。道場で組み手を行う者もあれば座を組んで精神の修練に努める者など様々でしたが、吹雪がその姿を探していた龍波輝充郎は人目を避けた山道の入り口で一人稽古を行っていました。鬼の力を秘めた半妖である輝充郎は、彼の強い力が周囲を巻き込む恐れがないようにと一人で鍛錬を行うことが珍しくありません。真に優れた力を持つ者は同時に自らの力を恐れることを知る、吹雪にとって輝充郎は心から信頼できる先輩の一人でした。雪を踏み分けて近寄ってくる足音に気が付いたか、輝充郎は肩ごしに振り返ると後輩の姿を視界に認めます。
「ん?どーしたこんな所まで」
「ちょっとお願い・・・っていうか見て欲しいものがありまして」
深刻というより生真面目そうな表情を吹雪がしていることは珍しい類に入りますが、人が真剣であれば対する者も真摯であるべきだと輝充郎は思っています。そして皮肉屋の後輩が真摯になる物事というのはそう多くはありません。その吹雪の頼みは剣術の型を一つ、見て欲しいというものでした。
黒髪をぞんざいに一本しばった、一見したところ線の細い少年に見える吹雪は、意外に重さのある一撃必殺を旨とする剣術を用います。耐えながら、あるいは避けながらただ一つの隙を窺い一閃で断つ。無論、しくじれば不利は免れませんが当人曰くそれを小狡さでカバーするのが吹雪の流儀となっていました。
「もちろん今になって手前の売りを捨てるつもりはないですが、せめてそれを少しでも強くできないかと思いまして。正直に言えばいざという時、一撃で斬れるようにって甘さがあることも認めます」
こと、輝充郎が相手であれば吹雪は韜晦しつつも本音で話をすることができました。技の重さに力は無論重要ですが、実際には力を流れに乗せる柔らかさがより必要であり、それは吹雪が得意とするところです。そこに速さと鋭さを加えるにはどうしたらいいか、しかも自分に向いた、実現のできる方法で。吹雪は太い眉を片方持ち上げると軽く肩をすくめました。
「それで、高槻に相談してみたんですよ」
「嬢ちゃんにか?」
「ぶっちゃけ、剣術研でそうした鍛錬に詳しいのはあいつですからね」
吹雪と春菜の確執のことは輝充郎も当然承知しています。その上でわざとらしく顔を合わせるか、或いはわざとらしく避けるしかないのであれば、今の状況を考えれば合って協力した方がいいということなのでしょう。そして互いが理性によって割り切った関係を認めていることが、互いを傷つけあっていることは吹雪にも春菜にもとうに分かっていました。輝充郎としては傷ましい限りですが、こればかりは当人以外にどうできるものでもありません。吹雪はそれを気にしないか、それを気にしない風を装っていました。
「で、一つだけ教わりました。それが俺の太刀筋をどう変えるかを先輩に見てもらいたいんです」
「もちろん構わんが、何で俺なんだよ?」
「そりゃあ俺が相談できて、しかも贔屓目が入らない人なんで」
それが輝充郎への敬意なのか吹雪自身への皮肉なのかは、当人にもよくは分かっていなかったでしょう。ただ、いずれにしても吹雪が輝充郎を信頼しているという事実があれば大した問題ではありませんし、輝充郎にも後輩の頼みを断る理由は何もありませんでした。稽古用の木刀を二本、袋から抜きながら吹雪はまだ足跡のない山道脇の雪上へと動きます。
「今までの太刀筋は見せた方がいいですか?」
「いらねーぞ、知ってるから」
「何気なく凄いこと言いますね・・・」
輝充郎が鬼の力を力任せに用いるだけの者であれば、たとえ信頼する先輩であったとしても吹雪は自分の太刀筋を見せようなどとは思わなかったでしょう。少なくとも剣士としての自負心があるならば、自分に及ぶか、それ以上の相手でなければ自分の奥の手を見せる価値はありません。居合いのように木刀を腰だめに構える吹雪に対し、輝充郎は渡された木刀を乱暴に肩に担ぐと、そのまま正面から向き合いました。それは剣を知らない故ではなく、輝充郎の人並み外れた膂力であれば反動をつけずに振り下ろす方が太刀が早いからこその構えです。吹雪にもそれは分かっていましたから、準備はいいですかなどと今更聞こうとはしませんでした。既に両者は構えと呼吸を整えながら、ゆっくりと間合いを近付けようとしています。野生の獣の如く、その間合いに入った一瞬が技を放つときであり、無論、相手が気を弛めようものなら本気で一撃を打ち込むつもりでした。実践する型であれば、相手もその心づもりがなければわざわざ見せる意味がないのですから。
双方が威圧感と緊張感を感じている中で、輝充郎は全身の力みを抜いて動きを軽くしています。吹雪の太刀には速さがありますが、リーチに勝る輝充郎は更に太刀を担ぐことで初動の差を補っていましたから、先に飛び込んでくるであろう吹雪の太刀を輝充郎が一刀を下ろして迎え討つことができる筈でした。足捌きが雪上をすべり、間合いに入るより一瞬早く、吹雪の身体が沈みます。
(遠い・・・?いや、来る!)
瞬間、輝充郎の背中を悪寒が走り、届かない筈の距離から吹雪の太刀が飛んで来ます。下がると同時にぎぃんという木刀ではありえない音が響き、輝充郎の手にしていた太刀が一撃で砕け散りました。乾いた音に続いて、折れ飛んだ刀先がくるくると飛んで立ち木に跳ね返ると輝充郎の背後に落ち、雪面に突き立つとあたりには何事も無かったかのように穏やかな静寂が戻ります。驚きを隠すのに苦労しながら、輝充郎は言いました。
「今のは・・・踏み込み、か?」
「流石ですね、一回で見切られるとちとショックですよ」
肩をすくめて傷ついたような顔をしてみせる吹雪ですが、輝充郎の背には寒空にも関わらず流れる汗が止まりませんでした。わざわざ吹雪が分かりやすいように、足捌きの見える雪上で技を使ったのでなければ正直受けきれた自信はありませんし、二の太刀まで続けられていれば尚更だったでしょう。
それは吹雪が本来用いる一の太刀を、わずか一歩深く踏み込んだだけの技でした。同じ呼吸で踏み込みの足を一歩だけ前に踏み出し、その分だけ身体を深く沈める。想像以上の柔軟性と筋力を必要とする一方で、扱うことさえできれば単純に今までよりも遠い間合いから、より鋭く早い技を打ち込むことができるのです。
「これでも鍛えていたつもりですからね。相当身体にも堪えますけど、二回三回なら余裕で打てます。ただ、今までより早く反応しないといけないのは太刀を使う側も一緒なんで、けっこう覚悟がいるんですけどね。似合わない言葉を使うなら勇気がないと打てない、恐れを抱いては使えないというやつです」
「今までより早く反応するか・・・言うだけなら楽だが、やるのは簡単じゃねーな」
素振りであればまだしも、相手のいる戦いであればより深く踏み込む一歩には大きな覚悟が伴います。春菜が吹雪に教えたという技は、鍛錬と精神によってのみ身に付けることの叶う武器でした。
「これも高槻流と呼ぶべきですかね?」
◇
香奈たち京都汝鳥の者たちが東汝鳥の者を招待した、その理由は東に封じられた汝鳥の大厄について少しでも関連のある知識を用意すること、それに備える力を身に付けるための鍛錬の場を与えること、そして伝えるべき動向と情報を与えることにあります。
「地元の恥のようで些か心苦しいのですが・・・東の大厄に便乗して騒乱を起こそうとしている組織はこの京都にもあります」
もともと、妖怪側の最強硬派集団である地蜘蛛衆もその本拠は京都汝鳥にありました。東よりも古くから存在する京都では暗躍する組織も古くからあるものが多く、単独で人里をにぎわせる異形のものがある東汝鳥に比べて留意すべき敵は少なくありません。そして、そうした組織の中には異形の妖だけではなく現地の人間が作り出した集団もあるのです。広い部屋に幾人かが集まっている、東汝鳥からの客人妖怪たちに向かって、香奈は話を続けました。
「数十年以上も昔の話ですが、京汝鳥ではブルー・エンゼル事件というものがありました。それは薬物の力によって人を強化しようというものですが、その事件を起こした系列の組織が未だこの地には残っているのです」
大きな騒乱があれば、当事者とは別にその利用をもくろむ者も現れます。ことに、その者らが小さな組織でしかないのであれば、騒乱はすなわち好機に見えるでしょう。かつて京汝鳥で事件を起こしたというその組織は今は小さく、力を失いかけていましたがそれは彼らが過去を崇拝する強力な原動力ともなっていました。スニール会、という彼らの名前を聞いたところで、ネイが表情をこわばらせます。
「スニール商会か・・・まだ残っていたとはな」
「ご存知なんですか?」
「当時、妾のリファール家がそこと手を結んでいたことがあるのだ。商会として日本に進出するための足がかりになったのだが、あまりに素行に問題があったのでウチの当主自ら乗り込んでこれを打ち倒したという話がある」
自分が生まれるずっと以前の話をネイ自身もよく知っている訳ではありませんが、行き過ぎた国粋主義であり選民主義者であったスニール会は、選ばれた者を強化する法と選ばれぬ人を盲目に支配する法の二つを追求し、その実験場に京都汝鳥を選びました。それは昔の出来事であり、当時同胞の米国人として子細を知らずに協力していたリファール家は、その非道を知ると自ら汝鳥の官憲と組んでスニール会を追放します。以後、彼らの名が表世界に現れることはありませんでしたが、リファール家では先祖の恥を敢えて戒め、自らの非道を正す精神を示すものとして事の顛末が伝えられていたそうです。ネイの話に、ラインバーグは珍しく感心した素振りを見せました。
「なるほど、それで京都に来るのを渋っていたんデスね?」
「いや先ほどまですっかり忘れていた」
英国人教師の感心と期待を簡単に打ち砕くと、ネイは香奈にスニール会の動きについて続きを促します。彼らの思想が昔も今も、人の世に相いれないものであろうことは彼女にも分かっていました。
それは単純に、優れた人間に優れた能力を与えることによって大勢を統治すべしという典型的な選民思想によって成り立っています。歴史的に見ても寡頭制度が人を賢明に導いた例は多くありますが、それは人の社会が成長を続ける過程で通り過ぎる道程の一つであって、如何に便利であったとしても多くの人が受け入れることのできる思想ではありません。スニール会はかつて薬物の力によって選ばれた人間を強化し、その力によって人を管理しようと思い立った者たちの集まりでした。その活動は当時のうちに打倒され、彼らは国外に退去されることになりましたが、わずかに潜み隠れた者たちは数十年以上もの間、汝鳥の奥底で新たな力を探し求めていたのです。
「彼らは決して大きな組織ではありませんが、宗教法人を名乗り堂々と人員の確保も行っています。この国では思想活動を取り締まることはできませんから、大手を振ってというほどではなくとも公に法に触れない限り活動を妨げられることはないでしょうね」
香奈のいう法に触れない、とは無論法に触れることを公にしないという意味でした。京汝鳥で調べる限り、スニール会の活動は極めて不穏であり、選民発想による人体強化の思想は消えるどころかなお危険なものにさえなっています。彼らは表立った活動によって組織と資金を維持しつつ、隠された地下に毒刃を並べていました。
東汝鳥にある大厄の封印は、彼らにしてみれば利用すべき絶好の機会に見えたことでしょう。何しろ、彼らの勢力は規模であれば地蜘蛛衆にも遠く及ばないものでしょうから。
「でもそいつはちと心配デスね」
「と言いますと?」
「まず東汝鳥のモンが京都に来た、これは彼らにとっては単純にchanceデス。騒動のタネがある東汝鳥から人が減るんだったら、入れ替わるように人をそちらに動すことができマスから。ただ彼らの目的を聞いてるとナニしたいのかちとハッキリしませんが、地蜘蛛と組んで影響力を広げるくらいはしてるかもしれまセン」
ラインバーグは無精髭の生えた顎をなでながら、果たしてもっとも悪辣な状況が生まれる条件は何であろうかと思考を進めます。他人の策謀を図るには相手の立場になって考える方法と、自分が一番困ることを考える方法の二つがありましたがラインバーグが好きなのは後者でした。実際に彼の懸念はすぐに現実のものとなりますが、それが深刻でなかった理由はスニール会が決して大きい組織ではなかったことと、何より剣術研とオカミスの部員たちの実力が顧問たちの信頼に値するものであったことによります。ですが、そこに別の問題が潜んでいたことにまでラインバーグは思い至りませんでした。
座の修練を終えた春菜は、雪に覆われた庭園の空気に身を包むべく軽装のままで敷地の中を散策していると、やはり鍛錬を終えたらしい吹雪が上気する息を白く吐きながら向かいの石段から下ってくる姿を見つけます。小さく手を挙げて、声をかけると少年も青みがかった目に穏やかな光を返しました。横に並び、手入れのされた庭園を歩く二人の姿は、知らぬ者にはごくまっとうな学生同士が連れだって歩いているようにしか見えなかったことでしょう。
「どう?このあいだの型は上手く使えそう?」
「さてな。だが、上手くいかないと困るんで何とかするさ。有り難うよ」
親妖怪派と対妖怪強硬派で知られる彼らは深く、激しく対立しながらも妖怪バスターの分裂を避けるために互いに手を取って協力せざるを得ません。吹雪も春菜もそのことを充分理解できる程度には分別があり、だからこそ彼らの溝はいっそう深くなります。
「そういえば、メイヤの様子はどう?」
「今は結界を閉じてるよ。監視はこっちでしてるって言ったろ」
その言葉に、一瞬春菜が傷ついたような表情を見せた理由は吹雪には分かりませんでした。メイヤを閉じているのは彼らが京都にいるための一時的なことですし、その背景には確かに春菜のような強硬派に求められいる状況もありましたから、彼女にそんなことを深く聞かれる言われはありません。マンション・メイヤは妖が暮らす場所というよりも、妖が暮らす異界の隠れ里へと通じている穴であり、その存在が人と人ならざるものを繋ぐ糸になっているのです。今はともかく、それを塞ぐことが正しいとは吹雪にはとても思えませんでした。
吹雪は春菜の思想に同調はできずとも、その頑なさには敬意を表しています。頑なさとは概して人に忌避されるものですが、少なくとも春菜のそれには理性が同居しており、彼女は感情のままに手を下す者ではありません。人の世で妖の手を掴むトウカも、その不公平なるを拒絶する春菜も、吹雪の目には共に純粋で傷ましい存在に映っているのです。
(それさえ無ければ彼女らも普通の娘であるだろうに・・・ってそうでもないかな)
些か失礼なことを考えたとき、吹雪は春菜が緊張した面持ちで立ち止まったことに気付きました。山道の向こうから近づいてくる、あからさまな敵意または害意の存在。しかもそれが彼らの周囲を囲っていることを感じると、よりによって退魔士の敷地の内で大胆なことだと吹雪は緊張気味に思い、木刀を入れた袋を握る手に力を込めます。
「誰だ?どう見てもお友達になりましょうって様子じゃないが」
吹雪の声に、目の前の山道にまず一人が現れたそれはごくありふれた、痩せて貧相な青年の姿をしていました。やや血色が悪く見える以外は鈍そうな、その者から伝わってくる敵意と害意の常軌を逸した強さが、少年の脳裏にけたたましい警鐘を鳴らしています。それは先に地蜘蛛衆に襲われたときと同様の感覚であり、今は傍らに頼りになる娘がいましたが不快な感覚が消えることはありません。青年は鈍重そうな顔で重そうに口を開くと、原稿を読み上げるかのように奇妙に抑揚の無い声で話し始めました。
「僕らの目的は分かっていルだろォ。君らが一人でも戻ることができねば僕らには都合が良ォい」
「スニール会って・・・あなたたちの事ね?」
その存在の詳細を彼らは香奈から聞かされています。人を強化する法を追求するというスニール会は、その思想と方法によって自分たちを選ばれた存在だと見なすことによって彼らの活動を正当化していました。それがすべての他人に通じることがない主張であっても、選ばれぬ者の戯れ言などを彼らが耳にする筈もありません。そして彼らがそれを為すに数十年をかけて考え出したおぞましい方法とは、異形の妖の肉を人に植え付けて培養する邪法でした。妖怪騒動の起こる汝鳥の地であれば、彼らが潜み活動をしやすいことは当然であったのでしょうが、その話を香奈から聞いたとき吹雪も春菜も嫌悪感を拭いきれませんでした。何と人の尊厳や成長を無視した、安易な発想であろうかと。
「僕ら選ばれし者の事を知っているかァ。僕らこそ人と妖を繋ぐ失われた輪の持ち主なのォだ。低級な人でも妖でもない、僕らスニールのエバーによって世界の混沌は繋がレル、僕らは人と妖の対立を超えた存在なんだよォ」
「エバー、ね。EVERとEVEあたりをかけた駄洒落かな?」
「なんだよ、それじゃあ42歳が縁起が悪いって言う厄除け神社と変わんねーじゃんか」
春菜も吹雪も彼らの信仰にはいたって蛋白で容赦がありませんでした。どのみち相手がそれを聞いているとは思えませんし、春菜も吹雪も青年の言っていた都合が良い、という言葉によほど危険を感じています。その言葉に従えば相手の目的はこちらを倒すことにはなく、捨て駒を承知でこちらを少しでも傷付け戦力を弱らせようということにある筈でした。恐らく相手にそれだけの人員の余裕があるというよりも、それによってこちらの意志を挫くことが目的なのでしょう。春菜が最悪の予測を立てている間に、青年の首と両肩が不自然に盛り上がり始めました。
「異形が人からでさえ生まれるなら、それを人に戻すこともできルだろォ、このようになああああああ」
奇声とともに青年の肉が肥大を始め、痩せていた肩と首は筋骨隆々になって大きく開いた口には頬を突き破って不自然な牙が生え、両の手には鉤爪が伸びてきます。一回り大きく、恐ろしげな姿になると口腔から不規則な白い息を吐き出し、ぎくしゃくと昆虫めいた動きで近づいてくるエバーに、春菜は一歩前に出ると構えました。
「冬真くん、戻って皆を集めて」
「そうは行かねーだろ、一人なんて男前すぎるぞ」
周囲には他の気配も消えておらず、春菜の言葉は吹雪にすれば逃げろと言われているようなものでした。剣士が仲間を置いて敵に背を向けるなど考える筈もありませんし、しかも当の春菜は自分の錫杖を東汝鳥に預けてしまって目の前の化け物を相手に素手で構えているのです。春菜も吹雪の返答が当然のものであることは分かっていましたが、ですが、少女の思いは目の前の化け物とは別のところにありました。
「仕方ない、か・・・」
わずかに瞳を伏せて小さく息を一つつくと、春菜は一度胆田に力を込めてから右手を引いて左半身に構えます。相手は異形の化け物であれその正体は人間であり、であれば吹雪に人を斬らせることは、できることなら避けたいところだったのでしょうか。誰かがやらなければならないことなら、自分がやってもいいだろう。武器が無くとも戦えるからこそ春菜は東汝鳥に錫杖を預けることができましたが、ただ、彼女はこれまで自分の素手の技を友人に見せたことはありませんでした。
本来、高槻流剛柔術は相撲を源流にして拳法を合わせた技ですが、彼女の祖父は鍛錬によって身に付けた頑健な重さと力によってそれを為していました。そして春菜には祖父のような力はなく、であればより技を冷酷に用いざるを得ません。しかも相手は得体の知れぬ力を持ってこちらに向かって来るのです。
「来なさい、異形の者よ」
鉤爪を振り回して襲いかかる右腕を春菜は避けながら左手で掴み、引き込むと同時に肘を曲げた右掌で相手の顎を下から突き上げます。首と脳を縦に揺らすと、上がった頭を今度は右手で掴んで下に落とし、踏み込んだ膝に叩きつけました。ぐしゃりという音とともに異形の青年の鼻骨が砕けます。
ですが春菜は掴んだ右手を放さず、更に踏み込んで頭を上げさせながら左の肩口から相手の鳩尾に当たりました。青年の肥大していた首筋が伸びきれずにぶちりという音を立てたところで、はじめて少女は血まみれの手を放すと振り上げた右手に左手を添えて振り下ろし、青年の頭部を地面に叩きつけます。全身の重心を右の掌に乗せて落とす、祖父が得意としていた鷹捉把と呼ばれる掌技の亜流でした。
地面からずんという振動が伝わり、倒れた青年の頭部を春菜は続けざまに重い震脚で踏みつぶします。祖父と異なり、力の無い春菜は踏み込む脚を自分の両掌で押し込むと、少女の足下で熟した柿のようにつぶれた血肉が飛び散りました。
その間わずか五手、吹雪が太刀を振るう前に、春菜の拳は青年を完全に破壊しています。その術の苛烈さに呆然とする吹雪の前で、春菜は友人に向かって振り返ることができずに視線を落としていました。
(こんな姿・・・見せたかった訳がないじゃない)
その姿こそ、修羅以外の何物でもなかったでしょう。返り血と肉片を浴びた春菜は、顔を伏せながらも涙の一滴すら流してはいません。自分にその資格が無いことを少女は知っており、それが吹雪にはたまらなく哀しく見えました。
貴重な何かをつなぎとめていた一筋の糸、それが切れてしまったかのような感覚を春菜と吹雪は感じています。切れた糸の一端は見あたらず、頼りなく降りしきる雪も一人の修羅の姿を包み隠すことはできないのでしょう。
彼らにできたことは、理不尽な不満を雪にぶつける程度のことだけでした。
>他のお話を聞く