ぱられるわーるど.十一
幼い頃に両親の目を盗んで、敬愛する祖父に武術を習っていた。その時、彼女の祖父が孫娘に伝えていた言葉がありました。お前は天与の才を持っている。その言葉に続けて、残念だがお前は才ある者なのだ、と。高槻春菜がその言葉の意味を理解できるようになるまでにはそれからしばらくの歳月を必要としましたが、結局、彼女の祖父は孫娘に自らの武術を伝えようとはしなかったのです。春菜は祖父からその基礎だけを教わりながらも、その後は道場に入ることを許されずにただ独りで彼女の技を磨かなければなりませんでした。
おそらくは、彼女が祖父に武術を学んでいたことを知っている少数の門下生たちも、春菜が両親の目を慮って道場に姿を見せなくなったのだろうと考えていました。ですが、春菜はもしもそれが必要と思えば両親を説得してでも道場に通い、祖父に教えを請うことをためらわなかったでしょう。彼女が祖父の技を継ぐことを由としなかったのは、他ならぬ彼女の祖父だったのです。
「お前の才は高槻流を継ぐことを許さない。得ることのできぬ技を学ぶ理由はなかろう」
古くは奉納相撲にその源流が求められると言われている、高槻流剛柔術の技はそのすべての基礎が重心を低く重く保つ足捌きと体捌きによって培われていると言われていました。その歩法があらゆる技の礎である、故にあらゆる技をこの歩法に乗せる。伸ばした腕を乗せればそれが突きになり、構えた肘であれば、突き出した膝であればそれが技になる。そして鍛錬によって得られた力を、踏み出す足の強さと重心に乗せてそのままぶつける技が高槻流の真髄でした。その基礎さえ身につければあとはただ巌の如く、頑健な肉体を鍛え上げれば、それが強さと化すのです。
祖父が賛していた春菜の才能、それは彼女が生まれながらに持っていた柔軟な関節としなやかな筋肉、すぐれた神経の伝達にありました。それは常人に困難な技であっても彼女には人よりも容易に実現させることができましたが、繰り返した鍛錬が力になる高槻流では、同じ鍛錬をしても春菜の身体は彼女の肉体に人ほどの負荷を与えません。そしてそれは、人と同じ鍛錬では彼女の肉体が人より強くならないということでもあったのです。春菜は祖父よりも多くの技を器用に為すことができる才能を持っている一方で、祖父と同じ技を彼女が用いたところでその力は遠く及ぶことはないでしょう。春菜は高槻流の基礎となる型や歩法、呼吸法を教わると祖父から学ぶべきことがなくなってしまったのです。
その春菜がもしも己を磨きたいと望むのであれば、祖父と異なる技を彼女自身が見出すしかありませんでした。そして、皮肉なことに彼女の才能はそれを可能にします。高槻流の足裁きと体裁きを基にしつつ、人に勝る迅さと角度で為される動きと、冷酷なほど効率的に破壊を求める技は高槻流剛柔術の使えぬ春菜が自ら考え、編纂したものでした。
春菜が未熟ながら剣道を嗜んでいたことには理由があります。自分の技が、人に用いてはいけないものであることを春菜は知っていました。素手ではなく竹刀を、木剣を、錫杖を使っていれば彼女は拳を用いずに済むのですから。
「はああっ!」
地に打ち倒した相手を一瞥すらせず、春菜は次の相手に向き直ります。異形の力を自らの肉体に宿した男たち、エバーと名乗る数体の襲撃者たちに周囲を囲まれても、凛とした少女は怯みの色すら見せることがありませんでした。それはどのような技であるのか、少女の手のひらはエバーの顔面に吸い付くと獣の顎のように咬みついてこれを叩き伏せています。人体にある突起の効果的な力点となる箇所に指の関節をかけて、手首の鋭い回転によって頚椎を折ると崩した相手の重心を自分の膝に落とすように叩きつける。素手で異形のものどもを打ち倒していく春菜の姿こそ異形の魔物そのものにしか見えませんでした。
黒髪を二本しばった、凛とした少女の後ろには青みがかった目をした少年が互いを守るように背を合わせながら大ぶりの木刀を構えています。冬真吹雪が春菜の背に立っているのは、彼女を守るためであると同時に彼女の姿を見ないがためであったのでしょうか。後ろで一本しばった髪が春菜の背や髪に触れるように思いつつ、他にたとえようもない、背後を修羅に守られる心強さを感じながらも少年の心は熱い高揚よりも冷えたかたまりの存在を感じていました。
(俺は蠍の火になれずとも、こいつだけを汚れさせる訳にはいかねーよ)
彼らを襲うエバーたちも、邪な法でふくれあがった体躯に鋭い牙や爪を持ちながらなお、わずか二人を相手にこれほど圧倒されるとは思いもしなかったことでしょう。吹雪は常の大太刀ではなく、鍛錬用に手にしていた木刀で襲撃者たちを薙ぎはらいながら、時に関節に蹴りを打ち込みためらいなく急所に剣先を突き込んでいます。人を捨てた者にあえて冷酷な攻めを弛める必要を認めなかったこともあるでしょうが、一本きりの木刀が砕ければ代わりはなく吹雪にも余裕があった訳ではありません。だからこそ、春菜もあえて一人で戦おうとしたのでしょうから。
少年と少女を囲う異形のものたちは数を利して、それ以上に自らの傷も犠牲も厭うことがなく牙をむき出し、爪を振り回して掴みかかり、殴りつけようと試みます。吹雪も春菜も一再ならぬ傷を負いますが、それでも一体ずつ襲撃者の数は減っていき最後の一体が雪中に沈むとようやく周囲に立つものは、少年と少女の二人のみとなりました。倒れたエバーの一人のうち、まだ息のあったものが力ある異形を倒す人間の存在に驚いてみせるような素振りを見せながらも、それでも嘲弄するかのように口を開きます。
「僕らの力は、まだ足りないようだねェ。だけどォ僕らの目的は・・・これで果たしていルのさァ」
「っかましい!」
「冬真くん!?」
その口調がことのほか癇に触った吹雪は、前歯に靴先を打ち込むと最後のエバーも動きを止めて静かになりました。激昂して生き残りから話を聞く機会を失ってしまったことを春菜に咎められますが、その口調が強いものでなかったのは彼女もまた吹雪と似たような感情を抱いていたからでしょう。愚かしい争いを終えてしまうと、吹雪は背後にいる春菜に改めて何を言うべきかを思いつくことができずにいます。自分の行為に対する釈明か、突然の襲撃者に対する分析か、あるいは春菜の技に対して「気にしていない」とでも言うべきであろうか。どれもまるで正しい回答には思えません。
もとより女性の扱いに慣れている筈もない少年ですが、例え慣れていたところでこの場で気のきいた言葉が浮かび上がるとも思えませんでした。結局無言のままでいるしかなかった吹雪ですが、春菜が抱いていた感慨はまた異なっていたことでしょう。多くの諦めと哀しみが少女の細い身体を苛んでいる一方で、春菜がすがるように思い出していたのは幼い頃、彼女が祖父に言われた言葉でした。
(私はお爺様の教えを継ぐことはできませんでした。でも・・・背を預ける友は、私にもいたんです)
足下に雪を踏む音だけが響いている静寂の中で、しばらくは互いに目を交わすことすらためらっていましたが、傷とそれ以上の疲労を思えばいつまでもそこに立ち尽くしている訳にはいかないでしょう。これも男の義務だとでも思ったのか、遠慮がちにかけられる吹雪の声は、どこか曖昧なものにならざるを得ませんでした。
「あのよぉ、高槻」
「ありがとう。嬉しかった・・・」
背中越しの、哀しげな春菜の返答にはどのような意味が込められていたのでしょうか。襲撃者が用いていた人避けの術が割れたのか、ようやく周囲に音が甦ると聞き慣れた仲間たちの声が遠くに聞こえてきます。血に彩られた少年と少女は、互いに背を預けて皆が来るのを待っていました。
◇
異形の力を人の肉体に植え付けられたものたち、エバーによる襲撃は敷地の数箇所でも同様に行われています。その人数は思いのほか多く、二体三体が束になると牙や爪をむき出して、死を恐れずというよりも死ぬことを知らぬ戦いを挑みます。それが勇敢さによるものではなく、愚かさによるものであったとしても彼らには同じことでした。
「陣が・・・すまない!抑えられない!」
「柚木先輩!八神先輩も下がってください!守りを固めます!」
恐怖と戦慄を押さえ込む口調で鴉鳥真琴の声が響き、皆が互いにまとまるように下がりながらエバーたちに目を向けます。襲撃を受けて柚木塔子が咄嗟に組んでいた陣は確かに彼女自身の力と合わせて弱いものだったとはいえ、異形のものたちは陣の力に己れの身がちぎられ潰されることすら気にせずに強硬に突破を試みていました。無秩序な前進を食い止めるべく、すかさず八神麗が二本の刀を交差させると短い神降ろしの言葉を唱えます。
「出でませ、火之迦具土!」
言葉と同時に開いた刀の間から、立ち昇った業火が壁になってエバーの腕や足を焼くと不快な臭いが周囲に立ち込めました。勢いよく広がる火が目の前に立つ二体の異形のものを燃え盛るたいまつに変えてゆきますが、麗の背後から聞こえる悲鳴が気を散らします。慌てて振り向いた目の前には頭上から落ちかかるように飛び込んできた、もう一体のエバーが牙と爪を振り回して塔子や真琴、多賀野瑠璃といったバックヤードの仲間たちに襲いかかろうとしていました。
「独弧陣!間に合えっ!」
すかさず塔子が術に用いるチェスの駒を投げつけ、それがエバーに当たると同時に手早く印を組んで簡易な陣術を完成させます。単独の陣具に対して瞬間的に、小さな陣を生み出す術は力こそ弱くとも集中すれば相手を止める程度のことはできるかもしれません。それでも大薙ぎに振り回された爪が咄嗟に身をかばっていた真琴の腕から袖口までを斬って少女の白い肌を傷つけますが、一瞬遅れて瑠璃の真言が完成しました。
「毘沙門天様の諸尊真言!ナウマク、サマンダボダナン、ベイシラマンダヤ、ソワカ・・・ええいっ!」
瑠璃を中心に球形に広がった力が、異形のものだけを押し返してふくれあがったエバーの肉体を弾き飛ばします。転げるように倒れた化け物にすかさず麗が跳躍すると、ニ本の刀を薙いでこれを斬り伏せました。真琴の怪我は浅く、エバーも周囲に転がるものたちしかいなかったようですが、遠く数箇所から流れ聞こえてくる騒音の様子は襲撃が単独のものではなく、しかも大規模であることを示しています。
「とにかく戻ろう。この状況では無闇に動き回る方が危険だ」
不安を押し殺して合宿所の本堂に塔子たちが駆け戻った頃には、おぞましい襲撃者たちもその多くが打ち倒されているようでした。負傷者も多く出ていましたが、幸いというべきか東汝鳥の主要なメンバーには犠牲はなく態勢が立て直されるとエバーたちも次々と仲間を回収して撤退を始めています。中でも春菜や吹雪を襲ったものたちは他に比べて数が多かったようですが、それもすでに片付けられて一様に撃退されていました。とはいえ、襲撃こそ撃退したもののエバーたちは打ち倒された者を含めて姿を消してしまっており、白昼堂々と行われた突然の襲撃が何を目的としていたのか、この時はまだ明らかにならなかったのです。
◇
襲撃者の姿も消えて一応の平穏が戻り、怪我人の治療が行われている中で春菜にしろ吹雪にしても重い怪我といえるほどのものはありませんでしたが、それ以上に疲労の色が濃かったために二人とも一日程度の安静を言い渡されていました。
「別に死にはしないけど、休んだ方がいいよ?」
みなとそらがわざわざ東汝鳥から京都を訪れていたのは、彼女を従えているらしいネイ・リファールとともに冬の京都でのリゾートを楽しむためであったのかもしれません。学園の養護教諭でしかない彼女が合宿に帯同する理由はありませんでしたし、こと表向きには学園における剣術研究会とオカルト・ミステリー倶楽部の活動は停止されていたのですからなおのことだったでしょう。黒髪を長く伸ばした美貌の養護教諭は、ふだん保健室に陣取っているときですら治療や介護に積極的な訳ではなく、怪我の耐えない学生たちに傷害保険を勧めているような有様でしたが保健室にいる保険屋という立場がどこまで冗談であったのかはいささか判然としていませんでした。人外のもの、人とウサギの半妖であるというそらにとっては、意外にそうした言葉の力が意味を持っているのでしょうか。
春菜は心身の疲労を自覚していたのか、そらに言われると素直に医務室のベッドに身を横たえており、同様に安静を言い渡された吹雪は彼を知る者の多くが予想した通りの皮肉な口調でそれを拒んでいましたが、翌日になって春菜がいる病室を訪れています。とはいえ少年が自分の言うことを聞くつもりになったのではないだろうことは、そらでなくとも分かっていたことでしょう。厳寒の季節を感じさせる、薄曇りの窓外から差し込んでいる明かりは淡く、雪面の照り返しが加わってはじめて世界の明るさが保たれているようにも感じられます。あるいは人ウサギのそらであれば、風流な雪景色は彼女が好むところでしょうか。
「そうでもないよ。冷えるし」
「なるほど、そいつは失礼しました」
しごく当然に答えるそらに吹雪は苦笑を返します。人外であれ感覚は人と変わらずとも不思議はない、妖怪と人の関わりについて長らく春菜と対立していた吹雪としては、かえって異形の妖が人と異なるものだと決めつけすぎていたのではないだろうかといささか大仰に考えました。
ひとつ首を振って、先の襲撃で自分や春菜たちの手当てをしてくれたことに型どおりの礼を言うと、吹雪は春菜が病室に一人いることを聞いてから、彼女に用事があるのでしばらく座を外してくれないかと頼みます。頼みにくい話であることは承知の上でしたが、黒髪美人の養護教諭は吹雪の表情から何かを読み取るような顔になると、形のいい眉を寄せて怪訝そうな声で言いました。
「趣味が悪いよ?」
やはり少女の病室に一人で入りたいとは、礼に欠けるということでしょうか。ですが主語も目的語も曖昧な、数語の言外に単純ではない意味が込められているようにも吹雪は思います。学生たちからは保険屋とも呼ばれている、そらは保険金を下ろさせないためと称して奇態な献身を日々見せていることも多く、掴みどころがないながらも無責任という訳でもありません。過大評価かもしれませんが気軽な存在に思わせてやることはやっているのかもしれませんし、ことに人外のものは冗談めいた言動に意外な理由やこだわりを持っているものです。
どこか気怠そうな、それでいて心中を見透かすような目に吹雪は居心地の悪さを覚えて背を揺すると、この人ウサギは自分の心を見透かす力でも持っているのではないだろうかと疑います。その疑問を証明するかのように、そらは表情も変えず淡々と言いました。
「自殺しないでね?自殺でも保険は下りちゃうから」
「いえいえ滅相もない、俺には誰かさんたちと違って悲壮感に溺れる趣味はありませんよ」
言いながらも、吹雪の背を冷たい汗が流れています。やはり見透かされているらしい、それが人外の人ウサギの力なのか、それとも自分の態度があまりに底が知れているせいなのか分からなかった吹雪は苦笑するふりをして目を伏せると黒髪の養護教諭から視線をそらします。
「それからいやらしいこともしないでね?手錠が下りちゃうから」
思わず吹き出した吹雪に、そらは形のいい唇の端だけで小さく笑うとそれ以上は何も言わずに、スツールから腰を浮かせて医務室の扉を出ると外から鍵をかけてしまいました。大きく息をつく吹雪にとってはありがたい一方で、気がきくというべきなのか、あるいは無責任というべきなのでしょうか。
薄い衝立ての向こうで少女の影がベッドの上に半身を起こしている様子が分かると、吹雪はわざとらしく、遠慮がちな挨拶の声を投げかけます。許しを得てゆっくりと顔を覗かせた吹雪は、大きめのシャツをぞんざいに着た少女の姿を目にしました。ところどころ、軽く巻かれた包帯や治療の跡が痛々しく見えますが、その中に一つとして大きな怪我がないことを背を合わせた吹雪は知っています。少女が傷を負っているとすれば、人の目が届かぬ心の奥底でした。衝立て越しの会話が聞こえていたらしく、春菜はどこか呆れたような顔をしています。
「ずいぶん酷い会話をしていなかった?」
「俺のせいじゃねーよ」
華奢な身体を起こして、上体をまくらに預けるようにして座っている春菜の姿は一見すればおとなしやかなお嬢様にしか見えないことでしょう。常の凛とした表情も視線もこのときはさすがに和らいでおり、吹雪の目にも春菜は普通の女学生としか映りませんでした。
「酷いわね。これでも普通の女学生のつもりではあるのよ」
口に出して言ってしまったろうか、と思いながら吹雪の表情は春菜の冗談に感応することができずにいます。ともすれば深刻になってしまう、その空気を察しているからこそ春菜もあえておどけた素振りを見せているのかもしれません。この部屋を訪れるまでに逡巡を乗り越えていた筈の吹雪は、それでも多少のためらいを見せると意を決したように一つ息をついて、単刀直入に言おう、と切り出しました。
「これから雲外鏡を使う。高槻、お前さんにも俺と一緒にそいつを見てもらいたい」
吹雪の言葉に、黒髪を二本しばった少女の表情はあまり動くこともなく、意外そうな顔を見せてもいません。おそらくはその話が来るだろうかと考えてはいたのでしょう。ベッドに身を起こしている春菜はそれでも小さく首を傾げると、わざとらしく尋ねました。
「どういうつもりかな。女性のプライバシーを覗き見たいというなら趣味が悪いと思う」
そらとの会話が聞こえていたのでしょう。本当ならば、その冗談を笑うことができればいい筈でした。春菜の問いに、今更のように吹雪が答えたのもわざとらしくはあっても、自分たちが置かれた状況を見据えるためであったのでしょう。混迷の内にある汝鳥で、浅間神社にあるコノハナノサクヤヒメノミコトから吹雪が借り受けた雲外鏡。真実の姿を映し出す神器を少年が本当に用いることができるのか、いざという時のためにそれを知っておく必要があることは吹雪も春菜も充分に心得ています。
そして、同時に覗く者の真実の姿を、どれほど醜い姿でさえも映し出す鏡はそれを扱う者に例えようもない試練を課す道具でもありました。真実に耐えられぬ弱き心の持ち主であれば破滅すらもたらす鏡。それを手にした吹雪は鏡を自分が扱えるかを見極めると同時に、もしも彼が耐えきれずに自らの舌を噛み切るのであれば自分の代わりに春菜にその鏡を使って欲しい、と頼みます。少年と少女の間に短い沈黙が流れましたが、まさしく短い沈黙でしかありませんでした。
「・・・私が舌を噛み切るとは思わないの?」
春菜は言いますが、吹雪には確信があります。もしも吹雪が耐えられなければ春菜は必ず耐えてくれる。逆に春菜が真実の姿に耐えきれずに命を絶つというのであれば、残った吹雪は残された責任に耐えることができるだろう。いずれにしても、どちらかは雲外鏡を使えるようになる。一人ではどうか分からないが、二人いればお互いの責任感がそれを耐えさせてくれる。いや、無責任に死ぬことを彼らの責任感は決して許しはしない。
「残念だがその責任感を持っていて、しかもこんなことを頼める相手はお前さんしかいないんだ」
「責任感・・・ね。それが冬真くんの結論か」
深く、深く息をつく春菜を見て少年はあえて表情を和らげると、最悪でも一人いなくなるだけで雲外鏡は使えるようになるし、いっそ彼らの周囲を悩ませている親妖怪論と強硬論の対立の種も減ることになる。いっそハッピーかもしれないぜ、と冗談めかして笑います。吹雪の言葉に春菜は認めざるを得ないか、と言いながらもまだ多少のためらいを残しているようにも見えました。
「でもずるいとは思わなかったの?私には、考える時間が与えられないのに」
どこか、視線に憂いを帯びたように見える少女の問いに、吹雪は一瞬だけ目を伏せると視線を合わせます。
「考える時間が必要か?」
「いいえ。私の答えはイエス、よ。それが一番いい方法だと思うから」
納得したように首を振りながら、それでいてどこか諦めたように大きく息をつく春菜の姿を見て、その強さに吹雪は感嘆と痛ましさの双方を覚えました。小箱に収められている小さな銅製の鏡、こんなものが大いなる力を持つ神器であって、恐々としながらそれを覗き見なければならない。深刻で、莫迦莫迦しく、滑稽で、しかも恐ろしい。残っていたわずかのためらいを振り払うように、吹雪は頭をひとつ振ると春菜と目を交わしました。そこに映る姿は鏡に映るごくありふれた像、ですが心の底からそれを覗こうと決意したときに鏡はその力を及ぼします。水面に映る輝きを透過したときに始めて、澄んだ水底にある湧き水の溜まりが見えるように。
決意した二つの視線がそそぎ込まれて波打つ鏡面が像を歪ませる、このとき少年の手のひらに乗る小さな鏡には時間も空間も存在していません。同時に映る筈のない少年と少女の姿がともに見える一方で、その姿は現在から過去に遡ってしかも順に映りながら彼らが望む一瞬をも教えてくれました。雲外鏡の力は鏡面に映像を映すのではなく、鏡の輝きを見る者に真実を教える力であることを二人は実感として理解します。鏡は瞳であって、その視線に射すくめられた者は自らの心の深淵にあらゆる回答が映し出されて、望むと望まぬとに関わらずそれを知ることができました。毅然とした太い眉に青みがかった目を持つ少年と、清爽な姿に凛とした表情を持つ少女の姿とを。
「これは・・・」
それはどちらの声であったのでしょうか。最初に彼らが認識したのは少年の青みがかった目の深淵に映る姿であり、それは吹雪が予想した通りの、あるいはそれ以上に醜いものでした。他人に対する嫉妬や蔑視、憎悪にしばられている卑小でみじめな男。その姿に吹雪は眉を寄せますが、それよりも少年を辟易させたのはよりにもよって自分の色欲やいかがわしい感情までも露にされたことだったでしょうか。これならいっそ一人の方が良かったという強烈な後悔が少年を襲い、怒りや憎悪どころか羞恥心と情けなさで泣き出したい気持ちになりました。
ですが、耐え難い心の中で吹雪は気が付いてもいます。見られたくもない自分の姿を、人に知られることがどれほど辛いことかを。そして春菜が修羅となる姿を見たからこそ、吹雪はこの鏡を彼女と見るつもりになったのだということを。吹雪にこの鏡を見る決意をさせたのは、卑怯者にはなりたくないという少年の潔癖さでした。
(光を・・・)
嫉妬や侮蔑の塊を韜晦する諦観が包み込んでいる吹雪の像。己の姿を凝視してなおそれに耐える者は水面の下にある流れを見ることができるかのように、やがてその奥深くへと視線が潜って行きます。それがついに水底へと達したとき、その像を覗き見る二つの視線は奥底に光る小さな菩薩の姿があることに気が付きました。自らを襲う刃に身を晒しながら、襲いかかる絶望の帳に覆われながらそれでもなお斬らずにすむならば斬るべきではない、と思った少年の心。何も難しく考えることはない、吹雪がそう思っていたという事実は鏡に映し出されるまでもなく、厳として存在していた少年の真実の姿なのです。
(たとえ現実を憎んでもなお、それでも俺は世界を信じずにはいられない)
激しい幻滅と同時に映し出されている小さな救い。その呟きにたどり着くと、吹雪を覗き込んでいた意識は水面に浮かび上がりました。少年の意識は自分の真実に羞恥心混じりの安堵感を感じていましたが、同時にもう一つ覗き込まねばならない心が残されていることも知っており今更のように恐怖を感じています。自分の姿には耐えられた、だからもういいじゃないかという都合の良い感情が心中に大きくなっていました。
それが自分の選んだ、自分たちの選んだ決断であったとしても、自分の真実の姿以上に他人の真実の姿を覗き見なければならない恐怖は他に例えようもありません。少年の傍らにいる春菜が平然を装いながら、その実は恐慌寸前の心中にあることも吹雪は知っています。それすらも雲外鏡の力であって、神器の力は遠慮も容赦もなく、続けて彼らの視線の先に春菜の姿を映し出しました。
(止めて・・・お願い・・・)
水面が波打つように、浮かび上がった像は吹雪が想像していた通りの血ぬられた修羅の姿でした。異形のものはもちろん、人でさえも討つにためらいがない少女。仏と会えば仏を斬り、鬼と会えば鬼を斬らんとする。全身を血で汚して争いの渦中に立つ少女の姿は、痛ましくもいっそ凛々しいほどの存在でした。
雲外鏡が伝える世界の中で、吹雪は春菜の肩が小さく震えていることに気がつきます。そりゃあ、つらいことだろうと少年は思いましたが、どこか違和感が消えずにいることに疑問を感じてもいました。真実を知られることを恐怖する感情、なぜそのような思いを春菜が抱いているのか。どういうことかと訝る吹雪は、突然その理由を理解します。雲外鏡を通して映し出されている、血まみれの修羅が流している血は春菜自身が流した血の叫びでした。
「高・・・槻・・・?」
シーツを強く握りながら、顔を伏せている春菜の心を雲外鏡は容赦なく暴き出します。どれほど醜いことでも、愚かなことでも誰かがやらなければならない。それなら、他の人にさせるくらいなら自分が行う。彼女であればできると皆も信じているのだから。
春菜の嘆きに吹雪は思い返します。人に親しかったマンション・メイヤの妖が人を殺めたとき、妖を愛するゴスロリお嬢が涙したあのとき、彼女の腕の中にある異形の化け物を春菜以外の誰が滅することができたというのでしょうか。自分にはできないし先輩たちも同様だったろう。あの時、吹雪はどこかで春菜が手を下してくれることを望んでいたのではないか。
それでも斬らずに済むなら斬るべきではない、であれば斬りたくないものを斬らねばならぬときはどうするというのか。どれほど人に恨まれても、憎まれても、蔑まれても春菜が斬ることにためらいを見せることはありません。だからといって、それで彼女が傷ついていなかったとでもいうのか。強い彼女は、涙で心を濡らしていなかったとでもいうのでしょうか。吹雪は自分が蠍の火にはなれないと思っていましたが、その蠍は井戸に落ちて命を失うときにこう言っていたのです。
(どうか神様、私の心をご覧下さい。こんなにむなしく命を捨てず、どうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい・・・)
赤く燃え続けて夜を照らしている蠍の火。修羅になることを承知の上で、自らを焼く少女に吹雪は謝意を込めた視線を向けます。あるいはそれは彼女を侮辱することになるのかもしれませんが、それでも少年はその思いを捨てることができませんでした。
誰かに無理をするなと言って欲しかった。あのとき、吹雪にありがとうではなくごめんなさいと言いたかった。春菜は直接には答えず、ためらいがちにつぶやいたのは別のことでした。
「知ってる?剣術研究会に入ってから、私には二つ、嬉しいことがあったのよ。一つは真琴さんと二人、頼りなげな新入生のお嬢様と思われていたこと。そしてもう一つは、あなたが私の背を守ってくれたこと。私こそ、誰よりもあなたを頼っていたんだから」
雲外鏡がその姿を映しているのであれば、心の底をごまかす必要もないのでしょう。春菜が伝えたかった言葉は、神器の力を借りずとも吹雪の心中に届いていました。
◇
翌日には、春菜は医務室を出てふだんと変わらぬ姿を皆の前に見せています。本当に大した奴だと吹雪は思いますが、少女が多少の無理を隠していることも少年には分かっていました。それは雲外鏡の力ではなく、吹雪自身も地蜘蛛衆に襲われたときに似たような態度を取った記憶があったからでしょうか。
(結局、俺たちは似たもの同士なのかもしれないな)
だからといって、その日から吹雪と春菜が特に親しくなったという訳ではありませんし、彼らの対立が解消された訳でもありません。春菜は今でも斬るしかないならば斬るべきだと言いますし、吹雪は斬らぬ道があるならばそれを探すべきだと思っています。ですが、彼らは醜き菩薩の姿と己の血を流す修羅の姿を見ていました。
京都での合宿も最終日に近くなって、妖怪バスター予備軍たちは剣術研究会の部員もオカルト・ミステリー倶楽部のメンバーも等しく自分たちなりの鍛錬の成果を実感していたことでしょう。その力が東汝鳥で彼らを待ち受ける危難に及ぶかどうかは雲外鏡を用いてもなお知ることができませんが、少しでも救いの手があったことは彼らの大いなる助けとなっていました。
「だが貴様たちは肝心なことを忘れていることに気付いておらん!」
その中で、一人不機嫌の極みにあったのはそれまで雪中の温泉でのリゾート生活を存分に堪能していた筈のネイ・リファールです。ラフなカッターシャツを着た、一見して教師にも剣術研顧問にも見えないネイは外見だけでなく言動においても教師に見えないという評判であり、行き過ぎた放任主義にも関わらず理想は高く、功績は自分のもので失敗は他人のせいという力強い性格が一部の部員から暴君先生という呼び名を賜られていました。とはいえ、そう呼ばれて平然としているあたりも尋常ではなく、怪訝な顔をして集まってきた部員たちに向けて声を荒げている様子に、いつものことかと蓮葉朱陽が尋ねます。
「何ですかね暴君先生?」
「何ですかではない!貴様らだけがパワーアップをして、師匠に申し訳が立たぬとは思わんのか!」
「誰が師匠だよ誰が」
つぶやくどころか、いっそ堂々と言う朱陽の声ももちろんネイの知ったことではありません。大人物は瑣末な事柄など気にしない、という割にネイの不機嫌の原因はどうにも瑣末なものに見えました。
「そんなことはどうでもいい、妾にも妾にふさわしいスーパーファイティングな武器を持って来いと言っているのだ!」
「ようするに仲間外れにされたくないってことか」
「あんた別に剣士でもなんでもないだろ」
吹雪の憎まれ口も、あんた呼ばわりまでしている朱陽の指摘も意に介さずにいるネイの様子に、放っておいても大過はありませんが口やかましいのは確かでしょう。この教師が顧問としてそれなりに慕われているのは異形の妖の存在以上に不思議なことだと思われてはいましたが、収まる様子もなく騒ぎ立てている我侭顧問の姿に助け舟らしきものを出したのは龍波輝充郎でした。
「それなら京都にあるっていう白河塗りの六尺棍でいいんじゃねーか?」
「んなもったいない!そんな業物、龍波先輩が使ったほうがいーでしょ」
「同感同感。あたしゃ別にいいけど、だからって暴君先生が持ってどーすんのよ」
驚いて抗議の声を上げる吹雪に朱陽も同調します。割れず、砕けず、斬れずの三不と呼ばれる白河塗りの技法で固められた六尺棍。東汝鳥にある春菜の錫杖や朱陽の木剣のように、京都汝鳥に残されていた逸品であり、膂力に優れる輝充郎ならばより使いこなすことが適う筈でした。
「いや、俺はいらねーぞ。なんといっても俺の武器は俺の拳だからな」
「よろしい!ではあれは妾のものだ」
鬼の力を秘めた拳をかたく握る輝充郎に、ネイも即物的な満足感を満たします。いいのかねえと思いながら吹雪も朱陽も苦笑して肩をすくめました。確かに彼らには彼らが選ぶ戦い方がありましたし、どれほど優れた武器であってもそれが道具にすぎないことには変わりありません。半妖怪の輝充郎は自らの鬼の力をどこまで発揮してしかも制御できるかを考えており、朱陽は折れぬ剣を扱う己の技を磨くことに心を砕き、吹雪は雲外鏡の力を活かす方策を志しています。その吹雪は一撃必殺を増すために武術を知る春菜の師事を受けていましたが、京都合宿の最後の日になって伝えられていたことがありました。
「冬真くん、あなたに教えた技には、もう一つ先の姿があるのよ」
高槻流の深く重い踏み込みによって、一の太刀の間合いを広げて早さと鋭さを増す。それが春菜が吹雪に教えた技ですがそれは彼女が祖父に習った高槻流剛柔術の基礎であって、天与の才を持つ孫娘が自ら編纂した技はその踏み込みに変化をもたらすことができました。
「先に言っておくと、私にはできるけどあなたにはできないかもしれない。身体にかかる負担が大きすぎるから」
春菜の祖父が、彼女を指して天与の才を持つと言ったことは伊達ではありません。高槻流の踏み込みから放つ技ですら吹雪には二度、あるいは三度放つことが限界でした。その歩法に鍛錬した技を乗せる、それだけに高槻流の歩法は鍛え上げられた肉体を有することを前提とします。春菜がそれを扱えるのは彼女の柔軟な関節としなやかな身体があればこそでしたが、一方で春菜自身が使う技には人が鍛え上げた重く深い力を乗せることができず、その威力は鍛え上げた人の技に劣らざるを得ません。だからこそ、春菜が編み出した技は彼女ではなく、彼女に教わった者が用いなければ意味がありませんでした。
「才能なんてものは、人が思うほど役には立たないの」
それは誰に対する皮肉だったのでしょうか。吹雪も少女に負けず皮肉な笑みを浮かべると、自分には扱えぬかもしれない技を授かるべく礼を交わしました。京都で過ごす時間の砂粒は残り少なく、得られる力はわずかでも得ておくべきだったでしょう。鍛錬とはそれによって得られる結果ではなく、行われる鍛錬そのものにあるということを彼らは知っています。その日、春菜から吹雪に彼女の技が伝えられると京都汝鳥での合宿はその最後の日程を終えました。
◇
「いやそれにしても皆さんお疲れ様でしタ。少しでもよい旅行ができたなら紹介した甲斐があるというもんデスね」
「まったくだ。師を敬う心の重要さが貴様らにも理解できたことであろう」
ねぎらいの言葉をかけているウォレス・G・ラインバーグの横でネイ・リファールが鷹揚にうなずいています。京都汝鳥を出て東汝鳥に戻っていた彼らは、未だ妖怪バスター予備軍としての活動が禁止になっていることもあって堂々と集まることはできませんでしたが、わずかな協力者の助けを得て最低限の集合場所を確保しています。ことに幾つかの神社や寺はもともと彼らとはなじみが深く、瑠璃の実家であるえびす神社や、神木の祀られている汝鳥神社などはその代表的な場所だったでしょう。
「さすがに浅間神社は学園の敷地内にあるので、ちょっと無理でしょうね」
気品を感じさせる笑顔で、冗談を言う姿は当の浅間神社に祀られているコノハナノサクヤヒメノミコトでした。黒髪の少女然とした神様は富士山信仰の象徴であり、桜の木の神でもあって日本では特に親しみがある存在でしたが、神様自身が親しみのある言動を意に介さずともそれに対する人はなかなかそうもいきません。ことに浅間神社の巫女である八神麗や、それを志そうとしている高槻春菜にとっては礼を失する訳にはいかなかったでしょう。
「しばらく参詣もお清めもできず、申し訳ありませんでした」
「いえ。それにしても旅先から真っ先に参詣に来なくても良かったんですよ」
「キミのそういうところ、私は好きだけどね」
生真面目に頭を下げようとする春菜に、桜の神も麗も親しみと困惑の混じった笑みを浮かべています。京都から帰った春菜は、実家によるといったん身を清めてからすぐに社に赴いていました。春菜の生家である高槻家と、浅間神社の社がある学園の敷地とは汝鳥の端から端まで離れており、神様であっても少女の潔癖な生真面目さには当惑することがあるようです。
互いに時間を置いて集まる部員たちに、ラインバーグは主なメンバーが揃ったことを確認すると彼が京都で、そして東汝鳥に帰ってから得られた幾つかの情報を披露します。あごの無精ひげを何度か手でこすり、いつもの韜晦した表情を浮かべながら東汝鳥の封印とそれを抑える霊域の状態や、白河塗りの技法で朱陽の神木の剣が削り出されたらしいこと、地蜘蛛衆の動向とそして京都汝鳥で部員たちを襲ったスニール会とエバーについて判明した話などが順に語られます。
「まず基本的にスニール会は表に出てきてまセン。その彼らが直接活動するために作った連中がエバーというワケです。ずるいデスね」
冗談めかして言いますが、そのやり口には嫌悪感を抱いているのでしょう。言葉ほどにラインバーグの表情は穏やかなものではありませんでした。そしてそのスニール会の大義名分は人の力を高めることであり、手段を問わず人間を強化して優れた者を作り出すことにあるとされています。
「で、彼らが新興宗教を装って作ったのがエバーという訳デス。そして集まったヒトを実験台にしちゃう」
「程度の差こそあれ、弱き者に過ぎた力を与えることで信仰に利用している訳ですか・・・」
いまいましげに、柚木塔子は顔を歪めます。弱者救済に用いられる手法は一つではなく、時に日々の糧であったり不安の解消であったり職を得ることによる社会的な充足であったり、そうして与えた満足感を誘導して暴走させることによって人を支配しようとする輩は古来より絶えたことがありませんでした。その古典的だが効果的な手法に合わせて、発揮されるエバーの異形の力。妖の肉体を人に植え付ける技は単純な発想ですが、作り出されたエバーはそれ自体が異形の化け物と生け贄とを自ら兼ねている存在であって、その力を侮ることはできません。
「当人たちは自分を大した存在だと思っていることが、より気の毒というか厄介というか」
「彼らが京都で襲ってきた理由は不明デスが、あれから東汝鳥にも進出してきたみたいデスね」
「どうしますか?彼らの目的を探すか、またはこちらは要所を抑えるという手もありますが」
シャープな戦略的センスを感じさせる、塔子の言葉にラインバーグは流石という顔をします。活動を予測しきれない相手を無理に追って消耗するよりも、ことが起こった場合に影響が懸念される要所を集中して守ることで事態の悪化を避ける。東汝鳥の要はあくまでも大厄と呼ばれる汝鳥の封印であり、それを為している四方の社や仏閣でした。こうした思考ができるという意味で塔子は妖怪バスター予備軍では誰よりも欠かせない存在であって、時としてどの部員や顧問よりも頼りになることがあります。
汝鳥の封印を囲うとされる社の中で、主だった霊域とされているものとしては東南にある神木が立つ汝鳥神社、西北は学園の敷地内にある浅間神社、北方にある多賀野瑠璃の生家であるえびす神社や西南で七月宮稲荷が祀られていた天乃原、東北にある異形のものが集う音無山などがありました。それらを狙って襲撃者が一斉に兵を繰り出せばこちらも分散せざるを得ませんが、それは同時に相手が戦力を分散させる好機ともなり得ます。そしてすべての場所にすべての味方を等分に動かす必要はありませんし、動かした味方をすべて目的の場所に配する必要もなく要所を抑えたり敵の移動や集結を阻害することで目的を達することもできるでしょう。もちろん、相手が動き出す前に要所を制圧するという塔子の主張にも理がありました。
「妾も伊達に日本史担当ではないぞ。これでも兵法にはうるさいのだ」
「兵法がどうかは知らんがうるさいのは確かだね」
いつの間にか姿を見せていたネイに、朱陽が混ぜ返します。おそらく社の祭祀と祀られた神の力が生きている汝鳥神社やえびす神社、浅間神社にはより強い力が宿っていましたから襲撃者も容易には手が出せないでしょう。麗や春菜であれば、彼女たちが祀っている浅間神社の守りに後ろ髪を引かれる思いがありましたが今は個人的な好みを語るべき時と場合ではありません。
その中で問題とされているのは七月宮稲荷に祟られた社がある天乃原と、異形のものが集う音無山の二つでしょう。音無山は古く音楽の神を祀った祠があるとされており、旧日本軍の決戦壕があったとも言われていて慰霊の碑が建てられています。ネイとラインバーグは剣術研究会とオカルト・ミステリー倶楽部の部員たちを二手に分けると、それぞれの様子を調べて可能であれば当地を少しでも祀り鎮めること、そして襲撃者の動向を捜すことを言い渡しました。
「天乃原には・・・わたしが行きます」
「イライラするがキツネの縁がある。俺も行かせてもらうぞ」
決然と言う多賀野瑠璃に朝霞大介、龍波輝充郎に鷲塚智巳、そして彼らを率いる形で塔子を合わせた五人が天乃原に向かいます。生来、気の弱い瑠璃が自ら名乗りを上げる姿は稀有なものに見えますが、七月宮稲荷が祟る直接の原因のひとつとなったことに自らの責任を感じてそれが少女の内面にも変化を及ぼしているようでした。一方の音無山には麗や春菜のほかには冬真吹雪に鴉鳥真琴、蓮葉朱陽が選ばれますが、その選抜にやや不満げな顔をしたのは吹雪と朱陽の二人です。
「本当は俺も天乃原に行きたいですけどね」
「あたしもだね。キツネ神が今の騒動の原因だと思うとねえ」
「音無山の状況は意外に分からないからな。調査に長けた者はそちらへ行って欲しい」
「あたしは長けてないよ?」
たしなめる塔子の声に、あっけらかんとして言う朱陽の言葉を聞いて思わず苦笑が漏れます。塔子が言う通り春菜や真琴は剣術研究会でもこうした調査に長けた者と思われていましたし、ジャーナリスト志望で新聞部を掛け持ちしている吹雪も情報の扱いには慣れています。その一年生三人に上級生として麗と朱陽がつくということでしょうが、同時に塔子としては自分がいないチームの指揮を真琴に委ねる思いもあったでしょう。無言で送られる視線の意味を理解した真琴は、色白の顔に緊張の様子を見せていました。ひとつうなずくと、塔子は集まっていた全員に説明を始めます。
「今更伝えるまでもないが、今回の目的は複数存在する。汝鳥の封印を抑えるべく天乃原と音無山の現状を調べること、当地で祭祀を執り行い地域の霊格を保つこと、そして予想される妨害を排除することだ。特に最近、異形の出没は確認されていないがこちらが動くことで彼らも反応する恐れがあるし、反対派の人々が来ないとも限らないから油断はしないでくれ。また、戦略的には両地点を確保することが最優先となる。不測の事態に備えて両チームは常に連絡が取れるようにすること。本部はここに置くが、定時報告は30分単位で行うこと。先生方は他の部員を連れて待機、状況によっての戦力投入はお任せします」
「指揮官は本陣にどっかり構えておかねばならんからな、些事は貴様たちに任せるぞ」
腕を組んでうなずいているネイですが、誰が見ても指揮をしているのは塔子にしか見えなかったでしょう。その塔子に音無山の指揮を任されることになった真琴は、おとなしやかな顔に一瞬、怯んだような色を見せますが小さく拳を握ると深呼吸をして気を落ちつかせようとしています。汝鳥の旧家である鴉鳥の家に生まれ、病弱で周囲から頼りないと思われていた彼女が誰よりも重い責任の一つを当然のように受け入れている姿を見て、彼女の兄である智巳は感嘆の思いを抱くとともに省みて自分の姿を知り、これ以上真琴に負けてはいられないという思いを強くしました。霊刀備前長船を持ち、汝鳥の封印に対抗する鴉鳥の嫡男。そのような力がどれほど意味の薄いものであるかを、彼の妹が教えてくれています。あるいはこの時こそ智巳が本当に自分が兄であること、兄であるべきことを自覚した瞬間かもしれませんでした。
◇
音無山の頂に近い、切り立った斜面を背に朽ちかけた小さな祠が建っています。周囲にはまばらな木が生い茂って日差しに影を伸ばしており、その影を吸い込むかのように暗い亀裂に見える穴が岩肌の斜面に深く穿たれていました。それが旧日本軍による決戦壕に用いられたことを知っている者たちにとっては、空気すら澱んで息苦しく感じられたかもしれません。これだけは立派に見える、慰霊の碑が石造りの台座に乗せられていて、数十年を経た風雪に身を横たえています。
「決戦壕といえば聞こえはいいが、空襲後に逃げ延びた連中が終戦を知って集団自決した場所らしい。まあ道連れを求めて死ぬことを自決と呼んでいいなら、な」
皮肉な説明は吹雪のものでした。音無山での集団自決の記録は町の資料にも残されており、後に慰霊碑が建てられると度々鎮魂祭が行われますが、数十年も以前のことであって今はその風習も廃れていました。音無山に異形のものが多く目撃されるようになったのもそれ以降のこととされていましたが、集団自決の話を知っていればそこに不気味な噂が立つこともあるいは不思議ではないでしょう。先に野槌や溜め池の怪が現れていたのもこの山であり、汝鳥の封印の一角である場所の様変わりに真琴は首を傾けています。
「この祠、確か音楽の神様が祀られていたんですよね?どうして音無山なんて名がついているんでしょうか」
素朴な疑問に対する回答は誰も持っていませんでした。無論、ここに来る前に彼女は町の歴史や記録を調べていましたが音無山の名前が昔からあることと、更にその以前から祠があったらしいことが辛うじて分かった程度です。作業を助けるために周囲にはすでに人避けの陣が張られており、後はこの場所で祭祀を行って封印を助ける霊格を高めること。慰霊碑を磨き、かんたんにでも祠の修復をした方がいいだろうかと考えていた真琴の耳に、春菜の声が届きます。
「ちょっと・・・何よ。何よこれ!」
「ど、どうかしたんですか?春菜ちゃん?」
ただ事でない声の様子に、他の者たちも集まります。震える指で春菜が示した先、慰霊碑に刻まれている碑文には次のように記されていました。「卿等御盾となりて君国に殉じ、而して其の遺骨は眠るに能わず。卿等が愛国の至情は万古国民の儀表であると信ずる也」。一瞬、何のことか分からずにいた者たちも数瞬の後にその意味を理解すると、祭祀に慣れている麗が驚きの声を上げます。
「これ、遺骨は眠るに能わずって・・・この地の犠牲者は何十年も眠りを許されていないということ!?」
「そこまでだァ。その先をお前たちが知ル必要はなァい」
耳障りのする、その口調を春菜や吹雪たちは聞いた覚えがありました。京都汝鳥で皆を襲ったエバーたち、ですが山道を歩み寄ってくる、白い装束を着た五つの人影に皆は息を飲み、傍らでは真琴が小さく悲鳴を上げる声が聞こえます。瞳に生色を宿していない、エバーの五人は春菜に吹雪に真琴、麗と朱陽に酷似した姿を持っていました。唖然とする者たちに向けて、先頭に立っている、吹雪に似たそれが禍々しい笑みを浮かべます。写し身の本体とは似ても似つかぬ声と表情。
「分かルだろォ。異形が人からでさえ生まれルなら、それをォ人に戻すこともできるゥ。僕たちが何故京都で君たちを襲ったかァ、妖怪バスターの姿と力を、僕らは手に入れたのだァ」
負わせた傷から手に入れた力や細片を回収し、それを培養してエバーの肉に植え付ける。同じ戦力を当てれば半数は相手を倒すことができるであろうし、エバーは幾ら倒れても代わりがいるが妖怪バスターとその予備軍たちはそうではありません。もはや生き物でも化け物ですらもない、異形のものたちは京都汝鳥で鍛え上げた力をもって彼ら自身に襲いかかろうとしています。人の力を高めて優れた人間を作り出す、スニール会の大義名分が帰結するところがこれでした。胸の悪くなるような顔をして、吹雪が呆れたように肩をすくめます。
「やれやれ、悪趣味ここに極まれりという感じだな。どうせなら・・・」
「瑠璃さんや鷲塚くんがいたらよかったのになあとか思ってない?」
「・・・お前さんはテレパスか? 」
「少しはね、私も同じことを思っているだろうから」
冗談めかしているとはいえ、まさか春菜がそのようなことを言うと思わなかった吹雪が意外そうな顔を見せると、少女は薄く笑います。えびすの巫女の神格を放棄していた少女と、霊刀備前長船に選ばれた鴉鳥の嫡男。彼らがようやく押し付けられた責任に相応しい成長と自覚を見せ始めたことを認めるようになって、ようやく春菜としてはそれまでの愚痴を言いたい気分にでもなったのでしょうか。
音無の祠と慰霊碑が立つ穴を視界の隅に置いて、自分たちと似た姿をした異形たちに吹雪は向き直ると腰の刀に手を伸ばします。スニール会とエバーの着想は単純でくだらないものであり、見かけ程に彼らは恐るべき相手ではありません。たとえ同じ力と技を有した個人同士の戦いであってもそれは決して五分ではなく、力の使い方を知っている側がより有利になるのは道理です。恐らくは戦いに慣れていないだろう、エバーの言葉は戦術や作戦の存在を無視したものでしかありませんでした。
「とはいえ、あいつが俺の外見だけではなく力と技を持っているなら、その相手をするのはかなりリスキーだと思うぜ」
それは自慢でも過信でもなく、自らの力を知る者はその弱点と得意を知っており、自分の技と力が他者に向いた場合の危険を思わざるを得ません。ですが、その危険を避けようとすれば結局同じ技と力を持つ者同士が戦うことになり、かえって力が拮抗する危険を選ぶことになります。そして何より、妖怪バスター予備軍たちの不利は彼らが誰一人として犠牲者を出してはいけないことに対して、エバーは相打ちを承知で襲いかかることができるという点でした。
同じ時刻、写し身を持つエバーたちによる襲撃は天乃原にも差し向けられており、輝充郎や大介や智巳、塔子に瑠璃たちの前にも彼らと寸分違わぬ姿をしたものたちが姿を現しています。白い装束を着て、生色を宿していない瞳も同様であり塔子としては嫌悪感と同時に危機感を感じずにはいられません。無論、こちらでも人避けの陣を張ってはいましたが、より強い意志を持って陣を越える者にはそうした弱い術は効果を及ぼさないのです。
「まさか、こんな手に出てくるとはな・・・京都の襲撃はこれを見越した準備だったということか」
自分たちの姿を写した五人のそれを見て、エバーの存在が相打ちを覚悟した捨て駒であることを塔子は理解していましたが、同時に彼らの主力が音無山に向けられているであろうことにも彼女は気付いていました。血肉を得て、どれほど力や技を再現することができたとしてもそれを使いこなすことは別の問題であり、更に瑠璃のように神降ろしの術が使える者の分身を作ったとしても偽物に三面大黒天を降ろすことができよう筈もありません。
同時に襲撃を受ける可能性を考えていた塔子はなるべく双方のチームに不測が起こらないような編成を考えていましたが、切り札とも言える瑠璃の力がなく、戦いに慣れた塔子の指揮もない音無山方面にはより大きな負担がかかるでしょう。であれば、不利な側により主力を差し向けることは兵法の常道でした。互いの距離は町の端から端まで離れていましたが、この際は少しでも早く片を付けて救援に赴く必要があるでしょうか。
「私と多賀野を除いて剣士は三人、向こうは相打ち覚悟で来るだろうが、こちらは防御ラインを敷いて攻勢を阻みつつ多賀野の術で終わらせられるか・・・」
「ちょっと待ってくれ」
手早く作戦を組もうとする塔子を、輝充郎が制します。驚く塔子の前で輝充郎だけではなく、大介も智巳も同様の顔で前に進もうとしていました。すでに鬼の力を引き出すための変身を始めながら、輝充郎は拳を固く握ります。
「あれは俺の鏡だ。俺は、いつまでも自分の鬼の力に負ける訳にはいかねえ。手出しは無用にしてくれ」
「相手の思惑に乗るのはイライラするが、俺も鬼野郎と同感だ」
「すみません、僕も・・・僕は、頼りない自分を自分の手で倒さなければいけないと思う」
どう考えても理性的とは思えない、彼らの声に塔子は耳を疑います。剣士として自分と同じ力を有する者と戦うことは確かに意味があるだろう、だが、彼らは別にスポーツをしている訳ではなくただ一つの負けどころか引き分けすら許されない戦いの最中にあるのです。
「貴公ら、正気か!?こうしている間に、間違いなく音無山の連中も襲われている!しかもあちらが敵の主力である可能性が高いんだぞ!」
あらためて言われるまでもなく、輝充郎も大介も、智巳にも状況は理解できています。彼らの決断が莫迦らしい意地でしかないことも承知の上でした。半鬼の力を制御できずにいる輝充郎も、七月の縁に対抗する力を求められている大介も、鴉鳥の嫡男として血筋に応える力を持てずにいる智巳も、単なる儀式のために自らと組み合おうとしているのですから。
「弁財天様の諸尊真言です・・・オン、ソラソバテイエイ、ソワカ」
塔子の後ろで、瑠璃が真言を唱えると小さな光が生まれ、それは地面に吸い込まれるように飛んでいくとエバーたちの足下に落ちてから偽りの瑠璃と塔子の二体を光が包み込んでそのまま封じてしまいます。唖然とする塔子に、瑠璃はどこか申し訳なさそうな笑みを見せました。
「すみません。でも、わたしもこの方がいいと思います。誰も、負けないでください」
「多賀野・・・」
誰しもが強くいられる訳ではない。だからこそ、自分の弱さに挑むことがどれほど重要であるか、それがどれ程くだらない儀式であろうと必要なものであるかを瑠璃は知っていました。自分の弱さを誰よりも瑠璃は知っていたからこそ、捨てるのではなく打ち克たねばならない。輝充郎も、大介も智巳もそれぞれの表情で感謝を見せると、互いに距離をとるように分かれてそれぞれの自分に対峙します。塔子は深く息をつきますが、最早彼らを止めようとはしませんでした。
「くだらない感情だ・・・だが、五人いて四人が同じ心を持っているなら私が間違えているのかもしれないな」
そう言うと、腕を組んで口を閉ざします。後はただ祈る意外のことは彼女にはできないのですから。認められた三つの戦いは互いにゆっくりと間合いを縮めながらも、すでに一の太刀を図るべく隙を窺っています。一陣の風が吹く数秒を経て、塔子が自分の息を飲む音を聞いた瞬間に初手を放ったのは、暴走する偽りの拳を持つエバーの鬼でした。
火花が散るほどの激突、鬼の拳が輝充郎の鬼の装甲で弾かれると金属同士がぶつかりあうような音が響き、正面きっての力の衝突に弾かれた両者が互いに体勢を崩さぬよう踏みとどまりながら二撃目を狙います。それを合図として大介も低い姿勢から獅子が獲物の喉笛を狙うかの如く突進、己の腕を相手に取られぬように身体に巻き付ける構えで手だけが獣の顎のように相手に向けられています。大介が用いるバリツの格闘術は相手を捕まえればそれが最後ですが、互いに伸ばす手を弾いて容易にはその動きを捕らえられそうにありません。
輝充郎が激烈な撃ち合いを、大介が熾烈なせめぎ合いを見せている傍らで備前長船を構えた智巳はエバーを相手に向き直ったまま動きません。相手が構える武器は自分が持つ霊刀ではなく、だが相手は真剣を持ち相打ちを辞さないつもりでいます。備前長船ならずとも、普通の刃であっても智巳の肉体を斬り命を断つことは可能でした。
(長船で相手の剣を折るべきだろうか)
一瞬、そう思った後で智巳はかぶりを振ります。それではだめだ、これに頼ってはいけない。自分に打ち克とうとする者が霊刀の力で勝とうとするなど笑止の極みでしょう。犠牲を厭わないような剣では勝てないのだということを、智巳は目の前にいる自分自身に対して証明してみせなければならないのです。それには自分を信じ、自分にできることを行うしかありません。双子の兄として妹を守るためと考えていた剣よりも、兄として妹に顔向けができるような剣の方が遥かにましというものでした。
自分の癖は分かっている。見切りもできるし力も早さもある、だが力に頼り過ぎて太刀筋が愚直になりやすい。果たしてその通りの太刀が基本に忠実に、正面から振り下ろされると智巳はその軌跡を備前長船で受けながらも、刀を返して横に流します。智巳の姿をしたエバーが体勢を崩すとがら空きの胴が目の前に晒されていました。
(あれ?隙だらけだ)
返した刃をくるりと回すように振り上げながら、左から右へ横なぎに一閃を払います。備前長船の刃が異形の肉を斬り、すかさず右の脇を締めて振りかぶらずに小さく構えると、弾くように鋭く踏み込んで二の太刀を打ち込みました。払い、なぎ、打つ。教本に載るような三段打ちによって倒れるエバーを見て、智巳は自分が吹雪や朱陽といった当千の剣士に及ばずにいた理由を知りました。自嘲ではなく、理解によって呟きます。
「知りませんでした・・・僕の太刀筋って、こんなに無駄だらけだったんですね」
これほど頼もしい智巳の顔を、塔子は見たことがありませんでした。一番手を智巳が決めたことに驚きと感慨を覚えながら、俊速で組み合っている大介が更にスピードを上げます。
「やるじゃねーか鷲塚!気分いいぜえー!」
急速にスタミナを消耗するであろう動きを繰り出している大介の動きに、塔子が不安を覚えます。元来体力のない大介が、更に無駄な動きをすることは自殺行為であり、あるいは智巳の勝利に過剰に意気込んでいるのでしょうか。眉根を寄せる塔子の傍らに黒髪の小さな影が現れると、能天気な声援を投げかけました。
「大介さまー!ヘンテコな大介さまを倒すのですじゃー!」
「おいおい!来てたのかよ、あいつは」
一瞬、力の抜ける大介。確かにこの場所は七月宮稲荷の祠がある場所であり、祟り神と化した七月恋花の縁がある少女が姿を見せることもあり得るかもしれません。エバーといいコイツといい何のための人避けの陣だと今更のように思う大介ですが、相手が異形や神に関わるものともなればそんな力は及ぶべくもないのでしょう。
気をゆるめたかに見える大介にすかさずエバーが踏み込むと、腕を掴み一本背負いのような動きで懐に潜り込みます。跳ね上げながら肘を差し込んで折るつもりでいることが、自分の技として大介には分かりました。捕まれば最後となるバリツの格闘術が大介自身に襲いかかりますが、この期に及んで彼が考えていたのは七月宮稲荷のことであり、九本尾を持つ荒ぶる神との対決です。真似るしか能がないエバーの技など大介の脅威ではありませんでした。
「俺が隙なんか見せると思ったのかよ!ナメやがってイライラするぜぇ!」
投げられる勢いのままに、自分から飛び込んだ大介は腕を巻き込んで回転すると相手の下に潜り込みます。そのまま突き上げるように当て身を入れることで関節を打つ、それも流れるような動きで高速の当て身を一息に続けて叩き込むのが大介の技でした。エバーは立て続けに左肘から左肩、背後に回って脊椎、そのまま屈み込んで右足首、ひねって右膝、更に右脇と右肘、最後に首までを極められると全身を折れ砕かれて糸の切れた操り人形のように地面に崩れます。それ自体が生き物のように動く両手のひらを何度か開閉させると、不機嫌そうに大介は呟きました。
「畜生。結局、八箇所までが限界だったぜ」
「大介さま!足もとの危険が危ないですじゃー!」
九本尾の稲荷神を打つには足りないという大介に、黒髪の少女が叫ぶと断末魔のエバーが勢いのままに立ち上がりますが、すかさず強烈な頭突きを打ち込むと今度こそ異形の化け物は崩れ落ちて足下で動かなくなります。感謝のつもりか、それとも七月宮稲荷に伝えるつもりかは分かりませんが、少女に目を向けた大介は不敵な笑みを浮かべました。
「で、こいつが九箇所目だ」
智巳と大介が目の前のエバーを打ち倒し、残るは輝充郎に対している一体を残すのみとなっています。ですが半妖の力を植え付けたエバーはその力も技も優れており、暴走を恐れずに解放される力は輝充郎を圧倒していました。ただ衝動のままに破壊し、殺りくを望むだけの力が自分に向けられて初めて、輝充郎は暴走する鬼の力の恐ろしさとそれに対峙する人の心を感じたように思います。
轟雷鬼神・皇牙と称する鬼の力。強力だが長く扱えば鬼の血に人の心が耐えられず制御ができなくなる、自分の力を剣術研究会やオカルト・ミステリー倶楽部の仲間たちはどのように感じていたのでしょうか。これまでも暴走した力が危うく仲間を害しかけたことも皆無ではなく、強力な武器は恐怖の対象でもあったのではないでしょうか。同僚や後輩たちでさえも傷つけるかもしれない力、目の前にいる異形の化け物に利用されているような力が皇牙の力なのです。
(こんなバケモノが仲間だというのかよ?さぞ怖かろうに)
輝充郎の中に不条理な自分という存在への怒りがこみ上げます。こいつは許せない。こんな力が、制御もされずに暴れ回っていい筈がない。だからこそ輝充郎はあえて目の前のエバーに長期戦を挑みながら、暴走する自分自身を押さえ込みながら写し身を打ち倒すつもりでいます。エバーの鬼は邪な力を解放して、硬質の拳を輝充郎に叩き込みながらその顔には禍々しい笑みを浮かべていました。明らかに、輝充郎の変化にタイムリミットがあることを知っているのでしょう。
突き、殴りつけ、飛びかかる。装甲をぶつけ合う戦いが長引くにつれて、やがて輝充郎の中に強い衝動が沸き起こります。気に入らない、すべてを破壊しろ、ぶっ壊せと。その声は頭蓋から心臓までまるで木霊のように響きながら、決して消えることがありません。気に入らない、すべてを破壊しろ、ぶっ壊せ。気に入らない、すべてを破壊しろ、ぶっ壊せ!
「ああ、ぶっ壊してやるよ!目の前のテメーを!気に入らねえ俺の中のバケモノをな!」
半妖の力に悩みながら己の衝動を押さえ付けようとする、ですが自らの血を否定することは輝充郎には無理でした。それならばいっそ衝動が満足するまで力を使った方がいい、だが倒すべき敵だけに自分の暴走をぶつけるのだ。そう決意した輝充郎の、轟雷鬼神・皇牙の全身が雷を帯びると肉体に更なる力と意識が集中します。そのとき皇牙である鬼の力と、輝充郎である人の意志が初めて一つになりました。
放電する赤い装甲のような皮膚が熱を増して黄色く、更に黄金の輝きを得ると炎を吹き出して、たてがみが輝きを増していきます。雷と炎を全身にまとった金色の鬼、力の解放を知った輝充郎は高揚する精神のままに拳を構えるといささか大仰に叫びました。
「炎雷鬼神・紅蓮皇牙ァ!」
弓のようにまっすぐに引いた拳が解き放たれると、輝く突きが鋭く直線に伸びてエバーを正面から貫きます。堅牢な腕の装甲ごと、胸の鎧ごと突き破った一撃から炎が吹き出し、紅蓮に包まれたエバーに一瞬遅れてすべてを打ち砕く雷が落ちました。奔出する力のままに残るエバーも片付けられると、塔子たちに向き直った輝充郎は冗談めかしてポーズを決めます。その心は確かに人の心、龍波輝充郎のものでしたから。
「グレンオーガと呼んでくれ」
「好きだな、君も」
苦笑する塔子。天乃原に静寂が訪れて邪な気配はすでに消えていました。
◇
輝充郎がエバーを打ち倒したちょうどその頃、ネイとラインバーグは幾人かの部員を引き連れながら音無山へ続く山道を駆け上っています。麓から駆け続けているのでしょうが、三十歳を過ぎて体力にも自信のないラインバーグはすでに息を切らしながら最後尾に続いていました。一方で先頭を走るネイは大ぶりな六尺棍を肩に担いでいるにもかかわらず健脚ぶりを見せつけており、叱咤する声が山肌に響き渡ります。
「走れ走れ!馬車馬どころかベン・ハーの戦車馬のように急がんかバカモノ!」
「アタシは蛮人と違って体力ないんデスよー」
古代ローマの後裔たるブリテン人を自認するラインバーグですが、行軍であれば開拓民の末裔たるネイに軍配が上がるようでした。とはいえ急がなければならない、その認識は誰もが共通しており足を止めることなく一行は頂を目指しています。エバーと遭遇した旨が伝えられて以降は連絡も途絶えており、呼んだところで携帯電話に出る筈もありませんからいささか迂遠でも自分の足で走るしかありません。
その山頂では真琴に春菜、吹雪と朱陽に麗の五人がエバーの写し身たちと対峙しています。一人下がっている真琴が戦力にならないことは、ある意味では幸いかもしれません。それは彼女の写し身も力を持たないことを意味すると同時に、指揮官としての真琴が役立てばこちらが有利になるということでした。覚悟してのこととはいえ、重圧に耐えながらも真琴は思考を巡らせますが短い時間の後に決断します。
「春菜ちゃんと冬真くんはお互いの相手を入れ替わって!残る三体を先輩がたが抑えてください!」
「よっしゃあ!先手必勝!」
「あ。ちょっと、先輩・・・!」
前には出すぎないで、と続ける前にすでに突進している朱陽。能力が同じであれば先制攻撃が有利であろうという判断は間違いではありませんが、それはあえて自らを危険に晒す博打でもあります。大きく振り下ろした、地をも砕く一撃は相手が技量に劣る者であれば回避することはできなかったでしょうが朱陽自身を写した異形はこれを寸ででかわすと空いた脇腹に致命の一撃を狙います。やられる、と思った瞬間、小さな雷が落ちて火花が散るとその隙に距離を離しました。
「すまない、八神!」
「蓮葉さん!下がって」
一瞬前まで麗がいた場所を居合いの一閃が横切りました。異形の写し身は神降ろしの技を用いることはできないし、神器や特別な得物を手にしている訳でもありません。ですが剣士の技は一撃を受ければ最後であり、どのような武器を用いようが急所に達すればそれは致命となります。春菜が多少の法術を、麗が神降ろしの術を扱えるとはいえその隙を俊速の居合いで狙われればおそらく防ぐ術はないでしょう。例えば多賀野瑠璃のように、強力極まる術者でもいなければそれに賭けることは危険が大きすぎました。
「それにしても厳しいねえ、お嬢様は」
大太刀を構えて、呟くのは吹雪です。真琴による指揮の意図が少年には理解できており、防衛線を敷いて皆を守る一方で、一撃必殺の太刀筋を持つ吹雪が戦局の打開を図ってそこから突き崩すつもりでした。その間、他の三人は耐えなければなりませんから吹雪の突破が長引けば彼女たちに負担がかかることになります。そしてエバー側に突破口となりうる穴があるとすれば剣術を扱わない春菜の存在であって、逆に写し身であっても吹雪の技に耐えうる者がいるとすれば少しでも彼の太刀筋を知っている春菜だったでしょう。
(死なねーでくれよ、高槻)
一斉に下がって横一線に陣を敷いたところに、エバーの面々が間合いを詰めますが麗や朱陽は自らの写し身と対峙しながら真琴の分身も抑え、春菜は少し前に出るようにして吹雪の偽物に向かいます。その後ろから空いた場所を利用して回り込むように吹雪が駆け出ると、春菜の姿をした異形のものに太刀を向けました。如何に姿が似ているとはいえ、少女の凛とした目をエバーは持っておらず吹雪には見間違えようもありません。雲外鏡に見た傷ましい修羅の姿を、空虚な目をした写し身が秘めている筈もないのです。
春菜から教わった高槻流の極意、深く重く踏み込んで用いる一の太刀を吹雪が抜き放つと同時に、もう一人の吹雪の一閃も迅雷の勢いで春菜に襲いかかると二つの火花が音無の山頂に弾け飛びました。踏み込みによって間合いを広げ、早さと鋭さを増した一閃が春菜の身を縦に割ると一瞬、吹雪は太い眉をしかめます。どんな理由があれ友人を斬る感触は気分が良いものではない、そう思った吹雪の視界の隅で春菜はあえて受けに回らず、エバーに向かい踏み込んでいる姿が目に入りました。
恐怖がない訳ではないでしょう。春菜はいくらエバーが用いる技であっても、吹雪の強烈な斬撃を避ける自信がないからこそ、あえて踏み込む決断を選びました。大太刀の間合いから内側に入り込めば、柄の短い錫杖を持つ自分にも勝機が生まれることを少女は知っています。剣士の意志も菩薩の慈愛も感じさせぬ太刀が打ち下ろされますが、刃の軌跡を読んで正確に打ち付けられた錫杖がそれを阻みました。同時に春菜の左手に満ちた応力が解き放たれると、目の前で大きく球形の力が弾け飛びます。
「はああっ!」
これで倒すことはできずとも、強く打ち出される力がエバーの体勢を崩しました。すかさず、先にエバーを斬り伏せていた吹雪が二の足で跳ぶと自らの太刀を抜き放ちます。高槻流の二の太刀、地面を深く蹴る右足が悲鳴を上げる声を聞きながら、低く跳んだ太刀筋が自らの写し身を一閃のもとに両断しました。俊速の連撃にさすがに息を乱しながら、大きく息を吐いた吹雪はことさらに冗談めいた顔になって春菜と視線を合わせます。
「・・・高槻に俺を斬らせてなんてやらねーよ」
「・・・ず、ずるい!冬真くん!?」
そのやり取りに、麗も朱陽も思わず吹き出すと緊張が解けて同時にエバーの戦線も崩れ、勝敗は決しました。春菜や吹雪がすかさず加勢に入りますが、こうなればもやはエバーに勝機はありません。
「こらこら、あたしだって自分を斬らせるなんて御免だよ」
「高槻さんには悪いけど、私も同感」
「先輩まで・・・酷いです」
朱陽も麗も互いの異形を瞬く間に斬り伏せ、無論、真琴に似せたエバーは戦力にすらならず更に飛び出していた吹雪による三の太刀で打ち倒されてしまいます。犠牲もなく、真琴の指揮も十全に機能して襲撃を退けたにも関わらず、二人のお嬢様はどこか納得しがたい気分を捨てることができませんでした。堪えきれずに吹き出した吹雪が、少年にしては珍しく皮肉のない口調で慰めますが、それが自分以外は友人を斬らずに済んだことへの安堵にあることに気が付いた者はいるでしょうか。
「お嬢様方。二人とも気の毒なことです」
短いが激しい争いが終わり、おどけたやり取りに続いて遠くから呼ぶ声が聞こえると吹雪は周囲に目を向けます。これから改めて祭祀を行う必要もあり、麗や春菜が祠や壕の周辺に向かうと朱陽や真琴は嫌そうな顔で倒れているエバーを少しでも片付けようとします。まさかこれから祭祀を行おうとする場所に、倒れた異形の骸を放置しておく訳にもいかないでしょう。俺も鴉鳥や蓮葉先輩を手伝うか、と吹雪が太刀をしまい込んだところでネイやラインバーグのけたたましい声が山肌に響きました。
改めて少年が首を巡らせると、音無山の麓から上ってくる山道を両顧問や彼らに率いられた部員たちが上ってくる姿が視界に入ります。おそらくこちらの状況を知って駆けつけて来てくれたのでしょうが、流石に間に合わなかったとはいえありがたいことだと思った吹雪はエバーの片付けをいっそ彼らに任せようかといささか小賢しいことを考えます。彼らがけたたましいのはいつものことであり、吹雪は気にも留めませんでした。
「先生どうしたんですか?こっちは何とか終わりましたよー」
「早く!早く逃げるんデス!そこにいちゃいけまセン!」
「きゃあああああああ!」
突然、背後から聞こえた叫び声に、真琴も吹雪も皆が振り返ると壕の暗がりから現れた蠢く影が陽光を遮るように立っています。近くにいた春菜が一瞬の自失の後で慌てて錫杖を構えますが、巨大な影は岩ほどもある拳のかたまりを振り回すと少女の華奢な身体ごと殴り飛ばしました。骨の砕ける音に続いて春菜の身体が宙を舞うと、岩肌に頭から激突してぐしゃりと地面に叩きつけられます。
「春菜ちゃん!?」
「高槻ぃー!」
一瞬の出来事に続いて、彼らの視界を覆うように立っているのは見たこともない異形の化け物でした。人間めいた、いくつもの肉が合わさっているそれは何本もの腕や足が互いに絡み合って、それ自体が一つの肉を形成しています。見るだけで嫌悪感と嘔吐感をもたらす肉のかたまりは先程春菜を殴り飛ばした拳を振り回し、荒れ狂う暴風のような力が岩を割って木々を倒し祠を砕きました。
「何だよコイツは!こんなのがここの神だとでもいうのか!?」
「違いまス!こんなチンケな祠にこんな化け物はいまセん!」
それはレギオンと呼ばれる異形の化け物や亡者たちの集合体であり、これこそがスニール会とエバーの真の目的でした。文献にも伝承にも殆どその姿を残していない、音無の神は信仰すら失われてすでに消え失せており今はこの世のどこにもその力を残していません。祠の傍らにある穴こそが、かつて神の社であってそこには注連縄が張られていましたがそれも今となっては忘れ去られていました。今より数十年前、信仰が薄れてより後の大戦末期に、その穴は旧日本軍の決戦壕と称して空襲から逃げ延びた軍人たちが身を隠す場所として使われます。音無の祟りはその彼らを襲い、人々は集団自決によって果てるとその血は祭壇に捧げられていました。
汝鳥の封印を助ける祠のひとつは神の祟りと集団自決の血によって汚され、忘れられた神格と呪われた混沌が漂う場所の存在を知ったスニール会は当時、この不吉な場所に偽りの碑を建てていたのです。数十年を経て、神は生け贄と無念の霊によって得たその力すらも奪われると姿を隠していましたが、残された霊域、汚された霊域に彼らはスニール会の成果であるエバーの素となった肉を放り込みました。レギオンとは古来、軍団を指す言葉であって神すらも呑み込んだ無念の亡霊はかたまりとなって、依り代となる肉体を得て遂に姿を現すことができたのです。
「この場所こそ、大厄の封印とは別にスニール会が狙っていた場所なんデスよ!」
地面に血が広がり、横たわっている春菜の身体はぴくりとも動きません。一目見ずともそれが危険な状態にあることはすぐに分かりました。時間がないという、共通の認識に麗と朱陽、吹雪に真琴の四人が一斉に駆け出します。
「御力を、武甕雷!」
「食らい、やがれぇー!」
麗の持つ二振りの刀から神降ろしの雷が放たれると群がる肉に次々と落ちかかり、続けて朱陽が持つ神木の剣が打ち込まれると飛び散る肉が不快な声を響かせます。その中で吹雪は真琴とともに春菜のもとに走っていました。その手には雲外鏡があり、鏡の輝きが吹雪の目にあらゆる真実を投影しています。レギオンは血も神経も通わない肉のかたまりであり、亡者の霊の集まりでしかありません。朱陽の剣や麗の技はこれを傷つけることができるでしょうが、吹雪が持つ大太刀では効果を及ぼすことができないのです。純粋なる邪を打ち据えることができる力が、この場にあるとすればもうひとつ、春菜が手にしていた錫杖だけでした。
時間がない、こいつは一撃で仕留めなければならない。勢いを落とさず春菜に駆け寄る吹雪に、すでに意識がない筈の少女の手がわずかに動くと錫杖が手から離れて少年の前に転がります。拾いあげた瞬間には、その姿は春菜の傍らを離れていました。
「任せろ!高槻!」
高槻流の踏み込み、俊速で跳んだ吹雪は群がる肉の前に立ったときにはすでに技の構えに入っています。少年の本来の間合いよりも更に遠間、深く重い一の太刀の踏み込みで一足に間合いを詰めるとそこでの一撃は打たずに更にもう一足を踏み込み、全身をきしませながら加速して突き上げるような一撃を放つ。
高槻流、躍歩頂打。錫杖を持つ吹雪の腕ごとレギオンの腹部に打ち込まれると肘から二の腕まで深く呑み込まれますが、群がる肉のかたまりは重く深い一撃に動きこそ止まりますがそれでも崩壊には至りません。時間と焦りから、絶望的な声を漏らしたのは麗です。
「駄目なの!?もう、時間がないのに」
「これでいい、止めればいい・・・そうすれば一撃で仕留めてくれる」
「やはりッ!妾の出番だぁー!」
呟いた吹雪の言葉に続いて、豪快に飛び上がる姿。太陽を背に頭上高く六尺棍を振り上げたネイが、教え子を自ら救うために彼女の力のすべてを打ち下ろしました。
(俺の力が旦那の孫娘を助けるとは、光栄なことだ)
一瞬、誰かがその声を聞いた次の瞬間には、異形のかたまりをネイの一撃が砕きます。其は木木にして生有るが如くしなやかで鋼が如く重く、極めた技に尚折る事も曲げる事もあたわず。吹雪がネイに心から感謝の思いを抱いたのは、後にも先にもこのときだけでした。亡者の霊が潰されて四散すると同時に偽りの碑にヒビが入って砕け、幾つもの禍々しい叫びが周囲にこだまして低く長く伸びましたが、やがてはそれも消えて音無山に数十年を経ての静謐が戻ります。去り行く音が一つ、消え失せた神の祝福が春菜の身を過ぎていく様を吹雪は目にしました。
◇
「目を覚まされましたか?」
「あれ、ここは・・・?」
ぼんやりとした意識の中で、春菜の目には病室の天井と笑みを向けている真琴の顔が映っています。曖昧な記憶と動かぬ身体で、それでも春菜は少しずつ自分の身に起こったことを思い返していました。倒れていた間の記憶も少女には残されており、それはかろうじて意識が残されていたのか、少女の心が吹雪や真琴に感応していたのか、あるいは雲外鏡の力であったためかは今となっては知る由もありません。
苦労して視線を動かすと、養護教諭のみなとそらが真琴の隣りに腰かけている姿が目に入ります。どうやら彼女たちの治療と看護で一命をとりとめたらしく、身体が動かないのも治療の結果のようでした。不安を消すためでしょう、そらは春菜の様態を伝えると今は動かないけどリハビリすればすぐに治る、と保証します。
「入院特約使っちゃったけど、死亡保険下ろすよりいいかもね」
「ありがとう、ございます」
あれから幾日が経ったのか、汝鳥を囲う封印は無事に再構築が行われており、京都汝鳥の協力もあって各所の祭祀も復活して今は妖怪バスター予備軍の面々は大厄の再封印に向かっているということでした。ここまで来てようやく、自分たちも有利な状況を作ることができたと真琴は穏やかな顔で伝えます。剣術研究会とオカルト・ミステリー倶楽部、それに市井の妖怪バスターの一部と京都汝鳥の協力者までが集って、大規模な地鎮祭が営まれようとしていました。古くからある汝鳥の町そのものを鎮めるための、大いなる儀式と戦い。
「冬真くんも・・・その封印に?」
「はい」
真琴の返答に安心したような、残念なような雰囲気を春菜は見せています。気付かれないくらい小さく、優しげな顔で笑った真琴は、かわりに吹雪から言付けを預かっていますと伝えました。
「もう無理をするな。誰かがやらなければならない、それなら、春菜ちゃんにさせるくらいなら自分がやるって。言いたかったけど、言えなかったから私に伝えてください、と言っていました・・・でも、帰ってきたらもう一度、自分で言うそうです」
そう言うと、真琴はゆっくり、ゆっくりと目を伏せて自然に顔をそらせます。動けずにいる春菜が自分の顔を見られたくないと思うであろうことを、同じ少女として知っていたから。自分が誰かに言ってもらいたかった言葉、それを耳にすることがどれほど嬉しくて、どれほど哀しいことでもあったか。
「莫迦に・・・莫迦にしないでよ。そんなこと私の目の前で言ったら、ぶん殴ってやるから」
少しく声を詰まらせながら、呟いている春菜の声に真琴もそらも何も言おうとはしません。戦いを離れて、静謐に包まれた病室の中で二人のお嬢様は皆の帰りを待っています。
そして、彼らが無事に帰ってきてくれることを少女たちは知っていました。
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