ぱられるわーるど.十一(前)
幼い頃に両親の目を盗んで、敬愛する祖父に武術を習っていた。その時、彼女の祖父が孫娘に伝えていた言葉がありました。お前は天与の才を持っている。その言葉に続けて、残念だがお前は才ある者なのだ、と。高槻春菜がその言葉の意味を理解できるようになるまでにはそれからしばらくの歳月を必要としましたが、結局、彼女の祖父は孫娘に自らの武術を伝えようとはしなかったのです。春菜は祖父からその基礎だけを教わりながらも、その後は道場に入ることを許されずにただ独りで彼女の技を磨かなければなりませんでした。
おそらくは、彼女が祖父に武術を学んでいたことを知っている少数の門下生たちも、春菜が両親の目を慮って道場に姿を見せなくなったのだろうと考えていました。ですが、春菜はもしもそれが必要と思えば両親を説得してでも道場に通い、祖父に教えを請うことをためらわなかったでしょう。彼女が祖父の技を継ぐことを由としなかったのは、他ならぬ彼女の祖父だったのです。
「お前の才は高槻流を継ぐことを許さない。得ることのできぬ技を学ぶ理由はなかろう」
古くは奉納相撲にその源流が求められると言われている、高槻流剛柔術の技はそのすべての基礎が重心を低く重く保つ足捌きと体捌きによって培われていると言われていました。その歩法があらゆる技の礎である、故にあらゆる技をこの歩法に乗せる。伸ばした腕を乗せればそれが突きになり、構えた肘であれば、突き出した膝であればそれが技になる。そして鍛錬によって得られた力を、踏み出す足の強さと重心に乗せてそのままぶつける技が高槻流の真髄でした。その基礎さえ身につければあとはただ巌の如く、頑健な肉体を鍛え上げれば、それが強さと化すのです。
祖父が賛していた春菜の才能、それは彼女が生まれながらに持っていた柔軟な関節としなやかな筋肉、すぐれた神経の伝達にありました。それは常人に困難な技であっても彼女には人よりも容易に実現させることができましたが、繰り返した鍛錬が力になる高槻流では、同じ鍛錬をしても春菜の身体は彼女の肉体に人ほどの負荷を与えません。そしてそれは、人と同じ鍛錬では彼女の肉体が人より強くならないということでもあったのです。春菜は祖父よりも多くの技を器用に為すことができる才能を持っている一方で、祖父と同じ技を彼女が用いたところでその力は遠く及ぶことはないでしょう。春菜は高槻流の基礎となる型や歩法、呼吸法を教わると祖父から学ぶべきことがなくなってしまったのです。
その春菜がもしも己を磨きたいと望むのであれば、祖父と異なる技を彼女自身が見出すしかありませんでした。そして、皮肉なことに彼女の才能はそれを可能にします。高槻流の足裁きと体裁きを基にしつつ、人に勝る迅さと角度で為される動きと、冷酷なほど効率的に破壊を求める技は高槻流剛柔術の使えぬ春菜が自ら考え、編纂したものでした。
春菜が未熟ながら剣道を嗜んでいたことには理由があります。自分の技が、人に用いてはいけないものであることを春菜は知っていました。素手ではなく竹刀を、木剣を、錫杖を使っていれば彼女は拳を用いずに済むのですから。
「はああっ!」
地に打ち倒した相手を一瞥すらせず、春菜は次の相手に向き直ります。異形の力を自らの肉体に宿した男たち、エバーと名乗る数体の襲撃者たちに周囲を囲まれても、凛とした少女は怯みの色すら見せることがありませんでした。それはどのような技であるのか、少女の手のひらはエバーの顔面に吸い付くと獣の顎のように咬みついてこれを叩き伏せています。人体にある突起の効果的な力点となる箇所に指の関節をかけて、手首の鋭い回転によって頚椎を折ると崩した相手の重心を自分の膝に落とすように叩きつける。素手で異形のものどもを打ち倒していく春菜の姿こそ異形の魔物そのものにしか見えませんでした。
黒髪を二本しばった、凛とした少女の後ろには青みがかった目をした少年が互いを守るように背を合わせながら大ぶりの木刀を構えています。冬真吹雪が春菜の背に立っているのは、彼女を守るためであると同時に彼女の姿を見ないがためであったのでしょうか。後ろで一本しばった髪が春菜の背や髪に触れるように思いつつ、他にたとえようもない、背後を修羅に守られる心強さを感じながらも少年の心は熱い高揚よりも冷えたかたまりの存在を感じていました。
(俺は蠍の火になれずとも、こいつだけを汚れさせる訳にはいかねーよ)
彼らを襲うエバーたちも、邪な法でふくれあがった体躯に鋭い牙や爪を持ちながらなお、わずか二人を相手にこれほど圧倒されるとは思いもしなかったことでしょう。吹雪は常の大太刀ではなく、鍛錬用に手にしていた木刀で襲撃者たちを薙ぎはらいながら、時に関節に蹴りを打ち込みためらいなく急所に剣先を突き込んでいます。人を捨てた者にあえて冷酷な攻めを弛める必要を認めなかったこともあるでしょうが、一本きりの木刀が砕ければ代わりはなく吹雪にも余裕があった訳ではありません。だからこそ、春菜もあえて一人で戦おうとしたのでしょうから。
少年と少女を囲う異形のものたちは数を利して、それ以上に自らの傷も犠牲も厭うことがなく牙をむき出し、爪を振り回して掴みかかり、殴りつけようと試みます。吹雪も春菜も一再ならぬ傷を負いますが、それでも一体ずつ襲撃者の数は減っていき最後の一体が雪中に沈むとようやく周囲に立つものは、少年と少女の二人のみとなりました。倒れたエバーの一人のうち、まだ息のあったものが力ある異形を倒す人間の存在に驚いてみせるような素振りを見せながらも、それでも嘲弄するかのように口を開きます。
「僕らの力は、まだ足りないようだねェ。だけどォ僕らの目的は・・・これで果たしていルのさァ」
「っかましい!」
「冬真くん!?」
その口調がことのほか癇に触った吹雪は、前歯に靴先を打ち込むと最後のエバーも動きを止めて静かになりました。激昂して生き残りから話を聞く機会を失ってしまったことを春菜に咎められますが、その口調が強いものでなかったのは彼女もまた吹雪と似たような感情を抱いていたからでしょう。愚かしい争いを終えてしまうと、吹雪は背後にいる春菜に改めて何を言うべきかを思いつくことができずにいます。自分の行為に対する釈明か、突然の襲撃者に対する分析か、あるいは春菜の技に対して「気にしていない」とでも言うべきであろうか。どれもまるで正しい回答には思えません。
もとより女性の扱いに慣れている筈もない少年ですが、例え慣れていたところでこの場で気のきいた言葉が浮かび上がるとも思えませんでした。結局無言のままでいるしかなかった吹雪ですが、春菜が抱いていた感慨はまた異なっていたことでしょう。多くの諦めと哀しみが少女の細い身体を苛んでいる一方で、春菜がすがるように思い出していたのは幼い頃、彼女が祖父に言われた言葉でした。
(私はお爺様の教えを継ぐことはできませんでした。でも・・・背を預ける友は、私にもいたんです)
足下に雪を踏む音だけが響いている静寂の中で、しばらくは互いに目を交わすことすらためらっていましたが、傷とそれ以上の疲労を思えばいつまでもそこに立ち尽くしている訳にはいかないでしょう。これも男の義務だとでも思ったのか、遠慮がちにかけられる吹雪の声は、どこか曖昧なものにならざるを得ませんでした。
「あのよぉ、高槻」
「ありがとう。嬉しかった・・・」
背中越しの、哀しげな春菜の返答にはどのような意味が込められていたのでしょうか。襲撃者が用いていた人避けの術が割れたのか、ようやく周囲に音が甦ると聞き慣れた仲間たちの声が遠くに聞こえてきます。血に彩られた少年と少女は、互いに背を預けて皆が来るのを待っていました。
◇
異形の力を人の肉体に植え付けられたものたち、エバーによる襲撃は敷地の数箇所でも同様に行われています。その人数は思いのほか多く、二体三体が束になると牙や爪をむき出して、死を恐れずというよりも死ぬことを知らぬ戦いを挑みます。それが勇敢さによるものではなく、愚かさによるものであったとしても彼らには同じことでした。
「陣が・・・すまない!抑えられない!」
「柚木先輩!八神先輩も下がってください!守りを固めます!」
恐怖と戦慄を押さえ込む口調で鴉鳥真琴の声が響き、皆が互いにまとまるように下がりながらエバーたちに目を向けます。襲撃を受けて柚木塔子が咄嗟に組んでいた陣は確かに彼女自身の力と合わせて弱いものだったとはいえ、異形のものたちは陣の力に己れの身がちぎられ潰されることすら気にせずに強硬に突破を試みていました。無秩序な前進を食い止めるべく、すかさず八神麗が二本の刀を交差させると短い神降ろしの言葉を唱えます。
「出でませ、火之迦具土!」
言葉と同時に開いた刀の間から、立ち昇った業火が壁になってエバーの腕や足を焼くと不快な臭いが周囲に立ち込めました。勢いよく広がる火が目の前に立つ二体の異形のものを燃え盛るたいまつに変えてゆきますが、麗の背後から聞こえる悲鳴が気を散らします。慌てて振り向いた目の前には頭上から落ちかかるように飛び込んできた、もう一体のエバーが牙と爪を振り回して塔子や真琴、多賀野瑠璃といったバックヤードの仲間たちに襲いかかろうとしていました。
「独弧陣!間に合えっ!」
すかさず塔子が術に用いるチェスの駒を投げつけ、それがエバーに当たると同時に手早く印を組んで簡易な陣術を完成させます。単独の陣具に対して瞬間的に、小さな陣を生み出す術は力こそ弱くとも集中すれば相手を止める程度のことはできるかもしれません。それでも大薙ぎに振り回された爪が咄嗟に身をかばっていた真琴の腕から袖口までを斬って少女の白い肌を傷つけますが、一瞬遅れて瑠璃の真言が完成しました。
「毘沙門天様の諸尊真言!ナウマク、サマンダボダナン、ベイシラマンダヤ、ソワカ・・・ええいっ!」
瑠璃を中心に球形に広がった力が、異形のものだけを押し返してふくれあがったエバーの肉体を弾き飛ばします。転げるように倒れた化け物にすかさず麗が跳躍すると、ニ本の刀を薙いでこれを斬り伏せました。真琴の怪我は浅く、エバーも周囲に転がるものたちしかいなかったようですが、遠く数箇所から流れ聞こえてくる騒音の様子は襲撃が単独のものではなく、しかも大規模であることを示しています。
「とにかく戻ろう。この状況では無闇に動き回る方が危険だ」
不安を押し殺して合宿所の本堂に塔子たちが駆け戻った頃には、おぞましい襲撃者たちもその多くが打ち倒されているようでした。負傷者も多く出ていましたが、幸いというべきか東汝鳥の主要なメンバーには犠牲はなく態勢が立て直されるとエバーたちも次々と仲間を回収して撤退を始めています。中でも春菜や吹雪を襲ったものたちは他に比べて数が多かったようですが、それもすでに片付けられて一様に撃退されていました。とはいえ、襲撃こそ撃退したもののエバーたちは打ち倒された者を含めて姿を消してしまっており、白昼堂々と行われた突然の襲撃が何を目的としていたのか、この時はまだ明らかにならなかったのです。
◇
襲撃者の姿も消えて一応の平穏が戻り、怪我人の治療が行われている中で春菜にしろ吹雪にしても重い怪我といえるほどのものはありませんでしたが、それ以上に疲労の色が濃かったために二人とも一日程度の安静を言い渡されていました。
「別に死にはしないけど、休んだ方がいいよ?」
みなとそらがわざわざ東汝鳥から京都を訪れていたのは、彼女を従えているらしいネイ・リファールとともに冬の京都でのリゾートを楽しむためであったのかもしれません。学園の養護教諭でしかない彼女が合宿に帯同する理由はありませんでしたし、こと表向きには学園における剣術研究会とオカルト・ミステリー倶楽部の活動は停止されていたのですからなおのことだったでしょう。黒髪を長く伸ばした美貌の養護教諭は、ふだん保健室に陣取っているときですら治療や介護に積極的な訳ではなく、怪我の耐えない学生たちに傷害保険を勧めているような有様でしたが保健室にいる保険屋という立場がどこまで冗談であったのかはいささか判然としていませんでした。人外のもの、人とウサギの半妖であるというそらにとっては、意外にそうした言葉の力が意味を持っているのでしょうか。
春菜は心身の疲労を自覚していたのか、そらに言われると素直に医務室のベッドに身を横たえており、同様に安静を言い渡された吹雪は彼を知る者の多くが予想した通りの皮肉な口調でそれを拒んでいましたが、翌日になって春菜がいる病室を訪れています。とはいえ少年が自分の言うことを聞くつもりになったのではないだろうことは、そらでなくとも分かっていたことでしょう。厳寒の季節を感じさせる、薄曇りの窓外から差し込んでいる明かりは淡く、雪面の照り返しが加わってはじめて世界の明るさが保たれているようにも感じられます。あるいは人ウサギのそらであれば、風流な雪景色は彼女が好むところでしょうか。
「そうでもないよ。冷えるし」
「なるほど、そいつは失礼しました」
しごく当然に答えるそらに吹雪は苦笑を返します。人外であれ感覚は人と変わらずとも不思議はない、妖怪と人の関わりについて長らく春菜と対立していた吹雪としては、かえって異形の妖が人と異なるものだと決めつけすぎていたのではないだろうかといささか大仰に考えました。
ひとつ首を振って、先の襲撃で自分や春菜たちの手当てをしてくれたことに型どおりの礼を言うと、吹雪は春菜が病室に一人いることを聞いてから、彼女に用事があるのでしばらく座を外してくれないかと頼みます。頼みにくい話であることは承知の上でしたが、黒髪美人の養護教諭は吹雪の表情から何かを読み取るような顔になると、形のいい眉を寄せて怪訝そうな声で言いました。
「趣味が悪いよ?」
やはり少女の病室に一人で入りたいとは、礼に欠けるということでしょうか。ですが主語も目的語も曖昧な、数語の言外に単純ではない意味が込められているようにも吹雪は思います。学生たちからは保険屋とも呼ばれている、そらは保険金を下ろさせないためと称して奇態な献身を日々見せていることも多く、掴みどころがないながらも無責任という訳でもありません。過大評価かもしれませんが気軽な存在に思わせてやることはやっているのかもしれませんし、ことに人外のものは冗談めいた言動に意外な理由やこだわりを持っているものです。
どこか気怠そうな、それでいて心中を見透かすような目に吹雪は居心地の悪さを覚えて背を揺すると、この人ウサギは自分の心を見透かす力でも持っているのではないだろうかと疑います。その疑問を証明するかのように、そらは表情も変えず淡々と言いました。
「自殺しないでね?自殺でも保険は下りちゃうから」
「いえいえ滅相もない、俺には誰かさんたちと違って悲壮感に溺れる趣味はありませんよ」
言いながらも、吹雪の背を冷たい汗が流れています。やはり見透かされているらしい、それが人外の人ウサギの力なのか、それとも自分の態度があまりに底が知れているせいなのか分からなかった吹雪は苦笑するふりをして目を伏せると黒髪の養護教諭から視線をそらします。
「それからいやらしいこともしないでね?手錠が下りちゃうから」
思わず吹き出した吹雪に、そらは形のいい唇の端だけで小さく笑うとそれ以上は何も言わずに、スツールから腰を浮かせて医務室の扉を出ると外から鍵をかけてしまいました。大きく息をつく吹雪にとってはありがたい一方で、気がきくというべきなのか、あるいは無責任というべきなのでしょうか。
薄い衝立ての向こうで少女の影がベッドの上に半身を起こしている様子が分かると、吹雪はわざとらしく、遠慮がちな挨拶の声を投げかけます。許しを得てゆっくりと顔を覗かせた吹雪は、大きめのシャツをぞんざいに着た少女の姿を目にしました。ところどころ、軽く巻かれた包帯や治療の跡が痛々しく見えますが、その中に一つとして大きな怪我がないことを背を合わせた吹雪は知っています。少女が傷を負っているとすれば、人の目が届かぬ心の奥底でした。衝立て越しの会話が聞こえていたらしく、春菜はどこか呆れたような顔をしています。
「ずいぶん酷い会話をしていなかった?」
「俺のせいじゃねーよ」
華奢な身体を起こして、上体をまくらに預けるようにして座っている春菜の姿は一見すればおとなしやかなお嬢様にしか見えないことでしょう。常の凛とした表情も視線もこのときはさすがに和らいでおり、吹雪の目にも春菜は普通の女学生としか映りませんでした。
「酷いわね。これでも普通の女学生のつもりではあるのよ」
口に出して言ってしまったろうか、と思いながら吹雪の表情は春菜の冗談に感応することができずにいます。ともすれば深刻になってしまう、その空気を察しているからこそ春菜もあえておどけた素振りを見せているのかもしれません。この部屋を訪れるまでに逡巡を乗り越えていた筈の吹雪は、それでも多少のためらいを見せると意を決したように一つ息をついて、単刀直入に言おう、と切り出しました。
「これから雲外鏡を使う。高槻、お前さんにも俺と一緒にそいつを見てもらいたい」
吹雪の言葉に、黒髪を二本しばった少女の表情はあまり動くこともなく、意外そうな顔を見せてもいません。おそらくはその話が来るだろうかと考えてはいたのでしょう。ベッドに身を起こしている春菜はそれでも小さく首を傾げると、わざとらしく尋ねました。
「どういうつもりかな。女性のプライバシーを覗き見たいというなら趣味が悪いと思う」
そらとの会話が聞こえていたのでしょう。本当ならば、その冗談を笑うことができればいい筈でした。春菜の問いに、今更のように吹雪が答えたのもわざとらしくはあっても、自分たちが置かれた状況を見据えるためであったのでしょう。混迷の内にある汝鳥で、浅間神社にあるコノハナノサクヤヒメノミコトから吹雪が借り受けた雲外鏡。真実の姿を映し出す神器を少年が本当に用いることができるのか、いざという時のためにそれを知っておく必要があることは吹雪も春菜も充分に心得ています。
そして、同時に覗く者の真実の姿を、どれほど醜い姿でさえも映し出す鏡はそれを扱う者に例えようもない試練を課す道具でもありました。真実に耐えられぬ弱き心の持ち主であれば破滅すらもたらす鏡。それを手にした吹雪は鏡を自分が扱えるかを見極めると同時に、もしも彼が耐えきれずに自らの舌を噛み切るのであれば自分の代わりに春菜にその鏡を使って欲しい、と頼みます。少年と少女の間に短い沈黙が流れましたが、まさしく短い沈黙でしかありませんでした。
「・・・私が舌を噛み切るとは思わないの?」
春菜は言いますが、吹雪には確信があります。もしも吹雪が耐えられなければ春菜は必ず耐えてくれる。逆に春菜が真実の姿に耐えきれずに命を絶つというのであれば、残った吹雪は残された責任に耐えることができるだろう。いずれにしても、どちらかは雲外鏡を使えるようになる。一人ではどうか分からないが、二人いればお互いの責任感がそれを耐えさせてくれる。いや、無責任に死ぬことを彼らの責任感は決して許しはしない。
「残念だがその責任感を持っていて、しかもこんなことを頼める相手はお前さんしかいないんだ」
「責任感・・・ね。それが冬真くんの結論か」
深く、深く息をつく春菜を見て少年はあえて表情を和らげると、最悪でも一人いなくなるだけで雲外鏡は使えるようになるし、いっそ彼らの周囲を悩ませている親妖怪論と強硬論の対立の種も減ることになる。いっそハッピーかもしれないぜ、と冗談めかして笑います。吹雪の言葉に春菜は認めざるを得ないか、と言いながらもまだ多少のためらいを残しているようにも見えました。
「でもずるいとは思わなかったの?私には、考える時間が与えられないのに」
どこか、視線に憂いを帯びたように見える少女の問いに、吹雪は一瞬だけ目を伏せると視線を合わせます。
「考える時間が必要か?」
「いいえ。私の答えはイエス、よ。それが一番いい方法だと思うから」
納得したように首を振りながら、それでいてどこか諦めたように大きく息をつく春菜の姿を見て、その強さに吹雪は感嘆と痛ましさの双方を覚えました。小箱に収められている小さな銅製の鏡、こんなものが大いなる力を持つ神器であって、恐々としながらそれを覗き見なければならない。深刻で、莫迦莫迦しく、滑稽で、しかも恐ろしい。残っていたわずかのためらいを振り払うように、吹雪は頭をひとつ振ると春菜と目を交わしました。そこに映る姿は鏡に映るごくありふれた像、ですが心の底からそれを覗こうと決意したときに鏡はその力を及ぼします。水面に映る輝きを透過したしたときに始めて、澄んだ水底にある湧き水の溜まりが見えるように。
決意した二つの視線がそそぎ込まれて波打つ鏡面が像を歪ませる、このとき少年の手のひらに乗る小さな鏡には時間も空間も存在していません。同時に映る筈のない少年と少女の姿がともに見える一方で、その姿は現在から過去に遡ってしかも順に映りながら彼らが望む一瞬をも教えてくれました。雲外鏡の力は鏡面に映像を映すのではなく、鏡の輝きを見る者に真実を教える力であることを二人は実感として理解します。鏡は瞳であって、その視線に射すくめられた者は自らの心の深淵にあらゆる回答が映し出されて、望むと望まぬとに関わらずそれを知ることができました。毅然とした太い眉に青みがかった目を持つ少年と、清爽な姿に凛とした表情を持つ少女の姿とを。
「これは・・・」
それはどちらの声であったのでしょうか。最初に彼らが認識したのは少年の青みがかった目の深淵に映る姿であり、それは吹雪が予想した通りの、あるいはそれ以上に醜いものでした。他人に対する嫉妬や蔑視、憎悪にしばられている卑小でみじめな男。その姿に吹雪は眉を寄せますが、それよりも少年を辟易させたのはよりにもよって自分の色欲やいかがわしい感情までも露にされたことだったでしょうか。これならいっそ一人の方が良かったという強烈な後悔が少年を襲い、怒りや憎悪どころか羞恥心と情けなさで泣き出したい気持ちになりました。
ですが、耐え難い心の中で吹雪は気が付いてもいます。見られたくもない自分の姿を、人に知られることがどれほど辛いことかを。そして春菜が修羅となる姿を見たからこそ、吹雪はこの鏡を彼女と見るつもりになったのだということを。吹雪にこの鏡を見る決意をさせたのは、卑怯者にはなりたくないという少年の潔癖さでした。
(光を・・・)
嫉妬や侮蔑の塊を韜晦する諦観が包み込んでいる吹雪の像。己の姿を凝視してなおそれに耐える者は水面の下にある流れを見ることができるかのように、やがてその奥深くへと視線が潜って行きます。それがついに水底へと達したとき、その像を覗き見る二つの視線は奥底に光る小さな菩薩の姿があることに気が付きました。自らを襲う刃に身を晒しながら、襲いかかる絶望の帳に覆われながらそれでもなお斬らずにすむならば斬るべきではない、と思った少年の心。何も難しく考えることはない、吹雪がそう思っていたという事実は鏡に映し出されるまでもなく、厳として存在していた少年の真実の姿なのです。
(たとえ現実を憎んでもなお、それでも俺は世界を信じずにはいられない)
激しい幻滅と同時に映し出されている小さな救い。その呟きにたどり着くと、吹雪を覗き込んでいた意識は水面に浮かび上がりました。少年の意識は自分の真実に羞恥心混じりの安堵感を感じていましたが、同時にもう一つ覗き込まねばならない心が残されていることも知っており今更のように恐怖を感じています。自分の姿には耐えられた、だからもういいじゃないかという都合の良い感情が心中に大きくなっていました。
それが自分の選んだ、自分たちの選んだ決断であったとしても、自分の真実の姿以上に他人の真実の姿を覗き見なければならない恐怖は他に例えようもありません。少年の傍らにいる春菜が平然を装いながら、その実は恐慌寸前の心中にあることも吹雪は知っています。それすらも雲外鏡の力であって、神器の力は遠慮も容赦もなく、続けて彼らの視線の先に春菜の姿を映し出しました。
(止めて・・・お願い・・・)
水面が波打つように、浮かび上がった像は吹雪が想像していた通りの血ぬられた修羅の姿でした。異形のものはもちろん、人でさえも討つにためらいがない少女。仏と会えば仏を斬り、鬼と会えば鬼を斬らんとする。全身を血で汚して争いの渦中に立つ少女の姿は、痛ましくもいっそ凛々しいほどの存在でした。
雲外鏡が伝える世界の中で、吹雪は春菜の肩が小さく震えていることに気がつきます。そりゃあ、つらいことだろうと少年は思いましたが、どこか違和感が消えずにいることに疑問を感じてもいました。真実を知られることを恐怖する感情、なぜそのような思いを春菜が抱いているのか。どういうことかと訝る吹雪は、突然その理由を理解します。雲外鏡を通して映し出されている、血まみれの修羅が流している血は春菜自身が流した血の叫びでした。
「高・・・槻・・・?」
シーツを強く握りながら、顔を伏せている春菜の心を雲外鏡は容赦なく暴き出します。どれほど醜いことでも、愚かなことでも誰かがやらなければならない。それなら、他の人にさせるくらいなら自分が行う。彼女であればできると皆も信じているのだから。
春菜の嘆きに吹雪は思い返します。人に親しかったマンション・メイヤの妖が人を殺めたとき、妖を愛するゴスロリお嬢が涙したあのとき、彼女の腕の中にある異形の化け物を春菜以外の誰が滅することができたというのでしょうか。自分にはできないし先輩たちも同様だったろう。あの時、吹雪はどこかで春菜が手を下してくれることを望んでいたのではないか。
それでも斬らずに済むなら斬るべきではない、であれば斬りたくないものを斬らねばならぬときはどうするというのか。どれほど人に恨まれても、憎まれても、蔑まれても春菜が斬ることにためらいを見せることはありません。だからといって、それで彼女が傷ついていなかったとでもいうのか。強い彼女は、涙で心を濡らしていなかったとでもいうのでしょうか。吹雪は自分が蠍の火にはなれないと思っていましたが、その蠍は井戸に落ちて命を失うときにこう言っていたのです。
(どうか神様、私の心をご覧下さい。こんなにむなしく命を捨てず、どうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい・・・)
赤く燃え続けて夜を照らしている蠍の火。修羅になることを承知の上で、自らを焼く少女に吹雪は謝意を込めた視線を向けます。あるいはそれは彼女を侮辱することになるのかもしれませんが、それでも少年はその思いを捨てることができませんでした。
誰かに無理をするなと言って欲しかった。あのとき、吹雪にありがとうではなくごめんなさいと言いたかった。春菜は直接には答えず、ためらいがちにつぶやいたのは別のことでした。
「知ってる?剣術研究会に入ってから、私には二つ、嬉しいことがあったのよ。一つは真琴さんと二人、頼りなげな新入生のお嬢様と思われていたこと。そしてもう一つは、あなたが私の背を守ってくれたこと。私こそ、誰よりもあなたを頼っていたんだから」
雲外鏡がその姿を映しているのであれば、心の底をごまかす必要もないのでしょう。春菜が伝えたかった言葉は、神器の力を借りずとも吹雪の心中に届いていました。
◇
翌日には、春菜は医務室を出てふだんと変わらぬ姿を皆の前に見せています。本当に大した奴だと吹雪は思いますが、少女が多少の無理を隠していることも少年には分かっていました。それは雲外鏡の力ではなく、吹雪自身も地蜘蛛衆に襲われたときに似たような態度を取った記憶があったからでしょうか。
(結局、俺たちは似たもの同士なのかもしれないな)
だからといって、その日から吹雪と春菜が特に親しくなったという訳ではありませんし、彼らの対立が解消された訳でもありません。春菜は今でも斬るしかないならば斬るべきだと言いますし、吹雪は斬らぬ道があるならばそれを探すべきだと思っています。ですが、彼らは醜き菩薩の姿と己の血を流す修羅の姿を見ていました。
京都での合宿も最終日に近くなって、妖怪バスター予備軍たちは剣術研究会の部員もオカルト・ミステリー倶楽部のメンバーも等しく自分たちなりの鍛錬の成果を実感していたことでしょう。その力が東汝鳥で彼らを待ち受ける危難に及ぶかどうかは雲外鏡を用いてもなお知ることができませんが、少しでも救いの手があったことは彼らの大いなる助けとなっていました。
「だが貴様たちは肝心なことを忘れていることに気付いておらん!」
その中で、一人不機嫌の極みにあったのはそれまで雪中の温泉でのリゾート生活を存分に堪能していた筈のネイ・リファールです。ラフなカッターシャツを着た、一見して教師にも剣術研顧問にも見えないネイは外見だけでなく言動においても教師に見えないという評判であり、行き過ぎた放任主義にも関わらず理想は高く、功績は自分のもので失敗は他人のせいという力強い性格が一部の部員から暴君先生という呼び名を賜られていました。とはいえ、そう呼ばれて平然としているあたりも尋常ではなく、怪訝な顔をして集まってきた部員たちに向けて声を荒げている様子に、いつものことかと蓮葉朱陽が尋ねます。
「何ですかね暴君先生?」
「何ですかではない!貴様らだけがパワーアップをして、師匠に申し訳が立たぬとは思わんのか!」
「誰が師匠だよ誰が」
つぶやくどころか、いっそ堂々と言う朱陽の声ももちろんネイの知ったことではありません。大人物は瑣末な事柄など気にしない、という割にネイの不機嫌の原因はどうにも瑣末なものに見えました。
「そんなことはどうでもいい、妾にも妾にふさわしいスーパーファイティングな武器を持って来いと言っているのだ!」
「ようするに仲間外れにされたくないってことか」
「あんた別に剣士でもなんでもないだろ」
吹雪の憎まれ口も、あんた呼ばわりまでしている朱陽の指摘も意に介さずにいるネイの様子に、放っておいても大過はありませんが口やかましいのは確かでしょう。この教師が顧問としてそれなりに慕われているのは異形の妖の存在以上に不思議なことだと思われてはいましたが、収まる様子もなく騒ぎ立てている我侭顧問の姿に助け舟らしきものを出したのは龍波輝充郎でした。
「それなら京都にあるっていう白河塗りの六尺棍でいいんじゃねーか?」
「んなもったいない!そんな業物、龍波先輩が使ったほうがいーでしょ」
「同感同感。あたしゃ別にいいけど、だからって暴君先生が持ってどーすんのよ」
驚いて抗議の声を上げる吹雪に朱陽も同調します。割れず、砕けず、斬れずの三不と呼ばれる白河塗りの技法で固められた六尺棍。東汝鳥にある春菜の錫杖や朱陽の木剣のように、京都汝鳥に残されていた逸品であり、膂力に優れる輝充郎ならばより使いこなすことが適う筈でした。
「いや、俺はいらねーぞ。なんといっても俺の武器は俺の拳だからな」
「よろしい!ではあれは妾のものだ」
鬼の力を秘めた拳をかたく握る輝充郎に、ネイも即物的な満足感を満たします。いいのかねえと思いながら吹雪も朱陽も苦笑して肩をすくめました。確かに彼らには彼らが選ぶ戦い方がありましたし、どれほど優れた武器であってもそれが道具にすぎないことには変わりありません。半妖怪の輝充郎は自らの鬼の力をどこまで発揮してしかも制御できるかを考えており、朱陽は折れぬ剣を扱う己の技を磨くことに心を砕き、吹雪は雲外鏡の力を活かす方策を志しています。その吹雪は一撃必殺を増すために武術を知る春菜の師事を受けていましたが、京都合宿の最後の日になって伝えられていたことがありました。
「冬真くん、あなたに教えた技には、もう一つ先の姿があるのよ」
高槻流の深く重い踏み込みによって、一の太刀の間合いを広げて早さと鋭さを増す。それが春菜が吹雪に教えた技ですがそれは彼女が祖父に習った高槻流剛柔術の基礎であって、天与の才を持つ孫娘が自ら編纂した技はその踏み込みに変化をもたらすことができました。
「先に言っておくと、私にはできるけどあなたにはできないかもしれない。身体にかかる負担が大きすぎるから」
春菜の祖父が、彼女を指して天与の才を持つと言ったことは伊達ではありません。高槻流の踏み込みから放つ技ですら吹雪には二度、あるいは三度放つことが限界でした。その歩法に鍛錬した技を乗せる、それだけに高槻流の歩法は鍛え上げられた肉体を有することを前提とします。春菜がそれを扱えるのは彼女の柔軟な関節としなやかな身体があればこそでしたが、一方で春菜自身が使う技には人が鍛え上げた重く深い力を乗せることができず、その威力は鍛え上げた人の技に劣らざるを得ません。だからこそ、春菜が編み出した技は彼女ではなく、彼女に教わった者が用いなければ意味がありませんでした。
「才能なんてものは、人が思うほど役には立たないの」
それは誰に対する皮肉だったのでしょうか。吹雪も少女に負けず皮肉な笑みを浮かべると、自分には扱えぬかもしれない技を授かるべく礼を交わしました。京都で過ごす時間の砂粒は残り少なく、得られる力はわずかでも得ておくべきだったでしょう。鍛錬とはそれによって得られる結果ではなく、行われる鍛錬そのものにあるということを彼らは知っています。その日、春菜から吹雪に彼女の技が伝えられると京都汝鳥での合宿はその最後の日程を終えました。
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