ぱられるわーるど.十二


 あの日以来、少年は病室を訪れては少女の傍らに腰を下ろしています。看護婦たちの幾人かが、無責任な声で少年と少女の関係を窺うようなことがあっても冬真吹雪はことさらに気にすることはなく、あるいは、気にしないふりを装っていました。
 東京都汝鳥市、関東平野の裾野に位置する古い街並みの外れにある、閑静な病院はこの町では唯一の総合病院であると同時に異形のものに対する妖怪バスターのために設けられた施療のための施設ともなっています。吹雪に抱えられて、かつぎ込まれていた高槻春菜は以来数日が経っても目を覚ましてはおらず、白い帳ごしに差し込む日差しを受けながら清爽な身を寝台に横たえていました。その日差しが赤みを帯びていく様子に吹雪は視線を向けると、不吉な赤い色が連想させる惨劇の情景を思い起こしています。すべてが解決した今になっても、思い返すだけで胃液がこみ上げてくるような感覚はそう忘れられるものではありません。

 骨の砕ける忌まわしい音と地に広がる赤い滴り。音無山で、無様な異形の化け物に襲われた少女が壊れた人形のように崩れ落ちたとき、時間が凍り付いた瞬間を確かに少年は感じていました。化け物が倒されて、大勢の足音が少女を囲い術者たちの言葉が流れる、ごく短い時間が永遠よりも冷たく長い恐怖を皆に与えます。その中で、吹雪は過ぎ去った音無の神の祝福が横たわる春菜に奏でられたその音を聞いていました。神が忘れられてこの地が音無と呼ばれるようになった、その最後の音を少女への祝福とした存在に少年は心からの感謝の思いを捧げます。
 その祝福のおかげか友人や仲間の献身的な術のおかげか、たぶん双方だったのでしょう。春菜の鼓動が動いていることを知ると、その細い身体を抱え上げた吹雪は肺が破れるほどの距離をただ無心で駆けました。怪我は重かったものの今は施術の影響で長く目を覚まさずにいるだけであり、それ以来、病室に眠る春菜のもとを吹雪は日々欠かすことなく訪れています。少女の業がどれほど深く、その功徳がどれほど尊いかを少年は知っていました。

「まあ出席日数なら問題ないよ?この子は成績もいいからね」
「頼んますよ。お嬢様に留年なんて似合いませんから」

 殊更に、みなとそらが瑣末に思える話をしたのは春菜の容態が安心できることを伝えようとしたからでしょう。吹雪もそれが分かるからこそ冗談ともつかぬ返答を返していましたが、学園の養護教諭である、みなとそらは生徒たちが妖怪バスターの予備軍として活動するに際して様々な助けを行っており、こうした病院や保険の手続きを取ることもあれば単位や出席日数の便宜をはかるようなこともありました。人と兎の半妖であると自称する、彼女に言わせれば保険加入を増やしてあとはアフターサービス、と韜晦するだけでしたが。
 妖や異形のものに対する剣士や術者たち、妖怪バスターが危難に会う例は頻繁とはいえずとも稀少な訳でもありません。だからこそこうした病院もありますが昨今では異形の妖の出没も減っており、春菜が眠る病室のある階も人の気配は少なく奇妙なほどの静謐に満たされていました。それは平穏というよりも生命の不足を感じさせる静かさであり、眠っている少女の白い頬に吹雪は痛ましさを覚えずにはいられません。なぜこれほどか細い少女が戦わねばならないのか。妖怪バスターとしてではなく、人として人の世界を厳然と守る者であるために、高槻春菜は武器を手に妖を討って迷うことがなかったのです。それは、彼女以外にそれを為す者が誰もいなかったから。彼女だけが己の血を流しながらでも、それを為すことができたから。

(流せぬ涙に、血の叫びを以て戦うほど彼女は罪深くはなかった。それなのに・・・)

 穏やかに上下する呼吸と、白い肌にわずかに差し込むようになった赤い色に安堵すると、保険の手続きがあるからと病室を出たそらと入れ替わるように入ってきたのは、おとなしやかな黒髪の少女でした。春菜がかつぎ込まれてから鴉鳥真琴もまた日々病室を訪れていましたが、傍らで容態を見るだけの吹雪とは異なって親身に看護を努める彼女はよほどためになる存在でした。汝鳥の旧家の生まれであり、幼い頃からの春菜の友人でもあって、家族に混じって手伝う姿も奇妙なものではありません。
 ただ見舞いに訪れるだけの自分を吹雪は申し訳なくも思いますが、それを気にするのも失礼に当たるでしょう。せめて邪魔にならぬ頃合いを選んで、傍らにいるだけのことが吹雪には大切なことに思えましたし真琴もそれを当然のように迎えています。

「春菜ちゃんは、優しい子なんですよ」
「知ってる。いや、知っていたのに理解してなかった」

 首を振りながら言うその言葉は罪の報いとするには重く、その吹雪を見る真琴の目には非難がましい視線はなく労るような優しささえ窺うことができました。まったく、この娘も大したものだと思う。春菜にしろ真琴にしろ、汝鳥の学園で剣術研究会に入るという話を聞いた折りにはお嬢様の遊びに付き合うのかという呆れた思いと、お嬢様を守る騎士にでもなれるかという不埒な感想の二つを吹雪は抱いたものですが、それがとんでもない思い違いであったことはすぐに明らかになりました。春菜は誰よりも強く哀しい少女であり、真琴もまた苦難に折れぬ翼と正しき知性を持つ少女であって、少年は自分の無礼な評価を早々に取り下げなければならなかったのです。

 異形に対する妖怪バスターとしての少年や少女たちの中で、妖が人に害を為すのであればあくまでこれを斬るべきか、あるいはそれでも斬らぬ道を探すべきであろうか。春菜と吹雪の対立はたどりつく道が同じであったとしても、それ故に深刻で互いに引くことがなくそれでいて背を向けることもありませんでした。誰よりも傷つけ合いながら誰よりも頼っていた、それがよほど哀しい関係であることを彼らは知っていましたが、吹雪は心中の菩薩を捨てることはできず春菜は修羅となってでも現実に抗し続けます。
 常は二本に縛っていた髪を下ろして寝台に身を休めている春菜の姿は、多少やつれて白く見える顔に穏やかな息を漏らしていました。女性の怪我の具合を詳しく尋ねるほど礼儀知らずじゃない、と皮肉な口調で言う吹雪ですが春菜の容態が落ち着いていることはその姿を見るだけでも分かります。それでも用意されている汝鳥の儀式、大厄の再封印に彼女が間に合わないことはもはや避けようもないでしょう。

「高槻は儀式には間に合わない、それまで目が覚めはしない。だがその方がいい」

 それは確信であり望みでもあります。未だ正体の知れぬ汝鳥の大厄を封じる儀式、それを目前に控えて春菜の存在が欠けることは確かに損失だったでしょう。彼女は武器を手に戦い、術を為して力に対し、何より冷徹な知性には一切の迷いがない。ですが己の手を血で濡らし続けた春菜はもう充分に戦った筈であり、これ以上彼女の強さと優しさに頼って彼女に血を流させることは吹雪にはできませんでした。
 もしも春菜が目を覚ませば、彼女は迷うことなく汝鳥の儀式に赴こうとするでしょう。能力ではなく、誰もがためらう中で彼女だけが最初の道を切り開くことができるのであれば、春菜は人に憎まれても蔑まれてもその一歩に迷うことはありません。たとえ傷つき弱っていたとしても、少女の凛とした知性と精神が毛髪の一本ほども乱れず損なわれもしないことを吹雪は知っています。だからこそ、それを腕ずくでも止めないで済むと思うと少年は安堵することができました。

「もっとも、腕ずくではこっちが負けるかな」
「酷いですよ、冬真くん」

 冗談めかした言葉にころころと真琴が笑うと、吹雪も小さく首をすくめます。彼らの傍らで静かに眠り続けている春菜がどれほどか細い少女でしかないか。彼女の業は深くその功徳は尊い、だからもう充分だ。あとは彼女ではなく自分が行けばいい。幸い、自分もまた卑小であることを知っている人間でいられるのだから。
 たぶん、吹雪の思いを知れば春菜は怒るでしょう。あの恐ろしい拳で殴られるかもしれないが、それならば殴られるために帰ってくるのもいいかと吹雪は思います。意を決すると吹雪は春菜の目が覚める前に、短い言づてを真琴に託しました。もう無理をするな、誰かがやらなければならないなら、お前にさせるくらいなら俺がやると。

 少年の心からの言葉を受け止めた真琴は分かりましたと短く言うと、でも、絶対に自分でも伝えてくださいねと念を押します。言われるまでもなく、吹雪が春菜に代わって儀式に赴くのであれば無事に帰ることは少年の責任でもありました。
 幾たびか訪れてずいぶん慣れ親しんだ感じのする病室を、改めて吹雪は見渡します。寝台の傍らには自分の定位置のようになっていた安物の椅子があり、水差しの置かれた台や小さく開かれた窓とわずかに揺れる白い帳、そして眠る少女の姿は日とともに少しずつ彼女の生命を取り戻してゆく。畏れを抱かせるほどに魅力的な瞳も今は閉じられているが、自分が帰る頃には光が取り戻されているだろう。奇妙な確信をもってそう信じる吹雪は、自分を見る真琴の穏やかな笑みに何か言いたげな表情が浮かんでいることに気が付きます。少年の不審な様子に艶やかな黒髪を傾けると、優しげな声が漏れました。

「私は、春菜ちゃんが羨ましいんです」
「え?」

 思わず問い返した、ですが吹雪には真琴の真意が分かっています。少女は冗談めかした顔をつくると、だからその春菜ちゃんを哀しませたら許しませんからとややわざとらしく続けました。その言葉に苦笑を返す吹雪は、兄と違ってよくできた妹さんだと思います。真琴の兄である鷲塚智巳、妹の心配をよそに頼りなく弱々しかった出来の悪い兄が最近では幾分ましな兄になっていることを吹雪は知っていました。霊刀備前長船を与えられて、それを使いこなすことができぬ己に塞ぎ込んでいた智巳はようやく自らを認めて事実を知り過信を捨てて、小さな自信と確信が生まれています。その兄の成長を誰よりも喜んでいたのはおそらく真琴であり、病弱な妹と思われていた彼女こそ誰よりも頼りない兄のことを慮っていました。
 そういえば、と吹雪は思い出しています。彼が霊刀を持つ智巳に剣を教えながらも妬みと嫉みをまじえて当り散らしていた間、この妹は何の不平を言うこともなくただその様子を静観していました。それが正しいかどうかではなく、それが必要だということを信じたからこそ真琴は余計な口を差し挟もうとはしなかったのでしょう。その正しさと厳しさに支えられた心を持つ少女が、春菜と親しいことを吹雪は今更のように納得する思いになります。

「其に意味を与えてはならぬ。其は供馬尊、ともまみことは世界を律するただ一つの融和・・・もう少し家にも大厄の伝承が残されていればよかったのですけど」
「奴さんの名前が分かっただけでも上出来さ。意味のある名前は力を持つ、俺たちにはそれが必要だ」

 智巳と真琴、双子の名にその鍵を託すと伝えられていた、かつて汝鳥に封じられた大厄の正体。ただ大厄とだけ呼ばれていたその名が鴉鳥の家で見つけ出されたのはごく最近のことでした。それでも数少ない伝承や記録から、その名前を追って手に入った情報は断片的なものでしかありません。奇妙であったのはわずか数十年前に再封印されたという供馬尊の、その記録が意図的に消されたかのように少ないことと、当時を知っている者たちが一様に大厄のことを語ろうとしないその理由でした。町の四方に祀られている社が大厄の封印を抑えている、その封印に眠る供馬尊の正体は誰も知らない。数十年を経てそれに抗する者たちは恐怖でも脅威でもなく、未知への不安を抱いて大厄に挑まなければならないのです。
 その不安に背を伸ばして発とうとする、吹雪を呼び止めると真琴が差し出したのは神木の枝木を削り意匠を凝らした春菜の錫杖でした。見た目よりも軽いがしなやかで、細身だが堅固な杖は春菜自身を思わせる清爽な強さを秘めており、それを手に取った吹雪は寝台に眠る錫杖の持ち主に目を向けます。

「春菜ちゃんは、許してくれると思います」
「本当は、こいつも一緒に休ませてやろうと思っていたんだがな」

 そう言いながらも、少年は礼を言って春菜の錫杖を受け取ると愛用する大太刀とともに脇に携えました。同行二人というのも悪くない、大いなる存在を相手にしてそれを貫く力は必要であり、自分は戦いそして帰るために発とうとしているのですから。
 汝発つ鳥の如く、其の時まで壮健なれとは誰が言った言葉であったでしょうか。きびすを返すと病室の扉に向けて、迷わぬ歩調で足を踏み出そうとした吹雪は最後に一度、肩越しに二人の少女に振り返ると力強い笑みを浮かべました。

「たかが大厄の封印だよ。そんなものよりもっと貴重なものがあることを俺は、俺たちは知っている」

 だから戦いへ向かおう、守るべきものを後に置いて。少年は娘たちに後を託すとその青みがかった目に凛とした意思を湛え、一本縛った黒髪に清爽な律動感を携えて病室を後にします。

 汝鳥の町はその四方を古くからある社に囲われていました。東南は神木が立つ汝鳥神社があり、西北には浅間神社に祀られたコノハナノサクヤヒメノミコトが居を構えています。そして北方には由緒あるえびすの社が参拝する人を迎え、東北には無名の音無の神が住まう祠がありました。春菜が幼い頃から近所にある汝鳥神社の神木に通い昨今では浅間神社に参詣を続けていたことや、音無の神が彼女に過ぎ去る祝福を与えたことを吹雪は知っています。生まれ育った町を慈しむ、その功徳に汝鳥は祝福を与えているのでしょう。そして西南には七月宮稲荷の小さな社が置かれているが、ここに祀られていた神は忘れられていた中で人を祟り、今では人に対しています。
 四方を神に囲われた、汝鳥の中心に設けられている大厄の封。夕も暮れになって病室に立ち寄る時間が少しく長かったのかもしれず、吹雪がついたときに少年を除く皆はすでに顔を揃えており、朝霞大介が不機嫌な顔を向けています。吹雪が所属する剣術研究会とは異なる、オカルト・ミステリー倶楽部の部員とはいえ一年先達として後輩たちを率いる立場の一人でした。

「遅ぇぞまったく。イライラさせんな」
「いやいや、そりゃ悪ぅございました」

 軽口はいつものことであり、吹雪の性癖でもあります。集まっているとはいえメンバーは決して多いものではなく、吹雪に大介を除けば龍波輝充郎と鷲塚智巳を含めた四人しかおらず、他の者たちは封印の近くで合流する予定となっていました。元来、単独行動が多く賑やかさを好まない少年には有り難くもあり、花も色気もない組み合わせに不満を言うような輩もいません。

「しっかし男くさい待ち合わせですねえ」
「お前さんはその方が良かったんじゃないか?」
「どういう意味ですかね、先輩」

 輝充郎の声に冗談めいた返事を返しながらも、微妙に汗の量を増やします。遅れてきた少年がどこに立ち寄っていたかは周知のことであり、劣勢に立たされないうちに話をてきとうに切り上げてしまうと少年は如何にも緊張しているように見える、智巳の姿に目を移します。背伸びしている具合こそ見えながらも、少なくとも頼りなさの消えた表情に吹雪はこいつの妹も誇らしいだろう、と思ってからふと気が付きました。吹雪が春菜を置いてくることができたように、智巳もまた真琴を置いてくることができたということに。

「期待してるぜ、鷲塚よぉ」

 いささか唐突ながら、お坊っちゃんと呼ぶ侮蔑した声ではなく全うに仲間として声をかけられたことに智巳も気が付きます。霊刀備前長船、そいつが使えないと困る。その誤解を捨てる必要があることに少年はようやく気がついていました。魔を討つ刃でもなく、極められた技でもない。ましてや生まれながら認められた血統などでもない。智巳自身が剣を手に発つ、その決意があるときに人は自分の意思で力を振るうことができるのです。

「ご期待に添えるようにしますよ」
「ああ、道は俺たちが拓いてやるさ」

 既に日は暮れて周囲は薄闇の帳に包まれており、柚木塔子を始めとする他の者たちも封印の跡が隠された建物の周辺に集まっています。市中では大規模な人避けの陣が張られていたこともあり、住民の退避も完了していましたから周囲は商店街とは思えぬ静けさに包まれていました。妖怪バスターの活動に対する市井の締め付けが厳しくなったとはいえ、京都汝鳥市からの正式な要請もあって今回ばかりは行政も協力せざるを得なかったようです。
 一見してごく普通の建物の地下にある封印。そこには一面の土が敷かれていて土俵に似た注連縄が張られている、それはごく数十年前に再封印が試みられた跡であって、その時の記憶を覚えている者も幾人か存命しています。にも関わらず彼らは一様にそれを語らず、それは話したくない過去という様子でもなく、まるでそれを知らずに封印に立ち向かうことができねば意味がないとでもいうかのようでした。

「どうにもあの世代の人達は分かりませんね」
「そうだな。だが大厄の正体を知れば大厄に対することができぬ、ということは有り得るかもしれない」
「成る程、そういうことはありますかね」

 塔子の言葉は推理というよりも憶測の域を出るものではありませんが、古来より一度しか通れぬ扉のような伝承は多く残されています。神であれ妖であれ存在するには意味が必要であり、謎かけは一度きりで答えを知る者は二度と挑むことができない、そのような存在はありうるかもしれません。人を驚かす類の妖が、正体を知る者の前に決して姿を現さないかのように。

 建物を中心にして、集まっている人々の姿に吹雪や塔子は目を向けます。その人数は決して多くはありませんが、中には彼らも名を聞いたことがある高名な術者や剣士の姿も混じっていました。とはいえ妖怪バスターの存在が非公然であるからには高名といっても関係者にとってのことでしかなく、彼らの殆どは一見してごくありふれた一般人にしか見えません。その中にはいかにも荒事の得意そうな姿もあるとはいえ、例えば背広を着た柔和そうな男性が歴戦の剣士だなどと言われても誰も信じようとはしないでしょう。
 さて自分はどのように見られているだろうかと、いささか意味のないことを吹雪が考えている間に塔子はその場を離れると他のバスターたちと話を進めています。今回の再封印の儀式では彼女が各々の連携や役割をまとめているらしく、その知性と判断力はすでに予備軍と呼ばれるものではありません。遠目に様子を見ている少年の後ろに、聞き慣れた足音が近付くと大きめのザックを背負った大介が立っていました。

「あれ、先輩?まだ俺たちは待機ですよ」
「いや、悪いが俺は多賀野を連れてキツネ退治だ」
「あ、そうでしたね・・・ご武運をって言っといた方がいいですか?」
「いらねーよ。今更似合わない心配なんぞするな」

 大介の言葉に、奇妙に確信めいた力強さを見て吹雪は意外な顔をします。西南の祠、七月宮稲荷の祟りを鎮めることは封印を囲う力を安定させるために避けては通れないと思われていましたが、神に対する筈の大介にはその気負いは見えず、まるでこれから出向く喧嘩を楽しみにしている学生のようにしか見えません。もちろん、彼らが学生であることは百も承知しているとはいえ。
 大介が連れているのは稲荷神と親しみながらそれを祀らずに祟られていた多賀野瑠璃であり、傍らに控えているその稲荷神に似た姿をした小柄な少女でした。不機嫌そうな少年と三つ編みのお下げを下げた少女、小柄な娘の取り合わせには祟り神に対する危難を窺わせるものはまるでなく、大介自身もどこか呆れたように漏らします。

「イライラするが少しは話が見えてきやがった。まあやるだけやってみるさ」

 見えてきた、とは大介の服の裾を掴んで放さない少女のことでしょうか。外見だけを見ても少女が七月恋花に繋がりがある存在だということは言われずとも分かります。であればそれを生み出したであろう稲荷神には企みがあるということであり、大介はいっそ神の手のひらに乗せられるつもりでいました。
 縁と呼ぶべき絆の存在。ことにそれが神を相手にする場合に無視できないことは吹雪も知っています。あらゆる存在には意味が必要であって、縁とはそうした意味を生み出す関係なのですから。小さな恋花を従えた大介はいつもの空腹そうな顔をしながら、吹雪たちに軽く手を挙げるときびすを返しました。再封印の儀式が始まる前に、すべてを解決した力を手に再びここに戻る。その日、汝鳥が長い夜になるであろうことを彼らは知っており、去っていく背中を見て輝充郎が呟きました。

「どうした。やっぱりお前も行きたかったか?」
「ええ、まあね」

 曖昧に答える、吹雪の心情は行きたくないといえばそれは嘘になりますが、今も病室に眠る少女の姿を思えば七月宮稲荷へのこだわりは多いものではありません。それは少年が稲荷神との縁を軽んじているためではなく、大介や瑠璃と七月恋花の間にある縁をより重く考えているからこそでした。吹雪は今でも自分の責任と才に押しつぶされたまま神性を宿さざるを得なかった、瑠璃に哀れみこそ感じますが嫌っていなければ憎んでもいません。
 いつだったか、吹雪は春菜と話をしたときのことを思い出しています。祟り神の力に対抗するべく、三面大黒天を降ろしたという瑠璃の話を聞いて安易な方法を選んだ愚かさと、にも関わらずそれを成功させた器の大きさに嫌悪する吹雪を見て春菜はこう言っていました。

「あの娘は、神様になる術を選んだのよ」
「涅槃の神性、という訳か」

 吹雪の言葉は半分は冗談でしたが、春菜は否定でも肯定でもない素振りで首を振ります。

「世界に神様が存在する意味。瑠璃さんがその意味を得るのであれば、七月宮稲荷も鎮まるかもしれない」

 意味とは縁によって生み出される存在の理由である。ひとつ息をついてから首を振ると、吹雪は自分たちが為すべき儀式の準備へと意識を戻します。汝鳥の四方を囲う神性は一箇所、天乃原を除けばすでに鎮まっており封印はそれを為した者たちの話こそ聞くことができずとも彼らは力を揃えてそれに対しようとしている。彼らが手にしているだけの知識と力によって、汝鳥を鎮める儀式へと向かうのです。やがて他の妖怪バスターたちとの話を終えた塔子が戻ってくると、状況と作戦の説明を始めました。封印を囲う力を強めて儀式の助けとする、これまでも幾度か繰り返されてきた説明に、吹雪も改めてという風で今更の問いを投げます。

「では儀式の主体は俺たちですね?」
「そうだ。私たちこそ最も大厄と四方の社に関わる者であり、縁とはそれほど重要なものだからな」

 四方の社を祀り、その力を強めてから中央の封印に対する、儀式の手順は理屈としてはまことに単純なものでした。学生たちを助けて市井の妖怪バスターたちは偏る力のバランスを取ってこれを安定させることが役割となります。確かに全身全霊を込めた力を出すだけであれば心得のない者にも不可能ではありませんが、それをコントロールするとなれば技量が必要であり、儀式が汝鳥の町全体を覆う大規模なものであることを思えばベテランの術者たちはそれを活かした配置にならざるを得ないでしょう。
 いずれにしても自分たちが主体とならねばいけない、それは当然だと思う一方で塔子にも不安がない訳ではありません。説明を終えてから後輩たちの姿が離れたことを確認すると、塔子は輝充郎にだけは胸中の心境を語っていました。

「果たして、上手く行くだろうか。いや、それより正体も分からぬ相手を再封印などして良いのだろうか」
「お前さんらしくない言い方だな。任務であれば成功させる、仲間を危険に晒さないために最も効率良い成功を選ぶ、そうだろ?」
「分かっている。だが、その危険を負うのは私ではなく君たちだというのに・・・」
「俺たちはお前さんに言われたからここにいる訳じゃないさ。ずいぶん喧嘩もしながら、それでも自分で選んでいる。冬真だって鷲塚だって、ここにいない者だってそいつは同じだ」

 人を率いる者の不安を抱えながら、塔子は自分がその責を負わねばならないことも理解しています。一度、切りそろえた髪を振って不毛な考えを払うと塔子は天乃原の状況を見て作戦を開始する、と言います。汝鳥神社の神木は健在であり、浅間神社にあるコノハナノサクヤヒメノミコトは鎮まり、音無の神は少女に祝福を与えるとこの地を去っていました。西南の祠、天乃原にある七月宮稲荷の祟りを鎮めると同時に封印の儀式を始めること。瑠璃と大介、そして七月恋花を信じて彼らは待つしかありません。

 囁かれる会話を聞き流しながら、たゆたっている緊張の中で吹雪は心にかかる棘を抜くことができずにいます。神器の鏡がもたらす知識は少年の心の内に映し出される姿であり、それは鏡を持たぬ者に見えるでもなく、その意味を理解できる者は少年とともに鏡を見た少女であって彼女は病室で動かぬ身を横たえている筈でした。

「だがそれは決して正体の分からぬ相手ではない。なぜならばそれは名を与えられてしまったのだから」


 むかしむかしのそのまた昔のことです。この国がまだ国というかたまりではなく、世に妖々たるものが跋扈して今よりも人とそうでないモノたちとが近しく、天と地と海がまだ分かれてはいなかった頃の時代。

 今は遠い遠い海の向こうとなっている、黒い海の向こうで諍い、争い傷つけ合う二つのものがありました。意味を持たずにただ暴れ回るだけの力、火のかたまりとなって縦横無尽に駆けめぐりながら牙をぶつけ合っていた二つの竜は、時が生まれていたその時代に七日七晩のあいだそれは激しい争いを続けて天を割き地を砕いて海をかき回していましたが、ついに力つきて共倒れになると一匹はばらばらに砕け散って世に散らばり、もう一匹は濁った水の底に沈んで行ったのです。今となっては二つの竜が互いに争い、傷つけ合った理由など誰も知らず、当の竜たちにさえ分からなかったのかもしれません。
 やがて国が定まると水の上にかたまりとなっていた土は木を芽吹き、少しずつ生き物が住まうようになって妖も方々に隠れ住むことができるようになり、木はところどころ切り倒されて人が営みを始めるようになりました。その頃には二つの火のかたまりが互いに争っていたことなど誰も覚えてはいませんでしたが、散らばっても消えることのなかった火は世に争いを残しながら争いを嫌う思いも世に伝えていたのです。それが世のはじまり、むかしむかしのそのまた昔に起こった出来事でした。

 それからしばらくたった時代のことです。海岸に葦の小舟のようなものが打ち上げられているのを漁師たちが見つけました。今でも多くの魚や遺物が漂着する東の突端にある浜辺、漁師たちは竜宮から来た使いのことをそれが流れ着いたずっと昔の時代から知っており、小舟もそうした竜宮の遺物であろうと思われていたのです。竜宮とは竜の安宮、水に沈んだ火のかけらであったことなど、誰も思いつくことはありません。遠い海の向こうから流れてきた「蛭子」をめぐる、そんな昔の話です。

 日の暮れた天乃原は人気もなくごく穏やかな静謐に満たされており、二人の男女と一人の子供がカンテラを手に立ち入っている様子は奇妙なものに見えたかもしれません。人に会えば怪訝な目で見られたことでしょうが、汝鳥の中央にある封印と四方を囲ういくつかの神所にはこの日のために人避けの術が施されており、薄闇の中であえて禁を破ろうとする者は見あたりませんでした。闇の不吉を怖がって年長者の服の裾にしがみついているのは小さな恋花ばかりであり、瑠璃は泰然として動じず大介はいつもと変わらぬ不機嫌な顔を見せています。祟りを為したこの祠の主、彼らの探す七月宮稲荷が周囲におわすことを彼らは感じていました。

「なんでお前までついて来てんだ、イライラする」
「わ、わてはその方がいいと思うんですじゃ?」
「好かれてますね、朝霞先輩」

 どこか大人びた笑みを浮かべている、瑠璃の言葉に大介はいっそう不機嫌そうな顔になると鼻面に皺を寄せます。三つ編みのお下げを二本ぶら下げている、幼げな少女はオカルト・ミステリー倶楽部の後輩であり如何にも粗忽で頼りない新入生であった筈ですが、三面大黒天を降ろした姿は神々しいというよりもむしろ浮き世を離れたこの世のものならぬ雰囲気を感じさせていました。人ではない存在に頼る、己の境遇に些かの理不尽を感じながらも大介にはそれを否定するつもりはありません。及ばぬ人が力を借りるのではなく、どうやら神様にも彼らなりの望みと思惑とがあるらしいことに大介は気が付いていました。

「まったく、かったるい連中だぜ」
「神様に対する言いぐさとしては聞き捨てならないわねえ」

 呟いた大介の言葉に時を置かず、八本の尾を揺らして七月宮稲荷が姿を現します。放置された神の怒りを如何にするか、誰が望む結末になるかはともかくそれは先延ばしが許される問題ではありません。自分と縁を持った者たちがようやく自分の祠を訪れた様子に、美しい女性めいた姿をした稲荷は首を傾けながら唇の端を魅惑的に持ち上げています。額に描かれたもう一つの瞳が怪しげな光りを発しました。

「それにしても二人とも随分立派になったみたいね。どうせすべては手遅れだというのに」
「おかげさまでな。それよりいい加減聞かせてもらいたいもんだな」
「あら、何をかしら?」

 韜晦するような言葉に大介は不機嫌そうな顔を変えることがありません。直接の返答を避けて、稲荷が言ったのは別のことです。

「大介さま。人の持つ力って考えたことがある?」
「ねーよ」

 真正直に即答する様子に思わず吹き出すと、哲学に興味のない少年に親しげな視線を向けながら七月宮稲荷は笑みを浮かべました。元来は古いキツネである彼女が時を経て何故、穀物の神である稲荷と化したのか。人に労苦と糧を与える豊穣の恵みを与える存在となった、その理由は人が彼女に穀物の神としての意味を与えたからに他なりません。時を経たキツネは妖狐になると人が信じて、穀物の神である稲荷を人が祀ったからこそ七月宮稲荷は神となっているのです。そして、人がそれを忘れたときに彼女は人に祟らなければなりませんでした。

「人だけが人ならぬものに名を与えることが、意味を与えることができるのよ。たとえどれほど長生きしたところで人の存在がなければ私はキツネのまま生きて死んでいたでしょうね。でも人の信仰が私を七月宮稲荷にした、それが人の持つ力」

 あらゆる存在はごく当然にそこに存在するだけである。山は誰に言われずとも山であり、キツネは誰に呼ばれずともキツネとして生きています。ですが盛り上がった巨大な土くれに山という名を与えて、金色の畜生にキツネという意味を与えるのは人であって山でもなければキツネでもありません。良い悪いではなくこの世界は人の世界であると言った少女がいましたが、それはこの世界が人によって意味を与えられた世界であるからなのです。

「討魔の豪傑、高槻の払師、夛賀野の従者、八野の女狐、音無き山の鬼・・・どれも人が与えた名前。でも名を与えてはいけない存在があることに人は気が付くことができなかった、だって意味を与える者こそが人なんだから。それが大介さまたちが知りたがっている大厄の正体よ」
「神を敬い祀る人が、祀ってはいけない存在を崇めてしまった。だから人はその名前を奪い、意味を失ったそれはこの汝鳥に封じられたの。名前を奪ったからなとり、汝鳥は人の過ちを封じた場所だからこそ、人は多くの神仏をこの地に招いてそれを祀ろうとしたのよ」

 七月宮稲荷の言葉に続けたのは瑠璃でした。それは彼女が降ろした三面大黒天から与えられた記憶であり、三つ編みのお下げを垂らした少女はすべてを知ったことによってそれを知るものと同じ存在として人に対さなければなりません。人の歩みを神が見守るのであれば、瑠璃もまた人を見守るものでなければならないのです。それでも、神性であると同時に多賀野瑠璃でもある少女は彼女の親しかった恋花に対して伝えるべきことがあります。

「それから幾代も時が経って、汝鳥の神性を崇めることを忘れてしまった人がいる。多賀野瑠璃は七月恋花に親しく接しようとしたけれど、それを敬う思いを忘れてはいけなかったのよ。神であれ妖であれ、獣であれ人であれそれは都合のいい人形ではないんだから、愛着だけで接していい筈がなかったのに。しかも、私は神性を崇める巫女であったというのに」

 首をめぐらせて、瑠璃は稲荷の姿に目を向けます。七月宮稲荷を放置して祟り神と為し、それに対するべく三面大黒天を降ろした社の巫女。彼女がすでに俗世を隔てた存在となっていることを、この場にいる誰もが知っていました。
 無言でゆっくりと頭を下げる、瑠璃の真意は稲荷にも分かりましたが、だからといってそれは彼女の都合でしかなく神が受け入れるべき仕草ではありません。あらためて言われるまでもなく、すべては手遅れで遅きに失しているのです。

「でもね、手遅れなのは私だけなのよ。だからせめて、私はその人たちを助けたいと思うの」

 瑠璃は思い出しています。自分が神性を持つ者となった、その間にも人は人の営みを続けている。参詣の足が途絶えて学園の隅に朽ちようとしていた浅間神社は清められて、真摯な少女たちがそれを詣でていました。汝鳥神社の境内に古くから祀られる神木には奉納を捧げる足が絶えることはなく、失われた音無も解き放たれると汝鳥を去る前に一風の祝福を残しています。自分に親しい少女と自分を蔑む少年の姿を思い浮かべた瑠璃は彼らが神器の鏡を覗き見たことも知っていましたが、それは大厄を封じるためではなく神性に対する畏敬の念でもなく、もっと貴重で大切なもののためでした。瑠璃が失って、二度と手に入れることができないもののために。

「本当は私だって、大切なものを持っていたのよ。私に神降ろしの器があったことなんてどうでもいいの。でも私は神様を降ろした今になって、ようやく色々なものが見えるようになった。本当はもっと前に気が付くことができていた筈だったけれど」

 瑠璃の述懐は過ぎ去って戻らぬ事実に対する決別の言葉でした。少女が無言で頭を下げた、その理由は彼女がやり残していた七月恋花への謝罪であって、一番最初にやるべきであった多賀野瑠璃としての行いを今になって済ませただけに過ぎません。すべては手遅れである、だが他の者は間に合うのであれば自分と同じ過ちを人に繰り返させないことは神性を得た少女に与えられた役割でしょう。諦観を湛えた目で大介を見据えた瑠璃は、自分が掴むことのできなかった小さな縁を握っている先輩に向けて語ります。

「朝霞先輩。荒ぶる神の祟りを、怒りを鎮める方法なんてものはこの世のどこにも存在しません。でも、それでも人は多くの祟りを鎮めて来ました」
「んなこたーわかってる。鎮まらない神なら鎮めるしかねーんだろ?」

 その言葉に瑠璃は哀しそうに頷き、稲荷は不敵に笑います。神の怒りを祟りと呼ぶのであれば、怒りを鎮めるためにはどうすればいいですか、などと訪ねる方が間違いでした。正しい方法などはどこにも存在せず、ただ怒りを鎮めてもらうために誠心誠意振舞うしかありません。礼を尽くして祭祀を執り行うのか、貴重な犠牲を生け贄として捧げるのか、いずれにせよそれは手段でしかなくそれで怒りが鎮まるかは神にも人にも分からないのです。神を鎮める昔ながらの方法は供物を捧げること、ですが供物に満足せぬ神が更なる供物を求めるのもまた昔ながらのことでした。
 結局、誰もが満足して誰もが納得する正しい回答などありはしません。そして神が怒りを鎮めず人に祟りを続けるというのであれば、力ずくでもこれを抑えるしかないでしょう。大介は両の拳を組んで指を鳴らすと、稲荷が浮かべているものと同じ不敵な笑みのままで一歩を踏み出しました。

「満足というなら誰より俺が満足してないさ。キツネもそうだろう」
「自惚れてるわねえ。神様と殴り合いをして勝てると本気で思っているの?」

 言いながら、七月宮稲荷の声は高揚を隠すことができません。神と人が組み合うなど正気の沙汰とは思えませんが、古来より伝承であれお伽噺であれそうした話は残されているものです。人がその力を振るって神と組み合うべく技を鍛えていた、それもまた人が神に与えた意味でありそれを奉られることは神が存在する意味そのものでした。大介の挑戦を受けることは七月宮稲荷に与えられた意味なのです。

「楽しい祀りになるかもね。でも手加減はしないわよ?」
「したら手前の負けだ」
「あっははー!言ってくれるじゃないのさ!」

 大切なことは満足することと納得することであるのならば、本来、穀物の神である稲荷神に闘技が捧げられるという奇態な祀りも意に介することはないでしょう。大介が七月宮稲荷のために自らの技を磨いたことだけがたった一つの事実でした。
 薄闇の汝鳥はそのとき中天に登る月の明かりに照らされて、天乃原の名に相応しい祭儀の舞台となっています。ゆっくりと歩みを進めながらも視線によって互いの間合いを測っている神と人の姿は、鷹揚に立ちながら幾本にも分かれた尾が身を守るように広がる稲荷と、獣の一牙をその腕に秘めた大介の二人が対峙する緊張感を描き出していました。バリツと呼ばれる大介の手技はひとたび獲物を捕えれば瞬時にそれを砕き、八本に広がる稲荷神の尾は正しく八方を守る鉄壁を為しています。瑠璃や小さな恋花の目が見守る中で、挑発の言葉を投げたのは七月宮稲荷でした。

「知ってるわよ、結局八箇所までしか極められなかったんでしょ」
「手前の尾が八本しかないというなら互角だな」
「神様と互角とは言ってくれるわね。でも互角でどうやって勝つつもりよ?」
「もちろん、こうやってだ!」

 叫ぶと同時に大介はすでに跳んでいました。しなやかな獣を思わせる跳躍から牙並ぶ顎を思わせる腕が伸びますが、金色の尾がそれを阻むと弾かれた腕が一息の間に伸びて次の牙を剥き、それを新たな尾が阻みます。超速拳、と呼ばれる古来の術で人は一息の間に片手で四手、両手で八手の技を打つことができると言われていましたが、大介がどれほど俊速で技を突き出そうと恋花の八本の尾はそのすべてを防ぐでしょう。
 ではどうするか。八手目が弾かれてすべての尾が無防備になった瞬間、全身を大きくのけぞらせた大介が存分に体重を乗せた頭突きを打つと、同じく全身を反らせていた恋花もこれを避けずに正面から頭を打ち付けます。ごつりという重く、鈍い音に端にいた瑠璃と小さな恋花が思わず身をすくめて、一瞬後に足をよろめかせた大介が踏みとどまると悪態をつきました。

「て、手前。神様のくせに頭が固ぇじゃねーか」
「あらあら、大介さまもしかして痛かったかしら?」

 その言葉が再び双方の頭から、聞くに耐えぬ音を響かせます。人と神が正面から向き合って、互いに大きく背を反らせて額をぶつけ合う光景はどんな伝承やお伽噺を紐解いても載っていなかったかもしれません。金色の尾もバリツの技もなく、五度目の頭突きによろけながら離れた二人は今度は走り込んで、六度目の頭を全力でぶつけ合います。目を疑うような神様の姿を見せられているにも関わらず、瑠璃は少年のような声でけたたましく笑う七月宮稲荷の神格が驚くほど高まっているのを感じていました。

「はーっはっはっはっはっはっは!面白い、あんた面白すぎるよ大介さま!」

 そう叫んで、白河豆腐が砕けるような音が七度目の空気を揺らすとふらふらとよろけた稲荷が遂に目を回してばたりと倒れます。あるいは霊格のある第三の目を額に持つ恋花が、人よりわずかに頭が弱かったせいかもしれません。仁王立ちで構えている大介も、視点が定まらずにそれでも力ずくで神を鎮めた彼の誇りを宣言します。

「こいつが、頭を使った勝利だぜ」

 次の瞬間、男らしく前のめりに倒れた大介が恋花とともに目を覚ますにはしばらくの時がかかりますが、西南の祠である天乃原はようやく鎮められて周囲には呆れた静謐が取り戻されていました。それにしても途方もない方法を選ぶものだと、小さな恋花を連れた瑠璃は誰ともなく首を振りますが、それを誰よりも羨んでいるのもまた彼女だったのです。


 再封印の儀式を前にして、集まっている人々は汝鳥を囲う静謐の中で互いの姿を確認しています。定刻に始められる儀式は単純なものであり、すでに施されている封印に重ねて陣を組むだけのものでした。同時に、方々の社を祀る祭儀を行うことでその力を助けるという、儀式の規模だけは大仰なものになっていますが取り立てて特別なことをする訳ではありません。

「瑠璃さん、大丈夫かな」
「心配してもしゃーないさ。それより・・・いや、何でもない」

 智巳の心配をよそに、吹雪の懸念は天乃原に向いてはいませんでした。好悪の念は別にして瑠璃の力は七月宮稲荷に勝るものであり、それ以上に七月恋花が彼女に縁のある誰の破滅も望んではいないことに吹雪は奇妙な確信を持っています。彼女が瑠璃や大介を害する筈もなく、汝鳥の人々に神が望むことはもっと別のものであるようでした。
 すべてを見晴るかす雲外鏡でさえも届かぬ、三面大黒天もコノハナノサクヤヒメノミコトも、そして天乃原で瑠璃や大介と対している七月宮稲荷も秘して語らぬ思い。それが吹雪の心に抜けない棘を残しています。大厄の存在についても正体についても彼らはそのすべてを知った上で、あえてそれを人に語ろうとはしていません。他人の企ての上で踊らされているような感覚は吹雪にとって気分の良いものではありませんが、それは同時に何故彼らがそうしなければならないのかという疑問を感じさせてもいます。大厄を知る者が大厄について語らぬ理由、今のところそれに気が付いている者はほとんどいないようですし、吹雪にしたところで漠然と感じている疑念でしかありません。

(こういうとき、お嬢様たちがいると助かるんだがな)

 病室に残る二人の少女、高槻春菜や鴉鳥真琴の姿を少年は思い浮かべます。傷付き眠る少女を後に残すことを選んだのは吹雪自身であり、自分が血泥のぬかるみに立つことは少年の誇りでもありました。ですが春菜だけではなく真琴のように一見して荒事に向かぬように見える少女たちの存在が、彼らにとって貴重であることを知っている者は吹雪だけではありません。冷徹な知性と健全な判断力は時として厚切りの刀にも奮迅の技にも勝ります。ですがその真琴が春菜の友人として病室に残ったことは、不安の材料にはなっても咎める声も疑問を述べる声もない、人として当然の選択でした。

「供馬尊。双子の名に大厄の鍵を託した、だったか」

 背後で呟く言葉に吹雪は意識を現実に戻します。太い腕を組んで、いつの間にか少年の傍らに立っていた輝充郎が漏らした言葉は鴉鳥の家に残されていたという、数少ない大厄にまつわる口伝でした。それは断片的なものでしたが、彼らはその程度の知識に助けを求めるしかありません。
 妖怪バスター予備軍と呼ばれている、学園の生徒たちで再封印の儀式に直接携わることになった者は霊刀を持つ智巳と鏡を手にする吹雪、そして鬼の血が流れる輝充郎の三人であり、他は大介や瑠璃のように方々の社へと散る予定となっています。唯一の例外が儀式全体の指揮を司ることになる柚木塔子でした。
 術士としての塔子は彼女が昔受けた傷によって力を失って久しく、小さな陣を設けて異形のものを遮る程度の術がせいぜいでしたが、それ故に無謀な力に頼らない冷徹で曇りの無い知性は皆の助けになっています。本人の思いはどうであれ誰よりも頼られている華奢な少女に、輝充郎は大厄への疑問を口にしていました。

「妙な話だ。別に兄貴がトモマで妹がミコトでも良かったろうに」
「幾つかある口伝は分かっているが、それぞれの繋がりが見つかっていない。私には少なくとも二つか三つの伝承があったように思えるが、それを調べている時間は流石にもうないからな」

 双子の名に伝えていた、大厄の名が唐突に判明したと言われたところで供馬尊にまつわる伝承や記録が驚くほど少ないという事情がさして改善することはありませんでした。それでも東汝鳥と京都汝鳥を徹底的に調べたところ、断片的に見つけられた文献からは供馬尊を示すわずかな記述が見つけられています。

「其は決して起こしてはならぬ、其に意味を与えてはならぬ。供馬尊は世界を律するただ一つの融和、あらゆる諍いを収めてあらゆる営みを収める者。尊は世界を律するただ一つであり、尊の中ですべては等しい。尊を用いてはならない。聖者は邪を失い、覇者は叛を失い、賢者は愚を失い、豪傑は鈍を失う。もしも其が起きることがあれば子供らよ、お前たちが幾久しい時を紡いで欲しい。そしてもしも其が終わったのであれば、残された小さな花が微笑んでいたその姿を慈しんで欲しい・・・」

 その記述を目にした者は、一様に首を傾げました。断片的な伝承を繋げた中で分かることといえば大厄の名が供馬尊であるという程度でしたが、あらゆる諍いを収めてあらゆる営みを収めるというただ一つの融和という記述には禍いを窺わせるものはなく、むしろごくまっとうな神様にしか見えません。

「尊の中ですべては等しい、であれば人も妖も等しいということかもしれないし地蜘蛛衆やスニール会が目をつけた理由もそこにあるのかもしれないな。平等は人にとって災いになるが、妖には解放になる」

 塔子の言葉に、吹雪は誰も気付かない程度に唇を歪めます。人と妖を隔てる壁の存在が吹雪と春菜の確執の原因となったことを少年は忘れておらず、彼らは互いに思い悩みながらも未だ理想に至る道が見つけ出された訳ではありません。それは永遠に見つからないかもしれませんが、ただ少年も少女もそれを追い続けて飽きることはないでしょう。対立する者たちが手を携えて封印すべき大厄がただ一つの融和であるという記述に皮肉を覚えますが、伝承が断片的にしか分かっていないのであればそれも確かめることはできませんでした。
 そして分かっていないといえば、大厄の伝承以外にも気にかかっていることがありましたがそれを口にしたのもやはり輝充郎です。それも吹雪にとっては耳に快い話ではありませんが、彼らが関わるべき大厄の鍵となる疑問の筈でした。

「だがこれじゃあ双子の名が云々という鴉鳥の口伝はさっぱり分からんな。それに備前長船が打った霊刀の一本、それがえびす神社にあったのはいいが何故そいつを鴉鳥の双子が持たなければならなかったんだ?誰かが奉納の儀式を行い、双子に捧げたからこそ霊刀は鷲塚の物になっている。前から気になっていたが、どうも話せる塩梅じゃなかったからな」
「そいつは悪うござんしたね」

 輝充郎の言葉に冗談めかしておどけてみせたのは無論吹雪ですが、それは少年にも気にかかっていた疑念です。剣士として技を磨いてきた者としては、それが剣を心得ぬ者に捧げられたことに理不尽を覚えずにはいられませんが、それがもしも理不尽ではなかったとしたらどのような理由が考えられるでしょうか。
 霊刀は持ち主を選び、資格なき者には抜くこともできぬ。吹雪や春菜が試みたときは鞘から動かなかった刀が、智巳や真琴の手に触れればすべるように抜かれました。鴉鳥の血がそれほどのものかと吹雪が感じた嫉妬の思いは深刻である一方で、智巳ならまだしも真琴までも刀を抜くことができた理由は単に彼らが鴉鳥の家の者であるからというよりも何か他の理由を思わせずにはいられません。先に塔子が言っていたようにそれを追求する時間はありませんが、どこかで誰かに仕組まれているような思いを少年は捨てることができませんでした。まるで、大厄の封印は解かれなければいけないものであるかのような。

「では、そろそろこちらも行きます。先生方に伝えておくことはある?」

 颯爽とした八神麗の声が聞こえます。塔子らと同年の小柄な少女は彼女が仕える浅間神社を守るべく出立することになっており、瑠璃や大介が天乃原の祠に向かったのと同様に他の者たちも方々の社で祭祀を執り行って再封印の儀式を助ける手筈となっていました。西北の社、浅間神社に向かう麗はそこでコノハナノサクヤヒメノミコトを祀り、学園の敷地内にある社に近い部室にはネイ・リファールやウォレス・G・ラインバーグといった顧問たちが数人の生徒を連れてすでに待機しています。
 大将は本陣に腰を据えて動かぬものだ、とは暴君先生ことネイの述懐でしたが、彼女が倒した無様な化け物によって汚されていた祠は神去った今ではかんたんに修復されて、周囲にはその資金を出資したというネイの商会の幟が立てられています。あまり美しい姿とはいえずとも、小さな社では決して珍しい話ではないでしょう。

「本当は星条旗を立てたかったのだがな!」

 そのときのネイの言葉を思い出して苦笑しながらも、吹雪は部室に残っているメンバーの中にラインバーグの妹であるトウカがいるだろうことに安堵しています。何の偏見もなく妖の手を握ることができる少女、彼女が大厄の封印になど関わることはない。ゲー先生が一緒であれば妹を止めてくれるであろうし、春菜にしろ真琴にしろ、こんな仕事に彼女たちが関わる必要はないのだ。暴君先生の言ではないが、本陣に腰を据えてもらって一向に構わない。
 そして浅間神社に向かう麗とはちょうど対角線にあたる東南の方角、汝鳥神社には蓮葉朱陽が相馬小次郎を連れて向かっています。樹齢一千年を越えるという神木が根を下ろしている東南の社は未だ強い力と高い霊格をもって汝鳥を見下ろしていました。朱陽はその神木に借りた枝木の刀を手に、社に暮らしている鬼の子を連れて社の警護に向かいます。彼女たちは祭祀を執り行う者ではなく、儀式が始まって不審な様子がなければ再び封印の地に戻るつもりでした。

「まあ、誰かさんじゃないけど高槻の代わりにね」

 からかうような口調に幾人かが悪意のない笑いを浮かべますが、吹雪にすればたまったものではないでしょう。朱陽もそれ以上は追求せず、神木の太刀を担ぐと軽く手を上げてからその場を後にします。西北の浅間神社に東南の汝鳥神社、彼らにも人数に余裕がある訳ではなく市内にあるすべての社や施設に人を割ける訳ではありません。京都汝鳥や市井の妖怪バスターたちもそれぞれ配されていく中で、周囲に残されているのは塔子や智巳、輝充郎や吹雪に小人族のジョシュア・クロイスといった面々でした。

「未知に対して平然として仲間の手を取ることができる、そうした人の縁には敬服する」
「それは小人の言う、繋がりを示す円環という奴かい?」
「さあな。だが、見届ければそれも分かると思う」

 いつだったか、放浪する小人は汝鳥を訪れた理由を尋ねられたときにそう語っていました。人ならぬものには彼らが存在するための意味があり、それは葉が日に向けて茂り鳥が巣に帰るように当然行うべきことです。そのジョシュアが何のために汝鳥にいるかはともかくとして、この儀式の場所にいる理由はもしかしたらトウカに捕まる前に逃げようとしたのかもしれないなと吹雪は小さく笑います。人形のように小柄なジョシュアをトウカはことのほか気にいっていましたが、放浪の小人としては無邪気に捕まえられる処遇はいささか困ったものでしょう。

「でもあまり楽しそうではありませんわね」
「そうかもしれないな・・・って何でお嬢がここにいるんだよ!」

 驚いている数人の視線に構うことなく、逃げ遅れたジョシュアを抱え上げたトウカ・A・ラインバーグはそれが当然のような表情をしています。今頃部室ではゲー先生が頭を抱えていることだろうと思いつつ、この純粋で悪意のない少女を誰も送り帰すことができないことを知っていました。彼女の精神を侵すことは誰にもできず、見かけに依らぬ彼女の力に抗することもまた難しいのです。

「すまないがお嬢のお守りを、いや、守りを頼むぜ」
「・・・頼まれるまでもない」

 諦めたような吹雪の言葉にジョシュアも観念した表情を浮かべています。見届ける者である小人はその外見とは異なり驚くほど頑健で危難に強く、そのジョシュアであれば彼自身ともう一人を守るくらいはできるでしょう。吹雪は少年が自らに負った責を果たすべく手に錫を持って太刀を振るわねばならず、その意識はいまだ知られてはおらぬ大厄へと注がざるをえません。誰よりも純粋なトウカ、その彼女が漏らしていた言葉にどのような意味があったかをこの時は誰も気が付くことができませんでした。

 一つ息を吐くと首を振って、吹雪は彼が立ち向かうべき封印の中心へと顔を向けながらも先に語られていた伝承の一節に思いを巡らせます。供馬尊の正体、供馬尊の力。そんなものより、すべてが終わって残された小さな花の姿こそが慈しまれる世界であって欲しいと思う。だがその資格はかつて修羅であった少女にも与えられるのだろうか、そう思って少年は一度開いた手を強く握りなおしました。


 封印の再構築、方々の社を祀る祭儀を同時に行うことによって汝鳥の中央に組まれた封印を助ける、そのために幾人もが町の各所へと散っています。多賀野瑠璃と朝霞大介が訪れている天乃原、八神麗や学園の顧問や生徒たちが詰める浅間神社、蓮葉朱陽が相馬小次郎を連れて向かっている神木の立つ汝鳥神社、他にも北方にあるえびす神社やその他の社にも学生たちや市井の妖怪バスターたちが送られていました。その人数は決して多くはありませんが、いずれにせよ儀式の助けとなる力は必要であって汝鳥を治める神仏の存在を疎かにする訳にはいきません。
 ですが、同時にそれが力を分散する愚考であることも彼らは充分に知っています。そして大厄の封印を妨げようとするものたちは、妖怪バスターたちが散るこの好機を決して逃そうとはしないでしょう。中央の封印に当たる者たちは未知の存在に対する危難を考えねばならぬ一方で、方々の社に向かう者たちは自分たちと社そのものの安全を確保しなければなりません。ことに京都汝鳥から訪れている二つの集団、歪んだ土地神である地蜘蛛衆と舶来の勢力であるスニールのエバーたちは度々彼らを襲い、今回もその機会を窺っている筈でした。

「とはいえ連中だってその数には限りがある。こちらが分かれるなら向こうだって同じだよね」
「そうだといいんですが」

 あえて気楽に言う朱陽の呟きに、小次郎は同調することができずにいます。月の夜、東南にある汝鳥神社の境内で、齢一千年を数える神木を見上げている彼らは増大する緊張に身を浸していました。襲われる可能性は低くありませんが、人数を集めるなら再封印を行う中央に向けられるだろう。そう考えても首筋を這い回るような不快な感覚は消えることも小さくなることもありません。いっそ敵が姿を見せればその感覚も消え去ろうものを、と些か不埒な思いを朱陽が抱いたとき小次郎が声を潜めました。

「来たようです。それも、かなり多いかと」
「やれやれ、当たりは籤だけにして欲しかったねえ」

 冗談めかしている朱陽は先ほどまでの不快な感覚が高揚を伴う戦慄に変わっていることを自覚していましたが、同時に周囲を囲っている邪な気配が小次郎の言葉以上に数を増していく危険も感じています。傍らに立つ鬼の子に目配せをした次の瞬間、境内を囲う柵を跳び越えて一斉に姿を現した地蜘蛛の化け物、人間めいた外見に蜘蛛の頭と全身を剛毛に覆われた異形のものたちが少女と鬼の子のまわりをぐるり取り囲んでいました。

「ひーふーみーよー・・・数えるだけ無駄だね。鬼っ子も助けてもらうよ」
「分かっていますけど、自信はありませんね」

 その言葉に小さく口笛を吹いた、朱陽の背を冷たい滴が流れます。小次郎がそう言うからには本当に危ないのだろう、冬真吹雪はこの連中を一人で四十体斬ったらしいが、周囲を囲う妖の数は軽く見積もってその倍は超えていました。隠れる場所とてない境内で一斉に囲われた状態で、記録に挑戦することができるだろうかと朱陽は後悔しかけますが、今更考えてもどうすることもできません。

「そんじゃ神木様、お膝もとで暴れさせてもらうよ!」

 吐き出すように、その神木に賜った枝木の刀を振り回した朱陽は一足とびに異形の集団に飛び込むと斬るというよりも叩き潰すような太刀筋を打ち込みます。深く切り込んで横に凪ぎ、空間を作ったところで踏み込んで一撃を浴びせたらすぐに下がる。一箇所にとどまれば囲まれて潰されることは目に見えており、機動力を駆使して先手を取り続けるその戦い方は常道である一方で、激しく動き回ることによる消耗もまた尋常なものではありません。わずかでも足が止まれば周囲を囲う異形たちが左右や背後から爪を伸ばして、朱陽の肩や背を浅く切り裂きます。耳朶の向こうで小次郎が叫ぶ声が聞こえていますが、少女にも余裕がなく辛うじて鬼の子も自分の身を守ることができているらしいことは分かりました。

「くっ・・・!」

 一撃、突き出された爪が少女の脇腹に深く刺さると足をよろめかせますが致命ではなく、朱陽は信頼する得物を手に次々と雑兵を地に打ち据えます。折れる恐れのない神木の枝木であることが唯一の救いであり、早々に二十体ほどを倒したでところで記録への挑戦も夢ではないかと周囲に目を向けますが、境内の向こうから新たな地蜘蛛が駆けつける様を見ると細い肩に一気に疲労がのしかかりました。囲まれないように路地を逃げながら一体ずつ斬り倒した吹雪に比べて、朱陽の戦いは量産の速度では勝っても状況の不利は比べるべくもありません。唯一の救いは小次郎の存在ですが、鬼の子の声も彼女の耳には届かず乱戦の中で傷と疲労だけが量を増していきます。

「敵に囲まれるってのがこんなに厳しいとはね。高槻と冬真がエバーに襲われたのもこんな感じだったか」

 ふと思い出した朱陽は音無山で吹雪が見せた、高槻流の踏み込みを真似た我流の一撃を繰り出します。常よりも深く踏み出した一歩、それは地蜘蛛の一体を突き飛ばしてその背後に立つ雑兵まで押しのけますが背後に開いた空間に別の姿がおどり込み、無防備になった背に少女は一瞬後の死と絶望を覚悟しました。

「しまった・・・!?」
「蓮葉さん!」

 少女の背を覆う、その声が地蜘蛛ではなく自分の背後におどり込んだ小次郎であることと、強引に飛び込んだ鬼の子に向けて一斉に襲いかかった地蜘蛛の牙が突き立てられる姿に朱陽はようやく気が付きます。振り払った腕に、幾筋もつたう血の色が人と変わらぬ赤い流れを作っていました。この子は、小次郎は無分別に戦う自分の背を常に守ろうとしていたのではないか。

「すまない!あたしは・・・」
「蓮葉さん、あと半歩深く踏み込めます」
「え?」
「僕はこの境内で、高槻さんが奉納する型を幾度も見ているんですよ。貴女ならできます、早く!」

 その言葉に、朱陽には小次郎の意図が分かりました。自分の背を守ると言っている、遅まきであってもそのことに気が付いたのであれば朱陽は背後を恐れることなく戦うことができる。その上でなお小次郎は深く踏み込めと言っているのです。つまり、自分が背後を守るから囲いを突破しろと。
 気恥ずかしい思いは後に回して、省みることなく前を向くと神木の枝木を固く握り直す。この神木と鬼の子が自分を守ってくれることを信じて、もう一度深く踏み込むと我流の一撃で切り込んだ朱陽の後ろに小次郎が続きました。一撃を大きく凪いで地蜘蛛を打ち、更に下がることなく二の太刀から三の太刀へと続く。

「まったく!なんでこんなことに気が付かなかったのかねえ!」

 自分に嫌悪しても仕方がないとばかり、不満を正面にいる地蜘蛛へと打ち込む八つ当たりの太刀が道を切り開くと、相手に混乱と動揺が生まれました。確信した優位ほど崩れれば脆く、地蜘蛛は統一こそされていても臨機の応対ができる集団ではありません。疲労は限界に近く身体の節々が悲鳴を上げていましたが、高揚する朱陽の精神が他を圧すると望みを失った地蜘蛛の一角が退きました。
 ことさらに威嚇の声を上げて、派手な打ち込みで踏み込むと遂に地蜘蛛の一隊が後退をはじめ、他のものたちもつられるように離散をはじめます。統一した集団であれば離散もまた統一しているのであろう、それでも隙を見せぬように最後の一体が視界から消えるまで敵を追い太刀を振り続けた朱陽は、周囲が鎮まって邪な気配が失われたことを知るとようやく腰から崩れ落ちることができました。決して離れることなく背後に従っていた小次郎に全身の力を込めて振り返ると、月夜を流れる涼やかな風が汗と血に汚れた顔を吹き抜けます。

「あんがとよ。どうやら、助かったようだ」
「いえ。お礼だったら、明日にでも境内の掃除を手伝ってください」

 あらためて、剣撃でさんざ踏み荒らされた周囲の惨状を見て朱陽は声を立てて笑うとそのままふらりと倒れて意識を失います。その傍らに小次郎は屈み込むと、静かな動きで膝の上に少女の頭を乗せました。封印の儀式は間近であり、時が貴重であったとしても彼女には休む権利がある。汝鳥の神木が見下ろす境内で、その時が近付いていることに小次郎は気が付いています。それでも、今は大厄の封印よりも一人の少女の眠りが勝ることを知っていました。

 東南の社で神木の太刀持つ少女と鬼の子が汝鳥の地面に血を流している間に、この期を選んでの襲撃は西北の社である浅間神社にも訪れています。桜の林間に姿を現した、人の身に異形の種を植え込んだ無様なエバーたちの姿に麗は不快そうな顔をして二本の太刀を抜きますがその表情には怯みの色も恐れの姿もありません。傍らに控えた狼妖の大顎に一瞥を向けてから、無様な侵入者たちに視線を戻しました。

「暗がりの林で女性を囲うなんて最低よ。手加減しないけど、いいね?」
「八神の嬢ちゃん、こんな老体でもひよっ子どもに遅れは取りやせんよ」

 牙をむく大顎の頭に軽く手を乗せた、麗の瞳の光が強くなります。幸いなことに学園の敷地内にある社は部室から近く、持ち堪えればすぐに助けがやって来るでしょう。異形の力を持つエバーは数こそ多いものの、地蜘蛛とは異なり彼らには統率がなく力に溺れるだけの連中でしかありません。多様であるが故に能力が読めない、であれば危険を避けながら時間を稼げば良いでしょう。狼妖の咆哮が危機の到来を遠く伝えると同時に、麗が抜いた太刀を広げました。

「出でませ、武甕雷!」

 開いた刃から雷が落ちかかると、正面で炸裂してエバーの前進を阻みます。すかさず下がりながら木々を背にして戦う、桜の林は彼女の舞台でした。舞うように軽妙に跳びまわりながら木々と雷で身を守り、太刀の二閃で切り刻むと樹間から飛び出した大顎がエバーたちの間を駆け抜けてこれを分断する。相手を倒すのではなく、相手の戦力を削ぐことだけを意識して深追いはしない。助けが来ることを確信しながらも、まだかと待ち続ける焦慮が尋常ではないだけに麗も大顎も敢えて加減も容赦もせず完璧なまでに冷徹な戦いを続けます。
 新たに周囲に現れる気配はすべて敵であると思いながら戦い、それが的中したことに失望しつつも新たな犠牲者が次々と量産されていきました。せっかく自分や春菜が整えた浅間神社の霊域を、あらためて清めて祀らなければならないなと思いながら。

「まったくもう、誰が掃除すると思ってるのよ!」

 冗談めかしていましたが、襲撃者の数は思った以上に多く倒れた異形の血だまりと肉が足下を滑らせるようになると麗の胸中にも隠せぬ不安と小さな恐怖が首をもたげます。多勢を相手に俊敏に移動することが自分の優位を保っているのであれば、それが失われることだけは何としても避けなければなりません。視界の隅で俊敏に飛び回っている狼妖の姿が麗の精神を支えていますが、時として人にありえぬ動きで腕や足、それに似たものを伸ばすエバーの動きにさしもの大顎もその身に傷を増やしています。

「その牙は抜刀の如く、ですぜぇ!」

 幹を駆け上がるようにとび、身を翻して落ちかかる牙が刃のようにエバーの首筋を深く切り裂きました。西瓜のようにごろりと落ちた首を大顎は横とびにかわしますが、首のないエバーは鞭のような腕をしなわせるとこれを叩きつけて狼妖の胴を強く地に打ち付けます。獣の身体が激しく地面に弾み、仲間の肉体を掴み上げたエバーが脈打つ肉のかたまりを大顎に投げつけると咆哮と悲鳴が樹間に響きます。

「大顎さん!」

 気を取られた瞬間、エバーたちが一斉に囲いを狭めると華奢な少女を押し潰すべく襲い掛かります。一瞬血の気の引いた顔で、慌てて跳ぼうとした麗は肉のかたまりに足を取られると転倒して、祭儀に着ていた巫女の装束が汚らわしい血肉に浸されました。下卑た笑みを浮かべた無様な化け物たちが少女の身体にまたがると、唾液を滴らせて叫びます。

「よくもォ、好き放題やってくれたねェ!」
「寄らないでよ!この(表記不可能)野郎ぉー!」

 倒れたまま突き上げた太刀が目の前の異形に深々と刺さりますが、少女の細い手足を別の腕が掴むと完全に身動きが取れなくなったところでもう一本の太刀も奪われます。どろりとした不快な感触が麗の細い腕や腰を捕えて心の底から恐怖と悲鳴がわきあがった瞬間、桜の林に響いた叫びは勇ましい騎兵隊の号砲でした。

「妾の庭で狼藉千万許すまじ!死して屍拾うものなァーし!」

 大力で投げられた折りたたみ机がフリスビーのように飛来すると、異形の化け物に突き刺さって周囲に破片が砕け散ります。片手に六尺棍を担いだネイ・リファールが幾人もの部員を引き連れて現れると無礼な襲撃者と教え子の間に立ちはだかりました。麗を捕えていたエバーを六尺棍の一撃で沈めると、未だ周囲を囲う異形の姿に不機嫌そうに口元を歪めます。

「噂のコピーゲーはいないのか。ストレス発散に潰してやろうと思ったのにな」
「酷いこといいマスね。コピーゲーって海賊版ゲームみたいじゃないデスか」
「なんだオリジナルブリ公、荒事でもそうでなくても貴様の出る幕はあるまい」
「いやもう蛇の道は蛇と申しマシてね」

 倒れていた麗や大顎を介抱させながら、ネイの傍らに現れたラインバーグは一冊のファイルを手にしています。ことさらに見せびらかせるようにして開いたそれは英国人教師が彼の人脈と情報網を通じて手に入れていたスニール会に入会した者たちの記録であり、エバーに入信した者たちの名簿でした。彼らに共通しているのは一様に中流から上の資産を持つ世帯に生まれて相応の教育を受けていること、出身は別にして皆が都市圏で暮らしていること、アルバイトであれ倶楽部活動であれ委員会活動であれ、組織的な活動に従事した経験がないか極めて少ないこと、それから・・・。

「いやいやいやいやみんな大変な人生デスねえ」

 皮肉な口調のままでラインバーグが幾人かの名前を読み上げると、その中に知っている名があったのかエバーたちの間に動揺が走ります。人を超越した者たちは自分が人であったときの正体を知られることを酷く嫌い、それがどれほど俗な出来事で余人にはつまらない理由であったとしても、当人だけが持つコンプレックスは彼らにとっての逆鱗なのです。触れられれば逆上し、突かれれば即座に命を失うような。

「大久保春樹くん、コンビニ店員三日目で出勤拒否。佐藤浩太くん、ゼミの出席日数二年間で十二日。中野一臣くん、就活拒否して四年間実家暮らし。五島一之くん、購買副部長に指名された翌日からバックレ・・・僕はこんな場所にいる人じゃナイ、僕はもっと凄いコトができるのにって訳デスか。結構な話デスね、じゃあすぐにでもその凄いコトやればいいのに」

 辛らつな言葉と表情は教師を逸脱したものだったでしょう。それは教師の説教ではなくただの暴言でしたから。

「人生こんな筈じゃないとかフーリッシュなこと考えてると、おだてられた挙げ句に悪いオトナに騙されちゃうんデス。なんで人を超越したエバーがうら若い娘さんを集団で囲わないといけないんデスか?あんたらは弱っちいザコ戦闘員、五分の魂もない一寸の虫なんデスよ」
「黙れェ!黙ってくれよォ!」

 動揺する、かつてはエバーであった引きこもりの群れが逆上すると異形の拳を振り上げますが、もとより彼らには率先して人に殴りかかるほどの気概はありません。エバーという人を超越する集団の一部となっていたことと取り除かれた痛覚によって忘れていた、自分が傷つくことへの恐怖が彼らを無様なかたまりへと変容させていました。他者に勝る存在であるという錯覚だけが彼らの存在する意味であったエバーは自らの優位性が否定されることに耐えられないのです。無様に動き出したところで振り回される六尺棍にたちまち潰されてしまうと、周囲はすぐに鎮まって静謐が訪れました。ネイは助け起こされていた麗に近寄ると何の気を使うそぶりもなく、いつもの無遠慮さで肩を叩きます。

「さっさと立たんか八神。日はとっくに暮れとるが夜が明けてしまうぞ」
「先生、ありがとう・・・怖かったあ」

 気丈に見せながらも、やはり不安と恐怖は耐えがたかったのでしょう。麗は常の彼女には珍しくネイに抱き付くと頭を伏せて弱々しい声を上げました。当惑しながらネイが少女の身を抱えていると、その傍にコノハナノサクヤヒメノミコトが姿を現します。星条旗以外の神様に対して遠慮がない米国人教師はいつものぞんざいな様子で、フランクな声をかけました。

「サクヤではないか。お前の巫女さんが襲われとったのに今頃現れてどうする」
「すみません。これだけ霊域が汚されると私も影響を受けますので・・・」
「ふん、神様というのも不便なものだ」

 神様の謝罪を受けて動じないあたりがネイの大物たる所以でしたが、その彼女を背筋を唐突に冷たい、異様な感覚が貫きます。それはネイだけではなく麗や周囲にいたラインバーグたち、汝鳥全域にも等しく感じられていました。思わず周囲に首を巡らせてから、その中で一人穏やかな顔で立つコノハナノサクヤヒメノミコトに顔を向けたのはネイでした。

「何だ?今のは」
「そろそろ準備をしましょう。大厄は復活しますよ」
「どういうことだ、封印はたったいま守られたではないか!」

 汝鳥で同時に起こっていた襲撃は三箇所、汝鳥神社と浅間神社にそして中央の封印そのものに対してです。東南の汝鳥神社には地蜘蛛衆が赴き、西北の浅間神社にはエバーが差し向けられていました。そして中央には地蜘蛛の首領である妖の女、魅呪姫が自ら率いる地蜘蛛の兵士たちが姿を現します。決戦のつもりでいるのかもしれないが、市井のバスターを含む多勢が集まっているこの場所に直接押し寄せてきたことに誰もが驚きを隠せず、彼らの言葉を代弁したのは龍波輝充郎でした。

「まさかここまで兵を出して来るとはな。お前さんたちの気概は大したもんだが、大厄はそこまでして解き放つ存在なのかよ?それとも地蜘蛛の頭領として戦うのに大厄が必要なのか?人の世を変えてまで妖のために戦う、そいつは人の所業と何も違わないじゃねーか」

 自らが人と鬼の双方の血を引く輝充郎は、世界を変えるよりも必然のバランスを保つべきであろうと考えます。妖とは人の心と自然の畏敬から生まれた存在であり、人が自然を省みないように自然も人を慮ることはありません。であれば神仏妖魔とは人と自然の橋渡しをするべき存在であって、時に世界を住み分けて時に手を携える助けを為す存在である筈です。
 高槻春菜のように世界の住み分けを主張する者がいる、冬真吹雪のように手を携える心を示す者がいる、ごくまれには、トウカのように人が自ら自然や妖に手を伸ばすこともある。その姿を輝充郎は知っており、彼の思いは後輩たちと変わるところはありません。その彼らが互いに争うことを誰よりも気に病んでいたのは、自身が妖である輝充郎なのですから。

「俺はメイヤに暮らしている。人と妖が暮らす世界であれば、白でもなく黒でもない曖昧な場所はどうしたって必要だからな。この世界は人の世界で、妖の世界も存在する。だが人の世でなければ生きられない妖はどうすればいい?そして妖に親しい人だっている、それでいいじゃねーか」

 一歩を前に踏み出す輝充郎の言葉を、メイヤを守る妖としての言葉を傍らに立っていた吹雪は初めて聞きました。輝充郎の主張はむしろ春菜のそれに近く、以前の吹雪であれば諦観にも聞こえる言葉に反発していたかもしれません。ですがそれが諦めではなく、見守ろうとする意思であることを吹雪は知っています。そして春菜が境界を侵すものを裁いていたように、輝充郎は境界をさまようものを受け入れる場所を設けている。メイヤを守ろうとした吹雪は輝充郎と等しく春菜と等しい、彼らの目指す道は異なってはいないのです。ですが地蜘蛛を率いる魅呪姫には彼女の論理があり、輝充郎の言葉に納得できるのであれば彼女はここに立ってはいません。

「ふん。立派なことを言うがそれも結局は人間の論理か、人間に遠慮する妖の論理でしかない。今は人の世界、確かにその通りじゃ。だがその世界を作ったのは人であり、かつては今ほどに人が横暴を効かせぬ世界があったことを知っておろう。奴らが文明と呼ぶ世界よりも、蛮人と蔑む者たちが暮らしていた世界の方が自然も妖も共に暮らしていた。妾は人を滅ぼそうとしているのではない、行き過ぎた人を後退させようとしているだけじゃ」
「そのためにエバーとかいう連中と手を組んでもか?」
「冗談を言うな。妾たちは目的と理想のために戦う、あのような醜い混沌はただの道具に過ぎん」

 言いながら、魅呪姫は輝充郎の甘さだけではなく自分の甘さにも気が付いています。人を滅ぼすのであればもっとよい方法は幾らでもある、だが人を後退させるのであればより世界は正しい姿に近付く。人が利便を捨てて狩りと農牧に生きるように戻れば妖は今ほど人にはばかることもなくなるのです。八百万の国においては地蜘蛛ですら本来は土地神であり、それを排斥した人の世界を押し戻そうとすることには魅呪姫は罪悪感を感じていません。

「どうした皇牙、貴様の武器はその舌か?語る言葉があれば拳で語るがよかろう。もっとも、すべてはとうに手遅れだがな!」

 魅呪姫の言葉に挑発と自信が含まれていることに輝充郎は気が付きます。覚醒した鬼の力、轟雷鬼神・皇牙の力を魅呪姫は知っていましたし時をおけば暴走する、その弱点が今は無くなっていることも知っている筈でした。ですが彼女の狙いはそこにはありません。

「封印はすでに揺らいでいる。この世界の秩序は人間の秩序、それを破壊するは我らが悲願じゃ。虐げられた地蜘蛛のために、人の世界を壊さぬ限り妖の世界は訪れぬ。そして封印を揺るがすにはどうすればいいと思う?」
「・・・まさか!?」

 地蜘蛛の頭領の言葉を聞いて最悪の可能性に思い至った、輝充郎の表情が変わります。魅呪姫の笑みは今では勝利を確信した嘲弄に変わっていました。

「そうじゃ。大厄は世界を律するただ一つの融和、であればそれを乱す行為こそが大厄を呼び起こす。だから妾たちは四方で争いを起こした、先の音無山もそうであり汝鳥神社に浅間神社、そして最後にここ。争いそのものが封印を解放するのじゃ!」
「畜生!そういう魂胆かよ!」
「だがお前たちにはどうすることもできぬよ、まさか無抵抗で弄られる訳にもいくまい」

 絶望的な状況で、大厄の封印を解くための争いが始まろうとしています。輝充郎は拳を構え、後ろにいた吹雪は大太刀を抜き、智巳も霊刀を構えました。

「世界には避けられぬ争いがあるのだ。人の世界に抗う妖の戦いのようにな!」

 振り上げた手に続いて、一斉に遅いかかる地蜘蛛の兵士たちを妖怪バスターたちは迎え撃ちます。振るわれる刃が異形を切り伏せ、唱えられる術が異形を弾く。統率されていても能力に劣る地蜘蛛衆に対して妖怪バスターはこれを圧倒することができますが、彼らのその行為が封印を解くというのです。

(だが、何かが妙だ。すべてが仕組まれていたとしても、それはこいつらの台本じゃない)

 戦い、切り伏せながらも吹雪は言いようのない違和感を感じています。人の世界を壊さぬ限り妖の世界は訪れぬと彼女は言っていた、では大厄とは人にとってだけの大厄であるというのか。そんな都合のいい大厄があるだろうか。どこぞの大工の息子が自称する神様であればまだしも、神とは存在する意味であって人はそれを認識しているだけに過ぎない。尊は神であり、神と妖の最大の違いはそこにある。妖とは人が認識したことによって生まれる存在の意味であり、神は存在する意味を人が認識したものだ。意味を認識するのが人であるから、認識された神様は人に親しい姿で現れるし、恐ろしい存在であれば恐ろしげな外見になる。だが神様は本来、人の存在も妖の存在も気にはしていない。獣が暮らそうが木が茂ろうが山は山であるかのように。
 尊は世界を律するただ一つ、尊の中ですべては等しいとある。おそらく大厄は人と妖を区別することなどしないだろう。それを地蜘蛛は考えているのか。ですがすべては手遅れであり、吹雪は太刀を振りながら大厄の解放を待つしかありません。世界を律するただ一つの融和。

 打ち付けられる拳と振り回される刃、むき出しの牙と爪、鳴り響く悲鳴と怒号。修羅の争いこそが対立する世界の現実であって絶望する汝鳥の騒乱でした。騒乱が融和を望む心を生み出せばその意味に従って封じられた世界は汝鳥に姿を表すことになるでしょう。大厄はそれを望む者たちによって解き放たれなければなりません。
 絶望の中でぱきん、という水晶が砕けるような音がどこかで響き渡ると、吹雪の身体を冷たい異様な感覚が貫きます。供馬尊が解き放たれる、一見して世界に何も変わりはなく周囲は穏やかな静寂で満たされていました。


 どこか、奇妙な静けさが世界を支配しています。先ほどまで自分たちが剣撃を繰り返していたことを吹雪は思い出すと戦いはどうなったのか、地蜘蛛はどうしたのか、そして仲間たちはどこにいるのかと自分に問いました。ですがあらためて広げた視界の中で、彼らは吹雪と同様にごく当然のように立っていて、一様にどこか当惑したような表情を浮かべています。何かが起きた筈なのに何も変わっていない、ただ一つ変わっていたのは、いつの間にか彼らの中心に立っていた一人の小柄な姿でした。古式の装束に身を包んだ、中性的な子供めいた外見をしたそれは皆が凝視する中で、何をしようともせずただ穏やかに微笑んでいるだけです。だが何かがおかしい。地蜘蛛の兵たちも突然の闖入者に争いを止めているが、皆がどこか呆然としてそれに目を向けています。

「・・・ちょっと大介さま、目が覚めた?」
「あん?なんだよキツネ、もうメシか」

 どのくらい気を失っていたのか、間の抜けた返答に慌てて飛び起きた朝霞大介は異様な雰囲気を感じて、異様な感覚が漂う汝鳥の中心部に目を向けるとそこには奇妙な力が集まっている様子が感じられます。それを凝視している多賀野瑠璃も何が起きたかを理解しているようであり、七月恋花はやれやれという様子で眉をしかめていました。

「どうやら出ちゃったわね。瑠璃さまや大介さまが戻るまで間に合うと思ってたんだけど、まあサクヤも私もそのつもりだったしいいか」
「どういうことだよキツネ。いい加減お前らの知ってることを今すぐここでハッキリと具体的に言え」
「んーもう、せっかちさんねえ」

 すべてを承知していたとでも言いたげな稲荷神の言葉を大介が咎めますが、恋花には気にする風はありません。

「ご察しの通り、供馬尊の封印は解かれなければならないのよ。それは世界に対する問いかけだから。音無の神は消えてしまったし、忘れられた七月宮や放置されていたサクヤヒメにはその資格があるわ。神様は人に問おうとしているの。とにかく、封印の場所に向かいましょ」

 同じ頃、浅間神社でも感じられる異様な力に麗たちが目を向けています。汝鳥の中心に解き放たれる大厄、彼女たちの疑問に答えたのはコノハナノサクヤヒメノミコトでした。

「供馬尊は古くからある神の一つです。私や七月宮と大きく変わるところはありません」
「では、それがどうして大厄と呼ばれて封印されなければならなかったのですか?」

 ようやく落ち着きを取り戻していた麗の問いに、桜の神は一度閉じた目を開いててから、優しげな微笑みを返します。

「古い古い話をしましょう。この国がまだ国というかたまりではなく、世に妖々たるものが跋扈して今よりも人とそうでないモノたちとが近しく、天と地と海がまだ分かれてはいなかった時代のことです」

 それは人がすでに忘れてしまった話です。桜の神の言葉に人は耳を傾けました。

「今は遠い遠い海の向こうで、互いに争い傷つけ合う二つの火がありました。それは遂に砕け散ると一方は世に散らばって一方は海に沈みます。散らばった火は世に争いと、争いを嫌う思いを残すとそれは意味となって今の世にも存在しています」

 その語りに一人の少年と一人の少女の姿を思い浮かべた者は幾人かいたでしょう。一つ息をついて、コノハナノサクヤヒメノミコトは語を継ぎます。

「長い時が過ぎました。海に沈んでいた側の火がこの国の海岸に打ち上げられると、それを人が見つけ出したのです。竜の安宮から流れ着いたと思われた火は幾つもの伝承を人に与えましたが、人はその火に名前を与えてしまいました。それが供馬尊、供馬は伝達と融和の意味であり、互いに伝えて和すというその名が世に争いとそれを嫌う思いを残した火に対立する火に与えられたことは必然だったのかもしれません。大厄の正体は争いではなくて融和。ですが、融和が人に禍いをもたらすこともあるのです」
「融和による禍い・・・?」
「今、七月宮の声が聞こえました。私も私の子らにそれを問いましょう」

 麗の問いには答えず、桜の神は解き放たれた災厄のある方角を向きました。そこは汝鳥の中心、供馬尊が封じられていた大厄の中心です。

 周囲は奇妙な静けさに支配されたままであり、その中央には小柄な子供めいた姿が立っていました。それが供馬尊であることを誰もが理解していましたが、ただ穏やかに微笑むだけの姿からは大厄を連想できるようなものは何もありません。先ほどまでの喧騒が嘘であったかのように平穏と静謐が世界を支配しており、風すらも流れを止めたように思えます。静かすぎる、と最初に感じたのは黒髪を後ろに一本縛った少年でした。手に握る大太刀に力を込めなおすと、愛用の太刀がどこか重く奇妙な感覚を覚えます。自分だけではない、周囲に目を向ければそこに立つものたちも同様の感覚を抱いていることが吹雪には理解できました。一様に戦いを止めて呆然と立つ姿に、少年の中で違和感が急速に不安へと変質して肥大します。何故皆が一斉に戦いを収めているのか、大厄が現れたというだけで、武器を持つ手を止めることができるものだろうか。
 その問いに、不意に映し出された真実が懐にしのばせた鏡の力であったのかどうかは分かりません。もしもこれこそが供馬尊の力であるとしたら。尊は世界を律するただ一つの融和、あらゆる諍いを収め、あらゆる営みを収める。目の前の子供ではなく、彼らが立つ場所が供馬尊でありそこではあらゆる諍いもあらゆる営みも収められて、ただ一つの融和によって支配されるのです。あらゆる存在から意味が失われつつある世界の中で、供馬尊が紡ぐ言葉はその表情に相応しい穏やかで心地よい旋律でした。

「供馬尊は解き放たれた。もう誰も争う必要はない。僕が世界になれば、世界からすべての争いは無くなるんだ」

 その言葉があまりに穏やかで心が休まることに、吹雪はより強烈な不安を感じます。

「僕の中であらゆる存在は止まる。人や妖だけじゃない、獣は何を殺す必要も食べる必要もなくなる。世界の中では時間も成長も変化も失われる。成長は欲望であり、欲望は争いを引き起こす醜い心だ。そして変化は災厄でしかない。僕はそれを取り除くことができる。君たちは供馬尊に祈る必要すらない。穏やかな心で死ぬことも消えることもなく、ただ存在を続けることができる。結晶化が始まるんだ」

 世界からは急速に色が失われて、その中で自分を含む数人の者だけが未だ色を残していることに吹雪は安堵しながらも戦慄します。これが供馬尊の力であり、その主張を受け入れた者は意味を失うことによって世界と同化する。成長もなく、変化もなく、ただ存在するだけで人は苦しむ必要からも、思い悩む理由からも解放されるのです。争いと争いを嫌う思いを否定する、供馬尊の言う結晶と化した存在は人であれ物であれ奇妙に実感が失われて、灰色がかった無彩の世界では足下に広がる地面ですら頼りないものに感じられました。

「柚木先輩ー!」

 空気を裂く、智巳の声に吹雪は首を巡らせます。誰もが信じられぬ、視線の先では塔子の足先から色が失われつつありその事実に本人すら驚愕の表情を現していました。彼女の知性と、幼い頃に失われてしまった本来あるべき力が彼女自身を絶望させようとしており、自分で認めていた筈の自分の弱さを知らされることに塔子は耐えることができません。供馬尊の世界はその塔子の弱さを救う、そして人は束縛や抑圧にではなく、解放と自由にこそ耐えることが難しいのです。

「さぞかし無念だったことだろうね。君は本来、それだけの力を持った術士だというのに」
「私は!そのような・・・」
「争いがなくなれば、君は自分の失った力を嘆く必要はなくなるんだ」

 その時、吹雪や智巳は供馬尊がなぜ大厄と呼ばれる存在であるかを心から理解します。塔子は常の彼女ではありえないほどに追い詰められており、必至に耐えながらも自らの弱さを否定できない知性と理性こそがその足下に底なしの穴を開けていました。吹雪は無言で大太刀を抜いて身を沈めると俊速で大厄に向かって飛び、その動きに一瞬遅れて智巳や輝充郎もその意図を理解します。守るべき者を守るために戦わなければならないということ、そのためには戦いを否定するものを相手に武器を振るう必要がありました。
 迷いのない踏み込みで、吹雪が一の太刀を切り込むべく供馬尊への間合いを詰めます。自分たちが道を拓くと言った、その後ろに続く力を信じて少年の意思が伸びますが、大厄の中心はその穏やかな顔に小波ほどの動揺すら見せることはありません。世界を律するという供馬尊の力がどれほどのものか、大太刀を振るう吹雪の青みがかった瞳の裏に、危険を知らせる強烈な警告が閃きます。

「何か・・・やばいッ!」

 全力の踏み込みを止める、全身の筋肉が悲鳴を上げると同時に吹雪自身の腕からもう一本の腕が生えると、彼の大太刀を手に自らを貫きます。刃は左の肩口から肋に、正確に打ち込まれて肉を裂き骨を打ちますが寸でで止められた刃は致命にならず、痛みを覚える前に吹雪は太刀を引くとすぐに斬られた自分の身体が動くことを確かめます。赤い流れが胸から腰を伝って左の半身を覆いました。

「冬真君!」
「吹雪ィ!」
「大した傷じゃねーよ!それより剣を止めろ、こいつはやばいぜ!」

 その言葉に輝充郎の拳も智巳の備前長船も踏み込む動きを止めます。あらゆる諍いを収めるという供馬尊の力、争う力が自らを討つその力を見せられてもなお、吹雪は自分が一手目であったことに安堵していました。輝充郎であればともかく、いまだ技の及ばぬ智巳であれば打ち出した剣を自分で止めるなど不可能事だったでしょう。長く斬られたために傷こそ大きいものの、見た目ほどに深くはなく動きの妨げにもなってはいません。自らの手で自らを傷つける、愚か者を前にして供馬尊はあいかわらず穏やかな笑みを崩すことがなく、それこそ大厄に相応しく禍々しい笑みに見えました。

「この世界は僕自身だ。僕はどこにでもいるし、どこにもいない。僕は君たちと一つだからね」
「力持つものの驕りは大したもんだ、神様となればとやはり違うという訳か」

 悪態をつきながらも、最悪の状況の中で吹雪はなおも大厄の言葉に聞く耳を持っていません。すべてを捨てることによってのみ安寧が訪れるのであれば、俺たちは何故争ってきたというのか。そんな筈がない、こんな存在が認められていい筈がない。変わることのない世界の中で、聞き分けのない子供たちを諭すかのように供馬尊の声が流れます。

「君にも分かっているんだろう?僕を媒介して人と妖は交じり合うことができる、それは君が望んだ世界でもある筈だ」
「今度は俺を懐柔しようって訳かい?生憎こちとら性根の腐りっぷりは筋金入りでね」
「韜晦しても僕には君が理解できるよ。醜い菩薩は己の血を流す修羅のために戦おうというんだね」

 成る程世界が融和する一つの世界であれば、その心などすべて知れているという訳か。太い眉を不快そうに歪める吹雪の様子に、供馬尊の表情がわずかに変わりました。本来、心を覗かれることに耐えられる人間はいない。ですが最も真実を知られることを望んでいなかったであろう少女の姿を見た吹雪にとって、自分の心が晒される恥辱などどれほどのものであったでしょうか。彼女の姿を暴かれる恐怖に比べれば、ここにいるのが己の醜さを知っている菩薩であって良かったと心の底から吹雪は考えます。
 脅威はある、だが大厄を恐れもしなければ融和する世界に平然と抗う少年の心に不快な思考が流れ込みました。それが供馬尊の思考であり、自分の心が暴かれるのであれば相手の心も晒されていることに吹雪は気が付きます。何かがおかしい、何かが変わってきている。その間にも、供馬尊の言葉は愚かしく卑俗な少年の心に問いかけることを止めようとはしません。

「君は人よりも多くを見ることができる、だから僕を倒す術が何一つないことも分かっている。そして時が経てばやがて皆が僕と一つになり安寧の世界に融和することも知っている。それなのに何故僕を受け入れようとはしないんだい?世界が融和すれば他者を省みない善性を持つ少女の無知や、血を流しながら悪業を続ける少女の愚かさを見る必要もなくなるというのに」

「!」

 その言葉に、吹雪の中で殺意にすら近い衝動が沸き上がりますが、視界の隅に見えたトウカの姿に一瞬して正気が戻ります。金髪碧眼の小柄な少女、妖の手を自然に取ることができる少女は吹雪が見たことのない感情をその人形のように繊細な表に浮かべていました。それは嫌悪と哀れみを秘めた表情であり、迷わずに妖の手を取る少女は供馬尊の存在を否定したのです。

「貴方は、とても寂しい方ですのね。誰の手も取ろうとしないのに、人の心は覗くんですの?」

 トウカの掲げる灯火は決して嘘をつかない、そのことを吹雪は知っています。トウカの言葉は供馬尊の真実を見透かしており、それは哀れなほどの矛盾を秘めた姿でした。世界の融和を解く、美しい理想の衣をまとう大厄の正体は誰の手を取ることもできぬ孤独な存在でしかない。供馬尊の世界は供馬尊の中でしか通用せず、誰とも諍いを起こすことがない供馬尊は誰とも親しくはないのです。

(・・・さすがだよ、お嬢)

 吹雪は気が付いています。融和する供馬尊の世界を自分は拒むことができましたが、トウカはまったくその影響すら受けていません。彼女の守りを頼むなどとんでもない思い上がりであった、トウカを傷つけることは大厄にすらできはしないのだから。彼女の純粋さ、優しさは脆くもなければ弱く儚いものでもないのです。
 その矛盾を知ることができる、彼らを囲っているこの世界は決して汝鳥のすべてを支配している訳ではありません。供馬尊に取り込まれたものは結晶化するまで完全な存在となってはおらず、つまり供馬尊の世界は不完全でそれを理想に近付けるために融和する。であれば不完全なこの世界には限界があって、その限界が外に接する境界が必ず存在する筈でした。雲外鏡の叡智とそれを持つ少年の理性がめまぐるしく回転しながら、謎を解く鍵の存在を浮かび上がらせます。

「鷲塚、鷲塚ぁ!考えろよ、お前さんの家に伝わっていた口伝だぜ?」
「は、はい!?」

 吹雪は智巳の名を呼ぶと大厄と備前長船にまつわるごく僅かな伝承を思い返しています。其は供馬尊、世界を律するただ一つの融和。大厄の名をなぜ並べ替える必要があったのか、何故双子の名に鍵を託したなどと言わなければならなかったのか。

「鍵、鍵とは扉を開けるためのものだ。開けるためには閉じられたモノが存在する」
「供馬尊の世界、それを開くには鍵を用いなければならない?」
「そうだ。そして口伝が大厄の名を伝えるためではなかったとしたら」
「備前長船は僕と真琴の二人に渡された、それが鍵であって開くべきものはこの世界だよね」
「そして世界には外がある、そこにいるのは誰だ」
「まさか、備前長船の本当の力って・・・僕たち、が世界を開く道具としての霊刀!」

 備前長船は妖を斬るものでも神を斬るものでもなく、内と外がある供馬尊の世界を開くための刀。そして開かれた世界を繋ぐには絆が必要であり、だからこそ刀は双子に奉納されなければならなかったのです。世界を斬る力はただ使うだけではなく、世界の内と外を通じる絆を持つ者が用いなければならない、だから双子の絆があれば備前長船が使えると思ったのでしょう。世界の外にある者と、世界の内にいる者が互いの絆を、縁を繋ぐために力を用いた時、供馬尊の世界は崩壊する。つまり備前長船でなくてもいいし双子でなくてもいい、ですが力と縁の双方が揃っていなければ世界を開くことはできないのです。
 吹雪の呼びかけに智巳は彼らが手にしている力を思います。世界の外にはネイが持っている白河塗りの六尺棍と朱陽が手にする神木の太刀があり、供馬尊の内では智巳に渡された備前長船、そして吹雪が持つ春菜の錫杖がありました。その彼らの持つ縁が、絆が世界を超えた時に供馬尊は崩壊するでしょう。不完全な世界は未だ閉じられてはおらず、少年たちの思いは境界を超えて彼らが守るべきものの姿を浮かび上がらせました。

 汝鳥の外れにある閑静な病院、その一室で高槻春菜や鴉鳥真琴は大厄に挑む少年たちの帰りを待っています。ようやく目を覚ましていた春菜の、すべての事情を知ったその表情には悔いもなく少しやつれた顔を枕に預けていました。傍らに座っている真琴はそれまでもそうであったように、寝台に身を横たえた少女の世話を続けています。
 もう無理をするな、春菜は誰かにそう言ってもらうことを心のどこかでずっと望んでいました。目を覚ました春菜の傍らに、その言葉を残してくれた少年がいないことに彼女は小さな落胆と不安を覚えながらも、いたらいたでどのような態度を取ればいいか決めかねたことでしょう。少女が流した血は消えず、その手は戦いを握ることしか知らぬ。それが春菜の犯し続けた業でしたから。

「でも、誰かがやらないといけないことがあるのに・・・」

 決して落ちることのない血に汚れた手、ゆっくりと顔を横に向けた春菜の脳裏に一瞬、汝鳥に住まう神性の声が響きます。解き放たれた大厄の世界とそれを破る絆の存在、汝鳥の少女は彼女たちに送られる言葉を耳にしました。大厄の外にある者と、内にいる者が互いの絆を、縁を繋ぐために力を用いた時、供馬尊の世界は崩壊する。その世界に囚われた者たちを呼ぶ声によって、彼らを導くことが縁ある者たちの役目であると。コノハナノサクヤヒメノミコトが告げる声は、春菜だけではなく真琴や他の者たちにも届いています。

「ごめんね春菜ちゃん・・・私、行かないといけないみたいです」

 その声は真琴と智巳の絆を呼ぶ声。少女は大厄を解く鍵の一つになることができる者であり、彼女もまた妖怪バスター予備軍の者なのです。もしも真琴が生まれながらに与えられた鍵を用いるべく告げられたのであれば、彼女はそれを拒んだかもしれません。彼女が生まれてから紡いでいた絆が大厄を開く鍵であれば、それは幼い頃より身体が弱く人に助けられていた少女が人を救う力を得た証明でした。人は運命ではなく誇りによって危難に対して意味を持つ、役割とは与えられた結果ではなく行動と経験で得るものなのです。
 病室の寝台に横たわる少女に慈しむような顔を向けて、清爽な黒髪の少女は腰を浮かせました。友人の真意を理解した春菜は慌てて寝台から身を浮かせようとすると、それだけの事に少ない体力のすべてを費やすかのように力を使いながら半身を起こします。少女の意思とそれを実現する力は驚嘆すべきものであり、臥せていた少女が身を起こすことができるようになった事実は喜ばしいことでもありましたが、真琴は厳しく咎めるでもなく哀れむでもなくただ静かな目で友人を見つめていました。今の自分にその力がないことを、誰よりも春菜自身が身を裂かれるほど痛切に感じているでしょう。静かな、静かな声が病室の壁に響きます。

「春菜ちゃん。春菜ちゃんがそんなことをしたら、とても哀しむ人がいますよね」

 無言のまま自分の小さな手を強く握りしめて俯いている、友人に真琴は白い手を伸ばして一度、頭を撫でるように垂れた髪を直します。その行為に春菜は気を悪くするでしょうが、それでも彼女の強さがそれを耐えさせてくれるであろうことに真琴は傷ましさを覚え、友人が流せぬ涙の代わりに少女の頬を一筋の流れが伝いました。ああ、そうだ。誰かがこの娘に伝えてあげなければいけない、でもそれは自分が言うべき言葉じゃない。真琴はそれを伝えてくれる人を呼び戻すために、封印の地へ赴かなければならないのです。
 しばらくの時が流れてから、ようやく意を決したように顔を上げた春菜に真琴は自分以上の決意の色を見てとると、友人の身を改めて寝台に寝かせます。春菜もそれに逆らおうとはせずにシーツをかけられると、少し疲れたように首を巡らせて病室の隅に控えていたみなとそらに視線を向けました。

「みなと先生、真琴を助けてください。私、行けないから」
「いいけど、私じゃ何もできないよ?」

 そう言いながら黒髪の養護教諭は脇にかけてあったコートを羽織ると、手近に置いていたバッグを担ぎます。暗闇の試練に立ち向かう友人たちに向けて自分はそれを送り出すことしかできぬ、それがただ待っている者をどれほど傷つけることでしょうか。それでも人は発ち険しい頂きを超えようとするのであれば、待つ者は鳥の帰りを待ち己が翼を嘆くしかありません。
 春菜に訪れる葛藤こそが誰よりも苦難の戦いであることを知っている、少女は友人への思いを振り払うことなくそれを胸中に抱いたまま彼の地へと向かいます。扉を閉める、その音に流れ落ちそうになる雫を懸命に堪えながら真琴は静かな足取りで病室を後にしました。


 封印に向かう道を小走りに駆けながら、多賀野瑠璃と朝霞大介は七月宮稲荷の話を聞いています。息が切れなかったのは彼らの日頃の鍛錬や神のご加護のおかげであったという以上に、小さな七月恋花を連れてはさほど速く走れなかったという事情もあったでしょう。

「そういうことだったんですか」
「まったく、神様なんて面倒な連中だ」

 その神に囲われながら悪態をついている大介に笑いながら、稲荷は汝鳥の思惑を語ります。遠い昔、この国に打ち上げられた「蛭子」と記されているかたまりに人は「ともに和してまことのつながりをもつもの」として供馬尊の名を与えました。ですが融和をもたらす供馬尊は、争いを憎み諍いを嫌う存在として、人であれ妖であれその営みを止めてしまうことを望んでしまったのです。人は供馬尊から名を奪うとそれを東汝鳥に封じてしまい、奪った名は京都汝鳥に残すことで双方を分けてしまいました。名前を奪ったその場所はなとりと名付けられて、封じられた大厄を納める地となったのです。
 時が経ち、人は人の営みの中で供馬尊を忘れてしまい、社や祠は放置されて荒れるばかりでした。そんな人の営みの中でも争いと争いを憎む思いだけは忘れられることがなく、人は相変わらず諍いを起こしてはそれを収めることを繰り返しています。そんな折り、人はとうとう東北の祠、音無を自らの手で汚してしまいました。西北の浅間神社は寂れて西南の七月宮の祠も忘れられた、汝鳥の現状に疑念を抱き繰り返される争いと諍いを嘆いていた人は残された供馬尊の伝承を見い出します。今から五十年ほども前、大厄にもう一度名前を与えたのもまた人の所行でした。

「その時は汝鳥の人たちが解き放たれようとする大厄を封じた。でも解き放とうとしたということはそれに意味を与えたということ、供馬尊は名前を取り戻したのよ。それで汝鳥は人に問うことにしたの。世に散らばった争いと諍いを望むか、それともかつて封じた融和を望むのか」
「なるほどね。つまりカンニングできねーように大厄の伝承は隠されたのか」
「ご名答」

 名前を取り戻した供馬尊はいずれ解き放たれる。その世界は絆を持つものの意思だけが超えることができて、力持つものだけがそれを破ることができる。供馬尊の融和を否定するのであれば人はそれに抗わねばなりませんが、絆とは縁であって計算して作ることができるものではありません。大厄に対するために他者との強い絆を作りなさい、だから仲良くしなさいと言われて人が人と向き合える筈がないのです。打算に依らぬ思いが供馬尊の世界を超えたとき、大厄はその力を失うでしょう。

「私だって大厄の正体は気に入らないしね。私が天乃原の祠に残って瑠璃さまや大介さまが封印に対していれば、そんだけで供馬尊の世界は破れるかなと思ってたのよ。もちろん神木様やサクヤも同じで、それを祀る人の縁があればそれは可能になる。人に問うとはそういうことだったの」

 そう言って、七月宮稲荷はうっかりしていたとばかりに苦笑します。

「でも瑠璃さまや大介さまは天乃原に来たでしょ?だからこの娘が供馬尊の世界に残っていれば、大介様とこの娘の絆で同じことができると思ったの。それを破る力だったら私も持ってるしね。でもこの娘、大介様についてこっちに来ちゃうんだもん。大介さまについて来た方がいい、じゃないでしょ。あれだけ言っといたのに・・・」
「す、すみませんですじゃー」

 叱られて小さくなっている小さな恋花に、大介はお前のせいじゃねーよと走りながら器用に頭をなでると、それでも呆れたように稲荷に目を向けました。

「ようするに、キツネの計画はぜんぶ水の泡ってことだな」
「そのとおりー」
「笑いごとじゃねえ。イライラするが何とかしてやろうや」

 その彼らの視界に色を失って歪む汝鳥の地、供馬尊の世界が入ります。この境を超える人の縁を、絆を試すことが汝鳥が人に与えた試練でした。力ある者も、満身創痍な者も、次々と周囲に集まると彼らが祀る力を背に大厄へと向かいます。強い絆があれば、縁があれば供馬尊の世界を破ることができるかもしれないと。

 皆が駆けつける、大厄の内では供馬尊の世界が安定を続けており、揺れていた水面が波ひとつない平坦な鏡と化していくように不愉快な静寂が広がりつつあります。安楽に対する抵抗を止めたときに人であれ妖であれ、存在する意味を失うと結晶化が始まって世界に同化する。争いも諍いもなく、変化も成長もなくただ存在するだけの融和が供馬尊の世界でした。大厄を封じようとした妖怪バスターも、それを解き放とうとした地蜘蛛たちもすでに幾人かはただ呆然と立ち尽くすだけであって、肉体の色が失われて周囲と同化した無彩の彫像となっていきます。

「嫌だ、嫌だ!私は、消えたりしない!」
「大丈夫だ!お前は俺たちに任せた、だから俺たちを信じろ!」
「ああ、そうだ。分かっているんだ。だが・・・」

 懸命に抵抗する、柚木塔子は足から半身の色が失われて動かず、その前に立つ龍波輝充郎や鷲塚智巳、冬真吹雪らの背を見ることで辛うじて自我を保ち続けています。いや、彼女を呼ぶ声を彼女が認識していることによって、塔子は自らの存在を許していました。それでも塔子の不安を、自分ではどうにもならぬ境遇を与えられた者の悲哀を輝充郎は理解しているつもりです。鬼の力を解き放ち、全身に硬質の鎧をまとっていた輝充郎が、轟雷鬼神・皇牙が拳を固く握ると憤りの叫びを上げました。

「冗談じゃねえぜ!誰がこんな腑抜けた世界を望むもんかよォ!」

 抗い続ける者はまだ供馬尊の世界に取り込まれてはいません。輝充郎や吹雪のように争いを嫌い、マンション・メイヤで妖と接していた者たちでさえも供馬尊を否定することはできました。この世界は叶わぬ理想を掲げる無知の夢でしかなく、境を超える意思とそれに応える絆があれば破ることができる筈です。

「冗談ではない!人に屈せぬ妾が神に屈する筈もないわ!」

 地蜘蛛の女である魅呪姫も叫びました。その彼女の周囲で地蜘蛛の兵にすら供馬尊に取り込まれて色を失うものが現れており、明らかに彼らも大厄の何たるかを理解していなかったのです。
 人に支配された世界から妖を解き放つ、魅呪姫はそう考えていました。だが供馬尊の世界ですべてが安定すれば皆は平等になる、彼らの目的は果たされるではないか。そう示されたとき、もともと兵卒として強い自我を持たぬ地蜘蛛はすぐに意思を失いました。数十はいた兵たちはそのことごとくが世界に融和する結晶と化しており、抵抗しているのは魅呪姫を含む数体に過ぎません。結晶化しつつあった手近な地蜘蛛を魅呪姫が殴り飛ばすと、驚くべきことにそれは彫像のように砕けました。

「このような世界に負けはせぬ!無力な地蜘蛛も邪魔な人間も家畜の平穏に浸りきったまま死ぬがよかろうよ!」

 地蜘蛛の頭領はそう叫ぶとまだ動いている数体の兵を集めます。雲霞の如く集う蜘蛛の異形がかたまりとなって魅呪姫の身体に集い、剛毛に覆われた肉が崩れて絡みつくとそれぞれが大蜘蛛の胴になり脚となって一体の巨大な蜘蛛へと変容を遂げていきます。吐き気をもよおす、八本の脚持つ巨大な異形の頂きには魅呪姫自身の肉体が生えていました。

「融和といったか!ならば妾が姿も地蜘蛛の融和じゃ!来い、皇牙ァ!」

 巨大な異形は魅呪姫自身が広げた両の腕から多量の糸を吐き出し、争いを否定する世界の内で明確な意思となって彼女の旧敵を襲います。皇牙は一歩、後ろへ跳ぶと一瞬前まで自分が立っていた場所に鬼の雷撃を落として糸を遮りました。すかさず拳を腰だめに構えて叫びながら跳ぶと、突き出した拳を大蜘蛛の脚の一本が俊速で弾きます。世界が激しく揺れる姿に、供馬尊は初めて眉を歪めました。

「敢えて僕の中で争う、君たちは愚かだよ。所詮人になれぬ鬼も、人になれぬ妖も世界の歪みが落としたできそこないでしかないのに」

 世界が完全な融和を示すために、それは排除されなければならない。その言葉に大太刀を構えていた吹雪は違和感を覚えます。無彩の世界は変容して完全を象徴する円形が生み出されると、未だ融和を否定する者たちに襲いかかりました。両手を広げたほどもある円形を皇牙の拳が弾き、吹雪の太刀が払い、智巳の霊刀が斬りますが円形は次々に生み出されると矛盾の原因を排除すべく飛来します。
 最初にそれを受けたのは巨体故に動きが遮られる魅呪姫でした。大蜘蛛の身体に複数の円形が突き刺さると体液が吹き出してなおもこれをえぐります。融合しているからには痛覚も共有する、魅呪姫は絶叫しながらも切り落とされる脚を振り回して一歩も引こうとはしません。そして鬼の装甲を持つ皇牙や体捌きに慣れている吹雪はまだしも、人ではないものとの斬り合いなど知らぬ智巳は辛うじて霊刀の威に守られながら傷を増やしています。彼らは背後で動けぬ塔子の身すら守ろうと太刀をかざしており、智巳の剣はこのとき初めて彼の意思と技が等しくなり知覚できる一瞬と認識できる一閃が極限の集中力の中で完璧な軌跡を描いていました。目の前で彼らが刻まれていく、身を裂くような思いに蝕まれながら動けぬ身で塔子は叫びます。

「もういい!私の前に立たなくても・・・いや、そうじゃない」

 自分は何故ここにいるのか、役に立たぬ力で皆に守られる筈か。そうではない、彼らを助け、大厄を封じる儀式を率いるために自分はここにいるのではないか。

「大厄を斬ろうとしてはいけない!防ごうとしてはいけない!その存在を無視するんだ、そうすれば彼らこそが争いを望むものになって供馬尊は否定される!」

 その声に智巳も吹雪も輝充郎も、魅呪姫までもが供馬尊の矛盾を理解します。彼らが争いを続けることは大厄の否定ですが、大厄が彼らを否定することもまた大厄の否定に他ならないことを。円形に抗う者はこれを排除されても、無視すればこれを傷つける理由を失いそれらはためらうように飛び交いながらも皆を襲うことができなくなりました。塔子の声が円形に意味を与えた、それこそが供馬尊の矛盾と不完全さを証明しています。
 霊刀の輝きが増して、鬼の力は暴走する素振りも見せず、真実を手にする剣士はその一瞬を狙う意思が衰えることはない。異端を排除できぬ不快が供馬尊の顔の歪みをますます大きなものへと変えていきます。

「君たちのような者がいるから、争いがなくならない。下劣で、浅ましく、そして汚らわしい!」

 その言葉に、すべての真実が吹雪たちの前に開かれました。ヒステリーを起こした小児のように、融和を望む尊が嫌悪を示している。争いを否定するこいつは偉そうなことを言いながら、俺たちに争いを挑んでいるじゃないか!

 どこで聞いた言葉であったか、偉そうな顔をした大人が偉そうな声で、子供は戦争を起こさないとか個性を尊重することが世界から争いを無くすことだと吹聴して戦いの愚かさを解いていた演説を聞いたことがあります。その時、教条的な偽善に反吐が出そうになったこともありました。冗談ではない、個性があるからこそ争いが起こるのだし、子供じみた心こそが喧嘩の原因になるではないか。お前さんが偉そうに言うほど子供は純真でも無垢でもないし、自分の愚かを克服するために戦うのは子供の特権である筈だ。そして、それを悪と断じる権利が誰にあるというのか。争いが悪であると告げる者は、悪に対して戦いを宣告しているというのに。その矛盾に気が付いたとき、吹雪は自らの太刀を脇に差すと代わりに春菜の錫杖を固く握りしめます。供馬尊が断じた、愚かしい少女の杖を。
 完全なる供馬尊の世界は矛盾を許容することができませんが、人であれ妖であれ、矛盾にまみれているのが世界でした。それはあたかも世界に散らばった火が争いとそれを嫌う思いをばらまいたためであるかのように。それに対立したもう一つの火は供馬尊の名を与えられて、繰り返される争いの愚かさを正そうとしたのです。子供よりも狭い、彼の思考の中にすべてを押し込めることによって。

「あんたが神でも魔でも何でもいいさ。だが、俺は彼女たちを侮辱する者を許さない」

 純粋さだけで異形の手を取ることができる者がいる。己の愚かさを知ってそれでも修羅になろうとした者がいる。少年の言葉は純粋な怒りに満ちて、少女の錫杖を握る手に強い力と意思を注ぎます。それは彼が最も貴重に思うものに向けて侮蔑を示した者へ対する、純然たる怒りでした。

 心を閉ざした供馬尊の世界の外側で、集まった人々はその境に立つと触れることも超えることもできぬ壁を前に力を尽くしています。武器であれ術であれ頑なに拒む、無彩色の世界は呼びかけに応えることもなくただゆっくりとそのその範囲だけを広げていました。試みに打ち込まれた八神麗の太刀はその刃が意味を失うと無彩色の結晶と化してしまい、抜くこともできず世界に取り込まれてしまいます。小さく舌打ちをして、愛用の太刀の一本を手放すと一歩を後ろに下がり神降ろしの術を用います。

「武甕雷之男神・・・御力を、武甕雷!」

 落ち掛かる小さな雷が壁の一所を打ちますが、これも目に見えた効果はなく弾かれると四散しました。その様子に何をやっとるかとずかずかと現れたネイ・リファールが白河塗りの六尺棍を大きく振って叩きつけますが、激しい衝撃とともに阻まれて供馬尊の世界には傷一つつけることができません。悪態をついて、後ろに下がった暴走教師はわざわざ学生に担がせてきていた折り畳み机を奪うと、豪快に持ち上げて次々とこれを投げつけます。ですが派手にはぜるかと思われていたそれは、世界に呑み込まれると同時に意味を失って麗の太刀と同様に境に浮いたまま供馬尊に取り込まれてしまいました。深く息をついて、麗が言います。

「こないだのレギオンと同じですね。術や神具は弾かれる、そうでないものは呑み込まれてしまう」
「サクヤの言う縁とか絆が必要という訳か?ならば妾の可愛がっとる部員が中にいるではないか」
「先生、縁というのはそういうものではなくて・・・」

 日本的な縁を米国人に理解させる労苦は些か骨が折れるかもしれません。方々に散っていた者たちも周囲に集まりつつあり、満身創痍といった様子の蓮葉朱陽の姿を見つけると麗は心配げな声をかけます。着衣に滲む赤黒い染みは彼女の傷の多さを窺わせて、それ以上に重い疲労が肩で息をつかせていました。

「大丈夫なの、蓮葉?」
「ああ、これが終わったら休むよ。あたしも一撃くらい試してみた方がいいでしょ」

 言いながら神木の太刀を構えて、深く深く身を沈めると一足に飛び込み俊速の突きを打ち込みます。激しく拒まれた力が不快に弾ける音を立てて、耐えられずに朱陽は太刀を取り落とすとその場に崩れます。慌てて麗が駆け寄り、その身を助け起こして広がり続ける供馬尊から離れました。

「ちょっと!無茶しすぎ」
「あ、ああ。だがどうする、こいつを破るのは骨だよ」

 一度皆が下がったところで天乃原に赴いていた瑠璃や大介に七月宮稲荷、病院から駆けつけてきた鴉鳥真琴に、みなとそらも姿を現します。ネイの一存で臨時の陣営が設けられると、床机にどっかと腰を下ろした指揮官がぞんざいな声で対策を命じますが、最初に手を上げたのは意外なことにネイの使い魔を自称する、そらでした。

「今は何やっても無駄。背を向けた子供に心を開け、なんて言ってもしゃーないよ」
「ではどうする、天の岩戸のようにどんちゃん騒ぎで誘い出すか」
「神様のことは神様に聞いた方が早いよ?」

 養護教諭の視線がこの場にいる神性に向けられます。ウサギの半妖がキツネの神に問う、古来よりお伽話ではキツネが酷い目に合う取り合わせかしらと思いながら、七月宮稲荷は両手を軽く広げました。

「そーねえ。でも瑠璃さまなら分かるでしょ?」

 その言葉に、多賀野の巫女であった少女に視線が集まります。瑠璃は少しだけ居心地の悪そうな顔をしながら、指先で軽く頬をかくと改めて顔を上げましたが、一言目に発した言葉は今の状況とはあまり関係のないものでした。

「みんな、頑張ってますよね。みんな、ただの人でしかないのに」

 あるがままを認めるしかない。それは悟りであるかもしれませんが、彼女にとっては後悔と同義でしかありません。協調するために、ともに手を取るためにであれば、本当は相手を識ることこそが必要だったのです。作り上げた自分の世界に閉じこもっているだけの者が、どうして他と親しく融和することなどができるのでしょうか。誰しも人はトウカになれる訳ではなく、多賀野瑠璃は自分がトウカになれなかったことを知っていました。いや、自分もまた供馬尊であることを。

「私が多賀野瑠璃としてここにいる意味を持っているのであれば、私はその力を使います。私はそのためにここにいるんですから」

 そう言うと新しい神は人の輪を出て大厄の境へと歩みを進めて堂々とその前に立ち、背を伸ばして大きく息を整えてからゆっくりと両手を広げます。それは多賀野の社、えびす神社に生まれた家系ではなく巫女として存在を敬う心でもなく、三面大黒天を降ろした器としての力でもありません。彼女自身が人を捨てて人に敬われる存在となったとしても、誰も目の前にいる新しい神様に感謝などはしないでしょう。だが、それでも構わないと瑠璃は後悔の中で確信をしています。

「私の真言を使います。私に呼びかけはいりません、マイタレイヤ・・・」

 瑠璃が呼びかける自らの力、多賀野瑠璃の世界は決して止むことのない吹雪が荒れ狂う、穢れなき新雪に包まれた果てのない孤独な情景でした。融合できるものならしてみるがいい、踏み込んだ者すべてを凍てつかせる、私は誰を愛することもできないのだから。でも、私は私の存在によってこの人たちを助けることができる。
 生み出された小さな力はゆっくりと大厄に近付くと、世界に呑み込まれるかのようにその中へと入り込みますが供馬尊の世界に色を失うでもなく弾かれることもなく、受け入れられぬままにその存在を示し続けています。強烈な異物の侵入に、供馬尊とその世界がこれ以上はないという程に醜く歪んでいる様が瑠璃には感じられました。

「供馬尊さん。人に融和を強制する貴方が、私を受け入れることができないというの?」

 人と妖が協調できる理想がある、ですが理想はあくまで理想でしかありません。目指すべき姿に至る道は誰も知らず、涙を流しながら、血を流しながらでもそれを探すことはそこに生きる者の務めでした。多賀野瑠璃はそれを探す前に向こう岸にたどり着いてしまいましたが、もう後戻りをすることはできません。そして、供馬尊の力が間違えていることを瑠璃は知っていました。瑠璃はかつて自分が間違えていたことを知っていたから。

「鏡を見るのは、嫌でしょう?辛いでしょう?苦しいでしょう?でも、その鏡を見ることに耐えられた人がいるのよ。私は貴方に同情できないの。だって私たちは同じ、人に哀れまれる存在だから」

 彼女は神様になってしまったけれど、神様の力で仲良くするくらいなら人と妖とが頭を悩ませながら傷つけあっていた方がいい。自嘲するように小さく首を振りながら、瑠璃が後悔していることは社の家に生まれた自分が立派な巫女になる前に、それを逸脱してしまったことだけでした。それまで無原則に、ゆっくりと膨張を続けていた供馬尊の世界が動きを止めると、瑠璃が力を及ぼした箇所を中心にして耐え切れぬ矛盾、融和を示す供馬尊が否定した世界が口を開けて一つの光の輪をさらけ出します。


 月夜にごくわずかに開かれた窓から吹き込む風に白い帳が揺れる病室の寝台で、まだ充分に動かない身体を休めている少女にできることはただ名前を呼び続けることだけでした。さして力の入らない身体で、それは強く激しい叫びではなく語りかけるような小さな囁き。

「行くべき道は誰も知らない。でも、泥に浸されたぬかるみの地だって人は超えることができる。たった一つのレンガでも、誰かが置いていけばいつかは人が歩むことのできる道になる。できあがった道を歩む人たちは、その道ができる以前のぬかるみなんて知らないのよ。でも、レンガを敷いた人はそれをこそ望んでいるの・・・」

 砕け散り世に散らばった火が人の営みであるならば、火の暖かさを懐中に抱き進むのがいい。それは時として争いの因になるかもしれないけれど、冷えた身を暖めてくれるだろう。

「だから、待ってる。待つのは辛いよ。でも私は一人で道を探している訳じゃないから」

 その姿を見た、その声を聞いたような気がして無彩色の世界のただ中に立つ吹雪は思わず首を巡らせました。少年には信じるべき縁があり、青みがかった目に映る鏡があり、音律に沿って流れる意味は本来ジャーナリストを志す少年の脳裏にもう一つの真実を閃かせます。声が聞こえる、であれば完全ではないこの世界はどこかで外と繋がっているということでした。事実を確信することが恐怖を退けて、知識こそが暗闇を照らす灯火になります。古来から伝わる見上げ入道も、霧の中の巨人も同じであって人間が巨人を見越したときに、巨人の姿は小さくなるのです。大切なことは識ることであり、供馬尊は理想ではなくもちろん完全な世界でもない。供馬尊が、そう見せていないだけでした。
 その瞬間、暗闇を無彩色で覆う大厄の世界に別の意味が侵入を始めます。決して止むことのない吹雪が荒れ狂う、穢れなき新雪に包まれた情景、清新だが苛烈な程に孤独な意思を突きつけられた供馬尊は、幼い心にそれを受け入れることもできず顔を歪めて叫びました。

「誰の心だ!僕はお前なんて呼んではいない!僕が二人もいる必要はない!」
「そう、私たちは同じなのよ。それを自覚しなさい」

 それが誰の問いかけであり、誰の助けであるかを吹雪は理解しています。よりにもよって多賀野の登場かと小さく苦笑しながら、少年は今更それを不快に感じることはありませんでした。彼女自身が自嘲しているように、瑠璃の世界が供馬尊以上の孤独に満ちたものであることが見えているから。手遅れになってようやく気が付くことのできた彼女に同情はできない、だが気の毒だと思います。その彼女が人のために大厄を開く円環をもたらそうとしているのであれば、そこから先は愚かしい人の役目でした。
 無彩色の世界が融和することのできぬ矛盾を抱え込んだときに、供馬尊の世界は動揺して歪み一つの光の輪を形作ります。安寧と束縛からの解放を示す、解き放たれる通廊としての輪。それを目にして、呟きを漏らしたのはジョシュアでした。

「あれが、リングか・・・」

 小人族の子はそれを見届けるためにこの地を訪れています。人と妖が解放を望むときに生まれた、一つの円環。それを生み出したのは矛盾に耐えることができなかった供馬尊の世界であり、大厄の中心は自らの心を認めることができず恐怖に満ちた叫びを上げます。

「およしなさい!ここは僕の世界、それを破れば供馬尊の力が世界に流れます。奔流する力の側にいる者もただではすみませんよ。結晶と化した者がその力に耐えられると思いますか!」
「とうとう脅しに出るようになったのかい。たとえそれが本当であっても、俺たちはあんたのカゴで飼われる小鳥じゃない」

 嫌悪に動揺、そして恐怖を知った供馬尊の顔に吹雪は酷薄な目と言葉を投げました。それを聞きとがめたのは供馬尊ではなく、吹雪の傍らにいた智巳です。

「そんな!それじゃあ、柚木先輩はどうなるんですか!」
「どうにもならねーよ。だが、それが嫌だったらお前さんが守ってみろ」

 吹雪の言葉が冷徹なものではなく、指し示される道であることを智巳は理解します。現実を認識して最善と思われる行動を取ること。自分が手にしているのは何だ、生まれたときより授けられた大層な霊刀を手にしているのに、脅しに屈して我を失うような弱き者であっていい筈がないではないか。智巳がどうすればいいか、それを理解しているのであればあとは自信を持ち決断するだけです。その後ろで守られている、塔子の声が少年の耳に届きました。

「すまない、今の私ではどうすることもできない・・・だけど、助けて」
「柚木先輩?」
「自分は助からなくてもいいと思うのは、単なる虚栄心だ。頼るべき相手がいるならば君を、君たちを信じる価値があると思う」

 その言葉に智巳も吹雪も、輝充郎も力強く頷くと視線を動揺する大厄の中心へと転じます。皇牙は無言で塔子の前に立ってこれを守り、錫杖を手に吹雪が供馬尊に向かうと同時に、智巳の備前長船の一閃が世界の外へと向かう。力ある鬼と理性持つ少女を残して、智巳と吹雪の二人で大厄に対することになろうとはよもや考えもしませんでしたが、彼らは一人で戦う訳ではありません。傷ついた身を休めて待つ少女に代わり戦う少年と、守るべき者たちを背に武器持って駆ける少年。頼もしい後輩たちに、輝充郎の声が響きます。

「よーし行け!こっちは任せろ!」
「頼んだぜ!鷲塚ァ!」
「ご武運を!冬真くん!」

 俊速で跳ぶ、吹雪の足が供馬尊に迫ると同時に、ただ一つの円環に駆ける智巳の一閃が斬撃となってその中心を打ち据えます。霊刀が円環を薙ぎ、飛び散った光が世界に浮かび上がりました。

 瑠璃の力で生み出された光の円環が内から弾けて世界の中にいる者に繋がる絆を示す、その軌跡を、その姿を真琴は見ることができます。頼りない兄が人を守るために駆ける姿を、双子の妹や彼女の周囲に集まる者たちは知ることができました。その肩に軽く手を乗せて、ことさらに気楽に笑うと自分が持つ神木の太刀を朱陽は手渡します。

「さて、次はあんたの出番だね」
「ありがとうございます。でも、大丈夫でしょうか」

 円環を内と外から斬れば、絆は繋がって大厄は崩壊する。少女には剣の心得はなく、朱陽から受け取ったそれを拙い動きで両手に構えますが、そらが手を添えるとやはり気楽な笑みを浮かべました。

「斬るとか、突くとか何も考えなくていいからさ。伝えたいことと呼びたい名前だけを考えればいいよ?」

 二人の言葉に真琴は頬を弛めます。自分がやろうとしていることは大層な儀式ではなく、運命の技でもなく、気楽な振る舞いでしかありません。人が人を呼ぶ心に何の重々しい形式が必要だというのでしょうか。真琴は深く息を吸って、肺腑の奥まで吸ったそれをすべて吐き出してから手の中にある太刀を自然に掴みます。

「本当は、ここで智巳さんを呼ぶべきなんでしょうね」
「うん?」

 振り返った首を小さく傾けて、もう頼りないとはいえなくなった兄の名を呼ぶよりも少女はもっと伝えたいことがある人の名前を呼びたいと思います。それは彼女ではなく、彼女の友人が待っている人の名前でした。

「でも私は冬真くんに、あなたを呼んでいる人がいますよって伝えてあげたいんです。帰ってきなさいって」
「うん、それで充分」
「あはは、鷲塚もかわいそーにね。だがそいつはいいや、あんたの自然な心だ」

 にっこりとそらや朱陽が笑い、その笑みは真琴に移って黒髪の少女はあらためて大厄の境に生み出された光の円環に向くと神木の太刀を振り上げます。ゆっくりと上げられて、いったん止めてから大きく振り下ろされた太刀が無彩色の世界に浮かび上がる光に打ち付けられて、双子の力は兄が守ろうと思った人と、妹が大切に思っている人たちのために互いの絆を繋ぎました。


 ただ一つの融和を望む世界が否定されて、供馬尊の内と外が繋がれた瞬間にすべては崩壊して力の奔流が巻き起こります。それは円環に集まると同時に外から内に向けて強烈に吐き出される流れとなって、周囲に立つものを揺るがせなぎ倒そうと暴れ狂いました。自ら円環を斬った正面に立つ智巳はほとばしる力を前にして彼の霊刀を構えて一歩も動かず、背後にある塔子や輝充郎を守って身じろぎもしません。わずかでも気を抜けば吹き飛ばされて、もろともに砕かれそうな力が少年を襲います。

(倒れない!逃げないだけなら僕にもできる筈だ)

 奔流はますます強く勢いを増して背後に叫ぶ声も智巳には届きませんが、皆が自分を信じていることを智巳もまた疑わずに悲鳴を上げる身体を叱咤します。ふと、その勢いが減じられると戸惑う少年の前に立って平然とするジョシュアの姿がありました。

「小人は力に対して平静だ。私でも君たちを守る程度のことはできる」
「ありが・・・とう」

 一息をついた智巳はようやく周囲に目を向けます。ジョシュアの守りが力を遮っているとはいえ、そこらで荒れ狂う奔流が意味を失った存在を打ち砕いて収まらず嵐と化していました。細い出口が流れを激しくさせている道理であり、更にそれを開けば広がった流れは弱まり外に出ることも叶うでしょう。ジョシュアの守りに自由を得た輝充郎が、手のひらに拳を打つと轟雷鬼神・皇牙の力を奮い立たせます。

「ここは俺の出番だな。皇牙の鎧なら力の奔流にも耐えられるさ」
「行くつもりか・・・頼んだ」
「ああ、任せとけ!」

 塔子の声に答えて一歩を踏み出すと全身を打つ力の流れが鬼の身体をきしませますが、背を向けぬ皇牙は自らに眠る力に向かって呼びかけます。

「さあ聞こえるか、俺の中の鬼の血よ!お前の出番だ。お前はただ壊すだけの力か、仲間も守れないで何の力だ!」

 高揚した心が固く握った右拳を腰だめに引いて、左腕を交差させるように構えると一拍止めて精神を集中します。皆が戦い、守るべき者が自分たちを信じている。すべての力を一点に向けて爆発させる、解き放たれた鬼の血が皇牙の右拳を黄金に輝かせて天高く突き上げられました。

「出てみろ、紅蓮・皇牙ァ!」

 叫ぶと同時に皇牙の全身が輝き、炎を雷をまとう金色の鬼、炎雷鬼神・紅蓮皇牙が姿を現します。輝充郎の最大の力が全身をまばゆく輝かせると崩壊する世界の奔流のただ中へと飛び込んでいき、直線に伸びた拳が光の円環を打ち付けると激しい火花を散らせました。
 弾け飛ばされそうになる奔流の中で、すかさず円環に指をかけるとこれを力づくでこじ開けようとします。吹き上がる炎と落ち掛かる雷が少しずつ世界を砕き、世界の出口を広げますが燃え盛る皇牙の鎧にも方々にヒビが入り全身を軋ませていました。

「長くは持たねえ・・・一気に行くぜ!」

 持てる力のすべてをそそぎ込んで、雄叫びを上げる皇牙に一陣の影が飛びかかり、同じように円環に指をかけると渾身の力で世界のほころびをこじ開けます。それが地蜘蛛の頭領、魅呪姫であることに皇牙は驚きの声を上げました。

「魅呪姫!?お前・・・」
「勘違いをするな、妾も早々にこの辛気臭い場所から外に出たいだけじゃ」
「ああ、それじゃあさっさとヤッちまおうぜ!」

 阿仁王と吽仁王のように並ぶ、二体の異形の力が崩壊する世界の扉を開き一筋の光に仲間たちを導きます。ジョシュアが先導する、塔子を抱えた智巳の姿だけではなく、他の仲間たちや多くの地蜘蛛たちも矛盾する幼い世界を後にすることを選びました。

 霊刀を持つ少年が世界を解き放つ円環を斬り、金色の鬼がこれをこじ開けたとき、その手に錫杖を握る少年は崩壊しつつある供馬尊の前に立っています。その存在に吹雪はもはや畏敬を感じてはおらず、荒れ狂う力の奔流が収まれば大厄は再び封印されるしかないことを理解していました。人の手で名を与えられたものが人の手によって封じられる、その無常に少年の菩薩は哀れみを抱きますが、彼がここに立つ理由はそこにはありません。力を失った自分を封じるのではなく、これを砕こうとする意思を前にして供馬尊はもとの穏やかな顔に戻っていました。

「人は愚かだよ、僕に大厄の名を与えてそれをまた奪おうとしている。だけど君はもっと愚かだ。君が考えている通り、力を失った僕を君は討つことができるだろう。だがそれは崩壊する僕の世界から君が帰るための時間を奪ってしまう。最早このままでも僕の世界は崩壊する。人は絆を示し、供馬尊の融和は力を失って大人しく封印されるしかないだろう。もう僕を斬っても何も意味はないんだ」

 無言で立つ吹雪に向けて、供馬尊の声が響きます。

「君だって君を待っている者がいるところに帰りたいだろう?無駄に命を落とす理由はない、鬼たちが開けたあの扉から君たちの世界に帰るといい」
「ああ、だが俺がお前さんを討つことは俺にとっての理由があるんだ」

 低く構えて、少年は諦めの悪い神様を送る決別の言葉を告げます。

「言ったろう、俺は彼女たちを侮辱する者を許さないって」

 飛ぶように深く踏み込んだ一足から、それを起点にして二足目に渾身の加撃を図る躍歩の足が伸びて春菜の錫杖が大厄の中心に深く打ち込まれました。それを望む一撃に名を失った大厄は砕けて世界が急速に崩壊を始める、足を返した吹雪は視界の先に見える一点の円環を目指して迷わずに走り出します。離散する、かつて神とされた火の嘆きが少年の心に響きました。

(何故争いを肯定する人が僕を否定する?封印するだけではない、今度はこの僕を消し去ろうというのか?)

 その嘆きが吹雪の心にさしたる感慨を及ぼすことはありません。供馬尊が人に求められる存在であれば、この世界に戻ってくることができるでしょう。大厄として扱われた、協調に祝福を与えるのではなく盲目に争いを否定するだけの力を人が求めるとき、人はまた同じ過ちを繰り返すでしょう。崩壊する世界で奔流の中を駆ける、諍いや妬み、蔑みが流れ込む供馬尊は人の世の矛盾に耐えることができずに破綻して理想だけの融和は消え去ろうとしていました。

「残念だったな、供馬の坊ちゃん。俺は、争うばかりの修羅にも心があることを知っているんだよ」

 誰も哀れな尊に背を向けたまま振り返ろうとはせず、見捨てられた意味はやがて消えて無くなるしかありません。吹雪が見るものは手の届かぬ先にある小さな円環であり、肺と心臓が破れそうなほどに悲鳴を上げながら全力以上の疾駆を続けます。地蜘蛛に追われたとき、春菜を抱えて病院まで走ったときのことを思い出していた少年は、最近走ってばかりだとわずかに苦笑を漏らしました。

 世界の外側ではこじ開けられた光の円環から塔子を抱えた智巳の姿や多くの妖怪バスターたち、地蜘蛛の兵までもが抜け出ると周囲にいた人々を驚かせますが、それを追い散らすでもなく大厄を否定したものたちをその崩壊から助け出すために互いに手を貸していました。取り残された仲間を引き上げるべく地蜘蛛が伸ばした糸に人も一緒に絡みとられて、それを引く手に妖怪バスターたちが手を貸している。懸命に扉を開ける金色の皇牙と地蜘蛛の頭領の姿に、今は互いの対立を忘れて破局から身を守ろうとしていました。世界を開く鍵となった双子の妹は智巳に駆け寄ると、今になって心配することを許されたかのように飛びついてただ兄の名を呼んでいます。その智巳は抱えていた塔子の手を放さずにいた、無理な姿勢のままで真琴の頭を撫でました。
 残された姿や奔流に崩れ去った者を嘆く声もない訳ではなく、大厄の力は失われつつありましたが供馬尊の中で荒れ狂っている奔流はいまだその勢いを減じることがありません。全身をきしませている皇牙と魅呪姫の力も限界に近くなった頃、最後にいつもの穏やかな顔で大蜘蛛の一匹を抱えたトウカが歩み出て、それに続いたジョシュアが彼が見届けるリングを潜り抜けたところで力が弾かれると円環が閉じました。倒れこんだ魅呪姫の周囲には彼女に救われた地蜘蛛の兵たちが集って彼らの頭領を助け起こし、皇牙は満身創痍の様子で立ち上がると周囲にいる面々の顔を見て叫びました。

「吹雪は!吹雪の野郎はどーした!」

 その姿が見当たらないことに焦慮の声が上がりますが、最後まで円環に残っていたジョシュアはゆっくりと首を振ります。閉じられた世界は崩壊を目前にして、その内には荒れ狂う力しか残されておらず後は一気に収縮して破砕するだけでしょう。小さく悲鳴を上げる、真琴が顔色を失うと彼女の友人の姿を思ってその場に膝をつきました。春菜は何というだろうか。全員が箱の底に眠る小さな希望の欠片を失いかけたとき、収縮する大厄に向かって豪快に叫びながら駆け込んできたのはネイでした。

「この阿呆どもが!閉じたならもう一度・・・ぶっ壊すまでだッ!」

 そう叫んだときには、ネイの六尺棍が突き立てられて先ほどまで円環のあった箇所がわずかに欠けてほころびが生まれると皆が争って一斉にそれを叩きます。皇牙の鎧が、朱陽の太刀が、麗の雷が、智巳の霊刀や塔子の陣具が、そして大介の頭や地蜘蛛たちの牙、魅呪姫の鈎爪までもが叩きつけられて、不格好に砕けたリング、もっとも美しいリングがもう一度だけ姿を現しました。絆持つ者が力を得て世界の扉を開く、その瞬間、音の無い風が世界を通り抜ける様を皆が目にします。

 崩壊する世界は遂に縮小を始めて、それでも駆け続ける吹雪はその足を止めず全身が奏でる悲鳴の合唱に耳を塞ぎ、ただ光の円環を目指しています。

「悪いなあ、高槻。俺、帰れねーかもしれないけど、最後まで諦めはしないからよ。今度こそ、お前さんの小さな手を握ってやりたいからさ」

 その吹雪の視線の先で一瞬閉じたリングに心臓が凍る思いを覚えますが、少年はそれでも駆ける足を揺るめずに走り続けます。諦めるのはすべてが終わった後で構わない、次の瞬間同じ場所が揺れると不格好に方々の欠けたリングが再びその姿を現します。どうやらまだ吹雪を呼んでくれる声は残っているようだ。俊足で駆ける少年の前に一風の旋律が流れると、消え去った音無の神が届ける少女の姿が吹雪の目に映ります。自分に与えられた祝福の姿に、少年は手を伸ばすと少女の手を握りました。

「俺みたいな者に・・・汝鳥の祝福があるとはね」

 絆を持つ者だけがそれを越えることができる。供馬尊は崩壊して砕け散った世界は火になって散らばるとすべての力を失い、汝鳥の地に眠る大厄はその存在する意味を失って消え去ります。その中で少年は自分が握ってやりたかった、その手を掴んで決して放すことがありませんでした。


 人の知る物語です。

 古来、ただの力でしかなかったそれは供馬尊という名を与えられました。愚かしくも汝鳥の人々が祀ってしまったそれは融和の名前と力を与えられます。供馬は伝達と融和の意味であり、互いに伝えて和すことが供馬尊に与えられた意味でした。ですが、意味を与えられた融和は争いと諍いが散らばっている世界を嘆くとその地に大厄と呼ばれる禍いをもたらします。皆が仲良くすればいいのに、そう思った供馬尊は人に力を奪われると、その身は東汝鳥に納められてその名前は京都汝鳥に残されました。名前を奪った、その場所がなとりと呼ばれるようになったのはその頃からのことです。
 それに意味が与えられるとき、争いと諍いを嫌う思いが融和を望んだときに供馬の名が思い出されるでしょう。そのとき、人は融和ではなくて人の縁と絆を紡いでいて欲しい。誰もが間違えている、それでも理想を探したいのであれば、握っている手の暖かさを信じてあげて欲しい。

 傷ついた手を、小さな花が微笑んでいた姿を慈しんであげて欲しい・・・。

 すべてが消え去って、汝鳥に下りていた夜はいつの間にか上がり神木の立つ境内のある方角には暁の一閃が差し込もうとしています。全身を傷だらけにして立つ輝充郎と魅呪姫は互いに自分たちが属する仲間たちの、くたびれた姿を見やっていましたがそれにも飽きたように顔を上げると、魅呪姫が声を発しました。

「それにしても皇牙よ。貴様のあのポーズには何か意味があるのか?」
「もちろん、格好いいからだ」
「ふん、貴様の趣味はよく分からん」
「なんだと、やる気か?」

 輝充郎の返答に苦笑しながら、地蜘蛛の頭領は彼女の兵たちを集めます。

「残念だが、この傷では決着をつける力も残っておらん。それに妾たちが利用する大厄は失われて、この地の霊格は復活してしまった。当分はここに手を出すことはできぬ。だが忘れるな、地蜘蛛は決して諦めた訳ではないぞ」

 そう言うと日の出を避けるかのように地蜘蛛衆を引き連れて一つまた一つと姿を消していきます。その様子にまたどこかで騒動を起こすつもりかと思いますが、魅呪姫が言っていたように輝充郎にも今戦う力は残っておらず、いずれ地蜘蛛たちを追わなければならないでしょう。妖が行き過ぎた主張をするならば、それを抑えるのは自分の仕事だ。地蜘蛛と自分の間にも縁というものがあるのだとしたら、或いはそう長くこの町にいることはできないかもしれない。
 妖が暮らす隠れ里へと繋がる、マンション・メイヤはこれからどうなっていくだろうか。その点を輝充郎はほとんど心配はしていません。汝鳥の人々はメイヤと共生はしていませんが、彼らはその存在を認めてくれてはいるのです。管理ができないのなら封鎖しろと言われた、ですが条件をつけずに認められる存在など本来どこにもありません。それが現実であり、現実であればこそメイヤは苦労しながらもこの地に存在することができるでしょう。

「あいつらはそれに気が付いてはいないだろう。だがあいつらがせめぎあう、だからこそメイヤは汝鳥に存在することができる」

 いつだったかメイヤの前の路地で吹雪と春菜が言い争っていた、そうした者たちがいれば人と妖の世界は互いに干渉しつつそれでも互いを監視することによって保たれることになるでしょう。トウカや大顎が通う、あいまいな境界は白と黒にきっちりと分けられている訳ではありません。ですが人であれ妖であれ、世界とは右や左に傾くものではなく常にその間をバランスを取りながら歩き続けるものでした。
 そう考えて周囲に首を巡らせる、輝充郎の目に相変わらず邪気のない姿を見せているトウカの姿が映ります。とはいえあのお嬢だけは誰かが見張っていた方がいいかもしれないなと、地蜘蛛が残していった大蜘蛛の一匹をごく当然に連れ回している姿に輝充郎は苦笑しました。可愛らしさの基準にも個人差があるということか、大蜘蛛の毛深い背をぽんぽんと叩いて機嫌が良さそうなトウカの真似は誰にできずとも、邪気のない様はそれこそが人の理想に見えてしまいます。人がたどりつくことのできぬ理想、ですが彼女の掲げる灯火がなければ人は目指すべき理想を失って足を踏み外してしまうでしょう。

 やがて暁が周囲を照らし始めて、地蜘蛛の姿も消えると輝充郎の背後に塔子が近寄ります。力持たぬ者が大厄の渦中で守られながらも、彼女の叡智によって人を導く。輝充郎も他の者も塔子には感謝の思いしかありませんが、守られていた当人はそう考えてはいないでしょうしそれでもいいだろうと思っています。輝充郎が首を巡らせると上りかける暁の一閃がちょうど差し込んで、今は動くようになった身を些かぎこちなく扱っている少女に光を与えました。その明るさと温かさを確かめるように、少し手のひらを握ったり開いたりしてからどこかためらうように顔を上げます。

「何と言ったらいいか・・・ありがとう、以外の言葉が思いつかない」
「それで充分じゃねーか?連中も頼もしくなったし、ありがたいことだ」
「そうだな。私もこれで・・・」

 皆まで言わせず、輝充郎の言葉が遮ります。

「そっから先を言うことはないさ。あいつらに任せることができる、いずれ俺たちはどこかへ行くかもしれない。だが未来を全部決めちまうことはない、それでいいじゃねーか」
「ああ。だがそれなら、君も私に内緒でどこかへ行くようなことはしないでくれ」

 塔子の思いが輝充郎に理解できたように、輝充郎の望みも塔子は理解できたのでしょう。そう長い間ではなく、いずれ汝鳥を離れる道の分れがあったとしても、それまでは頼りになる後輩たちを導く役目が彼らには残されていました。彼のものではなかった霊刀をその手に収めた少年や、友人のために絆を繋ぐ道を選ぶことができた少女、菩薩の心で真実の道を拓く少年、理想の灯火を捧げ続ける少女、そして、汝鳥に愛される修羅の娘。彼らが互いに迷い、傷つきながらそれでも道を進むのであれば、塔子は安心して発つことができるでしょう。自分の弱い力と冷徹な知性ではなく、愚かであっても真摯な意思を持つ者たちの手によって道は敷かれていくのですから。

「私たちは導くことができた。だが明日のことは明日考えよう」
「まあとりあえずは、今日のメシとベッドだな」

 皆が身を休めている、暁に大きく背を伸ばして一つ欠伸をした七月宮稲荷は、神らしからぬ仕草の後で新しい神格を得た彼女の友人の姿を見つけます。皆の輪から一歩を下がった場所に静かに立ち、自分が手に入れることができなかったものを羨む者の目で人の営みを眺めている瑠璃の姿に遠慮のない声をかけると、二つに編んだ三つ編みを下げた少女はどこか恥ずかしそうな笑みを浮かべます。

「結局、私はみんなの輪には入れませんでした。でも、私はせめて人に祝福を与える存在でいたいと思います」
「いいんじゃないの?あんたは祟り神にはならないだろうしね」

 その言葉に、瑠璃は少しだけ恥ずかしそうな顔を浮かべます。彼女たちの視線の先では、大介と小さな恋花が多量に担いでいたカップ焼きそばをこの際だと皆に振舞う様子と、湯を沸かそうとそこらの店や建物を探している幾人かが走り回っていました。大ナベに入れた湯を持ち出して術士にこれを沸かせと呼ぶ者がいる、これほど下らないことに力が使えるということこそが、人の営みが平穏を取り戻したことの何よりの証明でしょう。

 すでに周囲は明るく、吹雪は気が付いたときに目の前に自分を出迎えている真琴の姿があることを知りました。あの後、どうやら自分は無事に世界を抜け出すことができたらしい。ここが死後の世界ではない証拠に、酷使された肺と心臓の疲労は甚だしいし腕や足は抗議の悲鳴を上げていました。そう近くない場所では暴君先生が誇らしげでやかましい声をがなりたてていましたが、春菜が彼女に救われて、自分もまた救われたのであればあの人はあの人なりに大した教師であるのかもしれないと思います。
 他愛もないことを考えていた理由は、言うべき言葉を見つけることができなかったせいであったかもしれません。穏やかな顔で立つ黒髪の少女は大厄の鍵を開いた恩人でもありましたが、その時に自分に向けて呼びかけた声は吹雪にも届いていました。

「ああ、なんだ。その・・・お前さんの声も聞こえたよ。礼は言っとくが、あれでよかったのかよ?」
「だって、智巳さんはそれを許してくれますから」
「本当に大した妹さんだよ。ありがとうな」

 照れを隠すように頭をかいている様子に、それまで優しげな笑みを浮かべていた真琴が眉を動かします。

「ちょっと待ってください冬真くん。お礼を言う相手が違いますよ」

 少女が何を言いたいのか、神様の鏡によらずとも吹雪には分かります。音無の神はよほど洒落ものであるのか、よほど性格が悪いのか。少女の手を取った少年の姿は真琴にも他の者たちにも見えていたのでしょう。あの時は春菜を抱えて音無山から病院まで走ったのだから、もう一度走るくらいはできる筈でした。

「病院でもっかい抱きかかえるとかしないだろうね?」
「なんつーこと言うんですか先輩!」

 朱陽がまぜかえす声に、これ以上この場所にいることはまずいと思いながら吹雪は逃げるように走り出しました。もう少しだけ肺と心臓に働いてもらおう。本当に走ってばかりだが、もう少しだけ、全力で走ろう。

 最後に別れてからまだ半日ほどしか経ってはいない、病室で眠る春菜が今は目を覚まして少年を待っていることに偶然よりもそれを由とした汝鳥の意思を感じます。面会時間には早い時間であり、戦いに傷つき汚れた身で錫杖や物騒な大太刀を持つ少年が病室に踏み込むなど本来ありえない話ですが、早出をしていた看護婦長がさも当然のように少年を迎え入れてくれました。おそらく、そら先生あたりが手を回していたことは意味ありげな婦長の視線で分かりましたが、吹雪は後々面倒な噂にされそうだと嘆きながらも病室の前で荒れた呼吸を整えてから、ゆっくりと扉を叩きました。ごく自然に少女の声が答え、少年は彼らを隔てていた最後の扉を開きます。
 早朝の日差しが白い帳越しに柔らかな光を浴びせている、寝台に身を横たえていた春菜は少しだけ身を起こしていましたが、その程度の動作がまだ辛そうな様子を見せていました。静かに扉を開けた吹雪は春菜の髪が結われておらず、背まで下ろされているその姿に何故か戸惑いを覚えます。少女はゆっくりと息をして、一度閉じた目を開いてから言いました。

「お帰りなさい、冬真くん」

 その短い言葉に、膨大な感情が詰め込まれていることが吹雪には分かります。感謝だけでは足りない、自分の感情を堪えながらも吹雪は彼が本当に伝えるべきであった言葉を選ぼうとしていました。

「お前さんの祝福が届いたよ。お前さんはよほど汝鳥に好かれているらしい・・・ありがとうよ」

 差し込む温かな光が春菜にかかる、その姿を吹雪は美しく感じます。信仰は神の専売特許ではない、泥に塗れた人の所行を自分たちは美しく思うことができる。

「俺の口から伝えていなかった言葉、俺はそのために帰ってきたんだ。もう無理をするなよ。だって、お前それでも女の子じゃないか。汚れるなら俺が汚れてやる・・・本当はそう言おうと思っていたんだ」

 そこまで言って、一度言葉を切ります。目をそらすことなくその顔を向けている春菜の凛とした瞳に映る光も今は穏やかで、その内にあるものを少年は鏡の力を借りずとも見ることができると思いました。

「だがな、供馬の坊ちゃんの姿を見て少しだけ考えが変わったよ。ご大層な理想を言う奴らは立派なものさ。だが理想とはほど遠い血と泥の中で、ぬかるみに足を浸しながら降りしきる雨雪の美しさを忘れない奴がいる。お前さんはやりたいようにやればいい、守るべきもののために前を向いて戦えばいい。あるいは、お前さんが信じるもののために祀りを捧げたっていい」

 言いながら、やべーことを言おうとしていると吹雪は思います。知らない奴が聞いていたら、求愛の言葉以外の何ものでもないかもしれない。だが、構わないさ。

「修羅は涙を流せずとも、俺はお前のかわりに血を流すことはできる。お前がどこにいても、誰にもお前を傷つけさせはしない」

 ああ、構わない。俺には守りたいものがあるんだ。吹雪の言葉を聞いて、それまで静かに何かを堪えていた春菜が初めてためらうような、すがるような姿を見せました。

「いいの?私の手は・・・こんなに汚れているのに」

 ある衝動を必死に抑えながら、少年は菩薩の手を伸ばします。この世界は理想にはほど遠いし、自分たちは足掻きながら泥に汚れ続けている人でしかない。だが、俺はそれをこそ美しいと思うんだ。蠍の火は己の身を焼いても星にたどり着くことはできないかもしれないが、蠍は星になりたくて自分の身を焼いている訳じゃない。誰だって本当のしあわせのために、己の身を焼くことができる。
 ゆっくりと、ですが決然として少年は自分の手を少女に伸ばします。生まれでも血でもない縁、冬の終わりを示して春が芽吹く繋がり。

「一人じゃないんだ。お前さんの背中を、俺が守ってやるよ」

 その先は誰も知らずとも、行くべき道は誰に分からずとも泥に浸されたぬかるみの地を人は超えることができる。だがそこに敷かれる道を一人でつくることはないし、レンガを敷く者がいるのであれば春の菜を植える者がいてもいい。

 美しの野へと至る理想は遠くとも、道の脇に小さな花が咲くのであれば俺たちはその姿を愛でよう。伸ばした手を取った少女の手は尊く、小さくて温かいことを少年は全身で感じていました。
他のお話を聞く