ぱられるわーるど.十二(前)


 あの日以来、少年は病室を訪れては少女の傍らに腰を下ろしています。看護婦たちの幾人かが、無責任な声で少年と少女の関係を窺うようなことがあっても冬真吹雪はことさらに気にすることはなく、あるいは、気にしないふりを装っていました。
 東京都汝鳥市、関東平野の裾野に位置する古い街並みの外れにある、閑静な病院はこの町では唯一の総合病院であると同時に異形のものに対する妖怪バスターのために設けられた施療のための施設ともなっています。吹雪に抱えられて、かつぎ込まれていた高槻春菜は以来数日が経っても目を覚ましてはおらず、白い帳ごしに差し込む日差しを受けながら清爽な身を寝台に横たえていました。その日差しが赤みを帯びていく様子に吹雪は視線を向けると、不吉な赤い色が連想させる惨劇の情景を思い起こしています。すべてが解決した今になっても、思い返すだけで胃液がこみ上げてくるような感覚はそう忘れられるものではありません。

 骨の砕ける忌まわしい音と地に広がる赤い滴り。音無山で、無様な異形の化け物に襲われた少女が壊れた人形のように崩れ落ちたとき、時間が凍り付いた瞬間を確かに少年は感じていました。化け物が倒されて、大勢の足音が少女を囲い術者たちの言葉が流れる、ごく短い時間が永遠よりも冷たく長い恐怖を皆に与えます。その中で、吹雪は過ぎ去った音無の神の祝福が横たわる春菜に奏でられたその音を聞いていました。神が忘れられてこの地が音無と呼ばれるようになった、その最後の音を少女への祝福とした存在に少年は心からの感謝の思いを捧げます。
 その祝福のおかげか友人や仲間の献身的な術のおかげか、たぶん双方だったのでしょう。春菜の鼓動が動いていることを知ると、その細い身体を抱え上げた吹雪は肺が破れるほどの距離をただ無心で駆けました。怪我は重かったものの今は施術の影響で長く目を覚まさずにいるだけであり、それ以来、病室に眠る春菜のもとを吹雪は日々欠かすことなく訪れています。少女の業がどれほど深く、その功徳がどれほど尊いかを少年は知っていました。

「まあ出席日数なら問題ないよ?この子は成績もいいからね」
「頼んますよ。お嬢様に留年なんて似合いませんから」

 殊更に、みなとそらが瑣末に思える話をしたのは春菜の容態が安心できることを伝えようとしたからでしょう。吹雪もそれが分かるからこそ冗談ともつかぬ返答を返していましたが、学園の養護教諭である、みなとそらは生徒たちが妖怪バスターの予備軍として活動するに際して様々な助けを行っており、こうした病院や保険の手続きを取ることもあれば単位や出席日数の便宜をはかるようなこともありました。人と兎の半妖であると自称する、彼女に言わせれば保険加入を増やしてあとはアフターサービス、と韜晦するだけでしたが。
 妖や異形のものに対する剣士や術者たち、妖怪バスターが危難に会う例は頻繁とはいえずとも稀少な訳でもありません。だからこそこうした病院もありますが昨今では異形の妖の出没も減っており、春菜が眠る病室のある階も人の気配は少なく奇妙なほどの静謐に満たされていました。それは平穏というよりも生命の不足を感じさせる静かさであり、眠っている少女の白い頬に吹雪は痛ましさを覚えずにはいられません。なぜこれほどか細い少女が戦わねばならないのか。妖怪バスターとしてではなく、人として人の世界を厳然と守る者であるために、高槻春菜は武器を手に妖を討って迷うことがなかったのです。それは、彼女以外にそれを為す者が誰もいなかったから。彼女だけが己の血を流しながらでも、それを為すことができたから。

(流せぬ涙に、血の叫びを以て戦うほど彼女は罪深くはなかった。それなのに・・・)

 穏やかに上下する呼吸と、白い肌にわずかに差し込むようになった赤い色に安堵すると、保険の手続きがあるからと病室を出たそらと入れ替わるように入ってきたのは、おとなしやかな黒髪の少女でした。春菜がかつぎ込まれてから鴉鳥真琴もまた日々病室を訪れていましたが、傍らで容態を見るだけの吹雪とは異なって親身に看護を努める彼女はよほどためになる存在でした。汝鳥の旧家の生まれであり、幼い頃からの春菜の友人でもあって、家族に混じって手伝う姿も奇妙なものではありません。
 ただ見舞いに訪れるだけの自分を吹雪は申し訳なくも思いますが、それを気にするのも失礼に当たるでしょう。せめて邪魔にならぬ頃合いを選んで、傍らにいるだけのことが吹雪には大切なことに思えましたし真琴もそれを当然のように迎えています。

「春菜ちゃんは、優しい子なんですよ」
「知ってる。いや、知っていたのに理解してなかった」

 首を振りながら言うその言葉は罪の報いとするには重く、その吹雪を見る真琴の目には非難がましい視線はなく労るような優しささえ窺うことができました。まったく、この娘も大したものだと思う。春菜にしろ真琴にしろ、汝鳥の学園で剣術研究会に入るという話を聞いた折りにはお嬢様の遊びに付き合うのかという呆れた思いと、お嬢様を守る騎士にでもなれるかという不埒な感想の二つを吹雪は抱いたものですが、それがとんでもない思い違いであったことはすぐに明らかになりました。春菜は誰よりも強く哀しい少女であり、真琴もまた苦難に折れぬ翼と正しき知性を持つ少女であって、少年は自分の無礼な評価を早々に取り下げなければならなかったのです。

 異形に対する妖怪バスターとしての少年や少女たちの中で、妖が人に害を為すのであればあくまでこれを斬るべきか、あるいはそれでも斬らぬ道を探すべきであろうか。春菜と吹雪の対立はたどりつく道が同じであったとしても、それ故に深刻で互いに引くことがなくそれでいて背を向けることもありませんでした。誰よりも傷つけ合いながら誰よりも頼っていた、それがよほど哀しい関係であることを彼らは知っていましたが、吹雪は心中の菩薩を捨てることはできず春菜は修羅となってでも現実に抗し続けます。
 常は二本に縛っていた髪を下ろして寝台に身を休めている春菜の姿は、多少やつれて白く見える顔に穏やかな息を漏らしていました。女性の怪我の具合を詳しく尋ねるほど礼儀知らずじゃない、と皮肉な口調で言う吹雪ですが春菜の容態が落ち着いていることはその姿を見るだけでも分かります。それでも用意されている汝鳥の儀式、大厄の再封印に彼女が間に合わないことはもはや避けようもないでしょう。

「高槻は儀式には間に合わない、それまで目が覚めはしない。だがその方がいい」

 それは確信であり望みでもあります。未だ正体の知れぬ汝鳥の大厄を封じる儀式、それを目前に控えて春菜の存在が欠けることは確かに損失だったでしょう。彼女は武器を手に戦い、術を為して力に対し、何より冷徹な知性には一切の迷いがない。ですが己の手を血で濡らし続けた春菜はもう充分に戦った筈であり、これ以上彼女の強さと優しさに頼って彼女に血を流させることは吹雪にはできませんでした。
 もしも春菜が目を覚ませば、彼女は迷うことなく汝鳥の儀式に赴こうとするでしょう。能力ではなく、誰もがためらう中で彼女だけが最初の道を切り開くことができるのであれば、春菜は人に憎まれても蔑まれてもその一歩に迷うことはありません。たとえ傷つき弱っていたとしても、少女の凛とした知性と精神が毛髪の一本ほども乱れず損なわれもしないことを吹雪は知っています。だからこそ、それを腕ずくでも止めないで済むと思うと少年は安堵することができました。

「もっとも、腕ずくではこっちが負けるかな」
「酷いですよ、冬真くん」

 冗談めかした言葉にころころと真琴が笑うと、吹雪も小さく首をすくめます。彼らの傍らで静かに眠り続けている春菜がどれほどか細い少女でしかないか。彼女の業は深くその功徳は尊い、だからもう充分だ。あとは彼女ではなく自分が行けばいい。幸い、自分もまた卑小であることを知っている人間でいられるのだから。
 たぶん、吹雪の思いを知れば春菜は怒るでしょう。あの恐ろしい拳で殴られるかもしれないが、それならば殴られるために帰ってくるのもいいかと吹雪は思います。意を決すると吹雪は春菜の目が覚める前に、短い言づてを真琴に託しました。もう無理をするな、誰かがやらなければならないなら、お前にさせるくらいなら俺がやると。

 少年の心からの言葉を受け止めた真琴は分かりましたと短く言うと、でも、絶対に自分でも伝えてくださいねと念を押します。言われるまでもなく、吹雪が春菜に代わって儀式に赴くのであれば無事に帰ることは少年の責任でもありました。
 幾たびか訪れてずいぶん慣れ親しんだ感じのする病室を、改めて吹雪は見渡します。寝台の傍らには自分の定位置のようになっていた安物の椅子があり、水差しの置かれた台や小さく開かれた窓とわずかに揺れる白い帳、そして眠る少女の姿は日とともに少しずつ彼女の生命を取り戻してゆく。畏れを抱かせるほどに魅力的な瞳も今は閉じられているが、自分が帰る頃には光が取り戻されているだろう。奇妙な確信をもってそう信じる吹雪は、自分を見る真琴の穏やかな笑みに何か言いたげな表情が浮かんでいることに気が付きます。少年の不審な様子に艶やかな黒髪を傾けると、優しげな声が漏れました。

「私は、春菜ちゃんが羨ましいんです」
「え?」

 思わず問い返した、ですが吹雪には真琴の真意が分かっています。少女は冗談めかした顔をつくると、だからその春菜ちゃんを哀しませたら許しませんからとややわざとらしく続けました。その言葉に苦笑を返す吹雪は、兄と違ってよくできた妹さんだと思います。真琴の兄である鷲塚智巳、妹の心配をよそに頼りなく弱々しかった出来の悪い兄が最近では幾分ましな兄になっていることを吹雪は知っていました。霊刀備前長船を与えられて、それを使いこなすことができぬ己に塞ぎ込んでいた智巳はようやく自らを認めて事実を知り過信を捨てて、小さな自信と確信が生まれています。その兄の成長を誰よりも喜んでいたのはおそらく真琴であり、病弱な妹と思われていた彼女こそ誰よりも頼りない兄のことを慮っていました。
 そういえば、と吹雪は思い出しています。彼が霊刀を持つ智巳に剣を教えながらも妬みと嫉みをまじえて当り散らしていた間、この妹は何の不平を言うこともなくただその様子を静観していました。それが正しいかどうかではなく、それが必要だということを信じたからこそ真琴は余計な口を差し挟もうとはしなかったのでしょう。その正しさと厳しさに支えられた心を持つ少女が、春菜と親しいことを吹雪は今更のように納得する思いになります。

「其に意味を与えてはならぬ。其は供馬尊、ともまみことは世界を律するただ一つの融和・・・もう少し家にも大厄の伝承が残されていればよかったのですけど」
「奴さんの名前が分かっただけでも上出来さ。意味のある名前は力を持つ、俺たちにはそれが必要だ」

 智巳と真琴、双子の名にその鍵を託すと伝えられていた、かつて汝鳥に封じられた大厄の正体。ただ大厄とだけ呼ばれていたその名が鴉鳥の家で見つけ出されたのはごく最近のことでした。それでも数少ない伝承や記録から、その名前を追って手に入った情報は断片的なものでしかありません。奇妙であったのはわずか数十年前に再封印されたという供馬尊の、その記録が意図的に消されたかのように少ないことと、当時を知っている者たちが一様に大厄のことを語ろうとしないその理由でした。町の四方に祀られている社が大厄の封印を抑えている、その封印に眠る供馬尊の正体は誰も知らない。数十年を経てそれに抗する者たちは恐怖でも脅威でもなく、未知への不安を抱いて大厄に挑まなければならないのです。
 その不安に背を伸ばして発とうとする、吹雪を呼び止めると真琴が差し出したのは神木の枝木を削り意匠を凝らした春菜の錫杖でした。見た目よりも軽いがしなやかで、細身だが堅固な杖は春菜自身を思わせる清爽な強さを秘めており、それを手に取った吹雪は寝台に眠る錫杖の持ち主に目を向けます。

「春菜ちゃんは、許してくれると思います」
「本当は、こいつも一緒に休ませてやろうと思っていたんだがな」

 そう言いながらも、少年は礼を言って春菜の錫杖を受け取ると愛用する大太刀とともに脇に携えました。同行二人というのも悪くない、大いなる存在を相手にしてそれを貫く力は必要であり、自分は戦いそして帰るために発とうとしているのですから。
 汝発つ鳥の如く、其の時まで壮健なれとは誰が言った言葉であったでしょうか。きびすを返すと病室の扉に向けて、迷わぬ歩調で足を踏み出そうとした吹雪は最後に一度、肩越しに二人の少女に振り返ると力強い笑みを浮かべました。

「たかが大厄の封印だよ。そんなものよりもっと貴重なものがあることを俺は、俺たちは知っている」

 だから戦いへ向かおう、守るべきものを後に置いて。少年は娘たちに後を託すとその青みがかった目に凛とした意思を湛え、一本縛った黒髪に清爽な律動感を携えて病室を後にします。

 汝鳥の町はその四方を古くからある社に囲われていました。東南は神木が立つ汝鳥神社があり、西北には浅間神社に祀られたコノハナノサクヤヒメノミコトが居を構えています。そして北方には由緒あるえびすの社が参拝する人を迎え、東北には無名の音無の神が住まう祠がありました。春菜が幼い頃から近所にある汝鳥神社の神木に通い昨今では浅間神社に参詣を続けていたことや、音無の神が彼女に過ぎ去る祝福を与えたことを吹雪は知っています。生まれ育った町を慈しむ、その功徳に汝鳥は祝福を与えているのでしょう。そして西南には七月宮稲荷の小さな社が置かれているが、ここに祀られていた神は忘れられていた中で人を祟り、今では人に対しています。
 四方を神に囲われた、汝鳥の中心に設けられている大厄の封。夕も暮れになって病室に立ち寄る時間が少しく長かったのかもしれず、吹雪がついたときに少年を除く皆はすでに顔を揃えており、朝霞大介が不機嫌な顔を向けています。吹雪が所属する剣術研究会とは異なる、オカルト・ミステリー倶楽部の部員とはいえ一年先達として後輩たちを率いる立場の一人でした。

「遅ぇぞまったく。イライラさせんな」
「いやいや、そりゃ悪ぅございました」

 軽口はいつものことであり、吹雪の性癖でもあります。集まっているとはいえメンバーは決して多いものではなく、吹雪に大介を除けば龍波輝充郎と鷲塚智巳を含めた四人しかおらず、他の者たちは封印の近くで合流する予定となっていました。元来、単独行動が多く賑やかさを好まない少年には有り難くもあり、花も色気もない組み合わせに不満を言うような輩もいません。

「しっかし男くさい待ち合わせですねえ」
「お前さんはその方が良かったんじゃないか?」
「どういう意味ですかね、先輩」

 輝充郎の声に冗談めいた返事を返しながらも、微妙に汗の量を増やします。遅れてきた少年がどこに立ち寄っていたかは周知のことであり、劣勢に立たされないうちに話をてきとうに切り上げてしまうと少年は如何にも緊張しているように見える、智巳の姿に目を移します。背伸びしている具合こそ見えながらも、少なくとも頼りなさの消えた表情に吹雪はこいつの妹も誇らしいだろう、と思ってからふと気が付きました。吹雪が春菜を置いてくることができたように、智巳もまた真琴を置いてくることができたということに。

「期待してるぜ、鷲塚よぉ」

 いささか唐突ながら、お坊っちゃんと呼ぶ侮蔑した声ではなく全うに仲間として声をかけられたことに智巳も気が付きます。霊刀備前長船、そいつが使えないと困る。その誤解を捨てる必要があることに少年はようやく気がついていました。魔を討つ刃でもなく、極められた技でもない。ましてや生まれながら認められた血統などでもない。智巳自身が剣を手に発つ、その決意があるときに人は自分の意思で力を振るうことができるのです。

「ご期待に添えるようにしますよ」
「ああ、道は俺たちが拓いてやるさ」

 既に日は暮れて周囲は薄闇の帳に包まれており、柚木塔子を始めとする他の者たちも封印の跡が隠された建物の周辺に集まっています。市中では大規模な人避けの陣が張られていたこともあり、住民の退避も完了していましたから周囲は商店街とは思えぬ静けさに包まれていました。妖怪バスターの活動に対する市井の締め付けが厳しくなったとはいえ、京都汝鳥市からの正式な要請もあって今回ばかりは行政も協力せざるを得なかったようです。
 一見してごく普通の建物の地下にある封印。そこには一面の土が敷かれていて土俵に似た注連縄が張られている、それはごく数十年前に再封印が試みられた跡であって、その時の記憶を覚えている者も幾人か存命しています。にも関わらず彼らは一様にそれを語らず、それは話したくない過去という様子でもなく、まるでそれを知らずに封印に立ち向かうことができねば意味がないとでもいうかのようでした。

「どうにもあの世代の人達は分かりませんね」
「そうだな。だが大厄の正体を知れば大厄に対することができぬ、ということは有り得るかもしれない」
「成る程、そういうことはありますかね」

 塔子の言葉は推理というよりも憶測の域を出るものではありませんが、古来より一度しか通れぬ扉のような伝承は多く残されています。神であれ妖であれ存在するには意味が必要であり、謎かけは一度きりで答えを知る者は二度と挑むことができない、そのような存在はありうるかもしれません。人を驚かす類の妖が、正体を知る者の前に決して姿を現さないかのように。

 建物を中心にして、集まっている人々の姿に吹雪や塔子は目を向けます。その人数は決して多くはありませんが、中には彼らも名を聞いたことがある高名な術者や剣士の姿も混じっていました。とはいえ妖怪バスターの存在が非公然であるからには高名といっても関係者にとってのことでしかなく、彼らの殆どは一見してごくありふれた一般人にしか見えません。その中にはいかにも荒事の得意そうな姿もあるとはいえ、例えば背広を着た柔和そうな男性が歴戦の剣士だなどと言われても誰も信じようとはしないでしょう。
 さて自分はどのように見られているだろうかと、いささか意味のないことを吹雪が考えている間に塔子はその場を離れると他のバスターたちと話を進めています。今回の再封印の儀式では彼女が各々の連携や役割をまとめているらしく、その知性と判断力はすでに予備軍と呼ばれるものではありません。遠目に様子を見ている少年の後ろに、聞き慣れた足音が近付くと大きめのザックを背負った大介が立っていました。

「あれ、先輩?まだ俺たちは待機ですよ」
「いや、悪いが俺は多賀野を連れてキツネ退治だ」
「あ、そうでしたね・・・ご武運をって言っといた方がいいですか?」
「いらねーよ。今更似合わない心配なんぞするな」

 大介の言葉に、奇妙に確信めいた力強さを見て吹雪は意外な顔をします。西南の祠、七月宮稲荷の祟りを鎮めることは封印を囲う力を安定させるために避けては通れないと思われていましたが、神に対する筈の大介にはその気負いは見えず、まるでこれから出向く喧嘩を楽しみにしている学生のようにしか見えません。もちろん、彼らが学生であることは百も承知しているとはいえ。
 大介が連れているのは稲荷神と親しみながらそれを祀らずに祟られていた多賀野瑠璃であり、傍らに控えているその稲荷神に似た姿をした小柄な少女でした。不機嫌そうな少年と三つ編みのお下げを下げた少女、小柄な娘の取り合わせには祟り神に対する危難を窺わせるものはまるでなく、大介自身もどこか呆れたように漏らします。

「イライラするが少しは話が見えてきやがった。まあやるだけやってみるさ」

 見えてきた、とは大介の服の裾を掴んで放さない少女のことでしょうか。外見だけを見ても少女が七月恋花に繋がりがある存在だということは言われずとも分かります。であればそれを生み出したであろう稲荷神には企みがあるということであり、大介はいっそ神の手のひらに乗せられるつもりでいました。
 縁と呼ぶべき絆の存在。ことにそれが神を相手にする場合に無視できないことは吹雪も知っています。あらゆる存在には意味が必要であって、縁とはそうした意味を生み出す関係なのですから。小さな恋花を従えた大介はいつもの空腹そうな顔をしながら、吹雪たちに軽く手を挙げるときびすを返しました。再封印の儀式が始まる前に、すべてを解決した力を手に再びここに戻る。その日、汝鳥が長い夜になるであろうことを彼らは知っており、去っていく背中を見て輝充郎が呟きました。

「どうした。やっぱりお前も行きたかったか?」
「ええ、まあね」

 曖昧に答える、吹雪の心情は行きたくないといえばそれは嘘になりますが、今も病室に眠る少女の姿を思えば七月宮稲荷へのこだわりは多いものではありません。それは少年が稲荷神との縁を軽んじているためではなく、大介や瑠璃と七月恋花の間にある縁をより重く考えているからこそでした。吹雪は今でも自分の責任と才に押しつぶされたまま神性を宿さざるを得なかった、瑠璃に哀れみこそ感じますが嫌っていなければ憎んでもいません。
 いつだったか、吹雪は春菜と話をしたときのことを思い出しています。祟り神の力に対抗するべく、三面大黒天を降ろしたという瑠璃の話を聞いて安易な方法を選んだ愚かさと、にも関わらずそれを成功させた器の大きさに嫌悪する吹雪を見て春菜はこう言っていました。

「あの娘は、神様になる術を選んだのよ」
「涅槃の神性、という訳か」

 吹雪の言葉は半分は冗談でしたが、春菜は否定でも肯定でもない素振りで首を振ります。

「世界に神様が存在する意味。瑠璃さんがその意味を得るのであれば、七月宮稲荷も鎮まるかもしれない」

 意味とは縁によって生み出される存在の理由である。ひとつ息をついてから首を振ると、吹雪は自分たちが為すべき儀式の準備へと意識を戻します。汝鳥の四方を囲う神性は一箇所、天乃原を除けばすでに鎮まっており封印はそれを為した者たちの話こそ聞くことができずとも彼らは力を揃えてそれに対しようとしている。彼らが手にしているだけの知識と力によって、汝鳥を鎮める儀式へと向かうのです。やがて他の妖怪バスターたちとの話を終えた塔子が戻ってくると、状況と作戦の説明を始めました。封印を囲う力を強めて儀式の助けとする、これまでも幾度か繰り返されてきた説明に、吹雪も改めてという風で今更の問いを投げます。

「では儀式の主体は俺たちですね?」
「そうだ。私たちこそ最も大厄と四方の社に関わる者であり、縁とはそれほど重要なものだからな」

 四方の社を祀り、その力を強めてから中央の封印に対する、儀式の手順は理屈としてはまことに単純なものでした。学生たちを助けて市井の妖怪バスターたちは偏る力のバランスを取ってこれを安定させることが役割となります。確かに全身全霊を込めた力を出すだけであれば心得のない者にも不可能ではありませんが、それをコントロールするとなれば技量が必要であり、儀式が汝鳥の町全体を覆う大規模なものであることを思えばベテランの術者たちはそれを活かした配置にならざるを得ないでしょう。
 いずれにしても自分たちが主体とならねばいけない、それは当然だと思う一方で塔子にも不安がない訳ではありません。説明を終えてから後輩たちの姿が離れたことを確認すると、塔子は輝充郎にだけは胸中の心境を語っていました。

「果たして、上手く行くだろうか。いや、それより正体も分からぬ相手を再封印などして良いのだろうか」
「お前さんらしくない言い方だな。任務であれば成功させる、仲間を危険に晒さないために最も効率良い成功を選ぶ、そうだろ?」
「分かっている。だが、その危険を負うのは私ではなく君たちだというのに・・・」
「俺たちはお前さんに言われたからここにいる訳じゃないさ。ずいぶん喧嘩もしながら、それでも自分で選んでいる。冬真だって鷲塚だって、ここにいない者だってそいつは同じだ」

 人を率いる者の不安を抱えながら、塔子は自分がその責を負わねばならないことも理解しています。一度、切りそろえた髪を振って不毛な考えを払うと塔子は天乃原の状況を見て作戦を開始する、と言います。汝鳥神社の神木は健在であり、浅間神社にあるコノハナノサクヤヒメノミコトは鎮まり、音無の神は少女に祝福を与えるとこの地を去っていました。西南の祠、天乃原にある七月宮稲荷の祟りを鎮めると同時に封印の儀式を始めること。瑠璃と大介、そして七月恋花を信じて彼らは待つしかありません。

 囁かれる会話を聞き流しながら、たゆたっている緊張の中で吹雪は心にかかる棘を抜くことができずにいます。神器の鏡がもたらす知識は少年の心の内に映し出される姿であり、それは鏡を持たぬ者に見えるでもなく、その意味を理解できる者は少年とともに鏡を見た少女であって彼女は病室で動かぬ身を横たえている筈でした。

「だがそれは決して正体の分からぬ相手ではない。なぜならばそれは名を与えられてしまったのだから」


 むかしむかしのそのまた昔のことです。この国がまだ国というかたまりではなく、世に妖々たるものが跋扈して今よりも人とそうでないモノたちとが近しく、天と地と海がまだ分かれてはいなかった頃の時代。

 今は遠い遠い海の向こうとなっている、黒い海の向こうで諍い、争い傷つけ合う二つのものがありました。意味を持たずにただ暴れ回るだけの力、火のかたまりとなって縦横無尽に駆けめぐりながら牙をぶつけ合っていた二つの竜は、時が生まれていたその時代に七日七晩のあいだそれは激しい争いを続けて天を割き地を砕いて海をかき回していましたが、ついに力つきて共倒れになると一匹はばらばらに砕け散って世に散らばり、もう一匹は濁った水の底に沈んで行ったのです。今となっては二つの竜が互いに争い、傷つけ合った理由など誰も知らず、当の竜たちにさえ分からなかったのかもしれません。
 やがて国が定まると水の上にかたまりとなっていた土は木を芽吹き、少しずつ生き物が住まうようになって妖も方々に隠れ住むことができるようになり、木はところどころ切り倒されて人が営みを始めるようになりました。その頃には二つの火のかたまりが互いに争っていたことなど誰も覚えてはいませんでしたが、散らばっても消えることのなかった火は世に争いを残しながら争いを嫌う思いも世に伝えていたのです。それが世のはじまり、むかしむかしのそのまた昔に起こった出来事でした。

 それからしばらくたった時代のことです。海岸に葦の小舟のようなものが打ち上げられているのを漁師たちが見つけました。今でも多くの魚や遺物が漂着する東の突端にある浜辺、漁師たちは竜宮から来た使いのことをそれが流れ着いたずっと昔の時代から知っており、小舟もそうした竜宮の遺物であろうと思われていたのです。竜宮とは竜の安宮、水に沈んだ火のかけらであったことなど、誰も思いつくことはありません。遠い海の向こうから流れてきた「蛭子」をめぐる、そんな昔の話です。

 日の暮れた天乃原は人気もなくごく穏やかな静謐に満たされており、二人の男女と一人の子供がカンテラを手に立ち入っている様子は奇妙なものに見えたかもしれません。人に会えば怪訝な目で見られたことでしょうが、汝鳥の中央にある封印と四方を囲ういくつかの神所にはこの日のために人避けの術が施されており、薄闇の中であえて禁を破ろうとする者は見あたりませんでした。闇の不吉を怖がって年長者の服の裾にしがみついているのは小さな恋花ばかりであり、瑠璃は泰然として動じず大介はいつもと変わらぬ不機嫌な顔を見せています。祟りを為したこの祠の主、彼らの探す七月宮稲荷が周囲におわすことを彼らは感じていました。

「なんでお前までついて来てんだ、イライラする」
「わ、わてはその方がいいと思うんですじゃ?」
「好かれてますね、朝霞先輩」

 どこか大人びた笑みを浮かべている、瑠璃の言葉に大介はいっそう不機嫌そうな顔になると鼻面に皺を寄せます。三つ編みのお下げを二本ぶら下げている、幼げな少女はオカルト・ミステリー倶楽部の後輩であり如何にも粗忽で頼りない新入生であった筈ですが、三面大黒天を降ろした姿は神々しいというよりもむしろ浮き世を離れたこの世のものならぬ雰囲気を感じさせていました。人ではない存在に頼る、己の境遇に些かの理不尽を感じながらも大介にはそれを否定するつもりはありません。及ばぬ人が力を借りるのではなく、どうやら神様にも彼らなりの望みと思惑とがあるらしいことに大介は気が付いていました。

「まったく、かったるい連中だぜ」
「神様に対する言いぐさとしては聞き捨てならないわねえ」

 呟いた大介の言葉に時を置かず、八本の尾を揺らして七月宮稲荷が姿を現します。放置された神の怒りを如何にするか、誰が望む結末になるかはともかくそれは先延ばしが許される問題ではありません。自分と縁を持った者たちがようやく自分の祠を訪れた様子に、美しい女性めいた姿をした稲荷は首を傾けながら唇の端を魅惑的に持ち上げています。額に描かれたもう一つの瞳が怪しげな光りを発しました。

「それにしても二人とも随分立派になったみたいね。どうせすべては手遅れだというのに」
「おかげさまでな。それよりいい加減聞かせてもらいたいもんだな」
「あら、何をかしら?」

 韜晦するような言葉に大介は不機嫌そうな顔を変えることがありません。直接の返答を避けて、稲荷が言ったのは別のことです。

「大介さま。人の持つ力って考えたことがある?」
「ねーよ」

 真正直に即答する様子に思わず吹き出すと、哲学に興味のない少年に親しげな視線を向けながら七月宮稲荷は笑みを浮かべました。元来は古いキツネである彼女が時を経て何故、穀物の神である稲荷と化したのか。人に労苦と糧を与える豊穣の恵みを与える存在となった、その理由は人が彼女に穀物の神としての意味を与えたからに他なりません。時を経たキツネは妖狐になると人が信じて、穀物の神である稲荷を人が祀ったからこそ七月宮稲荷は神となっているのです。そして、人がそれを忘れたときに彼女は人に祟らなければなりませんでした。

「人だけが人ならぬものに名を与えることが、意味を与えることができるのよ。たとえどれほど長生きしたところで人の存在がなければ私はキツネのまま生きて死んでいたでしょうね。でも人の信仰が私を七月宮稲荷にした、それが人の持つ力」

 あらゆる存在はごく当然にそこに存在するだけである。山は誰に言われずとも山であり、キツネは誰に呼ばれずともキツネとして生きています。ですが盛り上がった巨大な土くれに山という名を与えて、金色の畜生にキツネという意味を与えるのは人であって山でもなければキツネでもありません。良い悪いではなくこの世界は人の世界であると言った少女がいましたが、それはこの世界が人によって意味を与えられた世界であるからなのです。

「討魔の豪傑、高槻の払師、夛賀野の従者、八野の女狐、音無き山の鬼・・・どれも人が与えた名前。でも名を与えてはいけない存在があることに人は気が付くことができなかった、だって意味を与える者こそが人なんだから。それが大介さまたちが知りたがっている大厄の正体よ」
「神を敬い祀る人が、祀ってはいけない存在を崇めてしまった。だから人はその名前を奪い、意味を失ったそれはこの汝鳥に封じられたの。名前を奪ったからなとり、汝鳥は人の過ちを封じた場所だからこそ、人は多くの神仏をこの地に招いてそれを祀ろうとしたのよ」

 七月宮稲荷の言葉に続けたのは瑠璃でした。それは彼女が降ろした三面大黒天から与えられた記憶であり、三つ編みのお下げを垂らした少女はすべてを知ったことによってそれを知るものと同じ存在として人に対さなければなりません。人の歩みを神が見守るのであれば、瑠璃もまた人を見守るものでなければならないのです。それでも、神性であると同時に多賀野瑠璃でもある少女は彼女の親しかった恋花に対して伝えるべきことがあります。

「それから幾代も時が経って、汝鳥の神性を崇めることを忘れてしまった人がいる。多賀野瑠璃は七月恋花に親しく接しようとしたけれど、それを敬う思いを忘れてはいけなかったのよ。神であれ妖であれ、獣であれ人であれそれは都合のいい人形ではないんだから、愛着だけで接していい筈がなかったのに。しかも、私は神性を崇める巫女であったというのに」

 首をめぐらせて、瑠璃は稲荷の姿に目を向けます。七月宮稲荷を放置して祟り神と為し、それに対するべく三面大黒天を降ろした社の巫女。彼女がすでに俗世を隔てた存在となっていることを、この場にいる誰もが知っていました。
 無言でゆっくりと頭を下げる、瑠璃の真意は稲荷にも分かりましたが、だからといってそれは彼女の都合でしかなく神が受け入れるべき仕草ではありません。あらためて言われるまでもなく、すべては手遅れで遅きに失しているのです。

「でもね、手遅れなのは私だけなのよ。だからせめて、私はその人たちを助けたいと思うの」

 瑠璃は思い出しています。自分が神性を持つ者となった、その間にも人は人の営みを続けている。参詣の足が途絶えて学園の隅に朽ちようとしていた浅間神社は清められて、真摯な少女たちがそれを詣でていました。汝鳥神社の境内に古くから祀られる神木には奉納を捧げる足が絶えることはなく、失われた音無も解き放たれると汝鳥を去る前に一風の祝福を残しています。自分に親しい少女と自分を蔑む少年の姿を思い浮かべた瑠璃は彼らが神器の鏡を覗き見たことも知っていましたが、それは大厄を封じるためではなく神性に対する畏敬の念でもなく、もっと貴重で大切なもののためでした。瑠璃が失って、二度と手に入れることができないもののために。

「本当は私だって、大切なものを持っていたのよ。私に神降ろしの器があったことなんてどうでもいいの。でも私は神様を降ろした今になって、ようやく色々なものが見えるようになった。本当はもっと前に気が付くことができていた筈だったけれど」

 瑠璃の述懐は過ぎ去って戻らぬ事実に対する決別の言葉でした。少女が無言で頭を下げた、その理由は彼女がやり残していた七月恋花への謝罪であって、一番最初にやるべきであった多賀野瑠璃としての行いを今になって済ませただけに過ぎません。すべては手遅れである、だが他の者は間に合うのであれば自分と同じ過ちを人に繰り返させないことは神性を得た少女に与えられた役割でしょう。諦観を湛えた目で大介を見据えた瑠璃は、自分が掴むことのできなかった小さな縁を握っている先輩に向けて語ります。

「朝霞先輩。荒ぶる神の祟りを、怒りを鎮める方法なんてものはこの世のどこにも存在しません。でも、それでも人は多くの祟りを鎮めて来ました」
「んなこたーわかってる。鎮まらない神なら鎮めるしかねーんだろ?」

 その言葉に瑠璃は哀しそうに頷き、稲荷は不敵に笑います。神の怒りを祟りと呼ぶのであれば、怒りを鎮めるためにはどうすればいいですか、などと訪ねる方が間違いでした。正しい方法などはどこにも存在せず、ただ怒りを鎮めてもらうために誠心誠意振舞うしかありません。礼を尽くして祭祀を執り行うのか、貴重な犠牲を生け贄として捧げるのか、いずれにせよそれは手段でしかなくそれで怒りが鎮まるかは神にも人にも分からないのです。神を鎮める昔ながらの方法は供物を捧げること、ですが供物に満足せぬ神が更なる供物を求めるのもまた昔ながらのことでした。
 結局、誰もが満足して誰もが納得する正しい回答などありはしません。そして神が怒りを鎮めず人に祟りを続けるというのであれば、力ずくでもこれを抑えるしかないでしょう。大介は両の拳を組んで指を鳴らすと、稲荷が浮かべているものと同じ不敵な笑みのままで一歩を踏み出しました。

「満足というなら誰より俺が満足してないさ。キツネもそうだろう」
「自惚れてるわねえ。神様と殴り合いをして勝てると本気で思っているの?」

 言いながら、七月宮稲荷の声は高揚を隠すことができません。神と人が組み合うなど正気の沙汰とは思えませんが、古来より伝承であれお伽噺であれそうした話は残されているものです。人がその力を振るって神と組み合うべく技を鍛えていた、それもまた人が神に与えた意味でありそれを奉られることは神が存在する意味そのものでした。大介の挑戦を受けることは七月宮稲荷に与えられた意味なのです。

「楽しい祀りになるかもね。でも手加減はしないわよ?」
「したら手前の負けだ」
「あっははー!言ってくれるじゃないのさ!」

 大切なことは満足することと納得することであるのならば、本来、穀物の神である稲荷神に闘技が捧げられるという奇態な祀りも意に介することはないでしょう。大介が七月宮稲荷のために自らの技を磨いたことだけがたった一つの事実でした。
 薄闇の汝鳥はそのとき中天に登る月の明かりに照らされて、天乃原の名に相応しい祭儀の舞台となっています。ゆっくりと歩みを進めながらも視線によって互いの間合いを測っている神と人の姿は、鷹揚に立ちながら幾本にも分かれた尾が身を守るように広がる稲荷と、獣の一牙をその腕に秘めた大介の二人が対峙する緊張感を描き出していました。バリツと呼ばれる大介の手技はひとたび獲物を捕えれば瞬時にそれを砕き、八本に広がる稲荷神の尾は正しく八方を守る鉄壁を為しています。瑠璃や小さな恋花の目が見守る中で、挑発の言葉を投げたのは七月宮稲荷でした。

「知ってるわよ、結局八箇所までしか極められなかったんでしょ」
「手前の尾が八本しかないというなら互角だな」
「神様と互角とは言ってくれるわね。でも互角でどうやって勝つつもりよ?」
「もちろん、こうやってだ!」

 叫ぶと同時に大介はすでに跳んでいました。しなやかな獣を思わせる跳躍から牙並ぶ顎を思わせる腕が伸びますが、金色の尾がそれを阻むと弾かれた腕が一息の間に伸びて次の牙を剥き、それを新たな尾が阻みます。超速拳、と呼ばれる古来の術で人は一息の間に片手で四手、両手で八手の技を打つことができると言われていましたが、大介がどれほど俊速で技を突き出そうと恋花の八本の尾はそのすべてを防ぐでしょう。
 ではどうするか。八手目が弾かれてすべての尾が無防備になった瞬間、全身を大きくのけぞらせた大介が存分に体重を乗せた頭突きを打つと、同じく全身を反らせていた恋花もこれを避けずに正面から頭を打ち付けます。ごつりという重く、鈍い音に端にいた瑠璃と小さな恋花が思わず身をすくめて、一瞬後に足をよろめかせた大介が踏みとどまると悪態をつきました。

「て、手前。神様のくせに頭が固ぇじゃねーか」
「あらあら、大介さまもしかして痛かったかしら?」

 その言葉が再び双方の頭から、聞くに耐えぬ音を響かせます。人と神が正面から向き合って、互いに大きく背を反らせて額をぶつけ合う光景はどんな伝承やお伽噺を紐解いても載っていなかったかもしれません。金色の尾もバリツの技もなく、五度目の頭突きによろけながら離れた二人は今度は走り込んで、六度目の頭を全力でぶつけ合います。目を疑うような神様の姿を見せられているにも関わらず、瑠璃は少年のような声でけたたましく笑う七月宮稲荷の神格が驚くほど高まっているのを感じていました。

「はーっはっはっはっはっはっは!面白い、あんた面白すぎるよ大介さま!」

 そう叫んで、白河豆腐が砕けるような音が七度目の空気を揺らすとふらふらとよろけた稲荷が遂に目を回してばたりと倒れます。あるいは霊格のある第三の目を額に持つ恋花が、人よりわずかに頭が弱かったせいかもしれません。仁王立ちで構えている大介も、視点が定まらずにそれでも力ずくで神を鎮めた彼の誇りを宣言します。

「こいつが、頭を使った勝利だぜ」

 次の瞬間、男らしく前のめりに倒れた大介が恋花とともに目を覚ますにはしばらくの時がかかりますが、西南の祠である天乃原はようやく鎮められて周囲には呆れた静謐が取り戻されていました。それにしても途方もない方法を選ぶものだと、小さな恋花を連れた瑠璃は誰ともなく首を振りますが、それを誰よりも羨んでいるのもまた彼女だったのです。


 再封印の儀式を前にして、集まっている人々は汝鳥を囲う静謐の中で互いの姿を確認しています。定刻に始められる儀式は単純なものであり、すでに施されている封印に重ねて陣を組むだけのものでした。同時に、方々の社を祀る祭儀を行うことでその力を助けるという、儀式の規模だけは大仰なものになっていますが取り立てて特別なことをする訳ではありません。

「瑠璃さん、大丈夫かな」
「心配してもしゃーないさ。それより・・・いや、何でもない」

 智巳の心配をよそに、吹雪の懸念は天乃原に向いてはいませんでした。好悪の念は別にして瑠璃の力は七月宮稲荷に勝るものであり、それ以上に七月恋花が彼女に縁のある誰の破滅も望んではいないことに吹雪は奇妙な確信を持っています。彼女が瑠璃や大介を害する筈もなく、汝鳥の人々に神が望むことはもっと別のものであるようでした。
 すべてを見晴るかす雲外鏡でさえも届かぬ、三面大黒天もコノハナノサクヤヒメノミコトも、そして天乃原で瑠璃や大介と対している七月宮稲荷も秘して語らぬ思い。それが吹雪の心に抜けない棘を残しています。大厄の存在についても正体についても彼らはそのすべてを知った上で、あえてそれを人に語ろうとはしていません。他人の企ての上で踊らされているような感覚は吹雪にとって気分の良いものではありませんが、それは同時に何故彼らがそうしなければならないのかという疑問を感じさせてもいます。大厄を知る者が大厄について語らぬ理由、今のところそれに気が付いている者はほとんどいないようですし、吹雪にしたところで漠然と感じている疑念でしかありません。

(こういうとき、お嬢様たちがいると助かるんだがな)

 病室に残る二人の少女、高槻春菜や鴉鳥真琴の姿を少年は思い浮かべます。傷付き眠る少女を後に残すことを選んだのは吹雪自身であり、自分が血泥のぬかるみに立つことは少年の誇りでもありました。ですが春菜だけではなく真琴のように一見して荒事に向かぬように見える少女たちの存在が、彼らにとって貴重であることを知っている者は吹雪だけではありません。冷徹な知性と健全な判断力は時として厚切りの刀にも奮迅の技にも勝ります。ですがその真琴が春菜の友人として病室に残ったことは、不安の材料にはなっても咎める声も疑問を述べる声もない、人として当然の選択でした。

「供馬尊。双子の名に大厄の鍵を託した、だったか」

 背後で呟く言葉に吹雪は意識を現実に戻します。太い腕を組んで、いつの間にか少年の傍らに立っていた輝充郎が漏らした言葉は鴉鳥の家に残されていたという、数少ない大厄にまつわる口伝でした。それは断片的なものでしたが、彼らはその程度の知識に助けを求めるしかありません。
 妖怪バスター予備軍と呼ばれている、学園の生徒たちで再封印の儀式に直接携わることになった者は霊刀を持つ智巳と鏡を手にする吹雪、そして鬼の血が流れる輝充郎の三人であり、他は大介や瑠璃のように方々の社へと散る予定となっています。唯一の例外が儀式全体の指揮を司ることになる柚木塔子でした。
 術士としての塔子は彼女が昔受けた傷によって力を失って久しく、小さな陣を設けて異形のものを遮る程度の術がせいぜいでしたが、それ故に無謀な力に頼らない冷徹で曇りの無い知性は皆の助けになっています。本人の思いはどうであれ誰よりも頼られている華奢な少女に、輝充郎は大厄への疑問を口にしていました。

「妙な話だ。別に兄貴がトモマで妹がミコトでも良かったろうに」
「幾つかある口伝は分かっているが、それぞれの繋がりが見つかっていない。私には少なくとも二つか三つの伝承があったように思えるが、それを調べている時間は流石にもうないからな」

 双子の名に伝えていた、大厄の名が唐突に判明したと言われたところで供馬尊にまつわる伝承や記録が驚くほど少ないという事情がさして改善することはありませんでした。それでも東汝鳥と京都汝鳥を徹底的に調べたところ、断片的に見つけられた文献からは供馬尊を示すわずかな記述が見つけられています。

「其は決して起こしてはならぬ、其に意味を与えてはならぬ。供馬尊は世界を律するただ一つの融和、あらゆる諍いを収めてあらゆる営みを収める者。尊は世界を律するただ一つであり、尊の中ですべては等しい。尊を用いてはならない。聖者は邪を失い、覇者は叛を失い、賢者は愚を失い、豪傑は鈍を失う。もしも其が起きることがあれば子供らよ、お前たちが幾久しい時を紡いで欲しい。そしてもしも其が終わったのであれば、残された小さな花が微笑んでいたその姿を慈しんで欲しい・・・」

 その記述を目にした者は、一様に首を傾げました。断片的な伝承を繋げた中で分かることといえば大厄の名が供馬尊であるという程度でしたが、あらゆる諍いを収めてあらゆる営みを収めるというただ一つの融和という記述には禍いを窺わせるものはなく、むしろごくまっとうな神様にしか見えません。

「尊の中ですべては等しい、であれば人も妖も等しいということかもしれないし地蜘蛛衆やスニール会が目をつけた理由もそこにあるのかもしれないな。平等は人にとって災いになるが、妖には解放になる」

 塔子の言葉に、吹雪は誰も気付かない程度に唇を歪めます。人と妖を隔てる壁の存在が吹雪と春菜の確執の原因となったことを少年は忘れておらず、彼らは互いに思い悩みながらも未だ理想に至る道が見つけ出された訳ではありません。それは永遠に見つからないかもしれませんが、ただ少年も少女もそれを追い続けて飽きることはないでしょう。対立する者たちが手を携えて封印すべき大厄がただ一つの融和であるという記述に皮肉を覚えますが、伝承が断片的にしか分かっていないのであればそれも確かめることはできませんでした。
 そして分かっていないといえば、大厄の伝承以外にも気にかかっていることがありましたがそれを口にしたのもやはり輝充郎です。それも吹雪にとっては耳に快い話ではありませんが、彼らが関わるべき大厄の鍵となる疑問の筈でした。

「だがこれじゃあ双子の名が云々という鴉鳥の口伝はさっぱり分からんな。それに備前長船が打った霊刀の一本、それがえびす神社にあったのはいいが何故そいつを鴉鳥の双子が持たなければならなかったんだ?誰かが奉納の儀式を行い、双子に捧げたからこそ霊刀は鷲塚の物になっている。前から気になっていたが、どうも話せる塩梅じゃなかったからな」
「そいつは悪うござんしたね」

 輝充郎の言葉に冗談めかしておどけてみせたのは無論吹雪ですが、それは少年にも気にかかっていた疑念です。剣士として技を磨いてきた者としては、それが剣を心得ぬ者に捧げられたことに理不尽を覚えずにはいられませんが、それがもしも理不尽ではなかったとしたらどのような理由が考えられるでしょうか。
 霊刀は持ち主を選び、資格なき者には抜くこともできぬ。吹雪や春菜が試みたときは鞘から動かなかった刀が、智巳や真琴の手に触れればすべるように抜かれました。鴉鳥の血がそれほどのものかと吹雪が感じた嫉妬の思いは深刻である一方で、智巳ならまだしも真琴までも刀を抜くことができた理由は単に彼らが鴉鳥の家の者であるからというよりも何か他の理由を思わせずにはいられません。先に塔子が言っていたようにそれを追求する時間はありませんが、どこかで誰かに仕組まれているような思いを少年は捨てることができませんでした。まるで、大厄の封印は解かれなければいけないものであるかのような。

「では、そろそろこちらも行きます。先生方に伝えておくことはある?」

 颯爽とした八神麗の声が聞こえます。塔子らと同年の小柄な少女は彼女が仕える浅間神社を守るべく出立することになっており、瑠璃や大介が天乃原の祠に向かったのと同様に他の者たちも方々の社で祭祀を執り行って再封印の儀式を助ける手筈となっていました。西北の社、浅間神社に向かう麗はそこでコノハナノサクヤヒメノミコトを祀り、学園の敷地内にある社に近い部室にはネイ・リファールやウォレス・G・ラインバーグといった顧問たちが数人の生徒を連れてすでに待機しています。
 大将は本陣に腰を据えて動かぬものだ、とは暴君先生ことネイの述懐でしたが、彼女が倒した無様な化け物によって汚されていた祠は神去った今ではかんたんに修復されて、周囲にはその資金を出資したというネイの商会の幟が立てられています。あまり美しい姿とはいえずとも、小さな社では決して珍しい話ではないでしょう。

「本当は星条旗を立てたかったのだがな!」

 そのときのネイの言葉を思い出して苦笑しながらも、吹雪は部室に残っているメンバーの中にラインバーグの妹であるトウカがいるだろうことに安堵しています。何の偏見もなく妖の手を握ることができる少女、彼女が大厄の封印になど関わることはない。ゲー先生が一緒であれば妹を止めてくれるであろうし、春菜にしろ真琴にしろ、こんな仕事に彼女たちが関わる必要はないのだ。暴君先生の言ではないが、本陣に腰を据えてもらって一向に構わない。
 そして浅間神社に向かう麗とはちょうど対角線にあたる東南の方角、汝鳥神社には蓮葉朱陽が相馬小次郎を連れて向かっています。樹齢一千年を越えるという神木が根を下ろしている東南の社は未だ強い力と高い霊格をもって汝鳥を見下ろしていました。朱陽はその神木に借りた枝木の刀を手に、社に暮らしている鬼の子を連れて社の警護に向かいます。彼女たちは祭祀を執り行う者ではなく、儀式が始まって不審な様子がなければ再び封印の地に戻るつもりでした。

「まあ、誰かさんじゃないけど高槻の代わりにね」

 からかうような口調に幾人かが悪意のない笑いを浮かべますが、吹雪にすればたまったものではないでしょう。朱陽もそれ以上は追求せず、神木の太刀を担ぐと軽く手を上げてからその場を後にします。西北の浅間神社に東南の汝鳥神社、彼らにも人数に余裕がある訳ではなく市内にあるすべての社や施設に人を割ける訳ではありません。京都汝鳥や市井の妖怪バスターたちもそれぞれ配されていく中で、周囲に残されているのは塔子や智巳、輝充郎や吹雪に小人族のジョシュア・クロイスといった面々でした。

「未知に対して平然として仲間の手を取ることができる、そうした人の縁には敬服する」
「それは小人の言う、繋がりを示す円環という奴かい?」
「さあな。だが、見届ければそれも分かると思う」

 いつだったか、放浪する小人は汝鳥を訪れた理由を尋ねられたときにそう語っていました。人ならぬものには彼らが存在するための意味があり、それは葉が日に向けて茂り鳥が巣に帰るように当然行うべきことです。そのジョシュアが何のために汝鳥にいるかはともかくとして、この儀式の場所にいる理由はもしかしたらトウカに捕まる前に逃げようとしたのかもしれないなと吹雪は小さく笑います。人形のように小柄なジョシュアをトウカはことのほか気にいっていましたが、放浪の小人としては無邪気に捕まえられる処遇はいささか困ったものでしょう。

「でもあまり楽しそうではありませんわね」
「そうかもしれないな・・・って何でお嬢がここにいるんだよ!」

 驚いている数人の視線に構うことなく、逃げ遅れたジョシュアを抱え上げたトウカ・A・ラインバーグはそれが当然のような表情をしています。今頃部室ではゲー先生が頭を抱えていることだろうと思いつつ、この純粋で悪意のない少女を誰も送り帰すことができないことを知っていました。彼女の精神を侵すことは誰にもできず、見かけに依らぬ彼女の力に抗することもまた難しいのです。

「すまないがお嬢のお守りを、いや、守りを頼むぜ」
「・・・頼まれるまでもない」

 諦めたような吹雪の言葉にジョシュアも観念した表情を浮かべています。見届ける者である小人はその外見とは異なり驚くほど頑健で危難に強く、そのジョシュアであれば彼自身ともう一人を守るくらいはできるでしょう。吹雪は少年が自らに負った責を果たすべく手に錫を持って太刀を振るわねばならず、その意識はいまだ知られてはおらぬ大厄へと注がざるをえません。誰よりも純粋なトウカ、その彼女が漏らしていた言葉にどのような意味があったかをこの時は誰も気が付くことができませんでした。

 一つ息を吐くと首を振って、吹雪は彼が立ち向かうべき封印の中心へと顔を向けながらも先に語られていた伝承の一節に思いを巡らせます。供馬尊の正体、供馬尊の力。そんなものより、すべてが終わって残された小さな花の姿こそが慈しまれる世界であって欲しいと思う。だがその資格はかつて修羅であった少女にも与えられるのだろうか、そう思って少年は一度開いた手を強く握りなおしました。
他のお話を聞く