ぱられるわーるど.十二(中)


 封印の再構築、方々の社を祀る祭儀を同時に行うことによって汝鳥の中央に組まれた封印を助ける、そのために幾人もが町の各所へと散っています。多賀野瑠璃と朝霞大介が訪れている天乃原、八神麗や学園の顧問や生徒たちが詰める浅間神社、蓮葉朱陽が相馬小次郎を連れて向かっている神木の立つ汝鳥神社、他にも北方にあるえびす神社やその他の社にも学生たちや市井の妖怪バスターたちが送られていました。その人数は決して多くはありませんが、いずれにせよ儀式の助けとなる力は必要であって汝鳥を治める神仏の存在を疎かにする訳にはいきません。
 ですが、同時にそれが力を分散する愚考であることも彼らは充分に知っています。そして大厄の封印を妨げようとするものたちは、妖怪バスターたちが散るこの好機を決して逃そうとはしないでしょう。中央の封印に当たる者たちは未知の存在に対する危難を考えねばならぬ一方で、方々の社に向かう者たちは自分たちと社そのものの安全を確保しなければなりません。ことに京都汝鳥から訪れている二つの集団、歪んだ土地神である地蜘蛛衆と舶来の勢力であるスニールのエバーたちは度々彼らを襲い、今回もその機会を窺っている筈でした。

「とはいえ連中だってその数には限りがある。こちらが分かれるなら向こうだって同じだよね」
「そうだといいんですが」

 あえて気楽に言う朱陽の呟きに、小次郎は同調することができずにいます。月の夜、東南にある汝鳥神社の境内で、齢一千年を数える神木を見上げている彼らは増大する緊張に身を浸していました。襲われる可能性は低くありませんが、人数を集めるなら再封印を行う中央に向けられるだろう。そう考えても首筋を這い回るような不快な感覚は消えることも小さくなることもありません。いっそ敵が姿を見せればその感覚も消え去ろうものを、と些か不埒な思いを朱陽が抱いたとき小次郎が声を潜めました。

「来たようです。それも、かなり多いかと」
「やれやれ、当たりは籤だけにして欲しかったねえ」

 冗談めかしている朱陽は先ほどまでの不快な感覚が高揚を伴う戦慄に変わっていることを自覚していましたが、同時に周囲を囲っている邪な気配が小次郎の言葉以上に数を増していく危険も感じています。傍らに立つ鬼の子に目配せをした次の瞬間、境内を囲う柵を跳び越えて一斉に姿を現した地蜘蛛の化け物、人間めいた外見に蜘蛛の頭と全身を剛毛に覆われた異形のものたちが少女と鬼の子のまわりをぐるり取り囲んでいました。

「ひーふーみーよー・・・数えるだけ無駄だね。鬼っ子も助けてもらうよ」
「分かっていますけど、自信はありませんね」

 その言葉に小さく口笛を吹いた、朱陽の背を冷たい滴が流れます。小次郎がそう言うからには本当に危ないのだろう、冬真吹雪はこの連中を一人で四十体斬ったらしいが、周囲を囲う妖の数は軽く見積もってその倍は超えていました。隠れる場所とてない境内で一斉に囲われた状態で、記録に挑戦することができるだろうかと朱陽は後悔しかけますが、今更考えてもどうすることもできません。

「そんじゃ神木様、お膝もとで暴れさせてもらうよ!」

 吐き出すように、その神木に賜った枝木の刀を振り回した朱陽は一足とびに異形の集団に飛び込むと斬るというよりも叩き潰すような太刀筋を打ち込みます。深く切り込んで横に凪ぎ、空間を作ったところで踏み込んで一撃を浴びせたらすぐに下がる。一箇所にとどまれば囲まれて潰されることは目に見えており、機動力を駆使して先手を取り続けるその戦い方は常道である一方で、激しく動き回ることによる消耗もまた尋常なものではありません。わずかでも足が止まれば周囲を囲う異形たちが左右や背後から爪を伸ばして、朱陽の肩や背を浅く切り裂きます。耳朶の向こうで小次郎が叫ぶ声が聞こえていますが、少女にも余裕がなく辛うじて鬼の子も自分の身を守ることができているらしいことは分かりました。

「くっ・・・!」

 一撃、突き出された爪が少女の脇腹に深く刺さると足をよろめかせますが致命ではなく、朱陽は信頼する得物を手に次々と雑兵を地に打ち据えます。折れる恐れのない神木の枝木であることが唯一の救いであり、早々に二十体ほどを倒したでところで記録への挑戦も夢ではないかと周囲に目を向けますが、境内の向こうから新たな地蜘蛛が駆けつける様を見ると細い肩に一気に疲労がのしかかりました。囲まれないように路地を逃げながら一体ずつ斬り倒した吹雪に比べて、朱陽の戦いは量産の速度では勝っても状況の不利は比べるべくもありません。唯一の救いは小次郎の存在ですが、鬼の子の声も彼女の耳には届かず乱戦の中で傷と疲労だけが量を増していきます。

「敵に囲まれるってのがこんなに厳しいとはね。高槻と冬真がエバーに襲われたのもこんな感じだったか」

 ふと思い出した朱陽は音無山で吹雪が見せた、高槻流の踏み込みを真似た我流の一撃を繰り出します。常よりも深く踏み出した一歩、それは地蜘蛛の一体を突き飛ばしてその背後に立つ雑兵まで押しのけますが背後に開いた空間に別の姿がおどり込み、無防備になった背に少女は一瞬後の死と絶望を覚悟しました。

「しまった・・・!?」
「蓮葉さん!」

 少女の背を覆う、その声が地蜘蛛ではなく自分の背後におどり込んだ小次郎であることと、強引に飛び込んだ鬼の子に向けて一斉に襲いかかった地蜘蛛の牙が突き立てられる姿に朱陽はようやく気が付きます。振り払った腕に、幾筋もつたう血の色が人と変わらぬ赤い流れを作っていました。この子は、小次郎は無分別に戦う自分の背を常に守ろうとしていたのではないか。

「すまない!あたしは・・・」
「蓮葉さん、あと半歩深く踏み込めます」
「え?」
「僕はこの境内で、高槻さんが奉納する型を幾度も見ているんですよ。貴女ならできます、早く!」

 その言葉に、朱陽には小次郎の意図が分かりました。自分の背を守ると言っている、遅まきであってもそのことに気が付いたのであれば朱陽は背後を恐れることなく戦うことができる。その上でなお小次郎は深く踏み込めと言っているのです。つまり、自分が背後を守るから囲いを突破しろと。
 気恥ずかしい思いは後に回して、省みることなく前を向くと神木の枝木を固く握り直す。この神木と鬼の子が自分を守ってくれることを信じて、もう一度深く踏み込むと我流の一撃で切り込んだ朱陽の後ろに小次郎が続きました。一撃を大きく凪いで地蜘蛛を打ち、更に下がることなく二の太刀から三の太刀へと続く。

「まったく!なんでこんなことに気が付かなかったのかねえ!」

 自分に嫌悪しても仕方がないとばかり、不満を正面にいる地蜘蛛へと打ち込む八つ当たりの太刀が道を切り開くと、相手に混乱と動揺が生まれました。確信した優位ほど崩れれば脆く、地蜘蛛は統一こそされていても臨機の応対ができる集団ではありません。疲労は限界に近く身体の節々が悲鳴を上げていましたが、高揚する朱陽の精神が他を圧すると望みを失った地蜘蛛の一角が退きました。
 ことさらに威嚇の声を上げて、派手な打ち込みで踏み込むと遂に地蜘蛛の一隊が後退をはじめ、他のものたちもつられるように離散をはじめます。統一した集団であれば離散もまた統一しているのであろう、それでも隙を見せぬように最後の一体が視界から消えるまで敵を追い太刀を振り続けた朱陽は、周囲が鎮まって邪な気配が失われたことを知るとようやく腰から崩れ落ちることができました。決して離れることなく背後に従っていた小次郎に全身の力を込めて振り返ると、月夜を流れる涼やかな風が汗と血に汚れた顔を吹き抜けます。

「あんがとよ。どうやら、助かったようだ」
「いえ。お礼だったら、明日にでも境内の掃除を手伝ってください」

 あらためて、剣撃でさんざ踏み荒らされた周囲の惨状を見て朱陽は声を立てて笑うとそのままふらりと倒れて意識を失います。その傍らに小次郎は屈み込むと、静かな動きで膝の上に少女の頭を乗せました。封印の儀式は間近であり、時が貴重であったとしても彼女には休む権利がある。汝鳥の神木が見下ろす境内で、その時が近付いていることに小次郎は気が付いています。それでも、今は大厄の封印よりも一人の少女の眠りが勝ることを知っていました。

 東南の社で神木の太刀持つ少女と鬼の子が汝鳥の地面に血を流している間に、この期を選んでの襲撃は西北の社である浅間神社にも訪れています。桜の林間に姿を現した、人の身に異形の種を植え込んだ無様なエバーたちの姿に麗は不快そうな顔をして二本の太刀を抜きますがその表情には怯みの色も恐れの姿もありません。傍らに控えた狼妖の大顎に一瞥を向けてから、無様な侵入者たちに視線を戻しました。

「暗がりの林で女性を囲うなんて最低よ。手加減しないけど、いいね?」
「八神の嬢ちゃん、こんな老体でもひよっ子どもに遅れは取りやせんよ」

 牙をむく大顎の頭に軽く手を乗せた、麗の瞳の光が強くなります。幸いなことに学園の敷地内にある社は部室から近く、持ち堪えればすぐに助けがやって来るでしょう。異形の力を持つエバーは数こそ多いものの、地蜘蛛とは異なり彼らには統率がなく力に溺れるだけの連中でしかありません。多様であるが故に能力が読めない、であれば危険を避けながら時間を稼げば良いでしょう。狼妖の咆哮が危機の到来を遠く伝えると同時に、麗が抜いた太刀を広げました。

「出でませ、武甕雷!」

 開いた刃から雷が落ちかかると、正面で炸裂してエバーの前進を阻みます。すかさず下がりながら木々を背にして戦う、桜の林は彼女の舞台でした。舞うように軽妙に跳びまわりながら木々と雷で身を守り、太刀の二閃で切り刻むと樹間から飛び出した大顎がエバーたちの間を駆け抜けてこれを分断する。相手を倒すのではなく、相手の戦力を削ぐことだけを意識して深追いはしない。助けが来ることを確信しながらも、まだかと待ち続ける焦慮が尋常ではないだけに麗も大顎も敢えて加減も容赦もせず完璧なまでに冷徹な戦いを続けます。
 新たに周囲に現れる気配はすべて敵であると思いながら戦い、それが的中したことに失望しつつも新たな犠牲者が次々と量産されていきました。せっかく自分や春菜が整えた浅間神社の霊域を、あらためて清めて祀らなければならないなと思いながら。

「まったくもう、誰が掃除すると思ってるのよ!」

 冗談めかしていましたが、襲撃者の数は思った以上に多く倒れた異形の血だまりと肉が足下を滑らせるようになると麗の胸中にも隠せぬ不安と小さな恐怖が首をもたげます。多勢を相手に俊敏に移動することが自分の優位を保っているのであれば、それが失われることだけは何としても避けなければなりません。視界の隅で俊敏に飛び回っている狼妖の姿が麗の精神を支えていますが、時として人にありえぬ動きで腕や足、それに似たものを伸ばすエバーの動きにさしもの大顎もその身に傷を増やしています。

「その牙は抜刀の如く、ですぜぇ!」

 幹を駆け上がるようにとび、身を翻して落ちかかる牙が刃のようにエバーの首筋を深く切り裂きました。西瓜のようにごろりと落ちた首を大顎は横とびにかわしますが、首のないエバーは鞭のような腕をしなわせるとこれを叩きつけて狼妖の胴を強く地に打ち付けます。獣の身体が激しく地面に弾み、仲間の肉体を掴み上げたエバーが脈打つ肉のかたまりを大顎に投げつけると咆哮と悲鳴が樹間に響きます。

「大顎さん!」

 気を取られた瞬間、エバーたちが一斉に囲いを狭めると華奢な少女を押し潰すべく襲い掛かります。一瞬血の気の引いた顔で、慌てて跳ぼうとした麗は肉のかたまりに足を取られると転倒して、祭儀に着ていた巫女の装束が汚らわしい血肉に浸されました。下卑た笑みを浮かべた無様な化け物たちが少女の身体にまたがると、唾液を滴らせて叫びます。

「よくもォ、好き放題やってくれたねェ!」
「寄らないでよ!この(表記不可能)野郎ぉー!」

 倒れたまま突き上げた太刀が目の前の異形に深々と刺さりますが、少女の細い手足を別の腕が掴むと完全に身動きが取れなくなったところでもう一本の太刀も奪われます。どろりとした不快な感触が麗の細い腕や腰を捕えて心の底から恐怖と悲鳴がわきあがった瞬間、桜の林に響いた叫びは勇ましい騎兵隊の号砲でした。

「妾の庭で狼藉千万許すまじ!死して屍拾うものなァーし!」

 大力で投げられた折りたたみ机がフリスビーのように飛来すると、異形の化け物に突き刺さって周囲に破片が砕け散ります。片手に六尺棍を担いだネイ・リファールが幾人もの部員を引き連れて現れると無礼な襲撃者と教え子の間に立ちはだかりました。麗を捕えていたエバーを六尺棍の一撃で沈めると、未だ周囲を囲う異形の姿に不機嫌そうに口元を歪めます。

「噂のコピーゲーはいないのか。ストレス発散に潰してやろうと思ったのにな」
「酷いこといいマスね。コピーゲーって海賊版ゲームみたいじゃないデスか」
「なんだオリジナルブリ公、荒事でもそうでなくても貴様の出る幕はあるまい」
「いやもう蛇の道は蛇と申しマシてね」

 倒れていた麗や大顎を介抱させながら、ネイの傍らに現れたラインバーグは一冊のファイルを手にしています。ことさらに見せびらかせるようにして開いたそれは英国人教師が彼の人脈と情報網を通じて手に入れていたスニール会に入会した者たちの記録であり、エバーに入信した者たちの名簿でした。彼らに共通しているのは一様に中流から上の資産を持つ世帯に生まれて相応の教育を受けていること、出身は別にして皆が都市圏で暮らしていること、アルバイトであれ倶楽部活動であれ委員会活動であれ、組織的な活動に従事した経験がないか極めて少ないこと、それから・・・。

「いやいやいやいやみんな大変な人生デスねえ」

 皮肉な口調のままでラインバーグが幾人かの名前を読み上げると、その中に知っている名があったのかエバーたちの間に動揺が走ります。人を超越した者たちは自分が人であったときの正体を知られることを酷く嫌い、それがどれほど俗な出来事で余人にはつまらない理由であったとしても、当人だけが持つコンプレックスは彼らにとっての逆鱗なのです。触れられれば逆上し、突かれれば即座に命を失うような。

「大久保春樹くん、コンビニ店員三日目で出勤拒否。佐藤浩太くん、ゼミの出席日数二年間で十二日。中野一臣くん、就活拒否して四年間実家暮らし。五島一之くん、購買副部長に指名された翌日からバックレ・・・僕はこんな場所にいる人じゃナイ、僕はもっと凄いコトができるのにって訳デスか。結構な話デスね、じゃあすぐにでもその凄いコトやればいいのに」

 辛らつな言葉と表情は教師を逸脱したものだったでしょう。それは教師の説教ではなくただの暴言でしたから。

「人生こんな筈じゃないとかフーリッシュなこと考えてると、おだてられた挙げ句に悪いオトナに騙されちゃうんデス。なんで人を超越したエバーがうら若い娘さんを集団で囲わないといけないんデスか?あんたらは弱っちいザコ戦闘員、五分の魂もない一寸の虫なんデスよ」
「黙れェ!黙ってくれよォ!」

 動揺する、かつてはエバーであった引きこもりの群れが逆上すると異形の拳を振り上げますが、もとより彼らには率先して人に殴りかかるほどの気概はありません。エバーという人を超越する集団の一部となっていたことと取り除かれた痛覚によって忘れていた、自分が傷つくことへの恐怖が彼らを無様なかたまりへと変容させていました。他者に勝る存在であるという錯覚だけが彼らの存在する意味であったエバーは自らの優位性が否定されることに耐えられないのです。無様に動き出したところで振り回される六尺棍にたちまち潰されてしまうと、周囲はすぐに鎮まって静謐が訪れました。ネイは助け起こされていた麗に近寄ると何の気を使うそぶりもなく、いつもの無遠慮さで肩を叩きます。

「さっさと立たんか八神。日はとっくに暮れとるが夜が明けてしまうぞ」
「先生、ありがとう・・・怖かったあ」

 気丈に見せながらも、やはり不安と恐怖は耐えがたかったのでしょう。麗は常の彼女には珍しくネイに抱き付くと頭を伏せて弱々しい声を上げました。当惑しながらネイが少女の身を抱えていると、その傍にコノハナノサクヤヒメノミコトが姿を現します。星条旗以外の神様に対して遠慮がない米国人教師はいつものぞんざいな様子で、フランクな声をかけました。

「サクヤではないか。お前の巫女さんが襲われとったのに今頃現れてどうする」
「すみません。これだけ霊域が汚されると私も影響を受けますので・・・」
「ふん、神様というのも不便なものだ」

 神様の謝罪を受けて動じないあたりがネイの大物たる所以でしたが、その彼女を背筋を唐突に冷たい、異様な感覚が貫きます。それはネイだけではなく麗や周囲にいたラインバーグたち、汝鳥全域にも等しく感じられていました。思わず周囲に首を巡らせてから、その中で一人穏やかな顔で立つコノハナノサクヤヒメノミコトに顔を向けたのはネイでした。

「何だ?今のは」
「そろそろ準備をしましょう。大厄は復活しますよ」
「どういうことだ、封印はたったいま守られたではないか!」

 汝鳥で同時に起こっていた襲撃は三箇所、汝鳥神社と浅間神社にそして中央の封印そのものに対してです。東南の汝鳥神社には地蜘蛛衆が赴き、西北の浅間神社にはエバーが差し向けられていました。そして中央には地蜘蛛の首領である妖の女、魅呪姫が自ら率いる地蜘蛛の兵士たちが姿を現します。決戦のつもりでいるのかもしれないが、市井のバスターを含む多勢が集まっているこの場所に直接押し寄せてきたことに誰もが驚きを隠せず、彼らの言葉を代弁したのは龍波輝充郎でした。

「まさかここまで兵を出して来るとはな。お前さんたちの気概は大したもんだが、大厄はそこまでして解き放つ存在なのかよ?それとも地蜘蛛の頭領として戦うのに大厄が必要なのか?人の世を変えてまで妖のために戦う、そいつは人の所業と何も違わないじゃねーか」

 自らが人と鬼の双方の血を引く輝充郎は、世界を変えるよりも必然のバランスを保つべきであろうと考えます。妖とは人の心と自然の畏敬から生まれた存在であり、人が自然を省みないように自然も人を慮ることはありません。であれば神仏妖魔とは人と自然の橋渡しをするべき存在であって、時に世界を住み分けて時に手を携える助けを為す存在である筈です。
 高槻春菜のように世界の住み分けを主張する者がいる、冬真吹雪のように手を携える心を示す者がいる、ごくまれには、トウカのように人が自ら自然や妖に手を伸ばすこともある。その姿を輝充郎は知っており、彼の思いは後輩たちと変わるところはありません。その彼らが互いに争うことを誰よりも気に病んでいたのは、自身が妖である輝充郎なのですから。

「俺はメイヤに暮らしている。人と妖が暮らす世界であれば、白でもなく黒でもない曖昧な場所はどうしたって必要だからな。この世界は人の世界で、妖の世界も存在する。だが人の世でなければ生きられない妖はどうすればいい?そして妖に親しい人だっている、それでいいじゃねーか」

 一歩を前に踏み出す輝充郎の言葉を、メイヤを守る妖としての言葉を傍らに立っていた吹雪は初めて聞きました。輝充郎の主張はむしろ春菜のそれに近く、以前の吹雪であれば諦観にも聞こえる言葉に反発していたかもしれません。ですがそれが諦めではなく、見守ろうとする意思であることを吹雪は知っています。そして春菜が境界を侵すものを裁いていたように、輝充郎は境界をさまようものを受け入れる場所を設けている。メイヤを守ろうとした吹雪は輝充郎と等しく春菜と等しい、彼らの目指す道は異なってはいないのです。ですが地蜘蛛を率いる魅呪姫には彼女の論理があり、輝充郎の言葉に納得できるのであれば彼女はここに立ってはいません。

「ふん。立派なことを言うがそれも結局は人間の論理か、人間に遠慮する妖の論理でしかない。今は人の世界、確かにその通りじゃ。だがその世界を作ったのは人であり、かつては今ほどに人が横暴を効かせぬ世界があったことを知っておろう。奴らが文明と呼ぶ世界よりも、蛮人と蔑む者たちが暮らしていた世界の方が自然も妖も共に暮らしていた。妾は人を滅ぼそうとしているのではない、行き過ぎた人を後退させようとしているだけじゃ」
「そのためにエバーとかいう連中と手を組んでもか?」
「冗談を言うな。妾たちは目的と理想のために戦う、あのような醜い混沌はただの道具に過ぎん」

 言いながら、魅呪姫は輝充郎の甘さだけではなく自分の甘さにも気が付いています。人を滅ぼすのであればもっとよい方法は幾らでもある、だが人を後退させるのであればより世界は正しい姿に近付く。人が利便を捨てて狩りと農牧に生きるように戻れば妖は今ほど人にはばかることもなくなるのです。八百万の国においては地蜘蛛ですら本来は土地神であり、それを排斥した人の世界を押し戻そうとすることには魅呪姫は罪悪感を感じていません。

「どうした皇牙、貴様の武器はその舌か?語る言葉があれば拳で語るがよかろう。もっとも、すべてはとうに手遅れだがな!」

 魅呪姫の言葉に挑発と自信が含まれていることに輝充郎は気が付きます。覚醒した鬼の力、轟雷鬼神・皇牙の力を魅呪姫は知っていましたし時をおけば暴走する、その弱点が今は無くなっていることも知っている筈でした。ですが彼女の狙いはそこにはありません。

「封印はすでに揺らいでいる。この世界の秩序は人間の秩序、それを破壊するは我らが悲願じゃ。虐げられた地蜘蛛のために、人の世界を壊さぬ限り妖の世界は訪れぬ。そして封印を揺るがすにはどうすればいいと思う?」
「・・・まさか!?」

 地蜘蛛の頭領の言葉を聞いて最悪の可能性に思い至った、輝充郎の表情が変わります。魅呪姫の笑みは今では勝利を確信した嘲弄に変わっていました。

「そうじゃ。大厄は世界を律するただ一つの融和、であればそれを乱す行為こそが大厄を呼び起こす。だから妾たちは四方で争いを起こした、先の音無山もそうであり汝鳥神社に浅間神社、そして最後にここ。争いそのものが封印を解放するのじゃ!」
「畜生!そういう魂胆かよ!」
「だがお前たちにはどうすることもできぬよ、まさか無抵抗で弄られる訳にもいくまい」

 絶望的な状況で、大厄の封印を解くための争いが始まろうとしています。輝充郎は拳を構え、後ろにいた吹雪は大太刀を抜き、智巳も霊刀を構えました。

「世界には避けられぬ争いがあるのだ。人の世界に抗う妖の戦いのようにな!」

 振り上げた手に続いて、一斉に遅いかかる地蜘蛛の兵士たちを妖怪バスターたちは迎え撃ちます。振るわれる刃が異形を切り伏せ、唱えられる術が異形を弾く。統率されていても能力に劣る地蜘蛛衆に対して妖怪バスターはこれを圧倒することができますが、彼らのその行為が封印を解くというのです。

(だが、何かが妙だ。すべてが仕組まれていたとしても、それはこいつらの台本じゃない)

 戦い、切り伏せながらも吹雪は言いようのない違和感を感じています。人の世界を壊さぬ限り妖の世界は訪れぬと彼女は言っていた、では大厄とは人にとってだけの大厄であるというのか。そんな都合のいい大厄があるだろうか。どこぞの大工の息子が自称する神様であればまだしも、神とは存在する意味であって人はそれを認識しているだけに過ぎない。尊は神であり、神と妖の最大の違いはそこにある。妖とは人が認識したことによって生まれる存在の意味であり、神は存在する意味を人が認識したものだ。意味を認識するのが人であるから、認識された神様は人に親しい姿で現れるし、恐ろしい存在であれば恐ろしげな外見になる。だが神様は本来、人の存在も妖の存在も気にはしていない。獣が暮らそうが木が茂ろうが山は山であるかのように。
 尊は世界を律するただ一つ、尊の中ですべては等しいとある。おそらく大厄は人と妖を区別することなどしないだろう。それを地蜘蛛は考えているのか。ですがすべては手遅れであり、吹雪は太刀を振りながら大厄の解放を待つしかありません。世界を律するただ一つの融和。

 打ち付けられる拳と振り回される刃、むき出しの牙と爪、鳴り響く悲鳴と怒号。修羅の争いこそが対立する世界の現実であって絶望する汝鳥の騒乱でした。騒乱が融和を望む心を生み出せばその意味に従って封じられた世界は汝鳥に姿を表すことになるでしょう。大厄はそれを望む者たちによって解き放たれなければなりません。
 絶望の中でぱきん、という水晶が砕けるような音がどこかで響き渡ると、吹雪の身体を冷たい異様な感覚が貫きます。供馬尊が解き放たれる、一見して世界に何も変わりはなく周囲は穏やかな静寂で満たされていました。


 どこか、奇妙な静けさが世界を支配しています。先ほどまで自分たちが剣撃を繰り返していたことを吹雪は思い出すと戦いはどうなったのか、地蜘蛛はどうしたのか、そして仲間たちはどこにいるのかと自分に問いました。ですがあらためて広げた視界の中で、彼らは吹雪と同様にごく当然のように立っていて、一様にどこか当惑したような表情を浮かべています。何かが起きた筈なのに何も変わっていない、ただ一つ変わっていたのは、いつの間にか彼らの中心に立っていた一人の小柄な姿でした。古式の装束に身を包んだ、中性的な子供めいた外見をしたそれは皆が凝視する中で、何をしようともせずただ穏やかに微笑んでいるだけです。だが何かがおかしい。地蜘蛛の兵たちも突然の闖入者に争いを止めているが、皆がどこか呆然としてそれに目を向けています。

「・・・ちょっと大介さま、目が覚めた?」
「あん?なんだよキツネ、もうメシか」

 どのくらい気を失っていたのか、間の抜けた返答に慌てて飛び起きた朝霞大介は異様な雰囲気を感じて、異様な感覚が漂う汝鳥の中心部に目を向けるとそこには奇妙な力が集まっている様子が感じられます。それを凝視している多賀野瑠璃も何が起きたかを理解しているようであり、七月恋花はやれやれという様子で眉をしかめていました。

「どうやら出ちゃったわね。瑠璃さまや大介さまが戻るまで間に合うと思ってたんだけど、まあサクヤも私もそのつもりだったしいいか」
「どういうことだよキツネ。いい加減お前らの知ってることを今すぐここでハッキリと具体的に言え」
「んーもう、せっかちさんねえ」

 すべてを承知していたとでも言いたげな稲荷神の言葉を大介が咎めますが、恋花には気にする風はありません。

「ご察しの通り、供馬尊の封印は解かれなければならないのよ。それは世界に対する問いかけだから。音無の神は消えてしまったし、忘れられた七月宮や放置されていたサクヤヒメにはその資格があるわ。神様は人に問おうとしているの。とにかく、封印の場所に向かいましょ」

 同じ頃、浅間神社でも感じられる異様な力に麗たちが目を向けています。汝鳥の中心に解き放たれる大厄、彼女たちの疑問に答えたのはコノハナノサクヤヒメノミコトでした。

「供馬尊は古くからある神の一つです。私や七月宮と大きく変わるところはありません」
「では、それがどうして大厄と呼ばれて封印されなければならなかったのですか?」

 ようやく落ち着きを取り戻していた麗の問いに、桜の神は一度閉じた目を開いててから、優しげな微笑みを返します。

「古い古い話をしましょう。この国がまだ国というかたまりではなく、世に妖々たるものが跋扈して今よりも人とそうでないモノたちとが近しく、天と地と海がまだ分かれてはいなかった時代のことです」

 それは人がすでに忘れてしまった話です。桜の神の言葉に人は耳を傾けました。

「今は遠い遠い海の向こうで、互いに争い傷つけ合う二つの火がありました。それは遂に砕け散ると一方は世に散らばって一方は海に沈みます。散らばった火は世に争いと、争いを嫌う思いを残すとそれは意味となって今の世にも存在しています」

 その語りに一人の少年と一人の少女の姿を思い浮かべた者は幾人かいたでしょう。一つ息をついて、コノハナノサクヤヒメノミコトは語を継ぎます。

「長い時が過ぎました。海に沈んでいた側の火がこの国の海岸に打ち上げられると、それを人が見つけ出したのです。竜の安宮から流れ着いたと思われた火は幾つもの伝承を人に与えましたが、人はその火に名前を与えてしまいました。それが供馬尊、供馬は伝達と融和の意味であり、互いに伝えて和すというその名が世に争いとそれを嫌う思いを残した火に対立する火に与えられたことは必然だったのかもしれません。大厄の正体は争いではなくて融和。ですが、融和が人に禍いをもたらすこともあるのです」
「融和による禍い・・・?」
「今、七月宮の声が聞こえました。私も私の子らにそれを問いましょう」

 麗の問いには答えず、桜の神は解き放たれた災厄のある方角を向きました。そこは汝鳥の中心、供馬尊が封じられていた大厄の中心です。

 周囲は奇妙な静けさに支配されたままであり、その中央には小柄な子供めいた姿が立っていました。それが供馬尊であることを誰もが理解していましたが、ただ穏やかに微笑むだけの姿からは大厄を連想できるようなものは何もありません。先ほどまでの喧騒が嘘であったかのように平穏と静謐が世界を支配しており、風すらも流れを止めたように思えます。静かすぎる、と最初に感じたのは黒髪を後ろに一本縛った少年でした。手に握る大太刀に力を込めなおすと、愛用の太刀がどこか重く奇妙な感覚を覚えます。自分だけではない、周囲に目を向ければそこに立つものたちも同様の感覚を抱いていることが吹雪には理解できました。一様に戦いを止めて呆然と立つ姿に、少年の中で違和感が急速に不安へと変質して肥大します。何故皆が一斉に戦いを収めているのか、大厄が現れたというだけで、武器を持つ手を止めることができるものだろうか。
 その問いに、不意に映し出された真実が懐にしのばせた鏡の力であったのかどうかは分かりません。もしもこれこそが供馬尊の力であるとしたら。尊は世界を律するただ一つの融和、あらゆる諍いを収め、あらゆる営みを収める。目の前の子供ではなく、彼らが立つ場所が供馬尊でありそこではあらゆる諍いもあらゆる営みも収められて、ただ一つの融和によって支配されるのです。あらゆる存在から意味が失われつつある世界の中で、供馬尊が紡ぐ言葉はその表情に相応しい穏やかで心地よい旋律でした。

「供馬尊は解き放たれた。もう誰も争う必要はない。僕が世界になれば、世界からすべての争いは無くなるんだ」

 その言葉があまりに穏やかで心が休まることに、吹雪はより強烈な不安を感じます。

「僕の中であらゆる存在は止まる。人や妖だけじゃない、獣は何を殺す必要も食べる必要もなくなる。世界の中では時間も成長も変化も失われる。成長は欲望であり、欲望は争いを引き起こす醜い心だ。そして変化は災厄でしかない。僕はそれを取り除くことができる。君たちは供馬尊に祈る必要すらない。穏やかな心で死ぬことも消えることもなく、ただ存在を続けることができる。結晶化が始まるんだ」

 世界からは急速に色が失われて、その中で自分を含む数人の者だけが未だ色を残していることに吹雪は安堵しながらも戦慄します。これが供馬尊の力であり、その主張を受け入れた者は意味を失うことによって世界と同化する。成長もなく、変化もなく、ただ存在するだけで人は苦しむ必要からも、思い悩む理由からも解放されるのです。争いと争いを嫌う思いを否定する、供馬尊の言う結晶と化した存在は人であれ物であれ奇妙に実感が失われて、灰色がかった無彩の世界では足下に広がる地面ですら頼りないものに感じられました。

「柚木先輩ー!」

 空気を裂く、智巳の声に吹雪は首を巡らせます。誰もが信じられぬ、視線の先では塔子の足先から色が失われつつありその事実に本人すら驚愕の表情を現していました。彼女の知性と、幼い頃に失われてしまった本来あるべき力が彼女自身を絶望させようとしており、自分で認めていた筈の自分の弱さを知らされることに塔子は耐えることができません。供馬尊の世界はその塔子の弱さを救う、そして人は束縛や抑圧にではなく、解放と自由にこそ耐えることが難しいのです。

「さぞかし無念だったことだろうね。君は本来、それだけの力を持った術士だというのに」
「私は!そのような・・・」
「争いがなくなれば、君は自分の失った力を嘆く必要はなくなるんだ」

 その時、吹雪や智巳は供馬尊がなぜ大厄と呼ばれる存在であるかを心から理解します。塔子は常の彼女ではありえないほどに追い詰められており、必至に耐えながらも自らの弱さを否定できない知性と理性こそがその足下に底なしの穴を開けていました。吹雪は無言で大太刀を抜いて身を沈めると俊速で大厄に向かって飛び、その動きに一瞬遅れて智巳や輝充郎もその意図を理解します。守るべき者を守るために戦わなければならないということ、そのためには戦いを否定するものを相手に武器を振るう必要がありました。
 迷いのない踏み込みで、吹雪が一の太刀を切り込むべく供馬尊への間合いを詰めます。自分たちが道を拓くと言った、その後ろに続く力を信じて少年の意思が伸びますが、大厄の中心はその穏やかな顔に小波ほどの動揺すら見せることはありません。世界を律するという供馬尊の力がどれほどのものか、大太刀を振るう吹雪の青みがかった瞳の裏に、危険を知らせる強烈な警告が閃きます。

「何か・・・やばいッ!」

 全力の踏み込みを止める、全身の筋肉が悲鳴を上げると同時に吹雪自身の腕からもう一本の腕が生えると、彼の大太刀を手に自らを貫きます。刃は左の肩口から肋に、正確に打ち込まれて肉を裂き骨を打ちますが寸でで止められた刃は致命にならず、痛みを覚える前に吹雪は太刀を引くとすぐに斬られた自分の身体が動くことを確かめます。赤い流れが胸から腰を伝って左の半身を覆いました。

「冬真君!」
「吹雪ィ!」
「大した傷じゃねーよ!それより剣を止めろ、こいつはやばいぜ!」

 その言葉に輝充郎の拳も智巳の備前長船も踏み込む動きを止めます。あらゆる諍いを収めるという供馬尊の力、争う力が自らを討つその力を見せられてもなお、吹雪は自分が一手目であったことに安堵していました。輝充郎であればともかく、いまだ技の及ばぬ智巳であれば打ち出した剣を自分で止めるなど不可能事だったでしょう。長く斬られたために傷こそ大きいものの、見た目ほどに深くはなく動きの妨げにもなってはいません。自らの手で自らを傷つける、愚か者を前にして供馬尊はあいかわらず穏やかな笑みを崩すことがなく、それこそ大厄に相応しく禍々しい笑みに見えました。

「この世界は僕自身だ。僕はどこにでもいるし、どこにもいない。僕は君たちと一つだからね」
「力持つものの驕りは大したもんだ、神様となればとやはり違うという訳か」

 悪態をつきながらも、最悪の状況の中で吹雪はなおも大厄の言葉に聞く耳を持っていません。すべてを捨てることによってのみ安寧が訪れるのであれば、俺たちは何故争ってきたというのか。そんな筈がない、こんな存在が認められていい筈がない。変わることのない世界の中で、聞き分けのない子供たちを諭すかのように供馬尊の声が流れます。

「君にも分かっているんだろう?僕を媒介して人と妖は交じり合うことができる、それは君が望んだ世界でもある筈だ」
「今度は俺を懐柔しようって訳かい?生憎こちとら性根の腐りっぷりは筋金入りでね」
「韜晦しても僕には君が理解できるよ。醜い菩薩は己の血を流す修羅のために戦おうというんだね」

 成る程世界が融和する一つの世界であれば、その心などすべて知れているという訳か。太い眉を不快そうに歪める吹雪の様子に、供馬尊の表情がわずかに変わりました。本来、心を覗かれることに耐えられる人間はいない。ですが最も真実を知られることを望んでいなかったであろう少女の姿を見た吹雪にとって、自分の心が晒される恥辱などどれほどのものであったでしょうか。彼女の姿を暴かれる恐怖に比べれば、ここにいるのが己の醜さを知っている菩薩であって良かったと心の底から吹雪は考えます。
 脅威はある、だが大厄を恐れもしなければ融和する世界に平然と抗う少年の心に不快な思考が流れ込みました。それが供馬尊の思考であり、自分の心が暴かれるのであれば相手の心も晒されていることに吹雪は気が付きます。何かがおかしい、何かが変わってきている。その間にも、供馬尊の言葉は愚かしく卑俗な少年の心に問いかけることを止めようとはしません。

「君は人よりも多くを見ることができる、だから僕を倒す術が何一つないことも分かっている。そして時が経てばやがて皆が僕と一つになり安寧の世界に融和することも知っている。それなのに何故僕を受け入れようとはしないんだい?世界が融和すれば他者を省みない善性を持つ少女の無知や、血を流しながら悪業を続ける少女の愚かさを見る必要もなくなるというのに」

「!」

 その言葉に、吹雪の中で殺意にすら近い衝動が沸き上がりますが、視界の隅に見えたトウカの姿に一瞬して正気が戻ります。金髪碧眼の小柄な少女、妖の手を自然に取ることができる少女は吹雪が見たことのない感情をその人形のように繊細な表に浮かべていました。それは嫌悪と哀れみを秘めた表情であり、迷わずに妖の手を取る少女は供馬尊の存在を否定したのです。

「貴方は、とても寂しい方ですのね。誰の手も取ろうとしないのに、人の心は覗くんですの?」

 トウカの掲げる灯火は決して嘘をつかない、そのことを吹雪は知っています。トウカの言葉は供馬尊の真実を見透かしており、それは哀れなほどの矛盾を秘めた姿でした。世界の融和を解く、美しい理想の衣をまとう大厄の正体は誰の手を取ることもできぬ孤独な存在でしかない。供馬尊の世界は供馬尊の中でしか通用せず、誰とも諍いを起こすことがない供馬尊は誰とも親しくはないのです。

(・・・さすがだよ、お嬢)

 吹雪は気が付いています。融和する供馬尊の世界を自分は拒むことができましたが、トウカはまったくその影響すら受けていません。彼女の守りを頼むなどとんでもない思い上がりであった、トウカを傷つけることは大厄にすらできはしないのだから。彼女の純粋さ、優しさは脆くもなければ弱く儚いものでもないのです。
 その矛盾を知ることができる、彼らを囲っているこの世界は決して汝鳥のすべてを支配している訳ではありません。供馬尊に取り込まれたものは結晶化するまで完全な存在となってはおらず、つまり供馬尊の世界は不完全でそれを理想に近付けるために融和する。であれば不完全なこの世界には限界があって、その限界が外に接する境界が必ず存在する筈でした。雲外鏡の叡智とそれを持つ少年の理性がめまぐるしく回転しながら、謎を解く鍵の存在を浮かび上がらせます。

「鷲塚、鷲塚ぁ!考えろよ、お前さんの家に伝わっていた口伝だぜ?」
「は、はい!?」

 吹雪は智巳の名を呼ぶと大厄と備前長船にまつわるごく僅かな伝承を思い返しています。其は供馬尊、世界を律するただ一つの融和。大厄の名をなぜ並べ替える必要があったのか、何故双子の名に鍵を託したなどと言わなければならなかったのか。

「鍵、鍵とは扉を開けるためのものだ。開けるためには閉じられたモノが存在する」
「供馬尊の世界、それを開くには鍵を用いなければならない?」
「そうだ。そして口伝が大厄の名を伝えるためではなかったとしたら」
「備前長船は僕と真琴の二人に渡された、それが鍵であって開くべきものはこの世界だよね」
「そして世界には外がある、そこにいるのは誰だ」
「まさか、備前長船の本当の力って・・・僕たち、が世界を開く道具としての霊刀!」

 備前長船は妖を斬るものでも神を斬るものでもなく、内と外がある供馬尊の世界を開くための刀。そして開かれた世界を繋ぐには絆が必要であり、だからこそ刀は双子に奉納されなければならなかったのです。世界を斬る力はただ使うだけではなく、世界の内と外を通じる絆を持つ者が用いなければならない、だから双子の絆があれば備前長船が使えると思ったのでしょう。世界の外にある者と、世界の内にいる者が互いの絆を、縁を繋ぐために力を用いた時、供馬尊の世界は崩壊する。つまり備前長船でなくてもいいし双子でなくてもいい、ですが力と縁の双方が揃っていなければ世界を開くことはできないのです。
 吹雪の呼びかけに智巳は彼らが手にしている力を思います。世界の外にはネイが持っている白河塗りの六尺棍と朱陽が手にする神木の太刀があり、供馬尊の内では智巳に渡された備前長船、そして吹雪が持つ春菜の錫杖がありました。その彼らの持つ縁が、絆が世界を超えた時に供馬尊は崩壊するでしょう。不完全な世界は未だ閉じられてはおらず、少年たちの思いは境界を超えて彼らが守るべきものの姿を浮かび上がらせました。

 汝鳥の外れにある閑静な病院、その一室で高槻春菜や鴉鳥真琴は大厄に挑む少年たちの帰りを待っています。ようやく目を覚ましていた春菜の、すべての事情を知ったその表情には悔いもなく少しやつれた顔を枕に預けていました。傍らに座っている真琴はそれまでもそうであったように、寝台に身を横たえた少女の世話を続けています。
 もう無理をするな、春菜は誰かにそう言ってもらうことを心のどこかでずっと望んでいました。目を覚ました春菜の傍らに、その言葉を残してくれた少年がいないことに彼女は小さな落胆と不安を覚えながらも、いたらいたでどのような態度を取ればいいか決めかねたことでしょう。少女が流した血は消えず、その手は戦いを握ることしか知らぬ。それが春菜の犯し続けた業でしたから。

「でも、誰かがやらないといけないことがあるのに・・・」

 決して落ちることのない血に汚れた手、ゆっくりと顔を横に向けた春菜の脳裏に一瞬、汝鳥に住まう神性の声が響きます。解き放たれた大厄の世界とそれを破る絆の存在、汝鳥の少女は彼女たちに送られる言葉を耳にしました。大厄の外にある者と、内にいる者が互いの絆を、縁を繋ぐために力を用いた時、供馬尊の世界は崩壊する。その世界に囚われた者たちを呼ぶ声によって、彼らを導くことが縁ある者たちの役目であると。コノハナノサクヤヒメノミコトが告げる声は、春菜だけではなく真琴や他の者たちにも届いています。

「ごめんね春菜ちゃん・・・私、行かないといけないみたいです」

 その声は真琴と智巳の絆を呼ぶ声。少女は大厄を解く鍵の一つになることができる者であり、彼女もまた妖怪バスター予備軍の者なのです。もしも真琴が生まれながらに与えられた鍵を用いるべく告げられたのであれば、彼女はそれを拒んだかもしれません。彼女が生まれてから紡いでいた絆が大厄を開く鍵であれば、それは幼い頃より身体が弱く人に助けられていた少女が人を救う力を得た証明でした。人は運命ではなく誇りによって危難に対して意味を持つ、役割とは与えられた結果ではなく行動と経験で得るものなのです。
 病室の寝台に横たわる少女に慈しむような顔を向けて、清爽な黒髪の少女は腰を浮かせました。友人の真意を理解した春菜は慌てて寝台から身を浮かせようとすると、それだけの事に少ない体力のすべてを費やすかのように力を使いながら半身を起こします。少女の意思とそれを実現する力は驚嘆すべきものであり、臥せていた少女が身を起こすことができるようになった事実は喜ばしいことでもありましたが、真琴は厳しく咎めるでもなく哀れむでもなくただ静かな目で友人を見つめていました。今の自分にその力がないことを、誰よりも春菜自身が身を裂かれるほど痛切に感じているでしょう。静かな、静かな声が病室の壁に響きます。

「春菜ちゃん。春菜ちゃんがそんなことをしたら、とても哀しむ人がいますよね」

 無言のまま自分の小さな手を強く握りしめて俯いている、友人に真琴は白い手を伸ばして一度、頭を撫でるように垂れた髪を直します。その行為に春菜は気を悪くするでしょうが、それでも彼女の強さがそれを耐えさせてくれるであろうことに真琴は傷ましさを覚え、友人が流せぬ涙の代わりに少女の頬を一筋の流れが伝いました。ああ、そうだ。誰かがこの娘に伝えてあげなければいけない、でもそれは自分が言うべき言葉じゃない。真琴はそれを伝えてくれる人を呼び戻すために、封印の地へ赴かなければならないのです。
 しばらくの時が流れてから、ようやく意を決したように顔を上げた春菜に真琴は自分以上の決意の色を見てとると、友人の身を改めて寝台に寝かせます。春菜もそれに逆らおうとはせずにシーツをかけられると、少し疲れたように首を巡らせて病室の隅に控えていたみなとそらに視線を向けました。

「みなと先生、真琴を助けてください。私、行けないから」
「いいけど、私じゃ何もできないよ?」

 そう言いながら黒髪の養護教諭は脇にかけてあったコートを羽織ると、手近に置いていたバッグを担ぎます。暗闇の試練に立ち向かう友人たちに向けて自分はそれを送り出すことしかできぬ、それがただ待っている者をどれほど傷つけることでしょうか。それでも人は発ち険しい頂きを超えようとするのであれば、待つ者は鳥の帰りを待ち己が翼を嘆くしかありません。
 春菜に訪れる葛藤こそが誰よりも苦難の戦いであることを知っている、少女は友人への思いを振り払うことなくそれを胸中に抱いたまま彼の地へと向かいます。扉を閉める、その音に流れ落ちそうになる雫を懸命に堪えながら真琴は静かな足取りで病室を後にしました。
他のお話を聞く