ぱられるわーるど.十二(後)


 封印に向かう道を小走りに駆けながら、多賀野瑠璃と朝霞大介は七月宮稲荷の話を聞いています。息が切れなかったのは彼らの日頃の鍛錬や神のご加護のおかげであったという以上に、小さな七月恋花を連れてはさほど速く走れなかったという事情もあったでしょう。

「そういうことだったんですか」
「まったく、神様なんて面倒な連中だ」

 その神に囲われながら悪態をついている大介に笑いながら、稲荷は汝鳥の思惑を語ります。遠い昔、この国に打ち上げられた「蛭子」と記されているかたまりに人は「ともに和してまことのつながりをもつもの」として供馬尊の名を与えました。ですが融和をもたらす供馬尊は、争いを憎み諍いを嫌う存在として、人であれ妖であれその営みを止めてしまうことを望んでしまったのです。人は供馬尊から名を奪うとそれを東汝鳥に封じてしまい、奪った名は京都汝鳥に残すことで双方を分けてしまいました。名前を奪ったその場所はなとりと名付けられて、封じられた大厄を納める地となったのです。
 時が経ち、人は人の営みの中で供馬尊を忘れてしまい、社や祠は放置されて荒れるばかりでした。そんな人の営みの中でも争いと争いを憎む思いだけは忘れられることがなく、人は相変わらず諍いを起こしてはそれを収めることを繰り返しています。そんな折り、人はとうとう東北の祠、音無を自らの手で汚してしまいました。西北の浅間神社は寂れて西南の七月宮の祠も忘れられた、汝鳥の現状に疑念を抱き繰り返される争いと諍いを嘆いていた人は残された供馬尊の伝承を見い出します。今から五十年ほども前、大厄にもう一度名前を与えたのもまた人の所行でした。

「その時は汝鳥の人たちが解き放たれようとする大厄を封じた。でも解き放とうとしたということはそれに意味を与えたということ、供馬尊は名前を取り戻したのよ。それで汝鳥は人に問うことにしたの。世に散らばった争いと諍いを望むか、それともかつて封じた融和を望むのか」
「なるほどね。つまりカンニングできねーように大厄の伝承は隠されたのか」
「ご名答」

 名前を取り戻した供馬尊はいずれ解き放たれる。その世界は絆を持つものの意思だけが超えることができて、力持つものだけがそれを破ることができる。供馬尊の融和を否定するのであれば人はそれに抗わねばなりませんが、絆とは縁であって計算して作ることができるものではありません。大厄に対するために他者との強い絆を作りなさい、だから仲良くしなさいと言われて人が人と向き合える筈がないのです。打算に依らぬ思いが供馬尊の世界を超えたとき、大厄はその力を失うでしょう。

「私だって大厄の正体は気に入らないしね。私が天乃原の祠に残って瑠璃さまや大介さまが封印に対していれば、そんだけで供馬尊の世界は破れるかなと思ってたのよ。もちろん神木様やサクヤも同じで、それを祀る人の縁があればそれは可能になる。人に問うとはそういうことだったの」

 そう言って、七月宮稲荷はうっかりしていたとばかりに苦笑します。

「でも瑠璃さまや大介さまは天乃原に来たでしょ?だからこの娘が供馬尊の世界に残っていれば、大介様とこの娘の絆で同じことができると思ったの。それを破る力だったら私も持ってるしね。でもこの娘、大介様についてこっちに来ちゃうんだもん。大介さまについて来た方がいい、じゃないでしょ。あれだけ言っといたのに・・・」
「す、すみませんですじゃー」

 叱られて小さくなっている小さな恋花に、大介はお前のせいじゃねーよと走りながら器用に頭をなでると、それでも呆れたように稲荷に目を向けました。

「ようするに、キツネの計画はぜんぶ水の泡ってことだな」
「そのとおりー」
「笑いごとじゃねえ。イライラするが何とかしてやろうや」

 その彼らの視界に色を失って歪む汝鳥の地、供馬尊の世界が入ります。この境を超える人の縁を、絆を試すことが汝鳥が人に与えた試練でした。力ある者も、満身創痍な者も、次々と周囲に集まると彼らが祀る力を背に大厄へと向かいます。強い絆があれば、縁があれば供馬尊の世界を破ることができるかもしれないと。

 皆が駆けつける、大厄の内では供馬尊の世界が安定を続けており、揺れていた水面が波ひとつない平坦な鏡と化していくように不愉快な静寂が広がりつつあります。安楽に対する抵抗を止めたときに人であれ妖であれ、存在する意味を失うと結晶化が始まって世界に同化する。争いも諍いもなく、変化も成長もなくただ存在するだけの融和が供馬尊の世界でした。大厄を封じようとした妖怪バスターも、それを解き放とうとした地蜘蛛たちもすでに幾人かはただ呆然と立ち尽くすだけであって、肉体の色が失われて周囲と同化した無彩の彫像となっていきます。

「嫌だ、嫌だ!私は、消えたりしない!」
「大丈夫だ!お前は俺たちに任せた、だから俺たちを信じろ!」
「ああ、そうだ。分かっているんだ。だが・・・」

 懸命に抵抗する、柚木塔子は足から半身の色が失われて動かず、その前に立つ龍波輝充郎や鷲塚智巳、冬真吹雪らの背を見ることで辛うじて自我を保ち続けています。いや、彼女を呼ぶ声を彼女が認識していることによって、塔子は自らの存在を許していました。それでも塔子の不安を、自分ではどうにもならぬ境遇を与えられた者の悲哀を輝充郎は理解しているつもりです。鬼の力を解き放ち、全身に硬質の鎧をまとっていた輝充郎が、轟雷鬼神・皇牙が拳を固く握ると憤りの叫びを上げました。

「冗談じゃねえぜ!誰がこんな腑抜けた世界を望むもんかよォ!」

 抗い続ける者はまだ供馬尊の世界に取り込まれてはいません。輝充郎や吹雪のように争いを嫌い、マンション・メイヤで妖と接していた者たちでさえも供馬尊を否定することはできました。この世界は叶わぬ理想を掲げる無知の夢でしかなく、境を超える意思とそれに応える絆があれば破ることができる筈です。

「冗談ではない!人に屈せぬ妾が神に屈する筈もないわ!」

 地蜘蛛の女である魅呪姫も叫びました。その彼女の周囲で地蜘蛛の兵にすら供馬尊に取り込まれて色を失うものが現れており、明らかに彼らも大厄の何たるかを理解していなかったのです。
 人に支配された世界から妖を解き放つ、魅呪姫はそう考えていました。だが供馬尊の世界ですべてが安定すれば皆は平等になる、彼らの目的は果たされるではないか。そう示されたとき、もともと兵卒として強い自我を持たぬ地蜘蛛はすぐに意思を失いました。数十はいた兵たちはそのことごとくが世界に融和する結晶と化しており、抵抗しているのは魅呪姫を含む数体に過ぎません。結晶化しつつあった手近な地蜘蛛を魅呪姫が殴り飛ばすと、驚くべきことにそれは彫像のように砕けました。

「このような世界に負けはせぬ!無力な地蜘蛛も邪魔な人間も家畜の平穏に浸りきったまま死ぬがよかろうよ!」

 地蜘蛛の頭領はそう叫ぶとまだ動いている数体の兵を集めます。雲霞の如く集う蜘蛛の異形がかたまりとなって魅呪姫の身体に集い、剛毛に覆われた肉が崩れて絡みつくとそれぞれが大蜘蛛の胴になり脚となって一体の巨大な蜘蛛へと変容を遂げていきます。吐き気をもよおす、八本の脚持つ巨大な異形の頂きには魅呪姫自身の肉体が生えていました。

「融和といったか!ならば妾が姿も地蜘蛛の融和じゃ!来い、皇牙ァ!」

 巨大な異形は魅呪姫自身が広げた両の腕から多量の糸を吐き出し、争いを否定する世界の内で明確な意思となって彼女の旧敵を襲います。皇牙は一歩、後ろへ跳ぶと一瞬前まで自分が立っていた場所に鬼の雷撃を落として糸を遮りました。すかさず拳を腰だめに構えて叫びながら跳ぶと、突き出した拳を大蜘蛛の脚の一本が俊速で弾きます。世界が激しく揺れる姿に、供馬尊は初めて眉を歪めました。

「敢えて僕の中で争う、君たちは愚かだよ。所詮人になれぬ鬼も、人になれぬ妖も世界の歪みが落としたできそこないでしかないのに」

 世界が完全な融和を示すために、それは排除されなければならない。その言葉に大太刀を構えていた吹雪は違和感を覚えます。無彩の世界は変容して完全を象徴する円形が生み出されると、未だ融和を否定する者たちに襲いかかりました。両手を広げたほどもある円形を皇牙の拳が弾き、吹雪の太刀が払い、智巳の霊刀が斬りますが円形は次々に生み出されると矛盾の原因を排除すべく飛来します。
 最初にそれを受けたのは巨体故に動きが遮られる魅呪姫でした。大蜘蛛の身体に複数の円形が突き刺さると体液が吹き出してなおもこれをえぐります。融合しているからには痛覚も共有する、魅呪姫は絶叫しながらも切り落とされる脚を振り回して一歩も引こうとはしません。そして鬼の装甲を持つ皇牙や体捌きに慣れている吹雪はまだしも、人ではないものとの斬り合いなど知らぬ智巳は辛うじて霊刀の威に守られながら傷を増やしています。彼らは背後で動けぬ塔子の身すら守ろうと太刀をかざしており、智巳の剣はこのとき初めて彼の意思と技が等しくなり知覚できる一瞬と認識できる一閃が極限の集中力の中で完璧な軌跡を描いていました。目の前で彼らが刻まれていく、身を裂くような思いに蝕まれながら動けぬ身で塔子は叫びます。

「もういい!私の前に立たなくても・・・いや、そうじゃない」

 自分は何故ここにいるのか、役に立たぬ力で皆に守られる筈か。そうではない、彼らを助け、大厄を封じる儀式を率いるために自分はここにいるのではないか。

「大厄を斬ろうとしてはいけない!防ごうとしてはいけない!その存在を無視するんだ、そうすれば彼らこそが争いを望むものになって供馬尊は否定される!」

 その声に智巳も吹雪も輝充郎も、魅呪姫までもが供馬尊の矛盾を理解します。彼らが争いを続けることは大厄の否定ですが、大厄が彼らを否定することもまた大厄の否定に他ならないことを。円形に抗う者はこれを排除されても、無視すればこれを傷つける理由を失いそれらはためらうように飛び交いながらも皆を襲うことができなくなりました。塔子の声が円形に意味を与えた、それこそが供馬尊の矛盾と不完全さを証明しています。
 霊刀の輝きが増して、鬼の力は暴走する素振りも見せず、真実を手にする剣士はその一瞬を狙う意思が衰えることはない。異端を排除できぬ不快が供馬尊の顔の歪みをますます大きなものへと変えていきます。

「君たちのような者がいるから、争いがなくならない。下劣で、浅ましく、そして汚らわしい!」

 その言葉に、すべての真実が吹雪たちの前に開かれました。ヒステリーを起こした小児のように、融和を望む尊が嫌悪を示している。争いを否定するこいつは偉そうなことを言いながら、俺たちに争いを挑んでいるじゃないか!

 どこで聞いた言葉であったか、偉そうな顔をした大人が偉そうな声で、子供は戦争を起こさないとか個性を尊重することが世界から争いを無くすことだと吹聴して戦いの愚かさを解いていた演説を聞いたことがあります。その時、教条的な偽善に反吐が出そうになったこともありました。冗談ではない、個性があるからこそ争いが起こるのだし、子供じみた心こそが喧嘩の原因になるではないか。お前さんが偉そうに言うほど子供は純真でも無垢でもないし、自分の愚かを克服するために戦うのは子供の特権である筈だ。そして、それを悪と断じる権利が誰にあるというのか。争いが悪であると告げる者は、悪に対して戦いを宣告しているというのに。その矛盾に気が付いたとき、吹雪は自らの太刀を脇に差すと代わりに春菜の錫杖を固く握りしめます。供馬尊が断じた、愚かしい少女の杖を。
 完全なる供馬尊の世界は矛盾を許容することができませんが、人であれ妖であれ、矛盾にまみれているのが世界でした。それはあたかも世界に散らばった火が争いとそれを嫌う思いをばらまいたためであるかのように。それに対立したもう一つの火は供馬尊の名を与えられて、繰り返される争いの愚かさを正そうとしたのです。子供よりも狭い、彼の思考の中にすべてを押し込めることによって。

「あんたが神でも魔でも何でもいいさ。だが、俺は彼女たちを侮辱する者を許さない」

 純粋さだけで異形の手を取ることができる者がいる。己の愚かさを知ってそれでも修羅になろうとした者がいる。少年の言葉は純粋な怒りに満ちて、少女の錫杖を握る手に強い力と意思を注ぎます。それは彼が最も貴重に思うものに向けて侮蔑を示した者へ対する、純然たる怒りでした。

 心を閉ざした供馬尊の世界の外側で、集まった人々はその境に立つと触れることも超えることもできぬ壁を前に力を尽くしています。武器であれ術であれ頑なに拒む、無彩色の世界は呼びかけに応えることもなくただゆっくりとそのその範囲だけを広げていました。試みに打ち込まれた八神麗の太刀はその刃が意味を失うと無彩色の結晶と化してしまい、抜くこともできず世界に取り込まれてしまいます。小さく舌打ちをして、愛用の太刀の一本を手放すと一歩を後ろに下がり神降ろしの術を用います。

「武甕雷之男神・・・御力を、武甕雷!」

 落ち掛かる小さな雷が壁の一所を打ちますが、これも目に見えた効果はなく弾かれると四散しました。その様子に何をやっとるかとずかずかと現れたネイ・リファールが白河塗りの六尺棍を大きく振って叩きつけますが、激しい衝撃とともに阻まれて供馬尊の世界には傷一つつけることができません。悪態をついて、後ろに下がった暴走教師はわざわざ学生に担がせてきていた折り畳み机を奪うと、豪快に持ち上げて次々とこれを投げつけます。ですが派手にはぜるかと思われていたそれは、世界に呑み込まれると同時に意味を失って麗の太刀と同様に境に浮いたまま供馬尊に取り込まれてしまいました。深く息をついて、麗が言います。

「こないだのレギオンと同じですね。術や神具は弾かれる、そうでないものは呑み込まれてしまう」
「サクヤの言う縁とか絆が必要という訳か?ならば妾の可愛がっとる部員が中にいるではないか」
「先生、縁というのはそういうものではなくて・・・」

 日本的な縁を米国人に理解させる労苦は些か骨が折れるかもしれません。方々に散っていた者たちも周囲に集まりつつあり、満身創痍といった様子の蓮葉朱陽の姿を見つけると麗は心配げな声をかけます。着衣に滲む赤黒い染みは彼女の傷の多さを窺わせて、それ以上に重い疲労が肩で息をつかせていました。

「大丈夫なの、蓮葉?」
「ああ、これが終わったら休むよ。あたしも一撃くらい試してみた方がいいでしょ」

 言いながら神木の太刀を構えて、深く深く身を沈めると一足に飛び込み俊速の突きを打ち込みます。激しく拒まれた力が不快に弾ける音を立てて、耐えられずに朱陽は太刀を取り落とすとその場に崩れます。慌てて麗が駆け寄り、その身を助け起こして広がり続ける供馬尊から離れました。

「ちょっと!無茶しすぎ」
「あ、ああ。だがどうする、こいつを破るのは骨だよ」

 一度皆が下がったところで天乃原に赴いていた瑠璃や大介に七月宮稲荷、病院から駆けつけてきた鴉鳥真琴に、みなとそらも姿を現します。ネイの一存で臨時の陣営が設けられると、床机にどっかと腰を下ろした指揮官がぞんざいな声で対策を命じますが、最初に手を上げたのは意外なことにネイの使い魔を自称する、そらでした。

「今は何やっても無駄。背を向けた子供に心を開け、なんて言ってもしゃーないよ」
「ではどうする、天の岩戸のようにどんちゃん騒ぎで誘い出すか」
「神様のことは神様に聞いた方が早いよ?」

 養護教諭の視線がこの場にいる神性に向けられます。ウサギの半妖がキツネの神に問う、古来よりお伽話ではキツネが酷い目に合う取り合わせかしらと思いながら、七月宮稲荷は両手を軽く広げました。

「そーねえ。でも瑠璃さまなら分かるでしょ?」

 その言葉に、多賀野の巫女であった少女に視線が集まります。瑠璃は少しだけ居心地の悪そうな顔をしながら、指先で軽く頬をかくと改めて顔を上げましたが、一言目に発した言葉は今の状況とはあまり関係のないものでした。

「みんな、頑張ってますよね。みんな、ただの人でしかないのに」

 あるがままを認めるしかない。それは悟りであるかもしれませんが、彼女にとっては後悔と同義でしかありません。協調するために、ともに手を取るためにであれば、本当は相手を識ることこそが必要だったのです。作り上げた自分の世界に閉じこもっているだけの者が、どうして他と親しく融和することなどができるのでしょうか。誰しも人はトウカになれる訳ではなく、多賀野瑠璃は自分がトウカになれなかったことを知っていました。いや、自分もまた供馬尊であることを。

「私が多賀野瑠璃としてここにいる意味を持っているのであれば、私はその力を使います。私はそのためにここにいるんですから」

 そう言うと新しい神は人の輪を出て大厄の境へと歩みを進めて堂々とその前に立ち、背を伸ばして大きく息を整えてからゆっくりと両手を広げます。それは多賀野の社、えびす神社に生まれた家系ではなく巫女として存在を敬う心でもなく、三面大黒天を降ろした器としての力でもありません。彼女自身が人を捨てて人に敬われる存在となったとしても、誰も目の前にいる新しい神様に感謝などはしないでしょう。だが、それでも構わないと瑠璃は後悔の中で確信をしています。

「私の真言を使います。私に呼びかけはいりません、マイタレイヤ・・・」

 瑠璃が呼びかける自らの力、多賀野瑠璃の世界は決して止むことのない吹雪が荒れ狂う、穢れなき新雪に包まれた果てのない孤独な情景でした。融合できるものならしてみるがいい、踏み込んだ者すべてを凍てつかせる、私は誰を愛することもできないのだから。でも、私は私の存在によってこの人たちを助けることができる。
 生み出された小さな力はゆっくりと大厄に近付くと、世界に呑み込まれるかのようにその中へと入り込みますが供馬尊の世界に色を失うでもなく弾かれることもなく、受け入れられぬままにその存在を示し続けています。強烈な異物の侵入に、供馬尊とその世界がこれ以上はないという程に醜く歪んでいる様が瑠璃には感じられました。

「供馬尊さん。人に融和を強制する貴方が、私を受け入れることができないというの?」

 人と妖が協調できる理想がある、ですが理想はあくまで理想でしかありません。目指すべき姿に至る道は誰も知らず、涙を流しながら、血を流しながらでもそれを探すことはそこに生きる者の務めでした。多賀野瑠璃はそれを探す前に向こう岸にたどり着いてしまいましたが、もう後戻りをすることはできません。そして、供馬尊の力が間違えていることを瑠璃は知っていました。瑠璃はかつて自分が間違えていたことを知っていたから。

「鏡を見るのは、嫌でしょう?辛いでしょう?苦しいでしょう?でも、その鏡を見ることに耐えられた人がいるのよ。私は貴方に同情できないの。だって私たちは同じ、人に哀れまれる存在だから」

 彼女は神様になってしまったけれど、神様の力で仲良くするくらいなら人と妖とが頭を悩ませながら傷つけあっていた方がいい。自嘲するように小さく首を振りながら、瑠璃が後悔していることは社の家に生まれた自分が立派な巫女になる前に、それを逸脱してしまったことだけでした。それまで無原則に、ゆっくりと膨張を続けていた供馬尊の世界が動きを止めると、瑠璃が力を及ぼした箇所を中心にして耐え切れぬ矛盾、融和を示す供馬尊が否定した世界が口を開けて一つの光の輪をさらけ出します。


 月夜にごくわずかに開かれた窓から吹き込む風に白い帳が揺れる病室の寝台で、まだ充分に動かない身体を休めている少女にできることはただ名前を呼び続けることだけでした。さして力の入らない身体で、それは強く激しい叫びではなく語りかけるような小さな囁き。

「行くべき道は誰も知らない。でも、泥に浸されたぬかるみの地だって人は超えることができる。たった一つのレンガでも、誰かが置いていけばいつかは人が歩むことのできる道になる。できあがった道を歩む人たちは、その道ができる以前のぬかるみなんて知らないのよ。でも、レンガを敷いた人はそれをこそ望んでいるの・・・」

 砕け散り世に散らばった火が人の営みであるならば、火の暖かさを懐中に抱き進むのがいい。それは時として争いの因になるかもしれないけれど、冷えた身を暖めてくれるだろう。

「だから、待ってる。待つのは辛いよ。でも私は一人で道を探している訳じゃないから」

 その姿を見た、その声を聞いたような気がして無彩色の世界のただ中に立つ吹雪は思わず首を巡らせました。少年には信じるべき縁があり、青みがかった目に映る鏡があり、音律に沿って流れる意味は本来ジャーナリストを志す少年の脳裏にもう一つの真実を閃かせます。声が聞こえる、であれば完全ではないこの世界はどこかで外と繋がっているということでした。事実を確信することが恐怖を退けて、知識こそが暗闇を照らす灯火になります。古来から伝わる見上げ入道も、霧の中の巨人も同じであって人間が巨人を見越したときに、巨人の姿は小さくなるのです。大切なことは識ることであり、供馬尊は理想ではなくもちろん完全な世界でもない。供馬尊が、そう見せていないだけでした。
 その瞬間、暗闇を無彩色で覆う大厄の世界に別の意味が侵入を始めます。決して止むことのない吹雪が荒れ狂う、穢れなき新雪に包まれた情景、清新だが苛烈な程に孤独な意思を突きつけられた供馬尊は、幼い心にそれを受け入れることもできず顔を歪めて叫びました。

「誰の心だ!僕はお前なんて呼んではいない!僕が二人もいる必要はない!」
「そう、私たちは同じなのよ。それを自覚しなさい」

 それが誰の問いかけであり、誰の助けであるかを吹雪は理解しています。よりにもよって多賀野の登場かと小さく苦笑しながら、少年は今更それを不快に感じることはありませんでした。彼女自身が自嘲しているように、瑠璃の世界が供馬尊以上の孤独に満ちたものであることが見えているから。手遅れになってようやく気が付くことのできた彼女に同情はできない、だが気の毒だと思います。その彼女が人のために大厄を開く円環をもたらそうとしているのであれば、そこから先は愚かしい人の役目でした。
 無彩色の世界が融和することのできぬ矛盾を抱え込んだときに、供馬尊の世界は動揺して歪み一つの光の輪を形作ります。安寧と束縛からの解放を示す、解き放たれる通廊としての輪。それを目にして、呟きを漏らしたのはジョシュアでした。

「あれが、リングか・・・」

 小人族の子はそれを見届けるためにこの地を訪れています。人と妖が解放を望むときに生まれた、一つの円環。それを生み出したのは矛盾に耐えることができなかった供馬尊の世界であり、大厄の中心は自らの心を認めることができず恐怖に満ちた叫びを上げます。

「およしなさい!ここは僕の世界、それを破れば供馬尊の力が世界に流れます。奔流する力の側にいる者もただではすみませんよ。結晶と化した者がその力に耐えられると思いますか!」
「とうとう脅しに出るようになったのかい。たとえそれが本当であっても、俺たちはあんたのカゴで飼われる小鳥じゃない」

 嫌悪に動揺、そして恐怖を知った供馬尊の顔に吹雪は酷薄な目と言葉を投げました。それを聞きとがめたのは供馬尊ではなく、吹雪の傍らにいた智巳です。

「そんな!それじゃあ、柚木先輩はどうなるんですか!」
「どうにもならねーよ。だが、それが嫌だったらお前さんが守ってみろ」

 吹雪の言葉が冷徹なものではなく、指し示される道であることを智巳は理解します。現実を認識して最善と思われる行動を取ること。自分が手にしているのは何だ、生まれたときより授けられた大層な霊刀を手にしているのに、脅しに屈して我を失うような弱き者であっていい筈がないではないか。智巳がどうすればいいか、それを理解しているのであればあとは自信を持ち決断するだけです。その後ろで守られている、塔子の声が少年の耳に届きました。

「すまない、今の私ではどうすることもできない・・・だけど、助けて」
「柚木先輩?」
「自分は助からなくてもいいと思うのは、単なる虚栄心だ。頼るべき相手がいるならば君を、君たちを信じる価値があると思う」

 その言葉に智巳も吹雪も、輝充郎も力強く頷くと視線を動揺する大厄の中心へと転じます。皇牙は無言で塔子の前に立ってこれを守り、錫杖を手に吹雪が供馬尊に向かうと同時に、智巳の備前長船の一閃が世界の外へと向かう。力ある鬼と理性持つ少女を残して、智巳と吹雪の二人で大厄に対することになろうとはよもや考えもしませんでしたが、彼らは一人で戦う訳ではありません。傷ついた身を休めて待つ少女に代わり戦う少年と、守るべき者たちを背に武器持って駆ける少年。頼もしい後輩たちに、輝充郎の声が響きます。

「よーし行け!こっちは任せろ!」
「頼んだぜ!鷲塚ァ!」
「ご武運を!冬真くん!」

 俊速で跳ぶ、吹雪の足が供馬尊に迫ると同時に、ただ一つの円環に駆ける智巳の一閃が斬撃となってその中心を打ち据えます。霊刀が円環を薙ぎ、飛び散った光が世界に浮かび上がりました。

 瑠璃の力で生み出された光の円環が内から弾けて世界の中にいる者に繋がる絆を示す、その軌跡を、その姿を真琴は見ることができます。頼りない兄が人を守るために駆ける姿を、双子の妹や彼女の周囲に集まる者たちは知ることができました。その肩に軽く手を乗せて、ことさらに気楽に笑うと自分が持つ神木の太刀を朱陽は手渡します。

「さて、次はあんたの出番だね」
「ありがとうございます。でも、大丈夫でしょうか」

 円環を内と外から斬れば、絆は繋がって大厄は崩壊する。少女には剣の心得はなく、朱陽から受け取ったそれを拙い動きで両手に構えますが、そらが手を添えるとやはり気楽な笑みを浮かべました。

「斬るとか、突くとか何も考えなくていいからさ。伝えたいことと呼びたい名前だけを考えればいいよ?」

 二人の言葉に真琴は頬を弛めます。自分がやろうとしていることは大層な儀式ではなく、運命の技でもなく、気楽な振る舞いでしかありません。人が人を呼ぶ心に何の重々しい形式が必要だというのでしょうか。真琴は深く息を吸って、肺腑の奥まで吸ったそれをすべて吐き出してから手の中にある太刀を自然に掴みます。

「本当は、ここで智巳さんを呼ぶべきなんでしょうね」
「うん?」

 振り返った首を小さく傾けて、もう頼りないとはいえなくなった兄の名を呼ぶよりも少女はもっと伝えたいことがある人の名前を呼びたいと思います。それは彼女ではなく、彼女の友人が待っている人の名前でした。

「でも私は冬真くんに、あなたを呼んでいる人がいますよって伝えてあげたいんです。帰ってきなさいって」
「うん、それで充分」
「あはは、鷲塚もかわいそーにね。だがそいつはいいや、あんたの自然な心だ」

 にっこりとそらや朱陽が笑い、その笑みは真琴に移って黒髪の少女はあらためて大厄の境に生み出された光の円環に向くと神木の太刀を振り上げます。ゆっくりと上げられて、いったん止めてから大きく振り下ろされた太刀が無彩色の世界に浮かび上がる光に打ち付けられて、双子の力は兄が守ろうと思った人と、妹が大切に思っている人たちのために互いの絆を繋ぎました。


 ただ一つの融和を望む世界が否定されて、供馬尊の内と外が繋がれた瞬間にすべては崩壊して力の奔流が巻き起こります。それは円環に集まると同時に外から内に向けて強烈に吐き出される流れとなって、周囲に立つものを揺るがせなぎ倒そうと暴れ狂いました。自ら円環を斬った正面に立つ智巳はほとばしる力を前にして彼の霊刀を構えて一歩も動かず、背後にある塔子や輝充郎を守って身じろぎもしません。わずかでも気を抜けば吹き飛ばされて、もろともに砕かれそうな力が少年を襲います。

(倒れない!逃げないだけなら僕にもできる筈だ)

 奔流はますます強く勢いを増して背後に叫ぶ声も智巳には届きませんが、皆が自分を信じていることを智巳もまた疑わずに悲鳴を上げる身体を叱咤します。ふと、その勢いが減じられると戸惑う少年の前に立って平然とするジョシュアの姿がありました。

「小人は力に対して平静だ。私でも君たちを守る程度のことはできる」
「ありが・・・とう」

 一息をついた智巳はようやく周囲に目を向けます。ジョシュアの守りが力を遮っているとはいえ、そこらで荒れ狂う奔流が意味を失った存在を打ち砕いて収まらず嵐と化していました。細い出口が流れを激しくさせている道理であり、更にそれを開けば広がった流れは弱まり外に出ることも叶うでしょう。ジョシュアの守りに自由を得た輝充郎が、手のひらに拳を打つと轟雷鬼神・皇牙の力を奮い立たせます。

「ここは俺の出番だな。皇牙の鎧なら力の奔流にも耐えられるさ」
「行くつもりか・・・頼んだ」
「ああ、任せとけ!」

 塔子の声に答えて一歩を踏み出すと全身を打つ力の流れが鬼の身体をきしませますが、背を向けぬ皇牙は自らに眠る力に向かって呼びかけます。

「さあ聞こえるか、俺の中の鬼の血よ!お前の出番だ。お前はただ壊すだけの力か、仲間も守れないで何の力だ!」

 高揚した心が固く握った右拳を腰だめに引いて、左腕を交差させるように構えると一拍止めて精神を集中します。皆が戦い、守るべき者が自分たちを信じている。すべての力を一点に向けて爆発させる、解き放たれた鬼の血が皇牙の右拳を黄金に輝かせて天高く突き上げられました。

「出てみろ、紅蓮・皇牙ァ!」

 叫ぶと同時に皇牙の全身が輝き、炎を雷をまとう金色の鬼、炎雷鬼神・紅蓮皇牙が姿を現します。輝充郎の最大の力が全身をまばゆく輝かせると崩壊する世界の奔流のただ中へと飛び込んでいき、直線に伸びた拳が光の円環を打ち付けると激しい火花を散らせました。
 弾け飛ばされそうになる奔流の中で、すかさず円環に指をかけるとこれを力づくでこじ開けようとします。吹き上がる炎と落ち掛かる雷が少しずつ世界を砕き、世界の出口を広げますが燃え盛る皇牙の鎧にも方々にヒビが入り全身を軋ませていました。

「長くは持たねえ・・・一気に行くぜ!」

 持てる力のすべてをそそぎ込んで、雄叫びを上げる皇牙に一陣の影が飛びかかり、同じように円環に指をかけると渾身の力で世界のほころびをこじ開けます。それが地蜘蛛の頭領、魅呪姫であることに皇牙は驚きの声を上げました。

「魅呪姫!?お前・・・」
「勘違いをするな、妾も早々にこの辛気臭い場所から外に出たいだけじゃ」
「ああ、それじゃあさっさとヤッちまおうぜ!」

 阿仁王と吽仁王のように並ぶ、二体の異形の力が崩壊する世界の扉を開き一筋の光に仲間たちを導きます。ジョシュアが先導する、塔子を抱えた智巳の姿だけではなく、他の仲間たちや多くの地蜘蛛たちも矛盾する幼い世界を後にすることを選びました。

 霊刀を持つ少年が世界を解き放つ円環を斬り、金色の鬼がこれをこじ開けたとき、その手に錫杖を握る少年は崩壊しつつある供馬尊の前に立っています。その存在に吹雪はもはや畏敬を感じてはおらず、荒れ狂う力の奔流が収まれば大厄は再び封印されるしかないことを理解していました。人の手で名を与えられたものが人の手によって封じられる、その無常に少年の菩薩は哀れみを抱きますが、彼がここに立つ理由はそこにはありません。力を失った自分を封じるのではなく、これを砕こうとする意思を前にして供馬尊はもとの穏やかな顔に戻っていました。

「人は愚かだよ、僕に大厄の名を与えてそれをまた奪おうとしている。だけど君はもっと愚かだ。君が考えている通り、力を失った僕を君は討つことができるだろう。だがそれは崩壊する僕の世界から君が帰るための時間を奪ってしまう。最早このままでも僕の世界は崩壊する。人は絆を示し、供馬尊の融和は力を失って大人しく封印されるしかないだろう。もう僕を斬っても何も意味はないんだ」

 無言で立つ吹雪に向けて、供馬尊の声が響きます。

「君だって君を待っている者がいるところに帰りたいだろう?無駄に命を落とす理由はない、鬼たちが開けたあの扉から君たちの世界に帰るといい」
「ああ、だが俺がお前さんを討つことは俺にとっての理由があるんだ」

 低く構えて、少年は諦めの悪い神様を送る決別の言葉を告げます。

「言ったろう、俺は彼女たちを侮辱する者を許さないって」

 飛ぶように深く踏み込んだ一足から、それを起点にして二足目に渾身の加撃を図る躍歩の足が伸びて春菜の錫杖が大厄の中心に深く打ち込まれました。それを望む一撃に名を失った大厄は砕けて世界が急速に崩壊を始める、足を返した吹雪は視界の先に見える一点の円環を目指して迷わずに走り出します。離散する、かつて神とされた火の嘆きが少年の心に響きました。

(何故争いを肯定する人が僕を否定する?封印するだけではない、今度はこの僕を消し去ろうというのか?)

 その嘆きが吹雪の心にさしたる感慨を及ぼすことはありません。供馬尊が人に求められる存在であれば、この世界に戻ってくることができるでしょう。大厄として扱われた、協調に祝福を与えるのではなく盲目に争いを否定するだけの力を人が求めるとき、人はまた同じ過ちを繰り返すでしょう。崩壊する世界で奔流の中を駆ける、諍いや妬み、蔑みが流れ込む供馬尊は人の世の矛盾に耐えることができずに破綻して理想だけの融和は消え去ろうとしていました。

「残念だったな、供馬の坊ちゃん。俺は、争うばかりの修羅にも心があることを知っているんだよ」

 誰も哀れな尊に背を向けたまま振り返ろうとはせず、見捨てられた意味はやがて消えて無くなるしかありません。吹雪が見るものは手の届かぬ先にある小さな円環であり、肺と心臓が破れそうなほどに悲鳴を上げながら全力以上の疾駆を続けます。地蜘蛛に追われたとき、春菜を抱えて病院まで走ったときのことを思い出していた少年は、最近走ってばかりだとわずかに苦笑を漏らしました。

 世界の外側ではこじ開けられた光の円環から塔子を抱えた智巳の姿や多くの妖怪バスターたち、地蜘蛛の兵までもが抜け出ると周囲にいた人々を驚かせますが、それを追い散らすでもなく大厄を否定したものたちをその崩壊から助け出すために互いに手を貸していました。取り残された仲間を引き上げるべく地蜘蛛が伸ばした糸に人も一緒に絡みとられて、それを引く手に妖怪バスターたちが手を貸している。懸命に扉を開ける金色の皇牙と地蜘蛛の頭領の姿に、今は互いの対立を忘れて破局から身を守ろうとしていました。世界を開く鍵となった双子の妹は智巳に駆け寄ると、今になって心配することを許されたかのように飛びついてただ兄の名を呼んでいます。その智巳は抱えていた塔子の手を放さずにいた、無理な姿勢のままで真琴の頭を撫でました。
 残された姿や奔流に崩れ去った者を嘆く声もない訳ではなく、大厄の力は失われつつありましたが供馬尊の中で荒れ狂っている奔流はいまだその勢いを減じることがありません。全身をきしませている皇牙と魅呪姫の力も限界に近くなった頃、最後にいつもの穏やかな顔で大蜘蛛の一匹を抱えたトウカが歩み出て、それに続いたジョシュアが彼が見届けるリングを潜り抜けたところで力が弾かれると円環が閉じました。倒れこんだ魅呪姫の周囲には彼女に救われた地蜘蛛の兵たちが集って彼らの頭領を助け起こし、皇牙は満身創痍の様子で立ち上がると周囲にいる面々の顔を見て叫びました。

「吹雪は!吹雪の野郎はどーした!」

 その姿が見当たらないことに焦慮の声が上がりますが、最後まで円環に残っていたジョシュアはゆっくりと首を振ります。閉じられた世界は崩壊を目前にして、その内には荒れ狂う力しか残されておらず後は一気に収縮して破砕するだけでしょう。小さく悲鳴を上げる、真琴が顔色を失うと彼女の友人の姿を思ってその場に膝をつきました。春菜は何というだろうか。全員が箱の底に眠る小さな希望の欠片を失いかけたとき、収縮する大厄に向かって豪快に叫びながら駆け込んできたのはネイでした。

「この阿呆どもが!閉じたならもう一度・・・ぶっ壊すまでだッ!」

 そう叫んだときには、ネイの六尺棍が突き立てられて先ほどまで円環のあった箇所がわずかに欠けてほころびが生まれると皆が争って一斉にそれを叩きます。皇牙の鎧が、朱陽の太刀が、麗の雷が、智巳の霊刀や塔子の陣具が、そして大介の頭や地蜘蛛たちの牙、魅呪姫の鈎爪までもが叩きつけられて、不格好に砕けたリング、もっとも美しいリングがもう一度だけ姿を現しました。絆持つ者が力を得て世界の扉を開く、その瞬間、音の無い風が世界を通り抜ける様を皆が目にします。

 崩壊する世界は遂に縮小を始めて、それでも駆け続ける吹雪はその足を止めず全身が奏でる悲鳴の合唱に耳を塞ぎ、ただ光の円環を目指しています。

「悪いなあ、高槻。俺、帰れねーかもしれないけど、最後まで諦めはしないからよ。今度こそ、お前さんの小さな手を握ってやりたいからさ」

 その吹雪の視線の先で一瞬閉じたリングに心臓が凍る思いを覚えますが、少年はそれでも駆ける足を揺るめずに走り続けます。諦めるのはすべてが終わった後で構わない、次の瞬間同じ場所が揺れると不格好に方々の欠けたリングが再びその姿を現します。どうやらまだ吹雪を呼んでくれる声は残っているようだ。俊足で駆ける少年の前に一風の旋律が流れると、消え去った音無の神が届ける少女の姿が吹雪の目に映ります。自分に与えられた祝福の姿に、少年は手を伸ばすと少女の手を握りました。

「俺みたいな者に・・・汝鳥の祝福があるとはね」

 絆を持つ者だけがそれを越えることができる。供馬尊は崩壊して砕け散った世界は火になって散らばるとすべての力を失い、汝鳥の地に眠る大厄はその存在する意味を失って消え去ります。その中で少年は自分が握ってやりたかった、その手を掴んで決して放すことがありませんでした。


 人の知る物語です。

 古来、ただの力でしかなかったそれは供馬尊という名を与えられました。愚かしくも汝鳥の人々が祀ってしまったそれは融和の名前と力を与えられます。供馬は伝達と融和の意味であり、互いに伝えて和すことが供馬尊に与えられた意味でした。ですが、意味を与えられた融和は争いと諍いが散らばっている世界を嘆くとその地に大厄と呼ばれる禍いをもたらします。皆が仲良くすればいいのに、そう思った供馬尊は人に力を奪われると、その身は東汝鳥に納められてその名前は京都汝鳥に残されました。名前を奪った、その場所がなとりと呼ばれるようになったのはその頃からのことです。
 それに意味が与えられるとき、争いと諍いを嫌う思いが融和を望んだときに供馬の名が思い出されるでしょう。そのとき、人は融和ではなくて人の縁と絆を紡いでいて欲しい。誰もが間違えている、それでも理想を探したいのであれば、握っている手の暖かさを信じてあげて欲しい。

 傷ついた手を、小さな花が微笑んでいた姿を慈しんであげて欲しい・・・。

 すべてが消え去って、汝鳥に下りていた夜はいつの間にか上がり神木の立つ境内のある方角には暁の一閃が差し込もうとしています。全身を傷だらけにして立つ輝充郎と魅呪姫は互いに自分たちが属する仲間たちの、くたびれた姿を見やっていましたがそれにも飽きたように顔を上げると、魅呪姫が声を発しました。

「それにしても皇牙よ。貴様のあのポーズには何か意味があるのか?」
「もちろん、格好いいからだ」
「ふん、貴様の趣味はよく分からん」
「なんだと、やる気か?」

 輝充郎の返答に苦笑しながら、地蜘蛛の頭領は彼女の兵たちを集めます。

「残念だが、この傷では決着をつける力も残っておらん。それに妾たちが利用する大厄は失われて、この地の霊格は復活してしまった。当分はここに手を出すことはできぬ。だが忘れるな、地蜘蛛は決して諦めた訳ではないぞ」

 そう言うと日の出を避けるかのように地蜘蛛衆を引き連れて一つまた一つと姿を消していきます。その様子にまたどこかで騒動を起こすつもりかと思いますが、魅呪姫が言っていたように輝充郎にも今戦う力は残っておらず、いずれ地蜘蛛たちを追わなければならないでしょう。妖が行き過ぎた主張をするならば、それを抑えるのは自分の仕事だ。地蜘蛛と自分の間にも縁というものがあるのだとしたら、或いはそう長くこの町にいることはできないかもしれない。
 妖が暮らす隠れ里へと繋がる、マンション・メイヤはこれからどうなっていくだろうか。その点を輝充郎はほとんど心配はしていません。汝鳥の人々はメイヤと共生はしていませんが、彼らはその存在を認めてくれてはいるのです。管理ができないのなら封鎖しろと言われた、ですが条件をつけずに認められる存在など本来どこにもありません。それが現実であり、現実であればこそメイヤは苦労しながらもこの地に存在することができるでしょう。

「あいつらはそれに気が付いてはいないだろう。だがあいつらがせめぎあう、だからこそメイヤは汝鳥に存在することができる」

 いつだったかメイヤの前の路地で吹雪と春菜が言い争っていた、そうした者たちがいれば人と妖の世界は互いに干渉しつつそれでも互いを監視することによって保たれることになるでしょう。トウカや大顎が通う、あいまいな境界は白と黒にきっちりと分けられている訳ではありません。ですが人であれ妖であれ、世界とは右や左に傾くものではなく常にその間をバランスを取りながら歩き続けるものでした。
 そう考えて周囲に首を巡らせる、輝充郎の目に相変わらず邪気のない姿を見せているトウカの姿が映ります。とはいえあのお嬢だけは誰かが見張っていた方がいいかもしれないなと、地蜘蛛が残していった大蜘蛛の一匹をごく当然に連れ回している姿に輝充郎は苦笑しました。可愛らしさの基準にも個人差があるということか、大蜘蛛の毛深い背をぽんぽんと叩いて機嫌が良さそうなトウカの真似は誰にできずとも、邪気のない様はそれこそが人の理想に見えてしまいます。人がたどりつくことのできぬ理想、ですが彼女の掲げる灯火がなければ人は目指すべき理想を失って足を踏み外してしまうでしょう。

 やがて暁が周囲を照らし始めて、地蜘蛛の姿も消えると輝充郎の背後に塔子が近寄ります。力持たぬ者が大厄の渦中で守られながらも、彼女の叡智によって人を導く。輝充郎も他の者も塔子には感謝の思いしかありませんが、守られていた当人はそう考えてはいないでしょうしそれでもいいだろうと思っています。輝充郎が首を巡らせると上りかける暁の一閃がちょうど差し込んで、今は動くようになった身を些かぎこちなく扱っている少女に光を与えました。その明るさと温かさを確かめるように、少し手のひらを握ったり開いたりしてからどこかためらうように顔を上げます。

「何と言ったらいいか・・・ありがとう、以外の言葉が思いつかない」
「それで充分じゃねーか?連中も頼もしくなったし、ありがたいことだ」
「そうだな。私もこれで・・・」

 皆まで言わせず、輝充郎の言葉が遮ります。

「そっから先を言うことはないさ。あいつらに任せることができる、いずれ俺たちはどこかへ行くかもしれない。だが未来を全部決めちまうことはない、それでいいじゃねーか」
「ああ。だがそれなら、君も私に内緒でどこかへ行くようなことはしないでくれ」

 塔子の思いが輝充郎に理解できたように、輝充郎の望みも塔子は理解できたのでしょう。そう長い間ではなく、いずれ汝鳥を離れる道の分れがあったとしても、それまでは頼りになる後輩たちを導く役目が彼らには残されていました。彼のものではなかった霊刀をその手に収めた少年や、友人のために絆を繋ぐ道を選ぶことができた少女、菩薩の心で真実の道を拓く少年、理想の灯火を捧げ続ける少女、そして、汝鳥に愛される修羅の娘。彼らが互いに迷い、傷つきながらそれでも道を進むのであれば、塔子は安心して発つことができるでしょう。自分の弱い力と冷徹な知性ではなく、愚かであっても真摯な意思を持つ者たちの手によって道は敷かれていくのですから。

「私たちは導くことができた。だが明日のことは明日考えよう」
「まあとりあえずは、今日のメシとベッドだな」

 皆が身を休めている、暁に大きく背を伸ばして一つ欠伸をした七月宮稲荷は、神らしからぬ仕草の後で新しい神格を得た彼女の友人の姿を見つけます。皆の輪から一歩を下がった場所に静かに立ち、自分が手に入れることができなかったものを羨む者の目で人の営みを眺めている瑠璃の姿に遠慮のない声をかけると、二つに編んだ三つ編みを下げた少女はどこか恥ずかしそうな笑みを浮かべます。

「結局、私はみんなの輪には入れませんでした。でも、私はせめて人に祝福を与える存在でいたいと思います」
「いいんじゃないの?あんたは祟り神にはならないだろうしね」

 その言葉に、瑠璃は少しだけ恥ずかしそうな顔を浮かべます。彼女たちの視線の先では、大介と小さな恋花が多量に担いでいたカップ焼きそばをこの際だと皆に振舞う様子と、湯を沸かそうとそこらの店や建物を探している幾人かが走り回っていました。大ナベに入れた湯を持ち出して術士にこれを沸かせと呼ぶ者がいる、これほど下らないことに力が使えるということこそが、人の営みが平穏を取り戻したことの何よりの証明でしょう。

 すでに周囲は明るく、吹雪は気が付いたときに目の前に自分を出迎えている真琴の姿があることを知りました。あの後、どうやら自分は無事に世界を抜け出すことができたらしい。ここが死後の世界ではない証拠に、酷使された肺と心臓の疲労は甚だしいし腕や足は抗議の悲鳴を上げていました。そう近くない場所では暴君先生が誇らしげでやかましい声をがなりたてていましたが、春菜が彼女に救われて、自分もまた救われたのであればあの人はあの人なりに大した教師であるのかもしれないと思います。
 他愛もないことを考えていた理由は、言うべき言葉を見つけることができなかったせいであったかもしれません。穏やかな顔で立つ黒髪の少女は大厄の鍵を開いた恩人でもありましたが、その時に自分に向けて呼びかけた声は吹雪にも届いていました。

「ああ、なんだ。その・・・お前さんの声も聞こえたよ。礼は言っとくが、あれでよかったのかよ?」
「だって、智巳さんはそれを許してくれますから」
「本当に大した妹さんだよ。ありがとうな」

 照れを隠すように頭をかいている様子に、それまで優しげな笑みを浮かべていた真琴が眉を動かします。

「ちょっと待ってください冬真くん。お礼を言う相手が違いますよ」

 少女が何を言いたいのか、神様の鏡によらずとも吹雪には分かります。音無の神はよほど洒落ものであるのか、よほど性格が悪いのか。少女の手を取った少年の姿は真琴にも他の者たちにも見えていたのでしょう。あの時は春菜を抱えて音無山から病院まで走ったのだから、もう一度走るくらいはできる筈でした。

「病院でもっかい抱きかかえるとかしないだろうね?」
「なんつーこと言うんですか先輩!」

 朱陽がまぜかえす声に、これ以上この場所にいることはまずいと思いながら吹雪は逃げるように走り出しました。もう少しだけ肺と心臓に働いてもらおう。本当に走ってばかりだが、もう少しだけ、全力で走ろう。

 最後に別れてからまだ半日ほどしか経ってはいない、病室で眠る春菜が今は目を覚まして少年を待っていることに偶然よりもそれを由とした汝鳥の意思を感じます。面会時間には早い時間であり、戦いに傷つき汚れた身で錫杖や物騒な大太刀を持つ少年が病室に踏み込むなど本来ありえない話ですが、早出をしていた看護婦長がさも当然のように少年を迎え入れてくれました。おそらく、そら先生あたりが手を回していたことは意味ありげな婦長の視線で分かりましたが、吹雪は後々面倒な噂にされそうだと嘆きながらも病室の前で荒れた呼吸を整えてから、ゆっくりと扉を叩きました。ごく自然に少女の声が答え、少年は彼らを隔てていた最後の扉を開きます。
 早朝の日差しが白い帳越しに柔らかな光を浴びせている、寝台に身を横たえていた春菜は少しだけ身を起こしていましたが、その程度の動作がまだ辛そうな様子を見せていました。静かに扉を開けた吹雪は春菜の髪が結われておらず、背まで下ろされているその姿に何故か戸惑いを覚えます。少女はゆっくりと息をして、一度閉じた目を開いてから言いました。

「お帰りなさい、冬真くん」

 その短い言葉に、膨大な感情が詰め込まれていることが吹雪には分かります。感謝だけでは足りない、自分の感情を堪えながらも吹雪は彼が本当に伝えるべきであった言葉を選ぼうとしていました。

「お前さんの祝福が届いたよ。お前さんはよほど汝鳥に好かれているらしい・・・ありがとうよ」

 差し込む温かな光が春菜にかかる、その姿を吹雪は美しく感じます。信仰は神の専売特許ではない、泥に塗れた人の所行を自分たちは美しく思うことができる。

「俺の口から伝えていなかった言葉、俺はそのために帰ってきたんだ。もう無理をするなよ。だって、お前それでも女の子じゃないか。汚れるなら俺が汚れてやる・・・本当はそう言おうと思っていたんだ」

 そこまで言って、一度言葉を切ります。目をそらすことなくその顔を向けている春菜の凛とした瞳に映る光も今は穏やかで、その内にあるものを少年は鏡の力を借りずとも見ることができると思いました。

「だがな、供馬の坊ちゃんの姿を見て少しだけ考えが変わったよ。ご大層な理想を言う奴らは立派なものさ。だが理想とはほど遠い血と泥の中で、ぬかるみに足を浸しながら降りしきる雨雪の美しさを忘れない奴がいる。お前さんはやりたいようにやればいい、守るべきもののために前を向いて戦えばいい。あるいは、お前さんが信じるもののために祀りを捧げたっていい」

 言いながら、やべーことを言おうとしていると吹雪は思います。知らない奴が聞いていたら、求愛の言葉以外の何ものでもないかもしれない。だが、構わないさ。

「修羅は涙を流せずとも、俺はお前のかわりに血を流すことはできる。お前がどこにいても、誰にもお前を傷つけさせはしない」

 ああ、構わない。俺には守りたいものがあるんだ。吹雪の言葉を聞いて、それまで静かに何かを堪えていた春菜が初めてためらうような、すがるような姿を見せました。

「いいの?私の手は・・・こんなに汚れているのに」

 ある衝動を必死に抑えながら、少年は菩薩の手を伸ばします。この世界は理想にはほど遠いし、自分たちは足掻きながら泥に汚れ続けている人でしかない。だが、俺はそれをこそ美しいと思うんだ。蠍の火は己の身を焼いても星にたどり着くことはできないかもしれないが、蠍は星になりたくて自分の身を焼いている訳じゃない。誰だって本当のしあわせのために、己の身を焼くことができる。
 ゆっくりと、ですが決然として少年は自分の手を少女に伸ばします。生まれでも血でもない縁、冬の終わりを示して春が芽吹く繋がり。

「一人じゃないんだ。お前さんの背中を、俺が守ってやるよ」

 その先は誰も知らずとも、行くべき道は誰に分からずとも泥に浸されたぬかるみの地を人は超えることができる。だがそこに敷かれる道を一人でつくることはないし、レンガを敷く者がいるのであれば春の菜を植える者がいてもいい。

 美しの野へと至る理想は遠くとも、道の脇に小さな花が咲くのであれば俺たちはその姿を愛でよう。伸ばした手を取った少女の手は尊く、小さくて温かいことを少年は全身で感じていました。
他のお話を聞く