番外・春菜・1
音の無い風が吹き抜けていく、汝鳥の町を自転車を押して歩く時間がゆっくりと流れていきます。後ろには黒髪を肩の少し下まで伸ばした少女が腰掛けて、春が巡る陽気にごくわずかに汗ばんだ肌が少年にはむしろ心地よく、自転車を押す手にも重さがありません。日差しは充分に明るく、学園から丘上の家々まで連なる道は決して近いものではありませんが少年がわざと、少しだけ遠回りをしていることを彼らは知っています。柔らかな新緑の祝福が穏やかに周囲を包んでいました。
「ごめんなさい・・・いえ、ありがとう。重くないかな?」
返事の変わりに、少年は振り向いた笑みだけを返します。丘を登る坂道で苦労しなかったといえばそれは嘘になりますが、不平など感じる訳もなく誰かに替わると言われたとしても承諾した筈もありません。姫君を乗せた馬車を引く者が、どうして手綱を放すことがあるでしょうか。丘上にある彼女の城は神社に隣接した高台の一画にあり、汝鳥でも有名な道場が設けられていましたが家自体はごくまっとうな一軒家です。境内から見下ろす神木が笑うように葉を鳴らしている様子が彼らにも分かりました。
春菜が怪我をしたという話が大仰に伝えられたのはもちろんわざとだったのでしょう。息を切らせて駆けつけた冬真吹雪は事の次第に安堵すると、趣味が悪いと憤慨しますが笑い話で済んだことは良かったのかもしれません。昼の時間、高槻春菜は常の習慣で学園の敷地にある社に日参していましたが、遊道の板が割れて踏み抜いたところで足を捻ったということです。放置されていた社と遊道を補修する話は以前から決まっており、気の毒とも不注意とも言えなくはありませんがいずれにせよ補修を早める正式な理由にはなるでしょう。
「気をつけてくれよ。お前さん、しっかりしてるのにたまにそういうところがあるからな」
吹雪の口の悪さはいつものことで、保健室で少女に向ける言葉はやや酷薄に聞こえたかもしれませんが、青みがかかった視線に心からの労わりと心配が込められていることが分かります。普段は凛とした強さを見せている春菜が自然に親しむあまり、時として心ここにあらずといった様子になることを少年は知っていました。右足に貼られた湿布と巻かれた包帯が痛々しく、当人は大丈夫だと主張していますが一日くらい大人しくしてなさいとは保険医の言葉です。
「歩いて帰るのは大変だろうから。送ってあげてね」
ぶっきらぼうな言葉は、春菜の家が学園からちょうど汝鳥の反対側にあって吹雪の下宿先が近いことを思えば決して無理な相談ではなかったでしょう。傍らで微妙な笑みを見せている、春菜の友人たちが何を思っているかは分かりましたが言及をしてもおそらく足元に穴を掘るだけでした。その日は倶楽部活動もいいからと言われて不本意そうな顔を少女は見せていましたが、吹雪にすれば確かに無理をする必要はなく一日くらい休んでも罰は当たらないでしょう。
「途中でデートしたりしないでね」
「あら、帰ってからデートするんですよね」
平常心を装って、聞こえないふりをしながら古びた自転車を借りた吹雪は二人分の荷物を前かごに詰めると春菜を荷台に座らせます。最後まで不平を言っていた少女も、吹雪が冗談めかしてそれではデートでもしながら帰ろうか、と言われると顔を赤らめて静かになりました。
「そうね。それもいいかもね」
少年と少女が並んで歩く姿を見られることは一度ではありませんでしたが、四六時中一緒にいる訳でもなく春菜であれば倶楽部活動はもちろん友人とアーケード街まで足を伸ばしたり、学園に残って片付けを手伝うこともあれば社の参拝や清掃が遅くなることもありました。休日になれば習い事や家の付き合いで出かけることもあり、お嬢様らしく多忙な生活を送っています。日によっては図書室で過ごしたり、寄り道をして帰ることもありましたがいつもは西日を背に影が長く伸びている道が、その日はまだ空も明るいままで新緑の祝福が穏やかに周囲を包んでいます。境内から見下ろす神木が葉を鳴らす音を聞いて、丘を登る道の先に一軒の家が見えると働き者の自転車を玄関脇に置きました。
「お母様、いらっしゃいますか?ただいま帰りました」
鍵を開けて、呼びかける自然な言葉遣いにやはり旧家のお嬢様らしいと吹雪は思いますが、返ってくる言葉はなく家には誰もいないようでした。敷地こそ広いものの春菜の家はごくありきたりな一軒屋にしか見えず、和造りの平屋建てが今時では珍しかったかもしれません。
「どうしようか、お茶くらいなら出せるけど」
「怪我人は大人しくしてくれよ。一応、それが理由で送ってきたんだからさ」
吹雪の本心はともかく、これで帰ってもいいかとは思いましたが春菜にすれば送ってもらってお茶の一つもないのは申し訳なく思うのでしょう。せめて休んでいってと言われれば断る理由もありませんが、まがりなりにも少女の部屋に初めて上がらせてもらうとなれば不健全な思いが浮かばないといえば嘘になります。
年頃の少女の部屋がどういうものか、吹雪が知っている筈もありませんが案内されたのはいかにも春菜らしく見える簡素なものでした。少し広い畳の部屋は隅が板張りにしてあって、そこに勉強机が置かれていますが畳の側には小さな卓袱台と座布団が置かれていて、後は本箱も衣装棚も見えず家具といえばそれきりでした。おそらく、荷物はすべて押し入れの中にしまわれているのでしょうがその中も彼女らしくさぞ整然としていることでしょう。飲み物でも入れようかという言葉に、何度かやりとりがありましたがカップに満たされたココアを二杯、運んでくる頃には吹雪も高槻の家で食器がどこにしまわれているかを知ることができました。
「ここが神木様のお膝元で良かったよ。稲荷の祠に近かったら何を言われるか分かったものじゃない」
「私は、別に・・・」
冗談めかして言った言葉に、冗談ともつかぬ言葉が返ってきます。人心地つくと改めて少年の頭には春菜の部屋にいるのだという思いが離れず、心の中で深呼吸を繰り返しても一向に脈拍が収まる様子がありません。無駄な抵抗を諦めたように、やや不自然にカップに口をつけますがどうにも莫迦莫迦しい、出来の悪い漫画やドラマを意識しすぎているようです。それでも幸いというか残念というべきか、時計の針が数回巡る頃には部屋の空気も会話もごく自然なものに変わって時折不規則になる動悸を意識せずに済むようになりました。邪な想像力が捨てきれずとも、ただ二人でいる穏やかな時間が貴重なものであることを少年は知っています。
ふと、静かな空気に響く時計の針が奏でる音。汝鳥には神々がおわし、彼女が汝鳥に愛されていることを吹雪は知っているつもりです。部屋の空気を入れ替えようとした理由は春が巡る陽気のせいではなかったでしょうし、少しだけ開けた窓に吹き過ぎた音の無い風が何かを伝えた訳でもないでしょう。何とはなしに、春菜の正面ではなく隣に吹雪が腰を下ろすと少しだけ、少女の様子が変わったように思えました。
「あの、ね」
当人がどこまで意識しているか、それとも無意識でいるのか。もしかしたらそこには春菜の過大評価が混じっているのかもしれません。家まで送ってくれたこと、わざわざ自転車を借りてくれたこと、カップを運んでくれたこと、窓を開けて空気を入れ替えてくれたこと、それから、風が当たらないように遮る場所に座ってくれたこと。細やかな優しさがことあるごとに春菜には感じられて、いっそ申し訳なさすら覚えます。少しだけ、座りなおすふりをして少年の傍に近付きました。ごくわずかに、体温が感じられる距離が少女の鼓動を早くしていることに彼は気が付いているでしょうか。
普段は正面に立って、春菜のすべてを受け入れてくれる少年が今は彼女の傍らに座っています。今なら、青みがかったその目を見ずに言えることがあるでしょうか。少しうつむくように、半分ほどに減ったココアの水面はすべてを映し出す雲外の鏡ではありませんが、何も映っていないからこそ安心することができるのです。
「あの・・・一緒に、いたいな。このまま、吹雪くんと、ずっと」
「・・・うん、俺もだ」
机の上に、一枚の写真立てが飾られています。木枠の中でややわざとらしく、ですが疑いのない優しげな色を浮かべている青みがかった瞳が二人に向けられていることに吹雪も春菜も気が付いていました。友人や家族にそれとなく言及されたことがありましたが、それでも、春菜はこれをしまうつもりにだけはなれなかったものです。葉ずれの音がする静かな夜に、夜を更かす机の灯りに、窓を叩く風の響きに、カップから立ち上る湯気の温かさに、柔らかな夜着の感触に、何とはない一枚の写真が春菜の小さな世界をどれほど安らいだものにさせてくれるでしょうか。
時として幼い心が手綱を掴むことに苦労することがあります。不健全な喜びや、思慮の浅い憧れや、夢想的な考えに支配されることもあるでしょう。ですが、それで一向に構わないと吹雪も春菜も思います。自分が最も貴重だと思うものを強く思う、心からの純粋な願いは真実を覗き見る神々の器にさえも信仰を映し出すことができました。
新緑の祝福と音の無い風が抜けていく小さな部屋で、少女は少年の肩にそっと頭を置くと目を閉じます。やがて静かになった二人の息遣いは小さな寝息へと変わっていました。
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