ヒーロー誕生・1
この世の中には、妖、と呼ばれる存在がある。それは別段特別なものではなく、ただ昔から存在していたものに妖という名前がつけられただけのことだ。人は理解できないものに対してさえも、昔から名前をつけることをやめようとはしなかった。それは名前をつけるものこそが人だからだ。山は山という名前がなくともただそこに存在しているし、狐は誰に狐と呼ばれずとも金色の獣であり続ける、だが人のつけた名前は存在に意味という力を与える。
彼がその力に目覚めたのはまったくの偶然だった。気が付いたとき、彼は人である筈の自分の中に別の意味が存在していることを知ったのだ。それは妖のひとつの名前である、鬼、という名前を与えられている。あろうことか昔々に鬼の血族が混じわったという彼の家系で、数世代を経て彼の身にそれが伝わっているのである。それまでは人に比べても多少背が高いとか、瞳が赤いという程度でそんなこともあるだろうとしか考えてはいなかった。人と多少異なる容姿を得意げに思ったこともありはするが、人と異なるということが人ではないとなれば話は別だろう。とはいえ親を恨むわけにもいかず、はるか昔の当事者たちに不平を言うのも莫迦らしい。あまりに荒唐無稽な話だけに、かえって諦めにも似た気分で受け入れられたのかもしれない。彼がその力に気が付いたきっかけは、一人の娘と出会ったことによる。
誰かが自分を見ている視線を感じた。人気の少ない道路脇には、丸みを帯びた文字で「後藤バス」と書かれた停留所と雨に汚れたベンチが置かれている。バスを待っていた彼は少しはなれた先、路地に隠れるように自分を見る娘がいることに気が付いた。人のうらやむ長身とはいえ、無骨な外見に逆立った長髪といいあまり自分が女性に好かれる繊細な容姿をしているとは思えない。こちらが気が付いたことに娘も気が付いたらしく、消えるように路地の奥に姿を消してしまった。放っておいても良かったろうが、奇妙に気になった彼は娘を追って路地に足を踏み入れる。どうせバスの時刻表は信用できなかった。
娘の姿はすぐに見つかった。こちらは自分とは違って充分に繊細といってよい外見をしていると思うが、眼鏡の奥に光る視線は些か気が強そうかもしれない。警戒しているのか、非難がましくも見える表情をしているが考えてみれば年若い娘を追うというのはいかにも無粋である。今更のように気が付いた彼はさてどう言い訳をしようかと考えたが、口火を切ったのは娘の方からだった。
「君の仕業か?」
まるで意味が分からない、その言葉によほど呆けた顔をしていたのだろう。娘の表情が変わるが次の瞬間、鈍い衝撃に襲われた彼は自分の背が低くなったことに気が付いた。違う。倒れて膝をついているのだ。突然背後から現れて自分を襲った小さな影は、飛び跳ねるようにして娘に襲い掛かろうとしている。ありえる動きではない、だいたい長身の彼が頭上から殴られたというだけで尋常ではなかった。
咄嗟に身構える娘だが、思い切り影に弾かれると受け身を取りながらも華奢な身体ごと塀に打ち付けられる。情けなく倒れている自分よりはよほど身軽な反応だが、悲しいかな力に欠ける。道化のように跳びまわっている影に、彼の心中にふつふつと怒りが沸いてきた。だいたい後ろから殴られて引き下がるほど人間ができているつもりはない。捕まえてやろうと手を伸ばすが、小さな影が今度は彼のふところに飛び込んできた。
おや、と思う間もなく黒く鋭いものが自分の腹に突き立っている様子に、彼は信じられないものを見ている気分になる。当然だろう、なぜ町中で自分が鋭い刃物に刺されなければならないのか。まさかと思って先ほど殴られた頭に手をやると、そちらもぬるりという感触があって手のひらが赤黒い流れに浸されている。これはもう駄目だ、どうやら自分は死んでしまうらしい。
どうせなら何か格好いいことを、一度くらい特撮番組のヒーローみたいな活躍をしてから死にたかったと思う。こんな年になっても彼はヒーローに憧れているのだ、そう思ってから大事なことに気が付いた。ここで自分が倒れたら目の前の娘が危ない。どうせ駄目なら駄目なりに、せめて彼女くらいは逃がしてやるのが彼の憧れるヒーローというものではないか。
(目覚めよ、オーガ。それがお前の名だ)
どこかから声が聞こえた。彼は子供の頃の記憶と、血の底に秘められた呼びかけを掘り起こす。力強く立って両足を開くと半分無意識のままに左の拳を強く握り、右の拳を腰だめに構えてから息を止める。オーガ、それは鬼の名前だったが、彼はその響きにヒーローらしい言葉を与えることにした。左腕を引くと同時に、右の拳を高く突き上げる。
「皇牙・・・轟雷鬼神、皇牙!」
轟雷鬼神は即興で考えた。彼のつけた名前はただの鬼であったオーガの名に、彼の憧れるヒーロー・皇牙の意味を与える。全身が硬質化して牙や角が生える異形の姿は、単なる鬼でも化け物でもない、赤い鎧に身を包んだ特撮ヒーローに似た姿をしていた。驚きの顔を見せているのは娘だけではなく小さな影も同様である。こんな鬼は今まで見たことがない。
伸ばされる皇牙の拳を小さな影は寸ででかわし、邪な刃で切りつけるが赤い鎧に弾かれて傷一つつけることができない。今度は左の腕が伸びて影を捕まえる。力も、速さも尋常ではなかった。そのまま引き裂いてしまうかと思えた矢先、皇牙の手が開いて影は地面に落ちる。落ちると同時に飛び上がって、影はもう一度皇牙に襲いかかってきた。今度は皇牙の右の手のひらが小さな影の頭をわしづかみにする。
「粉砕、轟雷掌!」
掴んだ手のひらから激しい雷が弾け、閃光になって小さな影を貫く。断末魔の声を上げた影はかき消されるように姿を失うと元の世界に戻っていった。
彼の姿もまた鎧をまとった鬼の姿から、元の人に戻っていく。傷はいつの間にか消えていたが、服の方々が破けてしまったのがいかにも気恥ずかしい。感謝と驚きの双方が混じった目で娘が近寄ってきた。なんでも最近、この近隣で人を襲っていた小鬼がいたこと、彼の異様な気配に彼こそがその鬼ではないかと疑ったこと、まさかその彼が見たこともない姿に変化するとは考えもしなかったこと。娘の話は彼にとって何もかも分からぬことばかりだったが、少なくとも白昼夢ではないようだ。
一通り話した後、なぜあの時捕まえた鬼の手を放したのかと娘は訝しげに聞いてきたが、彼には自分が小鬼よりも強いことが分かったから倒さずとも懲らしめることや戒めることができたかもしれないし、もう一度襲ってこなければ話をするつもりでいた。彼がそう言うと娘は心から意外そうな顔をしてから、少し首を傾けて和やかな笑みを浮かべる。
「なるほど、君は立派なヒーローのようだ」
笑みを収めた娘は彼に、一緒に来ないかと問いかける。この世の中には妖が原因で起こるもめごとを解決する組織があって、彼女はその一員だというのだ。なんとも荒唐無稽な話だが今更信じない訳にはいかないし、彼にとってはそんな些細なことよりも自分がヒーローになれる事実が重要だったろう。その彼自身、自分の他愛ない思いが鬼の姿すらも変えてしまったことに、それが鬼でありながら人でもある皇牙の力であることに未だ気が付いてはいない。
次は変身するときの掛け声と決めポーズを考えよう。深刻な顔をした彼がそんなことを考えていたことを、娘は知るよしもなかった。
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