ヒーロー誕生・2


 あれ以来、皇牙が異形妖に関わるようになってしばらくの時が過ぎている。彼自身も知らなかった、鬼の血を引く力を殊更に騒ぎ立てる連中がいなかったことは意外だが、あるいは人以外の存在とは彼が思っていた以上に珍しいものではないのかもしれなかった。

「君の力を借りたい。手を貸してくれないか」

 今までは知ることもなかったが、町には異形や妖の類がごく当然のようにあふれている。多くの人はそれに気が付いていないか、気が付いていてもそれを語ろうとしないだけなのだ。大人は子供たちに本当のことを教えてはくれない。それを教えてくれるときは、子供が本当に大人になったことを認めてもらえたときなのだから。

 異形や妖の類は様々な理由によって生み出されるが、それらは自然というよりもごく当然にそこに存在しているものだ。塀を歩く猫や街路に立つ樹木、流れる風やごみ置き場にたまる汚水、それらにはすべて意味が与えられている。たとえば猫という名前には、この小さな生き物に与えられた多くの意味が込められている。だがこの世界には意味だけが先に存在するものがある。暗がりの道で誰かが足をつまづかせたとき、人はそこに何かがいたという恐れを抱くが恐れがやがて確信に変わるとそれは意味を持って名前を持ち異形の姿を与えられるのだ。小豆洗、釣瓶落、煙羅煙羅、泥田坊、挙げていけばきりがない。年経た道具や思いを込められた道具に付喪神が宿るという伝えも、そうした道具が意味を持つことにより異形と化した姿であるのだ。
 相談したいことがある、そう言われた。最近、県道に続いている旧街道でオートバイの事故が頻発しているらしい。彼自身も風を切って走る姿にあこがれて、誕生日になるや免許を取ると近所の店からスクラップ同然の単車を譲り受けていた。手ずから磨いて息を吹き返した愛車、命名ファントム二世号はときおり機嫌が悪くなることもあるが、貴重な彼の足となっている。無論、一世号はそれまで彼が乗っていた自転車の名前だ。

 一時期暴走族なるものが巷を席巻し、大勢で騒音を撒き散らしながら街道を徘徊していたこともあるが昨今ではそれも珍しくなっている。頻発する事故が異形妖の仕業である疑いがある、という言葉は彼の太い眉をひそめさせた。それが人であれ妖の仕業であれ、事故を起こさせるものがいるのであれば放っておける話ではない。
 彼はメイヤと呼ばれる館、マンションと称するが外観といえば古びた館に毛が生えた建物の一室を借りて暮らすようになっていた。メイヤとは迷い家、古い人の言葉で隠れ里と呼ばれていて彼のような人ならぬものが居を構えて人の世界との間に曖昧な接点を保っている。旧街道の話を思い浮かべながら、彼は好物のカレーライスを胃袋にかきこんでいた。傾いた普請は扉の立て付けが悪く、開け放たれたままの玄関の向こうに住人の女性が通りがかると、苦笑するような顔を見せて自分の部屋へと行き過ぎてしまった。妖の中にも人と親しく暮らすものがいる。彼女もまた彼と同じようにメイヤで暮らす異形の化身だった。

 世の中にどれほど異形や妖があふれているのか。彼らのほとんどはごく当然に存在している、人にとって無益で無害な存在に過ぎなかったが中には人に害をなすものも存在する。人を害することを望む思い、それが意味を持てば禍々しい力にならざるを得ず皇牙が拳を握り、打ち倒そうとするのはそうした歪んだ意味である。それは人であり異形である彼が人と異形の争いに無心でいられない事情がある一方で、誰であろうと他者を害する行為を皇牙の正義は容認することはできない。力とは何かを守るためにあるべきなのだから。
 事実であれば放置できる話ではない。そう思って件の旧街道を何度か走ってみたものの、それらしい気配にはようとして出会うことができなかった。捜査と考えれば空しいが、愛車ファントム二世号で走ることは気分がいいし事故の噂を聞くこともできた。すでに中年と呼べる、人当たりの良さそうな男性が語るところでは事故に会った者は昔この界隈を走っていた暴走族の旗を見たらしい。レッド・ブルと呼ばれる、勇ましい雄牛を掲げて純粋に走ることが好きな連中だったと言うといかにも懐かしげに目を細めていた。

 その日も県道まで一巡りして、メイヤに帰ってきたところで門前にいる女性に会う。窓口が閉まりそうだから銀行までひと走り乗せてくれないか、という気軽な言葉に自分が異性として認識されていないことは明白だが、バイクやヒーローに熱中している子供であれば女性の眼中に入らずとも無理はあるまいと思う。断る理由もなくファントム二世号に足をかけると、彼女も最初からそのつもりであったのだろう、ヘルメットを手に後ろにまたがった。開きっ放しの彼の玄関に転がしていた予備のヘルメットだ。
 銀行は県道に出る手前の場所にある。赤い日差しを身体の半分に浴びて、旧街道を走るがふと周囲が異様な雰囲気に包まれていた。いつの間にか、周囲に一台の車も一人の通行人も姿が見えないのだ。今が逢魔が時と呼ばれる、世界が昼のものでも夜のものでもなくなるわずかな一瞬であることに気付く。

(走れ。そうだ、走れ)

 背後から一台のオートバイを駆る人のような姿が現れると、音もなくファントム二世号に並ぶ。雄牛の印がたなびく旗を掲げる、それは人ではありえなかった。いかめしい車体に甲冑のような姿がまたがっており、全身からは赤い煙のような火のようなものが吹き出されている。

 一瞬ほど迷う。後ろに乗る彼女を下ろすべきではないかと考えたがおそらく彼女が人あればそうしていたかもしれない。それが差別だと言われれば甘んじて受けるしかないだろうが、ここで減速して異形を逃す訳にもいかなかった。ファントム二世号の速度が上がるとレッド・ブルからはどこか満足げな様子が感じられる。そうだ、もっと走れ。風を切る感覚は全身に心地よくいつしか速度計の針は限界を振り切っていた。
 刹那、何かが空転するかのような失調感が過ぎる。加速と負荷に耐えかねたファントム二世号の車体がエンジンから火花を吐き、急速に視界から動きとバランスが失われた。宙空に放り出される、その勢いのまま地面に叩きつければ命どころか肉体すら潰れて血袋と化すであろう。

「皇牙・・・轟雷鬼神、皇牙!」

 鬼の血が呼び覚まされる。空中で彼の全身が変化して硬質の鎧をまとうと特撮ヒーローめいた皇牙の姿が現れた。両脇に愛車と女性を抱えて、身体をひねりながら回転させると地を蹴るように降り立つ。両手を放し、おもむろに構えを取ると轟雷鬼神、皇牙の名乗りを上げた。彼の思うヒーローは登場したのであれば名乗りを上げなければならない。だが旧街道をさまようレッド・ブルは皇牙を置いて遥か先に消えてしまっている。追うことができるだろうか。

「仕方がないわね、あなたの持つ『意味』を借りるわよ」

 皇牙の事情を理解したのであろう、彼女の全身が青く淡い光に包まれると、優美な姿をした一頭の駿馬が現れる。異形である彼女の本来の姿は、風を切って走る思いと人馬が共にある高揚感を象徴していた。古来より時代と地域を問わず馬は神聖であり人と共に暮らしてきたのだ。だが今は彼女に更なる意味を与える必要がある。駿馬を包む青い光はなおも輝きを増すとファントム二世号の車体をも呑み込み、彼女は更に姿を変えて鋭角的な二輪を持つオートバイへと変化した。皇牙の巨体がまたがると、空気を震わせるほどの圧倒的な排気音が逢魔の世界に重く轟く。

「よし!行くぞ、馬神・ファントム!」

 一瞬で最大速度に達したファントム号が逢魔の世界に伸びる無限の直線を駆けると、異形と化したレッド・ブルはすぐにその姿を現した。速度への憧れが生み出した新しき異形、だが人の心が眠る鬼はその本質とささやかな望みにも気が付いていた。
 それは放置されていた速度への憧れである。かつてそれはただ純粋に走ることだけを求められていた。大勢で集うことも、わめき立てることも、騒音を撒き散らすことも目的ではない。大型車が行き交う長い直線の県道、山林と湖に囲われた起伏の激しい峠道、横合いから風が殴りつける海岸沿いの道。それはただ走ることを求めていたが、やがて共に走る姿は一人減り二人減ると、背にまたがる者もいなくなって錆が浮いた身体は打ち捨てられたのだ。取り残された雄牛の旗などもはや気にする者はいなかった。

 それだけならば良かったのかもしれない。我慢がならなかったのは周囲で同じ境遇をかこうスクラップたちの存在ではなく、彼らの後を継ぐものたちの存在がないことであった。ただ純粋に走るべくオートバイを駆る姿が減って久しい。周囲をスクラップに囲われる怒りよりも、そのスクラップが増えることがなくなった寂しさにそれは絶望する。
 なぜ走らない。俺たちを駆って、一人でも二人でもいい、走ることの意味を感じてくれ。その思いが姿を得ると異形と化して人に走る意味を伝えようとした。それが事故をもたらしたのがすべて異形の責任とばかりはいえない。レッド・ブルの存在に驚き運転を誤った者がいた、レッド・ブルに教えられたスピードに拙い技量が及ばなかった者もいた。彼らは自らの意思で走ることへの誘いを受け入れたのである。

 だが、それでも見過ごすことはできない。皇牙は疾駆する異形の傍らに車体を並べると速度を合わせて更に加速する。これがお前の望みであれば堂々と受け入れよう。異形が誘うスピードに皇牙は耐えてみせる、ならばお前はどれだけの走りを皇牙に与えることができるのだ。
 硬質の鎧をまとう鬼であったとしても、オートバイを駆る腕前が増す訳ではない。逢魔の世界を伸びる道は果てのない直線で速度計の針はとうに限界を振り切っており、時速数百キロメートルを超える世界ではわずかなバランスの崩れや動きのミスが、そのまま転倒へと繋がるだろう。

「だがそれでいいのか、走ることはただ速いことなのか。お前が襲った人々はオートバイに乗る人々であったのに、それを事故に巻き込んでお前は満足しているのかよ!」

 皇牙の叫びにレッド・ブルは加速を続けながら答える、その様子が変わった。そうだ。そうだ。そうだ、お前の言う通りであろう。俺の望みはただ走ることであった筈なのに、俺は俺の背にまたがる者たちを襲っていたというのか。二台の異形は併走して時間をはるか後方に消し飛ばしていたが、遂に一方の姿に細かい無数のひびが走ると細かく割れて砕けはじめる。レッド・ブルはそれでも加速を止めようとはせず、皇牙もまたそれに併走して離れることがない。自ら望んだ行為が間違えていたのだとしても、それがレッド・ブルの意味であれば全うしよう。
 走ること、それは人に多くのものをもたらした。だがどこへ行くためでもない、ただ走ることに俺は満足していた筈だった。どうやら俺は道を間違えてしまったが、お前が、俺の望んだ本当の意味を受け継いでくれるのであれば俺は自分の罪を受け入れることができる。俺はもう一度、仲間たちが眠るあのスクラップの山に帰ろう。俺はレッド・ブル、かつて人が走ることを望み、風を切りはためいた牡牛の旗である。

 それを最後の意味に残して、異形は砕け散った。全身をきしませる皇牙がファントム号の速度を落とすと逢魔の世界がゆっくりと動きを止めていく。日は落ちてごく短い刹那に駆け去った異形の思いを追いながら、皇牙はしばらく地平線に無言の手向けを捧げていた。

 ブル・ファントムはいかにも女性の名前に相応しくないと不平を述べる。気が付けばそこは未だ旧街道の一角であり、さほど長い時も過ぎてはいなかったが銀行の窓口はとうに閉められたことだろう。人の姿に戻った彼女はそのことには何も言わなかったが、二つの意味を受け継いだ名前には今でも納得していない。それは彼女の内にあり、馬神ブル・ファントムは皇牙を乗せるためにいつでも姿を現すことができる。だが彼はその名前を変えるつもりはないのだ。ブル・ファントムは彼が磨き上げた愛車の名であり、消え失せた異形から疾駆する意味を受け継いだ者の名前であるのだから。
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