番外・春菜・2


 知っているかしら?
 道にはね、くるまおばけというものが隠れているのよ。


 同時に突き出された錫杖と大太刀が一体の異形を切り伏せます。俊速で、高槻春菜と冬真吹雪が振りかざした技は瞬きの間ほども時を違えることがなく、直線と弧線の軌跡を描いて同時に襲いかかる一撃は人にも異形にも容易く防げるものではありません。人の世に生まれた妖を人の手で斬る。それはこの世のものならぬものが人の世界に生まれ、それが人に仇をなし、それを封じることもできず切り伏せる以外に道がなくなったときの最後の手段です。斬られた異形は力を失って姿を消し、それは彼らが生み出された世界に返されることを意味していましたが切り伏せた者の手にはその感触が失われることはありません。

「どうしたの?」
「うん?ああ、いや、何でもない」

 白々しい言葉に、白々しい言葉を返します。どれほど優れた技であったとしても、どれほど心を合わせた技であったとしても、手を血に染める一撃に彼らが快さを覚えることは決してないでしょう。自己弁護すらすることができない、彼らは人が人の世界を守るために、人ならぬものに手をかける傲慢と罪を知っています。それでも、未だ高校生でしかない彼らは罪に汚れたその手を自覚して、背中に並んでいる後輩たちの目に凛とした姿を映していなければなりませんでした。何かを振り払うように軽く首を振って、ことさら戯けた顔をして吹雪が言います。

「今日時間あるだろ?メイヤでお茶でも飲んでこうぜ」
「ちょ、ちょっと。まだみんないるんだから」

 軽く、肘打ちが脇腹に入ります。吹雪と春菜の間柄は周囲の皆も知るところで、下級生には優しくて面倒見もいい高槻先輩がどうしてあの恐ろしげで乱暴な冬真先輩「なんか」と仲が良いのか理解に苦しむと思われていましたが、彼らはそれを敢えて隠そうともしていません。とはいえ積極性と消極性には多少の差があって、吹雪はいざとなれば人目をはばからずに春菜に好意を示すことができますが、春菜はといえばそこまで思い切ることはできないようでした。もっとも、その春菜の反応を吹雪が楽しんでいる一面はまちがいなくあったでしょう。ささいな問題があるとすれば、外見では平然をよそおっている吹雪の脇腹が実はけっこうな痛みと悲鳴を上げているということでした。
 剣術研究会とオカルト・ミステリー倶楽部。学園に設けられた奇妙な二つの活動は将来異形や妖に対する剣士や術士たちの予備軍を育成する場であると同時に、実際に活動に関わる場としても非公然に知られていました。誰かがやらなければならないことであれば、背を向けずに力持つ者が行う。幼い頃から人には見えぬものが見える者たちはこの学園の存在を知ると、時には決然として、時にはためらいながら門をくぐり人の世を守る存在となることを目指します。この町で生まれ育った春菜も、遠く上京した吹雪も人に見えぬものが見えていた点では変わりません。

 マンション・メイヤとは名ばかりの古びた洋館で、そこはかつて彼らの先輩が暮らしていた住処でした。古来より隠れ里と呼ばれている、この世界と異なる世界の境目に存在する場所は世界のあちこちに口を開いていて、その曖昧な場所には曖昧な存在である異形や妖が多く住んでいると言われています。人の目が届かない薮や茂みの影、崖裏にあるひびわれた暗がり、時には傾いた廃屋の離れや高層ビルの狭間にある古びたちっぽけな社まで、隠れ里に至る扉は一様ではありません。そこは人も妖も訪れることを許された、昼と夜の境にある逢魔が時なのですから。
 敬愛する先輩が今はチベットの雪山を走っているとか京都の古寺を眺めているとか、聞かされた時は流石に唖然としましたがいかにも彼らしい話だとは思います。彼自身が半人半鬼である、正義の味方はこの町を旅立つと人の世に混乱を望むものたちをその拳で打ち据えるべく方々を駆けめぐっているようでした。自らが異形の血を引くからこそ、人と妖が手を取る理想に憧れながらもそれが叶わぬ現実から目を背けずに戦う。龍波輝充郎の姿は吹雪の憧れであるだけではなく、春菜の憧れでもあります。

「先輩、早く帰ってくるといいわね」
「全くだよ。俺がどこにいても帰る家はここだなんて言ってたのにな」

 どこか不服そうな吹雪に春菜は苦笑を漏らします。親しいとか頼りになるとか、それだけではない輝充郎の強さは子供がヒーローに憧れる単純な崇敬の思いを彼らに抱かせるものでした。その意味では吹雪も春菜も未だ自分たちの幼さを自覚していましたが、吹雪にはメイヤの先輩を待っているもう一つの理由があります。
 ちりん、と鈴の音が聞こえて振り向くと、幼い娘が湯呑みと菓子を乗せた盆を手に立っています。その姿に思わず柔らかい笑みを浮かべて、幼い鈴の妖怪が差し出している好意に春菜はごく自然に微笑むと小柄な頭に手を乗せました。罪に汚れていても妖を慈しむことができる、その事実に春菜がどれほど救われているか、おそらく当人でさえも気が付いてはいません。初めて、彼女がメイヤを訪れることができた日のことを吹雪は今でも鮮明に思い出すことができます。心から泣くことと笑うことを許された彼女は、以来、たびたび吹雪に誘われてはメイヤを訪れるようになっていました。

(もう一つ、俺が憧れる姿が見えるようになったんですよ。先輩)

 異形に対し、妖を討つ。それを避けることができない現実が彼らの足を深い泥に浸していたとしても、いつかたどり着く先には小さなトウカが灯る花畑が待っているかもしれません。かくもささやかな、小さな春の道は少しずつ延びてレンガは敷かれていき、やがて誰もが歩くことのできる街道になっていくのでしょうか。
 親しげに腕を掴まれて、引かれていく春菜に小柄な妖がまたお話を読んでよとせがんでいます。どんなきっかけであったか、ぎこちない物語に拙い絵を添えた春菜の「絵本」はいつの間にかメイヤの人ならぬ子供たちにとって楽しみの一つとなっていました。吹雪がどれほど贔屓目に見ても上手いとは言えそうにない、彼女の物語がこれほど気に入られていることを知れば輝充郎は何と言うでしょうか。その時の顔と言葉が吹雪には楽しみでなりません。


 それはね、車の前や後ろの影にこっそりと隠れようとするの。
 近づいた人をおどろかせようとしているのね。


 疾駆する二輪。背に跨っている大柄な青年はつい先頃までは海の向こうで大雪をかきわけて走っており、故郷の国に戻ってからも山中で風を切って峠道を抜けるばかりという生活を送っていました。進んで買っている労苦は龍波輝充郎が半人半鬼だからという訳ではなく、彼がヒーローであることに躊躇うことがないからです。流れ続けていた風景が峠の分かれ道で止まり、ヘルメットの庇を上げて大きく息を吐き出した青年は一人呟くには大きな声で言いました。

「あいつら元気にしてっかな。まあ今帰っても怒られるのが先だろうがな」
「あら、大変ですね。頑張って言い訳を考えておいてくださいね」
「蒼子さん、それは酷いだろ?」

 やや情けない声で苦笑する、輝充郎が話しかけている相手がオートバイの姿をしていることを人が見れば奇異に思うことでしょう。彼のパートナーもまた姿を変えることのできる異形であり、同じ異形や妖がもたらす騒動を収めるために拳を握って戦う、それがヒーローである彼らの望みであり日常でした。その点で彼らの活動は今も懐かしいメイヤにいる吹雪や春菜と変わるところはありませんが、輝充郎の拳を求める者はより広くより多くの場所で彼らを待っているでしょう。ただ青年は彼を慕う後輩ほどに自分はパートナーに優しく接していないだろうと、些か冗談めかして考えます。

「輝充郎さーん。自覚があるならもう少しパートナーを労ってくださいねー」

 口に出して言っただろうかと、再び苦笑した輝充郎ですが最近の強行軍を思えば彼女の不平ももっともに思います。一つ首を振るとヘルメットの庇を下ろし、座りなおした輝充郎は付近の温泉街に続く筈の道へとオートバイの向きを変えました。背上の意図にすぐに気が付いたらしい彼女も覚えている限りの記憶と知識を思い出しながら、さて露天を選ぶか料理を選ぼうかと思案しています。懐かしい顔を見る機会はもう少し先になりそうですが、その時は女性観についての話も聞いてみるべきだろうかと、どうもヒーローに相応しくない考えが輝充郎の頭を過ぎっていました。


 くるまおばけは、とても大きな目とおそろしい声をしているの。
 いつもは見えないけれど、車よりもずっと大きいのよ。


 学園の図書室には古来から伝わる異形妖にまつわる文献や資料が多く収められています。それは史料や郷土資料の姿をとって一般の学生にも見られる場所に置かれていましたが、文化を記録として遺しているそのこと自体は書物本来の役割でしかありません。春菜であれば人ならぬものに関わらずとも山のような文献をたびたび紐解いていたでしょうし、それは彼女の友人にも言えることでした。とはいえ四人掛けの小さな机を積み上げた本に占拠させている鴉取真琴はともかく、本といえば漫画と雑誌しか読まないと豪語する多賀野瑠璃には過ぎ去った時間は少々静かすぎるものだったでしょう。場所柄、声を低くした瑠璃がいかにもわざとらしげに囁きます。

「知ってる?図書室には三種類の人間がいるのよ」
「三種類?」

 唐突に何を言うのだろうと、顔を上げた真琴がまばたきを繰り返すと瑠璃は構わずに続けました。

「一つは本を読んだり調べたりするために来る人間。一つは静かな場所で勉強をするために来る人間。そして一つはフルーツパフェが食べたくなる人間なの」

 無言の時間がしばらく過ぎて、ゆっくりと真琴が指先を伸ばすと瑠璃の額をはじきます。疲れたなら素直にそう言いなさいと、小声で注意しながら笑いを堪えるのに苦労していました。どこか頼りない友人が、今一つ頼りないままであってもこれだけ冗談が言えるようになったのかと思えば収穫ではあるのでしょうか。冗談の質はともかく、目的以外の書物を意図的に積んでいた自覚のある真琴には瑠璃の言い分も理解できました。
 文車妖妃よろしく、積み上げた本の山から顔を上げた二人は多少、予定より早く席を立ちます。真琴の傍らにいるのが春菜であれば倍の高さに本が積まれていたとしても不平の声すら出ないでしょうが、瑠璃が誘うパフェの魅力に惹かれていない訳でもありません。剣術研究会の真琴や春菜が足しげく図書室に通う一方で、瑠璃たちオカルト・ミステリー倶楽部の面々が遅れをとっている事情は問題がなくもありませんが、瑠璃が真琴に付き合っているのも友人だからというばかりでなく彼女なりに思うところがあるからでしょう。真琴や春菜はもちろん、ジャーナリスト志望を公言する吹雪の姿も図書室でたびたび見られていることを思えばオカミスにもこの方面での戦力強化は必要です。

「春菜ちゃんあたりがオカミスに入ってくれるといいのにねえ」

 どこまでが本気でどこまでが冗談か、真琴の耳にも判別しづらいところでしょう。新学期を迎えて、剣術研でもオカミスでも新入生が増えていましたがそれは新しく上級生になった者たちがより大きな責任を持つことを意味してもいます。彼らや彼女たちなりに新しい責任に慣れようと苦労をしている、それは真琴であろうと瑠璃であろうと変わるところはありません。
 真琴が本筋とは多少、外れた本を積み上げていたことには理由があります。剣術研究会とオカルト・ミステリー倶楽部。異形や妖に対する者たちの予備軍を育成するために学園には非公然とした二つの組織が設けられており、彼女たちはそこで一年ほどの時を過ごしました。ですがその中で実際に退魔業を営む者や、県外の組織と交流を持つ中で真琴はたびたび首を傾げることになります。知識も豊富で術にも技にも長けている、にも関わらず彼らは例えば先輩や同僚に比べてどうして今一つ頼りづらいのだろうかと。

「だって真琴ちゃんは陰謀策謀大好きだもんね」
「瑠璃さーん?」

 不本意な評価はともかくとして、瑠璃の言いたいことは真琴にも分かりました。対妖怪強硬派と穏健派が内部対立を続けていて、しかも未熟な者たちの集まりでしかない両倶楽部ではごく小さな異形の一つに対するときでも大仰な騒動になるのが常でした。顧問の思惑で相手に先んじようとしたり、素人同然の力で解決できる手段を探したり、斬らずとも封じる方法を求めて頭を悩ませたり。
 そして存在しない正解を探さなければならなかった彼女たちは、ごく普通に自らの選択に疑問を持つことを身に付けていました。妖怪が現れたから退治しなければならない、封印が破られたから戻さなければならない。そうしたマスト・ビーの思考は彼らには縁が遠いものでした。春菜と吹雪が対立をして、一方的な主張に疑問を投げる。であれば真琴にしたところで、解答を示す一冊の本だけではなく何冊もの寄り道を用意しておかなければ彼らと話をすることもできません。人が強くなる選択肢を探すことができる、それは自分たちが未熟であればこそできるのですから。

「でも先程の話、春菜ちゃんが入ったら冬真君もついてきますよ?」
「いえいえ、それもまた面白いではありませんか真琴さん」

 奇妙な口調と奇妙な表情で笑う、友人たちの話の種にされていることなど、いくら春菜が人の感応に優れていたとしても知る術もなかったでしょう。彼女の友人たちがフルーツパフェに至る道を歩いていると同じ時刻、湯呑みと菓子を囲んだメイヤの一室では小さな娘を相手にたどたどしい物語を綴っている春菜の姿と、それを眺めている吹雪の姿がありました。


「でも剣術研に入ればお嬢様扱いされるかな、と思ったのは半分本当よ」

 何の話の折りであったか、少しおどけた様子で春菜はそう言っていました。もう半分の理由は単純なものです。剣術研究会は異形や妖に対して強硬派とされていたからこそ、人の世界に仇なすものを剣持て退けると聞いていたからこそでした。野蛮で、乱暴で、傲慢な方法を用いなければ人と人ならぬものたちの境界をつくることができないのであれば自分はその方法を選ぼう。そして、その境があれば人はようやく壁越しに異形の姿を見ることができるのではないだろうか。
 それが正しい方法でないことは春菜も充分承知しています。ですが人は強くなることができるし、人が強くなればもっと彼らには選択肢が増えるかもしれません。いずれは妖怪を退治しなくても、妖怪を止めることができるようになるかもしれません。そして人が愚かな頭でその方法を考えている間にも、汚れた手で境を守る者は必要になる筈でした。

「考えてくれる人がいるなら、私は守る人になろうと思ったの。いつか、何かが変わるまでね」
「春菜らしいが、そいつはお嬢様の台詞じゃないな」

 吹雪にはその理由が分かっています。彼女が望んでいることは人の世界を守ることであると同時に、妖の存在を守ること。この世界は妖の世界ではなく、春菜の望みは傲慢さの結実でしかないのかもしれません。ですが、曖昧な境界をあえて定めることで、互いが許されるのであればそれは春菜にとっての正義でした。彼らが異形や妖に対する人々と出会い、違和感を感じて対立せざるを得なかったことも無理はないでしょう。人の世界を守るために人は知恵を尽くしていますが、妖をそれがあるべきところに還す、そう考えていた春菜の思いは皆と重なりながらもどこか少しだけずれていたのですから。

(かく言う俺も、彼女がメイヤに来なければ気が付かなかっただろうな)

 多少、自嘲まじりで心中に呟きます。自ら血を流すことも辞さない、恐ろしい娘だと思っていました。傷つきながらも決して目を背けず背を向けない、強くも哀しい娘だと思いました。そして、本当は誰よりも理想に憧れている、優しい娘であることに気が付くことができました。どの姿も間違いなく春菜のものですが、いちいち知ることができなかったのは吹雪の未熟なところだったでしょう。そして小さな妖怪の子を相手にして、妖怪の物語を紡いでいる姿。それもまた彼女の姿なのです。


 でもね、くるまおばけは白いペンキが苦手なの。
 だから道路には白い線がひいてあるでしょう?

 人が横断歩道を渡るようになってから、くるまおばけは人をおどろかさなくなったのよ。


 なんとも子供っぽい話を、拙い絵に添えて語る春菜の様子に吹雪は苦笑しています。わざとらしく教訓めいたお話が、不思議なほど心に残るのは彼自身もまた子供っぽいからなのでしょうか。聞いたこともない、くるまおばけとやらの話がいつか本当に、意味を伴って新しい異形として生まれてくるのではないか。だとしたら春菜の物語は人の世界に妖を生み出す、滑稽な所業でしかないのかもしれません。あるいは妖の子に読み聞かせた妖怪の物語が、人ならぬものが新しい異形を生み出すきっかけとなってしまうかもしれません。
 大仰に過ぎるな、と首をゆっくり振ると吹雪は視線を一人の少女と、幼い娘めいた姿に戻します。想像力を秘めた瞳を見つめる、心からの眼差しを見れば小難しい理屈はどこにも必要がないのだと知ることができました。笑いながら、また読んでねと言われる言葉がたまらなく暖かい。それだけで充分な筈です。

 たった少しずつでも、何かが変わってくれればいいと思います。目指す地は遠く、ぬかるみの道は長く、血と泥に浸された足は膝までを埋めてレンガを敷いていく手は冷たさに凍えている。時折、道の端に咲く小さな花の姿が彼らの疲れを和らげてくれる。そう思っていました。
 ですが季節が巡り、道端の小さな花が種を飛ばし芽吹いて根を広げれば、ぬかるみの道は少しだけ固められて受け止めた日が地面を暖めてくれるかもしれません。春菜が描いた拙い絵本は、その後も長く残って何冊かは町の児童館に収められることになります。泥の道は案外、いつまでも泥ではないかもしれません。彼女が進む道の先は未だ彼女にすら見えていませんが、少なくとも吹雪はその傍らを歩き続けることを誰にともなく誓っていました。暗くなった窓の外に視線を向けて、彼が従うべき者に声をかけます。

「それでは高槻先生、長居してしまいましたがそろそろお暇しましょうか?」
「それでは残念だけど帰りましょう。私たち二人のお話の世界へ」

 その言葉にどうも彼女にはかなわないと、おどけてみせるふりをしながら少しだけ鼓動を速めた吹雪は一見、平然とした様子で春菜の手を取るとメイヤの住人たちに別れを告げて古びた洋館を後にします。昼と夜の境にある逢魔が時を一歩出れば、外はもう人が安らいで妖が踊る世界の帳に覆われていました。なるほどこの世界が人のものであったとしても、妖が住まう場所は決して少なくないのかもしれません。

「・・・今日はありがとう」

 妖を切り伏せた、汚れた手を眺めて眠れぬ夜を過ごすとしても、それを忘れることができなくとも少しでも和らげることができればいい。自分を招いてくれた好意に、春菜は心からの礼を言いますが吹雪は曖昧に返事をしただけで顔を向けることもなく、とうに落ちた夕日を探そうとするかのようにあらぬ方を見やっていました。誰よりも優しい、この人らしいと微笑んだ春菜は胸の奥に小さな暖かさを抱いたまま傍らの腕に身を寄せます。
 腕から伝わってくる暖かさと柔らかな感触に、多少、邪な思いに心を捕らわれた少年はいつもより少しだけ互いの距離を近しくすると恭しく少女の手を取りました。次に訪れる物語の続きを楽しみにしながら、妖の世界に見送られる彼らは家へと続く道を肩を並べて歩きます。空にかかる月は人と妖の双方を見守っていましたが、吹き抜ける風は彼らをからかうようにして季節の間を流れていきました。
他のお話を聞く