ヒーロー誕生・4
夜の車道をいくつもの灯火が流れ過ぎていく。白と赤に塗り分けられた、光の流れはそれが何本もの帯であるかのように連なっていて、その一つ一つが車の一台一台であることに奇妙に感心させられる。たいていは大小のトラックやタクシーなど夜半に走ることを心得た業務用の車両であることが多いが、中には事情があってこの時間に暗がりの車道を走っているものも少なくない。
視界の悪い夜半や明け方にいたる時間帯ともなれば、こうした車道で事故が起こることもありえたがその理由は様々だろう。運転者の不注意が原因になることもあれば他者の飛び出しが引き金になることもある。
事故の結果も深刻なものから軽いもの、警察の記録に残るものからそうでないものまで枚挙すればきりがない。ガードレールにバンパーをぶつけてしまったとか、車道を行き過ぎた猫をはねたという程度であれば事故を起こした当人に放置されることも珍しくはなかった。
「いったい何に出くわしたらこうなるのかね」
回転灯の明かりを横顔に受けながら、事故現場に立ち会っていた中年の警察官が首を傾げている。その一帯は県道を外れた迂回路として使われていることが多く、昼間は通学路になっているが夜になれば人通りがほとんどなくなることもあってつい速度を上げ過ぎた車が事故を起こしてしまうこともままある場所とされていた。子供が通る場所であると近隣から苦情が出たこともあり、通学時間帯の車両の乗り入れは特に制限されるようになっている。
これだけの事故で、怪我人はいたが人死にが出なかったのは幸運としか言いようがない。中型のどこにでも見られる乗用車は前半分が正面からひしゃげたように潰れていて、車が前後に短くなったように見えるほどである。
事故の原因が速度の出し過ぎにあったことは間違いなく、よほどの勢いで何かにぶつかったことも疑いないが奇妙なのはその相手が見つからないことであった。目撃談はなく、逃亡した形跡も見つからない。ありうることだろうかと、警察官はもう一度首を傾けるが手がかりらしきものすら見つけることはできなかった。
◇
カレーライスは最高の食べ物だと彼は思っている。たっぷりと盛られた白米によそられているカレーから立ち上る湯気と香辛料の匂いが食欲を刺激して、それだけで口の中によだれをあふれさせそうになる。
肉が入っていると旨味が増すが、やはりカレーには野菜がごろごろと入っていなければならない。タマネギやニンジンにジャガイモ、こうした野菜の甘さがカレーの刺激の中でいっそう引き立つのであり、それらが胃袋にかきこまれる至福の時間は目の前の深皿が空になるまで続くのだ。
「よく食べますねえ」
豪快な食べっぷりに感心している姿は最近知り合った後輩のものである。自分が古い鬼の血をひいていることを知らされるまで、妖怪変化など絵本や物語の存在でしかなかったが世の中にはそうした存在に積極的に関わる者もいるらしい。中には幼い子に修練を積ませてそうした道に進ませる家もあるらしく、目の前にいる後輩もそうした一人ということだった。
スポーツ選手の親に子供が教わっていたようなものです、と言われて妙に納得させられている。まだ中学生にも関わらずどこか皮肉な様子がするのは育ちのせいか、もともとの後輩の性格なのかは分からない。深皿を挟んだ話は作戦会議といった大仰なものではなく、単に腹が減っては戦ができぬという理由である。
一昨日の深夜、県道に抜ける迂回路として知られている車道で奇妙な事故が起きていた。事故現場は彼自身もオートバイに乗って何度か通り抜けたことのある場所だが、見通しが良くつい速度を上げてしまいたくなる道だったと記憶している。事故そのものは乗用車が何かに激しくぶつかったという話だが、相手の行方も正体もまるで知れず関係者も首を傾げているということだ。
福神漬けのかけらも残さず、米粒の一つまできれいに平らげてしっかりと空腹感を満たした後で現場に向かう。事故を起こした車は当然、とうに片付けられていたが周辺の様子を調べるくらいはできるだろう。交通事故を取り締まるのは警察の仕事だが、もしも異形や妖が原因であれば彼らの出番になるかもしれない。
今までにもこうした調査の経験はあるが、当たりだったこともあればまったく見当違いのこともある。事件を期待しているらしい後輩には悪いと思うが、彼にしてみれば見当違いであって欲しい。妖とは意味を持ってこの世に現れるものだから、それが事故を起こすなら確実に人と共存することはできないだろう。
何より彼は事故の専門家ではないし妖の専門家でもなかったから、さて調査といっても何に手をつければいいのか皆目見当がつかない。付き合わせる後輩にも気の毒だが、しばらく近くをうろついていた様子は一見して不審者そのものといった風情だったろう。ヒーローたるもの地道な努力を蔑ろにすることはできないが、近所の子供たちに「妙なお兄ちゃんたち」と見られる程度のことは覚悟してもらわなければならない。
「先輩、これ何ですかね?」
知らぬ以上は調査も真面目にしているようだ。声の先に後輩が指差している先を見ると道路の脇、ガードレールの根元あたりに小さな石が積まれていて傍らに花や菓子が並べられていた。こういうものに本格的な作法があるのか彼は知らないが、供え物なのは間違いないだろう。ヨーグルトの空き瓶に生けられている花も近くで摘んできたもののようだった。
事故があったのだから花が供えられても不思議はないが、ふと奇妙に思う。先の事故では怪我人こそいたものの死人は出ていない筈だし、それならば花まで供えるだろうか。もしかしたら他に事故があったのもかもしれず、調べてみる価値はあるかもしれない。
ところが妙なのはその後だった。地元の警察に頼み込んで、交通事故防止のレポートを書きたいという名目で記録を見せてもらうが件の場所では少なくともここ数年、犠牲者が出る程の事故は起きていないというのである。小さな事故の記録はいくつかあって、子供や自転車が転倒したといった苦情もあったらしく数年前に通学時間帯の車両の乗り入れが制限された事情が書かれている。今でも夜間は危ない場所だと思われているらしい。
これ以上は近くの住人に聞くしかないだろうか。とはいえ彼にも地元の知り合いは少なく、まずは心当たりから探してみるしかないだろう。
「あの・・・それで私にご用、ですか?」
紆余曲折。二人の前でとまどったような表情を見せているのは、いつぞや出会った二つお下げの少女である。話によればめでたく受験に合格したらしく、来年には傍らの後輩と同様進学する予定らしい。
正直なことを言えば祝いが七割に事故の話が三割といったところである。少女の家は地元のお歴々で現場からも離れた高台に住んでいるらしいが、事故現場の通学路自体は地元の小中学生が使っていたから噂程度は知っているかもしれない。そう考えていたのだが、彼の話を聞いた少女はいっそうとまどった顔を見せていた。
「あ、あの。あれを供えたの、私です」
傍らの後輩と二人で目を見合わせる。とんだ偶然だがいかにも彼女らしい話かもしれない。現場の周辺は夜になると車の行き来が激しくなり、これまでにも小さな事故が何度かあって近所でも問題視をされていた。警察で見た記録の通りだが、警察にすら通報されない事故であれば記録に残らない例もある。例えば野良猫がはねられても役所や保健所はともかく警察の出番はないだろう。
だが近所に通う子供たちにとってはそうした事故のほうがはるかに強く印象に残ることも少なくない。気の毒な犬猫の死体は片付けられるまで無残に放置されるしかないが、通学時間帯には嫌でも子供たちの目に留まるのだ。
ある夜、一匹の野良猫が車にはねられると死んでしまった。死体は路上に残されたがあいかわらず車は走っているし周囲は暗く、道幅も決して広くはない。その夜のうちに通り過ぎていった、何台もの車が不幸な死体の上を更に何度も何度も行き過ぎていく。
もちろんそのすべてを見た者など誰もいなかったが、夜が明けて無残な亡骸を見た子供たちはそこで何が起きたのかをすぐに知ることができた。いたたまれない気持ちで涙をこぼした子供の数は多かったし、少女もその一人である。
せめて弔ってあげようと、石が積まれて花や菓子が供えられた。何人もの小さな手が合わせられたが、その理由を知っている大人はほとんどいなかった。今でも花を生けてくれる子供がいます、少女はそう言うと少しだけ哀しそうな顔を見せていた。
◇
それは怒っていた。理由はよく覚えていないが、それまでの彼は多少の苦労はあっても自由に生きていたし、行きたい時に好きなところに行けて気ままな暮らしを送っていた筈である。今はそうではない。
目の前には石の地面がある。奇妙なことにそれはこの場所から離れることができず、時折通り過ぎていく鉄の箱たちを眺めているしかない。どこにも行けない不自由のせいか、他の理由かは分からないがそれは鉄の箱たちが憎らしくて仕方がなかった。
ある時、あまりに機嫌が悪かったので思い切りぶつかると鉄の箱はひしゃげて潰れてしまった。少しだけ気分が晴れたような気がしたが、それも最初だけでまるで満足も納得もできないのは何故だろうと思う。石の地面にはあいかわらず鉄の箱が走っているし、もっと潰してやろうとそれは飛び出したが遮るように何かが腕を組んで立っている姿が目に入った。
「轟雷鬼神、皇牙ここに推、参!」
掛け声に合わせて奇妙な身振りをしている理由はよく分からない。鬼の血を持つ戦士は目の前にいる巨大な猛獣めいた化け猫に向けて哀れみを込めた拳を握っていた。年経た猫は尾が二つに分かれて化けるとは昔から聞く話だが、皇牙と対峙するそれは虎か獅子かと見紛う姿をして牙をむき毛を逆立てている。気の向くまま鉄の箱を潰してやろうと思っていたところに、邪魔をしようとする鬼が現れたことに威嚇するようなうなり声を上げていた。とても話が通じる雰囲気ではないだろう。
肉食獣らしく、一瞬で加速した化け猫の巨体がすさまじい速度で皇牙に突進する。鎧をまとう鬼はそれを避けようともせず、正面から受け止めると岩と岩がぶつかるような重い音が響き衝撃が全身をきしませるが皇牙の足は一歩も引かず怯む色すら見せることがない。道脇にいる後輩が首をすくめた様子が分かるが、ここで引くことが許されないことを皇牙は知っていた。
鬼の血の底に残る人の理性が彼に呼びかけている。皇牙に正面から当たる、この衝撃が野良猫の身体を何度もひいたのだからさぞ痛かったろうと思う。だが拳を強く握った皇牙はゆっくりと、弓を引くようにそれを引き絞っていた。
痛い目に会ったかもしれないし、苦しい思いをしたかもしれない。だが化けて出たところで何も解決はしない。少女から聞いた、野良猫の死に涙する子供たちの姿がよぎると全身の力と心を込めた一撃が化け猫の顔面に叩きつけられた。
「だがよ、お前が同じことをしてどうする!お前は車を潰したが、いつかお前自身が野良猫をひいちまうぜ」
皇牙の言葉と皇牙の拳のどちらが届いたのかは分からないが、かつて野良猫であったそれの瞳がわずかに色を変えた。化け猫は自分を殺した鉄の箱と同じ意味を持とうとしていたが、それは自分が憎らしい鉄の箱になることだ。
巨大な獣の前に堂々と立ちはだかっている、鬼の血を持つ戦士の背後をかつての自分と似た一匹の野良猫が無防備に行き過ぎていった。そしてそれはすべてを理解することができたのだ。皇牙が一歩たじろいでいればいつかは自分がその猫をひいていたかもしれない。だからこそ人の心を持つ鬼は決して下がることはないし、野良猫は皇牙の背を信じて行き過ぎることができる。
それまで石の地面と鉄の箱だけに向けられていた化け猫の視界が広くなると、夜は白み始めていて日が上りつつあり、道端に備えられている小さな花に野良猫ははじめて気がつくことができた。
ああそうだ、自分はここで車にひかれてしまったのだ。命の火が消えた無惨な亡骸を見て、小さな子供たちが何人も涙をこぼしていた姿を野良猫は今になって思い出すことができる。お下げ髪の少女が何人かの子供たちを連れて、潰れた亡骸を道の脇に避けると小さな石を積んでいた姿を覚えている。やがて亡骸は片付けられてしまったが、野良猫の思いだけはこの場所にとどまっていた。いずれは行くべき場所へ向かうことになるのだろうが、その前にやることがあると思っていたのだ。
感謝をしなければならない。身を賭して彼を止めてくれた鬼と、彼の亡骸に塚を捧げてくれた少女と、彼のために涙をこぼしてくれた小さな子供たちに。
県道を外れた迂回路として使われている、化け猫はその場所に今でも現れている。昼間は通学路として使われているが周囲には人家も少なく、夜になって人通りが少なくなると行き交う車の数も多くなる。
ハンドルを握る運転手の視線が道脇に立てられた看板を過ぎる。そこには子供が描きなぐったような稚拙な猫の絵と、やはり拙い字で飛び出し注意と書かれた文字が踊っていた。もしも看板の文字を無視する者がいれば、猫は大きな目をむきだしにして恐ろしげな顔でにらみつけるのだ。子供たちの間では、その看板は今でも「道脇のおそろし猫」と呼ばれている。
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