その他
高槻流と縮地に関する設定 2010.07.09
春菜さんが高槻巌さんのお孫さんである事情は今更ですが、時代背景を考えると本当なら曾孫くらいでも良かったかもしれません。いずれにしてもお祖父さんが東汝鳥で開いた道場はその後弟子の一人が継いでいますが、巌さん自身は妖怪バ学園当時でも未だ現役で道場に顔を出しています。息子はごく普通の人でごく普通に結婚をして、ごく普通に産まれたのが春菜さんになります。高槻家とそれに併設する道場はもともと神木様ゆかりの汝鳥神社から分与されたものですが、これは巌さんの高槻流剛柔術が奉納相撲を源流にする神事であったことと、実際に神木様に奉納する儀式を巌さんが行っていた縁によるものです。そんな訳で汝鳥の閑静な地域に敷地を構えた高槻家は、春菜さんの代には地元の旧家として扱われるようになったのですね。両親は道場にはまるで関係がない善良な人たちで、ご近所さんの手前もあって春菜さんがお嬢様として育てられたのも奇妙なことではありませんでした。
春菜さんは祖父の姿を見て育ちましたが、このお祖父さんは孫を甘やかすどころか厳格すぎるくらい厳格な人で、だからこそ彼女も強い影響を受けたのかもしれません。余談ですが春菜さんが技を奉納する場面があるのは祖父がそれを行う姿を彼女が見ているからです。春菜さんが祖父の技を見よう見まねで体得したのが彼女の高槻流になりますが、巌さんはその性格柄基本的な型ばかりを一日に何千回も何万回も練習するような人ですからそれに倣うだけで充分に学ぶことはできてしまいました。で、あるとき春菜さんは巌さんに直談判をして道場に通わせて欲しいと頼みます。巌さんがそれを拒んだ理由は書きましたが、筋肉や関節が柔軟な春菜さんが自分と同じ鍛錬をしてもすぐに限界が来ると考えたからなのですね(実は男女の骨格構造の違いが主因です)。
だから巌さんは高槻流剛柔術の基本的な型だけを教えて、あとは自分で自分の技を探しなさいと春菜さんに言いました。つまり巌さんの高槻流剛柔術と春菜さんの高槻流は似て非なる技なのです(たぶん春菜さんの技を剛柔術と書いたことはない筈です)。春菜さんは祖父のいいつけを守って自分の技を編み出していくことにしましたが、彼女の高槻流には致命的な欠陥がありました。高槻流剛柔術は鍛えれば鍛えただけ強くなるというとても体育会系の流派ですが、体重や筋力まで乗せた重さを相手に打ち込む剛柔術の技の多くが非力な彼女には使えなかったのです。よりにもよって高槻流こそ彼女には向いていなかったのですが、それを克服するために鍛錬を重ねた彼女は剛柔術の踏み込みを俊足の歩法に転化することには成功します。これが吹雪さんに教える縮地になる訳ですが、結局これで踏み込んでからも非力な彼女では相手を倒すことができません。いや、相手を意図的に破壊する技を使うしか倒す方法がありませんでした。
愕然とした春菜さんは人前で技を使うことを諦めますが、もちろん鍛錬は続けていましたしそれを諦めた訳でもありません。そのことを知っている真琴さんなんかは彼女が猫を被っていると思ったことでしょう。もちろん実際に猫も何枚か被っていましたが、春菜さんが剣術研に入りながらもお嬢様に見られたがったのはもともとそうした反動ですし、使ったこともない木刀を持っていたのもその辺で悩んでいたからなのですね。
ところで吹雪さんです。倶楽部で言い争いばかりしていた彼が春菜さんの印象に残っていたのは当然ですが、幼い頃に明日の命も知れぬ病弱な子供だったという事情も彼女の心に留まっていたかもしれません。というよりも、それを克服して剛刀を扱うようになった、その姿は鍛錬のなんたるかを彼女にもう一度思い出させてくれたのではないでしょうか。春菜さんが白河塗りの武器でもなく神木さまの枝木でもなく、彼女の歩法を吹雪さんに教えたことには大きな意味があります。彼女が日々鍛錬を重ねて編み出して、しかも自分では活かすことができない技を使ってくれる人は彼女以上に才能によらぬ鍛錬の重要さを知っている人でなければならないのです。吹雪くんならできるという、その言葉には吹雪さんの優しさや勇気や覚悟ではなく、彼の剣士としての力そのものを評して言っているのです。春菜さんはいろんな意味で、吹雪さんを心から頼っています。
感応の才と境界についての設定 2010.07.14
もともと春菜さんのテーマは「愛すべき友を持て」で、彼女自身の能力も飛びぬけたところはないけれど友人を助けるのに向いている人、というのがありました。そこで設定していた感応の才というのは名前ほど大仰なものではなく、本来春菜さんは術士に向いた人ですという設定でしかありませんが感受性が豊かに過ぎるという性格を現してもいるのですね。これを言い換えるなら本当はすごく感極まりやすいけど恥ずかしいから必死に隠している春菜さん、となります。つまり哀しいお話を見たり感極まるとすぐに泣き出してしまうというのが、秘められた彼女の裏設定なのです。
幼い頃から感受性が強く、しかも神木様の影響を受けて育ってきた彼女自身は妖の存在に対して違和感や抵抗感がありません。ですが同時にほとんどの妖が人の世界では暮らしていけないことや、人の世界が彼らを受け入れてくれないことも彼女は知っています。クマが人里に下りてきたら狩られてしまう、それはクマには気の毒ですが事実は事実です。だから彼女は人と妖の境を守ることにこだわりますが、これにはもう一つ意味があって、人と妖の世界を区別する以上は人が妖の世界に不用意に入ることも禁じられるべきことになります。春菜さんはその辺厳しいところがあるので、妖の世界に立ち入った人を排除しようとするのは妖の当然の権利だと思うでしょう(それを助ける助けないは別の話です)。
こんな春菜さんにとって境界が存在しないトウカさんは憧れの存在で、自分がそうなれたらどんなにいいだろうかと思いながらもそれが無理だろうとも思っています。この辺はお嬢様になりたい春菜さんのコンプレックスも混じってますが、羨ましいとか妬ましいという感情とはちょっと違います。卑俗な感情はもっと卑俗なことに対して思うものですから、例えばトウカさんの荷物持ちにつきあう吹雪さんに対してあら吹雪くん優しいのねと思うことはある訳ですよ。でもそんな吹雪さんの優しいところが春菜さんは良いと思っているところもあるので女心は複雑です。
春菜さんの感応については裏設定だけのことはあって、使わなかったネタがいくつかあります。例えば感受性が強く妖に親しい彼女はそうした存在の影響をことのほか受けやすいのですね。極端なことをいえば春菜さんは低級霊や妖怪変化にとりつかれやすい人なのですが、汝鳥での彼女は神木様にとりつかれているようなものですから妙な存在に襲われる心配はありません。しかも神木様は春菜さんに干渉したりはしませんから、結局のところ彼女はふつうの人?でしかない訳です。
展開によって春菜さんには方向転換をする可能性を設けていました。一つは神木様の力を使う術士になる道ですが、これは春菜さん自身が神木様を前に拒否しています。戦うならご自分の力で戦ってください、とは自分への戒めの言葉なのですね。もう一つは穏健派に転向する道で、これにはキーワードがあって誰かに無理をするなと言ってもらった場合を考えていましたが、吹雪さんのこの言葉はそれとは微妙に異なる影響を彼女に与えています。吹雪さんの言葉は無理をするな、俺が替わってやるから、でしたね。
春菜さんはずっとメイヤに行きたがっていました。彼女は人と妖の境界には厳しいですが、人が自然を峻別しながらもそれに親しんでいるように人と妖が接することそのものを春菜さんは否定してはいません。ちなみに彼女自身はより自然霊や動物霊に近しい存在を好んでいます。でももしも彼女が社を祀るのではなくメイヤを守る人になっていたら、うっかり外に出ようとする妖を叱りつけるような人になっていそうなのでいずれにしても春菜さんはトウカさんにはなれそうもありませんね。
友人とのかかわりについての設定 2010.07.20
春菜さんにとって真琴さんが一番親しい友人であるのは今更ですね。汝鳥の旧家に生まれて、幼い頃から親しく接してきた事情もありますが病弱であっても芯の強い性格が合ったのではないかと思います。もちろん貧血で倒れた真琴さんを介抱するようなこともしてはいるでしょうが、春菜さんにしてみれば真琴さんを手のかかる友人と考えたことはありませんし、吹雪さんなんかとはまた異なった意味で頼りになるしっかりした人だと思っています。ちなみに一見してお嬢様然とした彼女の外見や言動にコンプレックスを感じていたりはいませんが、真琴さんが自分と同じように猫を何枚もかぶっているとは思っています。だから春菜さんにとってはお嬢様のフリをしていることを真琴さんに揶揄されるのはたいへん不本意なのですね。真琴さんがそういうことを言うんですか、という感じです。
春菜さんの口調はお嬢様然としたものから昨今ではよりふつうの少女らしい砕けたものに変わっています。これは吹雪さんと言い争いをしていたときにお嬢様口調を使うことが多かったせいもあって、その反動で気を許すことができる相手への口調が弛んでしまうのですね。で、真琴さんの口調が丁寧なまま変わっていないことを春菜さんは不条理にもズルイと思っていたりします。基本的に真琴さんは自分と同じような人だ、という思い込みが春菜さんにはありますが実際には春菜さんのほうがずっと底が浅いことを彼女自身は気が付いていません。ちなみに異性の友人がいることをイニシアチブにするような発想が春菜さんにある筈もなく、むしろそれが真琴さんに攻められる弱点になっているだろうことはたいへん気の毒なところです。
いずれにしてもそうした些事を別にして、真琴さんへの春菜さんの信頼は相当なもので倶楽部活動での話題はもちろん、ごくありきたりな相談事を持ちかける相手としても彼女はたびたび真琴さんを選んでいます。今度お菓子を焼こうと思うんだけどクッキーとケーキとどちらがいいかとか、そうした他愛のない会話を持ちかける訳ですが同時にそれによってあら春菜ちゃんは誰にお菓子を焼こうとしているのかしらという情報が真琴さんに与えられてしまうのですよ。
智巳さんは真琴さんの兄であれば、本来は春菜さんにとって幼馴染の筈ですがこの人にはあまり強い印象を抱いたことがありません。同年代で、頼りがいがあるとはとてもいえない人ですからどうしたって異性として認識ができないのですね。にもかかわらず古臭い春菜さんは男女七歳にして席を同じゅうするなかれの性格をしているので積極的に智巳さんに近寄ろうとしたこともありません。なので智巳さんに対しては幼馴染の友人のお兄さんという感覚しか彼女は持っていないのです。備前長船にまつわる話でも葛藤する智巳さんの姿はお世辞にも決然としていたとは言い難く、真琴さんもこういう人が兄さんで大変だなとけっこうひどいことを考えています。ちなみに春菜さんの好みの男性像は頼りがいがあって、紳士的で、上品な人というのがありますから吹雪さんであれば最初の二つは満たしていますでしょうか!
瑠璃さんは設定的な扱いとしては真琴さんに次ぐ春菜さんの友人ということになりますが、もちろん彼女自身は友人に順位付けなどしていません。幼い頃からの家同士の付き合いというよりも、たぶん神事に関係して紹介されたせいもあって当初の交友はちょっと形式ばっていたとは思います。ただ真琴さんとの違いはやはり瑠璃さんに対しては信頼感よりも保護意識を感じてしまうことがあるとは思います。瑠璃さんに何かを相談するという感覚は春菜さんには馴染みが薄いものでしょうから、昨今の瑠璃さんの変化にはかなり戸惑っているのではないでしょうか。一方で友人として、年頃の娘さんらしい付き合いができるのはたぶん真琴さんよりも瑠璃さんに対してではないかと思います。
上級生の中では麗さんが親しい、というよりも春菜さんは彼女をとても尊敬しています。おとなしやかで女性らしく、倶楽部活動でも真面目で優しくそれでいて凛とした強さを感じさせて、しかも神職に仕える者としての清楚な美しさを備えている。実際にはかなり美化されていると思いますが、春菜さんは心から八神先輩のような人になりたいと思っていますので彼女の欠点があってもあまり目に入りません。春菜さんがコノハナの祭祀に関わろうとした事情はもちろん彼女が汝鳥の異形神仏を近しく思っているからですが、八神先輩が巫女さんをしているという理由も決して皆無ではないと思います。もしも彼女が麗さんにそそのかされて悪い道に誘われたりするといちころなので、ここは吹雪さんが守ってあげないといけないところです。
雲外鏡と春菜さんの葛藤についての設定 2010.07.29
もともと設定では剣術研究会が対妖怪強硬派で、オカルト・ミステリー倶楽部が穏健派というくくりがありました。とはいえ部員の人数や実際のメンバーを見てもそれが曖昧になるだろうことは予想はできましたし、吹雪さんのように剣術研で穏健派の人がいることもごく当然のことです。妖怪を討伐する直接の立場にある人の方が、それに疑問を覚えて懐疑的になることはままありますし、赤い人が思っているほど兵士というのは人殺し賛美者ではありません。
それでは何故強硬派と穏健派が存在するのか。妖怪が人に危害を加えるからそれを排斥するという妖怪バスターの目的を、そのまま単純に受け入れることができないのは無論です。地蜘蛛衆の言い草ではありませんが、人に追われた妖がそれを取り戻すために反撃するのであれば、彼らが人に害を与えるときに人はどんな正論を振りかざして妖怪退治をするのだという問題が消えることはありません。自分たちが追い払っておいて、手を繋ごうというのは傲慢以外のなにものでもないのですから。であれば強硬派と穏健派が存在する理由は結論が出ない現実に対する葛藤そのものが表面化している結果でしかありませんが、そこには結論が出ない現実に対して彼らが葛藤している事実もまた存在しています。理想と現実があるとして、どちらが誤っているというのではなく互いの中庸を図りながらより理想的な現実に近づけていくことには大いに意味があるでしょう。
春菜さんが対妖怪強硬派である理由は、彼女の思想の根本が人と妖の境界を守るべしという点にあるからです。誰だって喜んで妖怪退治をしている訳ではなく、強硬論を主張する人がいなければそれは単に理想主義者の集まりになって現実への落としどころを見つけることなどできません。ですがこの考えは春菜さん自身を責める原因ともなっていて、それが彼女の自戒の念へと繋がっています。妖怪に親しく接するべきか、厳しく対するべきかという思想ではなく、人と妖の境界を守るためには自分は厳しくあるのがふさわしいという判断から彼女は強硬派であろうとしています。であればそれは手段が目的になっているだけではないかという疑念を誰よりも抱いているのが当の春菜さん自身なのです。
こんな彼女ですから人の傲慢さを問われたところで、それに傷つけられることはありません。人に罵られても、雲外鏡に映る姿を見せ付けられたとしてもそんなことは今更言われるまでもないのです。自らの罪は自覚している、それに罰が下るのであれば堂々と受けよう。そう確信しているからこそ、春菜さんの主張は揺らぐことがありませんし雲外鏡を見たからといってそれに耐えられないこともありません。雲外鏡の設定が登場したとき、春菜さんはこれを見ても別にどうとも思わないだろうと考えました。自分の醜い姿を知った上で、日々汚れ続けている彼女が鏡を見たところでせいぜい自嘲の念しか浮かばないでしょう。自分は妖に手をかけている者で、しかもそれを思想や感情ではなく、人と妖の境を守るための手段として行っている。言い訳なんてできる筈がない彼女が、それに耐えられず舌を咬み切ったらそれは卑劣な逃げでしかありません。
ですが春菜さんは雲外鏡の存在を恐れていなかった訳ではありません。鏡が渡されたとき、彼女は吹雪さんが雲外鏡に映される姿に耐えられるだろうことを奇妙なほどに確信していました。あれだけ自分を苛んでいる人が見る姿は、その底にある自分の優しさと救いをきっと知ることができるでしょう。その底には自分とあまりに良く似ている吹雪さんであれば、自分が耐えることのできる鏡に耐えることができるという考えがあったかもしれませんが春菜さん自身はそこまで気が付いてはいません。
彼女が気がついたのは別のことでした。真実の姿を映し出す鏡に、もしも吹雪さんが耐えられないようなことがあるとすればそれは自分ではなく、他人の真実を見る恐ろしさに対してではないだろうかと。そして同時に、春菜さんにとって耐えられないのは自分の姿を鏡に見ることではなく、自分の真実の姿を他人に知られることではないのだろうかと。春菜さんがどういう思いで自ら血を流しているかを知れば、吹雪さんは絶対にそれを見逃してはくれないだろうと彼女は思いました。こんなに優しい人に、こんな修羅の道が知れれば彼を必ず巻き込んでしまう。妖に手をかけることをあれほど拒んでいる人を、その優しさ故に自分と同じ道に引きずり込むことがどれほど罪深いことか。それこそ春菜さんが心から恐れていることでした。だからこそ、春菜さんは知られてしまうより前に自分から、知られたくない自分の姿を吹雪さんに伝えようとしたのです。たぶん、彼女自身はそれに耐えられないだろうと思いながら、それでも伝えない訳にはいきませんでした。あるいはこの時、彼女は初めて逃げようとしたのでしょうか。
異形妖についての設定 2010.07.21
黒い煙羅煙羅。単純に人に害を為す異形として考えながらも、ふつうに斬ることも突くこともできないというけっこう難儀な妖にしてみました。存在する理由は黒い煙に対する人の畏れがあるからです。黒い煙の印象のままに人の鼻や口からもぐりこんでこれを窒息させますが、こうした煙は咽喉や肺まで吸い込まずとも、息を止めていても鼻に煙が触れただけでむせかえって息ができなくなるのですね。つまりふつうの人であれば鼻と口をふさがずに接触しただけで行動不能になってしまいますから、学生が対峙するにはちょっと危険な存在ですが相応の装備が用意できる市井のバスターであればわりと対処が可能です。弱点は煙を散らされることなので風に弱い、で問題ありませんが、煙羅煙羅が発生した火元がまだ残っている場合にはいくら散らしても元に戻ってしまうので注意が必要です。ただし、この場合は火元を見つけ出して消してしまえば煙羅煙羅も消えてしまいます。
土竜の怪。自然霊としての動物霊を示す存在として考えました。基本的な習性は土竜と同じもので、外見もそのまま土竜ですが後半身から長い毛が伸びているのが特徴です。中国で見られる、亀の後半身から伸びている毛をイメージしていますがあれは実際には水草をああいう姿になるように栽培しているものであるのは豆知識。自然霊の存在には人の意思は介入せず、存在に対して人が意味を与えるだけです。だから分類によっては土竜の怪は七月宮稲荷と同様に神様として扱っても間違いではありません。こうした場所には土竜が存在しているべきだ、という自然そのものがそこに土竜の怪を生み出しますから、その周囲では土竜が暮らしやすいのでこうした保護動物の異形は貴重に扱われることが多いだろうと思います。強硬派の春菜さんが何故この妖を守ろうとしたのか、彼女は妖をただ討つべしという人ではないのです。
小小古と犬妖または犬古。こちらは動物霊ですが自然霊ではなく、まさしく妖怪変化の類になります。小小古は異形になる前の意味を持たない存在で、それは単に暗がりであったり歪みであったりぼやけた存在でしかありません。小小古と触れることによって、意味に存在が与えられるのが異形が生まれる原因の一つですがこの方法で生まれる異形はたいていは歪みの象徴でもあるので、人に害を為すことが多くなってしまうでしょう。犬妖の外見は目が黄色い黒犬の場合と人の手足を持つ犬の場合が聞かれますがお話では後者が登場しています。一見して弱弱しく見えますが、犬妖は放置しておけば段階を追って恐ろしい妖になっていくので早期に対処しなければなりません。咬みつかれると病気になるのはこの手の妖の基本です。
かずらの怪。これも妖怪変化にあたり、居場所を奪われた樹木の歪みが顕在化して妖となったものですが、わりと単純に初心者に退治しにくい異形として考えています。空中をうようよと動き回って近付いてくるツタ、というものを相手に好ましくない行動は二つあって、一つは戸惑うまま何もせずにいること、もう一つは無闇と武器を振り回すことです。基本的に近付いた人に絡みつく以外の害は与えませんが、子供や小さな動物の首にでも巻きつけば大事ですから危険は少なくても放置はできないというたいへん初心者向けの妖。ちなみにこれを退治する方法であれば、無闇と近付き過ぎずに一本ずつツタを防いでいくか、一息に根元に一撃を与えて倒してしまうのが効果的です。植物の怪に対しては金属がよく効きますが、一方で火をかけてもさほど燃えないので注意。
野槌。一般には蛇の妖とされていますが、どちらかというと動物霊ではなく自然霊に近しい存在です。槌は大蛇の意味で野槌は野の大蛇、似た存在として水辺に現れるミヅチという妖もあります。外見は蛇めいていて手も足もない、太く長い胴体の端に何でも呑み込む口がぽっかりと穴を開けている姿に全身が毛に覆われています。土砂や崖崩れを象徴してもいるので、伸び上がったり転がったりすることによって存外にすばやく動くことができます。とにかく頑丈で力が強く、あえて人を狙って襲うようなことはありませんがうっかり近付けば容赦がありません。小細工のない、ただ純粋な力だけの存在として考えていますので皇牙であれば正面から組み打つこともできるでしょうが、人が対するのであれば充分な準備と連携が必要になるでしょう。
ため池の怪。これは妖怪ではなく怨霊です。無念のままに命を落とした人間が、だれかれ構わず仲間を増やそうとするもので、お話では野槌に襲われ、ため池に落ちて死んだ若い女性が化けて出たという設定です。泥水で溺死した姿は髪も抜けて目は飛び出て全身が醜く膨れ上がっていますが、方々に若い女性であった名残が認められるのでなかなか恐ろしい外見をしています。ため池に近付いた者の足首を掴み、これを引きずり込みますが自分の仲間を増やそうとするのが目的なので、一息でもう逃げられないというあたりまで一気に引きずり込んだら後は自然に溺れていくのに任せます。もちろん、足首は掴まえたままなので逃げるならこれを振りほどいてからでなければいけません。ちなみに怨霊は退治すると縛られていた場所から解き放たれるので、その後で供養します。
古い土の蟲。春菜さんが第一回のお話で出会っている小さな妖です。トカゲやヤモリに似た姿をしていますが、ずっと平たくて厚みがない身体に、足は十本あるので明らかにまっとうな生き物ではありません。こんな存在が異形どころか自然にすら親しい者でなければ見つけられないのが鈍である人というものですが、小さな蟲自体はそこに存在していたとしても何も害を与える訳ではありません。野槌のように直接的な力であれ、土竜の怪のように周囲に及ぼす影響であれ及ぼすことはないでしょう。動物霊というよりは自然霊ですが、よりまっとうな分類ができない低級霊としてひとくくりにされてしまうような存在です。それでは何故他者に害を与えるでもない小さな蟲を春菜さんが消してしまったのかといえば、それは彼女自身が言っているようにここは彼らの世界でないからに他なりません。彼らが人に害を与えずとも、人の世界は小さな蟲に害を与えずにはいられないのですからその前に還そうというのです。人の世界で妖が死ぬことはなく、消されたものは還っていくだけなのですから。暮らしていくことができない人の世界に、彼らが存在してしまったことへの贖罪を思いながら手を下している、春菜さんの思いはこの頃から何も変わってはいません。
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