風と鳥と空 第二回
槍を手に、向かい合う少女が二人。木造の道場の中央で、赤坂あかねと風見とり。一瞬が永遠にも感じられる静寂の中。しかし、その静寂が破られることはありませんでした。静から静。一瞬の後、先程まで制止していた風見の槍先は位置を変え、あかねの額に突き立てられていました。その軌跡を目にした者はほとんどいません。
楠門道場での稽古場の風景。訓練用に墨の付いた槍先が、あかねの額に印を付けています。小さな墨の跡。
「…よっし。これで四勝三敗で勝ち越しね」
「うー、やられた」
勝ち誇るとりに心底悔しそうな顔をするあかね。『斬られる前に斬る為に、敵の眼を貫く』一眼流剣術は予備動作の無い直線的な太刀筋が特徴で、最速で最短の軌跡を見切れる者はそう多くはありません。
「とりちゃんの突き予備動作少ないからなー、読むの大変だよ」
「予備動作なくすのが一眼流の主目的だからね。太刀筋が直線的だから読まれたら最後だもん。まあ昨日のお返しだとでも思って勘弁してね」
最少の面積を最短の軌跡で打つ一眼流剣術。その神髄は太刀の速度や正確さ以上に、予備動作を無くして攻撃を読まれないようにする事にあります。
という訳でストロベリー・パフェ。
「…わあったわよ。駅前のジャンボパフェね」
「へっへー。昨日おごらされたから、今日はごちそうさまね」
◇
放課後、麻雀同好会が練習場としている雀荘。謎の転校生、松本右侠に倒された同好会員三人の処分と四天王の出陣について噂話をする学生たち。泰然と座っている副長の加納光一郎に一人の男が話しかける。
「加納さん、あの右侠っていうガキとまさか自ら戦う気じゃないでしょうね?」
禿げ頭に太い眉毛、異様な眼光をした男は加納に志願する。丁重な姿勢の中に、隠しようのない野心が燃え上がっていた。
「この心眼打法の中條虎之助にひと仕事させてもらえませんかね」
◇
あっとと。間違えました。これは別の連載長編用に用意していた麻雀鬼ウキョウのシナリオでしたね。えーと、風と鳥と空のシナリオは…。
平成11年6月27日日曜日。町の図書館でたいくつな午後。
駅前でジャンボ・ストロベリーパフェをたいらげた後、いつもの図書館で午後の時間。活字の多い本が苦手な赤坂あかねは道場に帰って汗を流しています。閲覧用の机に積まれているのは、日本の妖怪と昔話の関連の本。識の勉強をしていると、意外に民俗学に貴重な手がかりを得られる事があります。古来より多くの暗鬼の存在が、妖怪あるいは土着の神として伝承にその名を記しています。もしかしたら、ツチノコやヤマンバチなども本来は暗鬼だったのかもしれません。
「あ、惟任さん。今日も調べものですか?」
「ええ。風見さんは?」
惟任美優とあいさつを交わすとり。畿内の中世〜近代史を学ぶ為、京都の大学に引っ越してきたという惟任。彼女らのように識の存在を知って間もない者の多くにとって、古えからの任務よりも自分の学究心の方が重要で意味のある事だったでしょう。
幽霊や妖怪の伝承。合戦や事故、天災の記録。識として、それらの調査や探求は多く推奨される事がありますが、結局は本人の意思と嗜好が大きく関わってくる事に違いはありません。ことに風見の普段所属している「都市伝説研究会」などは、多くの都市伝説に代表される怪異現象や謎について一般の人に誤解誤認の名の下に常識を押しつけ、暗鬼の存在をその目から反らす事を活動の主な目的としています。
幽霊や妖怪。合戦跡や殺人事件、人身事故の現場に流れる伝承や噂。それらの裏に潜んでいる識と暗鬼の存在を世間から隠し、目の前に現れた暗鬼を錯覚だと思わせる為にそういったものの研究は欠かせません。たとえ自分たちが事実と真実とを知っていたとしても。
立派な大義名分は立っていても、活動している人たちはそこまで考えているものではありません。そういった活動に積極的に参加しているのは、結局は識の中でもそういった活動が好きな人たちですから。惟任が歴史を研究しているのも、とりが民俗学に興味があるのもそれが識の任務だからではないでしょう。
「そうそう。この本なんだけど、二百年前にこの近くで起こった事故や騒動の記録が載ってたわよ。確か風見さん探してたよね?」
「あ。惟任さんありがとうございます、助かります」
日曜日の昼下がり、町の図書館でたいくつな午後。
当人たちには決してたいくつな午後ではないでしょう。
◇
「…という訳で、都市伝説と呼ばれる怪奇現象のうち、そのほとんどは現実との間に多くの矛盾点を見る事ができます。それが全て錯覚や誤認であると言い切るのは乱暴というものですが、まず疑う事から始めるのは論理的思考の第一歩である事を忘れないようにして下さい」
そして、今回の都市伝説研究会の閉会となりました。都市伝説を頭から否定せず、無条件で肯定もせずに学問として正面から接する姿勢に興味と好感を抱く受講者は多いようです。地道な活動ですが、あるいは識として最も重要な活動であると言えるかもしれません。
一般受講者が帰った後で、もう一つの都市伝説研究会が始まります。怪奇現象の内錯覚や誤認でないもの。それが本当の都市伝説になってしまう前にこれを封殺する識としての任務です。
◇
来月に取り壊しの決まった廃ビルの一角。入り口には臨時に据え付けられた「作業中に付き立入禁止」の看板。日も落ちた時刻、ランタンの明かりを頼りに識の面々が集まっています。
「どうだった、とりちゃん?今日のケンキュウカイ」
「うん。やっぱりここの暗鬼も噂になりかけてるみたいね」
「ほんっと人の噂って早いねー。いつもながら感心するよ」
「…しっ。大変よ、暗鬼が三匹こっちに逃げて来るって!」
緊張感の欠けるあかねととりに、話術で仲間と交信していた美優が注意を呼びかけます。廃ビルの一階、東南の一角。こちらの出口を固めているのは水無瀬歩を含めた四人。慌てた顔になるあかねととり。
「ちょ、ちょっと何よ三匹って!こっちあたしととりちゃんの二人しか剣者いないのに」
「…向こうで二匹討ちもらしたそうです。すぐに応援が来るからそれまで持たせてくれって言ってました。歩さん、結界お願いします」
「は、はい。すぐに準備します」
地面に厭勝銭を並べる歩。簡単なものですが、結界が完成すれば暗鬼の動きを制限する事ができます。一体動きを止めれば後の二体をあかねと風見で分担できるでしょう。
準備を終えると身構える四人。一瞬が永遠に感じられる静寂の中、とりの様子がおかしい事に気づいたのはあかねでした。
「とりちゃん?大丈夫?」
「え、ええ。うん…」
「怖がってる暇なんてないよ!あたしたちの後ろに歩さんと美優さんいるの忘れたらだめだかんね!」
「わ、わかってるよ」
先日の暗鬼との戦闘で負傷したとり。癒しの術を受けたとはいえ、心に受けた恐怖という名の傷はすぐに消えるものではありません。一眼流の極意、一撃を極めるにはまず自分の恐怖に打ち克つこと。それでもとりは足が震えるのを止める事ができません。
「…来るよっ!」
あかねの声を合図とするかのように、暗闇を越えて人型の小柄な暗鬼が三体、飛びかかってきます。右端の一体が歩の組んだ結界にぶつかり、はじかれると中央と左の二体が前進。間合いぎりぎりまで引きつけて、あかねの槍先が暗鬼の身体に向かいます。あかねの後を追うように、一拍遅れてとりの槍。
訓練と実戦ではその動きは異なります。空手で戦いの経験を積んでいるあかねに比べて、とりの技はまだ訓練と同じだけの力を発揮するには到っていません。相手によっては簡単によけられたであろうとりの槍先に、暗鬼の身体が突き刺さります。暗鬼が勢いを付けて突進していた為に避けられなかったのが、彼女にとっては幸運だったと言えるでしょう。あかねの槍はとりよりはるかに早く暗鬼に突き刺さり、その動きを止めると既に目標を変え、歩の結界にはじかれ倒れていた三体目の暗鬼にとどめをさしていました。
無事に三体の暗鬼をしとめましたが、とりは自分の中の恐怖に勝つ事ができなかった事実を痛感していました。むろん、何度も一緒に訓練をしたあかねも、その事に気づいています。厳しい視線でとりに目を向けるあかね。
「とりちゃん、あんた…」
「…」
何か答えようとしたとりの背後、美優のすぐ真後ろで地面が弾けると、もう一体、残っていた最後の暗鬼が飛びかかってきました。全く反応できないでいる美優の姿に一瞬後の惨状をあかねは見たように思いますが、誰一人認識の出来なかった速度でとりの槍の石突きが暗鬼の胴体に打ちつけられると、次の瞬間には我にかえったあかねの一撃が暗鬼の頭部を破壊していました。
◇
「…どうですか?落ちつきましたか」
歩の癒しの術が放心している美優ととりの二人にかけられています。肉体的な傷や疲労ではなく、精神的な疲れで動く事ができないのは、彼女たちの未熟さの現れでもあるでしょう。
「うん。歩さん、だいぶ楽になりました」
「そうですか。立てるようならそろそろ出ましょう。皆様も撤収準備を始めてますよ」
眼鏡の奥で歩の優しい笑顔が光ります。あるいは仲間のこの笑顔の為に、彼女たちは戦っているのかもしれません。歩とあかねの二人に手を取られて、美優ととりは立ち上がりました。あかねが元気に言います。
「お疲れさま。そんじゃ四人でラーメンでも食べて帰ろ!」
◇
梅雨の午後。都市伝説研究会の集まりで使われている一室で、お茶を囲んでたいくつな午後。お茶菓子の袋をつまんだとりの視界に、美優の姿が入ってきました。
「風見さん、こんにちは」
「あ。惟任さんこんにちは。あの後大丈夫でしたか?」
「あはは…あかねさんがカラオケから帰してくれなくて」
「なーに、あたしがどうかしたって?」
タイミングのいいあかねの登場に笑う二人。たいくつで幸せな午後。三人の少女の後ろに歩が姿を現しました。
「こんにちは、あかね様、とり…痛たっ」
ぽこっ。お茶菓子の袋が歩の額に当たります。ちょっと意地の悪そうな笑みを浮かべてとり。
「歩さん。あんまりとりって呼ばないで下さいね」
「…はい。すみません」
予備動作の無い攻撃。とりたちがとりあえず半人前でも識として認められるようになったのはこの頃からの事です。
おしまい
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