風と鳥と空 第三回
それは深い森の中に住んでいた。
大きな、大きなからだをしたそれは、今日もゆっくりと森の中を徘徊している。毛におおわれたその姿は、大きな猿か、あるいは熊のようにも見える。しかし、ゆっくりと二本の足で歩く動きは、そのどちらのものでもなかった。深い森の中、空腹を満たすことだけを考えて、今日もそれは森の中を徘徊している。
深い、深い森の中。
◇
あなたの地下水脈を辿る幻覚
浄化されてゆく 僕
あなたの曲線 爪でなぞるだけで
崩れちゃう 僕のダム
あなたの地下水脈を辿る幻覚
浄化されてゆく 僕
あなたの曲線 爪でなぞるだけで
崩れちゃう 僕のダム
◇
「…何聞いてんの、とりちゃん」
「ん?ああごめん。ちょっと新曲を」
声をかけられて、耳からヘッドホンを外す少女。平成11年8月1日日曜日。木々に囲まれた山間の道を歩いているのは赤坂あかねと風見とり。梅雨明け早々連日暑い日が続く中、避暑を兼ねてのハイキング旅行です。なぜ海でなくて山かって?
「それは作者がひねくれてるからよ」
ほっといてください。
◇
木々に囲まれた山間の道。ニンゲンの支配する領域を一歩離れれば、そこは細小な者の意思など及ばない場所。うっすらと草の生えたむきだしの土の道。ニンゲンが地面に記した細い傷跡をわずかにはずれるだけで、そこはもう自然の支配する領域だった。
◇
「見えた!あの建物だっ」
「汚い…」
午前中から山道を歩き続けてようやく、あかねの指さす先、ややくたびれた木造の建物が見えてきます。小さな柵や門はすっかり草木に覆われ、北側の壁には苔とシダがびっしりと生えている建物。おせじにもきれいとは言えない姿に、同行していた樫森羅紗はすなおな感想をもらしています。
「なーに羅紗。一緒にきてその言い方はないでしょ」
「でも本当に汚い」
「そ、そりゃそうだけど、宿泊できる上に掃除してバイト代もらえるなんていい条件じゃないの」
根っからの貧乏性が身に付いているあかね。その彼女に宿の手配をまかせれば、当然こうなります。あきらめたように一行はどやどやと荷物を手に、門を開けると中に入りました。
「へー。思ったより中はきれいだね」
「うん…でもほこり払うの大変そうだなあ」
中に入ると意外に落ちついた内装で、無造作に置かれている壺の丁寧なつくりを見て、羅紗などは感心しています。さらにその後ろから巨体の男、迂南獅良が入ってくると、大きな荷物をどさどさと床に下ろしました。
「お〜。なかなかいい所じゃねーか」
「ちょっと迂南さん、荷物床の真ん中に置かないでよ」
「かてーこと言うなよ嬢ちゃん。そんなんじゃカテー的な奥さんになれないぜ」
・
・
・
(あかねさん。何であんな人つれてきたの?)
(だって保護者が必要って言うし、楠門の人に紹介してもらったんだよ)
(…あの熊男をか?)
(あはははっ羅紗さん凄い事言うね)
(でもあの熊男、黙ってれば外見悪くないのにねー)
(中身はただの親父だ)
(でも一緒に連れてる子も外見は悪くないよね)
(そーお?でも性格悪いよ、あの子)
ひそひそと話を始める三人。迂南は傍らに立っている少年、藤木夕に声をかけました。
「なあ坊主、嬢ちゃんたち何話してんだ」
「たぶん『何よあの熊男』とか話してるんだと思いますが」
「…ひでー事言うな坊主」
「坊主と呼ぶのはやめて下さい」
話の進展しない連中を後目に、すでに掃除の準備を始めている惟任美優と水無瀬歩。明らかに苦労性で貧乏くじを引くタイプですね。貧乏なのは赤坂あかねさんですが。
「うっさいわね」
すみません。
◇
美優と歩はモップを手に床の掃除。とりと羅紗は雑巾を持って戸棚や置物の掃除。あかねと熊男は北壁の苔落とし、夕はそれを手伝いつつ庭掃除をやっていました。それほど大きい建物ではないし、分担すれば夕方には終わるでしょう。
「ってー事は今日は一日掃除でおしまいじゃねーか」
「大男が大声で小さい事言ってんじゃないの」
「あかねさん、上手い事言いますね」
小さく笑う夕。13歳という年齢の割に落ちついた言動ですが、決して感情が無い訳ではありません。
「うっせーぞ坊主。お前は壁掃除は背低くて届かないんだから、虫ケラのように地面にはいつくばって草むしりでも続けてるんだな」
「そうですね。草むしりは腰に負担がかかりますから、おじさんのようなご老体には厳しい作業ですしね」
迂南の暴言に平然とやり返す夕。この二人、年齢差の割に息が合っているように見えますが(本人たちは否定するでしょうが)、お互い会話を合わせているのかもともと波長が合うのか、余人には想像の及ばないところです。
謎の多い二人のやりとりに挟まれて、せっせと苔落としを続けるあかね。窓の向こう、建物の中では床掃除を終えた美優と歩が食事の用意に取りかかり、とりと羅紗は嬉しそうに骨董品の壺を磨いたりしています。
「ああ…何だかあたしマッチ売りの少女みたい」
ぽつりと話すあかね。
「何だあ?嬢ちゃん放火でもする気ならやめといた方がいいぜ」
「でもマッチ売りの少女が死んだ理由は、当時のマッチの火薬に含まれていたリンの毒性による中毒死という説がありますね。それなら幻覚が見えた説明もつきますし」
(…何であたしだけこの二人と一緒に掃除してる訳?)
ふと、あかねの脳裏を疑問がよぎりました。
◇
掃除も終わり、日も暮れて、夕食の時間も過ぎて、時間はひといきに夜の暗闇の中。すっかり涼しくなった山の中で、花火に興じる男女。
「なあ、もっと景気のいいヤツはないのか?」
「だめですよ。この辺は川とかないんですから、大きい花火は禁止です」
残念そうな顔をする迂南に、線香花火を手にして美優。浴衣姿に、ぱちぱちと火薬のはぜる音。
「…?」
ふと、あたりを見回すとり。
「どうしましたか?」
「ん?ううん、何でもない。気のせいみたい」
歩の声にぶんぶんと首を振ります。
「そうですか。それより、その浴衣似合ってますよ」
「え?あの、ありがとうございます」
照れた顔になるとり。さっき美優や羅紗にも同じ事を言っていたし、歩のそれは社交辞令なんだろうけどやっぱり悪い気はしません。あかねは浴衣を用意していなかった事をくやしがっていましたし、この辺はみなさん女の子なんでしょう。
◇
夜も更けて。暗くなった森を前に、風見とりはひとり立っていました。
先程感じた何かが気になったからかもしれません。背後に建つ宿の建物が、わずかな星の光でシルエットを描いています。窓からこぼれてくるわずかな明かりに照らされる領域を外れると、そこは闇の支配する世界。
何かに惹かれるように、という訳でもなく、なんとなく。山道を登る方へ何歩か歩いてみると、とりの瞳に、林の向こうにあるもう一本の道が映りました。
小さな林を越えて、そちらの道に移ってみる風見。背後には、まだ窓の明かりが見えるのを確認するとあたりを見回します。何ということのない、山間の一本道。
ふと、背後の明かりが途切れます。振り向いたとりの前には、大きな熊ほどもある毛むくじゃらの生き物。
(………!!)
おどろきのあまり声が出ないとり。右手が腰のあたりを探りますが、普段持ち歩いている槍はさすがに手にしていません。
逃げようか?そう思いつつ、なぜかその気になれないとり。生き物も彼女の前でただ立っているだけで、動こうとしません。何も起こらない時が、ゆっくりと過ぎていきます。
「風見さーんっ」
林の向こうから聞こえる声。生き物はそちらに首を向けると、ゆっくりと顔を戻して歩き始めます。道をゆずるように動く風見が動くと、何事も無かったように生き物は歩いていきました。林を静かにかきわけて、夕が近づいてきます。
「何ですか?今の」
「わかんない…暗鬼、じゃないよね」
「殺気がありませんでしたよ。襲ってくる様子もなかったから、なるべく静かに近づいたんですけど」
「…じゃあ、とろるだね」
「何ですか?それ」
同じ質問を繰り返す夕。彼には珍しい事だったかもしれません。
「知らない?森にはとろるっていう生き物が住んでいるのよ」
「…物語の話ですか?」
「さあ?」
「さあ、ですか…」
苦笑する少年。その態度に小憎らしさと愛らしさの両方を感じると、とりはつぶやくように話しはじめました。
「でも武器持ってなくて良かった」
「…?」
「私まだ未熟だから、たぶん武器持ってたらあれに襲いかかってたと思うのよね。あなたみたいに殺気がどうとかってわかんないし」
「未熟を自覚する事が半熟への第一歩と言いますけどね」
「…そうね。足手まといにならない程度には強くならないとね」
「弱くても自分の実力を知る事は大切な事ですよ」
「…本当言いたい事言うわね」
「すいません、こういう性格なんで」
すました笑みを浮かべる少年に、とりも同じ表情を見せました。
◇
国や地方は違えど、この森に住む生き物の話はどこででも語られています。東北地方のやまんばちやとろる、だたらなど、似たような話が全て作り話だとは誰がいいきれるでしょう。
「えー。昨日そんな事あったの?あたしも見たかったなあ」
「でもいったい何だったんでしょうね」
「まあ、とにかく出発しましょう?今日は湖をまわってから帰るんでしたよね」
生き物を見た林の道に、それらしい足跡は特にみつかりませんでした。雨が降ったわけでもなく、地面が固かったせいかもしれません。とりたちは何事も無かったように宿を後に、歩いて行きました。木々に囲まれた、山間の道。
◇
それから数日後、とりは一編のお話を書き上げます。
一番最初にそれを見せたのは、一人の少年にでした。
おしまい
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