風と鳥と空 第四回


 幼い頃から、「識」となるべくして育てられた。識の家に生まれ、その技を学び、才ある者として認められた故に、今の彼女がある。もし、彼女に才能が無ければ、彼女は識の事を知らされる事もなく、平穏で退屈な日々を過ごしていた事であろう。

 アスファルトを割る芽。
 泥人形。
 ぼやけた空。
 無機的な影。
 流れない水。
 ノイズ。
 情報。


「…りちゃん?どうしたの、とりちゃん?」
「ん?ああ、ごめん聞いてなかった。何?」

 平成11年9月6日月曜日。放課後の街角、喫茶店の中でたいくつな午後。やや落ちついた内装の店内で、風見とりたちは珈琲を飲んでいました。心ここにあらずといった風体でいるとりに、赤坂あかねが心配そうな視線を向けています。

「大丈夫?とりちゃん最近ぼーっとしてる事多いけどさ」
「ん。何でもない何でもない。それで何だっけ?」
「うん、今度の研究会のレポートだけど…」

 最近活発になっている暗鬼の活動に対して、それを退治する事はもちろん、その存在が世間に知られないように隠蔽する必要を識は持っています。とりの所属している「都市伝説研究会」などそういった活動を行う組織も存在しますが、彼女はその調査の傍らで民俗学や歴史学の勉強を行っています。識としての使命感よりも、個人の興味と純粋な好奇心が勝る例は決して少なくはないでしょう。
 ちなみにきちんとした調査の目的があれば、喫茶店の支払いは研究会が負担してくれる事も多いようです。でなければ貧乏なあかねがこんなお店で珈琲など飲んでいたりはしないでしょう。

「だから別にいいじゃないの」

 すみません。でもあかねさん、店内の紙ナプキンとか持って帰ったりしないでくださいね。恥ずかしいですから。

 閑話休題。新米識である彼女たちも、何カ月も経てばそれなりの実力と結果を発揮できるようになります。識たらんと懸命につとめる者もそうでない者も、そろそろ上の格に上がる優秀な人間と、なかなか芽の出ない人間とに分かれてきます。風見とりは後者に属していました。

「あーほらほらとりちゃん、そここないだ処理した所じゃん。しっかりしてよね」
「あ、ごめんなさい」

「本当に大丈夫か?最近お前おかしいぞ」

 とりの様子を心配してか、樫森羅紗も声をかけます。物静かで落ちついた声。

「うん。らさりん大丈夫よ、ありがと」
「…だからその呼び方はやめてくれ」

 調べ物に限らず、例えば剣の稽古をしている時も、最近のとりは度々様子がおかしくなります。集中力が続かないというよりも、たまに意識がどこかへ飛ぶといった感じで、おかげで稽古でもあかねに連敗続きとぱっとしません。決して人より技術や知性が劣っている訳ではないのですが、とりは明らかに落ちこぼれつつありました。
 一度識の存在を知った者がそれを抜ける事は許されません。それでも戦いの場において足手まといになる可能性のある人間の存在は許容されるものではないでしょう。別に識を落ちこぼれても生きていけなくなる訳ではありませんが、旧態依然とした縦社会である識において、自らの意志によらず落ちこぼれた者は肩身の狭い思いをする事になるでしょう。それ以上に同年代の友人である仲間達にとって、それは何とかしてあげたい問題の筈です。同情や憐憫ではなく、仲間と一緒にいたいという単純で素直な思いから。


「そうなの?風見さんが…」

 楠門の集会所。道場に隣接した会議場のような部屋で、羅紗は小鳥由羽に話しかけていました。実のところ由羽の学年はとりと一つしか違わないのですが、幼い頃より剣者となるべく育てられた彼女はこの世界では充分先輩と言えます。

「小鳥さん、何かご存じですか?」
「由羽でいいわよ。まあ、この時期の子にはたまに見られるらしいんだけど…」

 風習のせいか、奇妙な姓名の多い識の中で若い者たちは呼び名を気にする人が多いようです。羅紗はとりの最近の様子について、由羽にたずねました。こういう時同門の先輩の存在は大きな助けになります。由羽は羅紗を連れて楠門の資料庫に入ると、風見とりの登録簿を引き出しました。

「あ、やっぱりあったわ」
「何がですか?」
「彼女の経歴よ…そうね、私の知り合いにこういうの詳しい人がいるから、これのコピー持って行ってみるといいわ」

 そう言うと羅紗に資料を渡す由羽。その日の内に、羅紗は教えられた大学に向かうと春日遊を訪ねました。


「なるほど、そういう事ですか」
「申し訳ありません、突然押し掛けて」
「いえ、気にしないで下さい。こういう話は僕も興味がありますから」

 夕方遅く。羅紗の訪問に気を悪くした風でもなく、遊は気さくに答えました。精神科医を目指して勉強をしている彼にとって、こういった話は歓迎でしょう。

「あまり難しい話をしても仕方ないですし、結論から言えばごくごく軽いノイローゼみたいなものだと思ってください。時間が経てば直る程度のものだと思いますよ」

 遊の言葉に軽く安堵の表情を浮かべる羅紗。仲間とはいえ、知り合ってさほど時の経った訳でもない他人に何故こんな事をしているのか、おそらく彼女自身にもはっきりとはわかっていません。
 軽いノイローゼ。暗鬼とは言え「生き物」を殺し続ける事に対する抵抗。ごく軽いものでも蓄積すれば重く、心にのしかかってくる事もあるでしょう。もちろん生き物を殺す仕事などいくらでもありますし、そもそも暗鬼が生き物と呼べる存在かどうかすら定説が無いのですが、感情的にどうしようもない事もままあるものです。それが無意味な偽善だと分かっていてもなお「どうして?」という疑問はついてまわります。ある心の壁を乗り越える事は、それが簡単にできた者から見れば信じられないくらいに難しい事なのですから。
 楠門で持ってきた資料によると、もともと風見とりは羅紗たちと同じ御堂という術者になる筈だったのが、剣者となるべく鍛えられたそうです。感受性が高い反面、驚くほど心の弱い彼女を見た両親は、剣者としてまず心を鍛えるべく望み、最も精神集中の必要と思われる一眼流剣術を学ばせました。

「これを見ると、どうやら風見さんは御堂の才能はなかなか高いようですね。剣者としてはごく普通の才能を持っているようですが」
「それで何故、あえて御堂にせずに剣者に?本来向いている技を身につける方が良いだろうに」

 不思議そうな羅紗に、遊が答えます。

「僕は彼女の両親ではないので分かりませんが…親であれば、子の力が強くなるよりも心が強くなる事を望むのではありませんか?」

 識として上格に上がる者は、その代償としてより多くの貴重なものを失うといいます。それが家族であったり、友人であったり、自分自身であったり…格が上がり、識の技を高めた者はより心を失い、最後には自らの破滅を招くとさえ言われています。心の弱い人間であれば、その時がくるのも早くなるでしょう。「感情など暗鬼と戦うには不要」と教えられて育てられた羅紗にとって、遊の言葉は何か心に感じるものがありました。自分は何故こんな手間を取ってまで、風見とりの心配をしているのか。

 誰でも自分の友人が貴重なものを失う姿は見たくないでしょう。


 一場の殺陣。地に伏す暗鬼の屍。

 それは戦いの最中の出来事でした。新米が任されるような簡単な任務でも、それが戦いである以上は常に危険が伴います。剣者は自らの力で危険を最少にとどめ、御堂は自らの力で危険を最小に押さえます。それでも未熟な彼らに小さな傷が絶える事はなかなかないでしょう。

「だあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 由羽の声が響き、公共施設と共に両断される暗鬼。久遠流剣術を極めた者は鉄塊をもひしゃげさせる重い一撃を放ち、その防御の上から相手を倒すと言います。真っ二つにされた公園のごみ箱が地面に転がり、水飲み場の台も角が切り落とされています。

「あーあ。もったいない…」

 あとで「識」が支払うとはいえ、ちょっとした請求書の山が築かれそうな由羽の戦いぶりにため息をつくあかね。その意味では攻撃の軌道が最小の軌跡をとる一眼流剣術は彼女に向いているのかもしれません。

「でえりゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
「うりゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 楽しそうに(?)暴れ回る由羽。久遠流の剣者には、ストレスで非行に走ったり胃を痛めたりする人が少ないそうです。
 豪快な先輩と共に、数だけは多い暗鬼を倒す識たち。羅紗が陣を張り、水無瀬歩がそれを手伝いつつ癒しの為に待機し、由羽が暗鬼を蹴散らして、あかねととりが確実にしとめていきます。やや混戦になってはいますが、直にすべての暗鬼が片づく事でしょう。

「らさりん!後ろ来たよ!」
「分かっている!」

 あかねの声に移動しつつ振り返る羅紗。飛びかかる暗鬼。

 しゅっ。

 背後から羅紗の頬をかすめるように伸びる槍先。一瞬の後、暗鬼が地面に落ちると、突き出された時と同じ軌道、同じ速度で槍は戻されていました。

(…今のは…風見さん?)

 一瞬見えた槍先は確かにとりの物でした。機械のように正確な太刀筋と、それが持つ意味。羅紗はもう一度振り返ると、今自分を助けてくれた剣者の姿を探します。
 とりの様子は明らかに普段と違っていました。最も効率よく敵を倒す為だけの動き。何かが吹っ切れたのか、何かを考える事をやめたのか、無表情に、機械的に相手を倒す。普段は自分も無表情な事が多い分、それが自分と本質的に違う状態だという事を羅紗はすぐに理解しました。

「風見さん!」

 珍しく、強い感情のこもった声を上げる羅紗。そのまままっすぐとりの方へ走ります。羅紗の方を向いたとりは、表情の変わらないまま俊速の槍先を突き出し、

 そして、戦いが終わりました。


 首すじを流れるひとしずくの血。わずかに舞う毛髪。

 羅紗の横をかすめたとりの槍先は、暗鬼の最後の一体を貫きました。戦いが終わっても依然表情の戻らないとりに、羅紗は何事も無かったかのようにゆっくりと近づくと、槍を構えたままのとりの背に両腕を回して軽く抱きつきました。

「もういい…終わったんだ…」
「…」

 かすかに震え出す槍先。とりの顔に、理解と恐れと戸惑いの表情が浮かんできます。槍先が下ろされ、呆然と立つとりを羅紗は無言で抱き続けています。

「ごめん…羅紗…さん…わたし…」
「分かっているなら何も言わなくていい。直ぐに落ちつくだろう」

 心に打ち克つ事と、心を失う事は別の事です。無表情な事と無感情な事は違う。それを忘れた者は識としての格と同時に、貴重なものを失う事になります。

 誰でも自分の友人が貴重なものを失う姿は見たくないでしょうから。


「…りちゃん?どうしたの、とりちゃん?」
「ん?ああ、ごめん聞いてなかった。何?」

 数日後。放課後の街角、喫茶店の中でたいくつな午後。やや落ちついた内装の店内で、風見とりたちは珈琲を飲んでいました。毎度注意力散漫な様子を見せているとりに、赤坂あかねと樫森羅紗が心配そうな視線を向けています。

「相変わらず考え事が多いな。あまり苦労性だと胃を痛めるぞ」
「あはは。ごめんらさりん、心配してくれてありがと」
「…だからその呼び方は…」

 苦笑を浮かべる羅紗。首筋に小さな絆創膏。
 生来の性格なのか、相変わらずぼんやりとしている事の多いとりですが、先日までのように機械的な印象を与える事は無くなりました。それに伴って、あかねやとりと一緒にいる時、羅紗の表情にも少し変化が見えるようにもなった気がします。

 羅紗の首筋の絆創膏の下。
 小さな小さな傷は、その後すぐに消えました。

おしまい

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