風と鳥と空 第五回


 風見とりは逃げていました。識の追手から、全力で。逃げられる筈などないと分かっていても、彼女は逃げずにはいられませんでした。ただひたすら、何の当てもなく逃げ続けます。見つかるのも捕まるのも時間の問題でしょうが、その時、自分がおとなしく捕まるべきか抵抗するべきかすら、彼女には分かっていませんでした。

 それでも、とりは逃げ続けます。

 平成11年10月15日。たいくつであった筈の午後。学校帰りの林に面した道で、とりは一匹の野良犬に会いました。その林の奥には昔の祠があって、かつて暗鬼を封じ込めた古い結界があり、一般には立入禁止になっています。とり自身も正式に識の一員になった時にこの祠を案内された事があり、数百年もかけて浄化されつつある結界から、未だにもれている僅かな気配に気分を悪くした覚えがあります。
 雨と泥に汚れた、年老いた雑種犬。最近近くに居着いたらしいこの犬が、結界の瘴気に当てられて半ば暗鬼化している事に、とりは直ぐに気が付きました。おそらく余命幾ばくもない老犬が、生命力が弱るにつれ闇の力の影響に耐えられなくなったのでしょう。それが本来許されない行為である事を知りつつ、とりは老犬に度々餌を持っていきました。老犬は彼女になつき、貧相な尻尾を弱々しく振って感謝の意を示していました。

 とりの友人である樫森羅紗が、その事に気づいたのはしばらくしてからの事です。とりは識の人間に老犬の事が知られた事を知ると、犬を連れたまま逃げだしました。彼女の家族はもちろん、友人のほとんども識の人間だった為、たった一人で誰を頼る訳にもいきません。自分の行為が感情的で愚かな事を分かっていて尚、彼女はこの老犬を見捨てる事ができませんでした。

 もしも、あなたになついてくる見窄らしい老犬が暗鬼だと知った時、あなたはどうしますか…?


「まったく、何考えてんのよ」
「恐らく衝動的な行動だろう」

 話を聞いて、赤坂あかねと樫森羅紗、朱臣桐の三人はとりの後を追っています。識という組織全体にとって、風見とりの行動はさほど大きな意味を持つものではありませんが、それでも本家の人間などに捕まれば手厳しい処置を取られるのは目に見えています。友人であるあかねや羅紗の手で事が大きくなる前に片づけてしまえば、せいぜい小言の一つくらいで済むでしょう。

「でもさあ、とりちゃん最近剣者の成績悪いしまずいんじゃない?」
「ああ。いちおうフォローは入れておいたが」
「フォロー?」

 あかねの問いに、羅紗の言葉を引き継いで桐が言います。

「羅紗さんに言われて楠門の支部に連絡してきたの。『祠の結界の瘴気で暗鬼化した野犬がいるらしい。今は風見さんがそちらにいるので追いにいく。ついては結界の調査に誰かを向かわせてほしい』って言っておいたから、とりあえずそっちに人手が回される筈よ」
「らさりん…意外と策士だね」
「嘘は言っていないぞ。本当はあまり使いたくない手だが仕方なかろう」
「そうだね。らさりんありがと」

 何故だか羅紗に礼を言うと、あかねは桐と三人でとりを探しに向かいました。羅紗の放った式がとりを見つけたのは、それからしばらくしてからの事です。


「痛…」

 羅紗たちが駆けつけた時、とりは右手を押さえてうずくまっていました。老犬の姿は無く、とりの右手からは血が滴っています。

「とりちゃん!?大丈夫?」
「う…うん。平気、ごめん…」

 あかねの声に申し訳なさそうに返事をするとり。何が起こったかは一目瞭然でした。幸いとりの怪我はごく軽いものでしたが、彼女の取った行動自体が辺りの雰囲気を気まずいものにしています。桐が応急でとりの怪我を癒すと、羅紗が近寄ってきてとりに言います。

「風見さん…これから何をするべきか、分かっているな?」
「うん…ありがとう」

 羅紗の声にうなずくと、とりは傷の言えた右手で槍を掴み、四人で老犬だったものの後を追います。


 外見は、弱々しく見窄らしい老犬のままでした。おそらく識でない人には違和感すら感じない姿であったでしょう。ですが、とりにはわかりました。かつて老犬だったものの瞳が、彼女になついていたときのものでは無かった事。老いて弱った筈の四肢で歩く姿が、異様な程に力強い事。更には、その暗鬼が未だ弱々しく、さしたる力を持っていない事も。

「手を貸す気はない。お前が自分で片づけるんだ」

 羅紗の言葉。自分にかすり傷を追わせる程度の能力しか持たない相手を、全力で倒さねばならない理不尽。かつて老犬だったものに取り付く暗鬼。堪えきれず、とりの両目から涙の雫が落ちます。
 一瞬の後、完璧と言っていい軌道を描いて、槍先が、老犬の眉間をつらぬきました。


 たいくつであった筈の午後。日も暮れて、時間をかけて老犬の埋葬を終えた四人。林の奥、せめて土に返してあげたいと思うのは感傷にすぎないのかもしれません。

 理不尽に命を落とした老犬と、
 理不尽に命を落とした暗鬼の為に。

「わたし…識に向いてないのかな」

 ぽつりと話すとりに、羅紗とあかねが答えます。

「そんな事は無い」
「…だね」
「でも、わたしは…」

 顔を向けるとりの言葉を遮るように、羅紗は話します。

「能力がどうこうじゃ無い…戦いで涙を流せる人間の方が、涙を流せない人間よりも戦いに向いているだけの事だ」
「…識であり続ける事は人間を失う事。でも、識は人間であり続けるべきだと思う…」

 羅紗の言葉に、桐が続けます。その言葉に動かされたように、とりはもう一度だけ老犬の墓に振り返ると、祈りを捧げます。
 日が、暮れていました。


 結局四人は軽い譴責処分と結界の補強の手伝いに駆り出される事で話は落ちつきました。そして、申し訳なさそうなとりに対するもう一つの罰として、あかねと羅紗、桐の三人に珈琲をおごる事になりました。

 老犬の墓になっている大きな石は、今でもたまに磨かれています。

おしまい

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