松本いずみのこと
その少年は、他の子どもの知らないような、すばらしい喜びをたくさん知っています。
でも、たった一つ、今この窓の内側にある喜びだけは、
永遠に、知ることができないのです…
◇
本名松本いずみ。芸名もペンネームもリングネームも無し。聖ルーメス学園の演劇部に所属する、ごく普通の女子高生。短気で元気で陽気で、すぐに金属バットを振りまわす癖がある、ごく普通の女の子。一部では突撃爆弾娘と呼ばれているらしいけど、本人曰くごくごく普通の女の子、です。
もうずいぶん前のような気もしますが、学年度末の三月、演劇部での初舞台でミュージカル『ピーター・パン』の主役という大役を無事に終えて、ほっと一息ついたところです。ほとんど繰り上がりとはいえ、抜擢は抜擢ですから自慢はしないでも誇ってもかまわないかもしれません。
その時に彼女が学んだものは、力を貸してくれた仲間の大切さと、観客の前で舞台に立つことの楽しさと、そして、『演技』というものについて…。
演じることって、何でしょうね。
◇
1999年の7月は雨の月。雨降る町の片隅で、いずみは一匹の子犬を拾いました。
迷子か、捨犬か、最近はめずらしいけど野良犬の子供か。そのあたりはわからないけれど、雨と泥に汚れた子犬を片腕に抱えて、いずみは寮の部屋に帰りました。誰にもみつからないように、こっそりと。
「あれ?いずみ、その子犬どうしたの」
寮の部屋。返ってきたのはいずみのパートナーにして親友でもある、田中えりかの声。魔法のある世界、多摩国にやってきた魔法世界「キングダム」の住人たち。彼らは人々の心、想いによって魔法の力を、自分たちの存在そのものの力を得ています。
彼らキングダムの住人たちが自らの存在を得るために、多魔国の人たちと伴に生活するようになったのがいわゆる「パートナー」。田中えりかは松本いずみのパートナーとして多魔国にやってきましたが、ややこしい制度や背景は本人たちにとってはまるで意味の無いことでした。田中えりかは松本いずみの親友で、松本いずみは田中えりかの親友だから。それ以上でもそれ以下のものでもなくで、そしてそれで充分だから。
「うん。そこの路地で拾ってきちゃってさあ」
「いいの?この寮ってペット飼うのも持ち込みも禁止だよ」
別にえりかは規則にうるさい性格ではありませんが、いちおう忠告。むしろ規則にうるさい所のあるいずみがそんなことしてていいの?という意味もあったかもしれません。
「んなことわかってるよ。でも寒そうに震えてたんだよ。ほっとけないでしょ?」
「まあ…元気になるまでこっそり置いといてもいいと思うけどさ」
雨と泥に汚れた雑種犬。首輪をしていないところを見ると、捨犬の可能性が高そうです。元気になったら飼い主か引取先を探そうと、二人の同居者が増えることになりました。ほんの短い間ですけれど。
◇
「で、この子がその犬なの?」
「…うん。今えりかが引取先探して貼り紙しにまわってるんだけどね」
栗色の長髪を傾けて、白雪聖良がいずみと話しています。寮の一室。結局鳴き声で寮のみんなに子犬のことを気づかれてしまったんですが、すぐに引取先を探すという条件付きで寮で飼うことを認めてもらいました。いずみが友人である聖良に来てもらった理由は、引取先探しやその間の世話を手伝ってもらおうというのと、もう一つ。
「あ。おとなしく寝てくれたみたいだね」
「…良かった。この子なかなかあたしになついてくれなくてさ」
聖良の腕の中でおとなしく寝ている子犬。その姿を見て、安心と残念さのまざった表情を浮かべているいずみ。なぜか子犬はいずみにはあまりなついてくれず、元気のない子犬が抵抗しようとするのに耐えられなくて、いずみは聖良を頼りました。
「いずみさん。この子なんていう名前なの?」
「え。特に決めてないんだ。もし飼い主とかいたら悪いし」
いずみの返答に、ちょっと聖良の表情が変わります。
「…名前くらいつけてあげてもいいんじゃないかな。この子だってきっとそうしてほしいと思ってるよ」
「それなら聖良、いい名前ないかな?あたしこーゆーのって苦手で…」
いずみの言葉に、こんどははっきりと聖良の顔が曇ります。
「駄目。いずみさんがこの子のこと、引き受けたんでしょ?この子の心を知ってあげるのも、いずみさんの責任だよ」
「責任って、そんな」
「そんなに重要なことじゃないのかもしれないけど、名前をつけてあげるってのはこの子のことを認識してあげるってことだと思うの。もちろんこの子のために引取先を探してあげるっていうのも大切なことだけど、その前にやっておくほんの小さなことってあるんじゃないのかな」
柔らかく、諭すような口調で。いずみの胸に聖良のことばが染みていきました。
「聖良…ごめん。ううん、ありがとう」
「演劇の第一歩は心を知ることだよ。自分の心も、観客の心も、子犬の心もみんな一緒なんだから♪」
聖良の言葉に、いずみは子犬を受け取って抱きかかえると、その瞳をじっと見つめました。普通、動物というものはあまり瞳を見つめられると警戒してしまうものなんですが、不思議と子犬はじっといずみの瞳を見つめかえしていました。聖良も二人の…一人と一匹の様子をじっと見つめていました。何か、愛しく大切なものを見るような視線で。
「…決めた。お前の名前はひなたにしよう!」
「ひなた、ちゃんか。いい名前ね」
「初めてこいつと会った時、雨降ってたからさ。これからはひなたで育ってほしいなと思って」
いずみに抱きかかえられながら、子犬は弱々しくですが、尻尾を振っています。名前をつけてもらったことよりも、もっと大切な何かをいずみからもらったから。
それが、いずみが子犬の嬉しそうな顔を見た、最後になりました。
◇
聖ルーメス学園、学生寮の裏庭。そのいちばん日のあたる場所に、ていねいに作られたお墓がひとつ、立っています。お墓の見える窓際の一室、机に突っ伏して寝ているいずみの肩に、小さな毛布をかけるえりか。いずみの手に握られている首輪に書かれた「ひなた」の文字。
雨降る六月の町で、その日の学生寮はあたたかいひなたにつつまれていました。
おしまい
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