大きな岩と土のかたまり 第四回
日本という大きな海にかこまれた小さな国に住んでいると、気が付かないことなのかも
しれません。海というものは、人によってはあたりまえに存在しているものでは決してな
くて、例えば海に面していない国や地域の人たちにとっては海というのは見たこともない
とてもとても珍しい大きくて塩辛い水たまりであったりするのです。
ここは大きな海にかこまれた小さな国である、日本の神戸という都市。海に面したこの
都市で、今年は100年に一回、魔法世界アークランドから留学生が訪れる年でした。多
くの見習い魔法使いたちがここ神戸を訪れてからもう四月ほどがたちます。地水火風の四
つの力に分かれているというアークランドで、水の世界アクアリアの出身者を除いては海
を見たことのある人はごく少数派であったかもしれません。
近代的な建物の見られる異人館通りに集まっている魔法使いのたまごたち。そこから少
し電車で乗り継いだ先、すぐに視界に入ってくる海を見て、彼らはいったいどんなことを
考えているのでしょうか。
その場所を歩いていたのは一人の少女。平成12年7月16日日曜日、梅雨明けがまだ
とはいえすっかり暑くなった神戸の街、海の見える公園の遊歩道を涼しげな服を着て、リ
ボンを付けたポニーテールの少女が歩いていました。
「杏、あまり遠くに行くんじゃないぞ」
その声を聞き流すかのように、少女は海へ続く道を急ぎ降りていきます。対岸の見える
瀬戸内は大阪湾の海とはいえ、水平線が見えること自体が海を見る機会の少ない人、ある
いは全くない人たちにとっては大きな驚きであったでしょうから。留学先の文化になじむ
ためにも夏の海を見にいこう、そう言って父親と幾人かの友人知人を集めてきたのは当の
ポニーテールの少女でした。少女の名前は桐生杏、といいます。
年頃の少し前。好奇心に溢れる年代の娘とそれを気遣う父親の二人。父親は目に見えな
い鎖や篭で娘を捕まえておきたいところでしょうけれど、その鎖の長さや篭の大きさはま
さしく人それぞれであったでしょう。いずれ、鎖を解き篭を開けるときがくるにしても、
そういった事情はこの世界であれ魔法世界であれなんら変わるところではありません。も
ちろん鎖や篭の存在はそれに捕らわれている者にとっては窮屈なものでしかないでしょう
けれど。
◇
海を見はるかす公園の遊歩道。海水浴場へと続く下り坂を、水着らしきものを着て小さ
な岩と土のかたまりを連れた大きな岩と土のかたまりが歩いていました。大きな岩と土の
かたまりは名前をポポス=クレイ・I・リビングストンといいますが、長いのでポポス・
クレイとかただたんにポポスとか呼ばれています。小さな岩と土のかたまりは名前をポポ
といいました。
岩と土とでできている魔法生物のゴーレムが、こういった水の中に入れるのかどうかと
いう話はあまり聞いたことがありません。おそらくは入らない方がいいでしょうし、当人
も入るつもりはないでしょうし、そもそも普段衣服を着ていないゴーレムに水着がどうい
った意味をもつのかは分かりませんけれど、水着を着た大きな岩と土のかたまりと小さな
岩と土のかたまりは海岸へ続く道をじっと見つめています。
海岸へ続く道。大きな岩と土のかたまりの後ろからひょこりと顔を覗かせたのは、小柄
な短髪の少女でした。健康的な水着の上にパーカーを羽織って、鳶田純は足下を歩いてい
る小さなゴーレムに話しかけます。
「ポポくん水には入れないでしょ?どうして水着なんか着てきたの」
岩と土でできたゴーレムは何も言いません。
「ポポくん?」
岩と土でできたゴーレムは何も言いません。
「そうよね。こういう所くるのは楽しいもんね。でも二人ともその水着、似合ってるよ」
微笑む純のことばに、ポポスとポポの顔がどこか照れ臭げに見えました。そんなやりと
りを見て、明るい顔でもう一人の少女、朽木ちなみが話しかけます。ゴーレムの心を知る
こと。一度自転車に乗れるようになれば簡単に乗れるように、純にはポポのことばが、最
近はポポスのことばもなんとなく分かるようになってきていました。
「純さんずいぶん慣れてきたんじゃない?」
「ええ。でもゴーレム創造は相変わらずなんだけど」
「純さんならそのうちできるよ。何ならポポスに教わるとかいいんじゃない?」
「あはっ、そうですね…あ、それより今日は極えもんは?」
極えもんというのはここしばらくポポスの家に通っている黒猫のことです。ちなみが餌
をやりによくポポスの家をおとずれているのですが、さすがに猫ですから海に連れてくる
のもどうかと思って留守番をさせています。もっとも町中を歩き回っている猫に留守番も
なにもありませんから、単にいつもの場所に餌を用意しておいただけですけど。
「まったく、おかげで最近家に極えもんがいなくて仕方ねーぞ」
悪意のない口調で言うのは左目の所に傷あとのある目つきの悪い青年、カイト・ヴェイ
デンバウム。極えもんの実際の飼い主なんですが、本人を含めてどこまでそのつもりのい
るのかは明らかではありません。人望?というものでしょうか、カイトの住む異人館通り
の周辺では極えもんが餌にありつく機会は多いようで、自由気ままに暮らしているという
のが本当のところのようです。
砂浜についたカイトはポポスとポポに荷物番を頼むと、女性陣を連れて海に向かってい
きました。その扱いにやや抗議する向きもあった純とちなみですが、もとよりゴーレムが
水の中に浸かる訳にもいきません。すぐに戻ってくるからとカイトの後をついて海へ向か
っていきました。こういう時、変に気を使う必要はまったくないでしょう。その後ろ姿を
じっと見つめると、ポポスは視線を足下の小さな岩と土のかたまりに向けました。
最初に戻ってきたのは純でした。どこかで荷物番のゴーレムのことが気になっていたの
か、ただ単に体力がなくて疲れただけか。砂浜に戻った純が見たのは一所懸命に砂山を積
み上げているポポと、珍しく座り込んでそれをじっと見ているポポスの姿でした。
「ポポくん?一体何を作っているの」
何気ない質問ですが、純は内心の驚きを隠すのに苦労しなくてはいけませんでした。自
分の意思を持つようになった古い古いゴーレムのポポスとちがって、ポポはポポスに作ら
れた普通のゴーレムにすぎません。先日、落ち込んだ純をなぐさめてくれたこともそうで
すが、この小さな岩と土のかたまりが時として人間以上の人間らしさを見せることに、純
は興味以外の何かを覚えていました。
何とはなく、純はポポの隣りで砂山を積み上げはじめました。砂を掘って、軽く海水を
かけて、こういう場合に作るのはやっぱりお城か山でしょうか。だんだん熱中してきた純
は、小さいけどそこそこ立派な砂のお城を作りあげました。小さな満足感とともに、隣で
砂と格闘しているポポを見ました。
「………!!」
ポポが積み上げていたのは、不格好でなんだか良くわからない砂のかたまりでした。で
すが、何故か純にはポポが何を作ろうとしているのか分かったのです。砂山にわずかにそ
れらしく見えなくもない眼鏡とハリセンの形。砂山でできる筈もない鳶田純の像をポポは
作ってくれようとしていたのでした。
その瞬間、純は自分の目の前の砂のお城がとても意味のないものに見えてきました。彼
女が砂山でポポを作るほうがはるかに簡単であったに違いありません。でも、そういう発
想に思い至ったのは彼女ではなくて、隣りにいる小さな岩と土のかたまりだったのです。
ポポは、
この子は私よりずっと人間らしいじゃないか!
とても申し訳ない気持ちととてもありがたい気持ちにあふれて、純はもうふたつ、砂山
の像を作りました。それはとても良くできたポポとポポスの像で、幾年か後になって純が
思い返してみると、もしかしてそれは彼女が一番最初につくったゴーレムだったのかもし
れないな、と思いました。
真っ赤な光のさす夕暮れには、砂のお城もふたつのゴーレムの像も眼鏡とハリセンを持
った砂の山も全て波に流されてしまいましたけれど。
◇
それより少し前の時間。泳ぎに行った人たちを見送って、荷物番をしていたポポスとポ
ポの隣りに歩いてきたのはリボンを付けたポニーテールの少女でした。杏はポポスに声を
かけると、隣りに腰を下ろします。相手が人の良さそうなゴーレムなら過保護な父親も何
も言わないでしょうし、それに共感の能力をもっていた杏にはポポスのことばが何となく
聞こえてくるようでした。あるいは友人に囲まれていたゴーレムをどこからか見ていて、
興味をもったのかもしれません。
今は、たまたま父親や一緒に来た友人の側をはなれて一人。自分のことを想ってくれる、
自分のことを大切にしてくれる父親は杏にはとてもありがたく、頼もしい存在なのですが、
時にはそれが煩わしく思えてしまうこともあるでしょう。暖かくて優しい篭の外に向かう
視線。好奇心のずっと手前に存在する篭の存在。
「ねえ、ゴーレムさん。何か楽しいことってないかな?」
その言葉に、ポポスは足下の砂を掘りはじめました。何やら深く砂を掘りはじめたポポ
スに不審な目を向けつつも、杏も一緒になって砂を掘ります。しばらくして掘った砂が水
を含んできた頃、埋まっている汚れたランプが現れました。突然現れたランプは意外に新
しいもので、取り出した杏が磨いてみると思ったよりもぴかぴかと陽の光を受けて光って
いました。恐る恐る、杏はランプの蓋を開けてみます。
「パパラパー!!!」
大きな声が響きわたり、杏の目の前に突然髪を結った大きな男が現れました。場違いな
アラビア風の服を着た男は、杏に恭しく礼をして言います。
「お呼びでしょうか御主人様。何なりとお言い付け下さいませ」
「えっ?えっ?ええっ!!」
呆然とする杏。ちなみや純がいれば、隣りのポポスが珍しくいたずらな瞳をしていたこ
とに驚いたことでしょう。
誰もが持っている自分に架せられた鎖。誰もが閉じこめられている自分を捕らえる篭。
誰でも、その拘束の中で生きていかなければならないのだし、それを越える自由を要求す
るのならば、相応の責任を持つことを要求されます。一歩篭の外に出た鳥は、篭を作った
人に守ってもらう事はできなくなります。篭の外の自由は篭の外の責任と同義なのですか
ら。
桐生杏を囲んでいる小さな、けれど暖かくて優しい篭。閉じられた扉を開ける為の合い
言葉はすぐ側にあります。ですけれど、盗賊の扉を開けるかどうかはアリババが決断すべ
きことなのです。
忠実な魔人はたったひとつのものを与えてくれました。
おしまいというよりつづく
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