大きな岩と土のかたまり 第六回


 その月は『食』の月。魔法が弱まるこの一時期、魔法使いのたまごたちがどのように過
ごすかこそが、50年に一回の試験においてはとてもたいせつなことであったでしょう。
ですが、それよりたいせつなことだって、もちろんたくさんあったのです。

 平成12年9月17日日曜日。日本は神戸、ここは異人館通り。その一端を少し離れた
ところにある、もとは車庫だか倉庫だったらしい、一軒のプレハブでできたガレージがあ
ります。ここには大きな岩と土のかたまりが小さな岩と土のかたまりと一緒に住んでいま
した。大きな岩と土のかたまりは名前をポポス=クレイ・I・リビングストンというので
すが、長いのでポポス・クレイと呼ばれていました。小さな岩と土のかたまりは、名前を
ポポといいます。ポポスとポポの暮らしているガレージは、最近たびたび高校生くらいの
幾人かの男女が訪れることでも知られています。あと、一匹の黒猫と。
 一匹の黒猫。毎朝、まだ涼しいこの時間にこの黒猫がガレージを訪れることを、鳶田純
は知っていました。小柄で眼鏡をかけた、ショートカットの女の子。彼女もまた、たびた
びこのガレージを訪れていましたから。
 涼しげな風のあたる日曜日の朝。砂漠と荒野の広がるフィレイム地方に住んでいた彼女
には、一月ほど前からの照りつけるような暑さはともかく、じめじめとした湿気は意外に
堪えるものでした。きっと、目の前を歩く黒猫も同じだったのでしょう。まだ日の昇りき
らないこんな時間に出歩くことが多くなったのも、日本は神戸、ここ異人館通りの気候が
そうさせたのかもしれません。だって夕暮れの太陽は、暑くなくても出歩くには悲しすぎ
ましたから。

「もっとも、この世界は昼も夜も暑いけど…」

 昼間がとても暑ければ夜はとても寒くなる世界。フィレイム地方に住んでいた純の知っ
ている暑さとはそういうものでしたから、どちらにしても今年一年限りの異人館通りの夏
は、彼女にはとても新鮮でとても堪えるものなのでした。
 もとは倉庫だか車庫だったらしい、一軒のプレハブでできたガレージ。入り口の脇に置
いた小皿に盛ってある、細かくちぎったにぼしの山。このにぼしの山がいろいろな料理に
変わっているときは、純の友人が一足先にここを訪れている証拠でした。今日はまだ来て
いないようで、黒猫は小皿に歩みよるとちゃっちゃとご飯を食べはじめます。いつもより
なんとなく人気の無い、ガレージの入り口に多少の違和感を感じながらも純は挨拶をして、
中に足を踏み入れました。小さな窓から薄明かりの差し込む簡単なつくりの部屋。その一
隅に、小さな岩と土のかたまりが置いてありました。

「ポポくん、おはよう」

 自然な笑顔を向けて、挨拶を交わす少女。その表情が、困惑に変わるのにそれほど長い
時間を必要とはしませんでした。

                  ◇

 しばらくして気が付いたとき、純の目の前にあったのは眼鏡をかけた見慣れた友人の顔
でした。いつの間に訪れたのか、純の介抱をしていた朽木ちなみは、目の覚めた友人に心
から安心した顔を見せます。

「しっかりしてよ純さん。今月から『食』の月でしょ?魔法が弱まるんだからポポだって
動かなくなるときがあるんだよ」

 自分は、気を失っていたんだろうか。目尻がかすかに乾いているのに気付いた純の前に、
冷たい塗れたタオルをゆっくりと差し出す大きな岩と土のかたまり、ポポスの姿がありま
した。ポポスはとてもとても昔に魔法で生命を吹き込まれた、大きな岩と土のかたまり。
ポポはポポスが魔法で生命を吹き込んだ、小さな岩と土のかたまりでしたから、魔法の力
が弱まる『食』の時期にはその働きがにぶくなってしまうのも仕方のないことなのかもし
れません。そういえば、大きなポポスの動きもいつもより更にぎごちなく、ゆっくりした
ものに見えます。

 それは、悲しげな自動人形のように。

 事情を知って安心するとともに、借り物の生命しかもたない岩と土のかたまりに、なん
だかとても悲しい気持ちになった純はポポスの差し出したタオルを受け取ると、眼鏡を外
して顔を拭きました。顔よりも心にひんやりとした感触が伝わってきて、ようやく落ちつ
いた純にちなみとポポスは安堵の表情を浮かべました。
 そのことに気付いて、純は心配してくれた二人にお礼を言いながら笑みを浮かべると、
その日は涼しげな日陰になったガレージの庭で、何も言わないポポの隣りに腰掛けて一日
ずっと座っていました。空と風とポポとに、順番に目を移しながら。

                  ◇

 ポポスの住んでいるガレージから、異人館通りを反対側にずっと歩いてやっぱり少しは
ずれたところにある一軒のペットショップ。ちなみが明智ペットショップを訪れたのは、
黒猫の餌の材料を探すためにでありました。料理好きな彼女はたいていごく普通の材料か
ら黒猫の餌をつくっていたんですが、塩かげんや味付けを弱くするとか栄養バランスをニ
ンゲンのそれとは変えるとか、もともと肉食の猫用ならではの工夫をする必要がありまし
たから、実際のキャットフードの味見をすることだってとてもたいせつなことだったので
す。もっとも、ちなみも半猫の獣人ではありましたから、猫の味覚にはたいてい詳しかっ
たりはしたのですけれど。
 やけに目つきの悪い、無愛想な店員のいるペットショップ。黙々と目の前の犬にブラシ
をかけているこの無愛想な少年、明智大介がこの周辺では並ぶもののない名ブリーダーだ
という事実はあまり知られていないのですが、さしあたって重要なのは彼が動物に対して
はとても真面目で真摯で無愛想なことだったんだと思います。魔法世界、アークランドか
らきた人達と違い、大介はもとからこの世界にいるごく普通の日本人でしたから、『食』
がどうといわれてもあまり良くわかりません。

「発情期みたいなもんか?」
「それも違うと思う…」

 とりとめのない話をしながら、ちなみは調合用キャットフードの試食をしつつ幾つかの
缶を選んでいました。魔法世界の人間がこの世界の人間ととりとめもなく話すっていうこ
とは、じつはとてもたいせつなことだったんですけれど、それだってやはりたいしたこと
ではありません。
 そんな折り、やや慌てた様子の一人の少女が駆け込んできました。和服を着て腰に徳利
を下げたふくよかな印象の女の子、太貫小鈴。わずかに赤くなっている頬を見ると意外に
急いできたのか、その様子を見て目の前の犬に向けていた顔を上げると、大介が話しかけ
ます。

「どーした?また屋敷の猫に引っかかれたのか」

 冗談めかした大介でしたが、真面目な顔で小鈴が言うには異人館通りの近くで元気のな
い野良犬を見つけたということでした。とりあえずひととおりの商売道具を手に、大介と
ちなみが小鈴に付いてペットショップを出たのはそれからすぐのことでした。

 大通りを外れた寂しげな道。そこに道があることは誰もが知っていても、そこを通る人
もほとんどおらず、そこを覚えている人もほとんどいない、そんな道の一画にリゾレット
・スチュアートは立っていました。静かで繊細な容姿を持つ女の子、やや離れたその足下
に一匹の汚れた老犬がうずくまっています。
 元気のない、みすぼらしい老犬。それが病気や栄養不足のためだけではなく、老衰で元
気がないのだということに気付くのに、大介にはさほど時間がかかりませんでした。
 たくさんの生き物と暮らすということはたくさんの生き物が死んでいくことを見ること
でもあります。大介にはそのことがわかっていましたから、自分の力でどうしようもない
この老犬をここに置いていくことにしました。当然、非難の意思を込めたリゾレットの視
線とちなみの抗議の声を受けることになりますが、大介は平然としていました。リゾレッ
トなどは本来犬嫌いでしたけど、隣りにいたちなみにもその気持ちはよくわかりました。
あまりに酷薄だと思う。ペットショップで働いているのなら助けてあげてもいいじゃない
か。

「何でだ?こいつは今さら俺の家で死にたいなんて思ってないぞ」

 ずっと昔からこの近くで生きてきた野良犬。その時間が終わる今になって、あらためて
鎖につながれることがこの犬の望むことであるのか。それに、どうしてペットショップで
働いているからといって大介がこの犬を助けてあげなくてはいけないのか。当たり前のこ
とを当たり前に話す大介のことばに、自分の思いがたんなる身勝手にすぎないと思って、
リゾレットもちなみも黙り込んでしまいました。そんな3人の気持ちを見すかしたように、
大介に話しかけたのは小鈴でした。

「なあ大介はん、明日もここに来るんやろ?ウチも毛布とかなら持ってるで」
「あー、じゃあ頼むよ」

 この少年が本当に動物のことを考えていることは小鈴にはわかっていましたから、小鈴
には大介が何をしようとしていたか、短いつきあいでも充分にわかるようになっていまし
た。翌日から小鈴や大介は、毎朝この老犬のところに訪れては毛布を替えたり飲み込みや
すい餌を用意したりすることになりました。リゾレットはときどきしか手伝いにきません
でしたが、小鈴や大介がこない時間にこっそり様子を見にきていたのを、ちなみは何度か
見ていました。
 老犬が明智ペットショップの前庭で静かに眠るようになったのは、それから一週間後の
ことです。

                  ◇

 生きる時間を与えられるということ。犬だって猫だって人間だって、岩と土のかたまり
だってそれは一緒のことだと思う。借り物の生命しかもたない岩と土のかたまりはとても
かなしい生き物なのかもしれないけれど、借り物の生命しかもたないのは犬だって猫だっ
て人間だって一緒なのかもしれない。ちなみから事の顛末を聞いた純はあらためてそんな
ことを考えると、今日も隣りに腰掛けている小さな岩と土のかたまりにつぶやきかけまし
た。

「いきものって、悲しいものなのかもしれないね…」
「…」

 涼しげな風のふく一日。かすかに、ほんとうにかすかにポポの返事を聞いたように思う
純。おどろいて、ポポの方を見るとさっきまで前を向いていた小さな岩と土のかたまりが、
ほんの少しだけ自分のほうを向いていることに気が付きました。黒目がちな瞳でその瞳を
じっと見つめる純の背には、明るい太陽の光が差し込んでいました。

「ごめんね。生きてるってとても楽しいことだよね」

 その日、純は涼しげな日陰になったガレージの庭で、何も言わないポポの隣りに腰掛け
て一日ずっと座っていました。空と風とポポとに、順番に目を移しながら。

 もうすぐ、『食』の月が終わります。

                                    おしまい



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