大きな岩と土のかたまり 第七回
魔法の影響が弱まる『食』の月。今月もまだ『食』が続いていますけれど、魔法生物の
ポポもポポスもずいぶんと動けるようになってきました。それが時が過ぎて『食』の影響
がだんだんと弱くなっているためか、それとも別の理由によるものかはわかりませんでし
たし、それは別にどうでもいいことではありましたけれど。
平成12年10月8日日曜日。その日も小柄で眼鏡をかけたショートカットの少女、鳶
田純は小さな岩と土のかたまりであるポポと一緒に、大きな岩と土のかたまりであるポポ
スの家で積み木などに勤しんでいました。魔法生物、ゴーレム使役をめざす彼女がゴーレ
ムの家に出入りするのはそれは不思議なことではありませんでしたけれど、純が小さなポ
ポのところに訪れるのはそれだけが理由かというと、そんなことは別にささいなことでし
かなかったのかもしれません。さして器用というわけではないポポの腕が、小さな積み木
を変わった形に積み上げていく様子を、純は眼鏡の奥からのぞく黒目がちな瞳でじっと見
つめていました。とても優しげな瞳で。
◇
篭の中の鳥。
◇
桐生杏は悩んでいました。彼女が「仲のいいお兄ちゃん」である聖雲空に想いを寄せて
いることは周知の事実でしたし、それは勢い立った本人の口からも告げられたことでした
けれど、恋のはじまりは恋のはじまりであって恋の終わりではありませんから、いつだっ
て大切で大変なのはこれからどうしようかってことなのです。
いつか空お兄ちゃんでなくて空くんと呼べるようになること。それは杏の目標でしたけ
れど、優しい父親の作った頑丈な篭の中で暮らしていた彼女にとって、それがどういうこ
とであるのかに気づくのはとても難しいことだったかもしれません。その空お兄ちゃんが
最近両足を怪我してしばらく外を出歩けないでいるという話を聞いて、当たり前のことで
すけど彼女はお見舞いに行くことにしました。格別好奇心と探求心の強い聖雲空にとって、
怪我がどうこういうよりもしばらく外に出歩けないという事実の方がはるかに大きくて重
いできごとだったでしょう。
控えめな花束を手に、日本は神戸、坂の多い異人館通りを軽い足どりで歩く杏。今年は
魔法世界、アークランドからの留学生がここを訪れているとても珍しい年でしたから、空
の怪我だってそれほど直すのに長い時間はかからないと思いますけれど、例え数日間だっ
て怪我は怪我だしお見舞いはお見舞いです。そんな杏の後ろについて歩く大男、アラビア
風の服を来た奇妙な大魔玉砂山は自称彼女に仕える魔法使いでしたけれど、杏だって空だ
って、それに純だって大きな岩と土のかたまりのポポスだって魔法使いでしたから、それ
自体はめずらしい存在でもなんでもありませんでした。神戸に魔法使いが訪れてもう半年
はたっていますから、以前からここに住んでいる人たちにもこの奇妙な人達と奇妙なでき
ごとにはすっかり慣らされてしまったでしょう。砂山と杏がどう思っているかはともかく、
世間知らずで気の弱い杏が何事もなくあたりをうろつけるのは、背後にひかえる砂山の存
在が多少はあったりもするんですが。
やっぱり立派なボディガードです。
◇
「ねえポポス、それって空くんのお見舞いに持ってくの?」
異人館通りのはずれにある、もとは倉庫だか車庫だったらしいプレハブ小屋。それは大
きな岩と土のかたまりのポポスの家になっていました。ポポスは本当はポポス=クレイ・
I・リビングストンという名前でしたけれど長いのでポポス・クレイと呼ばれていました
し、めんどうなので普通はたんにポポスと呼ばれていました。黒猫の餌用に小鍋で煮干し
を煮詰めていた朽木ちなみはそんなポポスがなにやら戸棚から本を取り出しているのを見
て、興味を持って話しかけました。
ポポスが手にしていた本は近くの古本屋で買ってきた、他愛のない自然雑誌でした。大
陸の平原が、山々が、そしてこの世界のニンゲンが建ててきた数多くの建造物が長ったら
しい説明とともに載っているその雑誌は、きっと普段の空であればともかく、今の空には
いい暇つぶしになるでしょう。いつでもどこの世界でも、本というのはそれを書いた人間
の好奇心が詰まっている物ですし、たまには自分の好奇心でなくて他人の好奇心に触れて
みることだって、とても楽しいことなのは間違いありませんから。
どうせお見舞いに行くのなら、相手が必要にしているモノを持っていったほうがいいと
思う。そう思ったちなみは普段の自分の信条に反して、お見舞いにケーキを買っていくこ
とに決めました。そのケーキ屋は、空の住んでいる部屋から異人館通りを挟んでずっと反
対側にあるところでしたけれど。ちなみは煮詰めた煮干しを小皿に入れると、玄関先に寝
ころんでいた黒猫のところに歩み寄って話しかけました。
「極えもん、あんたも空くんのお見舞いに行く?」
しーん。
「極えもん?」
しーん。
「…獄えもん?」
にゃあ。
「…あんた性格悪いわよ」
あきれた顔でちなみ。黒猫はちなみの手にある小皿からただようにおいに反応すると、
嬉しそうに顔をあげてもう一声鳴き声を上げました。
◇
聖雲空のお見舞いに、控えめな花束を片手に坂道の多い異人館通りを歩く杏。こういっ
た些細なきっかけでも、空お兄ちゃんともっと仲良くなれたらいいな。今年は日本は神戸、
この異人館通りにおいては魔法使いの見習いたちが訪れるめずらしい一年でしたけれど、
当の魔法使いの見習いたちにとっては、たいていお年頃の同年代の男女が各地から呼び集
められて、異文化ただよう町で暮らす一年でしたから、新しい男女の出会いに敏感になる
人たちもやっぱり多くいたことだと思います。動機や目的を置いても、人と人とのつなが
りが大切なものであるのはそれはまちがいありません。
最近の異人館通り。杏の頭に浮かんだのは和服を着て腰に徳利を下げたふくよかな印象
の女の子、太貫小鈴の顔でした。異人館通りの脇にある明智ペットショップにたびたび通
っている彼女が、そこにいる目つきの悪い少年、明智大介となんとなくいい関係に見える
のは、杏の目が恋愛過剰なフィルターを通していたからだとばかりは必ずしも言い切れな
かったことでしょう。
少なくとも自分と空お兄ちゃんとの関係よりも、小鈴さんと大介さんの関係の方がずっ
と仲良く見える気がする。
小鈴さんが明るいから?積極的だから?ロシュツドが高いから?…とてもそんなのが理
由には見えないけど。きっと今日も小鈴さんは大きな猫の餌が入った袋を買いに、明智ペ
ットショップを訪れているにちがいありません。近所でも有名な猫屋敷に住んでいる彼女
もやっぱり魔法世界アークランドからきた魔法使いで、狸の獣人でしたから、思わず大介
がブラッシングをするために手を伸ばすこともあるでしょう。
「たまには自分で手入れしろよな、ノミがたかるぞ」
趣味が動物にかたよった大介が、ぶっきらぼうな口調でそんなことを言いながら小鈴と
親しいのも当然のことなのかもしれません。そしてその日は、今日もたまたまペットショ
ップの近くを通りがかったリゾレット・スチュアートが、遠くから嫌いな犬をじっと見て
いる日でもあったのですけれど。
たまたまトリミングを終えてペットショップを出てきた一匹の大きな犬が、主人に連れ
られてとことこと歩きながらリゾレットの姿を見つけます。逃げるように離れるリゾレッ
トですが、離れる距離が以前よりもほんのちょっとだけ短いことに気付いたのは、店内の
ウインドウ越しにその様子を見ていた大介だけだったのかもしれません。その距離が進歩
の長さであることを知っている大介は少しだけ口元を緩めると、今日も屋敷の猫に引っか
き傷をもらった小鈴の腕に薬を塗っていました。
小鈴と大介の様子を思い浮かべる杏。ぼんやりと歩く彼女の後ろから、怪訝そうな砂山
の声がかかりました。頼りになる人だとは思うし、真面目な人なのもまちがいない。でも
自分のことをご主人様と呼ぶのにはどうしても慣れることができない。杏の感想はしごく
まっとうなものでしたし、どちらが奇異かと言われれば誰もがまちがいなく砂山の方を指
すでしょうけれど、アラビア風の服を着た、この大男にも不思議で理解のできないことは
ありました。
ご主人様がよく話をしている聖雲空という人。その人はおそらくご主人様のご主人様に
なる訳に違いない。それは多少の、あるいは多大のかんちがいが入っていましたけれど、
そうすると奇妙で忠実なこの大男にはどうしも分からないことがありました。
「それでご主人様は空様に何をなさるおつもりですか?」
砂山の素朴で唐突な疑問にとまどう杏。彼女はたとえば彼女自身が聖雲空のことを空お
兄ちゃんでなくて空くんと呼べたらいいなと思うこととか、足を怪我した空のところに控
えめな花束を持っていく自分のことを想像することはできましたけれど、空にとって自分
がどういう存在かとか足を怪我した空が部屋に花束を欲しがっているかどうかということ
を考えたことがあったでしょうか。
あこがれるだけでいいのだろうか。呼び方を変えると何が変わるんだろう。立ち止まっ
た杏はしばらくの間、じっと砂山を見ると彼女を知っている人がそれまで見たことのない
ような不思議な笑みを浮かべて、花束を片手にいったん自分の家に帰ることにしました。
もう一度、今日のすごろくをスタートからやり直すために。その笑みが、少し大人びた感
謝の意味を込めたものであることに、当の砂山はすぐに気がつきました。そして、砂山が
杏に仕える時間も残りそう長くはないのであろうということも。
彼の望みはご主人様の感謝の笑みを見ることにあった筈ですから。
その日、杏の部屋の花瓶に控えめな一束の花が生けられました。そして退屈そうに寝て
いる空の部屋には、いろいろなお見舞いの品に混じって、彼の通っている牧場の草が生け
られた植木鉢が一つ増えることになりました。
◇
平成12年10月8日日曜日。その日はやや曇りがちでしたけれど、秋口の涼しげな空
気が肌に心地よくて、日が落ちてくればときたまポポスの家を吹き抜ける風に肌寒さを感
じることもあったでしょう。その月の末にはハロウィンパーティが待っていて、お祭りが
好きな、それ以上にお祭りに集まってくる人が好きな人たちにとっては、それはとても楽
しみなイベントであったのではないでしょうか。
「そうだ極えもん一緒にハロウィンパーティ行かない?」
黒猫の餌を作りに再びポポスの家に戻ってきていたちなみは、足下にすりよる黒猫に対
してそんな声をかけていました。そうして大きな岩と土のかたまりのポポスはどうするの
かなとふと思い、極えもんを抱きあげるとポポスの瞳を見つめました。じっと見つめまし
た。
「…そっか。実はポポスはわりとポポのことで忙しかったのね」
思わずポポスの瞳を見つめなおすちなみ。心を持たないゴーレムは、心を持っているゴ
ーレムよりもたぶん楽な生活を送ることができるでしょう。何も考える必要がなければ何
も悩む必要もないのですから。ですけど、心を持っているゴーレムは、心を持っているぶ
んだけ辛くて悲しくて、そして豊かな生活を送ることができるんです。大きなポポスはと
てもとても昔に作られたゴーレムでしたけれど、いろんなことを考えるようになったのは
ほんの十数年前からのことですし、小さなポポはまだまだ最近ポポスに作られたゴーレム
でしたから、ポポスほどいろんなことを考えたりいろんなことを悩んだりしたこともまだ
ありません。
相手の心を思うこと。誰だって相手の心を知ることなんてできないけれど、思うことも
考えることもできるんだから。それはニンゲンかゴーレムかじゃあなくて、あなたが生き
ているかどうかということ。
ちなみが向けなおした視線の先で、とことこと戸棚の隅に歩いていったポポ。その様子
を見ながら、今日は思い切って小さなポポをパーティに誘おうかなとも思っていた純。相
手がゴーレムでもニンゲンでも関係なくて、たぶんただ単にポポを誘おうかなと思ったか
ら。そんな純の前に戻ってきたポポは、首に見えなくもないあたりに黒い小さな蝶ネクタ
イをつけていました。
「ポポくん?私を…パーティに誘ってくれるの?」
誰かにとっての何かになろうとする自分。そんな人は誰かのヒーローにはなれても、決
して誰かのヒロインになることはできません。鳶田純はポポのヒーローになってしまうよ
うな女の子でしたけど、小さなポポも、たまには彼女にとっての何かにならなきゃいけな
いと思ったのかもしれません。ポポスはポポにとっての純がとても大切なヒーローである
ことを知っていましたから、彼女はポポとポポスにとっての理想のヒロインの姿でもあり
ました。
◇
閉じられた篭を開ける鍵。それは、自分のこころの扉を開ける鍵なのかもしれません。
おしまい
>他のお話を聞く