大きな岩と土のかたまり 第九回
貴方はアークランドに帰りますか?
それとも、神戸に残りますか?
それとも。
平成12年12月2日土曜日。今年は魔法世界アークランドから、ここ日本は神戸に魔
法使いの卵たちが訪れている年。春から数えて季節はもう冬になり、一年の留学期間を終
えれば彼等の内の幾人かは、生まれ故郷の国々へと帰っていく事になります。無論、好奇
心や愛着や、もしくはそれ以上のものの為にここ日本は神戸に残る者たちも決して少なく
はないでしょうけれど、誰もが自分の生まれた世界とは別の世界に今は住んでいるのだと
思えば、故郷の風と土と水のにおいが恋しくなっても不思議ではありませんでした。異文
化の街並みに囲まれた異邦人通りの坂道で、ほんの数カ月先に待っている別れを惜しむ心
は日一日と強く大きくなっていくように思えました。
異人館通りの外れにある一軒のプレハブ小屋で。その日も短髪で眼鏡を掛けた、黒目が
ちの小柄な少女、鳶田純はその小屋を訪れていました。大きな岩と土のかたまりのポポス
が住んでいるその小屋には、それぞれの理由で幾人かの人達が訪れていましたけれど、純
が小さな岩と土のかたまりのポポに会いに来ている事は彼女を知る誰もが知っている事で
した。ポポスは本名をポポス=クレイ・I・リビングストンといいますが長いのでポポス
と呼ばれていたんですけれど、小さいポポはポポスの作っゴーレムですから単にポポと呼
ばれていました。
フィレイム地方の貧しい開拓村に生まれた純は、村の為にと魔法生物のゴーレムを作れ
るように、魔法使いとしての修行に勤しんでいましたが、知識においても感性においても
格別劣る訳でもない彼女が、未だに一体のゴーレムを作る事が出来ないでいるのも周知の
事実ではありました。彼女は小さなポポに限らずいろんなゴーレムの感情が分かるように
さえなっていましたけれど、それが彼女自身がゴーレムを作る役には立っていないように
見えたのです。
(鳶田のは、優しすぎてゴーレムが作れなくなるんじゃないか)
以前、そんな事を話していたのは聖雲空という青年でした。ウィンディル地方の遊牧民
の出身、先日来負っていたという足の怪我のせいでしばらく家に引き篭っていた空は、そ
の時にいろいろな述懐を残していましたがその中の一つが流れ流れて純の耳にも届いてい
ました。普段着こなしている民俗調の衣装に限らず、ここ神戸で最も自己流を貫き通して
いる空は時として他人の姿と自分の姿とを誰よりもはっきりと見透かす事があって、その
言葉は純に考える事と感じる事の機会を与えていました。その日は良く晴れてはいました
が、冷たい風はもう秋の名残りを殆ど残してはいませんでした。
冬の短い太陽が真上に上がって。異国情緒漂う日本は神戸、異人館通りの街並み。坂道
の折り返す広場を純は小さなポポを連れて歩いていました。大きな岩と土のかたまりのポ
ポスは洗濯した白いシーツを庭に干している最中でしたので、散歩がてら純はポポを連れ
てポポスのプレハブ小屋を出て異人館通りに向かいました。ポポスは純とポポとを見送っ
て、シーツを干しに行くと物置を片づけに向かいました。肌寒い異人館通りを歩きながら
坂道の折り返す広場まで辿り着いた時、最初、そこで月琴を弾いているのが空だという事
に純は気が付きませんでした。
sяпд шйд sяпд шйд
нщsё бцss
яisм дом яisм дом
плйт ицпд щч
бт i рлч н сод i рлч що
i рлч що щё sку…
その言葉に純は全く聞き覚えがありませんでした。生まれ故郷が異なるとはいえ、空が
奏でる曲に乗って口ずさんでいる詩は、彼女の知っているどの言葉とも合わないものでし
た。演奏が続いている間、少し離れた所に楯取皇牙という青年が黙って座っている事に純
は気が付きました。胡座をかき、頬杖を付いて目を閉じてはいましたが、流れる音楽に聞
き入っている事は傍目にも分かります。静かに歌い終えると皇牙が呟きました。
「ウィンディルの曲だな。歌詞は分からんが、懐かしいな…」
空や皇牙の故郷、風と砂と草原とに覆われたウィンディルの地平線を精悍な顔立ちをし
た青年は思い出しているようでした。静かに歌い終えた空の視線が皇牙の方を向き、そし
て純と小さなポポに向き直りました。軽く挨拶を交わすと、空は純の疑問に答えるかのよ
うに簡単な話を始めました。彼の生まれた地方に伝わる、古い古い詩。その一つ一つの言
葉の意味を覚えている者は、既に彼の部族にも、もちろん皇牙の故郷にも残ってはいませ
んが、詩自体の意味だけは今でも語り継がれていました。ただ、空の歌を聴いていた純に
はその説明を受ける必要はありませんでした。純が一度も見た事の無い筈の空の故郷、風
の吹き抜ける地平線の風景は、確かに彼女の心に思い起こされていました。誰もが持って
いる筈の原風景、空はそれを奏でていたに過ぎなかったのですから。
ふと、自分の考えに何か引っかかるものを覚えた純の前に古めかしいタンバリンが突き
出されました。空の目が何かを訴えようとしているのに純は気が付きましたが、それを確
かめるより早く空はゆっくりとしたリズムでそれを打ち鳴らし始めました。そのリズムに
純は自分が何をするべきか直ぐに分かりました。それは、彼女の故郷フィレイムに多く伝
わるリズムでした。
しゃん しゃしゃん しゃん しゃしゃん
しゃん しゃん
しゃん しゃん
しゃん しゃしゃん しゃん しゃん
しゃん しゃしゃん しゃん しゃしゃん
しゃん しゃしゃん しゃん しゃん
最初、幾度かの足踏みでリズムを合わせると、彼女は故郷フィレイムを思い出しながら
小さく弾むような動きで踊り始めました。それは決して上手いものではありませんでした
けれど、最初は小さかった動きが徐々に大きくなり、空が放り投げたタンバリンを受け取
った後は小気味の良いリズムを奏でながら楽しげに踊る純の姿と、それを見上げながら自
分もリズムに乗っているらしい小さなポポの姿とがありました。
しゃんっ
最後の一打ちで、演奏を止めると満足そうな顔を浮かべた純を空が拍手で迎えました。
その意図はともかく、故郷を思い出した純は確かに満足な時間を過ごす事が出来ました。
空の意図、やがて時が過ぎればここ神戸にいる魔法使いの卵たちは、自分達の故郷へと
帰っていく事になります。望む者と望まない者と、いずれにしても幾つかの別れが予め約
束された生活の中で、空や純はいずれ自分の村に帰るであろう事を望んでいる者でした。
そして、それはここ神戸で出会った幾人かの大切な人々との別れを意味しています。
「大抵はその時になってから考えればいい事だ。だが鳶田の、あんたは今のうちに考えて
おいた方がいい事があるよな?」
空の言葉が小さなポポの事を指している事が純には直ぐに理解出来ました。この、自分
に懐いてくれている小さな岩と土のかたまりはもともと大きなポポスの作った小さなゴー
レムでした。純がいずれフィレイムに帰るならその時はポポとの別れが来るのでしょうか。
ポポスが純にポポをそのまま預けてくれたとして、ポポスがいなければポポスに作られた
ポポは動かなくなってしまうのではないでしょうか。ポポスは純とも空とも違う地方、ア
ーシアスの出身だそうですからいずれは誰かが何かを捨てなければいけないのは間違いが
ありません。
或いは、ポポスがアーシアスを捨てて自分とフィレイムの村に帰ってくれないか。
純の心にはそんな考えまで浮かんできました。それなら自分もポポスもポポと別れない
で済むし、何百年も前に主人のいなくなっているポポスなら、アーシアスに戻らなくても
自分の村に来てもらう事は出来るだろう。それに純の村の人達は間違いなくポポスを歓迎
してくれるに違いありません。彼女の生まれた貧しい開拓村では、ポポスは必ず皆の役に
立ってくれるでしょう。空にお礼を言うと、純は小さなポポを連れて異人館通りの坂道を
下って行きました。残った皇牙が空に話し掛けます。
「いろいろ、あちこちに気を使ってるんだな?」
「これでもお前さんより一月は年上だからな」
それは下手な冗談のつもりだったようです。いずれにしても、小さなきっかけを与える
事は出来ても純やポポスや、それにポポの事は彼等で片づけるべき事でした。そういった
経験に関しては恐らく空は皇牙よりも一月分以上は多かったでしょうから。
日本は神戸、異国情緒漂う異人館通りを通って純と小さなポポがポポスの家に辿り着い
た時、冬の早い日はもうすぐ沈もうとしていました。干していたシーツを既に仕舞い込ん
でいたポポスは純とポポが戻ってきたのに気付いた様子も無く、ただじっと空を見ていま
した。西の方、赤く沈む夕日をポポスはじっと見ていました。ただじっと見ていました。
「ポポス…?」
大切な話をしておかないといけない。そう思った純の視線はポポスの視線を追って沈む
夕日に向けられました。そしてその時どうしてだったのか、それが空の奏でていた曲や純
の踊っていたリズムと同じものである事に彼女は突然気が付いたのです。
純はポポスが故郷にいた頃の事を知りません。ポポスは何百年も前に作られたらしい岩
と土のかたまりで、そのポポスが自分の事に気付いたのはここ15年程前の事でした。で
すからポポスはそれから後の事だって決して多くは覚えている訳ではありませんし、それ
だって故郷をただ歩き回っていた程度の記憶しかありません。ですが、ただ夕日をじっと
見ているポポスの瞳を見て、純はとある一つの情景を理解しました。
古い古い森の外れにある、透き通った泉。そのほとりに半分埋まっている、苔むした大
きな岩と土のかたまりの姿。それは赤っぽい色をしていて、大きくて不格好なかたちは鳥
や虫たちの格好の隠れ場所になっていました。その苔むした大きな岩と土のかたまりが、
夕日に面して真っ赤に照らされている情景。赤っぽい岩肌が真っ赤な夕日に照らされてい
る情景。たぶん何百年も、何千年も、古い古いこの森の最初の頃からずっと続いている情
景。そして、そこを訪れた一人の魔法使いがその苔むした大きな岩と土のかたまりに命を
吹き込んだ事。
誰もが持っている筈の原風景。ポポスのそれが沈んでいく夕日にあるのなら、純にも、
誰にもそれを奪う権利はありませんでした。
「ポポス…私…」
どうしたら良いのだろう。その言葉を彼女は口にする事が出来ませんでした。それは、
そのとき口にしてはいけない言葉のように彼女には思われました。
◇
「お帰りー。あれ?純さんどーしたの元気ないよ」
プレハブ小屋の中、夕飯の支度を行っていたのは小柄で眼鏡を掛けている少女、朽木ち
なみでした。今も黒猫の極えもんに餌を作っていた彼女が、ここポポスの家を訪れる人達
の為に度々ご飯を作る姿は格別珍しいものではありませんでした。岩と土のかたまりのポ
ポスやポポにご飯は必要ありませんでしたが、訪れる人達や訪れる猫達の為には食事の材
料くらいは置いてありました。その殆どは、恐らくちなみ自身が持ち込んでいたものだっ
たのでしょう。
冬の短い夕日が沈もうとしている頃、まだ実際は早い時間のテーブルには軽い揚げもの
がおやつ代わりに上げられていました。濃いお茶と一緒にお皿を並べるちなみは、純の顔
を見ると何気ない口調で言いました。
「ねえ、この際一番大事なのは誰の意見なの?」
突然の言葉に純は驚かずにはいられませんでした。ちなみがポポスに以前から事の次第
を聞いていて、ポポスが悩んでいる事も純が悩んでいる事も彼女は知っていました。自分
の思いやポポスの思いを知っている純はその事で悩み続けていましたけれど、一番大事な
のは…。
振り向くと、足下には小さなポポがいました。
答えは、最初から出ていたのかもしれません。空の原風景が風の吹く地平線で、純の原
風景がフィレイムの開拓村に流れるリズムで、ポポスの原風景が沈んでいく夕日にあるの
なら、小さなポポの原風景は鳶田純にこそあるのですから。
小さなポポは誰のものでもなくてポポ自身のものなのですから、純やポポスが何かをす
るのならそれはたぶんポポの思いを成し遂げる為に行うようにする事をこそ、純もポポス
も望んでいる筈でした。ポポスがアーシアスに帰るのなら、ポポくんがポポスと一緒に帰
るのなら問題無い。でも、もしポポくんが自分と一緒に来たいと望むのなら、純がポポに
命を与えなければならない。少なくとも、与えられるようにならなくてはならない。
そこから先の事はポポが決める事ですけど、その為の道は純が用意しておくべきでした。
「…もっかい、ゴーレムの勉強し直さないとね」
そう宣言する純の顔を見て、ちなみはもう暫くこの友人の為にここに通う事になるんだ
ろうと思いました。
おしまい
>他のお話を聞く