大きな岩と土のかたまり 第十回
魔法世界。アークランドからの留学生たちのこと。
◇
平成13年1月8日月曜日。魔法世界、アークランドから、ここ日本は神戸に魔法使い
のたまごたちが留学生として訪れたときのこと。年が明けて乾いた空気と肌を刺す寒さの
まっただなか、異文化の情緒あふれる異人館通り。
一年かぎりの異世界への留学。格別成績のよかった者に限り、その後この世界にとどま
って引き続き勉強を続けることが許されてはいましたが、その中で実際にこの地にとどま
ろうとする者は一部の者たちではありました。誰だって、自分のもっている原風景から離
れて生きることはできても、自分のもっている原風景を忘れて生きることは辛くて悲しい
ことであるのですから。
「もっかい、ゴーレムの勉強しなおさないとね」
小柄で短髪、黒目がちな鳶田純が、故郷の開拓村の助けになるだろうからと魔法生物、
ゴーレムの研究を始めて、そして一年前、ここ神戸の地に留学生として訪れました。そこ
で彼女は一人の大きな岩と土のかたまりと、その大きな岩と土のかたまりが連れていた小
さな岩と土のかたまりに出会いました。それが興味と好奇心からでた出会いであったこと
はまちがいありませんが、きっかけなどというものは大抵はどうでもよいことであるもの
です。
一年間の留学期間を終えれば、大きな岩と土のかたまりのポポスはきっと夕日の見える
故郷の森に帰ってしまうと思います。ポポスは本名をポポス=クレイ・I・リビングスト
ンというゴーレムでしたけど、長いので単にポポスと呼ばれていました。大きなポポスが
連れている小さな岩と土のかたまりのポポは、ポポスがつくったゴーレムでした。
純は、きっと小さなポポと離れたくはありませんでした。そして、それ以上に小さなポ
ポは純と離れたくはありませんでした。でも、純は未だに一体のゴーレムを作ることも命
を吹き込むこともできずにいたのです。
命を吹き込むということ。
◇
異文化の情緒あふれる坂道の多い街角で。やや無愛想な印象の青年、楯取皇牙が小柄で
眼鏡を掛けた朽木ちなみと話していました。
「それで、空に鳶田を連れてってやれと言われたんだ」
「そうなんだ」
話は多少ややこしくなります。他の皆と一緒に魔法世界から来ている、桐生杏という少
女が獣医の勉強をするために来年も神戸に残るつもりでいるというのは、仲間うちでは有
名な話でした。今から日本での受験勉強に備える傍ら、ここ神戸で経営されている明智ペ
ットショップやもともとアークランドで獣医を営んでいた片瀬薫のところを頻繁に訪れて
いるということです。
皇牙は、同郷の聖雲空に頼まれて鳶田純を杏と一緒の勉強に付き合わせてやれと言われ
ていました。本当は自分で行けばよいことであったのでしょうけれど、空と杏の間にある
微妙な感情の流れがあったので、めんどうな話を増やすことはないだろうと皇牙に頼み込
んだのです。時間がかんたんに解決してくれることを、その前に蒸し返す必要はいささか
もないことでしたから。
だからといって、さして付き合いのある訳でもない皇牙が純を誘いにいくのも奇妙では
あるので、ちなみに頼んでもらえというところまで空は言っていましたが、皇牙と同年の
空は風土の厳しい故郷での生活故かそれとも生来の性格故か、子供として好奇心をもつよ
うなところと大人として気を使うようなところをもっていました。杏の勉強に純を付き合
わせるという、その理由をちなみはすぐに理解できましたけれど、さほどの付き合いがあ
るわけではない皇牙にはさすがに理解することはできませんでした。
「だけど、ゴーレムの研究に獣医の勉強がなんで必要なんだ?」
全く同じことばを、ちなみは純からもすぐに聞くことになりました。だから皇牙と一緒
に純を誘いに来たちなみは、怪訝そうな、というより不思議そうな顔をしている純の口か
らでたことばを予想できていました。他の人の勉強を知ることだってたいせつだと思うよ、
というちなみの返答は嘘ではありませんでしたけれど、それはこの場合は純を連れ出すた
めの口実にすぎなかったのかもしれません。その日は自分の部屋に一日引きこもって勉強
をしていたらしい純も、気分転換にはなるかと思ってちなみに付き合うことにしました。
かんたんな組み立て式の人形に、一時的に命を吹き込むかんたんな魔法に失敗したところ
でしたから、その気晴らしの意味もあったのでしょうか。知識も手順もまちがってはいな
い筈だし、今ではゴーレムのポポスやポポが考えていることだってわかるようになってい
るというのに、あといったい何が足りないのか彼女にはどうしてもわからないでいました。
透き通る晴れた冬空の下、異人館通りの坂道でリボンを結んだポニーテールを揺らして、
快活そうな顔をして手を振っている杏は独立心と自分のやりたいこと、が少しでも見えて
きた人の瞳をしていました。これから勉強を兼ねて明智ペットショップへ手伝いに行くと
ころで、純たちもそれに付き合わせてくれないかという話を杏はすでに聞いていました。
そこには既に片瀬薫がいて、杏たちを待っていたところでした。
黒髪で長髪、凛々しいといってもよい顔立ちをした薫はもともと故郷で獣医として暮ら
していた女性ですが、動物に限らず人間の医者としての知識と経験ももっていましたから、
たびたび頼られては明智ペットショップの扉をくぐってはいました。目つきの悪い少年、
店の主人の明智大介は動物の世話にかけてはこの近隣でも有数な腕の持ち主ではありまし
たけれど、医療知識とまでなると専門家の薫には及びませんでした。その日、杏や純たち
を案内した店の奥にある幾つかの大きな篭や檻の中には、ずいぶん弱っているらしく大人
しい幾種類かの動物たちがいました。
「んじゃ、はじめるから手伝ってね」
淡々と告げると順番に、作業的に篭や檻の中から動物たちを出していき、あるものには
注射をしたりあるものには薬を喉に流し込む薫の見事なまでの手さばきは、ですが工場を
思わせるようなもので忙しそうに黙々と従っている杏に比べると、純はなにか納得のいき
がたいような表情で立ち働いていました。
ほとんど休みもなく数時間は働いたでしょうか。ようやく全ての動物が篭や檻に戻って
休んでいるころには、用意のできたお茶を乗せたお盆を持ってあらわれたちなみと一緒に
大介が部屋に入ってきました。大介のお礼のことばを受けてくつろぐと、薫は純にことば
をかけました。純の不満そうな顔は薫には予想のできていたもので、最初に自分の手伝い
にきた杏も今の純と全く同じ表情をしていたことがありましたから、純が何を思っている
のか薫には良く分かっていました。
「どうした?不満そうだね」
そこまで言われれば純にもはっきり問い返すだけの気持ちがありました。どうして、い
きものを助けるのにそんなに作業みたいにできるのか、どうして、いきものをそんなにモ
ノみたいに扱えるのか。
「単なる延命策でも死なせるより生かすほうがマシだからさ。それ以外の世話は大介がや
ってくれるからね」
明解な薫のことばに純が驚いたのは、その内容よりも彼女たちを囲んでいる動物たちが
薫の治療でなんとか生きているものが多いことを知ったからこそでした。ペットショップ
にいる動物たちは予防接種なりで大抵の病気は防ぐことができますけれど、飼われてから
長くなるいきものたちの間にはいずれ飼い主が注射や世話を怠ったことで、あるいはそう
でなくても病気になるものは存在し、そしてそれが既に手遅れである場合も決して少なく
はありません。定時的な治療のためにペットショップに預けているのなら、それは病状が
それだけ重いということですし、それでも半分は助けられると思うけど、という薫の続け
てのことばは、純にはむしろ周りにいる動物たちのうちの半分は助からない、というよう
にも聞こえたのです。
だから、少しでも多く助けたいなら作業でもなんでもいいから効率的にやった方が良い
だろう。その後の大介の世話を薫は信頼していましたから、自分は自分の知識と能力を発
揮することだけを考えることができました。
いきものを助けるということはいきものが死ぬ覚悟をするということ。薫のことばは医
者としては当然のものであったでしょう。杏が、以前の自分を諭すような表情で純に話し
かけました。
「あたしね、それで本格的に獣医を目指してみようって思ったんだ」
いきものが死んだら悲しいという当たり前のこと。それは誰もが知っていることではあ
っても、そのことを知らないふりをする人が多いことでもあります。杏の瞳は純にとって
はとても強いものに見えました。
◇
いきものが死んだら悲しいということ。じゃあゴーレムは、たとえば岩と土のかたまり
にとってはどうなんだろう。明智ペットショップを出た純は、ちなみと一緒にポポスの住
んでいるガレージに向かって歩いていました。冬の短い日が傾きかけたこの時間、ポポス
はきっとガレージの前で沈み行く夕日をじっと見ている筈でした。ずっとずっと昔から生
きてきたとても古いゴーレム。古い古い森の外れにある、透き通った泉のほとりに半分埋
まっている、苔むした大きな岩と土のかたまりだった頃から、小さな鳥や虫や魚たちや、
たくさんのいきものを見てたくさんのいきものが死んでいくのを見てきた筈の大きなポポ
スの瞳には、生きているということはどんなことに思えるのだろう。
「純さん。いきものをつくるって怖いことなんだよ」
ちなみのことば。小柄で眼鏡を掛けた、純より年下のこの少女はポポスの心も純の悩み
も知っていて、でもそのことをゆだねていられるのは彼女がポポスや純のことを信頼して
いるからこそだったのでしょう。ほんのちょっとの助言だけでこの人は分かってくれるの
なら、必要なときにだけほんのちょっとの助言を与えればいい。
いきものをつくるということ。故郷の開拓村のためにゴーレムを作れるようになろうと
思い立った純は、そのための知識を学びましたが知識と理性だけではいきものを作ること
はできませんでした。ちなみたちを始め、ポポスやポポと出会ってそのことを知った純の
感性はポポスの心やポポの心を知ることができましたが、感性や感情ではいきものをつく
るということがとても怖いことだということを、彼女は心のどこかで理解してもいたので
す。
大きな岩と土のかたまりのポポスは多くのいきものが生きて、多くのいきものが死んで
いくのを見てきた筈で、そして小さなポポがたとえば純と一緒に生きたとしても、それは
純よりも永く、遥かに永く生き続けなければいけないということでした。
これまでも、これからも。
自分の負いきれない責任を作り出してもいいのだろうか。そのことが、純のこころのど
こかでいきものを作り出すことを拒んでいたのかもしれません。ですが、死ぬことの悲し
さと、そして生きることの悲しさを知った者は生きることのたいせつさをほんとうに理解
することができるのだと思います。ポポスがいくら悲しくても、ポポスは自分が生まれた
ことをたいせつなことだと思っていないわけがありませんし、だからこそポポスはポポに
命を吹き込んだのですから。
ふと、心の底からなにかが沸き上がってきて、純はポポスとポポの家に向かう足どりを
早めました。それがどういう感情なのか、純にはうまく説明ができませんが説明する必要
もないことでした。ちなみは黙って友人の後を追いました。
ガレージの外で悲しげな夕日をじっと見つめている大きなポポス。その足下にいる小さ
なポポに挨拶をして、駆け足のままガレージの中に入った純は一本のマジックペンを手に
して出てきました。芝草の生えたガレージの狭い庭、花壇においてある不格好な石は小さ
なポポよりも少しく小さくて、純の手になんとかおさまるくらいの大きさでした。小柄で
短髪の黒目がちな少女はその石に無造作に二つの瞳を書き込むと、その瞳をじっと見つめ
ました。
「…できた」
いろいろな心のこもった声で呟くと、その小さな石を、純は小さなポポの前に差し出し
ました。小さな石の二つの瞳を、小さなポポはじっと見つめていました。ポポはその石を
取り上げると、そっと自分の頭の上に乗せてみました。
「名前、つけてあげなきゃね」
それが、彼女がはじめてつくったゴーレムでした。
おしまい
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