大きな岩と土のかたまり 第十一回
原風景。
古い古い森の外れにある、透き通った泉。そのほとりに半分埋まっている、苔むした大
きな岩と土のかたまりの姿。それは赤っぽい色をしていて、大きくて不格好なかたちは鳥
や虫たちの格好の隠れ場所になっていました。その苔むした大きな岩と土のかたまりが、
夕日に面して真っ赤に照らされている情景。赤っぽい岩肌が真っ赤な夕日に照らされてい
る情景。たぶん何百年も、何千年も、古い古いこの森の最初の頃からずっと続いている情
景。そして、そこを訪れた一人の魔法使いがその苔むした大きな岩と土のかたまりに命を
吹き込んだ事。
誰もが持っている筈の原風景。ポポスのそれが沈んでいく夕日にあるのなら、純にそれ
を奪う権利はありませんでした。
平成13年2月1日木曜日。日本は神戸、異文化の情緒がただようここ異人館通りでは、
魔法世界アークランドの留学生が訪れてからもうそろそろ一年が経とうとしていました。
去年の桜が咲いて散るくらいの季節から一年、今はもう早い梅の花を見始めることができ
る季節、一年間の異世界での暮らし。それを終える季節が間近にせまってきていました。
留学生たちのうちたいていの者は期間を終えて、故郷の国や土地に帰っていきますが、
ある程度の成績を認められた者に限っては、この世界に留まって更なる勉強のために進学
することが許されていました。魔法世界から来た魔法使いのたまごたちは、魔法の無い世
界で学ばれる魔法の中で、魔法の真実を求めることができるのです。
もちろん、魔法使いのたまごたちの誰もが魔法の真実とやらを求めるわけではなくて、
その人にとってそれよりたいせつなことを求めるのが当然ではありました。故郷の国や土
地に帰る者も、この世界に留まる者も。
「ねーねー純さん。その子の名前決まったの?」
年度末のおだやかな帰り道。学園から帰路へと続く、異人館通りを歩く二人の少女、小
柄で眼鏡をかけた朽木ちなみと同じく眼鏡をかけた黒目がちな鳶田純。魔法生物、ゴーレ
ム使役をめざす純が先日つくりだした小さな石のかたまり。いきものにとって名前がどれ
だけたいせつなものであるのかは、本来魔法にかかわる者にとってはごくあたりまえのこ
とであったのかもしれません。
「えーとね。ポトくんって名前にしたんだ」
二人の前をとことこと歩いている、小さな岩と土のかたまりのポポは本来大きな岩と土
のかたまりのポポスが連れている小さなゴーレムでしたけれど、最近はポポスのいないと
ころを歩いていることもめずらしくはなくなりました。もっとも、たいていはそんな時に
は純がそばにいたのですが。
小さなポポの頭の上に乗っている、小さな石のかたまりはポトという名前を与えられて
いました。小さな石のかたまりにぐりぐりと瞳を書き込んだだけに見えるポトを頭の上に
乗せて、小さなポポはなんだか満足げに見えました。それは、純が始めて生みだしたゴー
レムであり、ポポがはじめて連れているゴーレムでもありましたから。
小さな石のかたまりのポトはちなみの見おろすような視線をうけて、じっとその目を見
返しました。その仕草はポポスやポポのようでもありましたが、それはどちらかといえば
小さなポトのような、と表現すべき視線でした。
「うん、淋しくならないようにね」
その様子を見て、ふと呟いた純のことばの意味を、そのときはちなみはすべて理解する
ことはできませんでした。
◇
聖雲空は魔法世界アークランドの故郷の村から旅立ってからも、自分の帰る場所として
の故郷をいつでもはっきりと知っていた青年でした。若く華奢な外見に似合わぬ頬の深い
傷跡は、彼の生まれ育った風と砂に覆われた世界の過酷さを示しているようでもありまし
たが、それは空に刻まれた原風景の徴であったのかもしれません。一年間と決めていた異
世界での制限時間は、空にこの世界への強い好奇心を抱かせる遠因にもなっていました。
「何やってんだ、空?」
問いかけたのは空と同郷でほぼ同年の青年、楯取皇牙でした。皇牙は空と同じフィレイ
ム地方の出身であり、一年間の留学期間を終えてやはり故郷に帰るつもりでいましたが、
広い平野で二羽の鳥が出会う可能性が高くはないように、二人の青年が故郷で再び出会う
ことは決してないとは言えないまでも敢えて期待することもないことでした。
異文化の情緒がただようここ異人館通り。坂道の折り返すいつもの広場で空は広げた布
に絵筆を滑らせていました。それが何であるか、皇牙にはすぐに理解することができまし
た。
「へえ、ここの地図か…凄いな」
異人館通りの空気に触れ、記憶だけで走る筆先は、或いは測ったよりも正確にこの土地
の姿を映し出していました。導のない世界で生まれ育った空にとって、身体が覚えている
記憶は何にもまして頼りになるものでもありました。それは彼が故郷に持ち帰ろうとして
いる、異世界の記憶でした。この神戸で出会った人々の姿を脳裏に浮かべながら、皇牙は
広場を後にしました。彼もまた、故郷に帰るための少ない準備をする必要がありましたか
ら。
広場の隅では、道化師の姿をした人形がいつもの芸にいそしんでいました。空の視界の
端でモユル・インフィクスという名のその人形は、華麗にも見える技を失敗しては皆に笑
われていました。モユルが一年前と違っていることがあったとすれば、それは芸を失敗す
ることを覚えたということであったかもしれません。成功する芸を見せることよりも、失
敗する芸を見せることのほうが遥かに難しくて、そしてクラウンではないピエロの芸の真
価は失敗する芸を見せることにこそありました。それは、モユルという名の人形がこの一
年の間に成長した証でもあり、所詮金属の人形であったモユルが成長することができると
いう証でもありました。その事実を貴重なこの異世界の記憶のひとつとして、空は目の前
の布地に書き込んでいきました。
◇
帰るべき場所、というのは自分の目の前にあることだって、そして自分の後ろにあるこ
とだってあります。大きな岩と土のかたまりのポポスは夕日の向こうからここ神戸にいっ
てみたいと思ったことはありますし、きてよかったと思うことだってきっとたくさんあり
ましたけれど、夕日の向こうからここ神戸に帰りたいと思ったことはきっと一度もありま
せんでした。
大きなポポスが連れている小さなポポ。小さなポポは小さな岩と土のかたまりでしたけ
れど、小柄で眼鏡をかけた黒目がちな少女、鳶田純は小さなポポをずっと小さなポポとし
て見てくれていました。岩と土のかたまりのゴーレムにとって、いちばんたいせつなのは
自分を単なる岩と土のかたまりとして見てくれない人の存在でした。そうすることで、大
きなポポスも小さなポポも大きなポポスと小さなポポでいられるのでしたから。それは或
いはゴーレムにとっていちばんたいせつなことであったのです。
その日もポポスは自分が住んでいるガレージ小屋で、黒猫の極えもんに小さくちぎった
にぼしをあげていました。ポポスは本名をポポス=クレイ・I・リビングストンといいま
したが長いのでたんにポポスと呼ばれていましたけれど、その名前がI・リビングストン
のつくった土くれのポポスという意味であることを知っている人は今はもういませんでし
た。ポポスをつくった魔法使いはきっとポポスが人と出会うことを望んでいましたが、ポ
ポスはポポスの育った森や泉や鳥や魚や虫や、そして夕日がポポスを待っていることを知
っていました。ポポスはポポスの原風景の中に生きていましたけれど、もしかしたらポポ
スの人と出会うことを望む心がポポをつくりだしたのかもしれません。大きなポポスは夕
日のある故郷に帰ることを望んでいましたが、小さなポポは人と一緒にいてほしいとポポ
スは思っていました。そして、ポポスはポポを預けられるだけの人がいると思っていまし
た。
「よお、ポポス元気か」
カイト・ヴェイデンバウムが黒猫の極えもんを迎えるためにポポスの元を訪れることは
ありませんでした。カイトはポポスに会うためや、或いは極えもんに会うためにこのガレ
ージを訪れることはありましたけれど、黒猫が帰るべき場所はその黒猫が決めるべきこと
でした。
そしてその日は、極えもんはカイトの後について家に帰っていきました。極えもんはポ
ポスのガレージ小屋を訪れることはありましたけれど、ポポスの小屋に帰ることはありま
せんでしたから。
◇
「純さんは進学することに決めたんだよね」
リボンの印象的なポニーテールの少女、桐生杏は最近は獣医をめざそうと、この世界に
留まって今は学ぶことに勤しんでいました。あこがれを目標に変えることができた少女の
瞳は誰よりも力強い夢を秘めていて、手伝い先のペットショップで忙しそうに立ち働くそ
の姿はとてもいきいきとしていました。
「うん、もう一回、ゴーレムのこと一から勉強しなおそうと思って」
故郷の貧しい開拓村のためになればと、魔法生物ゴーレムの創造を試み続けてきた少女。
その目的が故郷の村のためではなく、生み出されるゴーレムといういきもののためになっ
たとき、彼女の目標は少しだけ修正されて、そしてより明確なものになりました。
いきものに関わること。それが動物であっても魔法生物であっても、杏と純の前にある
導はとてもよく似たもので、彼女たちのことを知る者であれば、その瞳の中に見えるもの
がとてもよく似たものであることに気付くことができたでしょう。獣医をめざす杏はこれ
から多くのいきものを殺し、より多くのいきものを救うであろうことを心得ており、そし
て魔法生物の創造をめざす純は、いきものに対してそれにいきものとして接することが必
要であることを知っていました。
一杯の紅茶と短い話のあとで、同じ瞳を持つ二人の少女は自分の導に向かいました。
◇
異文化の情緒がただよう異人館通りの、坂道の折り返すいつもの広場を純と小さな岩と
土のかたまりのポポと小さな石のかたまりのポトが通り過ぎていきました。広げた布に絵
筆を滑らせ、この世界での記憶を書きつづっていた空の視界の中に、その風景は自然に溶
け込んでいました。自分に気づき、通り過ぎがてら軽い会釈をしていく少女に何か言葉を
返そうとして、空は思いとどまりました。左手を軽く挙げるだけで何も言わず、目の前の
布地に視線を戻したのは、彼女に言葉を贈る必要が空にはないように思えたせいかもしれ
ませんでした。
(結局、俺は…)
過酷な環境に育った彼が心惹かれた覚えのある幾人かの顔を思いだし、その瞳が常に強
い生命を秘めていたことを、或いは空はそれが彼自身にとっては至極当然のことであった
のかもしれないと思いました。既に後ろ姿の小さくなっている少女の瞳がそれと同じ瞳を
持っていたのなら、空は彼女に敢えてかけるべき言葉を探す必要はありませんでした。導
きの言葉は導を持つ者には必要ありませんでした。
◇
しばらく神戸に残ること。夕日が沈む時間、ポポスのガレージ小屋に帰ってきた純は小
さなポトを頭の上に乗せたポポを連れて、ポポスの前に立つとその目をじっと見つめまし
た。
魔法世界アークランドからの留学。一年の期間を終えて、ポポスはポポスの原風景に帰
ろうと思っていました。そこには、人間は土くれのポポスをつくりだしたI・リビングス
トンの記憶くらいしか残ってはいませんでした。ポポスはそこに帰ることができましたけ
れど、人間のこころを知った小さなポポがポポスと一緒に帰るのは、けっして良いことだ
とはポポスは思っていませんでした。ポポスには鳥や虫や魚たちが、そして森や泉や夕日
が待っていてくれましたが、それはポポにとってはどれだけ意味のあることかわかりませ
んでした。
「ねえ、ポポス…私が一緒にいてもポポくんを助けてしまったら、それはよくないことだ
と思うんだ」
静かに宣言する純のことばが何を意味していたか、ポポスにはわかっていました。だか
らこそ、そう思う純だからこそポポスは小さなポポを彼女に委ねるつもりになったのだと
思います。小さなポポにとっては鳶田純が原風景であり、母親のような存在であるのなら。
「だから、ね」
◇
翌日、年度末のおだやかな帰り道を学園から帰路へと続く、異人館通りを歩く少女と小
さな岩と土のかたまりの姿がありました。
「ポポ、手続きはすませてきたから今日からみっちり勉強させるからね!」
来年度からの生活。小さなポポを学園に編入させる手続きを終えてきた純は、自分も来
年度進学する為に、遅れていた勉強を再開するつもりになっていました。小さなポポがポ
ポスの元を離れるのなら、純はポポにも学園で自分以外の人との関わりを学ばせるべきだ
と思いました。純の言葉にちょっと首をすくめたかのように見えたポポは、ちょっとつま
らなそうに、それでもとことこと純の後をついて歩いていきました。学園の帰り道、その
姿を見かけた朽木ちなみはポポと一緒に歩いている純の手にひさびさにお気に入りのハリ
センが握られていることと、彼女がポポの名を呼び捨てていたことに気がつきました。
「ふーん、そういうことか☆」
もうすぐ、春がやってきます。
おしまい
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