大きな岩と土のかたまり 第十二回


 ひとつだけ、何でも願いの叶う水晶。

 鳶田純に与えられていた、たったひとつの魔法世界の奇跡の力を彼女は使うつもりはあ
りませんでした。

 平成13年3月のこと。日本は神戸、異文化の情緒がただようここ異人館通りでは、魔
法世界アークランドの留学生が訪れてからもうそろそろ一年が過ぎて、地方によっては桜
の花が北上を始めていました。魔法世界アークランドから留学し、一年間の異世界での暮
らしを終えた者たちは、その意志と意思とによってある者はこの世界の人間として神戸に
残り、ある者は自らの故郷である世界へと帰還していきます。いずれの場合も、それは自
分の存在というピースがきちんとはまり込むべき空間を見付けだした末での決断だったこ
とでしょう。ある大きな岩と土のかたまりに命を吹き込んだ人間のことばを借りて言えば、
その空間は原風景という名で呼ばれていました。
 大きな岩と土のかたまりは本名をポポス・クレイ=I・リビングストンといってそれは
イワン・リビングストンの作った土くれのポポスという意味でしたが、長いのでたんにポ
ポスと呼ばれていました。大きな岩と土のかたまりのポポスが自分が命を吹き込んだ小さ
な岩と土のかたまりを連れて、ここ異人館通りを訪れてからもうすぐ一年が経ちます。

                  ◇

 小さな岩と土のかたまり。頭の上にポトという名の小さな石のかたまりを乗せたポポは、
最近はよく怒ったり喜んだり悲しんだり、あるいは拗ねたりもするようになりました。こ
の小さな岩と土のかたまりをこの世界で連れ育てることにした短髪で眼鏡をかけた黒目が
ちの少女、鳶田純は小さなポポを学園に通わせるために厳しく勉強をさせていました。純
はポポが勉強をなまけようとするとハリセンでぱしぱし叩いて怒りましたし、例えばきち
んと後かたづけができると頭をなでて誉めてくれたりもしました。彼女自身、故郷の村に
帰る時期を遅らせてでもこの世界で学ぶことを選んでいましたし、上級クラスへ進学する
ために夜遅くまで自分の勉強をこなしながらポポの世話をすることはおそらく相当な苦労
になっていた筈ですが、その苦労を彼女自身は

「悪くないな」

と思っていました。母親のような気持ちというのはそういうものなのでしょうか。純がた
いへんなことを知っているポポはそれなりに手のかからない子ではありましたし、小さな
石のかたまりであるポトのめんどうを見るのはおもにポポの役目でしたから、そのぶんだ
けポポもしっかり者でないといけなかったのかもしれません。

「大丈夫?純さん疲れてるみたいだし無理しないでね」

 そう言う小柄で眼鏡をかけた少女、朽木ちなみはアークランドに帰るつもりでいました
が、それまでこういった友人達のために走り回るのもやっぱり悪くないなと思っていまし
た。ちなみの作る料理は見てくれはともかく、きっとおそらくたぶん味と栄養は申し分の
無いものでしたでしょうから、何かの臓物らしいモノがうねうねと蠢いている新鮮そのも
のの料理を純はとても複雑な感謝の気持ちでありがたくいただいていました。それを横で
じっと見ている、ご飯を食べることのできない小さなポポの瞳もとても複雑に見えました
けれど。

 春は出会いと別れの季節、というのはとても使い古されたことばでしたが、異人館通り
を訪れた人々にとって今年の春は別れの季節であり、そのぶんだけ静かで淋しげな気分に
支配されることはあったかもしれません。それでも、向かうべき自分の導をもっている人
は目の前の光景に明るさを見てとることができたでしょう。神戸に何もないからアークラ
ンドに帰るのではなくアークランドに何かがあるからアークランドに帰るのですし、神戸
に残る人たちは神戸に残るべき何かを見付けた人であるのには違いありませんから。
 それでも、幾らかの戒めは存在しました。留学先で良い成績を残せなかった者は、少な
くとも強制的にアークランドに帰ることは既に決められていました。

「そういえば、リズさんはどうするって?」
「うーん…結局は彼女次第じゃないかなあ」

 ちなみの知っている限りでは、リズことリゾレット・スチュアートはここ異人館通りに
留まるだけの成績を治めることができませんでした。おとなしく冷静な彼女が、彼女を知
る誰もが知らないほど取り乱したのは、そこに残る人たちの中に彼女にとって大切な人が
含まれていたからでした。同じアークランド出身のその人のために異人館通りに留まろう
とした彼女がその資格を得られなかったとき、彼女は何を為すべきだったのでしょうか。
 自分の想う人の自由を思い別れるのか、自分の心に従い無理な手段を用いてでもこの地
にしがみ付くのか、或いは自分の強さに従い思う人を故郷に連れさらうのか。いずれにし
ても、それは彼女自身の強さ或いは弱さによって決められるべきことで、他人が干渉する
権利はありませんでした。そして大切なことはどの結果を選んだかではなく、当人たちが
納得する結果を選ぶことができたかどうかであったでしょう。理性を持つ人のこころは理
性に依らず感情に属するのですから、納得できることという感情的な要因が或いは最もた
いせつなことでありました。

 時間が、近付いていました。

                  ◇

 ささやかな宴が催される時間になりました。異人館通りを少しだけ外れた脇にある一軒
の小さなペットショップ、そこの主である目付きの悪い少年、明智大介が太貫小鈴と一緒
に暮らすことになったのは彼等の友人たちが皆知るところで、おそらく未来の旧姓太貫小
鈴は、自分のいるべき場所をここ異人館通りで見付けた一人でした。

「うちら一緒に暮らすことにしたんやあ」

 普段の不愛想さとは違う種類の無口になっている大介の横で、小鈴は自分を複数形で呼
ぶことのできる安心感に浸っていました。自分の生まれ故郷に残した多くのものの代わり
に掛け替えの無いものを手に入れた彼女は、彼女が愛してやまないお酒の力を借りずに酔
うことができていました。ささやかだけど数の多い料理と、安物のラジカセから流れる音
楽と、訪れた友人たちの顔が小鈴と大介の現在と未来への導でした。

 猫屋敷と呼ばれるその会場の隅、小鈴と同様にこの世界に留まることにしている桐生杏
が、祝いの席を訪れていた奇妙な大男に話し掛けていました。大魔玉砂山という、アラビ
ア風の服を着た大男はその奇態な風体にも関わらず、他人への献身と道標をもたらすこと
を自らに課し、しかもそれを多くの他人に充分程度に果たしていました。杏が前だけを見
ていた時も、この大男はその背後を見張っていてくれていたのです。

「いろいろありがとう、砂山さん。でも、私にはもう従者さんは必要ないの」
「左様でございますか、杏様」

 最初は気味が悪くて仕方の無かったこの大男が、外見からは測れないほどの見事な従者
である事を杏は今は理解していました。だから、自称従者であったこの人のために、彼女
には伝えておきたいことばがありました。貴方はもう必要ない、というそのことばが心か
らの感謝の気持ちで言われたとき、それが忠実な従者にとっては最上の喜びとなったこと
でしょう。例えそれが一抹の淋しさを伴ったとしても。
 そして最後に、杏は忠実な従者だった砂山にひとつのお願いをしました。それは従者に
でなくもう会えないかもしれない友人への願いでした。そして砂山が他人を呼ぶときに様
の敬称を外したことは、彼自身にとってもとてもたいせつなことだったのです。

「杏…さん、御壮健でいて下さいませ」

 ぎこちないそのことばは、杏が砂山へのお礼として彼に与えた贈り物でした。

                  ◇

 桐生杏がかつて想っていたその人は、故郷の民族衣装に身を包んで、一枚の布地に描か
れたここ異人館通りの地図の前に佇んでいました。聖雲空自身が描いたその地図は、彼の
故郷である遊牧民の一族が用いる古典的な手法で描かれていましたが、それは無論この地
に残していく為に掛け布として飾られていました。空と同郷同年の青年である楯取皇牙は、
遊牧民の部族の出である空とは違う故郷の民族衣装を着ていましたが、先程までちなみが
次々と作っていた料理を運ぶために忙しく立ち働いていたところでした。

「給仕役が様になってきたんじゃないか?」
「言ってろ」

 皮肉っぽい口調でからかう空のことばに苦笑する皇牙でしたが、敢えて人に感謝される
ことのない仕事を黙々とこなしている青年がわざわざ砂山に教わって給仕人の作法まで教
わっていたことを、無論空は承知していました。他人を満足させる仕事の印象は強くとも、
他人に不満を与えない仕事の印象がどれだけ薄いかを皇牙は承知していて、自分の立つ位
置から運んだ料理を並べる場所までを完璧に把握してこなしていました。それを知った上
で空がからかっていることも、また彼がそのことに気付いていることも、お互いが理解し
ていました。

「あの地図、残していくんだな」

 皇牙のことばに空は頷きました。空にとってはこの世界にいた記録を故郷に持ちかえる
ことよりも、自分たちがいたしるしをこの世界に残すことの方がたいせつなことでした。
そして魔法世界、アークランドに帰る空の内に刻まれたしるしが消えることがないことが
彼には分かっていましたし、消えてしまうようなしるしを自らに刻んだつもりも彼にはあ
りませんでした。ですから空のことばは皇牙への答えであると同時に、後にするこの世界
への宣言でもありました。

「俺は決して忘れはしない。俺にはそれで充分だよ」

                  ◇

 最後に。純はポポにとても悲しいことを教えなければなりませんでした。それはまだあ
と少しだけ、ほんの少しだけ猶予のあることでしたけれど、それを理解していないポポに
は教えてあげなければいけないことでした。
 ささやかな宴の果てるとき。大きなポポスに純は別れのあいさつをするつもりでした。
まだ数日、ポポスと会うことがあるにしても、純がおそらく大きなポポスと別れたあとで、
再び出会うことは殆どありえないだろうから。そして小さなポポを純が育てる限り、ポポ
もまたポポスと会うことはできなくなるだろうから。小さなポポを抱えてポポスの前に立
った純は、せいいっぱいのこころを込めて伝えました。

「…さよなら、ポポス。ありがと…」

 いくらそれが悲しくても、声がかすれても、純は涙を流すわけにはいきませんでした。
純のことばの意味を理解したポポが、腕の中であばれだすことが彼女には分かっていまし
た。だから一緒になって純が泣いていては小さなポポをなだめることができないというの
に、だから私はどれだけ悲しくても泣いちゃいけないのに、涙をこぼしちゃいけないって
いうのに。

 なんで、どうして涙が出てくるのよ!

 屈み込んで、こらえきれず鳴咽の声をもらした純の手を抜けて、小さなポポがポポスの
足元にすがりついたとき、純の視界には流れ落ちる膜がかかって何も見えなくなっていま
した。ポポスは何も言わず、小さなポポは何も言えずに短い腕でポポスの足元を何度もた
たいていました。
 小さなポポをなだめるように、大きな手を差し出したポポスが純に手渡したのは、一枚
のフォトスタンドでした。それが自分の持っている魔法の水晶と同じようにポポスに与え
られた唯一の魔法の道具であり、決して色褪せることのない姿を閉じ込めておく品である
ことを純は知っていました。ポポスが小さなポポや純のために使う一度きりの力は、何気
ないポポスやポポや、純やみんなの姿を映した一枚の写真でした。安心してポポを任せて
おいて、と伝えたかった純のことをポポスは最後まで理解していてくれたことがありがた
くもあり、そして少し恥ずかしくもなりました。ポポスが純やポポにしてくれたことのた
めに、純はささやかなお返しをポポスにしてあげるつもりでした。

「…まさか、奇跡に頼ることになるとは思わなかったな」

 そう呟いた純は首に掛けていた魔法の水晶をはずすと、ただ一度きりの奇跡を告げまし
た。
 それは、ポポスのフォトスタンドをもう一つ作ることでした。

                  ◇

 魔法世界の終わり。日本は神戸、異国情緒ただようここ異人館通りでは、故郷を離れて
この地に残った魔法世界からの留学生たちが暮らしていました。通りの外れにある小さな
ペットショップでは、壁に飾られた印象的な地図を背に忙しく立ち働く男女の姿がありま
した。ピエロの人形が華麗で滑稽な芸を披露していた広場では、今日も幾人かの芸人たち
が他人のための技を披露し、ここを訪れる人々の目と耳を楽しませていました。
 異人館通りの端にある、かつては大きな岩と土のかたまりが住んでいたガレージのシャ
ッターは閉じられたままで、今ではそこは元の倉庫に使われていましたが、ガレージの前
の芝草の日だまりにはたびたび猫が訪れることでも知られていました。ですが日が落ちて、
夕日が沈むころになるとその場所はとても悲しげに赤く染め上げられ、そこに住んでいた
大きな岩と土のかたまりの存在を知る少数の人たちは今でもときどき足を止められていま
した。

 短髪で眼鏡をかけた黒目がちのその少女は、今日も頭の上に小さな石のかたまりを乗せ
た小さな岩と土のかたまりを連れて歩いていました。小さな岩と土のかたまりが、ときど
き子供たちと自分だけで遊びにいってしまうのは彼女には少し淋しかったのですが、汚れ
て帰ってきたときのために埃をはらってあげる用意と、話を聞くための紙とペンの準備と、
お気に入りの真っ白なシーツを洗って干しておくことは忘れないでいました。夕日が沈み、
学生寮が赤く染め上げられるころに、小さな岩と土のかたまりは自分の家へ帰ってくる筈
でした。

                  ◇

 森と土に覆われた世界。何千年も前からの姿を変わらずに残している古い古い森の外れ
にある、透き通った泉。そのほとりに半分埋まっている、苔むした大きな岩と土のかたま
りの姿。それは赤っぽい色をしていて、大きくて不格好なかたちは鳥や虫たちの格好の隠
れ場所になっていました。その苔むした大きな岩と土のかたまりが、夕日に面して真っ赤
に照らされている情景。赤っぽい岩肌が木々の天蓋の隙間から差し込む真っ赤な夕日に染
め上げられている情景。たぶん何百年も、何千年も、古い古いこの森の最初の頃からずっ
と続いている情景。
 古い古い森の外れにある、透き通った泉のほとりに半分埋まっている、苔むした大きな
岩と土のかたまり。その足元にあるフォトスタンド。四角く切り取られたその風景の中の
時間だけは、決して色褪せることはありませんでした。

 いつまでも。

                                    おしまい



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