縦巻きなおはなし
それは、わたくしが高等学校の二年生だった時の事です。わたくしは文学といふものに
興味を抱いておりまして、メトロに乗って一時間程先にあります図書館まで、毎日のやう
に通っていたものでありました。その日もたいそう遅くまでわたくしは本に浸っておりま
したが、帰りの街灯に灯る魚油の明かりの下で、ベンチに腰掛けている一人の紳士に出会
ったのでした。帽子を目深に被りコオトを着たその紳士は、図書館から出てきたわたくし
に一冊の本を手渡してくれました。縦巻かれた荘重の本に記されていたそれはたいそう奇
態な内容の物語でございましたが、不思議とわたくしの心を捉えて離さないものでありま
した。今ではわたくしがこのやうな物書きになったのも、その本が原因と言えるのかもし
れません。古い古い、大きな岩と土のかたまりのお話を致しませう。
◇
深い深い森の深い深い草生えに埋もれるやうに、苔むした大きな岩と土のかたまりがあ
ります。やや赤みを帯びたそれは深い深い原生林の奥深く、透き通った泉の真ん中に半分
沈むやうにしていました。一日のほんの短い間、真上から太陽の光が差し込む時にだけそ
の泉にある苔むした大きな岩と土のかたまりには日が当たります。とても長い間のとても
短い間、そこにおとずれるのは泉に棲む魚と虫と、静かに鳴く鳥たちだけでした。
時折、一滴の水が頭上から大きな岩と土のかたまりの上に滴りました。それは遥か頭上
で流れた雨の一滴であったのでせうが、いつもなら泉の上に穏やかな波を立てる筈の一滴
は苔むした大きな岩と土のかたまりの上に落ち、そうしてとてもとても長い間に岩と土の
かたまりはたいへん不格好な姿になりました。虫や鳥や魚たちはそんな不格好な岩と土の
かたまりを、足がかりのある隠れ場所のある苔むした岩と土のかたまりをたいへん気に入
っておりました。
◇
深い森の深い草生えに埋もれるやうに、苔むした不格好な大きな岩と土のかたまりがあ
ります。やや赤みを帯びたそれは深い原生林の奥深く、透き通った泉の真ん中に半分沈む
やうにしていました。一日の短い間、頭上から太陽の光が差し込む時にだけその泉にある
苔むした不格好な大きな岩と土のかたまりには日が当たります。とても長い間の短い間、
そこにおとずれるのは泉に棲む魚と虫と、静かに鳴く鳥たちだけでした。ときどきは小さ
な鹿たちが、泉の澄んだ水でのどを潤す為に訪れたりもしておりました。
目深に帽子を被り、深い蒼い瞳をした少年が泉を訪れたのは、泉にまだ明るい光が差し
込んでいるそんな時でした。頭上から落ちてきた一滴の水が、丁度泉に大きな円を描いて
いました。
おいおいお前はそのやうなところにいて淋しくはないのかい
やや赤みを帯びた、苔むした不格好な大きな岩と土のかたまりに少年は話しかけやうと
しました。ですが水に棲む魚と岩に乗り苔をかじっている虫と静かに鳴いている鳥がいる
のですから、岩と土のかたまりはちいとも淋しそうには見えなかったのです。つたに絡ま
れた大きな背の高い木が頭の上まで伸びていました。
◇
森の草生えに埋もれるやうに、苔むした不格好な大きな岩と土のかたまりがありました。
やや赤みを帯びたそれは今はもうなくなった原生林の奥深く、すっかり枯れてしまった泉
の真ん中に最後に残っていた命のかたまりでした。日が昇り、頭上から太陽の光が差し込
むと泥に沈んだ大きな岩と土のかたまりには日が当たります。とても長い間、そこにはも
う誰も訪れてはいませんでした。一人の人間がそこを訪れて、干上がった泉に最後に残っ
ていた命のかたまりにもう一度命を吹き込んだのは、もうずいぶんと昔のことでした。つ
たに絡まれた大きな背の高い木は、その人間には命のかたまりを囲う縦巻きの荘重のやう
に見えました。
◇
大きな岩と土のかたまりはひろいひろい草むらを歩いていました。
大きな岩と土のかたまりは、
今でもなんとなく泉に浸かっていたときの事を思い出しますけれど、
今でもなくとなく泉に浸かっていたときの事を思い出しません。
おしまい
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