縦巻きなおはなし


 深い深い森の奥深く。誰もいない昔からずっとその姿を変えることのない、深い深い森
の更に奥深く。その奥にある透き通った泉に半ば沈んでいる、ただ夕日だけが差し込んで
いる、苔むした大きな岩と土のかたまり。
 虫や鳥の声。魚の泳ぐ流れ。いろいろな音が聞こえてくる、そこは音のない空間。なぜ
ならそこはなにも聞こえない、なにも聞くもののいない空間。だれもいない中を虫や鳥や
魚が流れている空間で、蔓草の縦巻いている大きな岩と土のかたまり。

 眠っている

 花の咲くころ、はじめて出会ったのは貴方でした。貴方は虫や鳥の声、魚の泳ぐ流れを
わたくしに教えてくれました。ひとつの音叉の響きが返ってこないような音のない空間で、
貴方の響きは大きな岩と土のかたまりが音を聞くことを教えてくれました。それはいきも
のの奏でる調べでした。
 それからずいぶんと長い間、大きな岩と土のかたまりは虫や鳥の声、そして魚の泳ぐ流
れを聞くことに夢中になっておりました。時がすぎて、気がつくと貴方はもうおりません
でした。貴方は貴方がいないことを、はじめて大きな岩と土のかたまりに教えてくれまし
た。それは夕日の差し込む色によく似ていました。大きな岩と土のかたまりが貴方を探し
にいくようになったのは、きっとそれからずいぶん後のことです。深い深い森の外でも貴
方のいない夕日はいつでも差し込んでおりました。

 貴方は小さな少年だったり深い蒼い瞳をした青年だったり、にぎやかな少女だったりし
ました。貴方は時には大きな岩と土のかたまりでさえありました。そして貴方はいつのま
にかいなくなって、大きな岩と土のかたまりは貴方に会うために森をはなれて歩くように
なりました。

 大きな岩と土のかたまりは貴方に会うことがきっとできました。そして、大きな岩と土
のかたまりは決して貴方に会うことはできませんでした。だから、ほんの少しを小さな岩
と土のかたまりに移して、大きな岩と土のかたまりは夕日の差し込むこの場所に、ほんの
少しを残すことにしました。そうして小さな岩と土のかたまりは、たいせつな貴方に出会
うことができたのです。大きな岩と土のかたまりはほんの少しをなくしてしまいましたけ
ど、小さな岩と土のかたまりは貴方を得ることができたのです。

 貴方の名前は人といいました。

 深い深い森の奥深く。誰もいない昔からその姿を変えることのない、深い深い森の奥深
く。その奥にある透き通った泉に半ば沈んでいる、ただ夕日だけが差し込んでいる、苔む
した大きな岩と土のかたまり。夕日が忘れないでいてくれた、その森の奥深く。
 虫や鳥の声。魚の泳ぐ流れ。いろいろな音が聞こえてくる、そこはかつて音のない空間。
貴方が教えてくれた、いきものたちの音。いまでは大きな岩と土のかたまりがその響きを
苔むした岩肌で聞くことができる、いきものの奏でる調べ。

 蔓草の縦巻いている大きな岩と土のかたまり。

                                    おしまい



他のお話を聞く