水蓮新報より抜粋−蒸熱三人娘


 明けて開令十三年一月。水蓮は今日も平和。

 平和というにはやや憚りがあるかもしれない。昨年までの政治・治安の混乱もようやく
落ち着いて、ただいま水蓮は復興の真っ最中である。災害から非難してキャンプを張って
いる人々も未だ数多い。ようやく落ち着いて来た、というのが正しく人々の本音であり、
平和になるのはきっとこれからなのだろう。
 と言って、たとえ平和になろうと小さな混乱や騒動は消えるものでもない。もちろん大
きな混乱や騒動も。
 森北地区の避難民キャンプ。一頃に比べれば避難民の人数も減って、多少は閑散とした
雰囲気も見えてくるようになった。とはいえ昨年中に我が家に帰ることのできなかった人
々も多い。今年の初日をここで拝んだ人々は、寧ろ帰るあての決まっていない分キャンプ
での生活が長くなるかもしれない。それでも人々はたくましく、あるいはずうずうしくも
元気に生きている。こんな時には何より元気が必要な事を、誰もが心のどこかで知ってい
たのかもしれない。

「いらっしゃいませ!カフェ・ド・ヌーベルクロワッサンス出張サービスにようこそ、で
すわ」

 明るい冬空の下。高らかにキャンプ中に響き渡る、元気な女性の声。ヌーベルクロワッ
サンス出張サービスである。
 カフェ・ド・ヌーベルクロワッサンスは下町のモダーンな喫茶店。珈琲と焼き林檎が人
気のこの喫茶店に、常連客兼スポンサー兼「自称」第二店長のお嬢様がいた。彼女の名前
は高塚栞。
 屋台を引く先頭に立って人々に声をかける栞。すっかり顔見知りになった人があいさつ
を返す。屋台の前にゆっくりと行列ができていき、栞がいつものメニューを広げる。おに
ぎりにみそ汁、しじみ料理と、とてもカフェとは思えない内容。それでもカフェである事
をひかえめに主張するかのように、メニューのすみっこには小さく珈琲の二字が見える。
値段は無いに等しいほど安くてツケもきく。なんの事はないいわゆるボランティア活動で
ある。
 以前の混乱の多かった時期に比べると、行列は整然と進み、しだいに消えていく。屋台
が落ち着く時間も去年までよりずっと早くなった。

「ふう…今日はこんなところですわね」
「お疲れ様。はい、冷たい珈琲ありますよ」

 そう言って栞にコップを差し出したのは、彼女の友人の御沢ゆかり。今日も「出張サー
ビス」の手伝いに来ていたのである。近くに二人腰掛けて、ストローをくわえる。

「だいぶここも落ち着いてきたみたいですね」
「でも、まだもうしばらくは大変そうですわ。戻るあてのない人たちもいるんですし」
「そうですね。あ。あと今日も珈琲の注文が増えてましたよ」
「あら、じゃあそろそろ珈琲のメニューも増やしたほうがいいですわね。きっとそのうち
メニューも普通のカフェのものになりますわね」

 嬉しそうに言う栞を見て、にこにこしているゆかり。けげんな顔をする栞。

「どうしましたの?ゆかりさん」
「いえ。栞さん本当に嬉しそうにボランティア活動してるなと思って」
「そ、そそそそんな事ありませんわ!前にも言いましたけど、これはカフェの事業拡張で
すわよ。そのうちボランティアの…い、いえサービスメニューも減らして珈琲の売り上げ
を上げる気ですし」
「そうですね。みんなボランティアが必要ないくらいにもとの生活に戻れたらいいですよ
ね」
「だーかーら、ボランティアでなくて、たんなるサービスメニューなんですから.わたく
しはその為に投資してるだけで…」

 耳まで赤くなっている栞に、優しげな視線を向けるゆかり。透明な冬の日ざしが、頭の
上をすぎて西の空に向かいはじめる頃。

                  ◇

 ぼぼぼぼぼぼ。避難民キャンプに響く蒸気エンジンの音。水蒸気を吐きながら近づいて
くる自動車が一台。
 ぼぼぼぼぼぼ。蒸気機関の発明と進歩により、水蓮の産業は急速な発展を遂げた。先見
をもって蒸気機関に手を出し、一代で財を築いた者も多い。人力に替わるモノの出現が労
働者の雇用に不安を与えた時期も過ぎ去り、復興と発展の為に、より高度な蒸気機関を求
めての開発と競争が盛んになっていた。未だ民間に普及しきってはいないものの、蒸気自
動車の増加もその一つのあらわれであろう。

「あれ、レムさんの車ですね」
「あの運転を見ればわかりますわ」

 ゆかりの言葉にこたえると、そそくさと屋台を動かす栞。二人の目の前で、ふらふらと
左右に危なっかしく走ってくる蒸気自動車。先程まで屋台のあったあたりを勢い良く通り
過ぎると、立ち木にぶつかり、ごん、と鈍い音を立てて静かになる。ようやく止まった車
の扉を開けて、中から一人の少女が降りてきた。

「こんちわーっ。ゆかりちゃん、栞ちゃん、迎えにきたよー」

 レム・メア・フォスフォレス。ゆかりや栞と同年代にもかかわらず、若いというよりは
幼く見えるお嬢様。確かに彼女は三人の中で一番の年少ではあるのだけど。

「レムさん。車、大丈夫ですか?」
「まったく、あなたは何度車をぶつけたら気がすむんですの?」

 いつもの事に多少あきれ顔で話し掛けるゆかりと栞。自動車と言ってもそれほど速度が
出るものではなく、不思議と何度ぶつけても怪我人の一人も出さないレムの運転技術とあ
いまって、ゆかりも栞もすっかり慣らされてしまった。

「だってー。この車私の言う事ちっとも聞いてくれないんだもん」
「どっちかと言うとレムの方が車の言う事を聞いてないんですわ」

 栞のきびしい返答に気を悪くした風なレム。くすくすと笑うゆかり。

「とにかくヌーベルに戻りませんか?今日は時間もあるし、あちらで珈琲でも飲みましょ」

 健全な提案である。

                  ◇

「いらっしゃいませ!カフェ・ド・ヌーベルクロワッサンスへようこそ」

 下町にあるヌーベルクロワッサンス本店。と言っても別に支店がある訳ではなく、栞た
ちの「出張サービス」もほとんど自主的なものである。レム、ゆかり、栞の三人がいつも
のお気に入りの席に腰掛ける。もともと三人とも近くに住むお嬢様たちで、この店の常連
客として知り合った。以来三人とも通い続け、栞にいたっては正式にこの店の店員として
働いてもいる。勤労精神に目覚めた栞。ボランティアに精を出すゆかり。いろんな意味で
飛びぬけているレム。三人が三人ともいわゆる「お嬢様」としては変わった存在かもしれ
ず、だからこそ気が合うのかもしれないわけで。
 ぼぼぼぼぼぼ。店外の大通りをのんびりと蒸気自動車が走っている。珈琲と焼き林檎を
前に、窓外に視線を向ける栞。

「最近、あれ増えてきましたわねえ」
「あれって?」
「蒸気自動車ですわ。わたくしの家でも買いたいような事言ってましたし」
「最近人気になってますよね。去年のレースもかなり盛況だったそうですよ」
「あ、私優勝戦見にいったの。すごかったよお」

 おだやかな談笑。静かな店内に焼き林檎の香り珈琲の湯気が立ち昇る。

「…え?栞ちゃん家って蒸気自動車つくってたの?」
「うちの会社は蒸気エンジンだけしか扱ってませんわ。だいたい自動車生産までしてるく
らいなら、わたくしの家にもとっくに車が置いてありますもの」
「あ…そうなの?」

 急速に発展する蒸気機関。殊に開発が民間のレベルに達した時、その速度は更に増加す
る。性能も向上、値段も安くなり、人力車が街中を当たり前に走っているように、蒸気自
動車が街中を走る光景も近いうちにごく当たり前のものになるのだろう。

「じゃあじゃあ、栞ちゃん家で自動車買ったらみんなでドライブ行こーね」
「わたくしは構いませんけど、レムの車に乗る人はかわいそうですわね」

 ゆかりと栞の笑い声。ふてくされたようなレムの顔。
 おだやかな談笑。立ち昇る珈琲の湯気。焼き林檎の甘い香り。

                  ◇

 よく晴れた冬の一日。絶好のドライブ日和。
 ぼぼぼぼぼぼ。街中にひびく蒸気エンジンの音。ヌーベルクロワッサンスの前に一台の
蒸気自動車が止まる。

「ゆかりさんレムさん、お待たせしましたわ」
「おはようございます栞さん」
「あー。これ栞ちゃんの新しい車だね。かっこいー」

 自動車の扉を開けて降りてくる栞に、話しかけるレムとゆかり。お嬢様たる者普通は運
転手にハンドルを預けるのだろうが、自分で運転してきたのは多少は見せびらかせたいと
いう思いがあるからだろう。もっとも彼女たちが普通のお嬢様かどうかはまた別であるが。

「それじゃあ今日はわたくしが運転しますから、二人ともお乗りになって」

 機嫌良さそうに栞が二人を車に誘う。ゆかりが助手席、レムが後部座席へ。外見は小さ
い車だったが、中は思ったより広くて快適。未だ自動車の少ない時代、高級な乗り物であ
るから、中身も当然高級につくられている。後部座席に身体をうずめるようにしているレ
ム。

「おー。シートがやわらかいぞー」
「この自動車って栞さんのお家で部品を作っている物ですか?」
「いいえ。うちで作ってるエンジンはもっと高級な自動車に載っていますわ。それが買え
なかったっていうのはちょっと残念ですわね」
「何で買えなかったの?」
「あのねえレムさん。わたくしだってお家のお金いくらでも使える訳じゃないんですから
ね」
「栞さんただでさえボランティアに出資してますものね」
「そうですわね…って、ゆかりさんっ。だからわたくしはボランティアでなくて」
「はいはいはい。栞ちゃん、わかったから早く行こーよ」
「…まあいいですわ。それじゃあ出発しますわよ」

 よく晴れた冬空の下、ゆっくりと走り出す蒸気自動車。
 車体に照り返す冬の日差し。三人を乗せた蒸気自動車が、街中をのんびりと走っている。

「へー、栞さん運転うまいですね」
「ほーほっほ。当然ですわ、レムさんみたいに毎度ぶつけてたら車が持ちませんもの」
「あ、ひどーい。それじゃあ私が毎度車ぶつけてるみたいじゃないの」
「…わたくしの知る限り毎度ぶつけてますわよ」

 栞の答えに声を殺して笑うゆかり。すねているレムの顔がバックミラーごしに映ってい
る。その顔が微妙に変わるのを見て、ゆかりが話し掛けた。

「あら、レムさんどうかしたんですか?」
「んーと栞ちゃん車のスピード上げたのかと思って」
「え?おかしいですわね、そんなはずは…」

 計器を見る栞。おかしな様子はないが、たしかに速度が速いかもしれない。ちょっとペ
ダルを踏んで減速させる。先程までより窓外の風景が速く流れる。

「ちょっと栞ちゃん、いったんスピード落とそうよ」
「そんな、わたくし確かにブレーキを…」
「と、とにかく一度車を止めた方がいいですよ」

 レムとゆかりの声に、しばらくハンドルを握っていた栞の表情がみるみる変わっていく。
何が起こっているか、その顔を見ただけで二人にも充分知る事ができた。

「だ、だめ!何やってもこの車止まりませんわ!」
「きゃああああっ!」

 街中から郊外へ抜けて、三人のお嬢様を乗せた自動車は暴走していた。

 あまり舗装のいきとどいていない道を走る。激しく揺れる車内。

「し、ししし舌かみそうですわわ」
「エ、エンジンの調子が悪いんでしょうか、なら燃料がつきれればっ痛っ!」
「ゆかりちゃんだいじょーぶっ!?」
「痛…だ、だいじょうぶれす」

 舌をかんだらしいゆかり。それを見て後部座席から身を乗り出すレム。

「栞ちゃん!何とかなんないの?」
「何とかなるならとっくにやってますわ!燃料だってまだまだ余裕が…」
「そーじゃなくて!こーゆう時はこーやって止めるの!」

 そう言って栞の横からハンドルを握ると、思いっきりそれをひねるレム。派手に急カー
ブを描く自動車。

「ちょ、ちょっと待ちなさいレム!」
「きゃあああああああああああっ!」

 どーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーんっ!

                  ・
                  ・
                  ・
                  ・
                  ・

 ブラックアウト。

                  ◇

 ぼぼぼぼぼぼ。街中にひびく蒸気エンジンの音。
 蒸気産業の急速な発展と開発競争に伴い、いわゆる粗悪品も時折見受けられるようにな
った。開発コストや性能の向上を安全性より重視する業者も一部とはいえ存在し、新しい
文化に生理的な嫌悪感を持つ人々などにとっては、いっそう警戒心を起こさせる原因とも
なっていた。

「いらっしゃいませ!カフェ・ド・ヌーベルクロワッサンスへようこそ」

 下町にあるヌーベルクロワッサンス本店。高塚栞、御沢ゆかり、レム・メア・フォスフ
ォレスの三人が、焼き林檎を囲んで珈琲を飲んでいた。

「…まったく、ひどい目にあいましたわ」

 軽く首をさすりながら栞。怪我といえるほどの怪我をした訳でもないが、危うくムチ打
ちしそうにまでなった記憶は簡単には消えないらしい。

「あ!ねえねえ見て見て載ってるよ」

 にこにこしながら新聞を差し出すレム。自分の運転技術がめずらしく役に立った事がよ
っぽど嬉しかったらしい。ゆかりと栞が新聞を覗き込むと、中ほどの欄に多発した自動車
事故の件と、不良エンジン回収の記事が載っていた。

「『同社は以前にも安全性に関する勧告を受けた事があり…』ですって。しばらく営業停
止ですね」
「当然ですわね。おかげでうちのエンジンを代わりに載せる話がきましたけど」
「え?本当ですか」
「良かったじゃない。じゃあ今度新しい自動車がきたらまたドライブ行けるねっ」
「別にいいですけど、今度はぶつけて止めるのは無しですわよ」
「えー。だからあれは車が私の言う事聞いてくれないんだってば。栞ちゃんの車はちゃん
と止めたじゃない」
「もしかしてレムさんの自動車も何か問題があるんでしょうかね。一度見てもらったらど
うですか?」

 こうして日をあらためて再びドライブに行く事に決まる。焼き林檎の香りと珈琲の湯気
が立ち昇る中、おだやかな笑い声が聞こえてくる。

                  ◇

 よく晴れた冬の一日。絶好のドライブ日和。車体に照り返す冬の日差し。立ち木にぶつ
かって傾いている蒸気自動車。

「…いったーい。レムさん、ぶつけて止めるのは無しですわよって言ったでしょ!?」
「…ごめーん。でも栞ちゃんの車も何だか私の言う事聞いてくんないんだよー」

 水蓮は今日も平和なのである。

                                    おしまい



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