ローマの歴史(中公文庫)

 インドロ・モンタネッリ著 藤沢道郎訳
表紙 「このローマ史の連載が続くにつれて、私あての投書は日に日に憤激の度を加えていった」とは本書の序文にある作者自身が書き記した言葉です。古代世界を支配し、現在の西欧文明の母体となった大帝国、ローマの歴史を語るに際して神聖な神々の所行ではなく、偉大なる英雄たちの功績でもなく、誰よりも人間臭い彼らローマ人の判断と誤謬、そして奇癖や悪徳や蛮行までを楽しげに語る内容は確かに良識ある人々から非難されてしかるべきかもしれません。
 ですが、そうした人間くささに必要以上に迫ることによってこの本は驚くほど親しみやすく、幾度でも読み返すに足るローマ史の本のひとつになっているのです。作者の言葉を再び引用すれば「私はローマ史をすっかり忘れていることに驚いた」とありますが、この本に語られているローマ史であれば忘れたくとも忘れないだけの楽しさと活き活きした生命力を味わうことができるでしょう。ローマが偉大であるのはそれが私たちとは違った人々によって作られたからではなく、私たちと同じような人々によって作られたからだという通り、古代ローマ世界に生きた人々の人間らしさを存分に教えてくれるのがこの作品です。

 とはいえ、この本は決して荒唐無稽なでたらめを記した本ではありません。二千年以上も昔に生きていた古代ローマ人はことによっては現代でも及ばぬほど高度な文明を持つ人々でしたが、原史料と呼ばれる当時の人々が書き記した記録や史料があくまで本作を執筆する上での元にはなっています。五賢帝時代の人であるスヴェトニウスやコンモドゥス時代の元老院議員ディオン・カッシウスの楽しいゴシップ、プルターク英雄伝で知られるプルタルコスが使うありえないほどに大仰な表現、古代最高の歴史家といわれるタキトゥスの愛国心などに存分に着目しながら、ちょっとだけ偏った取り上げ方をしているに過ぎません。
 ローマ建国の伝説をして神々を茶化すところからはじまり、「牝狼」とあだ名される娘に育てられた双子による兄殺しから生まれた町、ローマの逸話が皮肉と冗談に彩りながら書き記されています。読んでいて面白いのは、かつて近代ローマ史では常識とされていた悪の帝政ローマと理想の共和制ローマの図式を作者が茶化そうとしているらしいことによって、かえって現代のローマ史観に近く思える見解が随所に生まれていることでしょうか。民衆が選ぶ王によって主導されるという王制にして最も民主的なローマ、共和制と呼ばれる、元老院と貴族が主導するノーブリス・オブリージェに満ちたローマ、ポエニ戦役以降の頽廃とグラックス強大からカエサルに至るまでの改革を受けて、皇帝アウグストゥスが打ちたてた帝政でありながら最も平和なローマ。そして奇癖に彩られた皇帝たちの逸話を経て五賢帝時代や後の騒乱、帝国四分制に西ローマの滅亡まで続く記述にはそれぞれの時代の良きと悪しきとが描かれていてローマの人間らしさを存分に感じさせてくれると思います。

 古代ローマの文化を語る記述はもちろん、作中でもやはり興味を引くのは多くの偉人たち、あるいは作者に敬意を表するなら奇人たちの存在でしょう。土くれを耕すことしか知らない無知で閉鎖的な農民たちに商売と発展を教えた王タルクイニウス、ローマを震撼させたカルタゴの雷将ハンニバル、乱杭歯をむきだして笑う陽気で豪快な大弁論家カトーやギリシア文化の擁護者たる洒落た将軍スキピオ。頽廃するローマの改革を唱えながらも非業の最期を遂げたグラックス兄弟や、その後の野心家の時代を象徴する叩き上げの武人マリウスに敵も味方も歯牙にかけぬ貧乏貴族ルキウス・コルネリウス・スラ、名文家にして虚栄家であった泣き虫キケロに、禿の女たらしと揶揄されながら、多くの男と多くの女に愛された天才ユリウス・カエサル。帝政の創始者でありながら戦場では下痢にくるしんだオクタヴィアヌスと彼が建てた帝国を継いだ多くの皇帝たち。カリグラやネロのような愚帝を始めとして、クラウディウスやヴェスパジアヌスといった奇妙な賢帝まで個性的な人々の姿が活き活きと描かれています。
 五賢帝以降は史料の少なさもあってやや解説が駆け足になってしまう点は残念ですが、ローマの歴史というよりローマの歴史の楽しさを知るための最初のとっかかりとしてはこれ以上の作品は少ないのではないでしょうか。純粋な歴史書とはとても呼べず、この本だけではずいぶん楽しいローマ像ができあがってしまうかもしれませんが、悲劇好きなギリシア人に比べて喜劇も好んだローマ人を語るのであればそれも良いかと思います。

 作中でも無頼の貧乏貴族スラや堅物の弁論家カトー、公衆便所皇帝ヴェスパシアヌスなどには特に作者も思い入れがあるらしく、楽しげな筆致に読む側もたまらない魅力を感じずにはいられません。ギリシアかぶれによる頽廃を恐れるあまりに復古主義を提唱しつつ英雄スキピオを失脚させたカトーや、頽廃した元老院を立て直すべく強引すぎる方法で人々を粛清したスラなど、彼らが同義的に正しいかどうかはこの本ではささいな問題でしかないしょう。反対派ですら彼を愛せずにはいられなかった、偉人にして完全無欠の俗人カエサルのように抵抗しがたい魅力を持ったローマの人々を知って欲しい作品です。

「神々のお告げが法案に反対である(ビブルス)」
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