八十日間世界一周(岩波文庫)

 ジュール・ヴェルヌ著 鈴木啓二訳
表紙  時は1872年。謹直な英国紳士、フィリアス・フォッグ氏がカード仲間たちに請け負った、わずか八十日間で世界一周旅行ができるという計画。いくら交通手段の発展した世界とはいえできる訳がない、という仲間たちに全財産と彼の名誉を賭けて、それを証明するためにフォッグ氏は旅に出ます。気のいい騒動屋の召使いジャン・パスパルトゥーや、フォッグ氏を追う刑事フィックスたちを連れて世界を西から東へ向かう旅は実にスリリングで、実に紳士的な冒険になりました。

 蒸気機関が発達した十九世紀、汽車や汽船に乗って世界中を旅することができるようになった発展と拡大の時代を舞台としたジュール・ヴェルヌの有名な冒険小説です。主人公は機械的な正確さと緻密さを備えながら、その心に人知れぬ正義感や勇気を秘めている英国紳士フィリアス・フォッグ。カード仲間との話に出た八十日間での世界一周旅行を実現してみせるために、全財産と名誉を賭けてスエズ運河からインドを経由して香港に日本、太平洋を越えてアメリカ大陸を横断し、大西洋を渡ってロンドンに戻るという壮大な大旅行に旅立ちます。
 そのフォッグ氏に従うのは世界一周旅行の前日に、波乱の人生を生きて静かに暮らすためにと召使いになった筈のパスパルトゥー。それに彼らがインドで助け出した若いアウダ夫人や、英国銀行で起きた盗難事件の容疑者としてフォッグ氏を追いかけるフィックス刑事たちを連れて時には船や列車で、時にはゾウの背中やそりに乗って、数々の予想外の出来事や事件に出会いながらもフォッグ氏曰く「予定どおり」の旅を続けていくことになります。

 当時刊行されていたシャルトンの「世界一周」誌から借りたという世界中のエピソードをもとにして、ゾロアスターの人身御供の儀式や香港にある阿片窟、日本の天狗舞台にインディアンの襲撃など様々な事件に出会う、魅力的で生命力にあふれた登場人物たちの姿が描かれています。ことに主人公のフィリアス・フォッグ氏が落ちついた厳格さとクロノメーターに例えられる緻密さを持ちながらも、人身御供にされているアウダ夫人を助けたりインディアンに捕らわれたパスパルトゥーを追って騎兵隊を駆ったり、果ては海賊よろしく船を乗っ取ったりと、実に破天荒で大胆な「英国紳士のヒーロー」像に引きつけられずにいられません。
 蒸気機関という最先端の技術に、汽車や汽船という文明の所産に揺られる世界一周の旅行が様々な事件に彩られている様は、文明が進歩しても失われることがない冒険の存在と憧れを示していて、フォッグ氏が感じているであろう賭けごとや成功の見返りや栄誉によらない、冒険そのものが秘めている魅力を感じさせてくれることでしょう。心躍らせる冒険活劇でありながら、まさしくクロノメーターのように緻密に織り込まれたクライマックスまでのどんでん返しと合わせて、世界中で読まれている名作です。

 そもそも人は、得られるものがもっと少なかったとしても、世界一周の旅に出かけるのではないでしょうか。作品の最後にあるこの一文が、陳腐に見えてこの冒険を終えた者が味わうことのできる感慨を教えてくれるでしょう。
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