ハドリアヌス帝の回想(白水社)
マルグリット・ユルスナール著 多田智満子訳
古代ローマでも五賢帝時代として知られている、最も幸福とされる時代を統治した皇帝の一人であるハドリアヌスが自らの生涯を終える前に、養孫である後の「哲人皇帝」マルクス・アウレリウスに綴った回想録として語られる作品です。今に残るパンテオンや広壮なヴィラ、ハドリアンズ・ウォールを残した皇帝ハドリアヌスの生涯を作家の筆によって描写した歴史作品で、女性初のアカデミー・フランセーズ会員となったマルグリット・ユルスナールの代表作でもあります。
フラヴィウス朝の築いた礎を引き継いで、五賢帝時代を構築した五人の皇帝の中でも特に帝国の基盤を強固なものにしたのがトライアヌスとハドリアヌスの両帝ですが、質実剛健なローマ的性格と積極的な遠征に精勤したトライアヌスに対してハドリアヌスはよりギリシア的で官能的な人物であり、先帝の業績を受け継ぎながらも遠征よりも防衛に徹して帝国中を行脚、その保全に務めた人物です。
作品では「古代人の中でも最も現代的であった」と称されるハドリアヌスの複雑な性格と、その彼が地味に見えて波乱万丈だった数々の難題を解決していった統治の行跡、そして狩猟や詩吟や彫刻に象徴されるギリシア文化への耽溺を心から望みながらも、皇帝としての責務を死の直前まで優先させざるを得なかった悲劇。そうした皇帝の姿が実にハドリアヌスらしい筆致で語られています。
作者自身が「考古学者が外側からやったことを、内側からやり直す」と述懐する作品では膨大な史料をもとにして構築されたであろう、歴史上のハドリアヌスの姿が虚構を交えることなく、ですが美しく飾られて描き出されています。生前のトライアヌスの征服計画を断念してまで、防衛に専心することを選んだ苦悩や帝国中を巡回してパックス・ロマーナと呼ばれるローマの平和を維持する皇帝としての責務、それらを放り出すことがないまま時としてギリシアに伝わる秘儀に参加し、獅子を狩る夢を抱き、詩を口ずさんで美しい彫像や若者を愛する。賢帝であるために最後には自分の望みを犠牲にせざるを得なくなった、病に倒れた皇帝の晩年を知る者であればなおのこと綴られている回想に彼の悲劇を感じることでしょう。
心からギリシアを愛したハドリアヌスは、もしかしたら皇帝ネロのように心からギリシアだけを愛する日々を送りたかったのかもしれません。ですがネロにならなかった、あるいはネロになれなかったハドリアヌスはそれだけにいっそうギリシア的な官能を感じさせる人物となっています。皇帝としての散文的な生活を送る中でも、詩人の心を忘れることがなかった皇帝が後の「哲人皇帝」に送る言葉はあまりに静かで美しく、それでいてほとばしるほどの情熱を感じさせずにはいられません。
この作品を読んで思った感想は二つ、一つはマルクス・アウレリウスが残した「自省録」のような述懐をハドリアヌス自身が記していたらこのような作品になったのではないかということと、もう一つはこの作品を読んで最も喜ぶ者がいるとすれば、それは自分の姿をこれほど美しく描いてもらった当のハドリアヌス本人ではなかったろうかということです。官能的で情熱的ですらありながらも、現実の中に生き続けねばならなかった皇帝ハドリアヌスが自らの死に際して残したと伝えられている詩文があり回想は締め括られます。
小さな魂、さまよえるいとおしき魂よ
汝が客なりしわが肉体の伴侶よ
汝はいま、青ざめ、硬く、露わなるあの場所
昔日の戯れをあきらめねばならぬあの場所へ降り行こうとする
いましばし、共にながめよう
この親しい岸辺を、もはや二度とふたたび見ることのない事物を
目をみひらいたまま、死のなかに歩み入るよう努めよう・・・
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